ページビューの合計

2026年5月19日火曜日

歌はいつまでも忘れない

 NHK番組、知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「人はなぜ音楽を愛するのか?」で認知症の老人が若い頃の歌はしっかり憶えていることが紹介された。

これは音楽知覚認知学のエリザベス・ヘルムス・マーギュリスの 『音楽心理学ことはじめ―音楽とこころの科学』(福村出版 2022年)にその理由が書かれてある


 認知症が記憶システムを深く崩壊させたときにも、複数の脳部位と経路に音楽が定着してしまうことが、音楽の記憶が生き残るのを助けます。数多くの臨床観察で、認知症患者が病気の進んだ段階に移行したときでも、青年期の音楽を覚えており、楽しむことができることが示唆されています。さらに重い認知障害のある人々でも、選曲された音楽のうち感情的に共鳴した曲を識別し続けることができます。こうした成功した音楽の記憶のエピソードによって、その経験の直後や最中に、音楽に関連しない課題の認知的機能を改善できると主張する人もいます[前掲書:47-48]。


音楽が心の中に生き続ける理由が分かると思う。

私は現在完全退職して、農作業を中心にウォーキング、水泳、読書、音楽などを中心に暮らしている。

どれも欠かせない日課だが、現役の時以上に大切なのが音楽だ。

今まではヤマハのカラホーダイを使ってひとりカラオケやひとり弾き語りをしていた。

最近始めたのが以前にも書いたハーモニカだが、ハーモニカを練習しているとギターの方も頑張ろうと思い出した。

長年、アマチュアバンドのボーカルをしていたので、やはりギターでの弾き語りが自分の本領だと思っている。

ハーモニカも加えた弾き語りができるようになりたいと励んでいる。

こうして音楽に取り組んでいると、中学生の頃から育んできた音楽への情熱が蘇ってくる。

その頃に歌っていた歌を自分なりに今歌うと、当時の感情も蘇ってくる。


私は恋人ができたり、結婚してこどもができると、音楽には疎遠になってしまうことが多かった。

でも、失恋したり、子育てが落ち着くと音楽にまた立ち戻っていた。

退職して人との関わりが乏しくなると、それを埋めるのに今は音楽が大切な存在となっている。

昔を思い出すためであり、今の孤独を忘れるために音楽は無くてはならないものになっている。

亡くなった母もデイサービスや入所施設で一番楽しみにしていたのが歌を歌うことだった。

歌が好きで得意だったから、そういうところでも楽しく過ごせたようだった。

ただ、困ったことは通院に付き添っている時に、病院の待合所で歌を口ずさんでしまうことだった。

待つ時間が長くて退屈してしまい、他の人が大勢いるのに小さい声ではあるが歌ってしまっていた。

さすがに、迷惑になるので止めてもらったが、それほど歌が母には無くてはならないものだった。


私もその子どもであるので、おそらくこれからどこへ行っても歌は忘れないだろう。

呆けてきたら母のように、周りの人に関わらず歌ってしまうかもしれない。

今でも家内とドライブをしている時に窓を開けたまま、かけている音楽に合わせて歌っている。

特に停車している時は、家内が人に聞かれるから窓を閉めるように促す。

仕方ないので、いったん窓は閉めるが、走り出すと窓を開けて気分良く歌うのがお決まりのドライブだ。

このときは家内に無理矢理聴かせているわけだが、たまに家内も歌っていたりする。

実は家内は幼い頃からピアノを練習しているので、私よりも音感に優れていて、間違いをよく指摘される。

何よりも同じ世代なので、知っていて好きな曲が共通しているのが良い。


先日は水泳仲間の画家さんと話をしていて、彼が学生時代にバンドでベースをしていてかなりの腕前だと分かった。

それを知ってから、セッションできるようにギターも上達しようと決心した。

他にもプールで一緒になる近所の奥さんもハーモニカを練習していて、その話題で話ができている。

音楽は退職した者の世界を広げてくれる大切なものだと最近特に感じている。







2026年5月12日火曜日

誰と生きて、どう死ぬのか?

 過疎地である私の村では、子どもが都会で暮らしていて殆ど戻ってこず、親が亡くなっても、お骨は49日までお寺に預けなくてはならない家もある。

夫婦で暮らしている間は良いのだが、特に男性は妻を亡くすと周りとの関わりも少なくなって孤立してしまう。

伴侶外に親しく関わることができない人は、いったい伴侶以外の誰と生きてきたのかと考えさせられてしまう。

子どもも近くに住んでいれば一緒に買い物に行ったり、食事をする機会もあるが、遠くに暮らしている子ども家族とは殆ど行き来が無い。

田舎の人間にとって子どもは共に生きていける相手ではなくなってしまっている。

特に大学まで進学させた自慢の子どもがそうであり、高卒の子どもの方が近くにいる場合が多い。

また、事情があって結婚できなかったり、結婚しても離婚してひとりになった子どもが一緒に住んでいる場合も少なからずある。

この場合は親は老後の不安は軽減されるが、その子どもが不安となる。


とにかく田舎では、大学まで進学したり、高卒でも大企業に入った場合は、親の傍や近くに住めるのはほんのわずかである。

大学に進学させて生活費を削って高い授業料や仕送りを工面した親には、孤独な老後しか待っていない。

ただ、子ども夫婦に子どもができて孫を連れて帰省する時までは、幸せと感じられる月日が何年か続くが、それも孫が小学校くらいまでだ。

子どもが帰省しなくなった夫婦は、仕事仲間や地域の人と仲良く暮らし行くしかない。

しかし、田舎も地縁関係が薄れてしまって、形だけの付き合いになりつつある。

そして、付き合いの下手な人は親戚がいても、家に引きこもってしまう場合も出てきている。


移動する狩猟採集民は、その移動について行けなくなると、老人はそのキャンプ地に残って死を待っていた。

現代の日本では年金があるので、しばらくは一人でも生きていける。

近代化された狩猟採集民は国から年金が支払われて、親戚の若者がたかりに来て逆に大切にされたりした。

日本の年金暮らしにたかるは、引きこもる子や孫か若い詐欺集団くらいだ。

さすがに田舎だから、孤独死のケースはまだ出ていないが、誰にも看取られずに亡くなるケースは増えている。

これはかつて移動型狩猟採集民や、姥捨、ないし出小屋に隠居した過去の貧しい地域の日本とあまり換わりが無い状態だと思う。

かつては若い人がその老人の負担で生存が危ぶまれるという事情があった。

現代も家業を持たない家族にとって、田舎で若い人が暮らすことは永存に関わることと考えた方が良いのだろう。

だから、もう老後に子どもを当てにすることはなく、孤独死も覚悟の上で老後を生きていくしかあるまい。

これが、学校教育で子どもは高学歴となりながら、移動型狩猟採集民と同じ老後を強いられる現代日本人の実情なのだと思う。








2026年5月8日金曜日

「遊びの中の真面目」に生きる悦び

 佐伯啓思は『近代の虚妄―現代文明論序説』(2020年 東洋経済新報社)の中で次のように述べている。


現代社会では、あらゆる領域で、特に文化の領域で、遊びの持つあのゆとり、共有された秩序、そして何よりも祭祀的な要素が失われてしまった。代わりに出現したものは、偽の遊びであり、いわば小児病化した遊びである。競技は、現代風のスポーツとなって、記録を競う闘争本能むき出しのものとなり、組織されたクラブや商業化された大会運営になってしまった。それはやがて記録追求という何とも味気ない生真面目に堕することとなる。現代社会の高度な交通機関の発展、商業的宣伝、そして統計学の出現が、遊びを窒息させてゆくのである。人間の活動は、すべて真剣であり真面目であるともいえるのだが、その背後に遊びの要素があるかどうかはきわめて大事なのだ。「遊びの中の真面目」と「遊びを失った真面目」ではまったく違うのである。[前掲書:177] 。


私はかつて中学部から大学進学を念頭に置いた進学教育を行う私立学校で学んでいた。

当然、中学受験を取り組んだ頃には、大学進学のことなど頭になくて、地元の公立中学よりも格好良く見える学校に入りたかっただけだ。

入学後は受験勉強からの流れで「遊びを失った真面目」で、試験での点数や学年順位ばかり気にしていた。

しかし、中学受験に小学校6年生の春から取り組むまでは、「殆ど全てが遊び」の暮らしをしていて、学校での勉強も遊びのような感覚だった。

当然、大学進学の目標を持ち得なかったし、それが何を意味するかも分からなかった。

そして、その私学は自由放任主義だったので、ためらいなく異性や流行のロックに強い関心と楽しみを見いだそうとし始めた。

そうすると、「遊びの中の真面目」であるべき勉強がおろそかになり、大学受験に際しては希望する大学には入れなかった。

その一方で同じバンド仲間だったSは、「遊びの中の真面目」を突き詰めて、学年で最下位の成績ながら、早稲田大学の法学部を現役で合格した。

同じように、高3の文化祭まで同じバンドでステージに立ったのに大きな違いがあった。


ただ、私も大学に入ってからは、「遊びの中の真面目」な研究を見いだして、志望する大学院に現役で合格できた。

しかし、研究者になるための姿勢が「遊びを失った真面目」であったため、自分を支えてくれた伴侶も研究者への道も失ってしまった。

そこまで自分を追い詰めたのは「遊びを失った真面目」なM教官への反発心だったのだが、自分がそうなってしまったのは皮肉なことだった。

教師を選んだのは、研究を続けることのできる職業だと思ったからで、臨時講師をしながら何とか採用された。

それ以降は、金儲けのために真面目に仕事をしながら、金にならない研究という遊びをしていたように思う。


ところが、学校はけっこう仕事の中に遊びが取り入れられている。

最初の赴任は今で言う知的障害の特別支援学校で、学習の中にずいぶんと「遊び」があった。

教師の方は、生徒と一緒に遊ぶことも重要だったが、真面目に進路に向けてての取り組みが必要で、これはかなり困難な仕事でもあった。

特に体育教師が中心になっていたので、体力と根気をつけさせる職業教育がなされて、「遊びを失った真面目」な進路指導が行われた。

ただ、障害を持った生徒が就職した後で失敗するのは仕事そのものができないことよりも、対人関係であった。

職場の人や自分の周りの人と仲良く過ごすことが難しいのであり、それはむしろ「遊び」に関わるもので、それが生徒に身についていないことが多かった。

普通校は体育祭や文化祭で遊びの部分が多く取り入れられていたが、だんだんと予備校のような受験指導中心の授業が増えてしまった。

教師も時間外勤務が増えたり、免許更新制などの政策によって追い詰められていった。


今の時代は何でも貨幣価値で計ってしまい、その数字で表れないものの価値を認めないことが多い。

人と楽しく過ごすことは数字で表せないいわゆる「遊び」である。

私の研究していたかつて奄美では「ミニアスビ」は、干支で巳のつく日にはハブがで農作業をすると咬まれると言って仕事が禁止される日だった。

つまり、「あそび」とは「悪(あ)し日」から仕事の忌避から来た言葉だった。

かつて日本人はワーカーホリック(仕事中毒)といわれて、どちらかというと欧米人から呆れられていた。

しかし、日本人がそこまで仕事中心の生活をし始めたのは、バッブル崩壊後だと思う。

学校もそれ以前は教師の給料が低い代わりに、自宅研修で自由に長期休暇を楽しめた。

バブル期に給料が安いので人気を失って人材不足になり、給料を高くして管理を強くされて追い詰められていった。

企業もアメリカの政策に対策するために資金の内部留保に血道を上げ、社員は単身赴任などが多くなり家庭を犠牲にするようになった。


現在日本で、少子化が進んでいるのは、子育てという「遊びの中の真面目」さが求められる生活が「遊びを失った真面目」に追い詰められているからだと思う。

多くの残業を強いられたり、単身赴任を10年以上にしたり、土日休日返上のクラブ指導を行ったり。

金銭の引き換えに「遊びを失った真面目」に仕事を強いられる世代には子育てなど不可能だ。

そもそも、「遊びを失った真面目」な受験勉強しか知らない世代は「遊び」そのものを理解できないのかもしれない。

以前、東京育ちの後輩に幼い頃は何をして遊んだかと聞いたら、スイミング教室へ通ったと言ったので、それは「遊び」でなく「レッスン」だろうと言ったことがある。

今の子どもは「レッスン」しか遊びを見いだせないのかもしれない。

私の幼い頃の遊びは、子ども同士で野山を駆け巡ったり、広場で男はコマ回し女はゴム跳び、そしてボールゲームなど大人は介在しなかった。

そして、祭りなどの年中行事には世代を超えて一緒に食事をしたり、歌ったり踊ったりして楽しんだ。

残念ながら現在の私たち年金暮らし夫婦にはそれが無い。

ただ、金にもならない「遊びの中の真面目」な農作業や研究、趣味が私の生きがいになっている。








2026年5月7日木曜日

レールガン、全固体電池、量子水素エネルギーそして人工光合成による革命

 日本がレールガン(電磁加速砲)の実用に向けての大きな取り組みで、期待が膨らんでいるせいか、Youtubeなどではそれを用いた実戦を描く物語が作られたりしている。

確かにレールガンは日本が世界をリードする電磁力技術が活かされたもので、リニアモーターカーなどの技術が転用されたものという。

アメリカが実用化を諦めたものを、日本が産業技術によって現実化させ、あと10年ほどで実用化させようとしている。

これによって弾道ミサイルや極超音速ミサイルの迎撃を行えるようになれば、ドローンと並んで非対称性の兵器として戦争を根本的に変えるだろう。

私は軍事力強化には賛成はしていないが、核弾道ミサイルを無力化できる可能性があるレールガンに希望を見いだしてきた(戦争放棄の戦略)。

現在核兵器開発がイラン戦争の主な原因となっているが、核兵器が無力化されることが分かれば、核兵器の開発は意味をなさないことになるだろう。

そして、核兵器廃絶に繋がっていくと思う。


一方、全固体電池は従来の液体電解質を用いた充電池の欠点を克服でき、最も開発が進んでいるトヨタ自動車が来年度以降に実用化を目標としている。

日本の自動車産業の将来だけでなく、石油依存の世界の自動車産業に革命をもたらす可能性がある。

少々値段が高くても、自分の家で太陽光発電などをして車に蓄電して、移動以外にも活用できる。

これは「Ei(知性化電力)革命による国民解放」で述べたことが、現実化することを意味する。

これは地方に住む我々の復興を可能にするものだ(石油依存社会が生んだ地方衰退)。


そして、発電に関しては従来の再生可能エネルギーよりも、安定した出力と効率性をもつ量子水素エネルギー(QHe)の開発が進められているという。

これは常温核融合を利用した技術で、日本はこの分野でも進んだ技術を持っているという。

安全でクリーンなエネルギーを生み出すことによって、原子力発電所の必要性がなくなる。

原子力発電所は放射能汚染の問題だけでなく、今回のウクライナ戦争で分かったように自国に核爆弾を抱えこんだのと同じ意味を持つ。

やっと夢の太陽を人類が手にすることができた技術なのだろう。

これで、火力発電所も原子力発電所も必要で無くなるし、環境に負担を強いる再生可能エネルギーでの大規模発電も軽減できる。


また、人工光合成に関してのガリレオX第19回「人工光合成 太陽光でつくる夢のエネルギー」は新しい時代がまもなくやってくることを実感できた。

これは光触媒を用いて水を水素と酸素に生成したり、太陽光と二酸化炭素を用いて有機物と酸素を生み出す技術で、人間が植物と同じことができるようになると言うことだそうだ。

現在行われている太陽光の利用方法とちがって

人工光合成は太陽光を直接水素などのエネルギーに変換し、これまでの方法では難しかったエネルギーの貯蔵も可能にする技術として非常に有望」だそうだ。

2010年にノーベル賞をとった根岸英一博士の研究が有名だが、環境省も2030年の実用化に向けて支援している。

我々高齢者がもう少し長生きして、その実現を目にしたいと思うような取り組みである。


日本は他国を攻撃できる武器輸出をするくらいに落ちぶれてしまったかのように思ってしまった。

しかし、レールガンは主に核攻撃から自国防衛に用いるものとして限定して輸出しても良いと思う。

そして、日本は自動車産業、量子水素エネルギーを用いたリニアモータカーや、スーパーコンピュータの分野でも発展できて武器輸出に頼らなくて良いだろう。

何よりも人工光合成は、地球環境破壊を阻止する切り札となってくれるだろう。

一方で忘れてはならないのが、日本のアキレス腱である食糧問題である。

これに関しては日本はあまりにもお粗末である。

2026年4月29日水曜日

鳴きのハーモニカ

 このところ夜にハーモニカを楽しむことが多くなった。

以前にも書いたブルースハーモニカを使って、Youtubeを観ながら練習したり、カラオケを利用して歌代わりに吹いて楽しんでいた。

少しずつ吹けるようになると、難しい曲にも挑戦するようになり、最近ではクラッシックのG線上のアリアなども下手なりに練習している。

そうなると、もっといろんな曲が吹きたくなって、思い切って少々値の張るクロマチックハーモニカを通販で買った。

高価な日本製と違い中国製は半値以下で買えて、しかも、もっと安いブルースハーモニカに比べると全く音色が違う。

ハーモニカを教室で習っている人が、値段で音色が違うというのがよく分かった。

日本製などはきっともっと良い音色なのだろうと思う。


自分はバンド活動でずっとボーカルをつとめていて、そちらに練習を重ねてきたのだが、ハーモニカの魅力を今頃分かった。

歌うことと楽器を演奏することは、似て非なるものだと思うようになった。

ハーモニカは鳥がさえずるように、鳴いているのだ。

歌は歌詞の内容が頭に浮かんでくるが、ハーモニカはメロディーだけが浮かんできてそれに合わせて自然と唇が動いていく。

クロマチックハーモニカのレバー操作にはまだ慣れていないので、半音操作で合わせる音の感覚がまだ身についていない。

それに対して、ブルースハーモニカはかなり自然と唇の位置と吹くこと吸うことが感覚的に音と合わせられるようになった。


歌は歌詞をどうしても気にするので、それに引きずられることも多い。

そして、英語の曲などは歌詞の内容を理解しないまま、雰囲気だけで歌っていることもあって、人まねをするオームとも換わらないようにも思えたりする。

楽器は歌詞とは無縁なのでメロディーやリズムが全てとなり、言葉が違っても関係なくなる。

我々人が鳥のさえずりや虫の音、動物の遠吠えを美しく感じるのと同じなのである。


NHK番組、知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「人はなぜ音楽を愛するのか?」の再放送を見た。

アフリカの狩猟採集民Baka族の素晴らしい歌の掛け合いが披露されていた。

そこでは、手拍子に併せて歌詞のない声を仲間で発しているだけだった。

手拍子と声だけで歌になるのだと非常に感動した。

奄美の八月踊りは鼓だけで歌って踊るし、宴会で最後に行う六調も指笛を鳴らして踊るだけだ。

本来は人も楽器は必要ないのかもしれない。

だけど、美しい鳥のさえずりや虫の音、遠吠えに負けないような音色を奏でたいと思ってきたのだと思う。

そして、手拍子、足拍子、太鼓のリズムは単にそろえるのでは無くて、ポリズムとして一体感を得ることもできる。

この番組では人類の歌い合う特別な能力を強調していたが、多くの生き物が恋の季節には歌として鳴いている。

そして、番組で軽い認知症の人が歌は忘れずに思い出せることを取り上げていたが、歌詞は単に言葉では無くて音色と結びついたものとして思い出させるのだろう。


ハーモニカは歌詞を忘れても、憶えていなくても奏でることができる。

本当はギターを上達して鳴かせたかったのだが、私の技術では困難だ。

鳴きのギターは無理でも、鳴きのハーモニカなら少しはできる。

生き物たちのさえずりや鳴き声に恥ずかしくないように、鳴き続けていきたいと思う。










2026年4月21日火曜日

これからは団子より花


 家内は未だに私が家内の庭での花作りに対して言った「花より団子」という言葉を根に持っている。

その言葉を言ったのは、まだ子どもが小学生の頃で、専業主婦だった家内は庭に綺麗な花を咲かせるのを楽しみにしていた。

私は子どもの健康を考えて有機農業に取り組み始めていた頃で、どちらかというと作物の苗作り励んでいた頃であった。

家内は華道もやっていたこともあって、花が好きでいろんな花を育てていた。

その花がいっぱい生えていた庭も、猟犬を庭で飼ったり、農作業の道具や資材を置くにつれて、花は無くなっていった。

人に株をあげるほどたくさん生えていたクリスマスローズも消えてしまったし、ラッパ水仙もまばらになった。

ただ、食用となるミョウガは庭にしっかりと根付いているし、車を止めている付近の花壇の宿根草は生え続けている。


奄美が大好きな私はガジュマルから始まり、ハイビスカス、ソテツを鉢植えにして育ててきたが、それ以外にもサボテンやアロエをやはり鉢植えで世話をしている。

庭には大きな植木鉢にモッコウバラが大きくなって今花盛りだし、垣根にはかなめの他に、月桂樹、金木犀、梅や柚の木が植えてあって私が剪定している。

ただ、どれも大して手のかからない物ばかりで、家内の好きなネモフィラなどもご機嫌取りに栽培したが一年しか保たなかった。

また、同じく家内の大好きな白いカラーも鉢植えを庭に植えたが、肥料不足か葉っぱだけ出て花を咲かせてくれない。

家内の好きな花はとにかく手のかかる物が多くて、農作業の合間に世話をするのは難しいのだ。


この日曜(4/19)は加西にあるフラワーセンターにチューリップとネモフィラを見に出かけた。

いつもの正面入り口の駐車場は満車ということで、西側の特別駐車場に案内されてしまった。

そこからは西門まで歩いて10分以上かかり、歩道は大木の根でボコボコになっていた。

西門から入ると、噴水のある広場までチューリップとその根元にネモフィラが綺麗に咲き誇っていた。

噴水広場のあたりはたくさんの人だかりで、多くの人がスマホや本格的なカメラで撮影していた。

当然ベンチはいっぱいだろうと思って、弁当用のシートも用意しておいたので、来るときにスーパーで買った弁当を八重桜の咲く芝の上で食べることにした。

同じようにシートを広げて弁当を食べる人も多くいて、もしビールや酒があれば花見気分となる。

ただ、フラワーセンターで飲んで陽気に過ごしている人は見かけないので、私も自粛した。


去年まで開いていたレストランも閉じてしまっていて、せっかくの景色の良い建物がもったいないように思えた。

家族連れが多いので、高級なレストランよりフードコートのようなものを作った方が良いように思えた。

フラワーセンターは子どもが赤ん坊の頃から訪れている場所で、毎年最低1度は訪れている。

そのころここで買ったガジュマルも大きな鉢で大きく育っている。

最近ではハイビスカスもここで買ったのだが、そういう売り場も減って、これからは無くなってしまうそうだ。

駐車場に入るのに時間がかかるほどいっぱいのお客さんの心を掴んでいるのは、美しい花の世界であり、けっして画面からは得られない風景だ

また、犬の同伴も認められていて、愛犬と楽しく過ごせる場でもあるようだ。

休日は人がいっぱい溢れるので、平日に来て弁当を食べながら、読書や音楽鑑賞をしてゆっくり過ごすのも良いかなと思ったりする。

子どもが小さい頃は子どもが遊ぶのにゆったりと時間をとっていた。

ショッピングモールでせかせか歩く癖がついてしまって、こういう場所でのゆったりとした過ごし方を忘れてしまっている。


これからは、家の庭でも咲いた花をゆっくり眺めながら、過ごす日々があってもいいと思う。

年金の収入は大したことないけど、教育費や家のローンに追われなくなったので、花より団子の暮らしは必要ない。

これからの私たちは団子より花の時代となっている。

農業資材置き場になっている庭を片付けて、花壇に戻そうと思っている。





2026年4月18日土曜日

自殺と殺人から見た日米とイラン

 イランは政府によって多くの市民が殺戮されていると言って非難されている。

ところが、国民の自殺率は5.2人/10万人とかなり低い。

「日本の自殺率の国際比較:統計分類の違いが明らかにする真実」 によれば

日本の自殺率は表面的には高く見えるが、薬物過剰摂取死を含めた「広義の自殺」で比較すると、アメリカの死亡率は日本を大きく上回る。 The Lancet +22023年のデータでは、日本の自殺率16.4人/10万人に対し、アメリカは狭義の自殺で14.1人だが、薬物過剰摂取死(31.3人)を含めると45人以上となり、日本の約3倍に達する。


という。


殺人に関しては、10万人あたり2023年でアメリカは5.76件、日本は0.23件、イラン2025年では2.5件となる。

こういう観点から見て、どちらが住み安い国なのか考えてみた方が良い。

確かにアメリカでも日本でもデモの参加者が、政府の軍や警察に何千人も殺されることは無いだろう。

しかし、今はアメリカと経済的に肩を並べるようになった中国は、1989年にイランと同じないしそれ以上の殺戮が行われたと考えられている。

当時の中国に対して、アメリカはそのことを理由にして軍事攻撃はしなかった。


そもそも、自国民の自殺や薬物死者、殺人を放置しながら、他国の殺戮だけ非難することは恥ずべきことだろう。

日本とても、確かに殺人の起こる率は低いけれど、自殺はアメリカよりも多いし、何よりも少子化が進んでいる。

つまり、結婚できない、しない若者が増えているのだ。

因みに合計特殊出生率は日本が1.15(2024年)に対し、イランは1.7(2026年)、アメリカは1.6(

2023年)である。

子どもを育てられる環境は日本が一番低いと考えた方が良いだろう。

そして、イランは既に発展途上国のような多産多死では無いのだ。


アメリカは追い詰められた国民が自殺や薬物に溺れて自死したり、殺人を多く犯す国であり、日本は自殺に追いやられる国と言えよう。

確かに政府によって露骨に殺戮される国は自由主義の国民からすれば恐ろしいことだ。

一方、自由は乏しいけれど、自殺や殺人の少ない国から見れば、それが多い国の方が恐ろしいかもしれない。

出生率からすればアメリカとイランは大差が無いことから、将来への見通しはそう変わりが無いのかもしれない。


今回、アメリカは無垢な学校生徒を殺戮した。

デモに参加した反体制運動のデモ隊を殺戮するのとどちらが残酷なのだろう。

単に人数の問題ではなく、誤爆で罪のない子どもを殺してしまう国の方が、狂っているのではないのだろうか?

そんなアメリカに媚び諂う総理大臣を頂く日本は狂ってないのだろうか?