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2013年11月10日日曜日

Home Coming Day

赤穂の実家に立ち寄ると、母校の大学から同窓会通信が来ていた。
私は未だに学生時代の住所のまま変更届を出していない。
というより、年会費を払っていないのである。
それなのに、毎年通信を送ってもらえる。
毎年11月3日は南山大学は文化祭を行っていて、卒業生が戻ってくるHome Cominng Dayとなっていた。
学生時代は文人研(文化人類学研究会)に属して、文人研の名物の五平餅を作って売った。
3年生の時には、私の下宿のアパートが仕込み場所になって、大勢の部員が集まって賑やかにやったのを思い出す。

実は卒業して以来、二度しか母校を訪れていない。
一度は、都立大大学院生の時代に民族学会が開かれたので参加した。
もう一度は、兵庫教育大学の院生時代に、東京へ電車を乗り継いで行くついでに、立ち寄ってみた。
それは、南山大学時代から始めた奄美与路島の調査研究の著作を届けに行く目的もあった。
何の前触れもせずに行ったので、知った人には誰にも会えなかった。
夜行の電車を待つまでの時間つぶしで、地下鉄いりなか駅の近くのプールへ行って泳いだのを覚えている。
去年は叔父の葬式が近くで行われたので、大学の建物だけは眺めることができた。

当時は毎日ではないが、日記をたまにつけていたので、それを開いてみるとその当時に自分が何を考えていたかわかる。
卒業して31年も経つと、当時のことは記憶の底で忘れてしまっていたことが多い。
そんな中で、はっと思ったのは、大学の文学部人類学科に入学当初の気持ちが綴られていた内容である。
ガイダンスで先輩から、教職も就職も悪くて、将来性のない学科であると知らされて、当時は気持ちが腐っていたようだ。
私は、当時いい加減な浪人生で、この大学も学科も何を学ぶかわからないまま、「赤本」も買わずに受けて、唯一合格したところだった。
受験した理由は、名古屋には叔父が住んでいて下宿させてもらえると言うことだけだった。
最初は、叔父が物置にしていたアパートに居候したが、数ヶ月で同級生のアパートに転がり込み、そのままそこに卒業するまで居着いてしまった。
その同級生は他校を受験して出て行く予定だったのが失敗して、結局別のアパートに移ってしまった。
形としては、転がり込んだ私が同級生を追い出してしまった格好であった。

そんな、いい加減な学生生活の中で、文人研との出会いは人生を変えた。
文人研での村落調査にのめり込んでいき、倉田勇先生(故人)にお願いして勉強会を開いたりして、奄美与路島に巡り会った。
そして、当時は独身の都立大学院卒の若い先生と出会いは、研究への意欲を高めるものとなった。
他にもM君は、私が軽音部に誘っていながら一緒に辞め、その後一緒に文人研で活動をともにした。
彼のようなよき親友を含め、多くの仲間に恵まれた。
また、所属した杉本良夫先生のゼミ仲間とは、いろいろと刺激しあうことができた。
今から思えば一番充実した生活を送ることができたのが、南山大学だったと思う。

教師となった今は、生徒に「行こうと思う大学をよく調べて、目的を持って進学しなさい」と言う。
そういう自分は、何も調べす、目的もなく行き、たまたま肌に合ったというのが正直なところである。
ただ、ミュージシャンになりたいという甘い夢や、マスコミへの就職という現実的な希望も打ち砕かれた中で、何とかしなくてはいけないと思っていたことも確かであった。
そういう危機意識と、おもしろいと感じるものには貪欲に打ち込めたのがよかったと思う。
残念ながら研究職には就けなかったが、大学院へ行ったからこそ今の自分があると思っている。
大学は入試制度ばかり注目されるが、学生が伸びていける環境こそ重要だと思う。
そういう意味で、当時の自分には大学や生活環境に恵まれていたことが良かった。
いい加減な浪人生あがりでも、教職に就ける道筋がつけられたのだから。






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