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2018年9月28日金曜日

一生の恩人

私が学生生活を続け、大学院に進み、教師になれたのも、大学時代にお世話になった大家さんのおかげだと思っている。
実は、私は名古屋の私立大学に進学できたのは、叔父の家に下宿するという前提条件があった。
4人兄弟の長男である私はには、一つ下の弟も受験を控えており、私学に進学する条件が、叔父の家に下宿することだった。
最初は、叔父の借りていた物置代わりのアパートに暮らさせてもらっていた。
しかし、さすがに不自由を感じたので、友達に相談したところ、友達のアパートは二間あるので、住まないかという。
彼にとっては、下宿代を折半できるし、大学も受け直すつもりだったので、ずっと卒業するまで一緒に暮らすつもりではなかった。

自分も、しばらくは一緒に住まわせてもらって、彼が希望する東京の大学に変わるときに新しい下宿にうつるつもりだった。
なぜなら、当時2万円の下宿代を払う余裕はなかったからだ。
そして、そのつもりで3月には新しい安い下宿も探していた。
アパートの大家さんにもそのことを言うと、下宿代は半分で良いから、居続けても良いよと言われた。
ところが、肝心の友達は受験に失敗し、名古屋に残ることになってしまった。
すでに、大家さんとの話が進んでいて、探していた下宿も断っていたので、自分としても困ってしまった。
友達はそれを見かねて、友達自身が出て新しい下宿を探して住むと言うことにしてくれた。
友達には本当に申し訳ないことになったが、私には本当にありがたいことだった。

それ以来私は、風呂こそないが、2Kでしかも、東と南に窓のあるアパートに一人住むことになった。
しかも、地下鉄池下駅から歩いて10分ほどで、バス停も近い立地条件で月1万円で暮らすことができた。
南山大学には少々遠くて、自転車で通ってはいたので、坂が多くて結構大変であった。
それでも、途中に友達の下宿もあって、しょっちゅう立ち寄っていた。
何よりも、寝室と勉強部屋とを分けることのできる、快適な環境となたった。
これは、赤穂の自宅でも経験のないことだった。
私にとってこのアパート丸美荘は、その後の人生の方向を決める掛け替えのない場所となった。

ずいぶん、大家のお婆さんはお世話になり、病気になったときには食事を持ってきてくれたりしてくれた。
大家さん夫婦には子供がなくて、我が子のように可愛がってくれた。
にも関わらず、ずいぶん好き放題をして、迷惑をかけていたと思う。
卒業後の大学院在籍中に、思い立って挨拶しに行ったときには、既にお婆さんは亡くなっていた。
残されたお爺さんも私の顔を見ても、分からなくなってしまっていた。
ただ、仏壇に手を合わせるしか私にはできなかった。
10年程前に、名古屋に行く機会があったので、アパートを訪ねにいったが、そこにはもうアパートはなかった。
私にとって大切な大家さんの思い出や、大学時代の日々の記憶がいっぱい詰まった場所が失われてしまったことに、底知れぬ寂しさを感じた。

私は、大家さんから受けた恩は、他の人にお返しするしかないということをずっと思い続けている。


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