家内は、毎月義母と一緒に墓参りのために朝出かける。
今朝も、「早う 行かんと お父さんが待ってるで」というと
”私の お墓の前で 泣かないでください そこには私はいません”
と「千の風になって」を歌い出す。
「ほんなら なんで 行くんや?」と、私は返すと
「さあ~?」と答えるだけ。
家内の実家には仏壇はあり、お骨はお墓に納めている。
私の実家はお墓が無いので、仏壇にまだ父のお骨を納めたままにしている。
私の家にはお坊さんが毎月来て、仏壇で拝んでくれている。
なるべく早くお骨はお墓に納める方が良いというが、骨壺に入り立派なお石墓に納められたお骨が自然に帰るとは思えない。
そもそも、火葬した段階で、殆どの骨は自然に帰されているのである。
そうすると、お墓はわざわざお骨を家の外に出して、お参りするだけのものなのである。
先祖代々から受け継いだお墓なら、ご先祖様と一緒にということだろう。
しかし、うちのような新家(分家)は、そういう墓は無い。
お墓は、仏壇と違って、誰でもいつでもお参りすることができる。
先日、赤穂のとある場所で、○○先生と書かれたお墓があった。
個人を偲んで建てられたお墓であろう。
当然、戦没者のお墓は、個人として立派なのが建てられている。
これは、家族、親族を越えて、個人を祀るものである。
だから、自分の苦労した親や伴侶をお祀りたいという気持ちも、それと通じるのである。
しかし、それは家族や親族の中での話になってしまう。
そうなると、それを祀るための家族親族が、その地で永く暮らし続けていかなければ維持は無理なのである。
叔父の中には、子供のいる神奈川県に墓を建てる予定をしている人もいる。
「人間到る処青山あり」と、多くが都会に出て行った。
確かに孤独死であっても、葬ってはくれるだろう。
しかし、「顧みはせじ」とされる身でもあることも確かだ。
最近は葬式も殆どせず、火葬するだけで終わることも都会では増えているそうだ。
「水浮く屍、草生す屍」ではなく、「焼却される屍」として顧みられないようだ。
そういう意味では、無理して墓が造れるのは幸せなことかも知れない。
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