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2012年9月29日土曜日

下駄に釘

やはり下駄には最後は釘を打ってしまう。
正確には、ねじ釘を上から通して、スパイクにしたのである。
下駄を履いて、犬の散歩をこの夏はずっとしていたが、ついに板状になってしまった。
名古屋の郊外にあった大学の学生の頃は、夏場にはずっとはき続けていて、同級生からそれは「下駄ではなく、板だがね」と言われて笑われた。
その頃は下駄も容易く手に入り、そう無理してはき続ける必要はなかったのだが、履くと愛着が湧く。
それは今も同じなのだが、今はちゃんと歯の着いた下駄はあまり見かけなくなった。
実は今履いている下駄は、リサイクルショップで売っていた旅館の杉板の下駄で500円だった。
鼻緒がきつくて暫くはいていなかったのだが、今年は鼻緒がなじむまで 我慢してはいた。
以前は900円ほどの靴底型の桐下駄だったので、禿びるのを惜しんで下からねじ釘を打った。
その時、だんだん釘先が出て痛かったので、今度は上からにした。
スパイクになった下駄はアスファルトの道では、村中に響く音を出す。
近所の座敷犬はその音が嫌らしく、音がすると中から吠える。
暫く見なかったゴンちゃんというミニチュアダックスフンドも、吠えられてまだ生きていることが分かって安心した。

散歩には下駄が一番良いが、雪駄や沖縄のシマ草履もよく使っている。
雪駄や草履は雨や夜露に弱く、足が汚れる弱点がある。
その雪駄には思い出がある。東京の大学院に在籍していた頃よくはいてたからである。
さすがに山手線は下駄では通学しづらかったので、底裏が自転車タイヤの職人用の雪駄などをはいた。
ある日、研究室の教授のお供で渋谷で飲んでいて、私は酔った勢いで生意気な口をきいてしまった。
怒った教授は「おまえはKさん(大学の恩師)に頼まれたから、修士だけのつもりでとってやったのだ」と本音を言われてしまった。
さすがに厚顔無知な私も衝撃を受けて、 しょぼくれて帰る渋谷駅の階段で躓いて生爪をはがしてしまった。
翌日、あまりに痛いので、下宿近くの医院に行くと、治りが早いからとそのとれかかった生爪を抜かれてしまった。
因みに、爪は見えない部分が見える部分と同じほどあった。
這うように下宿に戻り、その痛みの地獄はそれから暫く続いた。

結局、先輩から励まされたが、力不足で教授の意志を覆すだけの論文も書けずに、博士への進学を諦め修士で大学院を去ることになった。
雪駄にはその辛くて痛い思い出がつきまとい、タイヤ底の職人用の雪駄は爾来履いていない。

今日も中秋の名月まで二日の夕方の月を眺めながら、犬の散歩に出かけた。
彼岸花は今年は咲くのが遅くて、今が満開である。
空には綺麗なお月様、道端には真っ赤な彼岸花と、田舎のたんぼ道は風情に溢れている。
その風情を打ち破る、下駄の金属音。
無粋だと思いながら、せめて裸足でいられる間は持ちこたえて欲しいと思うのである。
下駄に釘を打つと、底は減らなくなるが、板が割れてしまう。
それでも大切に使うのは、お金をけちっているからではなく、本当は新しい鼻緒で痛い思いをするのが嫌だからである。




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