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2019年4月10日水曜日

イタチの遠流

先日近所の家で、イタチが罠にかかった。
その家では以前から、庭にイタチが住みついて、糞をしたりして困っていたという。
自慢げに見せてもらったイタチは、捕獲器の中できょとんとしていた。
捕まえた主人は、水に浸けて殺して、埋めるのだと言って、溝のそばに穴まで掘ってあった。
家内にそのことを話したら、「放してやらないの」と言う。
確かに、家から離れて放す手があると思った。
これは以前、近所の家で悪さをする狐を、その主人が捕らえて、遠くの山に放したやり方だ。
私はその時に手伝いを頼まれたが、大きな袋に詰めて軽トラで遠くの山に連れて行き、そこで放した。
狐はすさまじい臭いがしていて、袋はもう使えなかった。

日本史を教えてきた私としては、昔の遠流、島流しを連想した。
要するに町や村で悪さをした者は、遠くの地に連れて行って、戻ってこられなくするのだ。
里で悪さをするイタチや狐は、遠くの山に捨ててきて、戻ってこられなくする。
人も動物もやり方は同じだ。
出来ることなら、殺生は避けたいというのが根底にある。

その後、イタチは捕獲器の中にいなくなっており、新たに餌がつけられていた。
気になったので、その主人にたずねると、峠を越えた先の山で放したという。
あそこまで遠ければ戻っててこないだろうという。
私が「仏心がわいたね」と言うと、苦笑していた。
やはりいざ処分することになると、いくら悪さをする動物でも嫌なものである。
イタチが新しい環境で生き延びられるかどうか分からないが、生きるチャンスだけは与えられた。
昔の罪人に課せられた遠流も、そういう意味があったのだろうと思う。


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