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2026年10月10日土曜日

怒って馬謖を利用する高市総理

 馬謖(ばしょく)とは「泣いて馬謖を斬る」というたとえの人物のことで、中国に三国時代蜀の諸葛孔明が可愛がっていた馬謖を指示従わず大敗の咎で斬罪したことに由来がある。

高市総理にとって簗大臣はまさしく馬謖に近い可愛い存在だった。

選挙で対立した地元自治体の予算をカットしたとの発言が報じられた簗和生農林水産相の問題は、会見で発言を撤回し謝罪するも、続投の姿勢に批判が噴出しているという。

「とにかく私の大事なやなちゃん」として、選挙区で落選して比例で復活で、"裏金"の不記載額も突出して多かった人物をみそぎも出来ていないまま高市総理は起用した。

小選挙区の戦いに敗れ、その意趣返しを予算カットで行い、選挙運動でも違法行為が伝えられている部下をなぜ斬れないのかが国民の思うところだろう。

本来なら農水大臣はこれから一番米価問題で矢面に立って、政権を支えねばならない重要なポストだろうが、地方を基盤とする農水族には熱望されるポストだという。

だから、簗大臣は念願のポストを得られたわけであり、高市総理はおねだりを叶えてあげたわけである。

昨日(10/9)も朝のテレビニュースで鈴木宗男氏から厳しく叱責されているシーンが放映されたが、大臣は謙虚に侘びていた。


このところ、いじめられていると見られると、却って民衆から同情を得ることができる。

身近なところでは兵庫県の斉藤知事であるが、県民からの同情を得て知事を続けている。

今回も、簡単に責任をとらせて止めさせる必要は無い。

野党は衆議院では全く相手にする必要も無く、参議院をやり過ごせば圧倒的な衆議院の数で何とかなる。

野党やマスコミに簗大臣をいじめさせ、自分や自民党議員からも突き放されても頑張っているのを民衆が見ればきっと同情をかうだろう。

普通の国会議員ならプライドと責任を感じて自ら辞任するだろうが、大臣にはプライドもなさそうだし、高市総理の策略に乗っていた方が可愛がってもらえると踏んだのだろう。

今の自民党にとっては理念理想よりも、民衆の心を掴む高市総理の魅力に頼る方が得策なのである。

ただし、これも内閣支持率が保てていればの話で、アメリカのトランプ大統領のように直接民衆から選ばれたわけではないので強気を通せるわけではない。


このところ、沖縄での米軍兵士による強盗殺人事件が大きな問題になっている。

もし、これが沖縄知事選挙の前に起こっていたなら、選挙の結果は変わっていたかもしれない。

辺野古での事故でネットで晒された同志社国際高校の教諭が列車に飛び込み自殺して以来、民衆の同情は引き裂かれた状態になっている。

基地がある以上、こういう痛ましい事件が起こることは避けられないことが分かっていながら、自民党政権との関係を重要視した県民に対して安易に同情できるものでもない。

表面上は高市総理も事件への抗議の姿勢を見せているが、台湾有事を口にして中国との関係を悪化させた手前、徹底して対処できないだろう。

この米軍基地問題の方がむしろ厄介なので、簗大臣をスケープゴートにして晒しておいて、上手くいけば同情を得られると思っているのかもしれない。

高市総理はなかなかの策士に思えてきた。






2026年10月9日金曜日

柴栗に知るジャンクな味覚

 先日、大学時代のゼミ仲間のラインで柴栗のことを書いたら、一人から「柴栗とは何?」と書き込まれていた。

彼は長く教育委員会の発掘業務に携わってきた友人で、今は高校の地歴公民科教師をしている。

柴栗は日本では縄文時代から食用とされ、今の栽培栗の原種と言われている。

主な自生域は、北海道南部(石狩・日高地方以南)から本州、四国、九州、屋久島にかけての日本各地で、日本国外では朝鮮半島南部の温帯・暖帯地域にも分布という。

私が村落調査で通っていた奄美には自生していなかったが、その代わりにかつては椎の実を多く拾って食用にしていた。

縄文人がドングリを食べていたことはあまりにも有名だが、考古学をかじっている者でも柴栗の存在は忘れ去られているらしい。


そういう私も柴栗に出会ったのは、教師になってからで、生まれ育った赤穂では見かけたことはなかった。

龍野にあった勤務校の裏山にいっぱい柴栗がなっており、それを休憩時間などに拾いに行った。

地元の人も拾っていたが、一番の競争相手はイノシシやシカで、食い散らかされているのをよく見かけた。

その後、上郡に住むようになって、近所の山や山際に柴栗が自生しているのに出会った。

実は近隣の山はイノシシ対策で3mほどある格子の鉄柵の囲いで簡単には入られなくしている。

だから、普段に拾えるのは山際の道に落ちている柴栗が殆どで、たまに遠くの山奥までアケビを採ることをかねて拾いに行っていた。

今年も犬と散歩していたら、柴栗が落ちているのを見つけて、さっそく立ったまま拾えるマジックハンドと肩から提げる布袋をもって散歩を始めた。

現在は誰も拾う人も無く、場合によって車に踏み潰されているのだが、人通りの多いところや、鉄柵が有るところでは道ばたの柴栗はシカやイノシシに食べられていない。

先日などは1kg位拾えたので、ネットで保存方法を調べる冷凍保存方法が載ってあったのでそれを参考にした。

まず、水につけて選別したが、以前に買ってきた栗を洗う時には水に浮く物があったが、拾ってきた柴栗は全部水に沈んで問題なかった。

ネットでは水気を布などで拭いて取ると書いてあったが、日なたで夕方まで乾かしてから、ジップロックに重ならないように入れて冷凍した。

こんな風に多くとれた時は冷凍保存するが、普段はサツマイモや落花生と一緒に蒸して食べる。


柴栗は小粒で1cm前後ほどしかなくて、売っている栗に比べると食べづらい。

しかし、先日道の駅で買った栗は半分ほど中が虫にやられていて、味も大味で美味しくなかった。

売っている栗は当たり外れがあるようで、見た目だけでは中の様子が分からない。

丹波篠山で焼き栗を売っているが、非常に甘くて美味しいけれど、値段が半端ない。

柴栗は食べづらいけれど、私はそのまま口に含んで前歯で縦に半分に割って、大きいのは指を使うが、小さいのは口の中で舌と歯を上手く使って中身をほじくる。

売っている大きな栗なら料理はさみやスプーンを使って食べるのだが、小さいのでそんな手間はかけない。

殆どの栗は虫もいないし、痛んでもいなくて、ほんのり甘くて美味しい。

その蒸し柴栗は今の私には大切なお酒のつまみでもある。

柴栗はいくら食べても飽きないし、消化にも良いようでお腹にはもたれない。


一番驚いたのは、サツマイモや落花生も同じように食べられるが、スナック菓子がまずく感じて食べられなくなった。

その味付けが非常に不自然なのを感じるようになって、食べたくなくなってしまった。

今まで、つまみとして毎日のように家内が買ってきたジャンクフードのスナックが、いかに作られた味かを思い知らされた。

枝豆も買ってきたり自分で栽培した物を食べるのだが、あまりそういうことを感じたことがなかった。

やはり、柴栗は自然な味わいを残しているのだと改めて知った。

ネットでは川上屋の干菓子: 岐阜県中津川市の老舗菓子店川上屋では、最高級の和三盆糖に栗の粉末を加え、山栗の形に仕立てた伝統的な干菓子「しば栗」を販売しているとあった。

おそらく、昔から食べていた柴栗を懐かしんで作られているのだろう。

栗は加工して色んなスイーツにもなるし、栗きんとんは正月のおせちは欠かせない。

しかし、柴栗の素朴な甘さの方が舌に馴染んで、病み付きになるのでお薦めだ。

我々は縄文時代から食べ続けている柴栗を大切にして、イノシシやシカなどの共存しながら生きていきたいもんだと思う。


2026年10月7日水曜日

イスラム理解・その4~イスラム教徒と日本人の信仰の比較

  長岡慎介の著『イスラームからお金を考える』 (2024 筑摩書房)の1章では分かり易くイスラム教のことを解説してくれている。

今後、イスラム教が世界で一番信者の人口が多くなるということなので、もっと知っておく必要があるだろう。

アッラーに関しては自殺との関連で上手く説明してくれている。

つまり、「自分の成功をアッラーのおかげだと感謝するのと同時に、失敗もすべてはアッラーのせいだと考えてもよいことを意味しています[前掲書:27]という。

日本人もかつては「運が悪かっただけ」と言って、本人の責任を回避させてくれていた。

現代の日本人は「自己責任」が非常に求められて、失敗は本人の努力が足りなかったからだと責められる。

私自身、日頃の行いや神や仏への信仰心が篤ければ運が良くなると思ってはいたが、試験の得点やスポーツの記録はそれとの関係が薄く、しかも人生を決めてしまうことさえある。

日本人は受験や競技会の前に神社・仏閣にお祈りに行くが、上手くいった時にはお礼に行って、そうでない時に、神や仏のせいにはしない。

イスラム教徒は戦争でもない限り自殺はないが、運や神仏の責任出来ない日本人は追い詰められた多くの人が自殺するということになる。

日本人も今のように資本主義の徹底した時代になるまでは、学歴や実績の数字や賞はそれほど重要な意味を持っていなかった。

今の日本人を救ってくれるのは神や仏ではなくてお金なのであるが、イスラム教徒はアッラーだということだ。


そして究極の目的は「あの世での救済を受けるため、すなわち天国に行くため[前掲書:28]」ということになる。

これもかつての日本人は、極楽に行くことを信じて、阿弥陀仏を拝んできたが、現代ではそれを真剣に信じている人は限られているだろう。

儒教に関しても、人格神はないけれど天道(天の神、宇宙の秩序)が、道徳を守ることを見て運命を左右することと信じられていた。

イスラム教徒はクルアーン(コーラン)を暗誦して、それを生活の実践としていたように、日本人の論語やお経を暗唱して、その教えを理解して実践しようとしていた。

しかし、現代の日本人は論語も受験対策程度となり、お経も僧侶以外は唱えることも無くなってきた。

逆に言えば、かつての日本人は今のイスラム教徒と似たように天国、極楽に救いを求める信仰をしていたということだ。

これも徹底した資本主義の教育によって、金銭とそれに付随する名誉が至上のものとされる価値観に支配されるようになった。


私の父親は非常に現実的な金銭感覚で私を指導してきたが、私の母はその母親(わたしにとって祖母)が、非常に信仰の篤い人だったので父とは正反対だった。

残念ながら母も祖母もイスラム教徒のように、商売などの仕事には長けてなかったので、金銭的には自律できてはいなかった。

ただ、祖母は祖父が戦死した後は、勤めに出ていたし、株の売り買いで収入を得ようとしていたが、遺族年金が重要な収入源だったと思う。

私の世代から上の世代は、父親と母親の金銭感覚と信仰のバランスで、家族や親戚の関係が保たれていたように思う。

イスラム教徒は常に金銭感覚と信仰のバランスをとりながら、人と人との関係を築き上げているので、信者を増やしているのだと思った。

そういうバランスを失ってしまった日本人は、心を病んだり自殺する人が多くて当たり前なのだろう。

私自身は父親の妥協のない姿勢に追い詰められてもいたが、母方の祖母が隣に住んでいて逃げ場が確保できていた。

受験生だった当時の私は馬鹿にしていた言葉だが、祖母がいつも口にした「えろう ならんでええ(偉くならなくて良い)」が、大切な救いの言葉だったように今は思える。



2026年10月5日月曜日

人新世のエコロジー戦争とアメリカ

 人新世は地質学用語でありながら、正式な地質時代とは認められていない。

ただ、広く用いられているのは、産業革命以降ということだろう。

 [ É,アリエズ&M,ラッツァラート2019(2016)]は次のように述べている*1

南極北極の氷山の分析から、科学者たちはこの時期に大気中の二酸化炭素量が異常に低いレベルにあったことを測定することができた。(中略)それはアメリカ先住民に対しヨーロッパ植民地勢力が行なったジェノサイドの大きさを客観的に数値化しているからである。大陸現地人の人口が五五〇〇万人から六〇〇万人に低下し、地球人口の五分の一が消滅した。世界史で最大の人口学的破局はそれに引き続いて大陸の再森林化を引き起こし、二酸化炭素の貯蔵量を増大させることになり、気象学者はその炭素量値を最低値に設定して、それを基準に恒常的な上昇を計測することができるほどの規模だった。この仮説によれば、人新世は一四九二年、アメリカの先住民にとっての世界の終わりであるこの年から始まることになる。人新世は殺新世である[前掲書:369]。


現在は二酸化炭素の数値が高まることと人新世を関連させているが、人間の生活が地球に影響を大きく及ぼしたと言うことでは、逆に数値を低めたことも人新世と言える。

ネットのAIで調べれば、15世紀末から16世紀にアメリカ大陸全体の人口の約90%が激減したが、歴史学者はそれを「大いなる死(The Great Dying)」と読んでいるそうだ。

人口減少の主な原因は①疫病の蔓延②征服戦争と虐殺③強制労働と社会崩壊となっているが、①の原因が一番関わっていたと広く言われている。

疫病はヨーロッパ人が持ち込んだもので、ある意味では生物兵器ともとれ、②を含めてジェノサイド と捉えて良いだろう。

そして、二番目の人新世への転機は広く言われている産業革命だが、むしろÉ,アリエズ&M,ラッツァラートは原爆投下を重要視して次のように述べている。


さらにほかにも―最大多数が―人新世を一九四五年に始まるものとしている。その理由は、放射能というシグナルであり、それが物語っていることも明瞭だからだ。マンハッタン計画という名のもとに日本に投下された二発の原爆、そしてその直後から続く多数の核実験は、最初期の「爆発的加速」の沈殿物として固定される。しかし、栄光の三〇年、西ヨーロッパの石油化と「原子力の平和利用」の前景化を推進する前に、二度の総力戦の生産的・破壊的加速があった。人新世は軍民共用の死新世なのである[前掲書:370]。


人新世を殺新世とか死新世と見なすにしろ、アメリカが大きく関わっていることが分かる。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸を植民地にするのに一番の有効だった武器は、軍事革命によってヨーロッパが優位となった大砲と火縄銃だった。

結果的には人感染という生物兵器で滅ぼすことになったのだが、それを可能にしたのは軍事力であった。

そして、核兵器こそ最大の軍事革命と言われており、アメリカは軍事革命によって人新世の到来をもたらしたとも言える。

アメリカは産軍学複合体で世界の覇者となり、これからのITやAIを用いた軍事力でも最強の地位を維持している。

しかし、経済分野では金融戦争には勝利しながらも、工業戦争、貿易戦争では敗戦を余儀なくされ、軍事力で脅しながら威信を保とうとしている。

金融戦争に関してはイスラーム経済が脅威となり、工業・貿易戦争では中国が脅威となっている。

そして、人新世の一番の重要な戦争はエコロジー戦争だが、これは互いに攻撃し合い、それに対して内向きに防衛しなくてはならない。


アメリカは自然災害に関しても兵力を持って対処し、災害を利用しながら社会を改変しようともしているようだ。

しかし、イランに仕掛けた流血戦争でエネルギー問題が深刻化し、推し進めている生成AI推進事業では水不足が深刻化しているという。

日本も千葉の水害はエコロジー戦争の敗北であり、昨年から続く米問題でも敗北続きとなっている。

中国も水力発電において大きなリスクを抱えていることが表面化して、決してエコロジー戦争を有利に戦っているわけではない。

皮肉なもので一番エコロジー戦争で苦しんでいたはずの北朝鮮が、ロシアの流血戦争でGDPを成長させて豊かになっている。

本格的なエコロジー戦争は始まったばかりなので、アメリカがいつまで強気の姿勢を維持できるか分からないと思う。

熱波での災害に窮したヨーロッパはこのエコロジー戦争を深刻に受け止めているのに、日米ではそうではないのが致命的のように感じてしまう。

結果的に人新世は死新世となってしまうのかもしれない。


*1 É,アリエズ&M,ラッツァラート 杉村昌昭、信友建志訳 2019  『戦争と資本―統合された世界資本主義とグローバルな内戦』 作品社 [ É,アリエズ&M,ラッツァラート2019(2016)]


2026年10月1日木曜日

東京は雨降り

 私の大好きな曲に桑田佳祐の「東京」という2002年に発売された曲がある。

桑田の曲の中では珍しく、重くて演歌のような情感を表現してあって、私自身気分が落ち込んだときにひとりで歌ったりしている。

ただ、最近はニュースで東京の雨が続くと聞くたびに「東京は雨降り」という歌詞だけを軽く口ずさんでいる。

私は大学院時代に東京に住んだ経験があるが、雨に降られて困ったことは記憶にない。

どちらかというと、冬に雪が積もって困った経験をよく憶えている。

雨はどちらかというと、大学時代に暮らしていた名古屋での思い出の方が多い。

大学時代は付き合っていた恋人とのデートが絡んでいたので、憶えているのだと思う。

そういえば大学生当時流行っていた雅夢の曲の「愛はかげろう」の出だしは、「窓ガラス 流れ落ちていく雨を 細い指先でなぞってみる」であった。

このユニットは名古屋の大学生だったので身近に感じて、それと思いを重ねたりしたが、その時の恋人と別れたのは東京であった。

そして、雨の中で彼女を思い出していたのは、地元に戻ってからである。


桑田佳祐の「東京」に出会うまでは、雨の日には三好英史の「雨」や、カーペンターズの「雨の日と月曜は」をうろ憶えで口ずさんでいた。

雨はどうしても気持ちが落ち込み、別れた人への未練が湧き出てきたりする。

そんな雨の日でも温水プールへ行くと、大きな窓に激しく降っている雨を眺めたり、天井に窓があるプールでは雨粒を眺めながらゆったりと泳げる。

落ち込んだ気分と水の中の気分が合わさり、しかも単純な泳ぎの中で、昔の切ない記憶が甦ったりする。

「東京」の歌詞にある「そして悔やむのは 涙の河に捨てた恋」は、私にとっては横浜の恩田川にだった。

その情景はゴーグルにしみ込んできた水を涙と思いながら、泳ぎのストリームに身を任せた我が身に重ねている。


今年の東京はあまりにも雨が続きすぎたので、そういう感傷に浸っていては何も出来なかっただろう。

千葉県などの災害を見ていると、関東で警戒すべきは地震だけではないと思える。

東京の食糧を賄う大切な場所が被害に遭って、これから都民は食糧不足とそれに伴う物価高が、どんどん続いている物価高騰に追い打ちをかけるだろう。

こんな痛みを抱えながらも、東京の人口は増え続けている。

「都会の隅で 世の痛みに耐えて 咲き続けている」ひまわりのような人が多いのだろう。

私はようやく雨が上がって天気が続いたので、家の裏の畑のサツマイモを一筋掘り上げた。

このところのしっかりと降った雨のお陰で、大きく立派に育ってくれていた。

そんなサツマイモを手に取ると、虚しさなどは感じるはずもなく、蒸し上がった芋が口の中でとろけるのを思い浮かべてとても愉快だ。




2026年9月30日水曜日

老僕は死なず、ただ増えゆくのみ

 我々の世代は交通戦争を生き抜き、受験戦争にも生き延びてきた。

「戦争を知らない子ども」は、当時のベトナム戦争の反戦歌として歌われたが、この歌が流行した1970年は交通事故死15,801人、負傷者981,096人という交通戦争の戦時下にあった。

また、1972年にリリースされた井上陽水の「傘がない」で若者の自殺が歌われているが、その年の自殺者の総数は18,015人である。

ちなみに1970年の殺人による死者数は3,378人である。

2023年当時のパレスティナのガザ地区の戦争による死者が2万人だという。

人口あたりとしては、確かに日本の当時の死者数の方が割合として少ない。

しかし、殺戮兵器が用いられず、しかも平和と感じて生活していた人が、これだけ無残な死に方をしていたのだ。

当時から現在にかけて、資本主義社会における流血戦争とは違う、住民のなかで起こる戦争を戦争としての認識はしてこなかった。

海外で起こる流血戦争をテレビや映画を見ながら、日本は平和であり、戦争はしてはいけないと誰もが言ってきた。

しかし、身近に起こっている住民の中の戦争を止めようとしなかった。

それは自分は加害者になる可能性もあったが、社会に取り残されずに成功者になって勝ち組として生き残ることに励んだ。


こういう戦時下にあって、生き延びた世代として65歳以上の人口が3割に達しようとしている。

退職して老後は子や孫とのんびり暮らして行きたいと思っていたが、その子や孫はそばには既にいなかった。

そのかわり自分の親は施設に預けることができるようになっていた。

今日の特売の火曜市では限定200個のふだんより100円安い卵を求めて老夫婦が殺到した。

雨が降ってコインランドリーがいっぱいとなって、おじいさんは順番待ちに置いてかれた。

来月から第三のビールが値上げだし、電気料金も上がるという。

年老いても、まだ生き残りのための住民としての闘いは続いている。

実際の太平洋戦争での流血戦争を経験した人の話はマスコミで取り上げて感動を呼ぶのだが、住民のなかの戦争を生き抜いた話は話題にもならない。

ただ、武井壮のNHKのファミリーヒストリーは、父親が金と女に狂って崩壊させられた家庭を生き抜いた戦士の感動をよぶ実話が放映された。

金の卵として集団就職という名の徴兵によって戦って成功しながら破滅した父親の物語でもあった。

世間の豊かさをよそに、懸命に生き抜いてきた武井壮の姿で生きていく力をもらった。


現代は交通事故死は減ったが、中高生が受験戦争などでの自殺者が増えているようだ。

社会に出て戦う前に、受験戦争や家庭問題、人間関係に苦しんで自ら命を絶っている若者が増えているらしい。

武井壮氏の生き様を中高生には知ってもらいたいと思うが、彼のように立派な戦士になる必要は無く、どんなに惨めでも生き抜いた姿だけ学んでほしい。

そして、自分たちは決して平和で豊かなな時代に生きているのではなく、生きるのに厳しい戦時下にあることに気づいてほしい。

これが資本主義の宿命と言ってしまえばおしまいなのだが、生き延びた我々老僕が若い人に残せるのはそういう教訓だけかもしれない。


参考文献

É,アリエズ&M,ラッツァラート 杉村昌昭、信友建志訳 2019  『戦争と資本―統合された世界資本主義とグローバルな内戦』 作品社 [ É,アリエズ&M,ラッツァラート2019(2016)]







2026年9月29日火曜日

イスラーム理解・その3~金融戦争に対抗する無利子銀行

 このところ、日本国債の金利の問題が毎日のようにニュースとなって流されている。

これは為替レートでの円の価格にも大きく影響するし、個人としては住宅のローン金利にも関わってくる重大な関心事だ。

これまでは低金利どころか、マイナス金利と言うことで、多くの日本国民は利子を当てにして暮らすことはなかったし、住宅ローンの負担も比較的少なくて済んだ。

しかし、円安となってしまい、外国からの輸入が増えている日本では物価やガソリン、電気代などが上がって生活を圧迫している。

要するに、金利をめぐる国際的な攻防、いわゆる金融戦争の戦時下にある我々の社会は、つねにそのリスクを負って生活している。

そして、政府はNISAを通して株への投資を呼びかけていて、NHKなどのマスメディアでも子供のこういう金融への教育を大きく取り上げている。


私たちの世代は額に汗して物を作ったり、人にサービスしてお金を稼ぐことが一番尊いことだと教えられてきた。

しかし、今は小学生にも金を活用して儲けることを学ばせる。

NHKテレビでは円安だから、外国で稼いでその金を元手に日本で楽に仕事するというような映像が流れた。

一方Youtubeではオーストラリアの現地の人が、物価や時給が上がりすぎて、発展途上国の低賃金労働者の影響で社会が混乱していることを述べていた。

その発展途上国では多くの借金をして出稼ぎに来ているのが特徴となっている。

この配信者は日本も同じようになることを危惧して動画を流してくれたのだった。

現実的に日本にやってくる発展途上国の労働者の殆どが負債を抱えていて、その返済のために場合によって犯罪を犯したりしている。

これこそ、為替レートの違いを利用した国際的な金融戦争の実態であり、そういう金融の抱えている裏の面をマスコミは報道しないのは国民を欺いている。


こういう資本主義国の金融戦争の一方で、独自の経済を築いているのがイスラーム経済である。

その事に関して分かり安く解説してくれているのが、

長岡慎介*1の「未来をひらくイスラーム経済のつなぐ力―その思想と歴史から学ぶ」黒木英充・後藤絵美編 2023 『イスラーム信頼学へのいざない』  東京大学出版会


であり目次は以下のようになっている

はじめに  99 1 金儲けを肯定する経済思想  99 2 商売に埋め込まれたイスラーム経済のしくみ 102 3 イスラーム経済の「つなぐ力」 105 4 現代世界に復活したイスラーム経済 108 5 イスラーム経済とポスト資本主義 111


イスラーム経済は決して金儲けを否定しているわけではなくて、その事業に加わることなく、金を投資してその利子だけを得ることを禁じている。

この書にはそのイスラームの商売や銀行を分かり易く図解して説明してくれているので是非読んで欲しい。

そして、彼が一番訴えているポスト資本主義として次のように述べている

一見すると、このしくみは、これまでのクラウドファンディングと同じように見えます。しかし、商売目的のものと社会貢献目的のものを明確に区別するこれまでのクラウドファンディングと異なり、イスラーム型クラウドファンディングでは、人助けのアイデアのなかに必ず商売が入っているのです。それは、ワクフでは、商売からの儲けを使って困っている人たちのための施設を運営することになっているからです。そうした商売と人助けを融合するワクフの精神が、このイスラーム型クラウドファンディングにも息づいているのです。[前掲書:112]


小学生に金儲けだけ教えて、人助けを教えない学校は、下の下である。

NISAなどは銀行に頼るだけで、自分が投資しようとする企業の実態すら分からない。

企業の業績に関わらず、株価が上下することだけで利益が得られる今の金融戦争に生き残れる人材を、文科省は育成しようとしているというのだろうか?



*1 もっと詳しく解説してくれているのが長岡慎介  2024 『イスラームからお金を考える』   筑摩書房である