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2012年12月23日日曜日

なぜオランダ?

私はこの「播磨のしっぽ」以外もGoogleでは「気になる書籍」というのも書いている。
GoogleのBloggerは統計の参加者で海外からのアクセスも知ることができる。
この「播磨のしっぽ」も海外でアクセスされているが数は少ない。
ところが、「気になる書籍」は日によっては、海外の方が多くなる時もある。
この一週間でオランダから14件のアクセスがあったのだが理由が分からない。
私のブログは「気になる書籍」でせいぜい一日に数件、「播磨のしっぽ」も5件未満である。
写真も殆ど載せずに、少々堅苦しいので仕方ないとは思っている。

私は兵庫県立図書館の本を上郡町の図書室を利用して借りている。
インターネットで予約して、図書室で受け渡しができるので非常に便利である。
ただ、中身を見ずに、タイトルや目次で借りなくてはいけないので、取り寄せて読むのを躊躇うのもある。
以前は月に数万円の書籍代をつぎ込むこともあったが、子供ができてからそれも難しくなった。
また、何よりも部屋を書籍が占領してしまい、もう置くところが無くなってしまった。
だから、この頃は図書館で極力借りることにした。
上郡町の図書室はこぢんまりとしているので、職員と直ぐに顔なじみになった。
職員の一人は教え子のお母さんであったり、その御主人が私の子供の先生だったりして心やすい。
赤穂の図書館にもよく行っていたが、貸出期限が2週間であり、遠くで不便である。
その点でインターネット予約貸し出しは、予約してから時間はかかるものの、貸出期間も長く助かっている。
県立図書館にない本も横断検索で県内の他の図書館からも借りられる。
ただ、最大の欠点は国立図書館や民博などの図書資料を取り扱って貰えないことである。

そういうことで、私が読める書籍には限界はあるのだが、基本的な文献に当たることは可能である。
何でもネットで調べて済む時代になってはいるが、しっかりと書籍を読むことは非常にためになっている。
私は若い頃は小説は読むのは好きだったが、専門書を読むことは苦手であった。
専門の文化人類学もフィールドワークが中心で、文献研究が苦手であった。
得てして、机上の論には限界も感じるが、何年も掛けて研究した内容を1週間足らずで読破できるのは、とても有難いことである。
そのへんが、気軽に書いているブログとは全く価値が違う。

私が紹介している書籍は読んだ書籍の一部でしかない。
そもそも手にして全部読み切る書籍の方が少ない。
それでも、購入した書籍はいつでも読めると思って「積ん読」になるが、借りた書籍は頑張って読む。
世界の趨勢は書籍のデジタル化になっており、いずれ音楽配信と同じようにダウンロードということにもなるだろう。
著者への印税の方法も考えてあげるべきだろ思う。
私も1冊専門書を書いて借金を背負ったままであるが、図書館に買ってもらっても本屋では売れていない。
いくら図書館で読んでもらえても、借金の返済には役に立たない。
ただ、研究職でない身では、パチンコで負けて損したことよりは、ましだと思って慰めている。


2012年12月17日月曜日

いつかのメリークリスマス

久しぶりにギターを持って生徒の前で歌った。教師も沢山いた。
学年のクリスマス会の余興での話である。
たかが、学年行事と言っても、総勢100名、ちょっとした小ホールである。
カラオケで歌うのとは違って、どんな舞台に立つ時も緊張し、逃げ出したくなった。
それでいて、性懲りもなく人前で演奏し歌う。
今回は3年生の最後のクリスマス会なので、自ら志願した。
曲はB’zの「いつかのメリークリスマス」である。職場の忘年会のカラオケステージで歌って以来である。
練習をして、ギターは何とか弾けたが、さびの部分の声が納得いかなかった。
それでも、たいていは本番では何とか声が出ることが分かっていたので、本番に望み何とかこなせた。
既にB'zは過去の栄光を失っていたので、今ひとつの反応だったが、自分としてはまずまずだった。

私がB’zを歌い始めたのは、以前勤めていた高校で生徒とバンドを組んで以来である。
ギター好きのその生徒はギターに入れ込んでいたが、人と合わせるのが苦手で、折角の文化祭でもバンドが組めないでいた。
それなら、一緒にやってみようと言うことで、まさしくB’zと同じように二人で始めた。
結局、あぶれたベースと3人で高校の文化祭のステージに立った。
当時は生徒もよくB’zを知っていたので、えらい盛り上がりようだった。
曲によってはかなり厳しいものもあったが、歌いこんで何とかこなせた。

それをきっかけにB’zに興味を持って、NHKの特集を録画して生徒に見せたりもした。
あの声を維持するための稲葉浩志のストイックな生活は、プロたる者はどんなものかを示すのに相応しいと思ったからである。
ボーカルを経験した人なら誰でも分かるが、練習を続けないと声は直ぐ出なくなる。
今回も、声が出る状態まで歌いこみたかったが、そこまでは行けなかったので納得はしていない。
ただ、こういうきっかけがないと、最近では歌を練習する気にはなれなかった。
声帯を一皮剥いた感じで声が出るように本当は歌い込みたかった。
声が出ない分、雰囲気でカバーしようと思ったが、緊張して余裕がなかった。
唯一の救いは、これまでいくらギターを弾いてみろ言っても、手にしなかった女子生徒がその後直ぐにギターを鳴らし出したことだ。

実はこの稲葉浩志は横浜国立大学の教育学部数学科を出ている。
教師を志した時もあったようで、その数学科の同級生が兵庫県の教職員にもいた。
その教師はそのことを自慢げに話してくれたが、当時はそれ程関心がなかったので、聞き流していた。
残念ならがらその教師は私学に換わってしまったので、会う機会もなくなってしまった。
もっと聞いておけば良かったと残念に思っている。
教師を志しながら、ミュージシャンで大成功を収めている稲葉浩志。
ミュージシャンを志して大学へ行きながら、教師になった自分。
比較すると家内に鼻で笑われるほどの雲泥の差である。
しかし、いなかのプレスリーならぬ、稲葉浩志と同僚に おべっか言われて悪い気はしない。

私が今日用いたギターは中学校3年生の時に、友人と一緒に店に行って、彼に勧められて買ったヤマキのギターである。
因みに彼はベーシストで、高校卒業までバンドを組み続けた。
彼は早稲田大の軽音に入ったが、研究者になった。
このヤマキのギターは、糸巻きを途中で変えた以外は、大事に使ってきた。
たまたま、今日同じ学年の先生に見せたら、実は彼もヤマキのギターを大切持っているという。
しかも、彼のは当時でも10万円以上もする物で、今ではプレミアがついて何十万円もするという。
私のは23、000円だったので、よくて10万円になればというくらいかも知れない。
今でも中学校から40年近くも大切に使っているのはこのギターくらいだろう。
 そして、「いつかのメリークリスマス」の歌詞のようにはかない恋愛を、傍で見続けてくれたギターでもある・・・






2012年12月14日金曜日

赤穂義士祭の想い出

明日は赤穂義士祭である。仕事があるので見に行けない。
中学校から姫路に通っていたので、期末試験の関係から殆ど見に行けなかった。
それまでは、親に連れられて行ったり、友達と行ったりした。
当時は今のように城から駅まで大きな道路が通されていたわけではなく、昔ながらの古い家並みが並んでいた。
城というのは本来は戦に備えて、道はまっすぐ通すものではなかったので、わざと道は曲がっていた。
子供の頃は華岳寺通りは赤穂一番の繁華街だったので、よく買い物に来た。
因みに、赤穂市に住んでいながら、この加里屋というあたりに行くことを、周辺部に住む者は「赤穂へ行く」と言った。
その古い町並みに並ぶ出店を見ながら、太鼓橋に行くと門付近で、昔は傷痍軍人が3人程いて、一人がアコーデオンで「戦友」を奏でながら、物乞いをしていた。
軍帽に白い着物、片足を失い、松葉杖をついた人もいた。
幼い頃の想い出として、義士祭というとその印象がまず思い出される。

義士行列や忠臣蔵の場面を再現したトラックの荷台に設置した舞台も昔からある。
大人になって見物に行って市役所に勤めていた同級生が、その舞台で演じているのを見て、役場勤めも大変だなと思った。
小学生の頃は、義士に関する授業を2時間ほど受けて、学校は早帰りになり祭りに出かけた。
私は剣道少年団に入っていたので、剣道大会に出たこともある。
いつ頃からか、義士駅伝という競技も行われるようになり、教師になってから生徒の伴走を自転車で行ったこともある。
子供にとってやはり一番の楽しみは出店で、子供の頃は見せ物小屋まで来ていた。
学校から禁じられていたので入らなかったが、蛸娘とかよく分からない看板を見ただけで、おぞましく思えた。

義士行列は年によって、自治体に割り当てられるのだが、私の父親は一度だけその行列加わった。
わざわざ休みを取って、家内と子供で見に行った。
写真も一緒に撮ったりしたのだが、ミスで全部失敗してしまった。
親の家には人に写してもらった、義士の衣装をしてはしごを担いでいる父親の写真が飾ってある。
私もカブスカウトに入っていたので、春の義士祭に子供義士行列で加わったが、写真など無い。
この季節は他に祭りらしいものが無いので、近隣からも沢山の人がやってくる賑やかな祭りである。

赤穂といえば、赤穂義士と定番で、最近も中村勘三郎が亡くなった時に、大石内蔵助役を演じた様子が何度も報じられた。
本来は当時旧暦だったから、新暦になおすと一月後半になる。
しかし、年の暮れと義士祭は結びついてしまったので、月遅れにはしない。
今から考えると、大石内蔵助の子孫以外には、その義士の子孫が仕官できることは少なかったようだから、割に合わないと思える。
ただ、武士とヤクザと同じように見れば(少々不謹慎だが)、親分を失った子分が敵討ちをするのは、不自然ではない。
現代の企業のつぶし合いも、武器を持たないだけで、多くの犠牲者を出す戦争のようなものにも思える。
ただ、義理も人情もない企業や官公庁に勤める者には、もう仇討ちは理解不可能な出来事になったように思える。
所詮、私の先祖は百姓だから、当時はこき使われていた身分で、甘い汁を吸う武士に恨みを持っていたかも知れない。
その子孫の私が無邪気に義士祭を祝うのも滑稽であるが、殺戮を重ねた戦国武将を讃えることとそう変わりはないだろう。

昔、赤穂民俗の会のお手伝いをしていた頃、「赤穂には赤穂浪士しかないんかい?!」
と、忿懣を漏らしていた仲間がいたが、彼はその後きっちり、赤穂城の案内をしていた。
赤穂市民にとっては「それしか無い」とは言われたくはないが、忘れ去られるのは寂しい存在である。
上郡町民になった今も、どうしても気になる義士祭である。





2012年12月9日日曜日

へそ大根

実は去年作った竹串に輪切りの大根を串刺しにして乾した物は、東北ではへそ大根として有名だった。
ただし、東北では大根は皮を剥いて湯通しして、長い竹の棒に刺しているようだ。
私はたまたま千切りにして乾すのが面倒だったので、何か簡単に乾す手はないかと考えた。
そこで、洗った大根を皮も剥かずにそのまま輪切りにして、自分で作った太い竹串に刺して、竹笊の上で乾した。
この方が千切りにするよりも、沢山の量を効率的に乾せたからである。
普通は千切りにしてしまうと、表裏を返したりこまめにしないと、竹笊などでは竹にひっついてしまう。
串刺しにすると車輪のように並べられて、しかもひっくり返す手間はない。
乾いてしまうと、夏に吊ってあった日よけ朝顔のネットに洗濯ばさみで留めることができた。

干し大根は沢山採れる大根の保存方法として良いのだが、最大の難点は夏場の保存である。
密封して冷凍庫にでも入れておかないとかびてしまう。
毎年のように作ってはかびさせていたので、去年は乾燥した大根を竹串に刺したまま燻製にした。
味も燻製独特の風味で良いし、保存もしやすくなった。
ただ、燻製の強さが本来の優しい干し大根の味を損なってしまうのが欠点であった。
それでも、例年捨ててしまう干し大根も、去年は食べきってしまった。

2012年11月26日月曜日

金比羅詣り

小学生低学年の頃だから、もう45年以上の昔である。
親戚揃って 伯父の100t程の石材を積む木造船で夏に金比羅さんにお参りに行った。
金比羅さんは船乗りにとって守り神なので、昔から定期的にお参りに行っていたようだ。
当然違法なので、保安船が来たら隠れるように言われていた。
出港の際は、船長気分で舳先に立って敬礼したのを覚えている。
伯父に舵を握らせて貰ったが、広い海でぶつかる物もないのに妙に緊張した。
坂出港に停泊して、そこから路線バスに乗って金比羅さんに行った。
金比羅さんの石段は1000段あると言われたが(実際は1368段)、当時の自分にはとても多く感じられた。
その夜は、停泊した船の貨物室に蚊帳を張って寝たが、蚊に刺されてかゆくて眠れなかったのを覚えている。

今日、新しく買ったFitで家内と息子の三人で遠出することにした。行き先は四国とだけ決めておいた。
天気も昨日と打って変わって、快晴で朝の気温は低かったが、うちの近辺は霧でそう寒くはなかった。
四国は青春18切符を使って一周したり、職場の関係で松山周辺に出かけたり、最近では子供と高知にドライブに行ったことはある。
以前から金比羅さんに行ってみたいと思っていたので、高松自動車道を走っていて、看板を見るなり行くことに決めた。
歴史ある観光地なので、行楽シーズンとして渋滞も覚悟したが、渋滞もなく駅近くの駐車場に留めることができた。
そこからしばらく歩くと、商店街に出たのだが、まさしくシャッター街である。
ただ、金物雑貨屋には自分が以前から欲しかった職人籠が飾ってあったので、帰りには寄ることに決めた。
下駄屋もあって下駄も欲しかったが、冬場は使えないので買うのは止めた。

神社の参道には多くの土産物屋や飲食店が立ち並んでいた。
さっきまでのシャッター街とは違い、大勢の観光客がいたが、家族連れやお年寄りがやはり多かった。
幼い頃に来た記憶が甦ってくる。ただ、昔のように強引な客引きはされていない。
昔ながらの店毎に色テープで色づけされた竹杖が貸し出されている。
籠かきも昔ながらにいたが、往復6800円という値段には驚いた。
家内と私の母親を連れてきたら、足が悪いので籠に頼るしかないが、体重が重くて嫌がられるだろうと笑った。
当然、私などはもっと嫌がられるだろう。

浅草で売っている以上に、昔ながらの笠や模造刀、木彫りの置物などが多いのには感心した。
「五人百姓」のいる「大門」の前で、家内はギブアップ、腰が痛いから残るというので、息子と二人で上ることにした。
秋の風情が豊かな石段には、神社や仏閣に多い銀杏の木が色づいている。
山から見下ろす景色もすばらしかった。
本殿でお参りをした後、お守りを買って戻る。
こういう階段は上りより下りの方が膝に来るので用心した。
家内は「大門」から下に降りていた。土産物をゆっくり見る間もなく、先程の商店街に戻った。

職人籠を売っていた金物屋には、かなり高齢の身なりの良いご老人が店番をしていた。
中にある籠には柿渋を塗った物もあり、2380円と400円程高かったが、買うことにした。
袋は要らないと言うと、80円まけてくれたが、こういう店は本来値切って買うところだったのかも知れない。
因みに、私は今でも10年程前に姫路で買った職人籠を修理しながら使っている。
同僚からは、色々からかわれたが、夏場の荷物が多い時を除いてずっと使っている。
これは東京にいる時に板前さんが買い出しに使っているのを見て、欲しかったからである。
少々場所を取り邪魔になるが、意外と便利で重宝している。
これで、新しい籠で堂々と通える。
家内とも帰りながら10年後に来たらこの商店街も無くなっていると話しあった。

遅くなった昼食はやはり讃岐うどんということにした。
国道沿いの駐車場のある店に入った。
水車で粉をひいているのが売りだったが、全く愛想のない主人が普段着で一人やっていた。
私と家内は肉うどん、息子は天ぷらうどんを注文した。
注文してだいぶ経って肉うどんは出てきたが、天ぷらうどんは一度床に落としてやり直していた。
「お待たせしてすみません」とも言わなかったし、出る時に「ありがとう」の一言もなかった。
味は悪くはなかったが、値段も高く愛想が悪い。素人のような主人がやる店には二度と来るまいと思った。
映画にもなった讃岐うどん人気で、鼻持ちならない店がまだ健在なのかも知れない。
客も私達の後からどんどん入ってきた。

渋滞を心配したが帰りもすいていた。
往復250kmの旅は、うどん屋を除いて良い想い出になった。
幼い頃船での一泊二日の旅は遠く感じられたが、日帰りで気楽に行ける場所になった。
曾祖父から四国は縁があり、金比羅さんはもっと縁が深い。
幼稚園に上がる前に、両親が船で石荷を積む仕事をしていた時、私も船に乗せられていた。
明石沖で嵐にあって、難破しかけた。
親父は私に「金比羅 船船を歌え」と言ったという。
私は言われるまま「金比羅 船船 追手に 帆かけて しゅらしゅしゅしゅー」
意味の分からないまま憶えていた歌を歌うと 波がおさまったという。
私が生きているのも金比羅さんのお陰なのかも知れない。
これからも度々お参りに伺いたい。







2012年11月18日日曜日

原木栽培椎茸の収穫

原木椎茸は2年前の冬に始めた。
量販店で売っているコナラの木と椎茸の種菌を用いて5本ほど庭に置いた。
この春に初めて椎茸がなり、その美味しさに驚いた。
最近では手頃に買える椎茸は菌床栽培の物で、香りも味も食感も原木栽培の物とは大違いである。
といっても、これまで菌床栽培の椎茸を当たり前に食べていたので、原木栽培の椎茸を食べるまでは分からなかった。
以前から近所の人は竹林などを利用して椎茸を栽培しているのは知っていた。
村の人は山の木を自分で伐ったり、知り合いからもらったりして、原木を買うことはないようだ。
私はチェーンソーをまだ持っていないので、木を伐ることは大ごとになる。
上手く行くかどうか自信は無かったのだが、春先にできて自信をつけた。

この夏は猛暑でしかも雨が降らなかったので、ひょっとして秋には出ないのではないかと心配していた。
涼しくなっても、いっこうに出る気配はなくて、半ば諦めていたのだが、朝方の温度が3℃くらいになるこの時期に出てきた。
そう言えば、春先に出たときも気温が低いのに出てきたので狂って出たのかと思った。
普通は夏を2回経なくては出ないというのに、1回だけで出てくれた。
そしてこの秋は2回の夏を経て本格的に出始めた。

実は自信がないのに、本やネットで調べて栽培し始めたのは、今の学校の冬場の作業で椎茸の菌打ちをやることになったからである。
学校の方では、業者から委託されて、量販店とはやり方の違い、発泡スチロールのふた付きの物や、ペースト状の種菌を注入するやり方だった。
農作業があまりない時に、障害の重い生徒でも作業ができたので助かった。
原木に穴を開けて出た沢山のおが屑は、持って帰って燻製のチップに利用した。
しかし、これは業者の人に遠くから運んでもらわねばならず、春先は農園を優先させた関係で仕上げることができなかった。
この冬の作業としては、この業者の委託は止めることにした。
かわりに、自分自身が栽培することができるようになったので、私が委託することもできるようになった。

この椎茸栽培は菌を打ってからの管理が一番気を遣うところであり、日陰の風通しの良いところで、乾燥させないようにする。
ある程度日数が経ったら、今度は少し陽の当たる風通しの良いところに置く。
大事なのは雨がかからなくてはならないと言うことである。
きちっと水分管理ができる人なら、屋根付きでも良いだろうが、放っておくならそういう場所を選んだ方が良い。
幸いというべきか、あいにくと言うべきか、私の庭は前に家が建っているせいもあって、日陰に不自由しない。
しかも、東側は生け垣にしているので、夏場でも涼しいのが幸いしたようだ。

原木栽培の椎茸は結構高い値段で販売されており、それを味噌汁に入れたり、焼いて醤油で食べられるのは贅沢なことである。
少しはお裾分けはできるのだが、まだまだ数は足りない。
他の農作物よりも喜ばれそうなので、今年の冬にはもう少し数を増やそうと思っている。
いずれはチェーンソーを買って自分で原木を伐ることも考えている。
量販店の原木は600円ほどして高いのだが、業者から安く分けてもらう手もある。
他の農作物とは違って、先行投資の意味合いの強い作物だが、贅沢な気分にさせてくれる魅力のある作物だ。






千種への水汲み2012年秋

千種まで家内と水を汲みに行った。
夏、千種で汲んだ水も少なくなって、家内によるとお茶やコーヒーにしか使わず節約していたという。
農作業などが忙しくてなかなか行けなかったのだが、今日は雨が止みそうな夕方に行くことにした。
この季節としてはかなり強い雨が朝から降り続き、昼過ぎになってやっと小降りになったので出かけることにした。
このところ朝はせわしなく出かけ、帰って来るときは真っ暗なので、家の回りの山の風景が色づいていることに気がつかなかった。
ここはわざわざ紅葉狩りに観光地に行かずとも、紅葉のパノラマが身近に展開している。
犬の散歩で近所の人と出会うときの挨拶などで、「山がきれいね」と言葉を交わしたりする。
そんな紅葉のパノラマは千種の近くまで続く、国道373号線の道沿いにも、楓の赤や、銀杏の黄色が色を添えてくれる。

ところが、千種に近づくにしたがって、山の景色はつまらなくなる。
植林された針葉樹が多くなり、頂上付近とか一部にしか紅葉はなくて、見方によってはまだら禿のようだ。
生活のための針葉樹だから仕方ないのだが、観光に力を入れるなら、もう一度紅葉の山にしたほうが良いように思う。
山の崩壊した和歌山県ではどんぐりを植林していると報道していたので見習って欲しいと思う。
ただ、冬になると雪が積もって真っ白になるので、針葉樹は気にならない。

千種川の水は今朝からの大雨でどす黒く濁っている。
始めは河川工事のせいかと思っていたが、よほど激しく降ったらしい。
その増水した川を今日も緊急河川工事が続き、ダンプが多く行き交っていた。
土曜なのに中学生が丁度クラブの帰りか、自転車で帰宅中であった。
道幅が狭くて、ヘルメットを被った女子中学生の後をダンプがついていくのは、少々可笑しくもあり、危なかっしかった。
いつもは朝に水汲みに出かけるので、交通量は少ないのだが今日は多くて、上郡からずっと前を走るプリウスは結局千種高校の傍まで一緒だった。

水汲み場は誰もいなくてほっとしたとはいえ、夏もそうだったが水汲む人に殆ど会わなくなったのが気になった。
雨が降っていたせいもあるが、何となく不景気で水代も節約しているように思えた。
そう言えば、自分の勤めていいる学校も、ずっと教師がこことは別の処で水を汲んで来ていたのだが、負担が重くてこれからは中止になった。
健康は労力と金銭の負担に大きく関わる。
そして、何よりスキー客も減ったと聞く千種町の収入源も危うく感じてしまう。
水そのものの収入の他、ついでに道の駅なので買い物もするからだ。

家内は携帯を持ってくるのを残念がった。
水汲み場の楓の木が色づいてきれいなのだが、去年は今時分に来て、携帯のカメラに納めて待ち受け画面にしていた。
今回は私も持っていなくて、お地蔵さんの笠にもなっている、きれいな楓は写真に撮ることはできなかった。
赤と緑のコントラストが美しい楓は、雨に濡れていっそう艶やかで美しかった。

水汲んだ帰りには千種の道の駅に寄って、蒟蒻や赤米や山芋の小さいのを買った。
面白かったのは手作りの蜂箱が売ってあったのだ、杉焼きをして飾りにしても良さそうだった。
新米も出ていたが高くて手が出なかった。
今回も白旗城の麓、赤松ではペット用のでかい豚を見かけた。
お婆さんらしき人が傍にすわって眺めていたが、灰色の斑のある豚が2匹もいた。
以前はこの豚を散歩させているのに出くわして、驚いたことがある。
上郡でもペットとして飼っている人のことを聞いたが、どうしても最終的な処分を想像してしまう。

上郡に着いたときには薄暗かったのだが、途中で買い物をしている内に真っ暗になってしまった。
いつもは自宅に帰って直ぐに、家の納戸にしまうのだが今回は明日にすることにした。







2012年11月16日金曜日

東京(葉山・スカイツリー)へのドライブ

11月2日から3日迄、休みが取れたので家内と一緒に私の母親を連れて東京へ自家用車で行った。
この目的は神奈川県の葉山に弟が家を新築していたのに、一度も見に行っていなかったので、年老いた母に見せてやるということ。
そして、弟の健康状態が気になったので、様子を伺いに行くことだった。
自家用車を用いたのは、母が足が悪いと言うこともあるが、安く済ませることであった。
三人で行って、交通費だけでは4万円以内に収まっている。
その代わり、疲れが家内や母親には出てしまった。
名古屋までは既に日帰りで行っていたので、四日市から伊勢湾岸自動車道、東名、新東名などは初めてであった。
途中、休憩や昼食をとって、行きは朝の10時半に出て葉山の弟宅には午後7時頃着いた。
中でも景色が良かったのは、駿河湾沼津SAあたりで、そこは駿河湾を見渡せる絶好の景色、平日であるのにも関わらず混雑していた。
富士山は遠くから雪の積もった白い頭が見えていたのだが、近づくと雲に隠れてしまって麓しか見えなくなっていた。
富士山こそ見えなかったが、夕陽に赤く染まる駿河湾と沼津の町の景色は今でも脳裏に焼き付いている。

葉山では弟夫婦に御用邸近くのマーロンという有名なレストランに連れて行ってもらった。
夜なのですばらしい景色は見えなかったが、太平洋の波の音は瀬戸内海に住む私達には新鮮だった。
この、葉山は多くの人の憧れの地ではあるが、もともと地元の人には住民税が高く、夏は海水浴客で混雑して大変だそうだ。
弟の家は高台にあって、遠くに江ノ島も見えるところにある。
不便な所であるにも関わらず、地価がすごく高いのには驚いた。

別のもっと高級な高台では芸能人も別荘などを持っているようで、弟の嫁はコンビニ働いていて、有名は芸能人が何度か訪れてきたことを話してくれた。
ただ、弟宅の100m程近くで母親が子供を二人も殺害するという事件があったというし、このところ逗子での殺人事件もマスコミでよく取り上げられている。
病める都会の一面も葉山はもっていた。
何より、東名を下りてからの渋滞には閉口した。ただ、関西と違い割り込みが殆ど無く、整然と車が流れていくのには驚いた。

翌日は母の希望であるスカイツリーを見に行った。
5月に仕事で訪れた時には遠くで眺める程度だったが、傍まで行くとその巨大さに圧倒された。
スカイツリーそのものは2時間待ちと言うことで、登れなかったが、隣のビルの31階で東京の景色を眺めながら食事をとった。
私は大学院時代に1年目中野、2年目新宿区西落合、3年目横浜緑区長津田に住んでいた。
大学は東横線沿いにあった。
家庭教師のアルバイトをしていた関係で、このあちらこちらに行く機会が多くて、ある程度の土地勘があるつもりだったが、全く浦島太郎状態であった。
だいたい、新宿の高層ビルの方向でのさえ始めは分からなかった。
巨大な大都会の景色に圧倒された。

弟宅からの帰りは想い出の鎌倉から湘南の海岸線沿いを通って帰った。
学生時代は、当然、車で通ることは殆ど無かった。
江ノ電に乗るのが楽しみであった。
家内にはこの思い出話が過去への執着に感じたようで、後で嫌みを言われた。
ちょうど、湘南マラソンが終わった後で、空いた道路を夕日の中、駆け抜けることができた。
それから先は再び長い長いドライブが始まり、家に着いたのは4日深夜の1時だった。

家内と交替しながら、Stepwgnで往復した1,400km、葉山から東京は弟が運転してくれた。
燃費は12km/lと伸びたし、帰りは深夜割引で通行料も半額になって安く付いた。
この旅行から帰って暫くは、疲れもあったが、カルチャーショック状態だった。

仕事で行ったときは仕事の方に気が向いていたので、それ程感じなかったのだが、自分の生活を再認識する機会ともなった。

あの巨大な東京には、今は住む気になれない。
巨大地震の畏れよりも、異常に増幅した人口都市の不気味さが堪えられないように思えた。
上郡のど田舎で、畑をいじりながら生活している者にとっては、観光する魅力はあっても住む魅力は無い。
転職して東京に暮らすと言うことも考えたことはあったが、今はもういいという感じである。
東京から田舎に戻ったときは、挫折感に苛まれたが、田舎で何とか暮らせる今の方が良かったようにも思えるようになった。

仕事のしすぎで健康に問題を抱えている弟は家を建てたこともあって、二度と赤穂には住むことはないという。
確かに、葉山は魅力的な街だが、老後を過ごすには過酷なところのようにも思えた。
それは、この上郡の田舎の高台に住む老人にも言えることなのだが、車が運転できないと暮らせない。
葉山近辺では、運転できても駐車場がゆったり利用できる店が少ないそうだ。
金さえあれば何とかなりそうだが、無ければ無縁社会の悲劇を招きそうだ。

今回、まさに葉山とスカイツリーは今まで読んだ多くの文献以上に私の思考を変えてくれた。


2012年10月28日日曜日

愛車Vitzとの別れ

別れは突然におとずれた。
何のことはない、たまたまStepwgnのオイル交換に行き、壊れているバンパーや傷のいったヘッドガラスの見積もりを聞いた。
車検を通すには修理に20万円近くかかる、実はVitzもエアコンのコンプレッサーが壊れて修理に10万円かかるというので、替わりの車の購入を考えていた。
前からVitzがミッション車なので、今度もミッション車にしたかった。
今はオートマチックの方がアイドリングストップなどで燃費が良いとされている。
ただ、ミッション車は自分で乗り方を工夫できるので、燃費も良くできるし、走りも面白い。
Vitzが27万kmも乗ることができたのも、1000ccのミッション車だったから燃費が普段でも20km/lとよく、故障も殆ど無かったからだ。
12年前に購入したVitzは当時も人気車だったが、オートマチックが主流でその燃費は15km/lほどだった。

Vitzは家内がMoveで事故をして廃車にしたことをきっかけとして購入した。
事故で軽四の恐さを思い知ったので、せめてリッター車にすることにした。
今回は軽四も考えたが、確かに税金は安いが多くの距離を長く乗るには軽四は適さないことが分かった。
ハイブリッドも確かに燃費は高いが、私のような乗り方をすると充電器を途中で交換しなければならなくなると言われた。
ホンダで勧められたFitはミッション車もまだ普通に出しているので、購入は以前から考えていた。
たまたま、売れ残って工場にあるFitのミッション車が、破格の値段で買えると言うことに心を動かされた。

Vitzは元々家内の買い物用の車であって、私は殆ど乗っていなかった。
7年前に長期研修で上郡から社町まで大学院に通うことになり、燃費の良いVitzに乗ることになった。
往復150kmほどで、ガソリンは満タンにしても一週間持たなかった。
その時に2年間乗り続け、鹿児島に資料収集に行く際も往復1600km以上を乗り切った。
その後はしばらくStepwgnで通勤していたが、4年前に往復80km今の姫路の職場になってからもう一度Vitzが私の通勤車となった。
4年前にも名古屋までVitzで小さな学会にも行き、新名神を乗り切った。
1000ccのVitzの最大の欠点は上り坂の弱さであり、高速道路などではトラックにあおられたりして、嫌な思いをした。
それでも、満タンにすれば上郡から鹿児島まで途中給油せずに行けることは嬉しかった。
確かに渋滞している時はクラッチを踏む左足がだるくなったが、それも慣れると平気になった。
狭い路地でも走行でき、駐車も転回も容易にできた。
姫路バイパスでは婦人用とみなされて、割り込まれやすいのだが、逆に割り込むのも容易である。
エアコンが壊れてから暫く暑い日はバイパスでも窓から手を出して走行したが、心なしか後ろの車は車間距離を取ってくれた。

数々の思い出のあるVitzを手放すのは寂しい。
前にトランクのある古いミゼットを大切に乗っていた人がいたが、クラッシックカーにするほどの値打ちはない。
燃費の悪いStepwgnを廃車にして、Vitzを乗り続けることも考えたが、便利さでStepwgnに軍配が上がった。
飼っていたペットが死んだ時とも少し違うが、昔の人が愛馬を手放す時と同じ気持ちなのかも知れない。
たかが、鉄の塊の機械ではあるが、ハンドルを叩きながらよく頑張ってると夫婦で賞め合ったVitz。
もうすぐお別れである。





 


2012年10月21日日曜日

鳥撫の祭り

私の本籍は未だに鷆和(天和)である。
鷆和は鳥撫と眞木の村を合わせた地名で、親からは家の先祖が名付けたというが真偽の程は分からない。
私は幼稚園に上がる前まではこの鳥撫で育った。
今でこそ近くに三菱の工場などがあるが、以前は地名通り鳥が撫でていくような自然豊かな所であった。
本家は鳥撫なので親に連れられて、盆や正月は必ず来たし、夏休みには独身の叔母や6歳年上の従姉もいたので長い間預けられたりした。
そういう時には海でカブトガニを捕ったり、山で蝉をとったりしてよく遊んだ。
近所の子どもとも仲良しだったが、幼い頃は従姉の関係から女の子と遊ぶことが多かった。
また、鳥撫の子供会の行事にも参加したりしていた。

鳥撫の荒神社の玉垣の一番目立つ所に祖父の名前がある。
祖父は元御影石を運ぶ船乗りで、一匹狼のような人だった。
祖母が信心深い人だったので、神社の方への寄付はちゃんとしていたのかも知れない。
ただ、祭りそのものには伯父や祖父はあまり関係していなかった。
それでも昔は10月25日は祭りと言うことで呼ばれていった。
鳥撫の祭りは赤穂市 の無形民俗文化財にも指定されていて見所が多い。
尾崎の祭りは鼻高や獅子舞は男舞といって雄壮なのだが、鳥撫は曲芸に近い。
獅子が梯子を使ったり、肩の上に立ったりする。
(そのあたりは新聞社などのネットに写真やYouTubeに映像があるので見て貰いたい。)

尾崎の祭りは鼻高にあこがれるが、鳥撫では子どもは唐子にあこがれた。
幼い頃はオタヤンといって、獅子頭をかぶった人の後ろでお多福の面をかぶり女装した人がふざけるのが恐かった。
囃子の音も笛が中心で、哀愁が感じさせられ、一度聴くと耳から離れない。
曲芸有り、道化有りの楽しめる祭りである。
 
 

姫路の祭り

私は中学校・高校と姫路に通っていたが、一度も姫路の祭りを見に行ったことがない。
ただし、たまたま一度だけ姫路城内の屋台の繰り出しに出くわしたことがある。
市内から多くの大人屋台が練りだして壮観な眺めであった。
私らが子どもの頃はどこの地域も平日に秋祭りが行われ、地元の学校や仕事は休みか時間短縮が多かった。
地元から離れていたので、学校は当然休みではない。
それでも、飾磨の生徒は平気で学校を休んだり、早退しているのを見てうらやましく思っていた。
これは今も変わらない。先日の15日の朝も姫路バイパス・姫路東ランプに降りる時は車は全く渋滞しなかった。
地元の生徒も祭りと言うことで休んでいる。灘のケンカ祭りである。
教師も地元の人はしっかり年休を取る。そうしないと地元では白い目で見られるらしい。
飾磨だけではなく、網干の魚吹神社の祭りも同じで、学校や仕事を休むのに躊躇いはないようだ。
多くの地区が休日に祭りをするようになったのに、飾磨と網干は従来の暦通りである。
驚くのは祭りの前日と当日、そして翌日の3日休む人もいることだ。
祭りの翌日は後片付けということらしい。

私は特別支援学校に現在勤めているが、普段あまり音楽が得意ではない生徒も祭り太鼓の囃子を打つのがうまい。
しかも、全部の流れを憶えていて、「よーいやさ」以外の囃子声もちゃんとつける。
小さい頃から聞いたり見たりして身体にしみこんでいるのだろう。
学校の音楽の授業が安っぽく思えたりする。
そういえば、私も赤穂尾崎の祭りの「ドン ドン ドデドン」という単調な拍子は身体にしみこんでいる。
私の父親は赤穂鳥撫出身だったので、太鼓より笛の音をよく口ずさんでいた。
灘は時に死者も出るケンカ祭りだから、若干問題も感じるが、祭りは生きる張り合いにもなる。
寂れた田舎で祭りが廃っていくのを経験するにつれうらやましくなる。
赤穂の尾崎でも大津でも練習の太鼓の音が夜に聞こえ出すと、回りの空気が変わったように思えた。
生活に根ざした祭りとその音色は、どんな芸術的な音楽よりも、心を時めかし時間を超えさせてくれる。



2012年10月7日日曜日

薩摩芋の収穫

少し早いと思ったが、ニンニクを植える場所をつくるために掘ってみた。
今年は雨が少なく、学校の農園の薩摩芋は生育があまり良くなかった。
我が家の赤穂の畑では意外にできが良い。砂地という条件が良かったのかも知れない。
今日掘ったのは、ベニアズマのハイブリッドだと勧められて1本50円もしたものだ。
高価な苗は蔓が伸びた際に切って増やしていった。
結局20本買って3倍近く増やしたので、1本あたりは15円程度にはなった。
今回良くできていたのは、ちゃんとマルチを敷いていた所の物で、かなり大きいのもあり、量も多かった。
ハイブリッドと言うから何と何を掛け合わせたのか聞くべきだったが、まるで、教科書に出てくるキャッサバのような感じだった。

農作業はたいてい家内と一緒にするのだが、芋掘りは私が備中鍬で掘って家内が芋づるの始末をなどをした。
隣接したカボチャを植えていた所は、今年は雨が少なくさっぱりで草まみれになってしまった。
隣の畑のお婆さん達も見物にやってきて、「雨が降らんのに、草だけは ようはえる」と言っていた。全く同感である。
切った蔓で増やすのは、なるべく早い時期にせねばならないが、やはり遅くした所はできが悪かった。
私がよく通った奄美では収穫しながら、芋づるを植えていくことを考えると、その気候の違いがよく分かる。
結局、25株ほど掘って、コンテナ1杯半強になった。
曇り空でそれ程暑くはなく、作業ははかどったが、蚊にはまいった。
そして、何よりも大変だったのは、蟻に脛のあたりを何カ所か咬まれて、痛がゆく腫れ上がったことだ。
生のヨモギを揉んですり込んだが、あまり効き目はなかった。
やはり大事なのは、ちゃんとズボンの裾を締めておくことである。
いちよう靴下の中に入れて、地下足袋を履いたのだが、途中で外れていた。

農作業は収穫が多くあると嬉しいが、家内と一緒にやれるのも嬉しい。
私の父親は自分の思うようにしたい方だったので、母親はあまり手を出さなかった。
それでも私らが小学生の頃は、薩摩芋の収穫には必ず家族に手伝わせた。
以前はモグラや鼠が多くいて、その穴を掘り進んで父親と捕まえたことが懐かしい。
私は農作業は家族でやれるから楽しく感じられ、ずっと続けたいと思うのだ。
私の父親は、薩摩芋には執念とも思えるほどの力が入っていて、色んな品種ににもチャレンジしていた。
収穫した芋は家で殆ど食べるのだが、親戚にも配っていた。
父親は弁当にも薩摩芋を持って行くくらいの芋好きだったが、私は下宿していた時に、家から送ってもらった薩摩芋を冬場の主食にしたことがあった。
アパートのガスストーブの上で、アルミ箔に包んで焼いて食べた。
貧しい学生時代に食べ飽きていたのだが、最近はまた美味しく感じるようになった。
今日の夕食に出された2週間前に試し掘りした芋は、油であげただけのものだったが美味しかった。

九州や奄美沖縄では薩摩芋は主食であったり、加工品であったり日常的なものだ。
こちらでは、おかずの意味もあるが、焼き芋などはおやつに近い。
職場でも芋を掘る話をすると、焼き芋を食べたいと若い女性などは暗に要求するほど人気がある。
私は親兄弟や親戚以外には、あまり収穫物をあげられない。
というのは、やはり売っている野菜と比べられるのが怖いというのがある。
プロの作った品物にはかなわない。見栄えや味が違うからである。
薩摩芋も売っているような形の良い芋はあまりとれない。
薩摩芋はコツさえ知っていれば、手間の少なくて収穫の多い優れた作物だ。
今後は自信を持って、職場や近所に配れるほどの物を作りたいと思っている。

2012年10月6日土曜日

尾崎の祭り

尾崎のトーニン(頭人)ヤイイェー ホイホイー
というかけ声は、尾崎の八幡さん(赤穂八幡神社)の祭りでおどけたヤッコが囃す言葉である。
私は元々は尾崎の生まれではなかったのが、3歳頃に家族で引っ越しをして、祭りを経験してきた。
一番思いで深いのは、近所の家が 頭人があたり、父親がそのヤッコ役をやった時である。
今は、地区自治会で 頭人をつとめているが、当時は個人の家が行っていた。
これは塩田地主の名残で、頭人があたると散財しなくてはならなかった。
おそらく浜子(塩田労働者)のご機嫌をとる目的もあったのだろう。

尾崎でトーニンというと肩車を意味するように、頭人の家の縁者の子どもが稚児となり、ヤッコに肩車される。
私は一番前で鉾を肩にしている人が一番えらい人と思っていたが、どうも露払いの意味らしい。
この行列には親戚縁者が正装して並ぶのだが、そのしんがりに昔の衣装箱を担いだヤッコが数人ふざけて回る。
この役を私の父親はしたのだが、顔はおしろいをして、紅や墨で落書きをしている。
このヤッコは酔ってふざけて盛り上げる役である。
八幡神社からノットと言われる分社まで、獅子舞や御輿、屋台、頭人行列が連なるのである。

普段は無骨な父親だったが、酒を飲むとやたら陽気な一面が出る。
父親がふざけている様子を見るのはどうも恥ずかしかった。
祭りが終わって、出されたサイダーを持ってヤッコの格好そのまま家に戻ってきて、大泣きしたのはまだ幼かった三番目の弟である。
顔を落書きしたままで、おそらく喜ばせようとしたのが、却って恐がらせてしまった。
私はそんなヤッコよりも、幼心に獅子舞の鼻高をやりたかったが、祖母は鼻高をすると運が悪いといつも言っていた。
それでも、男の子は小さい頃は皆、その鼻高の舞の真似をして遊んだ。

祭りはもう一つ幼い頃の思い出がある。
この尾崎の祭りには出店が多く出るのだが、ある年には南京鼠を売っていた。
私はその鼠を買って、チュータと名付けて遊んだ。
その鼠は自分の服の懐の中に入れて、動くのを楽しんだりもした。
祭りの後もあって、食事後、不覚にも私は服のままつい眠ってしまった。
親から「チュータは?」と起こされた時には、無残にも私の身体に押しつぶされた亡骸があった。
「チュータ チュータ チュータが死んでもた!」と泣き叫んだが、まさしく後の祭りである。
その後、ことある毎に親からは、 「チュータが死んでもた!」とからかわれた。
今となっては懐かしい思い出である。










2012年10月1日月曜日

豊かさの正体

久しぶりに月末金曜夜の「朝まで生テレビ」を見た。「原発問題」だった。
そこでは日本の原子力開発の杜撰さや、国策と電力会社の呆れた関係が露呈された。
いずれ、昼間の番組や、色々な報道で一般に知る所となるだろう。
衆議院選挙前で良かった。原発推進を唱える自民党総裁はただの笑いものになるだろう。

日本を「Japan as No1」と時代にもう一度戻すのだと自民党の安倍新総裁は唱えた。
あの時代、アメリカの映画での悪役は日本の強欲な企業だった。
アメリカの金融政策で日本は奈落の底に突き落とされた。
それを小泉首相はもう一度アジアを裏切り、アメリカに媚びることによって回復させた。
しかし、アジアは日本の政治を見透かし、自国の経済発展に利用することに専念していた。

考えてみれば豊臣秀吉が朝鮮に兵を送ってから、中国とは仲の悪いままである。
その仲を間接的に取り持っていたのが琉球王国だったのだが、日清戦争でその琉球王国再建の望みも完全に消し去ってしまった。
それは政治上、軍事上のことで、中国や朝鮮とは民間レベルではずっと関係はそれなりに続いていた。
中国の共産党にしろ、日本の政府にしろ、国民を豊かにするのだと愛国心を煽る。
一部の企業はそれに連なり、その恩恵は多くの国民に配分されるだろう。
しかし、それにはリスクを伴っていることも知らすべきである。
戦前に多くの命が戦争で奪われたが、現代ではその経済政策のために多くの人が職を失い、自殺したり生活保護を受けることになった。

国民国家とは、本質的にそういうリスクを伴うものだということを、私は認識してこなかった。
このところオルランド・パターソン著『世界の奴隷制の歴史』 明石書店(2001年)を読み続けているのだが、「奴隷は解放されて市民になった」という引用はどきっとさせられた。
封建社会の農奴から解放されて市民となった日本人は、市民の真の意味を知ろうとしなかった。
家や親族を解体させ、福祉を国家から保証される代わりにいざというときには戦うか、さもなくば国家の政策の意のまま生活するのである。
生殺与奪の権を握られているのは、昔も今の同じなのである。
本来は平和憲法自体が独立した国民国家としては矛盾しているのだが、アメリカとアジアへの偽装工作のために維持してきた。

原発のパンドラの箱が開き、 今度は、国民国家のパンドラの箱が開こうとしている。
マスコミや教育が愛国心を唱えるのは良いが、これまで日本の近代化の真の歴史と、国民国家の真の意味もちゃんと納得させて欲しい。
テレビの解説での尖閣列島問題では、琉球王国の滅亡の歴史は隠蔽されたままだ。
これを言い出すと本当にパンドラの箱が開いてしまうが、最低、北方領土も尖閣列島も根本的には戦争によって帰属が決まったことは同じと考えに行き着くべきだろう。
100年に一度の大恐慌の後に、過去と同じ世界大戦が起こらないように、国民国家の存在そのものを問い直す必要を感じた。
そして、我々の豊かさの正体はあまりにもリスクが大きいことも考えざるを得なかった。










2012年9月29日土曜日

まわしに寄せる涙

突然、高等部の3年生のこの時期にMくんが転校することになった。
昨日は9月最後の登校の日であった。
そのMくんの担任の先生が寄せ書用に掛け軸ほどの分厚い布を用意してくれた。
特別支援学校なので、学年の生徒数も多くなく、皆がそれに思い思いの言葉を連ねた。
私も彼には思い出がある。1年生の秋の宿泊学習で、彼は眠れず夜中に歌を歌い続けたからだ。
「海は広いな 大きいな」、何故か秋の高原の宿舎で彼は歌い続けた。
ところが、次の年の宿泊学習は夏に島の宿舎に泊まったが、何も歌わず静かに眠った。
私は彼の「海は広いな 大きいな」の歌がずっと、耳から離れず残っている。

いざ、お別れという時間になって、私の担任している生徒が泣きじゃくった。
彼は中学部から彼と一緒だったのだ。
普段はそれ程関わりがあったわけではないのに、Mくんの去って誰もいなくなった教室に行ってまで泣いた。
友達の転校でこれほど悲しむのだから、卒業式はどうなるのだろうかと心配にもなった。
私たち教師は長年この仕事をやっていると、出会いと別れの繰り返しになってしまうので、こういう感情に無感覚になるのかも知れない。

Mくんのために書かれた寄せ書きは、実は相撲用のまわしの生地を切ったものにされたものだった。
たまたまMくんの担任の先生の実家が、その生地を扱う使う仕事をしていたのだ。
それを聞いた時に私は複雑な気持ちになった。
私は以前、奄美の十五夜で相撲を取った時にまわしを締めたので、股に食い込むまわしのイメージが強いからだ。
相撲に全く縁のない人には、まわしの生地に抵抗はないだろうが、それが壁にぶら下がっていると考えると・・・
まさか、掛け軸に似ているからといって床の間には掛けないだろうが・・・
因みに、私は若い頃痔の手術で一ヶ月入院したのだが、その退院の際に入院している仲間から寄せ書きをした新品のT字帯をもらった(それがこの病院の慣例だった)。
その寄せ書きは戒めを込めて大切に置いているが、引き出しの中にしまったままである。
そのことも複雑な気持ちにさせた。

個人的には複雑な気持ちを覚えるにしろ、手作りの気持ちを大切にしなくてはいけないと自分に言い聞かせている。
それが、この学校の素朴で良いところなのだと。


下駄に釘

やはり下駄には最後は釘を打ってしまう。
正確には、ねじ釘を上から通して、スパイクにしたのである。
下駄を履いて、犬の散歩をこの夏はずっとしていたが、ついに板状になってしまった。
名古屋の郊外にあった大学の学生の頃は、夏場にはずっとはき続けていて、同級生からそれは「下駄ではなく、板だがね」と言われて笑われた。
その頃は下駄も容易く手に入り、そう無理してはき続ける必要はなかったのだが、履くと愛着が湧く。
それは今も同じなのだが、今はちゃんと歯の着いた下駄はあまり見かけなくなった。
実は今履いている下駄は、リサイクルショップで売っていた旅館の杉板の下駄で500円だった。
鼻緒がきつくて暫くはいていなかったのだが、今年は鼻緒がなじむまで 我慢してはいた。
以前は900円ほどの靴底型の桐下駄だったので、禿びるのを惜しんで下からねじ釘を打った。
その時、だんだん釘先が出て痛かったので、今度は上からにした。
スパイクになった下駄はアスファルトの道では、村中に響く音を出す。
近所の座敷犬はその音が嫌らしく、音がすると中から吠える。
暫く見なかったゴンちゃんというミニチュアダックスフンドも、吠えられてまだ生きていることが分かって安心した。

散歩には下駄が一番良いが、雪駄や沖縄のシマ草履もよく使っている。
雪駄や草履は雨や夜露に弱く、足が汚れる弱点がある。
その雪駄には思い出がある。東京の大学院に在籍していた頃よくはいてたからである。
さすがに山手線は下駄では通学しづらかったので、底裏が自転車タイヤの職人用の雪駄などをはいた。
ある日、研究室の教授のお供で渋谷で飲んでいて、私は酔った勢いで生意気な口をきいてしまった。
怒った教授は「おまえはKさん(大学の恩師)に頼まれたから、修士だけのつもりでとってやったのだ」と本音を言われてしまった。
さすがに厚顔無知な私も衝撃を受けて、 しょぼくれて帰る渋谷駅の階段で躓いて生爪をはがしてしまった。
翌日、あまりに痛いので、下宿近くの医院に行くと、治りが早いからとそのとれかかった生爪を抜かれてしまった。
因みに、爪は見えない部分が見える部分と同じほどあった。
這うように下宿に戻り、その痛みの地獄はそれから暫く続いた。

結局、先輩から励まされたが、力不足で教授の意志を覆すだけの論文も書けずに、博士への進学を諦め修士で大学院を去ることになった。
雪駄にはその辛くて痛い思い出がつきまとい、タイヤ底の職人用の雪駄は爾来履いていない。

今日も中秋の名月まで二日の夕方の月を眺めながら、犬の散歩に出かけた。
彼岸花は今年は咲くのが遅くて、今が満開である。
空には綺麗なお月様、道端には真っ赤な彼岸花と、田舎のたんぼ道は風情に溢れている。
その風情を打ち破る、下駄の金属音。
無粋だと思いながら、せめて裸足でいられる間は持ちこたえて欲しいと思うのである。
下駄に釘を打つと、底は減らなくなるが、板が割れてしまう。
それでも大切に使うのは、お金をけちっているからではなく、本当は新しい鼻緒で痛い思いをするのが嫌だからである。




2012年9月23日日曜日

秋はやはり自転車

やっと念願の新しい自転車用ヘルメットを買った。
これまではサイズが小さくあご紐が窮屈だった。しかも、20年以上前の製品であった(マニュアル本によると耐用年数は2年)。
さっそく長年乗っているBriddgestoneのRadacで出かけた。
この自転車は27年ほど前に通勤と趣味用に買ったロードバイクで、七段変速でストレートハンドルにバーエンドバーを付けた。
タイヤやチェーン、サドルを交換しながら、思い出したように乗り続けている。
特に去年の秋に糖尿病で教育入院して以来乗る機会が増えたが、真冬や夏の盛りにはさすがに乗れなかった。

今日は千種川に沿って海まで下り戻ってきた。
最初、国道二号線を横切るのに、橋の下をくぐったのだが、段差の衝撃で後ろのタイヤが外れてロックしてしまったが、転倒は逃れた。
冷や汗ものだったが、しっかりと固定させて、その後はトラブルがなかった。
有年中学校の側を通って、国道373号線沿いに周世まで下り、周世から坂越までは山際の細い道をとおった。
この山際の道は滅多に車が通らず、高野あたりの河川敷は広い草原になっていて、つながれた馬が1頭のんびり草を食べている。
いつもは少年サッカーなどが行われているが、小学校の運動会があちこちで行われているせいか、今日は誰もいなかった。

坂越からは一端、川縁の舗装した護岸を走って、尾崎トンネルからは昔からの川沿いの道を通り、新赤穂大橋まで行き、赤穂高校の前を通って、唐船まで行った。
この唐船は兵庫県で一番低い山として知られるようになったが、唐の船が難破して埋まったと言い、山の道を歩く時にドンドンという音がしたので、ドンドン山とも言った。
子どもの頃から潮干狩りや海水浴でよく来たが、実家がこの近くにあったので散歩コースでもあった。
今年は去年の台風の影響で砂地に泥が積もり、海水浴は禁止になっていた。
そこにあるトイレで用を済まして、鏡を見ると驚いた。
ヘルメットに値札が付いたままである。
6、980円の値札を頭の上に付けたまま、国道を走ってきたのである。恥ずかしくて急いで剥がしたが後の祭りであった。

10時頃出て11時半近くに唐船につき、再び川沿いの道を通って上郡に戻る。
唐船を出た頃から雨が少し降ってきた。
行きは主に左岸を通ったが、帰りは主に右岸を通る。
右岸は河原に新赤穂大橋から坂越まで遊歩道があり、 その道を飛ばしていく。
去年入院していた頃はよくこの道を自転車で走ったのだが、台風の影響で土砂や草木が積もったところが何カ所からあったのが、綺麗に掃除されていた。
この道は車も通らないので、歌を歌いながら気楽に走れる。
昼前なので誰もいないのが、気楽なのだが少し寂しい。

坂越から高雄まで、来た時と反対の右岸の川縁の舗装した護岸を走り、高雄から中山までは田んぼの中の農道を走った。
高雄あたりまで来ると、雲はなくなり良い天気である。
同じ 赤穂市でも天候は結構違う。
稲もだいぶ色づいて、もう少しすれば稲刈りである。
中山にある堰から水が農道沿いの水路を勢いよく流れていた。

中山からは行きと同じ道を通って家まで帰ったのだが、家近くはだらだらと長い坂になり、心なしか一番の難所となった。
家に着いたのは12時20分で約2時間半の旅である。
距離は往復60km位あっただろうか、平均時速25km程度である。
エアロバイクでは20km/hで30分こぐと、汗まみれで嫌になるが、自転車だと風を受けて快適に2時間以上こぎ続けることができる。
ただし、ちゃんとそれようの服装をしてお尻を守っていた。
それでも手は素手で、時々しびれたし、靴は「寅さん」作業靴でペダルに食い込み痛かった。
まだ、自転車用の手袋や靴を買うところまではきていない。
水分補給もジョギング用のウェストポーチにペットボトルをつけて走った。当然、走りながらは飲めない。

自転車はまだまだ素人の域は出ないが、以前のようにお尻が痛くてたまらない状態にはならなくなった。
エアロバイクでトレーニングしているお陰で、坂道にも強くなった。
上郡の温水プールが閉館しているので、これからは自転車でのトレーニングは増えると思う。
エアロバイクは雨の日だけにする。車のあまり通らない遊歩道、護岸、農道を走るのは何よりも楽しい。
今度は千種川の上流に向かっていきたいと思っている。
レースにも出ている知人は、ふらっとスキー場あたりまで出かけていた。
何よりも職場のある光都という山の上まで、自転車で通ったりしていたのだが、彼は車並みの費用を自転車に注ぎ込んでいた。
私は6、980円のヘルメットを買って喜べるほどのド素人だが、それはそれなりに楽しんでいる。
今度の職場は是非、自転車で通えるほどの近くであって欲しいとさえ思う。
そういえば、私の父親は私が小学生の頃、尾崎の自宅から相生の造船所まで自転車で通勤したりしていた。
私もそれを見習いたいと思う。

2012年9月14日金曜日

屋根のあるオープンカー

職場からの帰りだった。パンクかと思えるほどの音がした後、アルコール臭が漂った。
車を路肩に止めて、タイヤを確認したが何ともない。
不安を感じつつ車を動かしたが、エアコンが全く効かなくなっているので、了解した。
エアコン系統にトラブルがあったのだ。この夏の暑さで車もダメージを受けていたようだ。
この車はVitz(1000ccMT)、購入してから12年目である。走行距離も優に25、000kmを超えている。
もともとは家内が乗るために購入したのだが、長期研修中や今の職場に換わってからは私が乗っていた。
なにせ、マニュアル車のため20km/lという優れた燃費を持ち、スピードも坂道以外はそこそこでたからである。

私は通学や通勤以外に、鹿児島や名古屋までこの車で出かけた。
山陽自動車道の坂道でトラックに煽られたり、新名神の高い橋の上の横風にハンドルを取られたりして怖い目にあったが、事故は全くなかった。
パンク以外に故障らしいものはなく、ここまで来たのだが、ついに年貢の納め時となった。
コンプレッサーが壊れており、修理するには10万円はかかる。
エンジンの振動も大きくなっており、これからトラブルが出てくる可能性もあるので、修理するメリットはない。
それでも緊急に買い換える必要な無いので、次の車を買うまで乗り続けることにした。

朝は幾分涼しくなったが、渋滞したトンネルで窓を開けていると排気ガスが充満する。
まだ、30℃を超える夕方に運転するのは辛くて、冷却スプレーを頻繁に服の上からかける。
窓から手を出して、外の風を中に引き込んで走るのだが、高速でも気にならなくなった。
たぶん、女性がよく乗るVitzの窓から、黒くて太い腕が出ていると異様に思うだろう。
心なしか後ろの車は車間距離をあけてくれているように思う。
全く関係なく後ろに迫ってくるのは、やはりトラックである。
もうひとつの利点は、信号のない交差点で進入しやすくなったことである。

まだ雨を経験していないが、窓を開け放った運転にも慣れてきた。
聞けば同じ職場の人も同じように車のエアコンが壊れているという。
考えてみれば免許を取って間もない頃の車には、エアコンが付いてなかったのも多かった。
中古で買った車もエアコンのガス漏れで使えなくなった。
当時は窓を開けて運転している人も多かったので、たいして気にならなかった。
ところが、今車の窓を開けて運転しているのは、軽トラくらいである。
たまに、少しだけ窓を開けて運転している普通車も見かけるが、私のように4つの窓を開けている車はいない。

オープンカーは屋根がないから格好良いのだが、屋根のあるオープンカーは様にならない。
それでもけなげに走ってくれるVitzを、直ぐに別の車に買い換える気にはなかなかなれない。
ネットで色々物色しているが、燃費が良くてマニュアル車で、信頼できる車はなかなか見つからない。
軽四も考えたが、職場の人が10万キロでエンジンに問題が起こったことを聞くと、高速で通勤するには不安がある。
そのうち涼しくなって、窓を閉めて走られるようになるだろう。
冬場は服を着込めば寒さもしのげる。
ひょっとして来年の夏まで乗り続けることになるかも知れない。
さすがに、真夏にエアコン無しで通う気力はない。
窓を開けて走れば景色も違って見えるし、燃費も良くなった。
そう言う意味で屋根のあるオープンカーも悪くはないと、愛車のハンドルを叩いてねぎらっている。

2012年9月10日月曜日

広島県西条・呉めぐり

荷物を持って帰る娘を下宿に送るついでに、家内とドライブすることにした。
娘の通う大学は西条という盆地の農村地帯の丘陵に築かれた学園都市の中にあった。
JRの駅から遠くて、娘はバスと電車を乗り継いで帰省するのであるが、経費節減で大抵は鈍行で時間を掛けて帰ってきていた。
車では山陽自動車道を用いると二時間ほどであり、家からの距離は200kmほどで京都へ行くのと変わりはないのだが、ずいぶん遠くへ行くような感覚である。
それは文化圏の違いもあるが、JRで京都に行くには新快速などを使えば早く着けるからである。
山陽自動車道は山の中を通り、景色も単調でトンネルがやたら多い。
京都へ行く時は、いろんな都市風景が展開されるのとは大違いである。
ただ、渋滞はあまりないし、途中で立ち寄る福山のサービスエリアには美味しい海産物の土産が売っている。


実は娘のアパートは家内の親戚筋にあたり、専業農家をする傍らでアパート経営もしている。
先日娘が、その大家さんが栽培しているアスパラを手土産に貰って帰ってきたので、こちらもお菓子を持って挨拶に行くのも目的であった。
西条は駅付近より郊外に大店舗が林立して、このあたりの商業の中心地になっている。
家内の親戚は大崎島の上島と下島にいるのだが、わざわざ買い物に来るようで、その際に娘もずいぶんお世話になっている。
ちょうど昼時になったので、その郊外にあるラーメン屋でつけ麺を親子で食べたが、私の注文した山椒入りのつけ麺はやたら濃くて口合わなかった。

娘をアパートに送り、大家さんにも挨拶を済まして帰るのだが、帰りは前回は一般道を通った。
今回も一般道で帰るつもりだったが、以前に同僚から「呉はなかなか良いよ」と聞いていたので、そちらに回ってから帰ることにした。
田園と山の中の道は狭く、景色も単調だったが、既に稲刈りが済んだ所や、突如と現れた大学の見事さに驚いた。
ずいぶん走ってやっと海が見えた時は嬉しかった。
呉という名前は自分の親が船乗りをし、その後造船所に勤めていたのでよくその名前を聞かされた。
今回は映画の舞台になった所はあえて行かずに、海岸の景色を楽しむことにした。
というのも、場合によっては大崎島に行っても良いと思っていたからだ。

狭くて曲がりくねった海岸の道は、思ったほどの起伏もなく、自転車で走ったら気持ちよさそうであった。
ただ、赤穂の御崎からたつの市の御津にかけての風光明媚な景色と比べて、造船所などの工業地帯が多いのが気になった。
それでも、島に囲まれて景色もよくて、天然の良港の意味がよく分かった。
以前に牛窓というこれも天然の良港は島に囲まれて、風に強いということを聞いていたので、まさしく、呉はそれにもまして天然の良港であることが分かった。

土地勘が無く、ナビに頼っているうちに、大崎島に渡る橋を通り過ぎてしまっていた。
家内は結婚する前までは、よく両親らと里帰りをしていたようだし、幼い頃には夏休みに過ごした経験もあった。
車で来るには下島は橋があるが、上島はフェリーで行かねばならず、法事や墓参りは家内の両親が行き、家内は行っていない。
おじいさん、おばあさんの墓参りをしなくては、罰が当たるぞ私は嫌みを言うのだが、家内は今回も行こうとしなかった。
家内の両親と 一緒でないと行きづらいのも確かである。
いずれ、両親が自力で行けなくなったら、必然と来なくてはならなくなると思う。

竹原まで海沿いの道を堪能して、道の駅で休憩を取ったり、土産を買った。
竹細工が有名だが、 10万円もする竹細工のバッグには驚いたが、すごく良くて欲しいと思った。
今自分が愛用している職人籠とは大違いである。
家内の母が島の土産によく買って帰ってきた硬い木綿豆腐を思い出して買った。
当然、名産の酒も忘れなかった。
三原からは前回通った道と同じになった。
前回は三原までは山の中の国道2号を通ったが、三原からは海沿いになる。
前回福山で渋滞にあったが、今回は倉敷から岡山にかけて渋滞にあってしまい、結局1時頃西条を出て、戻ったのは7時を過ぎていた。

行きの二時間のドライブの3倍もの時間を帰りに掛けたのだが、断然帰りの方が良かった。
確かに長時間同じ姿勢で運転して腰が痛くなったりしたが、家内と運転を交替しながら、そう疲れは感じなかった。
何よりも、自然の風景だけでなく、町の様子が分かるのが良い。
兵庫県では造船所は後退するばかりだが、何とか生き残っている広島県。
突如現れた山間の町に、何の産業があってこれほど人が多く住んでいるのだろうかと思ったりもする。
そして、やはり目立つのは道路沿いの潰れた店である。
バブルの頃は流行ったのであろう店が、幹線道路沿いに取り残されている。
これからは南海トラフ地震の津波にも警戒しなくてはならない海沿いだが、このあたりは外海から遠いのでそう不安は無いだろうとも思った。

幼い頃はおそらく船でやってきた呉に、大人になって初めて訪れた。
20年ほど前大崎島で葬式があった時に乗ったフェリー乗り場も久しぶりに見た。
娘も来年で大学を卒業するので、その後は滅多に来ることはないだろうが、京都と同じ距離だと思えばもっと来ても良い。
東への近い距離感を、西にも持てればもっとなじみ深いとことになるだろう。
大崎島は私にとっては奄美大島より遠い島でもあった。














2012年9月3日月曜日

文明災害としての地震

東京に住んでいる時に、関西から来た私にとって、日常的に揺れる地震は始めは脅威だった。
初めて味わった震度4で、下宿の部屋で大騒ぎしている様子を下宿のおばさんに笑われた。
それも、何度もその程度の地震を経験するにしたがって慣れてしまった。
そのおばさんの言った言葉で思い出すのは、関東大震災の年は夏が非常に暑かったということである。
このごろ、毎年のように暑いのでその言葉を忘れていたが、東北の震災の前の年も夏が異常に暑かったように思う。
今年の夏も異常に暑いのだが、奇しくも南海トラフ地震の被害予想が報道された。
死者予想最大32万人、比較するのには不適切かも知れないが、広島の原爆死者が9~12万人と言うから、それの3倍以上である。
これはあくまで予想であるので、警鐘として受け止め対策を講じる材料なのだが、被害が予想されない地域の住民も含んで、真剣に考えるべき事だと思う。

1000年に1回とか、100年に1回とかという周期的な被害であるにしても、日本は地震や津波から逃れられない国土である以上、それに備えた都市文明を築くべきであった。
しかし、現実は東京や横浜ではウォーターフロントとして、副都心になっているし、私が住んでいた赤穂でも、塩田跡が住宅地や工場地になっている。
それらは本当のリスクを真剣に考えて建設したのではあるまい。弟は赤穂の御崎港の直ぐ傍に新宅を設けたが、津波のことなど考えていなかったようだ。
考えてみれば都市というのは、洪水災害の多い沖積平野や盆地に築かれており、リスクよりも立地条件の良さが優先された。
そもそも風水思想は地震を想定などしていなかっただろうし、日本の様な急流の川に適用するには無理がある。
日本における都市そのものが大きなリスクを背負ったまま発展してきていると言える。

ただ、阪神大震災とその後に起こった鳥取での地震を比較すると、家屋の造りに大きな差があり、それは淡路と神戸の被害の違いでもあった。
残念ながら、我が家は阪神大震災以前に建てられた物で、建築基準の甘い頃の二階建てである。
二階建て家屋そのものは、台風への備えはできていても、地震への備えは当時はできていなかった。
今に後悔しても、やっとローンが終わりかけて喜んでおり、新しく建て直すことは無理である。
気休めなのは柱がやたらと多く、居間にはハッチが天井を支えていることだ。

昔、田中角栄が日本列島改造計画というのを出して、地方の発展を図ったが、それと同じように、災害に強い都市に改造する大変革を起こすべきだと思う。
家屋に関しては補助金を出して、耐震工事を古い民家もできるようにし、津波のための大堤防を張り巡らすしかないだろう。
そして、リスク分散のための地方都市への機能移転開発も同時に行うべきだと思う。
地震や津波にこれから先も付き合っていく覚悟が求められているのだと思う。

迷信と笑われても仕方がないが、非常に暑かった夏、前にも書いたが、鳥や蛇があまりいなかった春から初夏、不安である。
地震研究者も虫の知らせで、研究報告をしているのかと思ってしまう。
杞憂にしても、備えることに無駄はないだろう。





2012年8月30日木曜日

ほろ酔いの研修

私の若かりし頃いた大学院での月に一度の金曜夜の研究会は、毎回ビールとつまみが出された。
徒弟制的なところも残っていた頃で、修士は馬の糞と言われ、一年目はそのビールとつまみを、参加料の300円集めて買い出しに行くのが仕事だった。
一人が研究発表を行い、それについて討論する形式なのだが、ビールで酔いの回って頭が明晰になり、口も軽くなり非常に厳しいご意見を頂戴することが多かった。
人格をも否定されるかと思われる議論に、酔いも覚めて顔面蒼白になる場面も多々あった。
しかも、二次会が中華料理屋と決まっていて、そこで教官も加わって議論などが続けられ、場合には下宿に押しかけ徹夜で語り明かしたりもした。
今思えば、それが非常に役に立っているように思える。

今の職場では夏休みに研修と称して、何度も研究発表や講演が行われるが、質問もあまりない。
自宅研修が管理職の指導で不可能になった状態で、学校で時間を潰しているというのが現状である。
冷房の効いた職員室は満杯で騒々しく、準備室もなく、教室は暑い中、そこで仕事をすることもできず、年休を取って自宅で本を読む方がましである。
中にはためになるのもあるが、多くは形だけの研修がいくつか設けられ、夏休みは終わる。

思い起こせば、教師成り立ての若い頃 で一番の研修は、飲み会だったように思う。
大学院でもビールの力を借りて議論をぶつけ合ったように、酒の力を借りて、本音で教育を語り合ったようにも思う。
今の職場は臨時の講師の方や、主婦の方が多くて、飲む機会があっても半分も参加できない。
昼食会は毎月のように行われるが、当たり障りのない会話で終わる。
今の職場のように交通機関の不便な所では、酒の力を借りずに本音で議論し会える姿勢を本来は身につけなくてはいけないのだろうが、私たちの世代は難しい。
若い人達と私たちの世代との関係も、そういうことで稀薄になっているようにも感じてしまう。
新聞のCMのように、「発言のない人は会議に参加しないのと同じと」みなされる雰囲気が、いずれ今の職場にももたらされて、活気のある会議や研修会になる日がくるかもしれない。

ただ、その頃酒で育ったおじさん達は、退職しているだろうね・・・

2012年8月29日水曜日

雨を見たかい

私たちの世代ではHave you ever seen the rain I want to knowというCCRの曲を曲全体の内容とは関係なく口ずさみたくなる。今日の夕方のにわか雨だった。
ちょうど、下駄を履いて犬の散歩をしていた黄昏時で、南の方の山がかすんできたなと思ったら、降り出してきた。
肌に心地よい雨が自然のミスト冷風機のように注いでくれた。下駄の乾いた音は、柔らかいしめった音に変わり、喜んで出てきたおばさんと挨拶した。

「やっとやね」「ほんまやね」

雨がこれほど待たれたことはないだろう。しかし、それはつかの間のことだった。

先日の日曜日の午前は赤穂の畑に行き、生い茂った草を草刈り機で刈ったり、水をやったり、薩摩芋を初収穫した。
ひょっとして一昨年の二の舞になって、芋ができていないのではないかと心配したが、早く植えた方の紅東のハイブリッドという新品種は、そこそこ大きいのができていた。
その後植えた鳴門金時は葉っぱのしげりは良いのだけれど、このところ雨が降っていなかったので、どうなるか心配ではある。
井戸の水をポンプでくみ上げて芋にかけてやったいたら、井戸の底が見えてきて、以前息子が誤って沈めた水汲み用の鍋が現れた。
その中には大きな鮒が入っていた。 そして、泥の詰まった鍋を引き上げた。

先日来、アメリカでの旱魃が報道されているが、近所の人によると、「きぬひかり」はやはり調子が悪いそうだ。
「ひのひかり」は暑さにも強いそうだが、美味しいとされるキヌヒカリはできが悪いかも知れない。
もう少ししたら池の水を落とすと言うが、池の水は落としたから空になってしまうと言うことではないようで、水の勢いはもう少し出てくるという。
おそらく、米の実りとの関係で落とすタイミングが難しいのだろう。
畑のある人は夕方は水やりで忙しい。今日のように雨が降りそうでも、量が期待できないと水をやる。

CCRは雨を人生にたとえたのだろうが、今の世界は雨が命そのものになってきた。
ある所ではとてつもない雨で、ある所では旱魃で生活基盤が損なわれる。
欲望の果ての結末と言ってしまえばそれまでなのだが、病気で入院しないと健康の大切さが分からないように、きっとこの異常気象で気付くだろう。
今日のニュースは、九州で熊が絶滅したり、カワウソが絶滅と断定されたことが報道された。
その一方で、震災での被害よる仮設校舎で室温が38℃にもなり、エアコンが欲しいという報道もあった。
この日照りで我田引水という言葉をの意味を身をもって感じたが、地球における我田引水で弱者が苦しんでいくことを感じつつ、無力感に苛まれる。
それでも、止まない雨が無いように、日照りはいつか雨になると信じたい。
Have you ever seen the rain I want to know
雨とは苦難ではなくて、まさしく希望である。





2012年8月25日土曜日

やはり酷暑は水泳でした

恥ずかしい話なのであるが、以前に「酷暑は自転車」とブログに書きながら、実際は室内でエアロバイクは漕ぎながら、殆ど外では自転車に乗らなかった。
やはり、自転車はそれなりの格好をしなくてはならないのは面倒で、暑苦しかったからである。
おまけにもっと恥ずかしいのは、エアロバイクはエアコンを効かせて、扇風機の風に当たりながら漕いでいた。
自分の健康には良いのであるが、エコなライフスタイルには反することである。
お陰で毎回消費カロリーが600kcal以上ということで、体重の増加は抑えられた。

実は、このところよくしているのが水泳である。
相生市の温水プールが二週間2000円でプールやトレーニングジムを使い放題にしてくれたからである。
これは8月だけの入会者の勧誘キャンペーンで、もし入会すれば2000円は入会金に充当される。
ちょうど通勤の途中にあるので、入会しても良いかなとは思うが、毎月5000円以上の出費は痛い。
それでも姫路などに比べれれば安いのであるが、週に一度か二度くらいしか行けそうにないので、回数券と変わりない。

今日も午後から家でテレビを見るより泳ごうと思って出かけた。
駐車場は満杯で車を留めるのも苦労するくらいであり、利用者も多かった。
スイミング練習も夏休みが終わって、3時20分より一般は3コースのみとなるので、それまでにバタフライなどを練習しておこうと思った。
入ったコースは経験者だと直ぐ分かる中年男性が泳いでおり、SKPS800mのアップの時に既に、抜いて貰うのに苦労した。
幸い隣のコースがあいたので、移らして貰い並んで泳ぐ形になったが、断然隣の方が速く、余裕で背泳を行って負かされてしまう。
水泳は個人競技だが、練習は団体でする。クラブ以外でも同じコースや隣のコースの人をどう自分に練習と絡めていくかが大切である。
以前は相手のスピードに引きづられてハイペースになって、ダウンしたりしてきた。
今回は格が違うので張り合うこともなかった。
ただ、隣の人はバタフライはしなかったので、50mのバタフライを連続2本して面目は保った。
この人は実はここのコーチらしく、上がった後でコーチ室で体をぬぐっているのがプールの中から見えた。
ありがたいことに、このプールはスイミングのコーチが練習相手になってくれる。

3コースにコースが減らされて、暫くコースの中は一人で練習していた。
隣のコースでは若い女性や女の子が一生懸命クロールなどの練習をしている。
少しでも経験有ると、そういう人から羨望のまなざしで見られるのが正直嬉しい。
クイックターンや四種目をこなせるのが少しは自慢になる。
そのうち、やはり経験者が同じコースに入ってきた。
今回のキャンペーンで何度か見かけた人で、キャップにAIOIと書いてあるので、ここのマスターズ選手のメンバーだろうと思った。
平泳ぎが専門のようで、50mを42秒ほどで泳いでくるすごい選手である。
ただ、泳ぐ量は少なくて、2分か3分サークルで、一本ずつしっかり泳いでいる。
私が200mの個人メドレーをしたのがきっかけで、話をすることになった。

マスターズのレースには私も以前は出ていた関係で、共通の知り合いもいて話があった。
奈良から仕事の関係でこちらに来たようで、「奈良にはまだ屋内50mプールがなかったね?」と聞くと、「そうです」と答えられた。
近畿地方では私が水泳部の顧問をしていた時には、屋外の50mプールが有ったのは兵庫、大阪、京都だけで、それ以外の近畿大会は屋外で苦労する。
一度だけ滋賀の大会で私も引率したが、屋外での暑さにはまいった。

こうやって泳ぎを通じて話ができるのも、水泳の楽しみでもある。
初心者の方も顔なじみができるようで、泳ぐより話している時間の方が長かったりする。
少し経験のあるおじさんは、若い男性より速く泳げれば嬉しいし、若い女性には格好良いところを見て貰えれば尚嬉しい。
時にマナー違反の人もいるけれども、それはそれで対処できる。
やはり、酷暑の夏はプールに限ると3000m泳いだ後で思った。
自転車は涼しくなってから始めよう・・・



2012年8月19日日曜日

夏の夜空

夜二階の部屋からテラスに出て見ると、月が無くて星が輝いている。
上郡には地上から星の輝きを妨げるものが殆ど無いので、星が綺麗に見える。
やっと、夜には涼しくなって、いつのまにか鳴きだした蟋蟀の声を聞きながら、星を眺める気になった。
目が慣れてくると、天の川がまるで雲のように連なっているのが分かる。
北の方は少し雲があって、澄み渡っているというわけではないが、気分を和ませるには充分である。

うちの家の周りで一番明るいのは、県道にあるコンビニの看板である。
街灯はあるにはあるが、稲に虫が寄ってくると言って極力減らされている。
夜にお客さんが初めて来る時には、大きな道まで出て、待って案内してあげないと、家には来られない。
娘が中学生の頃に、自転車で通っていて、暗くて田んぼに落ちたことがある。
こんなに暗くても、夜に痴漢が出たという話は聞いたことがない。
そういえば、京都の郊外に住む姪が先日、塾帰りに痴漢に抱きつかれて、大声を上げて助けて貰ったという。
ここいらでは、歩くには懐中電灯がいるくらいなので、遠くからでは男か女か分からない。
駅から遠いので歩いて通う人もいない。
むしろ、人通りの少ない日中の方が、 変質者がたまに出る。
以前は暴走族らしき若者が、たまに田んぼの中を走って爆音を上げていたが、誰も見てくれないのでやめたようだ。

これほど星が綺麗で、外が涼しくても、たいてい家の二階では窓を閉めて、クーラーをかけている。
私も 30℃を超えた夜はクーラーを夜にもつけた。
今は28℃なのでつけずに窓を開けている。
いつまでも暑いので、夜に仕事して昼に寝たい気分である。
そういえば、砂漠の民は昼間じっとして、夜に旅をしたというが、それに倣う方が良いと思える。
先日のロンドンオリンピックで、イギリスが夏でもいかに涼しいかを知ったはずだ。
その、イギリスと同じ様な服装をして、同じ様な生活をすることこそ非合理的で馬鹿げていることを、いい加減気がついても良さそうなものなのだ。
炎天下に行う高校野球は、部活動での熱中症対策に反するものだ。
馬鹿なマスコミはそれを助長しながら、熱中症の被害を報道する。

夏の夜空を見ていると、そういう俗世間のいらだちも忘れさせてくれるのだが・・・

2012年8月16日木曜日

神話博しまね

昨日(2012/08/15)、日本一猛暑になった米子を通って、出雲の「神話博しまね」を家内と息子の三人で見に行った。
実は私の専攻した文化人類学には、考古学の領域も含んでおり、特に大学の学科では考古学も行うことを特徴としていた。
基礎的なことは少し学んだが、土器の編年区分とか、とにかく重箱の隅を突くようなことが苦手で、敬遠していた。
神話学に関しても、文化圏説の研究を行う学派と大学は関係が深かったので、本当はもっと学んでおかねばならなかったがあまり興味なかった。
実は神話に関心を持ちだしたのは最近で、日本の古代神話はあまり得意ではない。
ところが近年DNAなどの分析によって、人の移動の研究が進んできたのを知り、それとの関連から考古学や、神話学、言語学にも関心を持たざる得なかった。

家内はどちらかというと、子どもの頃から読んでいた古事記・日本書紀などの神話に親しみがあったようで、めずらしく見に行きたいという。
私は日帰りで気分転換できるドライブをあれこれ考えていたが、出不精の家内が行きたいという所なら無難と思い行くことにした。
自分の研究と関連づけることは、端から考えていなくて、25年ぶりくらいになる出雲大社を久しぶりに見学するのが目的だった。
前回は自分の両親や弟夫婦らと出かけたのだが、米子自動車道もなく、やたら長い山道をドライブした思い出がある。
今回は中国縦貫道と米子道、山陰道を使って、朝の10時前に出発して二時間半ほどでたどり着いた。
天気予報でも中国地方の日本海側は猛暑だと言っていたので、ある程度の覚悟はしていたが、夫婦交替で運転してはいたが、1000ccのVitzには車にも人にも過酷なドライブになった。
途中で休憩した蒜山高原では、高原の涼しさのかけらもなかった。225円の特産のアイスモナカ一つを分け合って食べたが、冷たくてうまかった。

ただ、山の上を走る山陰道から見える、出雲の平野の眺めはすばらしく、古代の先進地域であったことが納得させられた。
会場に着くまでに腹ごしらえをしようと思ったが、市街地を避けて行ったので店が無く、結局気がつけば会場に入るための渋滞に巻き込まれていた。
大社やイベント会場の前を通り過ぎ、500mほど離れた駐車場に車を置いた時には、午後1時を回っていた。
家内がイベント会場で食事をしようというので、会場で石見名物の鯖寿司のほか、押し寿司、牛丼弁当を買って、三人で突き合って食べた。

ちょうど、その屋外の食事場所は、イベントステージの傍にテーブルと椅子、大きなビーチパラソルが据え付けられていた。
ミスト付きの大きな扇風機が回っているが、強い日差しの前には効き目などない。
暑い思いをしながら、食事を摂っていると、隣のステージから太鼓の音が響いてきた。
見るつもりはなかったのだが、石見神楽のヤマタノオロチが始まったのである。
普通の神楽の舞だけだったら、暑いので途中で涼しい屋内に行こうと思っていたが、面白いので結局最後まで見てしまった。

見た場所はちょうど、太鼓笛などの囃子の後ろで、正面とは違い、余りよく見えなかった。
それでもヤマタノオロチと須佐之男命(すさのおのみこと)の格闘場面は迫力もあって、観客の子ども達も喜んでみているのがよく分かった。
口から硝煙や火花をはく、怪獣のような仕掛け、神楽の独特の舞でありながら、迫力のある動きは、充分現代でも楽しめるステージになっていた。
本来は涼しい夜とかに行うべきところを、午後二時からという過酷な時間帯で舞い続けた役者の人や、演奏し続けた囃子の人に敬服した。
やたら伝統芸能というと格式張った感じがして、特に体育館などで見せられる文楽などは、居眠りをするほど退屈だったが、これは全く違った。
下手な漫才やバンドをイベントに呼ぶより、石見神楽を招いた方がお客さんが喜ぶように思った。
本来、農村歌舞伎にしても神楽にしても、格式よりも楽しみを大切にしていたのだと思う。
お客さんが喜ぶなら現代風にアレンジをすれば良い。

神楽を見た後は、歴史博物館に行った。神話映像館もあったのだが、観客が多くて時間待ちが大変そうだったので、暑さしのぎに博物館に行くことにした。
博物館内も多くの観客が見学をしていた。
さすがに青銅器に関する展示は圧巻であった。
写真家による出雲の風物を芸術的に展示してくれているのも良かった。
できれば映像などもゆっくり見たかったのだが、予約待ちなので後の事を考えると待てなかった。
案内をする職員も古代風の制服をアレンジして着ていて、雰囲気作りとしても良かった。
ただ、土産のコーナーはもう少し郷土物産を並べて欲しいようにも思った。

博物館を出た後は、せっかく来たので大社にお参りに行った。
「出雲大社平成の大遷宮」ということで、平成25年5月まで御仮殿での参拝と言うことだった。
参道の巨大な松の木には数百年という歴史の重さを感じさせられたが、大国主大神の芝居じみた巨大な銅像は、その歴史に水を差すような気がした。
何よりも驚いたのは隣接する神楽殿で、昭和56年に新築されたというだけあって、近代的で、巨大なイベント会場という感じであった。
古代を標榜する出雲大社だが、明治12年出雲大社教が組織化以降に別の顔を持つようになったようだ。
出雲大社は、明治以降に伊勢神宮と比肩できるだけの権威があったことからも、たなびく巨大な日の丸と共に日本国家との関連を感じさせられた。

一番外の鳥居の前(勢留)では、ゴレンジャー風の戦士劇が行われていて、沢山の子連れ客が観劇していた。
感心するのは「神話博しまね」と、あたかも名称はアカデミックなネーミングでありながら、誰もが楽しめるイベントやコーナーを用意していることである。
家内は夏休みの自由研究の宿題のことを話題にしたが、確かにこういうところで楽しみながら宿題もこなせれば一石二鳥であろう。
靖国神社で現職大臣の参拝が問題にされる同じ日に、その神社よりも歴史のある神社では、着ぐるみを着た戦士達が、子どもを喜ばせている。
考えてみれば大国主大神の親ないし先祖とされるスサノヲが活躍した出雲こそ、ヤマタノオロチを退治した場所である。
荒くれで追放されたスサノヲが役に立った出雲の地の同じ県では、今まさしく竹島で世論が燃えている。
いっそのこと竹島で、日韓が酒盛りをしたら良いが、寝首をかくのはどちらだろう?・・
海を夾んで歴史は繰り返し、筋のないドラマを次々と産んでいるかのようである。

この神話博で愛国心に目覚めることはないと思うが、永続したかのような日本の歴史をイメージできるだろう。
憂き目にあった仏教界に対して、薩長から優遇された神道こそ歴史を担わされているのである。
私の研究している奄美では、神道はあまり広まっていないので、殆ど歴史とは無縁だが、スサノヲを追放した天照大神をテダガナシ(太陽神)と同一視することもある。
荒ぶれた神と言うことではウブツカミ(嶽の神)が同一視できそうだ。
これは比較する価値のありそうなテーマなので、またの機会に譲る。
とにかく、教科書よりも効果的に歴史をイメージできるイベントとして成功しているように思う。

日の暮れかかった帰り道は、わざと渋滞しているにも関わらず国道9号線を通った。
博物館で宍道湖が火山流による堰止め湖だと知った。それを身近で見たかった。
淡水化問題に揺れた宍道湖だが、決して清水とは言えないが、他には無い雰囲気を持っていた。
松江の手前で米子道に戻って、中国山地の山々やその谷間の集落を眺めつつ帰った。
本当はゆっくりと宿泊して回りたいところだが、その余裕は我が家にはない。
それでも帰りにスーパーで買った売れ残り割引の蕎麦を出雲蕎麦に見立てて食べながら、暑さも忘れて久しぶりに気分が晴れている自分に気がついた。
一年に一度か二度のささやかな日帰り旅行だが、往復450kmの中身の濃い旅行になった。

2012年8月13日月曜日

千種の水汲2012年夏

春に汲んだ水(5月12日)もそろそろ無くなりそうなので、家内も休みがとれる今日(8/13)の午前に二人で汲みに行くことにしていた。ちょうど3ヶ月水はもったことになる。
月遅れの盆にかかるので、帰省ついでに汲みに来る人がいるのではないかと、水販売機の前で並ぶことも覚悟で出かけた。
ここのところ、局所的に大雨は降っているのだが、上郡はさっぱり降らなくて、畑や庭にはずっとポンプで水をやらねばならなかった。
確かに千種川の水位は低いのだが、河川工事で川幅も広げられていることも影響している。
広く浅くなった上郡の鞍居川との合流付近で、鮎釣りの人が数人ほど釣りを楽しんでいたが、渓流釣りというのとは違う風景だった。
水田も前回は田植え風景だったのが、綺麗な緑の絨毯になっていた。
特産の大豆もしっかり育っている。

さすがに盆と言うことで、墓参りの家族を何組かみかけた。お年寄りと若い人や子どもも一緒になって、賑やかに墓に参るのは微笑ましい。
先日は兄弟夫婦や甥や姪とやはり赤穂にある祖父母の墓参りをしたのだが、暑さにまいっていた母親は出かけられなかった。
赤穂の高山墓地にある母方の墓は、階段がきつい。うちはまだましだが、駐車場から階段で高く上らねばならないところでは、高齢者は無理なのではないかと思った。
個人で墓の管理をするのも大変だし、村や市の共同墓地の管理も、高齢化にともなって大きな問題になりつつある。

途中で南光町のひまわり畑の傍を通った。年々規模が大きくなるように思う。
暑いのにも関わらず多くの家族連れが見に来ていた。
時期的なものか、暑さや水不足のせいなのか、咲いた花は皆下を向いている。
花はどれも同じ方向を向いているのだが、何となくうなだれているという感じである。
子どもが小さい頃連れて行ったが、幼かった娘などは一斉に自分の方に向いている花を怖がった。
花も昔に比べて背丈が低くてかわいらしくて、怖がるような花ではなくなっていた。
南光町の夏の風物詩として、無くてはならぬものになっている。

千種町に近づいてくると、空の様子も変わってきて、路面も濡れている。
どうも少し前に雨が降ったようだ。
道路端の気温計も27℃くらいに下がっている。
車の中の冷房は28℃にしてあるので、窓を開けた方が涼しいということになり、窓を開けた。
涼しい風が車内に入ってきて心地よい。
南光町や、千種町にはキャンプ場の施設も多いが、避暑に来るにはもってこいで、沢山の家族連れなどがテントを張って楽しんでいた。
以前から、夏場は千種に別荘でも持って過ごしたいというのが夢だが、ラジオ好きの家内は、千種はラジオが入りにくいので乗る気ではない。
今日も話をして、今はネットラジオもあるではないかと言ったが、乗ってこなかった。そもそも先立つものがない。

心配したこともなく、水汲み場は誰一人汲みに来ている人はない。
通りがかりの車がスピードを落として様子を見たりしているが、結局誰も来なかった。
盆と言うことなのか、不景気で水のお金も削っているのか分からないが、私たちには助かった。
水汲み場の近くの川は濁っていた。けっこう雨が降ったらしい。
道路端のお地蔵さんには、盆なので花が供えられていた。
残念ながら造花だったが、大きな楓の下で涼しげだった。
この楓は春は若葉、秋は紅葉として美しい。
今はお地蔵さんを日差しからしっかり守ってくれている。

行きも帰りも、道路端の空き家が気になった。
大きな家の屋根が落ちかかっているのもあった。
新しく立派な家が建っている一方で、古い家がどんどん空き家になっていくのが分かる。
夏場は涼しくて過ごしやすいとはいえ、通勤にも通学にも不便な田舎から出て行く人が多いことはよく分かる。
林業もやっていけず、スキーも最近は下火である。
観光も不景気には弱い。
ただ、これだけ酷暑が続くと、老人施設などは千種の涼しいところに造った方が良いと思った。
麓ではさっぱり雨が降らないのに、しっかり雨の降っている所なので、気候変動によってまた見なおされる時代が来るかも知れない。

水を汲み終えて、また上郡に戻ってくると、全く雨の気配もない。
千種にいる時は、水を汲んで車に積むのに苦じゃなかったが、水の容器を家に運び入れるのが、暑いので大変だった。
午後からはあまりに暑いので、相生の温水プールに泳ぎに行ったが、親子水泳のイベントもあって、大変な賑わいである。
涼しくて静かな千種と対照的な温水プールで、多くの人と一緒に泳げるのもまた楽しい。
時々マナーの悪い子どももいるが、真剣に練習しているおじさんやおばさんと泳げるのもいいものである。
上郡の寂しいプールとはひと味違う楽しみであった。

このブログを書いていると、やっと先ほど(23時半)から、雨が降り出した。
明日の盆踊りの櫓準備は気になるが、何よりも待ち遠しかった雨である。
やっと天気予報も当たってくれた。
我々は千種から雨も連れてきた。本当にありがたい雨である。


2012年8月6日月曜日

酷暑こそ自転車

私はジョギングや水泳以外に自転車も趣味で楽しんでいる。
もっと、自信があればトライアスロンと言うところだが、体力的にも経済的にも自信がないので、そこまでには至っていない。
今日は昨夜オリンピックを見ていた影響もあって、寝坊したので早朝の農作業をサボってしまった。
定期的に計っている血糖値が高いので、朝の一〇時頃から思いきって自転車に乗ることにした。
農作業をあまりしていなかった頃は、早朝は毎日自転車で運動をしていた。
このところ、早朝は農作業で、夕方は暑くて自転車に乗る気にはなれなかった。

私の自転車は25年ほど前の独身時代に、通勤のために購入したブリジストンのRadacという泥よけも付いていて、6段変速のレーサータイプが一台。
どうしても、オフロードが走りたくて、無理して買った21段変速のMTB(マウンテンバイク)が1台の計2台ある。
どちらも、思い出したように乗るだけで、特にMTBは変速機が壊れてしまって、直したがうまく使えていない。
このところは、運動はむしろ室内でエアロバイクを乗ることが多かった。
というのも、自転車はタイヤの管理や、乗る時の準備や装備でけっこう手間だからである。
そして、何よりも室内のエアロバイクに乗る時は全く服装を気にしなくて、暑くなれば上半身裸でも良い。
飽きないように工夫し音楽をかけ、流れる汗だけ拭くタオルを容易さえすればいいのである。

ところが、さすがにこのエアロバイクはクーラーの効く部屋には持ち込めない。
そこで、ジョギングよりはましな、自転車に乗ることにした。
プールはこの季節は、子ども連れの親子で混雑してまともに泳げないから敬遠した。
自転車に乗るコースは幾通りか有るが、今回は日陰が期待できるコースを選んだ。
 その日陰のあるコースとは、赤穂の有年から尾崎にかけての千種川左岸の堤防道路で、特に有年から周世までは旧赤穂鉄道のあった道沿いで、林のトンネルである。
同じ道を通るのは面白くないので、行きは国道373号沿いに周世まで行った。

走り出しは普段エアロバイクで鍛えていたので快調であったが、アスファルトの道の熱風は息をするのも苦しかった。
途中本格的な自転車に乗っている人を抜いてしまい、その人に後ろに付かれてえらい思いをした。
こういう本格的な人は一見年配でも侮れない。
周世から帰りの左岸道路は、昼間でも暗いほどの周りが孟宗竹や高木で覆われている。
車や人は滅多に通らないが、サングラスは暗くて見づらいので外さねばならないほどである。
難点は道に石や小枝が落ちていたり、ひび割れていて、細いタイヤでの走行には不向きなことである。
しかし、この道はなかなか快適で、以前授業で教えたドイツの森を思い出した。

ドイツでのシュヴァルツヴァルトではハイキングや乗馬などを市民が楽しんでいたが、酸性雨の影響で森が枯れていると、環境問題では必ず教えていた。

私も通勤に以前は自転車を使っていて、これからの通勤は自転車が良いと思うが、朝から大汗をかいて職場に行くのは現実的ではない。
できれば、夏場は木で日陰ができて、冬場は寒風を防ぐための林道や街路樹が必要だと思う。
それ程スピードを出さなかったら、夏でもそれ程汗をかかなくて済むだろう。
酷暑だからクーラーの効く部屋から、クーラーの付いた車に乗って行き来することが多いのだが、結局これは酷暑を助長してしまう。
自転車道を快適になるよう整備できれば、自転車に乗る人も増えるはずである。
自転車の盛んな西ヨーロッパは確かに、日本のように山がちではないし、気候も温暖である。
しかし、日本はそれを克服する経済力が残っているはずである。
新幹線整備の復活よりも、自転車道路の整備を至急行って欲しい。
確かに、自動車ほどの経済効果はないが、医療費削減にはつながるだろうし、環境立国としての姿勢を外国に示せるはずである。






2012年8月4日土曜日

野良犬と野良猫

しばらく見なかった白と黒が半々の野良猫が子猫二匹を連れて現れた。
去年も二匹産んだと思うが、その子ども達がどうなったかは分からない。
というのも猫は増えていないように思えるからだ。
ひょっとして親猫がいなくなって、子猫が残ったのかも知れない。
子猫が生まれると言うことは、雄猫もいるわけで、同じ柄の猫を何回も見て、増えていないと思っているのかも知れない。
ここらの猫は、冬場は田んぼに捨てられた生ゴミを餌にしている。
夏場は、生ゴミ以外におそらく昆虫などの狩もしている。
というのも、畑の畦で一生懸命にバッタを捕って、食べているのを見かけたからである。
以前勤めていた山の上にあった学校の寮にも、野良猫がいて夜にやってくるカブトムシを餌にしていた。
ここらでは住み処は空き家や納屋などいくらでもあるので、不自由しない。

ところが、野良犬は一匹もいない。
そもそも、最近は雑種らしき犬も減った。
家で飼っている犬は雑種だが、野良犬だった雌犬を拾って飼っていた人から、10年ほど前に生まれた子犬をもらった。
それ以来、近所で雑種の犬から子犬は生まれていない。
ここいらで散歩に連れている犬を見ると、洋犬、柴犬、猟犬ばかりで、雑種は殆どいない。
このごろ、雑種と言えば洋犬をわざと掛け合わせた犬ばかりである。
従来の雑種の犬は野良犬の名残で、絶滅種と言うべきかも知れない。

思い出すのは私が育った赤穂尾崎の路地にいた雑種の犬たちである。
当時は飼い犬を放し飼いにする人もいて、首輪をした犬と無い犬が路地でケンカをしたり、仲良くしているのを見かけるのは普通であった。
子どもにとって、犬は身近な性教育の材料でもあった。
野良犬は多くいたけど、子ども達は走って逃げると追いかけてくることを知っていたので、トラブルはあまりなかったと思う。
それよりも大人しい野良犬はみんなから慕われて、大人でも何とか飼い犬にしようとする人もいたが、それは野良犬の方が嫌がった。
その犬は大きくて貫禄があり、犬同士のケンカを治めたりできる犬だった。
当時は街角に1斗缶の残飯入れがあって、豚を飼っている人が集めに来たりしていた。
それなどは格好の餌になったし、余った生ゴミを与える人もいた。

そういう野良犬を駆除する人がいることは当時から知っていたが、一度も見たことがなかった。
子供心には野良犬よりも、駆除する人の方が怖いように思えた。
そういう野良犬も、車社会になって多くが犠牲となっていった。
路地からは子どもの姿も、野良犬の姿も消えて、野良猫だけが残った。
最後まで車にひかれ続けているのは、野良猫と亀である。
田舎ではそれに、蛇と鹿とイタチ、たまに鳥が加わっている。
子どもの交通事故が減ったのも、子どもが外で遊ばなくなったからである。

自分も車で通勤しているので、車社会を否定する立場には無い。
ただ、車と軽車両と人が住み分けられる道路や街作りをしてこなかった日本社会を見なおすべきだとは言える。
電気自動車やハイブリッドとかいってエコや低燃費を宣伝しているが、自転車や歩きに勝るエコはない。
原発維持やエコ補助金に多額の税金を使わずに、人や自転車道路整備や電車への自転車乗り入れへの補助に税金を使うべきだろう。
いまさら、野良犬を復活させようと言うつもりはない。
だからせめて、野良人を復活させよう。
子ども達の最良の学び場は野良にあると思う。

そういえば、大学時代に友達が「野良の会」という妙なエコグループを作っていた。
彼は下宿の水槽でドジョウを飼って食べるような男で、探検部にも入って国内外の山野を駆け巡っていた。
田舎出身だった彼は、エコを唱えながら大都会名古屋に残って弁当屋さんを開いた。
エコに無関心だった私は田舎に引っ込んで、教師の片手間にエコな百姓をしている。
真逆になった二人の生活は楽ではないし、さほど悪くもないと思う。
ただ、これからはどちらも真剣に生活スタイルを見なおすべきだということは共通していると思う。





2012年7月31日火曜日

念願のポンプ

ここ数年前から、畑に水をやるポンプが欲しかった。
それでも、最低16,000円はするエンジンポンプには手が出なくて、柄杓で水を汲んでいた。
涼しい内は、これも筋肉トレーニングだとやせ我慢できた。
去年は朝早く起きて、大きなポリ容器に数10m先から汲んで、台車で運んだ。
今年の春から、用水路に水をくみ上げて、畑に流した。というのも、長く休耕田になっていたので、水路は塞がれていた。

さすがに今年の夏は、連日35℃を超える暑さ。念願のポンプを買った。
16,000円の一番安いのを買って、早速使ってみると本当に便利である。
ホースは経の違うリールホースがあったので、それを繋いで、用水路から水をくみ上げる。
畑だけでなく、家の庭にもたっぷりと水をやることができるようになった。
柄杓でくみ上げていた頃は、頑張っても200Lもくみ上げればへたってしまったし、水道の水は後の料金を考えると怖くて多く使えない。
赤穂の畑に持って行って、井戸からも水をくみ上げられるようになった。

ところが、これで楽になったと思ったら、豈図らんや!
余裕が出てきたので、草抜きを頑張るようになった。
柄杓の頃はえらくて、草は放っておいたのだが、水を吸われるのが癪で抜いてしまう。
そうすると、しっかり根の入った草はいくら水を掛けても、なかなか抜けない。
結局はえらい思いをすることは一緒である。ただし、これで作物は水不足や栄養不足から解放された。
そのお陰で、茄子も勢いを盛り返し、他の作物も元気を維持している。

機械化とは結局人を楽にするようで、新たな仕事に追い込む道具でもある。
機械化の進んだ稲作農家は、確かに昔に比べて楽になった。
しかし、機会代やその倉庫などを考えると割に合わなくなっている。
経営規模の小さい農家は買った方が安い米を、休日を使って作るのだから、くたびれ損になっている。
畑作りも、できるようになると欲が出て、機械も買うので、その分頑張ってしまう。
機械の減価償却に見合うことを考えて、機械化するのが賢明なのである。
今のところ、草刈り機と管理機(耕耘機)と今回のポンプだけだが、本当はもっと買いたいの物がある。
それは軽トラである。
機械を運ぶだけでなく、臭い肥料や作物(タマネギ、ニンニク)をステップワゴンで運ぶのは辛いものがある。
だんだんと、専業農家に近づいてきた・・・

ところで、アメリカの穀倉地帯が旱魃だと報道されている。
ついに、来るべきものが来たような気がする。
地球温暖化の影響で、食糧不足に陥ることが研究者の間で叫ばれていたが、それが現実化しつつある。
農業は初心者に直ぐに出来るものではない。
私も作物がまともに作れるようになったのは、20年以上やって、つい最近のことである。
いくら田畑があっても、経験のない跡継ぎには農業はすぐには無理である。
深刻な事態に陥る前に準備し始めた方が良いと思う。老婆心ながら・・・

2012年7月28日土曜日

ウナギ捕りし彼の川

先日、広場の草刈り作業があった。そこで近所の人が「先週は33匹釣ったで」という話をしているので、何のことかと聞いてみるとウナギを夜に釣ってきたと言うことである。
そう言えば、赤穂の隣の畑の人が、ミミズを捕ってウナギの餌にすると話していた。
千種川の河口などは昔からミミズを細い竹の針先に付けて、石垣の間などに差し入れて釣っている人がいた。
養殖ウナギが稚魚がいなくなって高騰しているというニュースとは全く無縁の話に驚いた。

私が赤穂の尾崎に住んでいた頃は、千種川は子どもの遊び場であり、漁場であった。
小さい頃は絶対行くなと親から言われていたが、大きくなるにしたがって自由に行くようになる。
当時は安い竹竿でハゼやテンコチを釣ることが多かったが、ヤスを使ってウナギやカレイを突いた。
当時はウナギは大きな石をめくれば、それ程大きくはないが、おかずになる程度のウナギは簡単に捕れた。
大人は釣ったり、潜ったりしてウナギの大きいのを捕まえていた。

ウナギは今でこそご馳走になったが、当時は牛肉が一番のご馳走で、穴子などと同様に骨まで食べさせられる普段のおかずだった。
ドジョウなどは田んぼの井戸にいっぱいいたので、それを捕ってきて飽きるほど食べさせられた。
今はそれが逆転してしまい、高級魚になってしまったのである。
牛肉はご馳走の座から、普段のおかずに落ちてしまった。

そう言えばラジオでメダカの研究者が、絶滅種であるメダカの生態がよく分かっていないということを言っていたのに驚いた。
ウナギも穴子もメダカもドジョウの身近な存在だったのに、その生態が分かっていなかったのである。
考えてみれば、蝉でさえ地中の様子などは知らないし、ツバメが冬どんなところで過ごしているのかもよく知らない。
夏になれば訪れる生き物との関わりを当たり前のこととして接していたのであるが、それらの生き物がいなくなってしまおうとしている。
家の庭のかなめの木にはニイニイ蝉が毎朝うるさく鳴いているのだが、この蝉も最近は貴重らしい。

子どもがいなくなったとか、過疎化で老人ばかりになったという寂しい話はよくマスコミに話題になるが。
ウナギがいなくなったら寂しいのではなくて、値段が上がって食べられないという話題にしかならない。
確かに安ければ食べたいというのは本音だけれど、それ以上に絶滅していく生き物を食い飽きない我々日本人のどん欲さに呆れる。
鯨は欧米人に責められて食べないけれど、ウナギは地球の果てまで行って食い尽くす勢いである。
江戸時代にうなぎ屋のために作られた食文化が、経済大国になって台湾や中国を巻き込み、世界を席巻する。
自然を愛する日本の伝統文化というのは、鯨、マグロ、ウナギを食い尽くすことだったのか。
と、食べられない負け惜しみを言いたくなる。

せめて、完全養殖が軌道に乗るまで我慢しよう。
土用の日は豚肉丼で済ました・・・ただ、ウナ肝は200円奮発して1本食べさせてもらった。
本当は安ければ鰻丼食べたかった・・・・・。
大学生の時にボーナスの出たゼミの先生が、おごってくれた専門店のウナギ尽くしが、未だに忘れられない。
二段重ねの鰻重に、ウナギの卵巻、ウナ肝のお吸い物etc 30年も前の話である。


2012年7月25日水曜日

エコな暗い夜

節電の意味もあって、夜は極力エアコンは使わずにベランダに扇風機を出して、網戸も開いて送風する。
そうすると外から虫が入ってくるので、それを防ぐことと、節電のために照明も暗くしている。
照明はまず、昼間蓄電するライトをベランダの物干しに置いていおき、夜に部屋の中に入れる。
それだけではパソコンを使うには暗いので、LEDの懐中電灯をキーボードに照射している。
暗いのに目が慣れてきたが、何よりも却ってリビングの明るさの方が落ち着かなくなる。
以前から寝る前には気分を落ち着かせるために、小さな明かりに変えていたのだが、仕事をする時もあまり明るくない方が疲れないし、落ち着くことがわかった。
以前は目が悪くなるから明るくするように言われてきたが、最近はそう言われなくなったので目に不安を感じていない。
そもそも、ディスプレーが充分明るいのである。

暗いのが落ち着くことでふと思い出したのは、やはり奄美のことである。
私が調査していた奄美の村落の家屋には、まだあまりガラスサッシが無かった。
暑い夏の夜は板戸を開け放っていたので、蚊取り線香は欠かせなかった。
当然当時は島に発電所があって、時々停電はしたもののちゃんと電灯は点いていた。
知り合った青年団の仲間と飲むと、決まって電気を消して懐中電灯を蛍光灯に照射して雰囲気を出していたことを思い出す。

これから琉球諸島では八月行事という夜の祭りに向かっていく。
本土でも盆踊りの季節になる。今でこそ照明機器で明るいので月の光は必要ないが、昔は月の光が大切な照明だった。
だから、十五夜に合わせて踊りが行われたのである。
電灯無かった頃、普通の家では蝋燭なども滅多に使わず、月が昇るのを心待ちにした。
それが、月待ちであった。
テレビもラジオもなく、歌ったり話したりするしか娯楽がなかった頃の夜の風景である。

そう言えば私も幼い頃、夏の夕方になると路地に出て、夕涼みをした。
母親は温もった石に腰掛けると気持ちいいと言っていた。
玄関先で穴子などを七輪で焼いていたりした。
路地は大人や子どもの憩いの場でもあった。
だいたい、車など通ることはなかったからだ。
何よりも蚊帳が夏には欠かせなかった。網戸など無かったからだ。

上郡の今住んでいる村は夜だけでなく、日中も川の端の家などは涼しい。
それなのにエアコンを使う家が多い。特に最近建てた家は風通しを考えていない。
太陽光や都市ガスを使ったエコも良いが、もう一度自然に寄り添う生活スタイルを、新しい形で実現してみても良いような気がする。
明かりの少ない暗い夜の生活も良い。
治安が悪いヒートアイランドの都会ではできないことかも知れないが・・・

2012年7月21日土曜日

悲しき上郡

私は上郡には住んでいるが生まれ育ちは赤穂なので、郷土愛というのはあまりない。
ただ、「ど田舎の上郡」と職場で言われると「ムカ!」とくる。
室町時代にこの播磨の地を支配していたのは、この上郡の赤松氏である。
むしろ、播磨の国一揆を起こしたのはあなた方の先祖じゃないのと馬鹿げた反論を内心したくなるが、日本史でもマイナーな歴史なので面白くも何ともなく、口にできない。
赤穂事件よりも嘉吉の乱の方が将軍を殺したのだから、すごいことなのに上郡をそれに結びつけて捉えてくれない。
ただ、赤穂は塩田が事件後も栄えたが、上郡は乱後寂れていった。

始め何でこんな千種川の狭い平地にそのような力を持った勢力が誕生したのかよく分からなかった。
それは、鳥取・島根の日本海側の古代先進地域と、瀬戸内海側の中央先進地域を結ぶラインとして流通を抑えていたこと。
そして、千種川沿いのたたら鉄の生産との兼ね合いが大きいと言うことを知った。
赤穂は塩田開発される前は、海の迫った何もないところだった。
赤穂の人は千種川沿いの人が多く移り住んだように思える。
実は私の父方の祖母は、小赤松という上郡よりも奧の上月町出身である。
何の縁もゆかりもない赤穂の鳥撫へ嫁ぐはずもないので、 昔からのつながりが有ったのだろうと思う。
石原という姓も赤松氏の関連で見いだされるし、上郡には石原姓が多い。
出自をたどればひょっとして私の祖先も上郡かも知れない。
そうすると、「ど田舎上郡」と言われたら、素直に「ごもっとも」と言ってはならないと思うのである。

ただ、悲しいのは上郡は中世の先進地域でありながら、いや、それ故かも知れないが、近代化の波に乗りきれなかった。
現在、網干のJRの車両施設は、当時の計画では上郡に作ろうとして地元の反対でできなかった。
大鳥圭介という明治でも活躍した有力な官僚がいながら、企業誘致は図っていない。
その流れは、今でも市町村合併の失敗。給食がない県下唯一の町となってしまっている。
それでも、私は近代化から取り残されて、昔そのままの村と、一部開発されたベッドタウンの上郡は 気に入っている。
椿峠から眺める高田の扇状地は夏は「我谷は緑なりき」と言いたくなるし、秋は「黄金の稲穂」を輝かせてくれてる。
また、赤穂のように松をあまり植林していないので、秋の紅葉は最高に美しいパノラマを展開してくれる。

上郡にもっと人が住んで欲しいのだが、気をつけて欲しいのは村と街を混同しないことである。
村付き合いは戦前からの流れがそのまま残っている。
高田台や近年開発されている山野里あたりの住宅地とは全く付き合いが違う。
新興住宅街の感覚で 移り住むと直ぐに引っ越しせねばならなくなる。
私の生家の赤穂の新興住宅地は地元の人が多いので、業者の開発した宅地よりも閉鎖的であるが、村よりは開かれている。
村の中で歴史を背負う気持ちでないとやっていけない。
私は「いつでも赤穂に帰ってやる」と思いながら、根を下ろしてしまった。
家内は折角仲良くなった友達と離れるつもりはないようだ。
それも「悲しき上郡」の魅力によるものかも・・・







2012年7月18日水曜日

Smoke on the water

ジョンロードが亡くなった。これでDeep Purpleも終わりだろう。
私たちの世代だけでなく、Deep Purpleは特に、Smoke on the waterを、ロックをやり始めた頃に練習する。
私が中学校の3年頃から大学に入った頃まで、一番のめり込んだのは実はロックバンド演奏であった。
ギターは本当に哀しいくらいへたくそだったのだが、ボーカルには少々自信があった。
当時ヤングリクエストというラジオの深夜放送でアマチュアバンドの演奏を流してくれるコーナーがあった。
高校2年の時にその番組に出るために、バンドを組んで練習して出演した。
その時にドラムを叩いてくれたのが、今はサッカーの全日本チームのチームドクターをしている柳田君である。
彼はドラムは初心者だったが、サッカーをやっていたこともあって、リズム感が良かった。
ただ、キダタロー氏はわざわざ音声室にまで行って、加工前の音まで確認してくれたのだが、賞めてくれた後で、批評されたのはドラムとボーカルのリズムが時々狂うということだった。
その時は、Deep Purpleはやらなかった。あまりにも一般的すぎたからだ。

私は高校2年の文化祭で体育館ステージにバンドを組んで出場した。
勉強も運動もせずに輝ける唯一の機会であった。
ところが、私は歌詞を憶えるのが大の苦手で、しかもSmoke on the waterを書いた歌詞の紙をステージで見失ってしまった。
仕方ないので、憶えていた1番を3回繰り返した。英語なので誰も分からなかった。

2年前、職場の忘年会で前年に引き続きバンド演奏をすることになった。
初心者のベースの人がレッスンで習っているSmoke on the waterを演奏することになった。
メインはEric ClaptonのLaylaで、軽く入りに使うつもりであった。
ところが、思い出して練習してみるとボーカルが結構難しい。
全部旋律が違うのである。
ということは 1番を3回繰り返すなんてあり得ないのである。
私のボーカルは全くド素人であったことを再認識した。

その姫路の忘年会会場では、他の職場の忘年会もやっており、リハーサルの段階でクレームがついてしまった。
というのも、セミプロだったリードギターがマーシャルアンプのでかいのを持ち込んで、がんがんやり始めたのだからたまったものではない。
結局、音量を調節できず、演奏はあまり良いできではなかったが、何とかLaylaの高音もこなすことができた。
51歳にして、やっとLaylaを曲がりなりにも、ステージで演奏することができてそれで満足だった。
しかし、本当は歌詞の内容も理解せず、ボーカルとしての表現力を一番試されるSmoke on the waterに内心ショックを受けていた。
その前年はDeep PurpleのHighway Starをそれなりにこなしていたので、余計にショックだった。

おそらく、これからも演奏し続けられるだろうSmoke on the waterは、シンプルに思えて非常に奧の深い音楽だった。
華やかなリードギターやボーカルに比べて、テクニックは評価されながらあまり表に出てこなかったジョンロード。
ステージを見たリードギターのTさんによれば、一番誠実に演奏していたという。
若い頃は何も見えていなかったことも、この歳になって見え始めて、また演奏し治すことに別の価値を見いだせそうである。

仕事が終わってからの練習は大変で、去年は病気を理由にパスした。
今年は是非忘年会で演奏したくなった。



2012年7月16日月曜日

ズッキーニとトマト

夏の野菜の定番はトマト、茄子、キュウリだが、私は10年ほど前からズッキーニも栽培している。
ズッキーニは欧米では普通に食べられている野菜だが、日本の田舎ではまだ珍しい。
近くの直販所で巨大なお化けズッキーニが売られていたこともあったが、栽培している農家自身ズッキーニの食べ方を知らなかったのかもしれない。
今でこそ近所の人も認知してくれるようになったが、以前は「これは何?」と何度も聞かれた。
一度に多くとれるので、近所の人にあげたりもしたが、ラタトーユなどの料理に馴染みが無くて、まねして作る人は殆どいない。
我が家では味噌汁の中にも入っているし、色々刻んでキュウリと同じようにして食べたりしている。
ズッキーニそのものにそれ程味がないけれど、大きく切ってステーキのようにして食べても美味しい。
キャベツなどの葉っぱ物が少なくなる分、キュウリとズッキーニは大切な野菜である。

ただ、このズッキーニは受粉を毎日してやらなければならない。
最近はミツバチの数も減っているので、朝は必ず受粉してやる。
時間が経って九時頃になってしまうと、花が閉じるのでそれをこじ開けて行う。
行わないと、根元だけ脹らんで大きくならない。
ズッキーニの葉っぱは大きくて茎がざらざら棘のような毛があるので、素手であたるとけっこう痛い。
一番の難点は、伸びていくと自分で自立できなくて、支え木が必要だが、重いし葉が茂っているので結構手間である。
また、油断すると実が直ぐに巨大になってしまい茎を痛めたりして、枯らしてしまう。
ズッキーニは苗の価格が高いので、種を買ってポットで作る。
今年は雨や風のせいで、10本植えて半分ほど折れてしまった。
それでも、1日数本とれるので充分自家用としては間に合っている。

トマトは多くとれると、家内がケチャップを炊く。
JAで販売している「トマトゲン」という香辛料を用いれば、濃厚なケチャップができて非常に美味しい。
ただ、家内は非常に暑い思いをして6kg程炊いて、2リットル程にしかならない。市販のケチャップがいかに安いか分かる。
それでも、ピザなどでは違いが歴然だし、冷蔵庫で保存もできるので重宝している。
人にあげると喜ばれるが、これを作る手間暇は理解できないと思う。
以前はケチャップを作るために、加工用トマトも栽培したが、苗を作るのが結構手間なので、普通のトマトを今は使っている。

今年は、テレビでダイエットやコレストロール低下によいと紹介されたこともあってトマトブームで、我が家でもブームに乗って生で食べることが多い。
私自身、一個生かじりするのが好きで、おやつ代わりに食べるのであまり残らない。
私は農作業している途中で、喉が渇くとトマトをその場で丸かじりする。
生暖かいけれど、非常に美味しくて、喉の渇きも不思議と治まる。
苗を10本ほど買って脇芽から何本か増やしたが、これだけ毎日沢山食べるとケチャップにはできないかも知れない。


2012年7月15日日曜日

健康とストレス解消のための水泳

私は長年水泳をしている。
学生の頃は剣道は少ししていた。恥ずかしい話ではあるが、水泳は大学時代に夏用の風呂の代用として、校内の50mプールに行って泳いだ(現在は温水なので一年中泳げる)。
下宿したアパートには風呂がなかったので、適当に泳いだ後、シャンプーと石鹸で体を洗って節約した。
今でも、上郡の田舎の温水プールでは、禁止されているにも関わらず、シャワーで同じことをしている人がいるが、気持ちは分かる。

趣味として泳ぎだしたのは、博士課程への進学を諦め、赤穂に戻ってから土日暇つぶしに温水プールで泳ぎ始めてからである。
学校では剣道部の顧問をすることが多かったが、趣味では水泳を続けていた。
上郡に転居してからも、相生市のプールや上郡のプールで泳ぎ続け、結局、学校でも水泳部の顧問へ転向した。
続けられたのは、子どもに水泳を習わせている間に傍で泳いでいたからである。

そのうち、顧問として指導技術を身につけるためにレッスンを受けたり、上郡のマスターズのチームに入って練習に励んだ。
特に芦田コーチが上郡でマスターズの指導に当たってくれてから、フォームが良くなって楽に泳げるようになり、ますます水泳が好きになった。
現在のメニューはアップ(SKPS)が200×4 バタフライ(キック200 片手200 スイム50×2 25×2) 背泳(キック200 スイム50×4) 平泳ぎ(キック100 プル100 スイム50×4) クロール(ダッシュ25×4) 個人メドレー(200×1 100×2)を基本にしてだいたい1時間45分くらいでこなしいる。
以前はクロール100mを1分50秒で回して、10本くらい普通にこなしていた。
今も生徒と一緒の時は時間を掛けて5000mほど泳ぐこともある。

剣道は学生の頃にやっていた苦しい思い出が蘇り、趣味としてやろうとは思わないが、水泳は苦しめられた経験が殆ど無いので気楽にできる。
学生時代水泳をしていた人は、逆に趣味として水泳ができないのと同じである。
私は競技スポーツと健康スポーツは違うと常々思っている。
水泳部の顧問までして、自らマスターズのレースにも出たので、健康スポーツに徹していたわけではないが、進路や生活を懸けて競うことはなかった。
進路や生活を懸けて行う競技スポーツは健康にはあまり良くない。
体育の教師が現役を退いてから、指導者に徹して自ら行うスポーツから遠のくのもよく理解できる。
私が専門の研究分野で気楽に文章が書けないのと同じだと思う。

今の上郡プールは残念ながら、業者が変わってマスターズのチームも一部の人に限られてしまった。
私も芦田コーチのいないマスターズには魅力がないので、参加していない。
その分、一般に泳ぐ人も少なく、年券も他よりも安いので私はよく利用している。
上郡は1校だけの中学校には水泳部が無くて、選手は以前から苦労していたが、全国大会にもスイミングクラブから普通に出場できるようになっている 。
上郡は剣道とテニスという常識を変えていく土台を芦田コーチが築いて、現在にも引き継がれていると私は思う。
現在の業者も熱心に指導してくれているので、これからはプールも改修されて、よその町からも習いに来るだろう。
ただそうなると、私が気楽に自由に泳げる環境は失われそうだが、マッ いいか・・・


2012年7月14日土曜日

田んぼのあった頃

昔の米の価値は高かった。1石(180kg)が大人一人の一年分の米の消費量と江戸時代ではみなされていた。
昭和35年で米1升(1.5kg)が122円*1で、当時初任者の月給1万円だったということから、米価約80kg分である。
現在、家で買っている自主流通米の玄米60kgが16000円で、それを基準にすると、月給約26000円となる。現在が高卒の初任給を約16万円とすると、米の価値は5分の1以下になったことになる。
因みに江戸時代なら38000円で一人分の1年間の米がまかなえたことになる。

私の父親は母方の祖母と共同で水田を3反ほど、昭和40年代に買った。
当時は確か1反8俵(480kg)もとれなかったと思うが、現在の自主流通米の価値では384000円の収入、当然肥料や頼んだ機械の費用もあったので、それだけの価値はない。
そのまま初任給比較で5倍の価値として変わっていなかったら、200万円近くになっていたことになる。
父親が必死になって4人の子どもを育てるために、勤めに出ながら稲作りをした意味がよく分かる。
また、当時は土地は値上がるものとして、投機的な意味があった。
父は水田以外にも、宅地や畑を買ったが、水田1枚は高校の用地に売れ、宅地も売って、結局もう一枚の水田を宅地化して家を建てて、宅地名義にした畑が残った。
これら全て母方の祖母と折半で、家も隣同士になった。

ところが、現在ではパチンコで1日1万円以上が動く時代である。
20万円くらい1年間どころか、 半年ですってしまう人もいるだろうし、逆にもうける人もいるだろう。
汗水垂らして、稲を作る意味はなくなり、機械で楽をして利益を無くしてしまっているのが、この地域の兼業農家の実情である。
土地も値上がりどころか、値下がりしてきている。
古代ローマは征服した地域のコロニーから安い穀物が入ってきて母国の農業が荒廃した。
「パンと見せ物と要求する無産ローマ市民」は世界史で必ず習う常識だが、生活保護を受けながらスポーツ観戦や競馬をしているのと現在の日本と同じである。
現在は古代ローマのように兵役とは関係していないので、もっと国家への依存性が高い。

私は父親のように早朝と夕方に農作業をしながら働くことはできないが、せめて週末くらいは自給用の野菜を作ろることを続けている。
農地は全て借地であるが、盆暮れのお礼程度で済んでいる。
これは農作業は決してコストに見合うものではなくて、目的はあくまで「自分で築く生活の証を得る」ためである。

*1 米価の変遷-Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E4%BE%A1%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
   





2012年7月11日水曜日

家業があった頃

私の父親は船乗りだった。それは祖父から継いだもので、乗っていたのは鷆和の御影石を主に運ぶもので、100tほどの木造船だった。
私の幼い頃は、年子の弟と母親も一緒に乗っての運搬仕事をしていて、若い人も一人雇っていた。
父親は船が時化で難破しかかったことや、子ども達の学校のことも考えて、会社勤めに転職した。
本家は祖父母もいたこともあって、伯父は30年ほど前までその家業を続けていた。
つまり、本家の伯父と私の父親が家業を継いだのだが、その家業を続けたのは本家の伯父だけだった。

家業を子どもに任せた祖父は、石材や植木を扱う庭師もしていた。
祖父の左手の指二本が第2関節くらいから無くて、子どもの頃は異様に思えたが、これは石にはさまれて失ったと聞いた。
私は小遣いを貰って祖父の庭師の仕事を何度か手伝った。
私が中学校から結婚するまで過ごした実家の庭は、祖父とその知り合いの庭師が作ったものである。
殆ど来客のない実家の庭にしては立派すぎるものであり、管理ももてあまして父親の死後は、大きな黒松を途中で切ったりもした。
それでも祖父の思いが込められた庭なので、父親も大事に管理していたこともあって、実家に一人暮らす母親も人手を借りながら何とか維持している。

私は幼い頃は盆正月には本家に家族と泊まりがけで出かけた。
本家の伯父を中心に男3人、女1人の兄弟とその家族が集まる賑やかなものだった。
ところが、その食事の席に祖父が加わったのを一度も見たことがなかった。
私は夏休みなどに本家に預けられることがあったが、その時は祖父母やいとこと一緒に食事するのが普通だったが、何故か盆と正月には祖父は一緒に食事をするのを避けていた。
今から考えると、祖父は楽しそうに過ごしている子ども家族の雰囲気を壊したくなかったのかも知れない。

祖父は悪く言うとワンマンな家長で、よく言うと威厳のある職人ともとれた。
この頃、曲がりなりに畑仕事を息子や家内としている時に、ワンマンな自分を見いだすことがある。
別にそれで収入を得ているわけではないのだが、家計の足しになっている農作物は大事な家業になりつつある。
いい加減な仕事を妻子がしていると、厳しく叱咤することもたびたびである。
そんな時に、昔のじいさんや親父が近寄りがたい存在であったことが、実感として理解できる。
今でも家業で生活している家では、親父の存在は大きいのだろうと思う。
ところが会社勤めの親父は疲れかえって、テレビを見ながらくつろぐ姿しか見せられない。
威厳が示せるはずもないし、示す必要もないのである。

仕事のない息子の将来と自分たち夫婦の老後を考える時、何とか家業を興したいと思う。
そして、昔親父や祖父が築いていた家業を思うのであるが、リスクを背負いながら確実に経営を成り立たせていた力量に今更敬服する。
雇われた身に安住できたし、その職業に何らかの誇りも持っていたのだが、子ども一人の生活も保障できないし、老後の不安も抱えざる得ない。
昔は農家も職人も、商売人も家族や親戚と力を合わせて、家業をもり立てて行くのが当たり前だったのだが、大規模に展開しないとやってこられない状態で、廃業を余儀なくされている。
赤穂のショッピングモールが賑やかな一方で、古くからの商店街がシャッター街になっている姿はその象徴だろう。
誰もが働きに出かけられた塩田ももう無い

勉強ができることが、あたかも実力があり成功できると信じてこれた時代はもう終わったように思う。
グローバルな時代を生き抜くには完全に国境を越えて仕事ができる能力を持つか、地域にへばりついて、独自の家業を工夫しながら展開していくしかない。
大きな会社に入ったり公務員になって呑気に暮らしをする時代はもう終わった。
今頃それに気付く自体、呑気な公務員だったのだろう。

2012年7月8日日曜日

一晩でできた河原

河原というのは少し大袈裟なのだが、7月6日夜から朝にかけての豪雨で近所を流れる高田川の、私が借りている畑の近くで小さな河原が出現した。
というのも、冬場にユンボーで川底を浚って均していたのだが、大小の石が堆積して元のように河原を作ってしまった。
違う場所では道端の側面が抉られたり、もともとあった河原が益々大きくなっていた。

畑の近くの河原はおおよそ大型ダンプ一杯分の量に思えるが、たかだか、10mの幅に満たず、蛍の舞う小川が、数日轟音を響かせていた。
明け方3時頃に避難準備情報がこの高田川流域に出されたが、その時の水位は近所の人によると、コンクリートの護岸の上から30cmまで達していたという。
川底を浚っていたことも幸いして、それだけで済んだと思う。

上郡や佐用も比較的被害が少なくて済んだのも、300年に一度の大雨にも耐えるという千種川の河川工事を冬場に急いでいたお陰だと思うが、毎年のように繰り返される豪雨にこれから先思いやられる。
ただ、実はこの高田川流域に大きな集落が多くできたのはそんなに古くはなかったという。
千種川流域も、氾濫に備えて山際の一段高い位置に家屋が建てられていたが、近年は低い場所にも家屋が建ちだした。
川の堤防は破れないという前提で、村や町が発展してきている。
本来、沖積平野は川の氾濫によってできあがったものだから、氾濫するのが自然の姿である。
大昔は、氾濫時には浸水覚悟で家屋を建てていたのだろう。

考えてみれば昔の家は、大掃除では畳を上げて、その下の床板まで取り外していた。
実はこの畳が普及したのもそう古くはなくて、貧しい家は土間の上に蓆や藁を敷いたりという。
経済的に豊かな家から順に畳になったようだが、土間だけの家は浸水してもそう被害はない。
こういう農村地帯では、要するに近代化によって豊になってから、大きな浸水被害が起きるようになったのだ。

当然城下町などの町は古くから洪水被害に悩まされてきたようだ。
赤穂も、明治の大水害後、大がかりな工事で二股に分かれていた川を一本にした。
だから、今でも中州という地名が残っている。
土手も一方を低くして、城側中心部の氾濫を防ぐ構造にしていたという。

経済的に発展した現代では、氾濫を防ぐ手立てをずっと続けねばならないだろう。
ただ、温暖化による異常気象に耐えられなくなる限界集落も今後出現し、山が荒れ、水田が沼地になっていくのは確実だと思う。
それも、自然と言えば自然なのだが・・・


2012年7月7日土曜日

初めて作った黒ニンニク

今日一週間前に仕込んだニンニクが黒ニンニクになった。
ネットで調べて、いい加減にやったのだが上出来であった。
ニンニクがこんなに甘くなると知らなかった。考えてみれば奄美の塩漬けニンニクは砂糖を加えているのかと思うほど甘かった。これも醗酵して甘くなっていたのだということに気がついた。

ネットでは非常に臭くなるので外に出すように書いてあったのだが、普段よくニンニクを料理に使っている我が家ではさほどの臭さではない。
ただ、完成に近づくと独特の臭いがするので、それがちょっと気になる程度で、全く問題ない。
それでも家内はニンニクの臭いを好まないので、一粒試食しただけで止めてしまった。
甘くて美味しいと一房食べた息子とは大違いである。

この、黒ニンニク製造のために、新しい炊飯器を買った。
といっても、5000円もしない売り出し物。前のは蓋が閉まらなくなって、ゴムバンドで留めていたので、そちらを製造用にした。本当はこちらの方が結構高い炊飯器であった。
これに、小さいニンニクを選って、水洗いをして保温状態で一週間寝かした。
分量などは全く無視した。途中何度か蓋を開けて乾燥してないか確かめる程度で、殆ど放って置いた。
できあがった物は、ネットの写真よりは黒みが少ないが、全く辛みが無く、ニンニクジャムのような感じである。

今までニンニクはネットに入れて保存していたのだが、春になると芽が出てしなびてしまう。
今年は、それを少し電子レンジで加熱したり、生のまま燻製にした。
それはそれなりに美味しいのだが、臭いがきつい。
黒ニンニクは臭いが少ないと書いてあったので、これからは黒ニンニクにして人にあげたり、保存しようと思った。
何よりも小さいニンニクでも充分美味しく食べられそうである。
おそらく、今年は芽が出る前に無くなってしまうだろう。

2012年7月1日日曜日

家庭菜園の贅沢な暮らし(2012年初夏 )

教師の給料は下がる一方で、ボーナスを貰ってもさほど嬉しくはない。以前に比べればあまりにも目減りしているからである。
ただ、東北地方の失業者や企業の経営不振でリストラや減給されている人に比べればましなので、あまりぼやくと叱られそうである。

そんな中で唯一の贅沢が家庭菜園の収穫物である。
ズッキーニやナス、キュウリなど夏野菜がとれだして、ラタトーユなど家内お手製のご馳走が食べられるからである。
出荷をして金に換えることを考えれば、見合うものではないが、もしそれらを全部買ったとしたら、結構な額になる。
ズッキーニなどは季節にもよるが、一本100円以上することもある。毎日これから贅沢にも朝の味噌汁に入れたり、ふんだんに食べられる。
今年は黒ニンニクを作り始めたし、前年収穫した黒大豆は酢大豆にして毎日食べている。ジャガイモのキタアカリは電子レンジでふかしてビールのつまみにしている。

都会では1ヶ月6,000円以上の会費を払って家庭菜園をしている人もいるとテレビで特集していたが、その人達は買った方が安い野菜そのものの価値よりも、作る悦びをそのお金で買っているのだと思う。
田舎の我々は、贅沢にも新鮮で安全な野菜をふんだんに食べる悦びを得ている。
農業を生業にしている人はそれに生活がかかっているので、商品としか見られないと言うことを知り合いから聞いた。
その人達からすれば単なる趣味かも知れないが、昔のあまり現金収入がなかった頃は、自ら手に入れる作物や獲物が生活を潤していたのだから、本来の姿というべきとも思える。

今になって、この頃に「輪抜け」や「足洗」という行事があったこと分かる。私も週末や平日の帰宅後は殆ど農作業に追われているが、やっと一息つけるからだ。
昔は田植えが終わって、やっと足を洗ってゆっくりできるという意味だったが、今は機械で田植えはやってしまうのでそれ程忙しくない。
むしろ、稲作よりも畑作の方が忙しいのである。畑1反(10a)は水田1町(1ha)に匹敵するとまで言われる。
私は自分の畑や貸して貰っている畑を合計すると、1反近くになるので結構大変である。
狭い1区画で楽しみを得ている都会の家庭菜園とは全く違うが、そういうことがやれる生活はそれなりに気に入っている。

幼い頃の昔、住んでいた家の近くのノットという所で、「足洗」の夜は出店がでて、私は浴衣を着せられて出かけた。
10円持って駄菓子屋にしか行けなかった当時では、100円貰って出店で好きな物を買うことは何よりも楽しみで、未だに木の皮の舟形皿に入ったかき氷の味を忘れられない。
手回しの機械で山盛りにしてくれていた糖蜜だけのかき氷を、木の匙で口にかき込んだ。
当時はそれだけで悦びを感じることができたのだ。
田舎の家庭菜園はその延長上にあるように思う。

2012年6月28日木曜日

水耕栽培と多層栽培

たまたま本屋の農業園芸コーナーで水耕栽培という本の題名に惹かれて立ち読みし、先日購入した。
ペットボトルや発泡スチロールを用いて過程でも手作りでできる方法が載せてあった。
そこで、ネットであれこれ調べると、課題は肥料の面と肥料を入れた水を循環させる点にあった。
有機栽培を目指す自分としては、無機肥料が一般的で有機肥料は一部高価な商品に限られることが問題にとなる。
ただ、有機の液肥を自分で開発するつもりであれば可能だと思えた。

実は冬場の学校での週2回計3時間の農園作業の指導をどうするのか悩んでいたので、イチゴの水耕栽培をやってみようと思った。
苗は我が家のがあるので、本に書いてあるようにラインから苗を増やしてやってみよう。
原木椎茸の菌打ち作業と組み合わせれば、何とか冬場を乗り切れそうである。

また、たまたまテレビで見た鈴木高広氏の多層栽培には驚いた。食べることしか考えてなかった芋を燃料として使うことは全く考えていなかったからだ。
実は今年は去年とれたジャガイモに芽が出てしまい、コンテナ3杯ほど捨ててしまった。
今年は何とか保存しようと乾燥して燻製にしてみるつもりだった。
燃料として用いるのなら燻製する必要がない。
鈴木氏は電力化を目標としているが、その前に暖房や木炭の代用として可能であるように思う。
そもそも、ハウス栽培の燃料として乾燥芋を用いればよい。

ネットで「芋エネルギーは日本を救う」を読んだが、 
「全国の芋の年間収穫量は2~3kg/㎡。1年かけて4時間分の太陽光のエネルギーしか固定できない計算です。現在の農業が非常に効率悪く行われているかがわかりました。・・・日光の5%しか植物が必要としないのであれば、棚をマンションのように多層に重ねて、光を分散させてやればいい。当然、下の棚には光が届きにくいので、比較的弱い光でも育つ作物で、なおかつ日本全国で栽培可能なもの。そうやって探していくと、現時点で最も優れていたのが芋」という。
すると、水耕栽培と多層栽培を組み合わせられれば良いわけである。
ただ、現在のところやっと根菜類の水耕栽培が可能になったところというのであるが、芋は比較的肥料を多く求めないので、砂に液肥を用いてみる手があるだろうと思い実験してみるつもりである。

田舎にいて農地を求めることが意外と難しいと思っていたが、水耕栽培と多層栽培はその課題を克服してくれるように思う。
一方、ハウス農家も、高いビニール資材や燃料代を節約するために、薪ストーブを使って乾燥芋を燃料として用いる手はどうだろうか?
芋の乾燥はビニールハウスを用いれば問題ない。
 少し、農業に希望がもてたような気がした。

2012年6月23日土曜日

鳥は「盗り」~枇杷の収穫 2012/06/23

今日枇杷の実の収穫を行った。実は残ったらっきょうを収穫して、黒大豆の種を蒔いたり、薩摩芋の蔓を採って植えるつもりであった。
ところが、赤穂の畑に行ってみると、あれほど厳重に防鳥ネットを張っていたのにも関わらず、袋がけした枇杷のみが食い荒らされていた。
こちらも、うかつであった。枇杷の熟れ具合を調べていなかった。

防鳥ネットをして油断もあった。最初家内はあまり上手に採っているので、人が採ったと疑ったが、地面に食い荒らされた残骸が残っていたり、突いた実が落ちていたので殆どは鳥のせいだと思う。
おそらく以前にも採っていった椋鳥ではないかと思う。
確かに、人も通りがけで採っていく人もいたかも知れない。姫路では農作物を採っていく人が多くて困ることを聞いていた。赤穂のこのあたりでは、あまりそう言う話は聞かない。

枇杷のみを採るつもりが無かったので、脚立も用意していなかった。そこでいっそうのこと枝毎残りを採ることにした。
以前採られた時も、腹立ち紛れにばっさりと枝を多く落としたことがあった。枇杷は強いもので翌年もちゃんと実をつけてくれた。
今回は本当は前もって剪定しておいて、ネット張りやすくするために低くするつもりでいた。それを今やるだけのことである。
そもそも、これだけ手間を掛けて袋がけして駄目なものは、剪定によって枯れても惜しくはない。鳥にやるくらいなら伐ってしまいたいくらいである。

収まらない怒りを抑えながら、ばっさばっさ切り落として、家内に残った実をちぎって貰ったら、意外に残っていて買い物袋一杯にはなった。
大きさも袋がけの時に2~3個になるよう摘果したり、枝を剪定したので大きく、3cm位になっている。
枇杷は剪定や摘果を怠ってそのまま実をならすと種だらけのみになり、人にあげるどころか、自分家でも食べて貰えない。
人にあげても恥ずかしくない実にはなっていた。

しかし、半日掛けて袋がけ剪定した労力の半分以上は採りに持って行かれてしまった。
人は動物や昆虫の労力を搾取するのが普通なのだが、今回は鳥に我々の労力を搾取されてしまった。
動物愛護や失われる自然を惜しむ立場でいた者が、とんだしっぺ返しを喰らってしまった。
貴重な休みの土日の時間を使って大切に果樹を管理している者としては、収穫物の半分以上も鳥に差し上げる気にはなれない。

ネットによれば鳥の語源は「飛ぶ」ことにあり、古代では狩猟の対象で「獲る」ことからという説もあるという[http://gogen-allguide.com/to/tori.html]今の私の感情からすれば、大切な農作物を「盗る」から「鳥(とり)」である。
恐竜の生き残りとされる鳥の方が、先住民で入植した人類の方が新参者なのかも知れないが、ツバメなどは例外としてなかなかうまく共存できないものだと思う。

まだ、無花果も夏場にはあるし、来年の枇杷の収穫は虫も通さぬ防風用ネットを駆使して、対抗しようと思っている。
落花生はカラスにやられて、赤穂では作るのは諦めたが、果樹ばかりはそう簡単に撤退できないので、何とか今度は勝利したい。
数の減ってきた上郡と違い、赤穂の鳥はなかなか手強い。
農村地帯ではない赤穂の方がかえって自然が残っているのかも知れない。

やもりのやっちゃん

我が家では風呂の窓にへばりつくヤモリのことをやっちゃんと親しみを込めて呼んでいる。
やっちゃんは1匹ではなくて、多い時には3匹ほどにもなるが、すべてやっちゃんと呼んでいる。
今年も冬の眠りから覚めたやっちゃんが現れた。

自分の小さい頃は風呂や便所が屋外にあったので、隣の塀にへばりついていたヤモリが怖くて嫌だった。
蛇はつかむことができたが、トカゲやヤモリは苦手で、触ることも見るのも嫌だった。

ところが、くもりガラスの向こうで白い腹を見せて動き回るヤモリはとても可愛いく思えている。
やっちゃんは窓にへばりついて、風呂の明かりに集まる蛾を待っている。
ひらひらガラスにまとわりつく蛾を、じっと待ち伏せて来たところに飛びついたり
離れた蛾の所まで走っていって捕まえようとする
ところが、蛾もそう簡単には捕まらない
風呂に入ると、じっとその狩の様子に見とれてしまう

やっちゃんもうまい下手があって、うまいのは体も大きく小さい仲間を追っ払う
やっちゃん同士は縄張り争いも激しく、しっぽで威嚇したり、たまに鳴いたりする
尻尾がちぎれたのは、ケンカで失ったようだ
追い払われる小さいのを応援するが、 大概は逃げ出してしまう
ところが、大きいのが失敗して、その逃げた方向に蛾が来て小さいのが、それを頂くこともあって面白い

家内もその様子を風呂で見ているので、やっちゃんの話題で盛り上がる
家内は長風呂なので、やっちゃんを見るのが何よりも楽しみのようだ
暑がりの私は湯船から出てながめることもしばしばある
夏場のやっちゃんはお風呂のお供なのである

ただ、蛾にすれば、可愛い目をしたやっちゃんも、獰猛な恐竜の生き残りなのだろう。
どうしても、蛾の立場にたって考えることはできないけど・・・

赤穂弁と多方言主義

「よしてっけえ」というのは私が育った赤穂の尾崎あたりでは、何か遊びや、集まりに自分も入れて欲しいという時に使う言葉であった。
中学校から姫路に通い出したのだが、「よしってけえ」というと「どういう意味や」と笑われた。
同じように「よして」という言葉を連発していた1年上の先輩は、「よして」というあだ名がつけられてしまった。

赤穂では「でーしょん」という言葉をこの地域の特徴ある言葉として、「でーしょん祭」を企画したりしている。
「でーしょん」というのは関西弁の「どないしてん」、標準語の「どうしてる」 にあたるが、「でーなんね(どうしてるんだ)」とか「でーしたらえん(どうしたら良いの)」という言葉もよく使う。
私は小学校の担任の先生に「でーしょんだっせ いっしゃん(私のニックネーム)」とよく叱られたので、下級生からもそう言ってからかわれた。
赤穂高校に勤めていた相生出身の先生が生徒から「でーしたら、えんですか?」と聞かれて、意味が分からなかったと聞いた時、思わず苦笑してしまった。

私は赤穂でも「尾崎のがんら(柄が悪い)」と言われて、一番言葉遣いが悪いとされる地域に育った。
小学校の時は方言を使うと言い直させられた。それが授業以外でもするように教師から求められて、互いに監視し合う雰囲気になってしまった。
私は中学校から赤穂を離れた関係で、あまり赤穂弁は話せない。弟はずっと尾崎なので、弟らと話をする時は、尾崎弁やら姫路弁やら関西弁が混じる。
父親はもともと赤穂の西外れでの鳥撫出身なので、備前の言葉の混じった独特の言葉を使っていた。
母親は生まれは備前福河だが、相生育ちなのでそれも赤穂とは違う言葉使っていた。ようするに家の中では多方言地帯になっていたのである。

家内は両親とも広島県出身なので、家の中では広島弁が共通語である。それが家を出ると相生弁だったので、言葉やイントネーションが両方入り交じった妙な言葉をよく使う。
本籍も結婚する前迄は広島県だったので、「おまえは広島県人や」と冗談を言うと、「なんですいね 兵庫県人じゃけん」と冗談で言い返す。

ところが、テレビで育ち、友達も少なかった息子は方言が使えない。しかも、漢字言葉を連発する。方言が我が家で途絶えてしまうのはコウノトリの絶滅以上に哀しい。
私は教師という職業柄、授業では標準語を使うように心がけてはいるが、授業を離れると色々渾然とした方言を使っている。
以前は気取った言い方の時には、大学院時代に住んでいた所の、東京弁をつかい女房に皮肉を言われた。
だから、東京で暮らす弟が帰ってきて東京弁を使うと、お尻がむづ痒くなる。
文章を書く時は東京弁に近い標準語で違和感はないが、話す時は東京弁はカタカナ英語以上に違和感を感じる。

近年職場で英語を用いることを強制する企業が現れ始めた。
グローバライゼーションに日本がついていくためだという。
日本はずっと中国で生まれた漢字言葉を多用してきた。ただし、書き言葉としてである。
言文一致と良いながら、明治時代の小説の漢字言葉には閉口する。
そう言いながら、このブログも漢字言葉を用いないとまともに書けない。
ようするに、中国が世界でも冠たる文明の先進地域の時は、知識層を中心にグローバライズされていたのである。

英語がイギリスやアメリカの帝国主義の影響でスタンダードになった今、それに追随する必要はあるとは思う。
それなら、従来通り書き言葉やちょっとした日常会話に留めて、日常会話には方言を使うことをおすすめする。
東京に集まった地方出身者が、会議で方言と英語でバトルしている姿は愉快に思える。

「おみゃーさんよ それまちがっとるで いかんわ」
「あほか おーとんきまっとるやろ」
「That's right!」
「でーしたらえんですか? 課長!」
「わしゃ 広島じゃけん まかせるわ」
「ざけるんじゃーねーぞ!」
「くん しがたや はごさんくぁ-」
「んだ!」

という風な会話がなされるとは思わないが、遊び心を失った組織こそ、グローバライゼーションに取り残されるように思う。
正確に意思疎通をするだけが言葉ではない。
世界を背負おうとするなら、「よしてっけえ」と叫ぼう。
企業の仲間内で固まってしまわずに・・・ 

2012年6月20日水曜日

やはり減った鳥などの生き物

鳥はやはり減ったと思う。家内とも話したが一番に上がったのはケリだった。
ケリは上郡に来て初めて知った鳥だが、田んぼの中にいて「キキキキー」とうるさく鳴いて、人にまで向かってくる気の強い鳥だ。
この鳥は自分の縄張りを、同じケリ同士で競うが、カラスなどに対しても攻撃する。
時々夜中にも鳴いて、賑やかなやつだなと思っていた
ところが、このところいるにはいるが、数が本当に少ない

次に全く見ないのが、アマサギでこれは田植え時分に必ずいた。
最初は、季節的に頭の部分が黄色くなるのかと思っていたが、そういう種類で夏だけ来る渡り鳥だという。
サギはいろんなサギを見かける。ダイサギやコサギ以外にも、ゴイサギやアオサギも見ることもある。
ところが、田植えの時に必ず沢山いたアマサギを全く回りで見かけていない。

カラスや鳶も減ったと思う
カラスと鳶が空中戦をするのが面白くて、でかいのにカラスにやられている鳶を応援したくなるのだが、その風景をとんと見ない。
カラスは冬に集団で見かけることがあるが、夏でもいついているカラスをあまり見かけない
カラスは電柱にとまって「かあ かあ」と人が近づくとうるさく鳴くし、どういう訳か屋根の温水器をこつこつ突いていた。

相変わらず蛙は田んぼでうるさく鳴いている。
ただ、数は以前よりも減ったと思う。特にアマガエルとかツチガエルが少なくなった。
そう言えば蛇も今年はあまり見かけない。
家の近くではマムシさえ道路で車にひかれているのをたまに見かけたが、このところシマヘビやカラス蛇を見かけない。
ひょっとしたら、蛙とか小さな昆虫が減ったからかも知れない
そういえば川の小魚も減っているように思う。

哺乳類に関しても、確実に鹿以外の動物は減っている
よく見かけた狸や狐も最近見ないし、猪も降りてきていない
このところ厳重に鉄柵を山際に張り巡らしたので、降りて来られないのかも知れない。

これらの動物や昆虫が減った原因として考えられるのは、近年行われている無線ヘリによる空中農薬散布が第一に考えられる。
また、減反で草の生えている田が減ったことや、冬場から春先のレンゲ畑が減ったことなども考えられるがよく分からない。
まさか、心配している山崎断層地震の予兆とは思いたくないが、868年(貞観10年)に起こったことの再現になる。
ただ、東北大震災との関連からいくと、東北では翌年の869年に貞観三陸地震(M9.0)が起こっている。
列島の歪みの関連からすると、地震が前後してもおかしくないと思うので、用心に越したことはないだろう。

2012年6月17日日曜日

ジャガイモ掘り

ジャガイモを掘る季節になった。
この季節は雨が多いので、芋を掘るのはかなり重労働である。高齢になった家内の両親はジャガイモを作るのは数年前に止めてしまった。
一昨年はビニールマルチをしなかったので、雨上がりの芋掘りが土が重くて大変で、熱中症になってしまった。
それに懲りて、昨年からはビニールマルチを使用しているので、掘るのは幾分楽にはなった。
アルミ製のフォークス状の掘り起こし機で、家内や息子にも手伝ってもらった。
これは備中鍬を使うより簡単だが、掘り残しがでるので後でもう一度備中鍬で掘り起こしたが、一人で全部やるよりは楽ではあった。

ジャガイモは上郡の畑にキタアカリを、赤穂の畑にメークインを植えたが、上郡の方は葉が枯れる病気になったので、早々と先週から掘っていた。
キタアカリはもともとそんなに多くとれないが、早く掘ったせいもあって、小ぶりで量も多くなかった。
メークインは例年より小ぶりだが、コンテナ3杯半とれて上出来であった。
西隣の畑のNさんは、今年はジャガイモは全滅したという。万田酵素で作った種芋を貰い、切り口をよく乾燥させて、マルチも用いて植えたのだが、植えた時に3日間雨が降って、腐ってしまったという。
かつて、自分にはジャガイモを全滅させたことは無かったので、雨よりも種芋の質に問題があるように思えた。

ジャガイモ掘りで一番困るのは、蟻である。マルチをしていると特に蟻の巣が多くなる。
掘る時にその巣を壊すことになるので、怒った?蟻が服の中に入り込んで手足をかむことが多い。
蟻にかまれると赤く腫れて、痛がゆくしばらくは治らない。
私は今回、右手の二の腕の内側をかまれた。家内は肘の下あたりをかまれて、私よりもひどく腫れ上がっている。
今年は例年よりも、大きくて黒い蟻が多くいたように思う。
その一方でミミズも沢山いたが、幸いにモグラや鼠はいなかった。
掘り起こした後は虫などを求めて、よくカラスなどが来るのだが、大勢で作業をやっているので寄りつけない。
そこで近くの木の上で悔しげに?鳴いたり、バタバタ騒いでいた。

赤穂は朝曇っていたのだが、昼になるにしたがって晴れてきて、芋を掘るには過酷な状態になってきた。
先週まで喉が渇くと食べていた畑の金柑も、先日来の雨で多くが腐っていて、最後に少しだけ奥の方のが食べられただけだった。
赤穂の畑の金柑は大変甘くてみずみずしくて、喉の渇きを癒すにはもってこいだった。
わざと採らずにおいていた金柑もおしまいになった。

ジャガイモを掘る一方で、らっきょうを掘っていたが、その後にマルチを張って、薩摩芋の蔓も植え足した。
この蔓は、上郡の裏の畑で芋から生やしたものと、早くから植えていた1本50円の蔓の脇芽が伸びたものを使った。
これで買った芋づるが70本、 生やした蔓が40本ほどになった。1本50円の苗も買った20本以上は増やしたので、もし同じように芋がなってくれれば、蔓は25円以下のコストになる。
例年よりも多く植えたのは、例年よりも生活費を切り詰めたいという思いからだ。

冬場の薩摩芋と夏場のジャガイモ
どちらも主食にはならないが、食生活には欠かせない。
このところ、干した輪切りの大根の燻製が成功し、干したニンニクの燻製もまあまあなので、ジャガイモも干して燻製にしようかとも思っている。
ジャガイモは日持ちは良いが、芽を出させて捨ててしまうことが今年は多かった。
一方でポテトチップスを買って食べるので、日頃から簡単に食べられるようにしておくのも、食べ切ってしまうこつのように思った。

2012年6月15日金曜日

平家伝説と小野豆

私の住んでいる上郡の高田地区には小野豆という山頂集落があり、今では廃屋も目立つが、何軒かまだ暮らされている。そこには平家伝説が残っていて、上郡町のホームページには次のような物語が載せてある。

小野豆の集落は、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた経盛たちが、播磨の国の西端、相生の入り江に上陸し、人目を避けて山深いこの地に隠れ住んだといわれています。その小野豆へ源氏の追手が現れ、川に茄子の蔕が流れているのを発見し、草や木を掻き分けて探している最中、鶏の鳴き声が聞こえ、経盛はジャンジャン穴と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを見つけられてしまい、助かる見込みがないと判断し、自害したと伝えられています。経盛の死後、家来たちは小野豆で一番見晴らしのよい場所に主を弔いました。その後、そこに建てられた寺は経盛の法名の真勝院から真勝寺と名づけられ、山号は三位卿の三位をとって三位山としました。また、小野豆の集落では、この由緒から昭和6年まで鶏を飼ったり、茄子を作ることはしていませんでした。[http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7069]

この小野豆にはよく運動がてら散歩に行くのだが、たまにジャンジャン穴にも立ち寄ったりする。ただ、入口がえらく狭くて本当に中に入ったのかと思うくらいである。
そこから少し上にある平家塚からは遠く瀬戸内海を見ることができ、確かに物語の叙情を醸し出してくれる。
真勝寺も以前は残っていたが、いつの間にか取り壊されて、跡地だけが残っている。住んでいる方もご老人が多いので、不便なこともあり、いずれ廃村になってしまうかも知れない。ただ、寒い上郡にあっては霜も降りず、意外と暖かい暮らしやすいところと言われている。
もっと山奥に入れば、ゴルフ場にしかかって道だけが残った所が広がり、山歩きやモトクロスもできる。
私は以前は桑の実などを採りによく山に登った。ここには以前住んでいた人が植えていた桑以外に、柚なども残っており、誰も採らずに放置されていたりする。
しだれ桜は有名だが、道が狭いため事故が起きたりするので、シーズンでは麓の空き地に車は停めて、歩いて上がった方が賢明である。途中で見える風景もなかなか良い。
移り住むか、山小屋を持ちたいと思った集落だが、大雨で道が途絶したりする。
手入れできない植林された場所は木が倒れたまま放置されたり、山肌が崩れたりしている。
ちょっと住むのをためらう場所となってしまった。

最近奄美のことを色々調べる内に、喜界島には小野津という所があり、そこの近くにも平家伝説が残されていることが分かった。
観光案内のホームページには次のようなことが書いてある。

その昔、壇ノ浦の戦いに敗れ、南島に落ち延びた「平家の落人」が残したものであると伝えられております。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着き、島に上陸すると、源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。[http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/a/heikemori.shtml]

奄美諸島には数多く平家伝説が残っており、たまたま地名が「おのず」と「おのつ」と似通っているだけかも知れない。
そもそも、奄美では与路(ヨロ)は本来、本来ユンと発音していたりして、漢字読みが従来の発音ではない場合が多い。
これは上郡に関しても昔発音されていたのとは違う漢字表記音になっているかも知れない。
共通しているのは、外部からの侵入に対する警戒である。上郡の小野豆は昭和初期まで警戒を続けていたことが分かる。
喜界島は琉球王朝に対しても最後まで抵抗していたことから分かるように、本来は独立性の強い先進地域であった。

また、加計呂麻島(カケロマジマ)の生馬(イケンマ)の生まれ、美人 ウラトミは役人の妾になるのを拒み小舟に乗り流されて小野津に着きここで暮らす、娘のムチャカナも美人であったが故に友の嫉妬にあい死を遂げる[http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/introduction/kikai2.html]。という抵抗の物語も体制への抵抗を物語っている

上郡の歴史も赤松氏の嘉吉の乱における室町幕府への抵抗はあまりにも有名である。
この上郡は中世において播磨の中心であったのにも関わらず、現在はあまり知られていない。明治維新期に活躍した大鳥圭介と上郡を結んで考えてくれる人も少ない。

一端歴史の時流から離れてしまうと、忘れられるところは喜界島と共通しているのかも知れない。

現代の上郡町は兵庫県で学校給食が唯一無い校区として保護者には評判が悪い。市町村合併の際も、すったもんだして結局赤穂市との合併は果たせなかった。
赤穂生まれの私はまた赤穂人にもどれることを楽しみにしていたが・・・
ただ、私のような東京から都落ちした者にとって、晴耕雨読のできる自然豊かなふさわしい場所のように思えたりもしている。別に隠れて住んでいるわけではないが・・・

2012年6月12日火曜日

姫路城

私は赤穂生まれの赤穂育ちでありながら、赤穂城より姫路城の方が馴染みが深い。
赤穂で育ったのが尾崎で、お城から離れていたのに対し、姫路城は中高一貫の私学に通っていて直ぐ傍にあったからである。
今でもよく思い出すのは、学年が上がって教室が3階になったが、その階のトイレから見える朝日に輝く姫路城である。小用をたしながら、真正面に見えるお城。
「今日は格別、綺麗に見える」とすっきりと呟いたものである。

当然、このお城は体育の授業で冬場のランニングに用いられた。内堀の回りを3周することが多かった。城前のお土産物屋付近から漂う、たこ焼きの臭いが空きっ腹には堪らなかった。
クラブではもう少し離れた男山の階段での筋トレがなされた。校内合宿での姫山公園の夜のハイキングは、先輩から受け継いだ楽しみの一つであった。
友人の多くは、デートの場所として、姫山公園を用いた。男子校だったので隣の女子校の生徒とカップルになることが多かった。
ただ、姫山公園でデートをすると別れるというジンクスがあった。友人の殆どはジンクス通りになった。

学生時代、姫路城に入場料を払って上ったのは一度だけで、あまり暇なので友達とふざけて上った。ところが、私は概観の美しさより、内部の神秘的な雰囲気が意外にも良いと思った。
どちらかというと不真面目な生徒だった私は、朝の姫路駅からの通学のコースをわざと遠回りで、大手門から三の丸広場を通って、動物園の傍の道を通り抜けて、美術館の傍に出てくるコースをたどった。(生徒の頃は、まだ美術館ではなく、裁判所だったと思う)
雪が降ると、わざと遅刻して、友達と雪の中ふざけ合って遊び、休み時間を見計らってこっそりの教室に入って、濡れた靴下をストーブで乾かした。
雪の姫路城は、日本で一番美しい風景と今も思っている。

世界遺産になってあまりにも有名になった姫路城だが、自分たちは天守閣周辺よりも、その北側の公園の方が馴染みがあった。
天守閣の北側は鬱蒼とした森となっていて、狸でも棲んでいる雰囲気があった。公園に設けられた屋根付きの休憩所では、平日でも暇な人が将棋をしていたりした。
学校の運動場は狭かったので、ソフトボールやサッカーを楽しんだり、国語の教師は授業中に散歩させて、俳句を作らせた。他にはない格好の材料だったのだろう。
美術の教師は日本画家で、姫路城を専門に描く東北なまりの先生だった。
私らも城を何度か描かされたが、ややこしい造りだったので面倒だった。

朝敵になったが故に、明治以降は恵まれなかった姫路。
城は売りに出されたのは有名な話だし、空襲に遭わなかったのは単に暗くて標的にならなかっただけと聞く。
本来は姫路が中心となって独立した県になるべきだったが、特に大久保利通を中心とする薩摩閥の政策で、神戸の後背地の座に甘んじた。
それに沿って置かれた大日本帝国陸軍の第10師団の本部の跡地に我が母校はあるのだが、戦後カトリック系のミッションスクールの敷地になったのも皮肉なものである。
私が奄美の研究のついでに、薩摩を調べるのも何か因縁めいて愉快である。
そういえば同じカトリック系のラサール校は鹿児島が有名だ。 あちらは母校に比べて、お城から遠いようだけど東大には近い・・・




2012年6月11日月曜日

砂糖と塩

私が奄美諸島を研究し始めたのは、南山大学の文化人類学研究会の先輩が与論島を村落調査しており、それに憧れを持っていたからである。
ただ、思い起こせば、高校生の頃たまたま近くの唐船という海岸でに夜行った時、不思議な人達が太鼓を打ち鳴らして、踊っているのをずっとながめていたことがある。
沖縄の人か、奄美の人か分からないが、八月踊りを浜辺でやっていたのだろう。

考えてみれば、兵庫県は神戸を中心に奄美や沖縄出身者が多く住んでいるので、そういう人と出会うことは別段不思議ではなかった。そもそも、神戸の川崎重工は鹿児島出身者川崎正蔵が創立した。有名な松方コレクションは、川崎重工の前身川崎造船所の社長松方幸次郎が収集したものである。その父親は有名な松方正義で鹿児島県出身者であった。
この川崎重工には奄美諸島の沖永良部からの出身者が多く働いていることは、『阪神都市圏における都市マイノリティ層の研究』  西村雄郎 2006  社会評論社を読めばよく分かる。

このところ、奄美に関する2冊目の出版を手がけて、あれこれ文献にあたっているのだが、島津藩の奄美に対する植民地支配との関連から、砂糖の文献をいくつか読んだ。砂糖という物が世界的にいかに植民地支配と関わっていたことがよく分かった。
一方、塩は殆ど自分には関心がなかった。私の赤穂での師匠、故廣山堯道氏(元赤穂高校の教師 元赤穂歴史博物館館長)は赤穂の塩の研究の権威であるし、知人には何名か塩業の研究者がいるのだが、研究しようとは思わなかった。
江戸時代の専売制ということを調べると、砂糖と塩は類似点が多いと言うことも分かった。知人西畑俊昭氏によれば赤穂は専売制とは言えないということだから、飛び抜けた塩業経営者の支配と言うべきなのだろう。
奄美は世界史的には植民地的支配による黒糖政策と言うべきだろうが、日本史的には最も過酷な専売制とも言える。その中で、ヤンチュと呼ばれる人身売買された人が多く生じたことは有名である。
一方の赤穂は過酷な労働を行う浜子という塩田労働者がいたことで知られ、私の住んでいた尾崎は塩業労働でトラコーマになる人が多かったことが、世界的に知られていたという。 ただ、浜子は契約によって働き、人身売買によるものではなかった。

奄美は沖縄と並んで黒糖の生産地として有名であり、一方赤穂は先進的な塩田技術による塩の生産地として有名である。労働形態の大きな違いはあるが、過酷な労働が行われていたこと以外にも、飛び抜けて富裕な現地経営者がいたことが共通している。
奄美大島では衆達として、田畑家が有名だが、赤穂では柴家、田淵家、奧藤家が有名である。江戸時代に行政支配者であった士族との関連も調べてみると面白いかも知れない。
明治以降は砂糖は台湾などの植民地支配によって廃れていき、一方、塩は専売制によって生きながらえていった。赤穂はイオン交換技術での生産が融雪剤生産や、海洋深層水の生産、赤穂ブランドによる「天塩」の販売として生き残ってはいる。奄美諸島ではキビ酢などの新商品も開発されているとはいえ、黒糖そのものは沖縄県ほどのブランド価値は維持できていない。

こうやって奄美諸島を研究し続けていることが、赤穂の歴史への関心にも繋がったことは愉快でもある。 廣山堯道氏の恩にも報いるためにも、その比較をいずれ行ってみたいと思っている。



2012年6月9日土曜日

薩摩芋の植え付け

今年は苗をいっぱい採ろうと、5月の連休には赤穂の瀬尾種苗店で、品種改良をしたという1本50円もする「べにあずま」の芋づるをを20本買って植えたのだが、温度が低かったり雨が降らなくて、いっこうに苗は伸びなかった。
上郡の方でも冬を越させた種芋を畑に植えて、トンネルをしたのだが、水をやるのを忘れたこともあって、最近になって少し伸び始めた。
仕方ないので、上郡の旬彩蔵で1本25円の「鳴門金時」を50本買った。その苗は近所の農家が作った物で、なかなか苗としては茎も葉っぱも元気の良い物だった。
その蔓は、赤穂高校の近くにある畑に持って行き、先週収穫した玉葱の畝をそのまま利用して、マルチを張り、大きなスコップで穴を開けて植えていった。先に植えた「べにあずま」もようやく蔓を伸ばしてきたので、6本ほど取って植え付けた。
昨夜から雨は降っていたが、水をたっぷり、井戸からバケツで汲んでかけてやった。

この薩摩芋、小学校でも学習で栽培するし、勤めている特別支援学校でも農園でよく栽培するのだが、簡単そうに見えて、意外と手間がかかって難しい。
雨が少なかった一昨年は、担当した学校の農園の芋に水をバケツに汲んでかけ続けたが、結局は収穫も少なく、バザーで販売することができなかった。
昨年は逆に雨がよく降って蔓もよく伸びたので、 蔓を刈り取って苗にして多く増やした、その苗にもそこそこの芋が秋にはついた。安納芋だけは駄目だった。
学校の農園の方は別の教師が主に担当していた。化成肥料を多くやったせいかもしれないが、「べにあずま」は多くとれたのは良いが、カボチャのようなでかい芋が殆どだった。
どうも、形から想像するに、何個かの芋が成長の過程でひっついてしまったような感じがした。
姫路で家庭菜園をしている人も「べにあずま」は同じ状況だったことから、品種と気候のせいかもしれない。
因みに私は「金時」系の「べにあずま」や「なると」を植えていたが、そういう状態にはならなかった。ただ、蔓を刈って少しずつ増やしたのだが、遅くなったのは殆ど芋は大きくならなかった。

実は、薩摩芋は赤穂の畑の隣や近くの人は、砂地で適しているのにも関わらず、あまりうまく作っていない。西隣はうまくできなくて、作るのを止めてしまい。水やりの大変な里芋を主に作っている。
昨年は、東隣は安納芋を作っていたが、葉が多く茂りすぎて、蔓呆けをした感じだった。そのまた東隣もうまくいかなかったとぼやいていた。
西隣の人は私の父親が薩摩芋を作っている様子を見ていたので、教えてくれたのだが、父親は薩摩芋を作る場所は毎年同じ場所にして、冬場はマルチを張って他の作物は植えていなかったそうである。

私は子どもの頃に芋を掘る手伝いをした憶えはある。芋の畝にはモグラのトンネルがあり、それを掘り続けて、モグラが出てきて驚いたのをよく憶えている。
刈り取った蔓は、畑に大きな溝をこさえて、その中に埋め込んでいた。
父親は薩摩芋を非常に大事にして、温度が15度以下にならないように、暖房をした居間のタンスの上などに新聞紙などで一つ一つ包んで段ボールに入れて保管した。
親戚から貰った紫芋なども、自分で苗を作って増やした。収穫した沢山の芋は、干して乾燥させて粉にしてパンケーキなどの生地に混ぜて食べたりもした。
学生時代、仕送りの少なかった私は家から送ってもらった薩摩芋を、ガスストーブで焼いて、食事代わりにした。だから、薩摩芋は食べ飽きて、しばらくは自分で作る気にはなれなかった。
戦時中にカボチャを食べ飽きたと言って、カボチャをあまり作らなかった父親と同じである。

私は父親ほど薩摩芋には入れ込んでいない。ただ、薩摩芋の場所はできるだけ同じにしているが、冬場には玉葱やニンニクを作っている。馬鈴薯だけは避けている。
去年は久しぶりに収穫が良かったので、薩摩芋の好きな母親にあげると喜んだ。
私は石油ストーブに石を敷き詰めた土鍋を置いて、その中で焼いて食べたし、干してつまみ代わりに食べたが、なかなかいけた。家内や息子は好みではなくて、あまり食べなかったが、弁当のおかずなどにはよくしていた。

何より、薩摩芋は上郡から遠くにある赤穂の畑で、夏場は放っておけるありがたい作物だ。
スイートコーンや落花生のようにカラスの被害もない。 肥料もあまりやらなくていい。
上郡では山に近いので猪の心配もあるし、粘土質の土壌にはあまり適していない。
今年は天候が不順な感じがする。雨も例年になく少ないので、あまり期待はできない。
去年の安納芋のように失敗しないか不安もある。
2250円の元手は何とか取り戻したいものである。

2012年6月8日金曜日

作物と暮らし

私は結婚して子供が生まれてからこの方、畑仕事を続けている。
父親の手伝いをさせられていた頃は嫌で仕方なかったが、子どもの健康のために、無農薬で有機肥料を使って作るようになった。
畑をする人の中には、自家用の作物にもたっぷり農薬をかけて、化成肥料だけで育てる人もいる。
それなら、買って食べた方が余程安上がりだと思う。
そういう人は食の安全のためではなく、立派な作物が沢山とれるのを目的としている。

始めた頃は失敗の連続で、バージンラックで成功することもあったが、玉葱でさえまともに作れなかった。
除草剤やマルチを嫌がって、草だらけになった畑の作物は非常に貧弱だった。
化学農薬の代わりに、酢や馬酔木や煙草の吸い殻などを自然農薬として使うこともあった。
それでも病気には勝てなかった。

紙マルチを使ったがコストが高く、結局ビニールの普通のマルチを使っている。
寒冷紗を多用して、これが無農薬の本領と言える。
また、寒冷紗が無理な作物のウリバイなどにはニンニク、酢、唐辛子を混ぜた忌避剤なども使ったりもする。
意外と草木灰が青虫に効いたりする。

肥料は以前は堆肥や液肥、米糠(EMボカシ)が主力だったが、今はそれを補助的に使い(EMボカシは現在作っていない)、鶏糞と菜種油糟、有機石灰が中心となっている。それで充分である。
トラックがあれば、近くで鶏糞はただで、牛糞は安く手に入るが、残念ながら今は家にはない。

機械は草刈り機と小さな耕耘機、三カ所ある畑は広さを合計すると200坪ほどになるので必要。
畦や道の草を刈るのも一仕事である。村作業にも草刈り機は欠かせない。
それでも、なるべく運動のためと思い、備中鍬や平鍬をつかって耕したり、大鎌で草を刈ったりする。
水も用水路から柄杓でくみ上げて運んでいる。
肝心なのは無理のないように機械を用いることである。

夢は玉村豊雄さんのような生活だが、才能が違いすぎると諦めてはいる。夢は夢・・・
彼のようにはなれなくても、畑仕事が暮らしの中にあるのは、健康的で生きているという実感を感じさせてくれる。
因みに勤めている特別支援学校でも農園作業を担当している。 少しは役に立っているのである。

このような田舎でも陽に焼けることを嫌って、畑仕事を嫌がる女性や、畑仕事そのものを面倒くさがる男性も少なからずいる。

畑仕事は時給計算で行くと採算に合わない。パチンコや釣りの方が楽でスリリングだろう。
でも、それに伴う健康と美味しさと収穫の楽しみは、その採算やスリルとは別次元である。
夫婦や親子でも、畑作りは一緒にできる。人にあげても喜んでもらえる。
これをスポーツと言うべきか、ゲームと言うべきか、レクレーションというべきか・・・否
畑仕事は単なる消費ではないし、運動を伴う生産であり、暮らしの一部でもある。

発展途上国と違い、生きるためにやむなくする農業ではなくて、生きる証としての物作り。
夜勤や肉体労働で疲れている 人には無理かも知れないが、そうでない人はスポーツとはひと味違う畑仕事を味わって欲しい。
作物は天候に左右されるが、子どもよりは言うことを聞いてくれる。
畑仕事で汗をかいた後のビールはたまらない。
死んだ親父の残した畑で家内や息子と一緒に過ごす時、ささやかな幸せを何よりも感じる


2012年6月4日月曜日

地元の親戚の支え

私の父親は赤穂の鳥撫(鷆和の一集落)出身で、親戚がそこには多い。父親は転職して会社勤めになり、住居もそこから遠く尾崎になった。
父親の兄弟は鳥撫に二人、妹が嫁いで加里屋にいる。ただ一人だけ遠く名古屋に叔父家族が住んでいる。
今回、その叔父が糖尿病が災いして足を切断せねばならなくなった。精神的に本人やその連れ合いの叔母も参ってしまい、赤穂の兄弟などを頼った。
そこで、親戚が手術前に出かけていって励ましてきたが、その時に都合が悪くて行けなかった私の方の妻子と母親、名古屋に住む弟が手術後に見舞いに行った。
叔父は遠くやって来てくれた親戚に励まされたのか、元気にリハビリに努めている。私たちには悲観した様子は見せなかった。

もともと私は鳥撫に生まれだったが、尾崎に引っ越した後も盆正月以外に、従兄弟や叔母のいる鳥撫の本家にはよく泊まりに行った。
小さい頃は、盆正月に鳥撫の本家に父親の兄弟姉妹が集まって賑やかにするのが、何よりも楽しみだった。
それが、中学生頃からどんどん足が遠のいていった。大人と子どもを区別する食事で、子ども扱いされるのがどうも嫌になったからだ。
成人すると葬式や法事以外の付き合いは殆ど無くなった。

今回名古屋まで叔父を見舞いに行ったのは、父親が亡くなって母親を連れて行かねばならなかったこともあるが、私自身が叔父に世話になったことからである。
都会に親戚があまりない私が大学に進む時に、名古屋の大学を選んだのは叔父がいたからである。進学してしばらくは叔父の借りているアパートを間借りして、近くの叔母のする喫茶店で食事をさせて貰った。
別のアパートに下宿してからは、叔父家族とは疎遠になり、東京の大学院に進学してからは殆ど名古屋の叔父を訪ねることはなかった。
それでも、私は叔父を頼って関わりを持った方で、もう一人の鳥撫の叔父の息子は、同じ名古屋の大学に進学しながら、一度も訪ねることはなかった。
私の弟も4年前に名古屋に単身赴任しながら、一度も訪ねていないと言うことなので、見舞いが良い機会として訪ねることになった。

どちらかというと、田舎育ちで社交下手の叔父は、家と職場を往復するまじめなサラリーマンで、趣味もゴルフ程度だった。
故郷の赤穂には元気な頃には毎年盆と正月には必ず帰省して、以前は退職後は赤穂に戻りたいと言っていた。
叔母は東京や名古屋の都会育ちだったし、子どもも名古屋で仕事して、家庭を築いていたので、叔父だけが赤穂に戻るということはできなかった。
肉親と呼べる人は家族以外に近くにいなくて、赤穂に年に戻ってくるのが楽しみだったが、退職後は患った糖尿病が元で透析を3日に一度する必要があり、赤穂に長くは滞在できなくなった。

 子どもが独立して二人暮らしになった叔父夫婦だが、子どもは叔父夫婦をよく見舞っている。特に看護師をしている娘はそうである。それでも、遠く赤穂の親戚を頼ったのは、叔父には何よりも赤穂の「肉親の情」が必要だったのだろう。
私の父親は名古屋の叔父が赤穂に戻りたいといった時に、現実は難しいと言って突き放した言い方をしていた。確かに現実はそうだった。
それでも、無理して赤穂に戻ってきていたら、これほど糖尿病はひどくなっていなかったようにも思う。
赤穂市に住む叔父の兄弟は盆正月や法事以外は、それ程飲食を共にしなかったが、畠仕事を共通に持っていていた。それぞれが競い合って、薩摩芋やら野菜を作って互いに自慢し合って、配り合っていた。
同じ糖尿病の鳥撫の叔父は、毎朝鳥撫から大津まで往復10km近くを歩いて糖尿病を克服している。
そういう健康的な生活をしていたら、これほど重篤な状況には陥らなかったように思う。

私にも神奈川県の都会に住む弟がいる。私は家を建てる土地もあるから戻ってきたらと奨める。
関東の地震が心配なこともあるし、病気をよくしていて、現在も難病を患っていながら、仕事を頑張っている。
弟の連れ合いが地元育ちと言うこともあるし、仕事のない赤穂に本人は絶対戻らないという。父親の葬式や法事以外には、盆正月でさえ戻ってこない。
弟はどんなに重篤な状況になっても、こちらの親兄弟を頼らなかった。これからもそうだろう。
エリートコースを進む弟は、保険や蓄えがあるので、病気や老後の心配は無いという気があるようだ。

父親の世代は高い教育も受けさせて貰えなかったが、支え合って家業をやったり、別の職についても互いに関係を持ち続けた。
我々の世代は高い教育を受けさせて貰い、安定な職に就きながら、ばらばらの生活を送っている。地元に戻った私ら兄弟(男4人兄弟もうちの二人)の間とてもそうである。
無縁化社会は都会に限ったことではない。田舎に住んでいても、関わりを絶ってしまった親子や親戚の話はよくある。
どちらかというと、煩わしいと思った親戚関係も、年老いた親の兄弟の支え合う姿を見ると、もう一度見なおす必要を感じるようになった。

2012年6月2日土曜日

蛍の舞う川

私の住む村を流れる高田川には蛍がたくさんいて、今その真っ盛りである。
上郡でももっと山沿いの鞍居川では、源氏蛍がいて乱舞する姿がすばらしいという。
こちらは平家蛍で小ぶりではあるが、蘆の中で優しく光る姿には心が和む。
赤穂の塩田地帯に育った私には、引っ越してきて初めて味わう幻想的な景色であった。
毎年、この季節には一度は見に行くのであるが、たいていは一人でぶらりと出てみる。
自分の子どもが小さい頃は、見に連れてくると喜び、夏の風物詩を楽しんだ。
今は、今年もいることを確かめに行くのであり、風情を楽しむというわけでもない。

実はこの近くの川は、この冬場に河川改修をしていた。
ユンボーで河床を均していったので、蛍はいなくなると思った。
案の定、改修した箇所には蛍は殆どいなくなっていた。
幸いなことに、一部の区間だけだったので、残された所は却って多くいるように感じた。

このところ、千種川流域では水害が多く、本流では大規模に河川工事をしている。
2004年(平成16)の台風21号による水害では、この高田川も本流に合流する付近で浸水があった。
2009年(平成21)は台風9号による水害が、上流の佐用町を中心に広がったのはよく知られている。
50年に一度の水害と2004年の時は言われたが、地域は違うが、その5年後にはそれを上回る水害となった。
私の育った赤穂でも1974年(昭和49)に大水害に見まわれたが、赤穂の有年地区はそれから30年後の2004年の台風21号による大被害を受けた。
50年に一度の水害が50年も経たないうちに起こる。
「その水害は100年に一度というのか」と冗談にもならぬことを家内と言い合ったりする。

これだけ水害が多いと、河床を浚って備えねばならないことはよく分かる。
毎年、冬場には枯れた蘆を焼いて、ゴミもついでに燃やして綺麗にするが、土までは浚わない。
もともとは扇状地で氾濫するのは当たり前だったのだろうが、今は氾濫させるわけにはいかない。
予算が無くて、全面的に河川改修できなかったことが幸いして、蛍は残ったが、できれば今後は場所をとびとびに改修して欲しい。
高齢化で村の溝掃除も苦労するようになった今、自然を守る力を維持するのも難しくなっている。
台風で倒された木を放置して山は荒れ、ますます山肌は削られ、そしてその土が川に流れ込む。

里山や村の藪や河原は、本来手を加えて管理して維持するものである。
管理できなくなった竹林や大木は根こそぎ切られ、美しくさえずる鳥は来なくなった。
せめて、子どもや孫に蛍を見せてやれるように、知人に蛍を見においでと言えるように川を守りたい。
不便な田舎を大きくアピールできるのは、華やかな花火ではなくて、仄かで優しい蛍の瞬きなのだから。

2012年5月31日木曜日

親父の残してくれたニンニク

今、私が作っている作物の中で、唯一自家製の種(鱗片)を用いているのがニンニクである。
これは父親から受け継いだもので、市販されているニンニクよりも数倍臭いがきつい。
というのも、学校の調理実習で持って行ったら、うちのニンニクを使うと、手に付いた臭いが三日落ちないと、苦情を若い人から言われたことがある。
それはちょっと大袈裟だと思うが、市販のニンニクは臭いが少なく、大玉になっている。
特に中国産などはその傾向が強く、値段も安い。
だから、自分や家内の実家を除いて、他の人にあげることは殆ど無い。

そもそも父親がニンニクを作り始めたのは、自分たち兄弟の健康のためだった。
始めはクコの葉や実を採ってきたり、栽培した。臭いのきつい豆乳も飲まされたりした。
自分は今でこそ身体は強い方だが、小さい頃は気管支炎を起こして直ぐに熱を出した。
弟たちも胃腸が弱かったりした。そこで、親は色々と健康に良いものを探して、ニンニクを作り始めたようだ。最初は小さいものしかできず、大した物がとれなかったという。
ところが、私の憶えている限り、父親の作るニンニクは、非常に大きい。
父親は薩摩芋を作ることと、ニンニクを作ることが得意であった。

私もニンニクを作ろうと、借りている畑で作ってみたが、小さい物しかできない。
ところが、父親が調子を崩してから、赤穂の唐船の近くにある実家の畑で自分が作り出したが、父親と同じ様な大きいニンニクができる。
父親は極端に畑に金を掛けるのを嫌がって、あまり買った肥料を使わず、古くは下肥を、近年では薩摩芋の蔓を埋め込んだりしていた。
私は買ってきた菜種油滓、鶏糞、有機石灰を基本として、堆肥を畑の枇杷の木の根元で作って与えており、父親とはやり方が違う。ということは、肥料の差で大きさが違うということではない。

今年は実家の畑だけでなく、上郡の家の裏で借りた水田転用の畑でも植えた。
それは、あまりにも里芋がセスジスズメにやられたからである。
ニンニクは唐辛子や酢と混ぜて、害虫の忌避剤にもしていたし、赤穂の畑は比較的虫の被害が少ないのはニンニクのお陰ではないかと思ったからである。
ところが、赤穂の畑は分けつした芽も取らずに放っておき、一方で上郡の畑では脇芽も取ったり、肥料も多めにやったのにも関わらず、断然赤穂の方が大きいニンニクができた。
赤穂が砂地、上郡が粘土質という土質の違いもあるし、赤穂は海のそばでマグネシウムなどの成分が良いのかも知れない。
確かに、赤穂では隣の畑もニンニクを作っていて、品種も違うこともあって大きいのができている。
ただ、その市販で買った種を用いたニンニクは病気に弱いらしく、自分の家の畑は良いできであった年に、隣では枯らしてしまっていた。

家内の実家はあげた種で作っているが、うまくいったと言うことを聞いたことがない。やはり、父親が残したニンニクは、長年種として残してきたことと、畑がニンニクにあった土壌になったことが幸いしているのだろうと思う。
上郡の畑は、水田の転用地なのでどうしても水はけが悪く、あまりニンニクには合っていないかもしれないが、何年も作り続ける内に、土壌も変化して、ニンニクに適してくるかも知れない。残念ながら借地なのでいつまで続けられるか分からないが・・・
癌の予防に良いと言って母親も、作ってあげると喜んでくれる。
私が食べ過ぎてニンニク臭いと家内は嫌がるのだが、調子が悪い時や、疲労が溜まったり、頑張る必要があるときにはニンニクに頼っている。
親父の残してくれたニンニクは自分にとって宝物である。
そのうち見なおされて、出荷したら売れるようになるかも知れない。
その日が来るまで、赤穂の畑とニンニクの種は守り通さなくてはいけない。
それがちょっとした、親父への供養だと思っている。ちょっと臭い浪花節になってしまった・・・。

ペーロン花火

行くつもりの無かったペーロンの花火大会に行くことになった。理由は留守番である。
家内の実家が相生にあるが、用事があって家を空けなければならない。
花火の日は留守が多いので空き巣にやられるという。家の前に車があって電気が点いていれば大丈夫だろうと言うことで、とりあえず行って花火を見ることにした。

家内の実家から港までは少し距離があるが、打ち上げる音を聞いてから歩いていって充分間に合う。渋滞する車をよそに、家族と花火を見ながら港まで行く。
子供の小さかった頃は、歩道には歩いて港に向かう人がいっぱいいたのに、若い人夫婦の連れが少しいただけ、釣具屋の前の歩道橋あたりで、やっと見物客に出会った。
それでも、本町商店街の前の交差点では、通行止めにした道を右折させるために、警察官や警備が沢山立っており、そこからは大勢の見物客がひしめいていた。

本町商店街の方に目を転じると、シャッターが下ろされて閑散としている。いくら花火がみられないとはいえ、以前はこの通りにも人が溢れていた。
出店の数も少なくなっていて、やっと播磨病院あたりになって昔の賑わいを感じた。そこからは、いつも見物する市役所の前まで行くのが大変で、たどり着いても多くの人がロータリーの道路に座って見物している。
高い駐車場ができた関係で、見通しは良くないのだが、市役所の植え込みの段に腰を掛けて、見物することにした。腹に応える懐かしい「ドン」という音。
音に驚いて泣いている赤ん坊。街は寂れていくが、花火は昔よりも数倍賑やかに夜空を彩っていた。
ただ、賑やかだけではなく、スイカを象ったものやら、顔らしきものやら工夫がなされていた。怖がる子供をよそに、花火は老若男女楽しめる。
特に若い男女や子連れの家族にとっては、想い出作りの良い機会である。私らのような熟年夫婦にとっても、昔のことを話題にしながら楽しめる良い機会である。

帰りの渋滞が心配なので、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。これは以前からそうなのだが、何度も何度も花火を振り返りつつ、時に名残惜しんで立ち止まったりして、また、人通りの無くなった家内の実家に戻った。

花火は見ているときは楽しいのだが、終わってしまうと、いつもうら哀しい気持に襲われる。来年まで見ることができないというだけではなくて、儚さの最たるものだから、行く時の流れを投影してしまうのだろう。
幼い時に見た自分、学生の頃の自分、幼い子供と見た自分、そして今の自分。花火の姿はどんどん変わり、それを見る人の様相も変わり、そして、何より街が変わった。
それでも、花火を見てその幻想的な時間を過ごしたいという気持は変わらない。
毎日巨額の費用を掛けて楽しませてくれるディズニーランドとは違って、一年に一度だけの精一杯の時間を超えた「夢と奇蹟の世界」は掛け替えのないものに感じる。
震災の影響で中止された去年の分まで、楽しませてくれた花火を、誰もが讃えた。
子ども達は絵に残していくだろうし、実際に絵に描かない多くの人でも、カメラやビデオ以上に美しい花火を心に描くことができたと思う。

2012年5月30日水曜日

久々の東京(修学旅行)

この5月27日(日)から29日(火)まで修学旅行で生徒を引率をして東京まで行ってきた。
東京は2007年に行って以来であるが、今回のように上野・浅草やディズニーランドへは1997年に家族で行って以来である。横浜の中華街や山下公園はもっと古い。
私の通った大学院は東京にあったので、東京都の中野区中野(1985年)、新宿区西落合(1986年)、横浜市の長津田(1987年)に住んだことがある。
特に私は院生と言っても、半分は主に家庭教師などののアルバイトで明け暮れていたので、方々に行く機会が多かった。
しかも、毎年引っ越しをしてその界隈のことは詳しい。2007年は自分が教えていた学年が修学旅行でその期間の授業が無くなったので、年休をとって住んでいた界隈を訪問した。
住んでいた地域はどちらかというと、開発から取り残された地域であまり変貌は無かったが、今回行った上野・浅草はスカイツリーの影響という面で、ディズニーランド、横浜の山下公園付近はは湾岸開発という面で大きく様変わりしていた。

以前は東京で高くて目立つ存在は新宿副都心の高層ビルという風に思っていたが、スカイツリーの存在はそれを変えてしまった。
浅草は特に近くにあって、浅草寺の境内でもそれをバックに記念写真を撮ったりした。
日曜ということもあったが、仲見世通りは人通りで溢れかえり、ここでこれだけ人手が多い経験は、東京在住していたときに行った三社祭以来である。
バスガイドさんも観光の人の流れが変わってしまったので、現在分析中だという。どちらかというと一歩裏に入るといかがわしい感じのした浅草が、国際的な観光地に変わりつつあった。
少し立ち寄ったお台場のフジテレビ付近は、ウォーターフロントと呼ばれる以前しか知らなかったので、まさしく初めての経験である。
私はそこから少し離れるが、家庭教師をした生徒が大田区にいた関係で、その生徒と海岸に魚釣りに行ったことが何度かあって、喧噪な都心から離れた隠れた憩いの場所という感じだった。
また、奄美に調査に行くときは晴海埠頭からフェリーに乗ったので、その近辺はバスで何度か通っていたが、そこは殺風景なゴミの島というイメージしかなかった。
この臨海副都心こそ今の東京を代表しているのだという感じがした。新宿副都心しか知らなかった私はまさしく過去の人であった。

ディスニーランドはたまたま近隣の学校が日曜に運動会が開かれて、その代休ということで、月曜であるにも関わらず超満員状態であった。
「夢と魔法の国」はまさしく現実から別世界に案内してくれたのだが、自分の子どもを喜ばせようと来たときと違って、作られたアニメーションの世界は手が込んで、すばらしい演出にも関わらず、何時間も並んで味わうに値するものとは思えない。
確かに夜のパレードなどは華やかで、その雰囲気に我を忘れるほどであるし、日中もあちらこちらで生演奏をして楽しませてくれている。
でも、出発前夜に見た相生のペーロン前夜祭の花火大会の方が、同じ一瞬の別世界体験でありながら、時間を超えた記憶と感情を呼び起こしてくれた。
自分には小さいときにディズニーランドで楽しんだ経験がないからか知れない。
ただ、小さいの時にテレビで見たウォールト・ディズニーの世界の方が、雄大な自然とのふれ合いや、アニメの愉快さが有ったように思う。
その番組は楽しみで欠かさず見ていた。それに対して、最新技術の3Dやロボット仕掛けの人形での演出が手が込めば手が込むほど、却ってその作為的な部分だけが目に付くようになり、孫のができれば連れてきたいとは思うが、自分が楽しむために来たいとは思わない。
歳のせいなのかもしれない。

むしろ、今回行った中で山下公園の氷川丸は過去の世界を臭いと共に再現してくれた。調査でフェリーに乗る経験の多かったので、この船が大海原を進んでいく様子が想像できる。
操舵室の古めいた羅針盤や、通信室のモールス無線機など、映画でしか見たことのない物に触ってみると、本物でしか味わえない想像を得られる。
昔、デートで来た時には素通りした氷川丸は、今も修学旅行の生徒とご老人にしか人気がないようだ。
一般が200円、障害者は無料のこの船は、高額なディズニーランドとは違った想像豊かな世界に連れて行ってくれた。
また、中華街の食事は、料金の高くてまずいホテルのバイキングよりも数倍美味しくて、お腹が一杯になった。

東京での3日間は、変わりゆく世界と変わらない世界を目の前にして、どう本物を見極めていくかを考えさせられる良い機会になった。
修学旅行は仕事として精神的も肉体的にも厳しいものではあるが、生徒だけではなく教師にも勉強になる機会でもあるように思える。
それは体験によって作為的に得ようというのではなく、楽しみながら自然に味わえる現実と想像の世界でもある。
できればもっと費用を安くして、ゆっくりと体験できればもっと良いものになるような気がするが・・・

2012年5月26日土曜日

夏をつげるペーロン

今年もペーロンがやってくる。去年は東北大震災のため自粛して無かった。
子どもの頃から私にとってペーロンは、舟漕ぎ競争よりも花火である。今でこそあちこちで花火大会は催しされるが、夜空に大輪を咲かせる花火は、この地方では相生のペーロンしかなかった。
自分の母親が相生育ちであり、小学生の頃までは母方の祖母家族が旭町に住んでいた。
そこにはIHI(石川島播磨重工)の社宅があって、棟続きの長屋のような造りであった(因みに私の父はIHIの修理工であった)。ペーロンではよくその祖母の家に行ったのだが、始めは立ち並ぶ長屋作りの家の中で、祖母の家を探すのが難しくて、間違えて他の人の家に入ってしまったこともあった。
港まで親たちと一緒に花火を見に行くこともあったが、人混みで父親に肩車して貰わないと、仕掛け花火は見えなかった。港まで行かずに祖母の家の二階から眺めることもあった。
幼い自分にこの花火のどーんと腹に響く音と、夜空を彩る光の渦がまるで別世界にいる気持ちにさせた。
泊まりがけで見に行ったときは、翌日のパレードや屋台も楽しかった。ただ、舟漕ぎはあまり見る気にはなれなかった。

ところが、このペーロンの時期は中学高校時代には中間試験の期間に近く、さすがに行くことができない。
相生出身の家内もわざと中間試験をペーロン時期にしていたと怒っていたが、五月の末が中間試験というのは学校の日程上仕方ないのである。
それより、姫路の私学に通っていた私には、義士祭が期末試験中であることの方が悔しかった。近隣の公立校では期末試験は終わっていた。
ただ、このペーロンは年によっては中間考査が終わっていることもあり、高校2年の時には相生の友達に誘われて、地元の会社社長の家に呼ばれたことがある。
IHIの関係者とも関わりのあるその家で、パーティーというのを初めて味わった。
また、バンドを一緒に組んだ先輩の親はIHIの重役で、大きな家に住んでいたが、そこにはバンド仲間や先輩の同級生が集まった。
花火は特別にビルの屋上から見ることもできたし、花火の後は歌って騒いで大騒ぎをした。

私は勉強をするために私学に行ったのに、音楽と遊びに目覚めてしまい。
高校3年という受験生にとって大切な年に、こともあろうに当時付き合っていた年上の彼女と試験中であるのにも関わらず、花火を見に行ったことがある。
悪いことは出来ないもので、私を見かけた近所の人に、母親に告げ口されてしまった。私は当然、友達の家に勉強しに行くと言っていたのだが、見事にばれてしまった。
ただ、理解があったのか諦めていたのか、叱られはしなかった。勉強には口うるさい母親だったので、不思議に思えた。18歳のほろ苦くて忘れられないペーロンである。

大学に入ってからしばらくはペーロンとは縁がなかったが、結婚して家内が相生であったことから、家内の実家に呼ばれて花火を見に行くことが多くなった。
家内の家は駅近くなので、家からは見えない。歩いて港まで行って見ることが多かった。
近隣から大勢の人が集まってくるので、車は大渋滞だし、歩く暴走族までやってきて喧噪な雰囲気の中、昔より派手になった花火を堪能した。
一度、子どもを連れて行って、途中で雨に降られて困ったこともあったが、家内の親戚なども訪れて賑やかで楽しい夜であった。

このペーロンが白龍の中国語読みであることは、若い頃は知らなかったし、この祭りが長崎の造船所の職人がもたらしたものであることも、ニュースなのでは報道されていたが、あまり関心はなかった。
ところが、学生時代、私は奄美諸島の与路島と言うところに研究で訪れるようになり、このペーロンと同じ舟漕ぎを経験することになった。
その島ではフナショというが、沖縄のハーリーと同じである。ペーロンのような舟漕ぎ競争は東南アジアを中心に広く行われていて、近年世界大会も開かれていた。
海の神や稲作との関わりがあると思われるが、琉球諸島の舟漕ぎ競争は地域や村で行われる大きな祭りである。
与路島では青年団の舟に乗って、桃の木で作った手製の櫂を握らされて、練習から本番まで付き合った。壮年団とビール1ケースのかかった本番では、直線では青年団が速いのだが、折り返しで技術の差がでて、破れてしまった。
ずぶ濡れになるし、横腹は痛くなるし大変な競技だったが、美しい珊瑚礁の浜で、貴重な体験をさせて貰った。

本来のペーロンは花火ではなくて、舟漕ぎ競争が主なのだが、私の記憶には花火とパレードしかない。相生市民にはチームを作って参加する舟漕ぎ競争の方が大切なのだろう。
本来は海の神への安全祈願のあった祭りは、みんなの娯楽になったが、世代を超えて続けていく行事に根付いたことは良いことだと思う。
一企業がもたらした外来文化ではあるが、遠く琉球諸島や東南アジアと連なっていることもイメージして、祭りを継承して欲しいと思う。

2012年5月22日火曜日

苺とそら豆のシアワセ 2012/05/22

先日来裏の畑で苺が沢山色づき始めた。旬彩蔵という上郡のJAの直販の店で、24ポット2000円という安い苗であったので少々心配したが、立派な実がなり味も良い。
近所でもさすがに色づき始めるとネットを苺にかけ始めたが、全く掛けていない畑もある。カラスもあまり沢山苺がなっているので、食べ飽きたのかも知れない。
苺は一年中畑の一角を占領するし、手間もかかるので面倒な作物だが、家族が喜んでくれるし、小さな子どもや孫がいるところでは必ず作っている。
だから、自分の家で作らなくても、お裾分けが期待できるのだが、今年は畑も広くなったので自分でも作ることにした。
取れたてででかいを、憚ることなく口に入れる至福は何よりも代え難い。農薬など一切使っていないので、全く安心なのである。

今年は他に今まであまり成功しなかったそら豆も植えた。そら豆は小さい頃私の親は沢山作っていて、この季節は甘く炊いたのを毎日のようにおかずに出された。
それでも余るのであんこのようにして、蒸しまんじゅうの中に入れておやつにしてくれたが、小豆よりも生臭いのであまり好きではなかった。今は種自体が高くて多くは植え付けられない。
今回も10株程度である。
それでも、昔に比べて粒が大きくて、電子レンジで加熱しただけなのにすごく美味しい。買ってきたそら豆と比較にならない。
まさしく産地直送の味は自分で作っている者しか味わえない最大の贅沢である。赤穂では高い会費を払って市民農園が貸し出されるようになったが、非常に人気があると地元の新聞に書いてあった。上郡では農家の跡継ぎが意外と畑仕事をしない。
そもそも、男は田で、女が畑という役割分担もあったのだが、田をしない男は畑もしない。やる人は徹底的に綺麗にするので、私のように草と共に育てていたら顰蹙ものであるが、私はそういう批難に屈することはない。
農薬も化成肥料も使ってないのだぞという、プライドもある。趣味で畑作りをする人でも農薬や化成肥料を平気で使う人がいるが、それなら買ってきた方が安くて済む。
農家は見た目を気にする消費者のために農薬を使い、採算を取るために化成肥料を用いる。
自分で作る価値は、惜しまぬ労力と工夫に裏付けられた安全である。しまも、うまく作れば絶対味も良い。

今は普通にいろんな作物が作れだしたが、かれこれ20年の経験の結果である。父親と一緒にしていたときは、草抜きや芋の掘り起こし作業を主にさせられていたので、あまり好きではなかった。
家族のために自分でやり始めて 、最初は玉葱でさえうまく作れなかったが、難しい作物を除いてだいたいうまくいくようになった。
ただ、白菜のように夏の暑いときに種から作ることは、一度成功はしたが手間が多くて今は敬遠している。種まきは家内の仕事だったが、勤めに出始めてあまり出来なくなった。
畑仕事を夫婦や親子で力を合わせてするときには、ささやかな幸せを感じる。
この経験は今の特別支援学校での農園作業と指導でも役に立っている。
家でも職場でも農作業をするのは辟易するところもあるし、顔は日焼けして真っ黒になって教師には見えないのがちょっと気になる。
それでも、こうして美味しい収穫物を口にすると、労を惜しまず頑張ってしまう。田舎ではパチンコが一番賑わっているが、不景気なご時世こそ畑が若い人で賑わって欲しい。
農作業は新しいスポーツであり、ゲームだと思えばパチンコやゴルフよりも、エコで生産的で格好良い。