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2012年6月12日火曜日

姫路城

私は赤穂生まれの赤穂育ちでありながら、赤穂城より姫路城の方が馴染みが深い。
赤穂で育ったのが尾崎で、お城から離れていたのに対し、姫路城は中高一貫の私学に通っていて直ぐ傍にあったからである。
今でもよく思い出すのは、学年が上がって教室が3階になったが、その階のトイレから見える朝日に輝く姫路城である。小用をたしながら、真正面に見えるお城。
「今日は格別、綺麗に見える」とすっきりと呟いたものである。

当然、このお城は体育の授業で冬場のランニングに用いられた。内堀の回りを3周することが多かった。城前のお土産物屋付近から漂う、たこ焼きの臭いが空きっ腹には堪らなかった。
クラブではもう少し離れた男山の階段での筋トレがなされた。校内合宿での姫山公園の夜のハイキングは、先輩から受け継いだ楽しみの一つであった。
友人の多くは、デートの場所として、姫山公園を用いた。男子校だったので隣の女子校の生徒とカップルになることが多かった。
ただ、姫山公園でデートをすると別れるというジンクスがあった。友人の殆どはジンクス通りになった。

学生時代、姫路城に入場料を払って上ったのは一度だけで、あまり暇なので友達とふざけて上った。ところが、私は概観の美しさより、内部の神秘的な雰囲気が意外にも良いと思った。
どちらかというと不真面目な生徒だった私は、朝の姫路駅からの通学のコースをわざと遠回りで、大手門から三の丸広場を通って、動物園の傍の道を通り抜けて、美術館の傍に出てくるコースをたどった。(生徒の頃は、まだ美術館ではなく、裁判所だったと思う)
雪が降ると、わざと遅刻して、友達と雪の中ふざけ合って遊び、休み時間を見計らってこっそりの教室に入って、濡れた靴下をストーブで乾かした。
雪の姫路城は、日本で一番美しい風景と今も思っている。

世界遺産になってあまりにも有名になった姫路城だが、自分たちは天守閣周辺よりも、その北側の公園の方が馴染みがあった。
天守閣の北側は鬱蒼とした森となっていて、狸でも棲んでいる雰囲気があった。公園に設けられた屋根付きの休憩所では、平日でも暇な人が将棋をしていたりした。
学校の運動場は狭かったので、ソフトボールやサッカーを楽しんだり、国語の教師は授業中に散歩させて、俳句を作らせた。他にはない格好の材料だったのだろう。
美術の教師は日本画家で、姫路城を専門に描く東北なまりの先生だった。
私らも城を何度か描かされたが、ややこしい造りだったので面倒だった。

朝敵になったが故に、明治以降は恵まれなかった姫路。
城は売りに出されたのは有名な話だし、空襲に遭わなかったのは単に暗くて標的にならなかっただけと聞く。
本来は姫路が中心となって独立した県になるべきだったが、特に大久保利通を中心とする薩摩閥の政策で、神戸の後背地の座に甘んじた。
それに沿って置かれた大日本帝国陸軍の第10師団の本部の跡地に我が母校はあるのだが、戦後カトリック系のミッションスクールの敷地になったのも皮肉なものである。
私が奄美の研究のついでに、薩摩を調べるのも何か因縁めいて愉快である。
そういえば同じカトリック系のラサール校は鹿児島が有名だ。 あちらは母校に比べて、お城から遠いようだけど東大には近い・・・




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