我慢と辛抱の言葉の違いから、耐えることの姿勢の違いを言われることがある。
我慢は単に自分の気持ちを抑えることで、辛抱は将来のために今を耐えることと言われたりする。
昔、横綱隆の里が、辛抱強い相撲をとって「おしん横綱」と言われたりした。
コメディ映画の「シコふんじゃった」でも、相撲部員が揃ってランニングの練習をしている時のかけ声が「辛抱だ!辛抱だ!」だったので、よく憶えている。
因みに、私が南山大学の剣道部での隊列ランニング練習でのかけ声は、一人ずつ「ナンザーン(南山) ファイト!」と叫び、それにみんなが呼応して「オウ!」とこたえる。
その後は、「ファイト」「オウ」の繰り返しであったが、これを教師になってから特別支援学校の身体作りのランニングでも使っていた。
「〇〇(名前) ファイト」、「オウ」はずっと私が声かけをし続けていた。
高校の野球部の隊列ランニングは一人が「1,2 1234」それに他が「そーれ」と応えるのをよく見かけた。
これは体力向上のためというより、気持ちを合わせるための練習に見えた。
映画で観た、「辛抱だ! 辛抱だ!」というかけ声は、気持ちを合わせるためで無く、相撲にとって特別な「辛抱」という言葉を自分に言い聞かせているように思えた。
私は幼い頃から親には「辛抱が足りん」とか「辛抱せえ」とよく叱られていた。
考えてみれば親は我慢という言葉よりも、辛抱という言葉を主に使っていた。
今まで私は「辛抱」という言葉は自分に言い聞かせるくらいしか使っていなかった。
最近は「ガマン ガマン」という言葉をよく耳にすることがあるし、「最近の子供は我慢が出来ない」とよく言われている。
我慢と辛抱とを区別して教えるなら、今耐えることが将来に活きていくことを言い含めて辛抱という言葉を使うべきかもしれない。
幼い子供は衝動的に走ったり大声を上げたりするものだが、それがケガや迷惑に繋がってトラブルになってしまうことをきちっと教え込むべきなのだろう。
それが仕事が忙しくてかまってやれない親には、厳しく出来ないようだ。
そういう私は畑で作物を作っていて、どうしても上手くいかない時には、腹たち紛れにその作物を引き抜いたり、刈り取ってしまうことも多かった。
特に作物の栄養をとってしまう雑草に対しては、イライラしながら抜いたり刈り取ったりしていた。
このところ完全退職して時間の余裕に馴染んできて、コツコツと丁寧に除草作業をして草マルチに利用することが出来るようになった。
それでも、ポリマルチを使わないので、作物が雑草に負けてしまうこともあって、まともに実をつけずに弱ってしまったりした。
今年は酷暑で雨も降らず、去年いっぱいになっていたナスビやキュウリのできが非常に悪かった。
特にナスビは植えた場所も悪かったのか、全く大きく育たず、実をならさないまま、雑草に負けてしまっていた。
いっそうのこと抜いてしまおうかなと何度も思ったが、秋なすとしてのチャンスが有ると思って、水をやり続けたり、雑草を抜いてやったりしていた。
そのナスビがこのところの雨で復活して、実をならし始めてくれた。
枯れてしまったキュウリは秋用の種を買ってまき直して育てたら、花をようやく咲かし始めてくれた。
何十年も家庭菜園をやってきて、今年ほど辛抱して作物を育てたことはない。
それでも全く駄目だったのはズッキーニで、これは去年も駄目だった。
辛抱のかいがあったのは、サツマイモ、小芋、万願寺トウガラシ、黒大豆、落花生などである。
おそらく、これからも地球温暖化の影響で、農作物を作ることには辛抱を強いられるだろうと思う。
しかし、希望を失っていない以上、辛抱して続けることが大切だと思う。
本当に辛抱を強いられているのは、酷暑の気候に晒されている作物たちなのだ。
農業も自然破壊の一つとは言われているのだが、なるべく自然に寄り添える方法で取り組み続けたいと思っている。
それには楽な機械や農薬、化学肥料をなるべく使わない自然農法的な農業をしなくてはいけないと思っている。
それに一番必要なのが「辛抱だ!」であると、今年はつくづく思った。
そして、農作業よりも世界中の人が一番辛抱を強いられているは、トランプ大統領の温暖化戦争と流血戦争だ。
そのトランプ大統領におもねる高市政権に、日本人はこれからも辛抱し続けねばならないのは勘弁してもらいたい。