「ヨイトマケの唄」を作り歌ってきた美輪明宏さんが亡くなった。
民法では放送禁止にもなったそうだが、理由が歌詞の中の「土方(どかた)」とあって驚いた。
「土方」が差別用語である意識はなかった。
なぜなら、私の大学時代の赤穂でのアルバイトはずっと「土方」と呼ばれる土木作業だったからだ。
また、大学院で博士進学を失敗し夫婦生活が破綻して、ひとり赤穂に戻ってきた時にしていたアルバイトも市の発掘の土方作業だった。
現在の土木作業は機械化されており重労働ではなくなっているが、発掘作業はけっこう手作業に頼っており、身体に少なからず負担が生じる。
大学時代には村落調査サークルに入っていて、その調査にかかる費用をアルバイトで稼がなくてはいけなかった。
自分たちの調査班は奄美を調査地としたために、交通費や宿泊費が多くかかった。
大学のある名古屋でもアルバイトをしたが、赤穂の家に帰った方が生活費がかからないので、お金が多く貯まる。
しかし、赤穂で短期間でできるアルバイトはあまりなく、弟は国立大学の良いところに入っていたので母のパートで働いている店主の子どもの家庭教師をしていた。
三流の南山大学の私にはそういう話はなくて、当時は土方の仕事しかなかった。
ただし、私の悪友は早稲田大学だったが教師をする柄では無かったので、地元に戻って土方していたし、東京でもしていたと言っていた。
特に東京は田舎より日当が高くて魅力的だったが、ちゃんと地下足袋を履かねばならないし、高いところにも登っていたと言っていた
とにかく、私は夏休みの一ヶ月以上、土方仕事をして過ごした。
小さな個人事業の親方は私の母が知り合いを通して紹介してもらった人だった。
母の知り合いと親方は断酒会の仲間だったのだが、親方は在日の方でお母さんはあまり日本語が得意では無かった。
雨の日などで、仕事の有無を確かめるために自宅に電話した時に、親方のお母さんがでてくれても話がうまく通じなかった。
親戚の叔父さんはそういう人の下で働いていることに眉をひそめたが、私はいっこうに構わず、働いている仲間も少人数で気楽だった。
一緒に働いている年配のおじさんともお好み焼き屋で一緒に飲んだりしたが、自分らの仕事があるから世の中が成り立っていると言っていた。
親方は強面だったが言葉遣いも丁寧で恐くなかったけれど、一緒に飲食をすることは無かった。
そんな日焼けで真っ黒の顔に汗と泥にまみれた私にも、恋人はちゃんといてアルバイトのことをいつも気遣ってくれていた。
時折来る手紙では体に気をつけてといつも書いてくれていて、夏休みに無理して逢った時にはふたりの肌の色の違いが極端だったのを今でもよく憶えている。
この土方仕事のおかげで、お金も貯まったし、体力も人一倍ついて、長い村落調査を乗り切ることもできた。
そのうち、名古屋暮らしにも慣れてきて、名古屋で鉄工所や餅屋でアルバイトを見つけてするようになり、大学四年の夏休みは大学院の受験勉強でできなかった。
大学院に入ってからは東京でははじめに夜警などをした後は、家庭教師をすることができた。
これは、まかりなりにも東京都立大学のネームバリューが役に立ったようだ。
次に土方作業をやり始めたのは、夢破れ暮らしが破綻して、赤穂に戻ってきてからだった。
教員採用試験を受けるために自宅で籠もって受験勉強し、一次試験が終わった後は中学校の臨時講師を勤め始めた。
学期の途中からなので、最初にしたのは姫路の中学校で英語教師が短期留学をしたので、その代用だった。
私は社会科しか免許は無かったが、校長が特別免許出して教壇に立つことができた。
その講師の仕事は一ヶ月しか無くて、次の講師の仕事が見つかるまで、赤穂市の発掘での土方作業をした。
私は大学で考古学の勉強もかじってはいたが発掘経験が無くて、手作業で土を起こしたり、遺物を掘り起こすくらいしかできなかった。
同じ作業仲間も土木作業をやってきた人が多くて、中には指を詰めている人もいた。
その後講師を頼まれた赤穂の中学校では、病欠の数学教師の代用として数学を教えた。
その時に授業で生徒に自己紹介で土方をしていたと言ったら、「ドカチン先生」とからかわれたりもしたが、採用試験も補欠合格していたので私は開き直っていた。
当時、地元では土方のことをドカチンと呼んだりされたが、赤穂の伝統産業の塩業は入浜式の時には土木作業とあまりかわりなく、差別的な意味合いは強くなかった。
この数学講師も一ヶ月程度で終わり、再び次の高校講師が始まるまで、発掘の土方作業に戻った。
既に、冬の寒い時期になっていて、凍てついた地面はきつかったし、休憩のテントの中も寒さが身に応えた。
教師になるまでの土方の経験は、私にいろんな事を教えてくれた。
まず、厳しい肉体労働は一日持たせるためのペース配分をやらなければ持たない。
若さに任せて、朝に力を出し尽くすと夕方まで体力が保たないのだ。
そして、スコップなどの道具の使い方が身についた。
力任せにやるのでは無くて、要領よく使わないと身体を痛めることになる。
そして、何か失敗して職を失っても土方ができるという妙に開き直った自信。
「ヨイトマケの唄」の主人公はお母さんの苦労の甲斐があって、エンジニアになる設定だ。
歌からは本人が土方の経験をしたとは思えない。
結局母親の仕事を肯定していることにはなっていない。
私の貴重な土方の経験は、今はその経験を教師をしていた時も、退職した後も行っている自然農法的な農作業に活かしている。
私が多くの人が嫌がる農作業の仕事もやり続け得られているのは、土方経験のお陰だ。
因みに勤務した特別支援学校での作業学習では、女性教師には最も嫌われる農作業グループを担当することが多かった。
土方経験の乏しい弟たちは農作業をしようともしない。
私は今でも家族の健康を思って、えーんやこーらー土にまみれ農作業をしているし、村のために溝の泥をかきあげている。