先日(12月17日)千種に家内と軽トラに乗って水汲みに出かけた。
上郡の方は天気は良かったのだが、千種に近づくにつれて、どんよりと雪空になった。
殆ど車の通らない、南光町の道を走っていた時である。
道路脇の畑に、猿が3匹いるではないか。
鹿を見るのは全然珍しくは無いのだが、猿を見るとは驚きである。
南光町には有名な船越山の瑠璃寺があり、猿が餌付けされているのだが、人里にも出没するようになったのだろう。
千種に水をくみに行きだしてから、20年以上経つのだが、初めての経験である。
それだけ人がいなくなって、猿が我が物顔に出るようになったのかも知れない。
私たちが子供の頃は、ニホンザルは身近な存在だった。
瑠璃寺も子供会から一度連れて行ってもらった。
そもそも、赤穂御崎には神社の近くの公園に猿が檻に何匹も飼われていた。
小学校の頃、やかましくしていると、「お前らは御崎の猿か!」と大人から叱られた。
わざわざ友達と御崎の猿を見に行ったりもした。
また、一匹だけだったけど、尾崎の神社の上の山の公園にも猿が飼われていた。
時々、お菓子や草などの餌をやった記憶がある。
狭い檻に飼われていて、からかうと怒るので、子供の良い遊び相手になっていた。
姫路の動物園に行っても、ニホンザルは人気があったように思う。
群れになって、遊んでいる様子を見ていて飽きないからである。
しかし、この猿が人里に堂々と現れ出すと、それは別の話になってしまう。
以前私が近所で畑仕事をしている時に、雄猿がどうどうとスイートコーンをくわえて立ち去るのに遭遇した。
猿は、イノシシや鹿の対策のようには簡単では無い。
テレビでニホンザルの被害を放映されたりしているが、これからはこの地域でも起こる可能性がある。
餌付けした猿を観光にしている施設では、人間の方が檻に入って眺めたりする。
それと同じように、これからは、農作物を檻の中で作らなくてはならなくなる。
昔「猿の惑星」という映画が人気になった。
人間に取って代わって、猿が世界を征服する話である。
過疎で寂れていった村は、「猿の惑星」ならず、「猿の村里」になるのかも知れない。
猿が農業でも覚えてくれたらいいのだが、せいぜい出来て猿酒であろう。
山賊のような猿には、犬の手助けが必要かも知れない。
その時には家の大飯食らいの猟犬クロも役に立つかも知れない。
ただ、猿に餌をもらって、なつく可能性もあるけれど・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2016年12月26日月曜日
冬場だけのRun away?!
今日もいつもの高圧電線の鉄塔に、コウノトリが二羽仲良く泊まっている。
地元では最初一羽で来ていたコウノトリを「さっちゃん」と名付けたが、もう一羽には名前をつけてない。
最初は、地方紙などにも取り上げられたりしたが、最近ではマスコミに登場することはあまりなくなった。
ただ、マニアは相変わらず追っかけている。
先日、このコウノトリを毎日のように写真に撮っていて、二羽のことにも詳しいOさんから話を聞いた。
実はさっちゃん以外のもう一羽のコウノトリは、弟でしかも二羽はつがいであるという。
いわゆる近親交配になるので、豊岡の飼育場では二羽を引き離そうとしているらしい。
それを嫌がって、上郡まで来ているのだという。
なぜ上郡なのかは、よく分からない。
他には太子にも立ち寄ったりするらしいが、上郡にずっと冬場は居着いている。
この周りには自然豊かなところはいくらでもあるのに、高い鉄塔が良いのか、田舎過ぎると天敵が危険なのか?
考えてみれば、豊岡の飼育場はそれほど辺鄙なところではなかった。
育った環境に似ているのかもしれない。
ところで、近親交配ということになると考えさせられる。
以前テレビで、絶滅の心配のあるアムール虎が近親交配をしていることを放映していた。
個体数が少なくなると、近親交配の確立が高まるのであろう。
ただ、ロマンチックに考えれば、禁断の恋の逃避行と言うことになる。
神話には兄妹夫婦のモチーフは多くある。
実は、都立大学院時代に松園万亀雄氏のゼミナールで、Incest Taboo(近親相姦禁忌)がテーマになって文献を読んだことがある。
特に、古代エジプトの状況に関して読んだのだが、王家だけでなく、時代が下ると一般庶民も兄妹などの夫婦がいた。
自然界の鳥などは、鳴き声などで近親交配を回避することも知った。
むしろ、近親相姦は文明のなせる業のように思えたのを思い出す。
この二羽は、生まれた年が違うので、同じ巣に育ったわけではない。
飼育場という狭い人為的な空間の中で、たまたま好きになった相手と言うことだろうか。
これも絶滅寸前まで追い込んでいった、日本の近代化の責任でもある。
この頃は、仲の良い二羽を見る度に、何か切ないものを感じる。
ただ、古代エジプトのクレオパトラもそうだったじゃないのと考える手もある。
さっちゃんをクレオパトラに見立てても良いのではないか!
女王様の冬場のRun away、上郡は女王様に選ばれた地である。
地元では最初一羽で来ていたコウノトリを「さっちゃん」と名付けたが、もう一羽には名前をつけてない。
最初は、地方紙などにも取り上げられたりしたが、最近ではマスコミに登場することはあまりなくなった。
ただ、マニアは相変わらず追っかけている。
先日、このコウノトリを毎日のように写真に撮っていて、二羽のことにも詳しいOさんから話を聞いた。
実はさっちゃん以外のもう一羽のコウノトリは、弟でしかも二羽はつがいであるという。
いわゆる近親交配になるので、豊岡の飼育場では二羽を引き離そうとしているらしい。
それを嫌がって、上郡まで来ているのだという。
なぜ上郡なのかは、よく分からない。
他には太子にも立ち寄ったりするらしいが、上郡にずっと冬場は居着いている。
この周りには自然豊かなところはいくらでもあるのに、高い鉄塔が良いのか、田舎過ぎると天敵が危険なのか?
考えてみれば、豊岡の飼育場はそれほど辺鄙なところではなかった。
育った環境に似ているのかもしれない。
ところで、近親交配ということになると考えさせられる。
以前テレビで、絶滅の心配のあるアムール虎が近親交配をしていることを放映していた。
個体数が少なくなると、近親交配の確立が高まるのであろう。
ただ、ロマンチックに考えれば、禁断の恋の逃避行と言うことになる。
神話には兄妹夫婦のモチーフは多くある。
実は、都立大学院時代に松園万亀雄氏のゼミナールで、Incest Taboo(近親相姦禁忌)がテーマになって文献を読んだことがある。
特に、古代エジプトの状況に関して読んだのだが、王家だけでなく、時代が下ると一般庶民も兄妹などの夫婦がいた。
自然界の鳥などは、鳴き声などで近親交配を回避することも知った。
むしろ、近親相姦は文明のなせる業のように思えたのを思い出す。
この二羽は、生まれた年が違うので、同じ巣に育ったわけではない。
飼育場という狭い人為的な空間の中で、たまたま好きになった相手と言うことだろうか。
これも絶滅寸前まで追い込んでいった、日本の近代化の責任でもある。
この頃は、仲の良い二羽を見る度に、何か切ないものを感じる。
ただ、古代エジプトのクレオパトラもそうだったじゃないのと考える手もある。
さっちゃんをクレオパトラに見立てても良いのではないか!
女王様の冬場のRun away、上郡は女王様に選ばれた地である。
2016年12月23日金曜日
プレゼント交換
二学期末のLHRでは、私が副担任をしているクラスで、何か催しをしようということになった。
クリスマス前なので、クリスマスのプレゼント交換などはどうかと、私が提案した。
というのは、私は中学校からミッションスクールに行っていて、そういう催しをしていたからだ。
特別支援学校では、大がかりなクリスマス会をしていた。
定時制の学校ではそれほど大がかりな準備は出来ないので、プレゼント交換ということになった。
主担任の若い女性教師は、経済的なことも配慮して、108円迄というプレゼントの負担制限を設定した。
これは100円ショップで何か良い物を見つけるか、それを用いて自分で作るかを考えたのである。
私はその女性教師から、「家で栽培してある大根でも良いのではないですか?」と言われていた。
それでも気になったので、他の若い女性教師に聞いてみたら、「それは、ちょっと・・・」というので、何か作ることにした。
家には奄美から持ち帰った貝殻が多くあったので、それを用いてネックレスを作ろうかとも思っていた。
家内にプレゼント交換のことを話すと、家内が得意な趣味のビーズ細工をしてくれるという。
百円ショップで、小さなクリスマスリースのビーズセットを買って来て、それを二時間ほどかけて作ってくれた。
そして、綺麗にラッピングしてくれて本番に臨んだ。
主担任の先生は、花より団子と言うことで、買ってきたチョコレートや、職員の休憩室にあったおやつをかき集めてプレゼントにしていた。
いざ交換と言うことになると、生徒の一人が忘れてきていた。
仕方ないので、その忘れた生徒に就職祝いだと言うことで、私の物をあげることにした。
それで、私抜きで交換が始まった。
そして、輪になった交換が合図で止まって、中を見ることになった。
単に駄菓子を100円分買ってきたもの。
UFOキャッチャーで手に入れた大きなプラモデル。
バイト先のまかない飯のそばめし。
その他の多くはやはり、100円ショップで買える品物などだった。
私が持ってきたプレゼントは、うまいことに女子生徒に当たり、非常に喜んでくれた。
後になって思ったのだが、材料を使って手作りにしたプレゼントと、買ってそのままのプレゼントでは意味が違うということだ。
これはバレンタインデーの時のチョコレートも同じなのだ。
材料を使って作るものは、それにかける時間と気持ちが入っている。
時間から考えると、兵庫県の最低賃金で換算すれば、2時間なら1638円と言うことになる。
金に換算すると嫌らしく感じるが、お金を持っていない者でも、労力をかければ価値を生むということである。
奇しくも、大手のホテルのベットメイキングのアルバイトで一番時給の高い生徒が、買った駄菓子のままで済ましていた。
それに対して、小さなお好み焼き屋でアルバイトしている生徒が、手作りのまかない飯だった。
アルバイトをしている定時制生徒の仕事に対する価値観が表れているような気がした。
家内に任せた私が一番横柄なのだが・・・・
クリスマス前なので、クリスマスのプレゼント交換などはどうかと、私が提案した。
というのは、私は中学校からミッションスクールに行っていて、そういう催しをしていたからだ。
特別支援学校では、大がかりなクリスマス会をしていた。
定時制の学校ではそれほど大がかりな準備は出来ないので、プレゼント交換ということになった。
主担任の若い女性教師は、経済的なことも配慮して、108円迄というプレゼントの負担制限を設定した。
これは100円ショップで何か良い物を見つけるか、それを用いて自分で作るかを考えたのである。
私はその女性教師から、「家で栽培してある大根でも良いのではないですか?」と言われていた。
それでも気になったので、他の若い女性教師に聞いてみたら、「それは、ちょっと・・・」というので、何か作ることにした。
家には奄美から持ち帰った貝殻が多くあったので、それを用いてネックレスを作ろうかとも思っていた。
家内にプレゼント交換のことを話すと、家内が得意な趣味のビーズ細工をしてくれるという。
百円ショップで、小さなクリスマスリースのビーズセットを買って来て、それを二時間ほどかけて作ってくれた。
そして、綺麗にラッピングしてくれて本番に臨んだ。
主担任の先生は、花より団子と言うことで、買ってきたチョコレートや、職員の休憩室にあったおやつをかき集めてプレゼントにしていた。
いざ交換と言うことになると、生徒の一人が忘れてきていた。
仕方ないので、その忘れた生徒に就職祝いだと言うことで、私の物をあげることにした。
それで、私抜きで交換が始まった。
そして、輪になった交換が合図で止まって、中を見ることになった。
単に駄菓子を100円分買ってきたもの。
UFOキャッチャーで手に入れた大きなプラモデル。
バイト先のまかない飯のそばめし。
その他の多くはやはり、100円ショップで買える品物などだった。
私が持ってきたプレゼントは、うまいことに女子生徒に当たり、非常に喜んでくれた。
後になって思ったのだが、材料を使って手作りにしたプレゼントと、買ってそのままのプレゼントでは意味が違うということだ。
これはバレンタインデーの時のチョコレートも同じなのだ。
材料を使って作るものは、それにかける時間と気持ちが入っている。
時間から考えると、兵庫県の最低賃金で換算すれば、2時間なら1638円と言うことになる。
金に換算すると嫌らしく感じるが、お金を持っていない者でも、労力をかければ価値を生むということである。
奇しくも、大手のホテルのベットメイキングのアルバイトで一番時給の高い生徒が、買った駄菓子のままで済ましていた。
それに対して、小さなお好み焼き屋でアルバイトしている生徒が、手作りのまかない飯だった。
アルバイトをしている定時制生徒の仕事に対する価値観が表れているような気がした。
家内に任せた私が一番横柄なのだが・・・・
赤穂の牡蠣と海苔
先日職業体験と言うことで、赤穂の漁協に定時制の生徒と一緒にうかがった。
赤穂の漁協の建物は、以前は東浜塩田の工場や倉庫があった場所にある。
私は子供の頃には、このあたりでよく魚釣りをして遊んだ。
昔は、赤穂で牡蠣の養殖をしてはいなかったと思う。
今は全国的にも名の知られた牡蠣の産地にまでになっている。
海苔に関しては、唐船の河口寄りの海岸で、棹を立てて養殖していたのを覚えている。
今は唐船の沖で養殖していて、ずっと海面下にあるので繁殖が良いという。
昔は近所で海苔を干す作業をしている家もあって、その作業を見るのは面白かった。
その頃は、車もあまり通っていなかったので、家の前の路地に天日干しをしていた。
残り物の海苔などを分けてもらって、母親がよく海苔の佃煮を作っていた。
久しぶりに赤穂の海苔をあぶって食べさせてもらった。
磯の風味が強くて、懐かしい味がした。
赤穂の牡蠣は千種川のおかげもあって成長が早く、一年物でも大きくて美味しい。
今回は殻付きの牡蠣を焼いたり、生徒が殻から外した牡蠣を味噌汁に入れて食べた。
焼いた牡蠣は、海そのものが口の中に再現されているようだった。
また、味噌汁に入れた牡蠣を初めて食べたが、こんなに美味しいとは思ってもみなかった。
大きな鍋に一杯あったので、教師生徒あわせて15名ほどで食べられるかと心配した。
心配には及ばなかった。
予定の時間よりも早く、鍋は空になってしまった。
12月にしては思ったより暖かい夜で、御崎の灯台や夜の星が綺麗に光っていた。
御崎の夜景を見ながら、生徒達と楽しくて美味しい時間を過ごせた。
漁協としては、後継者に繋がればということである。
話を聞くと、牡蠣に関しては地元の多くの人が仕事に関わっているようだ。
ただ、牡蠣むきの仕事は冬場だけの仕事で、漁師さん以外はパートということになる。
季節的なこともあって、人手が足りなくてせっかく人気がある唐船の牡蠣小屋も運営できないそうだ。
せっかく赤穂は観光化も進んできたので、一年を通して多くの人が関わることの出来る事業が出来ればと思った。
ただ、年商の多い牡蠣にしても海苔にしても、その分設備に投資される額は大きいという。
自然相手にどれだけリスクを負えるかということである。
私の家の本家や親は船での運送業を営んでいたが、父親はリスクを避けて会社勤めに替わった。
本家も後継者がなく、もう船の運送業は営んでいない。
地場産業の維持というのは、リスクを考えればそんなに容易いものではなさそうだ。
赤穂の漁協の建物は、以前は東浜塩田の工場や倉庫があった場所にある。
私は子供の頃には、このあたりでよく魚釣りをして遊んだ。
昔は、赤穂で牡蠣の養殖をしてはいなかったと思う。
今は全国的にも名の知られた牡蠣の産地にまでになっている。
海苔に関しては、唐船の河口寄りの海岸で、棹を立てて養殖していたのを覚えている。
今は唐船の沖で養殖していて、ずっと海面下にあるので繁殖が良いという。
昔は近所で海苔を干す作業をしている家もあって、その作業を見るのは面白かった。
その頃は、車もあまり通っていなかったので、家の前の路地に天日干しをしていた。
残り物の海苔などを分けてもらって、母親がよく海苔の佃煮を作っていた。
久しぶりに赤穂の海苔をあぶって食べさせてもらった。
磯の風味が強くて、懐かしい味がした。
赤穂の牡蠣は千種川のおかげもあって成長が早く、一年物でも大きくて美味しい。
今回は殻付きの牡蠣を焼いたり、生徒が殻から外した牡蠣を味噌汁に入れて食べた。
焼いた牡蠣は、海そのものが口の中に再現されているようだった。
また、味噌汁に入れた牡蠣を初めて食べたが、こんなに美味しいとは思ってもみなかった。
大きな鍋に一杯あったので、教師生徒あわせて15名ほどで食べられるかと心配した。
心配には及ばなかった。
予定の時間よりも早く、鍋は空になってしまった。
12月にしては思ったより暖かい夜で、御崎の灯台や夜の星が綺麗に光っていた。
御崎の夜景を見ながら、生徒達と楽しくて美味しい時間を過ごせた。
漁協としては、後継者に繋がればということである。
話を聞くと、牡蠣に関しては地元の多くの人が仕事に関わっているようだ。
ただ、牡蠣むきの仕事は冬場だけの仕事で、漁師さん以外はパートということになる。
季節的なこともあって、人手が足りなくてせっかく人気がある唐船の牡蠣小屋も運営できないそうだ。
せっかく赤穂は観光化も進んできたので、一年を通して多くの人が関わることの出来る事業が出来ればと思った。
ただ、年商の多い牡蠣にしても海苔にしても、その分設備に投資される額は大きいという。
自然相手にどれだけリスクを負えるかということである。
私の家の本家や親は船での運送業を営んでいたが、父親はリスクを避けて会社勤めに替わった。
本家も後継者がなく、もう船の運送業は営んでいない。
地場産業の維持というのは、リスクを考えればそんなに容易いものではなさそうだ。
2016年12月17日土曜日
2016年の赤穂義士祭
今年の義士祭は平日で、何とか雨は免れたが曇りがちで、気温も低かった。
去年までは午前中に義士に関する講演を聴いて、その後募金活動などに参加した。
今年は定時制のブースがあるので、その担当者は朝から参加し、ゴミ拾い組は午後からとなった。
前日は雨だったので、花岳寺での追慕祭も大変だったようだ。
義士行列が盛んになるまでは、その追慕祭がメインだった。
因みに、花岳寺の住職さんは、駒澤大学の教授をしておられる。
私が大学生の頃に、名古屋の南山大学で講演をしてくれて、一度だけお目に掛かった。
住職さんは仏教関係の宗教学が専門だったが、私は宗教人類学に強い関心を持っていた。
公演後の喫茶店でお話をして、偶然赤穂と言うことを知って驚いた経験がある。
赤穂にいる時には一度だけ訪ねたが、お留守でお目に掛かることは出来なかった。
義士を祀る花岳寺は大名寺なので、檀家はいない。
拝観料だけで維持できる筈も無いので、どんな収入源があるのだろうとずっと疑問を持っている。
今年は市役所にゴミ拾い組の本部を置いて、その本部に最初待機し、その後ブースの手伝いの予定だった。
曇り空の中で集合して、クラス毎に出かけた後は、遅刻者を待っていた。
遅刻者の対応が済んだ後は、市役所の中に入れてもらって、帰りを待った。
ゴミ拾いも無事終わり、花岳寺に寄ってから城内のブースに向かった。
ブースには沢山のお客さんがいて、それに対応する職員もしっかりいたので、付近をまわることにした。
久しぶりに大石神社にも詣った。
そして、今度公開された二の丸庭園に初めて行った。
そこには赤穂市編さん室に勤める知り合いが係員でいたので挨拶をした。
その後ゆっくりと庭園を歩き、携帯で写真を撮ったりした。
これで一つ観光スポットも増えたのかと思った。
赤穂城内も昔と違って、広い公園のように整備されて、いずれ姫路城のようになるのかなとも思う。
赤穂高校があったり、民家があった時代を知るものにとっては、少し寂しい雰囲気でもある。
いっその事、赤穂に残る古い民家を移築して、宿泊させても良いように思えた。
去年までは午前中に義士に関する講演を聴いて、その後募金活動などに参加した。
今年は定時制のブースがあるので、その担当者は朝から参加し、ゴミ拾い組は午後からとなった。
前日は雨だったので、花岳寺での追慕祭も大変だったようだ。
義士行列が盛んになるまでは、その追慕祭がメインだった。
因みに、花岳寺の住職さんは、駒澤大学の教授をしておられる。
私が大学生の頃に、名古屋の南山大学で講演をしてくれて、一度だけお目に掛かった。
住職さんは仏教関係の宗教学が専門だったが、私は宗教人類学に強い関心を持っていた。
公演後の喫茶店でお話をして、偶然赤穂と言うことを知って驚いた経験がある。
赤穂にいる時には一度だけ訪ねたが、お留守でお目に掛かることは出来なかった。
義士を祀る花岳寺は大名寺なので、檀家はいない。
拝観料だけで維持できる筈も無いので、どんな収入源があるのだろうとずっと疑問を持っている。
今年は市役所にゴミ拾い組の本部を置いて、その本部に最初待機し、その後ブースの手伝いの予定だった。
曇り空の中で集合して、クラス毎に出かけた後は、遅刻者を待っていた。
遅刻者の対応が済んだ後は、市役所の中に入れてもらって、帰りを待った。
ゴミ拾いも無事終わり、花岳寺に寄ってから城内のブースに向かった。
ブースには沢山のお客さんがいて、それに対応する職員もしっかりいたので、付近をまわることにした。
久しぶりに大石神社にも詣った。
そして、今度公開された二の丸庭園に初めて行った。
その後ゆっくりと庭園を歩き、携帯で写真を撮ったりした。
これで一つ観光スポットも増えたのかと思った。
赤穂城内も昔と違って、広い公園のように整備されて、いずれ姫路城のようになるのかなとも思う。
赤穂高校があったり、民家があった時代を知るものにとっては、少し寂しい雰囲気でもある。
いっその事、赤穂に残る古い民家を移築して、宿泊させても良いように思えた。
2016年12月11日日曜日
1年ぶりの水泳
去年の11月に生徒と小さなレースに出て以来、私はプールで泳いでいなかった。
一番の理由は愚犬の散歩をしっかり一時間以上させていたので、運動が足りていたことだ。平日は定時制なので、夕方や夜には行けない。
土日は朝夕の散歩があり、その上に農作業をしていたので行く余裕が無かった。
日曜の今日は午後から時間もあり、息子も夜勤明けで家にいて、犬の散歩も頼めるのでプールに行った。
地元の町民プールでは、スイミングスクールの選手コースの生徒が練習をしていた。
一般のお客さんは最初は年配の女性が一人だけだったが、そのうち増えた。
自分はいつものように、アップでSKPSの800mをおこなった。
1年ぶりだから、全く体が動かないのでは無いかと心配したが、意外に動いた。
しかも、毎日しっかり歩いているせいか、それほど辛くは無い。
当然泳ぐスピードは、生徒と練習していた時に比べて甚だ遅い。
今日泳ぎに来た一番の理由は、嫌なことがあってそれから逃れるためであった。
子供が小さい頃から本格的に練習を始めて、20年近く経つ。
この地元のプールには20年以上の想い出がしみこんでいる。
今日のように嫌なことがあって、夢中で泳いだこともあった。
その時によく思い出した歌のフレーズは、EaglesのHotel Californiaの一節
"Some dance to remember,Some dance to forget"
さしずめ、プールでは"Some swim to remember, Some swim to forget"と言うところだろうか。
プールでは踊るのではなく、人は思い出すために泳ぎ、忘れるために泳ぐ。
今日の自分にとっては、思い出すためであり、忘れるためでもあった。
この同じプールで、我が子と一緒に泳いだり、クラブの生徒達と一緒に泳いだ。
自分に自由な時間が少なくて、もっと自由な時間が欲しいと思っていた。
しかし、今思い出すと充実したかけがえのない時間であった。
また、水泳マスターズチームは厳しくて大変だったけど、練習やレースが楽しかった。
今日はマスターズチームではないが、よくプールで出会った人に一人だけ会った。
その退職した年配の男性は、「本当に久しぶりやね」と声をかけてくれた。
自分の力がどれだけ残っているか分からなかったので、夢中で泳ぐほどのスピードや距離はだせなかった。
ただ、嫌な気持ちが水の中に溶けて出て消えていくように思えた。
また、ジョギングの時は一人黙々と走ることが多いが、水泳ではそばで多くの人が泳いだり歩いている。
特に若い選手が一生懸命泳いでいるので、こちらも励まされる。
当然泳ぐスピードは全く違うのだが、少しでも隣で並んで泳ぐ瞬間が楽しいものである。
泳いで気が晴れたとまでは行かなかったが、気分的には落ち着けたと思う。
こういう時には、水泳をやっていて良かったと思える。
酒やたばこ、ギャンブルなどで憂さ晴らしをする人もいる。
実際自分も、若い頃は酒での憂さ晴らしが多かった。
定年間近になると、いろんなストレスで心身を病む人もいる。
その中で酒たばこで健康を害して、定年前後に亡くなった人を何人も知っている。
世はまさにジョギング、マラソンブームで、それはそれで健康に良いと思う。
それとは違う水泳の魅力は、心も身体も水の中で漂わせることも出来ることだろう。
ほんのしばらくの時間ではあるが、イルカやクラゲになれるのである。
一番の理由は愚犬の散歩をしっかり一時間以上させていたので、運動が足りていたことだ。平日は定時制なので、夕方や夜には行けない。
土日は朝夕の散歩があり、その上に農作業をしていたので行く余裕が無かった。
日曜の今日は午後から時間もあり、息子も夜勤明けで家にいて、犬の散歩も頼めるのでプールに行った。
地元の町民プールでは、スイミングスクールの選手コースの生徒が練習をしていた。
一般のお客さんは最初は年配の女性が一人だけだったが、そのうち増えた。
自分はいつものように、アップでSKPSの800mをおこなった。
1年ぶりだから、全く体が動かないのでは無いかと心配したが、意外に動いた。
しかも、毎日しっかり歩いているせいか、それほど辛くは無い。
当然泳ぐスピードは、生徒と練習していた時に比べて甚だ遅い。
今日泳ぎに来た一番の理由は、嫌なことがあってそれから逃れるためであった。
子供が小さい頃から本格的に練習を始めて、20年近く経つ。
この地元のプールには20年以上の想い出がしみこんでいる。
今日のように嫌なことがあって、夢中で泳いだこともあった。
その時によく思い出した歌のフレーズは、EaglesのHotel Californiaの一節
"Some dance to remember,Some dance to forget"
さしずめ、プールでは"Some swim to remember, Some swim to forget"と言うところだろうか。
プールでは踊るのではなく、人は思い出すために泳ぎ、忘れるために泳ぐ。
今日の自分にとっては、思い出すためであり、忘れるためでもあった。
この同じプールで、我が子と一緒に泳いだり、クラブの生徒達と一緒に泳いだ。
自分に自由な時間が少なくて、もっと自由な時間が欲しいと思っていた。
しかし、今思い出すと充実したかけがえのない時間であった。
また、水泳マスターズチームは厳しくて大変だったけど、練習やレースが楽しかった。
今日はマスターズチームではないが、よくプールで出会った人に一人だけ会った。
その退職した年配の男性は、「本当に久しぶりやね」と声をかけてくれた。
自分の力がどれだけ残っているか分からなかったので、夢中で泳ぐほどのスピードや距離はだせなかった。
ただ、嫌な気持ちが水の中に溶けて出て消えていくように思えた。
また、ジョギングの時は一人黙々と走ることが多いが、水泳ではそばで多くの人が泳いだり歩いている。
特に若い選手が一生懸命泳いでいるので、こちらも励まされる。
当然泳ぐスピードは全く違うのだが、少しでも隣で並んで泳ぐ瞬間が楽しいものである。
泳いで気が晴れたとまでは行かなかったが、気分的には落ち着けたと思う。
こういう時には、水泳をやっていて良かったと思える。
酒やたばこ、ギャンブルなどで憂さ晴らしをする人もいる。
実際自分も、若い頃は酒での憂さ晴らしが多かった。
定年間近になると、いろんなストレスで心身を病む人もいる。
その中で酒たばこで健康を害して、定年前後に亡くなった人を何人も知っている。
世はまさにジョギング、マラソンブームで、それはそれで健康に良いと思う。
それとは違う水泳の魅力は、心も身体も水の中で漂わせることも出来ることだろう。
ほんのしばらくの時間ではあるが、イルカやクラゲになれるのである。
2016年12月10日土曜日
写真アルバム集の執筆で思うこと
『写真アルバム 赤穂・相生・上郡・佐用の昭和』樹林舎が出版された。
この出版に際しては、宮崎素一氏より写真説明やリード文(解説文)の依頼があった。
私は赤穂に関しては、生まれ育ちでありながら、あまり地域研究には関わってこなかった。
原稿の依頼は市の市史編さん室にあったようだが、対応が難しくて宮崎さんの方に依頼されたようだった。
執筆には自信も時間も無かったが、恩義のある宮崎さんから頼まれたら引き受けざるを得なかった。
過去の写真集をあたってみると、赤穂における郷土研究の重鎮が関わっているのが分かった。
そして、前回の出版されたこのシリーズは、赤穂に関しては故西畑俊昭氏が中心となっていた。
西畑氏が生きていたなら、今回もその役割を担っていただろうと思う。
つくづく、赤穂にとっては大切な人を亡くしてしまったのだと、改めて思わざるを得なかった。
写真集の風景は昔を思い出してくれるのだが、物心つく前の風景はまるで別世界である。
おそらく今の若い人がこの写真集を見たら、殆どがそうなのだろうと思う。
今の赤穂の職場に赴任してから、赤穂市内を出歩く機会が増えた。
赤穂市内の様子は、昔の姿を断片的に残してはいるが、ずいぶん変わってしまった。
私は今57歳だが、50年という年月の流れを改めて思い知らされた。
竜宮城へ行かなくても、もし50年前に赤穂を離れていきなり戻って来たら、その変化に驚かされるだろう。
そう言えば以前50年ぶりに行った金比羅さんは初めて行ったのと同じ感覚だった。
そして、浦島太郎同様に自分は白髪頭の老人になってきている。
昭和という時代ほど日本が激変した時代は無かっただろう。
変わることが良いことだ、美しいことだと思ってきた世代でもある。
本当は良い物を大切に残していく方が難しかった時代なのだ。
私たちが幼い頃に神社や寺であふれていた子供の遊ぶ姿はもう見かけない。
土曜の昼によく行った近所のお好み屋。
寒い中を父親と一緒に行った近所の風呂屋。
その他、八百屋、豆腐屋、駄菓子屋、酒屋、魚屋、散髪屋などの多くが消えていった。
そこにはお金と品物のやりとり以外のものがあった。
写真アルバム集もいずれ過去の洛中洛外図のように歴史公証の材料となるのだろう。
その時代に生きた人がどう思い、どう感じていたかは、想像の域を出ない。
ただ、時代の記録は自分たちの体の中、そして子孫の体の中にはDNAとして残り続ける。
この頃よく思うのは、DNAが自分たちの体や心を借りながら時代を超えて生き続けているのだということである。
生物の先生は命を繋ぐことの大切さをよく強調される。
確かに子孫を残して命を繋ぐことは大切である。
しかし、地球上に生命誕生以来、DNAは人以外にいろんな姿で生き続けている。
写真アルバム集は確かに人の営みを中心に掲載されているのだが、そこには別の生き物との関わりもしっかりと写されている。
そういう風に見れば単なるノスタルジーに浸るためだけのものでは無いようにも思える。
この出版に際しては、宮崎素一氏より写真説明やリード文(解説文)の依頼があった。
私は赤穂に関しては、生まれ育ちでありながら、あまり地域研究には関わってこなかった。
原稿の依頼は市の市史編さん室にあったようだが、対応が難しくて宮崎さんの方に依頼されたようだった。
執筆には自信も時間も無かったが、恩義のある宮崎さんから頼まれたら引き受けざるを得なかった。
過去の写真集をあたってみると、赤穂における郷土研究の重鎮が関わっているのが分かった。
そして、前回の出版されたこのシリーズは、赤穂に関しては故西畑俊昭氏が中心となっていた。
西畑氏が生きていたなら、今回もその役割を担っていただろうと思う。
つくづく、赤穂にとっては大切な人を亡くしてしまったのだと、改めて思わざるを得なかった。
写真集の風景は昔を思い出してくれるのだが、物心つく前の風景はまるで別世界である。
おそらく今の若い人がこの写真集を見たら、殆どがそうなのだろうと思う。
今の赤穂の職場に赴任してから、赤穂市内を出歩く機会が増えた。
赤穂市内の様子は、昔の姿を断片的に残してはいるが、ずいぶん変わってしまった。
私は今57歳だが、50年という年月の流れを改めて思い知らされた。
竜宮城へ行かなくても、もし50年前に赤穂を離れていきなり戻って来たら、その変化に驚かされるだろう。
そう言えば以前50年ぶりに行った金比羅さんは初めて行ったのと同じ感覚だった。
そして、浦島太郎同様に自分は白髪頭の老人になってきている。
昭和という時代ほど日本が激変した時代は無かっただろう。
変わることが良いことだ、美しいことだと思ってきた世代でもある。
本当は良い物を大切に残していく方が難しかった時代なのだ。
私たちが幼い頃に神社や寺であふれていた子供の遊ぶ姿はもう見かけない。
土曜の昼によく行った近所のお好み屋。
寒い中を父親と一緒に行った近所の風呂屋。
その他、八百屋、豆腐屋、駄菓子屋、酒屋、魚屋、散髪屋などの多くが消えていった。
そこにはお金と品物のやりとり以外のものがあった。
写真アルバム集もいずれ過去の洛中洛外図のように歴史公証の材料となるのだろう。
その時代に生きた人がどう思い、どう感じていたかは、想像の域を出ない。
ただ、時代の記録は自分たちの体の中、そして子孫の体の中にはDNAとして残り続ける。
この頃よく思うのは、DNAが自分たちの体や心を借りながら時代を超えて生き続けているのだということである。
生物の先生は命を繋ぐことの大切さをよく強調される。
確かに子孫を残して命を繋ぐことは大切である。
しかし、地球上に生命誕生以来、DNAは人以外にいろんな姿で生き続けている。
写真アルバム集は確かに人の営みを中心に掲載されているのだが、そこには別の生き物との関わりもしっかりと写されている。
そういう風に見れば単なるノスタルジーに浸るためだけのものでは無いようにも思える。
2016年12月4日日曜日
鳥の楽園と愚犬騒動
コウノトリがやってきて以来、愚犬クロとの散歩にはそれを撮影しようとする人や車に会うことが多くなった。
近所の知り合いの人も、常に追いかけて写真を撮っているので、密かにパパラッチ○○と呼んでいる。
この頃散歩に出かける時には、コウノトリも朝食を済ませて、高い高圧電線の鉄塔の上で日向ぼっこをしている。
写真を撮る人は、午前中殆どその近くで、動きの無いコウノトリを見張っている。
見張られていたら、地上に降りられないと思うが、日向ぼっこして諦めているのかも知れない。
先日の金曜日は、道端の普通の電信柱に止まっていたので、その大きさを身近に感じられた。
追いかけなければ、そばまで近づいても逃げることはあまりない。
そのコウノトリもさることながら、この季節になると猛禽類が沢山訪れている。
何という種類名なのか分からないが、鳶より少し小さなものが、電信柱や田んぼの中でいるのを何羽か見かける。
また、カラスよりも小さなものもよく飛んでいて、今日もカラスと空中戦をしていた。
皆総称して鷹というのかも知れないが、普段いる鳶やカラスなどと違って、秋から冬にしか見られない。
また、ケリも集団で田んぼを舞っている。
大型のサギもコウノトリに負けないくらい、おおらかに舞っているが誰も見向きもしない。
小鳥も沢山の種類がいて、美しい鳴き声を聞くのが楽しみである。
小川のそばに行くと、美しいカワセミも普通に見ることが出来る。
ただ、千種川の下流にかけている、川鵜に関しては、不気味である。
つい最近も大群が川の上を移動しているのを見たが、大群のカラス同様不快な感じがした。
自然が多く残っていると言いながら、自然そのものよりもこうして里のそばに人と共存している。
人の住んでいるそばの方が、食べ物が多くあるということなのだろうか。
私がよく訪れた奄美の与路島では、猛禽類の餌となったのは、野生化した山羊の子供だった。
この上郡では何が餌になっているか分からない。
ただ、我が家にはハツカネズミが多く住み着いているくらいだから、外にも多くいるのだろう。
そういう、様々な鳥を眺めながら、散歩を楽しんでいるそばで、クロは相変わらず蝗を捕って食べている。
時々散歩の途中でやるジャーキーよりも、蝗の方が好きなようだ。
蝗はまだ良いのだが、先日はヌートリアの子供が何匹も出てきて、えらく振り回された。
今日も、何か獲物、たぶんイタチだと思うが、それを見つけたのか草むらに飛び込んでしまった。
普段ハーネスに、10メートルほどの太いロープをつけているのだが、引っ張った拍子にハーネスが壊れてしまった。
こうなると、うちの愚犬はこれ幸いに脱走してしまう。
以前は追いかけて捕まえたが、紐が付いていない状態では絶対無理である。
一度帰って体制を整えて、他の人に迷惑をかけないように探しに行った。
クロは自分の好きな、隣村の墓場の近くをうろうろしている。
ここは以前に鎖をつけたまま逃走して、救助してやったところの近くである。
そばまで行って、ジャーキーで釣ろうとするのだが、逃げてしまう。
そんなことをしている間に、戻って来た家内が軽トラでやってきた。
家内は私のように捕まえた後で、叩いたりしていないので、ジャーキーを見せたらやってくる。
今回は見事そのジャーキーを使って、田んぼの中で捕まえてくれた。
私も最近は、捕まえても叩かないようにしている。
その代わり、散歩から戻った後の食事は抜きである。
いつも据わっている庭の縁台で、哀しそうな声を出していたが、無視した。
平和な鳥の楽園を堪能した散歩は、結局クロの脱走劇で乱された。
家の息子はやんちゃでは無かったので、あまり悩まされることが無かった。
その代わりにクロのやんちゃに振り回されている。
子育ての終わった夫婦にとっては、孫以上に手の掛かる存在でもある。
繋いでいる時は私に絶対服従するクロだが、逃げた時は家内の方に心を許す。
思い起こせば、独身下宿時代に電話や手紙のやりとりをしていたのは、母親だけだった。
父親というのはそういう存在なのかも知れない。
近所の知り合いの人も、常に追いかけて写真を撮っているので、密かにパパラッチ○○と呼んでいる。
この頃散歩に出かける時には、コウノトリも朝食を済ませて、高い高圧電線の鉄塔の上で日向ぼっこをしている。
写真を撮る人は、午前中殆どその近くで、動きの無いコウノトリを見張っている。
見張られていたら、地上に降りられないと思うが、日向ぼっこして諦めているのかも知れない。
先日の金曜日は、道端の普通の電信柱に止まっていたので、その大きさを身近に感じられた。
追いかけなければ、そばまで近づいても逃げることはあまりない。
そのコウノトリもさることながら、この季節になると猛禽類が沢山訪れている。
何という種類名なのか分からないが、鳶より少し小さなものが、電信柱や田んぼの中でいるのを何羽か見かける。
また、カラスよりも小さなものもよく飛んでいて、今日もカラスと空中戦をしていた。
皆総称して鷹というのかも知れないが、普段いる鳶やカラスなどと違って、秋から冬にしか見られない。
また、ケリも集団で田んぼを舞っている。
大型のサギもコウノトリに負けないくらい、おおらかに舞っているが誰も見向きもしない。
小鳥も沢山の種類がいて、美しい鳴き声を聞くのが楽しみである。
小川のそばに行くと、美しいカワセミも普通に見ることが出来る。
ただ、千種川の下流にかけている、川鵜に関しては、不気味である。
つい最近も大群が川の上を移動しているのを見たが、大群のカラス同様不快な感じがした。
自然が多く残っていると言いながら、自然そのものよりもこうして里のそばに人と共存している。
人の住んでいるそばの方が、食べ物が多くあるということなのだろうか。
私がよく訪れた奄美の与路島では、猛禽類の餌となったのは、野生化した山羊の子供だった。
この上郡では何が餌になっているか分からない。
ただ、我が家にはハツカネズミが多く住み着いているくらいだから、外にも多くいるのだろう。
そういう、様々な鳥を眺めながら、散歩を楽しんでいるそばで、クロは相変わらず蝗を捕って食べている。
時々散歩の途中でやるジャーキーよりも、蝗の方が好きなようだ。
蝗はまだ良いのだが、先日はヌートリアの子供が何匹も出てきて、えらく振り回された。
今日も、何か獲物、たぶんイタチだと思うが、それを見つけたのか草むらに飛び込んでしまった。
普段ハーネスに、10メートルほどの太いロープをつけているのだが、引っ張った拍子にハーネスが壊れてしまった。
こうなると、うちの愚犬はこれ幸いに脱走してしまう。
以前は追いかけて捕まえたが、紐が付いていない状態では絶対無理である。
一度帰って体制を整えて、他の人に迷惑をかけないように探しに行った。
クロは自分の好きな、隣村の墓場の近くをうろうろしている。
ここは以前に鎖をつけたまま逃走して、救助してやったところの近くである。
そばまで行って、ジャーキーで釣ろうとするのだが、逃げてしまう。
そんなことをしている間に、戻って来た家内が軽トラでやってきた。
家内は私のように捕まえた後で、叩いたりしていないので、ジャーキーを見せたらやってくる。
今回は見事そのジャーキーを使って、田んぼの中で捕まえてくれた。
私も最近は、捕まえても叩かないようにしている。
その代わり、散歩から戻った後の食事は抜きである。
いつも据わっている庭の縁台で、哀しそうな声を出していたが、無視した。
平和な鳥の楽園を堪能した散歩は、結局クロの脱走劇で乱された。
家の息子はやんちゃでは無かったので、あまり悩まされることが無かった。
その代わりにクロのやんちゃに振り回されている。
子育ての終わった夫婦にとっては、孫以上に手の掛かる存在でもある。
繋いでいる時は私に絶対服従するクロだが、逃げた時は家内の方に心を許す。
思い起こせば、独身下宿時代に電話や手紙のやりとりをしていたのは、母親だけだった。
父親というのはそういう存在なのかも知れない。