「よしてっけえ」というのは私が育った赤穂の尾崎あたりでは、何か遊びや、集まりに自分も入れて欲しいという時に使う言葉であった。
中学校から姫路に通い出したのだが、「よしってけえ」というと「どういう意味や」と笑われた。
同じように「よして」という言葉を連発していた1年上の先輩は、「よして」というあだ名がつけられてしまった。
赤穂では「でーしょん」という言葉をこの地域の特徴ある言葉として、「でーしょん祭」を企画したりしている。
「でーしょん」というのは関西弁の「どないしてん」、標準語の「どうしてる」
にあたるが、「でーなんね(どうしてるんだ)」とか「でーしたらえん(どうしたら良いの)」という言葉もよく使う。
私は小学校の担任の先生に「でーしょんだっせ いっしゃん(私のニックネーム)」とよく叱られたので、下級生からもそう言ってからかわれた。
赤穂高校に勤めていた相生出身の先生が生徒から「でーしたら、えんですか?」と聞かれて、意味が分からなかったと聞いた時、思わず苦笑してしまった。
私は赤穂でも「尾崎のがんら(柄が悪い)」と言われて、一番言葉遣いが悪いとされる地域に育った。
小学校の時は方言を使うと言い直させられた。それが授業以外でもするように教師から求められて、互いに監視し合う雰囲気になってしまった。
私は中学校から赤穂を離れた関係で、あまり赤穂弁は話せない。弟はずっと尾崎なので、弟らと話をする時は、尾崎弁やら姫路弁やら関西弁が混じる。
父親はもともと赤穂の西外れでの鳥撫出身なので、備前の言葉の混じった独特の言葉を使っていた。
母親は生まれは備前福河だが、相生育ちなのでそれも赤穂とは違う言葉使っていた。ようするに家の中では多方言地帯になっていたのである。
家内は両親とも広島県出身なので、家の中では広島弁が共通語である。それが家を出ると相生弁だったので、言葉やイントネーションが両方入り交じった妙な言葉をよく使う。
本籍も結婚する前迄は広島県だったので、「おまえは広島県人や」と冗談を言うと、「なんですいね 兵庫県人じゃけん」と冗談で言い返す。
ところが、テレビで育ち、友達も少なかった息子は方言が使えない。しかも、漢字言葉を連発する。方言が我が家で途絶えてしまうのはコウノトリの絶滅以上に哀しい。
私は教師という職業柄、授業では標準語を使うように心がけてはいるが、授業を離れると色々渾然とした方言を使っている。
以前は気取った言い方の時には、大学院時代に住んでいた所の、東京弁をつかい女房に皮肉を言われた。
だから、東京で暮らす弟が帰ってきて東京弁を使うと、お尻がむづ痒くなる。
文章を書く時は東京弁に近い標準語で違和感はないが、話す時は東京弁はカタカナ英語以上に違和感を感じる。
近年職場で英語を用いることを強制する企業が現れ始めた。
グローバライゼーションに日本がついていくためだという。
日本はずっと中国で生まれた漢字言葉を多用してきた。ただし、書き言葉としてである。
言文一致と良いながら、明治時代の小説の漢字言葉には閉口する。
そう言いながら、このブログも漢字言葉を用いないとまともに書けない。
ようするに、中国が世界でも冠たる文明の先進地域の時は、知識層を中心にグローバライズされていたのである。
英語がイギリスやアメリカの帝国主義の影響でスタンダードになった今、それに追随する必要はあるとは思う。
それなら、従来通り書き言葉やちょっとした日常会話に留めて、日常会話には方言を使うことをおすすめする。
東京に集まった地方出身者が、会議で方言と英語でバトルしている姿は愉快に思える。
「おみゃーさんよ それまちがっとるで いかんわ」
「あほか おーとんきまっとるやろ」
「That's
right!」
「でーしたらえんですか? 課長!」
「わしゃ 広島じゃけん まかせるわ」
「ざけるんじゃーねーぞ!」
「くん しがたや はごさんくぁ-」
「んだ!」
という風な会話がなされるとは思わないが、遊び心を失った組織こそ、グローバライゼーションに取り残されるように思う。
正確に意思疎通をするだけが言葉ではない。
世界を背負おうとするなら、「よしてっけえ」と叫ぼう。
企業の仲間内で固まってしまわずに・・・
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