この桜の季節になると亡くなった親父を思い出す。
調子が悪くなって、通院に付き添っていたのもこの頃だし、亡くなったのもこの頃だった。
私は幼かった頃は、結構父親に可愛がられていたと思う。
どこに行くのも、自転車やバイクに乗せられて連れていってもらった。
ところが、ガキ大将だった私は、だんだんと反抗的となり、高校時代は毎日のように口げんかをしていた。
それは、親父の仕事や生活ぶりが自分には尊敬や威厳を感じなかったことも大きい。
肉体労働の職工で、家に帰ると酒を飲んでテレビを見るのが楽しみだった。
特に、プロレスやボクシングが大好きで、それがかかると食い入ってみていた。
そして、年取ってくると、今の私も同じだが酒を飲んで寝てしまうことが多くなった。
父親は何事にも細かい性格で、家計も父親が握っていた。
母親は逆に大雑把で、父親には頼り切っていたように思う。
父親との関係が悪化したのは、私がバンド演奏にのめり込んでいった頃からである。
私に限らず、兄弟は母親と同じ歌好きだった。
私学の高い授業料を払ってもらいながら、私は勉強もまともにせずに、バンド練習にのめり込んでいった。
それにともない、成績もどんどん悪くなっていった。
私はプロになりたい夢はあったが、それ程甘い世界でも無いことも知っていた。
だから、そこそこ良い大学に入ってからバンド活動を続けようと甘い考えを持っていた。
その程度だったから案の定、大学に入って軽音楽部に入ったが、直ぐに止めてしまった。
父親にとっては、バンド活動こそエリートコースを踏み外した原因と思っていたようで、それを許した母親を責めることもあった。
掛け替えのない音楽を理解せず、母親を責めるそういう父親には強い反感を持っていた。
実は、その父親は老後の一番の楽しみが、民謡やカラオケだったのだから、歌が老後には掛け替えのないものになっていた。
そんな父親に対しても、自分が所帯を持った頃から、自然に構えないで関われる関係になった。
そして、自分が早期退職してしばらく無収入になって、父親の家族に対していかに尽くしてきたことを思い起こすことが多くなった。
父親は4人も息子を大学に進学させて、結婚させた。
家だけで無く、田畑を自分で増やしていった。
高度経済成長時期であったという好条件だけで無く、寸暇を惜しんで働いていた成果のように思う。
それに対して、私は子供は二人大学に入れただけだし、まだ結婚もさせていない。
家は建てたが、田畑は増やしていない。
自分は父親以上の成果に及んでさえいないのである。
今の高校にあたる赤穂中等学校を祖父に中退させられ、家業の木造運搬船に乗りその後企業に転職した父親。
中卒資格の父親に対して敬意を表してこなかった自分が恥ずかしく思えるようになった。
人付き合いが苦手で、子供の教育費が必要な頃はひたすら働いていて、甲類の安い焼酎を楽しみにしていた。
その焼酎が後に脳梗塞の原因となり、77歳で亡くなることになった。
決して賢明な生き方では無かったと思うが、精一杯父親なりに生きたと思う。
黄昏れた今頃になって、それが分かるようになるとは情けないが、それも順送りかなとも思う。
父親は、厳格でわがままな祖父のことを、良く言うことはあまりなかった。
祖父は父親と一緒に船に乗り、厳しく仕事を教え込んでいたこともある。
一家の中心として働くことの厳しさを教えるのが父親の役割だったのだと思う。
従来、父親とは子供にとって、そういう存在だったのかも知れない。
死んでからでも、存在価値が分かってくれればそれで良い役割なのだろう。
写真は木造運搬船の上での父親と私
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