家内との約束の半年は過ぎてしまった。
私は早期退職後の半年の間に、次の出版を果たす予定だった。
しかし、本格的な研究の感覚を取り戻すだけに半年近くかかってしまった。
再び稼ぎながら研究を続けることを余儀なくされた。
ハローワークに出向くと、隣の県のB市で遺物整理のアルバイトがあった。
ちょうど、考古学も勉強しているので良いと思い応募した。
面接の日に出向いて、若くて美しい女性がもう一人応募しているのが分かった。
普通は素人のおばさんがパートでやることが多いが、これは負けたと思った。
案の定、面接は老眼の痛いところを突いてきた。
かくして結果として、うら若き女性に私はアルバイトを奪われてしまった。
その後、その採用担当者が別の仕事を用意しようとしてくれた。
しかし、それも事務手続きの問題で駄目になった。
駄目になった報告を聞いて、すぐにネット上で次を探した。
ネット上では、教師や放課後支援員をチェックしていた。
それと、興味本位で農作業も検索していた。
何気なく農作業の検索結果を見てみると、隣の相生市で作業員を募集している。
NPOなので、直感的にいけるのではないかと思った。
早速電話して、話を進めることにした。
夜電話がかかってきて、採用担当者の声を聞くとおじいさんの声だった。
最初の電話の人も若くて頼りなく、担当者も年配で少々不安に感じた。
翌日約束の時間より遅れて、現れた方は腰の曲がったおじいさんだった。
農場を見せてもらった後、近くの喫茶店で話を伺った。
おじいさんと思った人が、実はこのNPOの理事長で、それと関連する合資会社の社長だった。
年齢を伺うと81歳で、しかも神戸から通ってきているというので驚いた。
やはり、有機農業のNPOで私が今まで目指してきたことと全く同じだった。
私は、有機農業を通じて、健常者と障害者がともに働ける場所を作りたいと思い続けてきた。
しかし、その夢の最大のネックは販売であった。
この理事長のM氏は現役時代は流通関係で活躍された人で、退職後に地道に取り組んできた人だった。
当然、意気投合してしまい、私は働かせてもらうことになった。
実際の仕事の打ち合わせと言うことで、再び喫茶店で話を聞いて驚いた。
私は、当初はパートタイムで働かせてもらうことになっていたのだが、正職員に抜擢された。
前回の打ち合わせでは、正職員は若い人に頼むということになっていたからだ。
戸惑いもあったが、やる以上はとことん頑張ろうと思った。
この30年あまり、研究職と農業職を目指すことの間で揺れ動いたが、神様の選んでくれたのは後者だった。
当然これで研究を終わらせるつもりはない。
私の文化人類学の原点は、生活実践にある。
大学や研究施設の研究者だけが、研究者ではない。
比べるのは憚れるが、かの南方熊楠も在野の生活実践家だった。
また、このブログを通しても、実践報告を行いたいと思う
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