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2026年8月5日水曜日

自由なる私立中高一貫男子校の喪失

 私は幼稚園から小学校までは公立に通った。

中学校から大学は私学で、大学院は公立だった。

そして、就職したのは公立の公務員だった。

大学院の先輩に慶應大学出身の人がいて、幼稚舎から大学院修士まで慶應で、博士は都立大学、結局慶應大学の教員になった人がいる。

その人は学んだ公立は都立大の博士だけということになるが、博士課程は当時の徒弟制的研究室の中では上位であり、下積みなしのブランド強化とも言えるかもしれない。

修士という下積みで潰れていく院生も少なからずいて、他の大学院の修士で力をつけて博士から入ってくる方が合っている人もいたようだ。

先輩の中には学部が都立大で修士は他の大学、そして博士に都立大に戻ってきた人もいた。

そういう意味では私は私学の大学院修士でのびのびしていた方が合ってたかもしれないが、早めに自分の実力を見極められた良い経験だったのかもしれない。

同じ私立大学でもミッション系とそうでないところでは育ちが方が違ったようにも思え、早稲田や慶應とは肌色が違っているように感じた。

また、同じミッション系でも国際基督教大学出身の先輩もいたが、私たちのようなカトリック系の学校とは学生のタイプがかなり違っていたように思える。


私は中学から大学までの10年間をカトリック系ミッションスクールの自由な校風で育ったので、それが抜けきれず大学院の修士で挫折したようにも思える。

研究職を目指すなら大学からゼミの先生との師弟関係をしっかり築き、学閥組織で生き抜く覚悟をしていねばならなかった。

ただ、恋愛に関しては大きな失敗もあったが、多くの掛け替えのない経験をすることができた。

実は、こんど出身校の淳心学院が男女共学になるという。

どうも、少子化の影響で経営的に求められているようだ。

これで中学校から校内でも自由に恋愛ができると思うかもしれない。

私は逆だと思う。


家内は大学以外では男女共学であったが、男子を恋愛対象としてで無く、競争相手とみていてもいたようだ。

そして、大学は女子だけの大学にはいったので、女子だけで気楽に仲良く過ごせたようだ。

中学高校での男子校では女子に対して対抗意識を持ちようが無い。

他校の女子生徒やOLと気楽に友だちでいられる者もそういなくて、しっかりと恋人として付き合うのが普通だった。

要するに女性は恋愛の対象であって、進学などの上で競争する相手ではなかった。

私は大学では男女共学だったが、大学院への進学で競う女性はそもそもいなかった。

その点では国立大学に進んだ理系の娘が男性とも競争して大学院に進んだのとは違う。

娘はずっと男女共学で男子とも競争してきたので結婚できるか心配したが、なんとか職場結婚してくれた。


母校が男女共学になるということは、名前が残るだけで母校を失ってしまったようにも思える。

確かに受験勉強という競争に晒されてはいたが、ミッションスクール特有の自由さで仲間とロックバンド演奏で楽しみ、校外での恋愛を謳歌できた。

その延長上に同じカトリック系ミッションスクールの南山大学があったので、次の都立大大学院では挫折したと言えるかもしれない。

一方で、男子校で恋愛関係に無縁で勉強に勤しんで、立派な医者になった仲間も多く知っている。

国公立医学部に限らず東大や京大などの有名国公立や有名私学に進学した仲間で、男女交際を派手にしていた者は同じバンド仲間の数人しか知らない。

男女共学になっても志望する大学に入りたいのなら男女交際はほどほどにせねばならないと、身をもって思う。

ただ、淳心学院卒業後の恋愛や結婚することに関しては、むしろ男子校であったことで、女性に対して思い入れが背中を押してくれたように思う。

「男女7歳にして席を同じせず」というのは、切り離すことで異性を強く意識して却って求め合うことになるからかもしれない。

また、在校当時にはベルギー出身の独身神父さんなどを近くに見ていたので、それが却って結婚願望になったようにも思える……








2026年8月3日月曜日

祖父の戦死の事実に向き合う

 私は母方の祖父(川根曻:明治36年生)のことについて、何度かブログに書いてきた。

母の父への思い」(祖父の写真)「祖父の戦死」「家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父

実は祖母、伯母、母から聞いたうろ覚えの知識で書いたのであって、ちゃんと調べて書いていなかった。

今回、私の実家の名義を変更することから、赤穂市役所から戸籍謄本を取り寄せて、祖父の戦死について正確に分かった。

祖父は昭和19年9月17日。南シナ海方面において満40歳で戦死したのであった。

そのことからその日に沈没した航空母艦を調べたら、特設航空母艦雲鷹であることが分かった。

私は雲鷹のよみである「うんよう」を、勝手に「うんりゅう」(雲龍)と思い込んでいたらしい。

しかも、南シナ海を父方の伯父が戦死した東シナ海と混同していたようだ。

そうなると、台湾よりも南の海域と言うことになるが、 シンガポールから北九州へ向かう「ヒ74船団」を護衛中、夜間に被雷して沈没した。

米ガトー級潜水艦「バーブ (Barb)」の魚雷攻撃(雷撃)によるもので、木村行蔵艦長ほか232名が戦死したという。

ネットでは雲鷹が魚雷攻撃を受けた様子や沈没の過程を詳しく書かれており、祖父の戦死を目撃したかのように感じることができた。

場所はの東沙島(プラタス島)の南90浬で、詳細は以下のようである。

雲鷹戦闘詳報による沈没位置北緯19度8分 東経116度33分。海上護衛隊による沈没地点記録北緯19度04分 東経116度36分もしくは北緯19度15分 東経116度33分。アメリカ軍記録北緯19度18分 東経116度26分[257]

雲鷹は広島の呉からシンガポールに行くには東シナ海も通ったかもしれないが、私が研究してきた沖縄奄美とは直接関係は無かった。

むしろ、自分たちの新婚旅行で行ったシンガポールの方が関係していたのだが、当時はそのことに関しては全く知っていなかった。

広島の呉に関しては、祖母や母から聞かされており、招集後、祖父に面会に行ったことも聞かされていた。

娘が広島の大学だったのでついでに近くまで行ったことがあったが、立ち寄ったことは無い。


本当は、祖母が生きている間に祖父のことをもっと聞いておくべきだった。

私が子どもの頃によく行っていた祖母の家(社員住宅)には、祖父の遺影代わりの軍服姿の肖像が鴨居にかけてあった。

その軍服姿の凜々しい立ち姿と容貌を祖父と思い込んでいたのだが、それは祖父のいとこをモデルにして戦死後に描いたものであったことを後で知った。

祖父には招集された頃の正装した軍服姿の写真はなかった。

祖父は戦死して兵曹長(伯母からの情報)となったので、招集時の家族写真に着ていた水兵服の写真ではなく、第一種軍装の肖像にして飾りたかったのだと思う。

因みに父方の伯父は若干17歳で海軍の少年兵として戦死したが、立派な軍人墓が特別に建てられていたが、遺影や肖像画は飾られていなかった。

その年代頃の和服姿の写真は残っていたので、それとそぐわぬ別人の軍服姿を掲げ続けていた祖母の気持ちは今となってはよく分からない。

まともな遺影も無く、戦死後30年近くも墓さえ無かったが、仏壇では祖母や伯母が懸命に供養し続けていたことは確かだ。

ただ、戦争に対して深く考えて語り継いでいく場をあまり持っていなかったとを残念に思う。


私は今読んでいる文献は、  エリック・アリエズ マウリツィオ・ラッツァラート 杉村昌昭十信友建志訳 2019 『戦争と資本―統合された世界資本主義とグローバルな内戦』 作品社 である。

この本の主旨に従って、私たちが太平洋戦争の延長上に生きていると考える時、祖父の戦死はグローバルな植民地戦争の先駆けの犠牲だったと言うことになる。

私の戦死した祖父以外に父方祖父母も母方祖母、そして私の父母さえ死ぬまで海外に出かけることは無かった。

今から81年前に既に祖父はシンガポールまで出かけていたことになる。

最初に海軍に入隊して退役するまでにも中国での任務についていたことも聞いている。

考えてみれば戦前の日本人は移民や戦争でグローバルな活動をしていた人もいたのであって、「戦争にでもならねばハワイには行けぬ」と言われたりしたようだ。

現在の日本人は経済活動を中心とした<植民地戦争>でグローバルに闘っていると考えれば、その先駆けだったことになる。

現在の日本は祖父が経験した生の戦争に引き戻されているのは確かだろう。

集団的自衛権を理由に本気で<戦争機械>で戦争する気であるのなら、当時の生の戦争をもっと国民に知らしめて覚悟を求める必要があると思う。

それをせずに格好だけつける防衛大臣がまた日本を滅ぼすと思う。











2026年8月1日土曜日

戦没者の尊厳と覆い隠された怨讐

 先日(7/31)の朝日新聞の「語る 人生の贈りもの」切明千枝子:10 ずるっと抜けた髪「これで楽に」に書いてあった一節


いまの慰霊碑には「殉国学徒之碑」とある。建てたとき、この碑文で一悶着(ひともんちゃく)ありました。同窓生は「国に殺されたんだ」と反対する。でもお父さんやお母さんは「お国のために死んだと思わないと身が持たん」と。同窓生は沈黙するのみでした


この文章に胸が詰まった。

原爆投下は明らかにアメリカ軍による大虐殺であるが、亡くなった人の死に対して、虫けらのように殺されたとか、軍国主義国家の犠牲になったという刻印は酷すぎる。

それが現実であっても、せめて慰霊碑には「お国のため」の尊い死として刻んであげたいと思うのが、肉親の心であろう。

その言葉で恨みや憤りを覆い隠さないと、辛くて生きていけないということだろう。

そういう意味では、慰霊碑に隠された肉親の心情をも感じ続けなくてはならないと思う。

東大を出た国会議員が天皇の歴史を2600年と平然と言うアホな時代に、学び続けなければならないのが戦争の現実だと思う。

「殉国学徒之碑」という文言だけでは隠されたその肉親の心情が伝わってこない。

そういう意味で切明千枝子さんの語りは、当時の肉親の生の心情がひしひしと伝わってくる。


実は、私も祖父が40歳で戦死した場面を、その娘である伯母から聞かされたことがある。

機関兵だった祖父は乗っていた航空母艦が攻撃を受けて沈没しかかる時に、甲板まではなんとか這いずりながら出てきたけれど、生き延びることができなかったという。

祖母はその話を同じ艦に乗っていて助かった戦友から聞かされて、ひどく泣いていたそうだ。

まだ34歳という若さで夫を亡くし、二人の小さな娘を抱えていた祖母の気持ちは私には分からなかった。

祖母は戦死した夫の墓を長い間建てられないでいた、二人の娘を育てるのに精一杯で立てる余裕が無かったのだと思う。

祖父の墓をちゃんとしていないことを祖父の兄弟から責められて、侘びながら泣いていた場面にたまたま居合わせた。

私の母方の祖父母の実家は福浦(備前福河)にあり、祖母に連れられて夏休みに墓参りに行ったりしていた。

祖母はその立ち去る時も幼い私らの前で、泣きながら悔しくて怒っていたのを憶えている。

夫を亡くして必死で生きていた祖母を、周りの親戚は本当に気遣うことができたのかと思う。


祖母は自分の娘の家族と家を新築して赤穂で暮らし始めて落ち着いてから、高山墓地に小さなお墓を建てた。

戦死した人の墓は、たいていそれと分かる先のとがった立派な軍人墓が建てられる。

祖母は敢えて戦死したことが分からないような小さな墓を建てた。

当然、海で戦死した祖父には遺骨は無くて、出撃する前に知人に託した遺髪が残されていただけだった。

祖母にとっては本当に遺骨の眠っていないお墓を、30年近く経って誇らしげに建てる気がしなかったのかもしれない。

私自身も墓参りする時に、祖父が戦死したことはあまり意識しない。

ただ、祖父の50回忌は多くの親戚を多く招いて盛大に行われ、祖父の子や孫の家族がしっかりと暮らしていることを披露できた。


私自身は祖父の戦死に関しては思いをはせたのは、学生時代に村落調査で通っていた奄美に行く時にフェリーで通った東シナ海だった。

祖父が戦死したのは東シナ海とだけ、幼い頃から聞かされ続けていたからだ。

そのとてつもなく広い海に祖父を感じようとしていたし、奄美に通うようになったことに因縁を感じたりした。

祖父の戦死をアメリア軍の攻撃や戦地に追いやった日本国に単に殺されただけと孫としては決して思いたくない。

幼い娘が二人もいるのに召集した国に殉じたとは言いたくもない。

ただ、後世に残る人のための尊厳ある死だったとは思いたい。


2026年7月30日木曜日

プロレタリアートの消滅とアウトローの大量発生

 プロレタリアートという言葉は子どもを生むことでしかローマ帝国に貢献できないという意味を起源とする言葉だという。

つまり、兵士となる子どもを産んでこその無産階級なのであった。

ということは現在の子どもを作らない労働者は、プロレタリアートではないということである。

一時DINKs(Dual Income No Kids)という言葉がはやったが、現在でも全体の25%の夫婦が夫婦のみと言われているが、意識して子どもを作らない比率は分からないそうだ。

これに加えて、2020年で男性の未婚率31.9%、女性の未婚率23.3%ということになると、プロレタリアートは消滅しかかっていると言えるかもしれない。

プロレタリアートは土地や工場などの生産手段を持たず、労働力を提供して生活する人たちを指す言葉になったので、子ども有無とは関係なくなっている。

ただ、これには別の側面があって、かつて男性が労働をして賃金を稼いで、その賃金に依存した女性を専業主婦として支配していられた。

そして、法として一夫一婦制にすればますます男性への依存が高まるとともに、男性も自分の妻子のために身を粉にして働くのだ。


もう既に専業主婦で居続けている、ないし居続けられている女性は少数になっているようだ。

ただ、子育てをしたい高学歴の女性の方が、高学歴高収入の男性と結婚して専業主婦を望んでいるというのもネットで読んだことがある。

高学歴高収入でない男性は子どもを望む女性と結婚できないし、男性に支配されたくない女性は結婚して子どもを産もうと思わないのは理解できる。

かつて、狩猟採集から農耕社会まで専業主婦でいられた女性は存在しえなかった。

江戸時代の町でも武士や貴族の妻以外は、商売や内職やらをして女性も稼いでいたようだ。

近代の産業社会になって初めて無産市民といわれながらも、ブルーカラーのプロレタリアートは妻子を自分の賃金だけで養えたのだ。

そして、ホワイトカラーが増えた現代では女性もしっかりと収入を得られる時代になっているので、男性に依存する必要が無くなっている。

しかし、それもAIの進歩で危うい立場となり、むしろブルーカラーが見直されている。

このように男性にとっても女性にとっても熾烈な競争社会となってしまったので、それに取り残された人は結婚しても苦しい生活を強いられ、離婚も増えている。

Youtubeで繰り返し夏休みに給食がなくなり、母子家庭の子どもが食事をまともに食べられないという広告を見るたびに現代の残酷な一面を思い知らされる。

北朝鮮から兵士がロシアへ送り込まれるのを見ていると、兵士として戦地へ行く方がまだ食糧にありつけるのかと思ったりもする。

今のオーストラリアでちゃんとしたビザを持たず、性風俗店で働く多くの日本人女性がいて問題になっているという。

日本の円が安くなり、貨幣価値の高いところで容易に高収入を得られるのが性風俗であるからだ。

これが一世を風靡したプロレタリアートが消滅していく中での、日本のひとつの姿なのだろう。

アメリカの兵站を担ってきた日本の企業兵士が、アメリカの衰退によって必要でなくなっただけのことであろう。

企業兵士を産んで国家に貢献するプロレタリアートの消滅である。

その一方で、高収入を得られるヘッジファンド、ハッカー集団、特殊詐欺グループのようなアウトロー(無法・超法規者)が大量発生してきた。

その頂点にアメリカ大統領のトランプがのさばっているように思える。









2026年7月28日火曜日

父親との確執と和解

 私は特に高校から大学に入るまでの期間は父との言い争いが絶えなかった。

私は父が求めるように勉強に励まず、好きなロックバンド活動をしていて、成績も振るわなかった。

造船所の職工だった父は、親から家業の海運業を継がせるのに中等学校を中退させられて、その仕事も結局家族のために辞めて造船所に入社した。

その職場において高学歴の上司から低い扱いをされるのをいつも悔しがっていた。

自分の悔しい思いをさせたくないと、高い授業料を払って私学に通わせているのに、まともに勉強しない私が許せなかったようだ。

それに対して、男ばかりの男子校に入った私は、剣道部には入ったものの夏の合宿までしか持たなかった

小学校でやっていた剣道のいい加減な練習とは違って、高校生も混じった厳しい練習に自分はついていけなかった。

だから、勉強以外の楽しみや気晴らしが無くて、それを音楽に求め始めたのだった。


大学の進路に関しても、工学系の理系に進ませたい父と理学・農学系の理系に進む気の自分との葛藤もあり、好きな生物を履修できなかった私は高3で文系に転じてしまった。

文系に転じたものの暗記科目はどちらかというと苦手で、受験勉強をしっかりできず、成績が悪くて父に責められていた。

また、進路に関しても父と口論が絶えず、家の中が荒んだ状態になってしまっていた。

父は大学受験に必死に取り組み将来につなげられる有名な国立大学への進学を強く望んでいた。

また、兄弟が4人もいて、国公立でないと下宿させられないという経済的な事情があった。

まさしく受験戦争の中で、私は家の経済状況も考えずに、気ままにしているように思えたのだろう。

私の方は大学受験経験も無い父に自分の気持ちが分かってたまるかと勉強もせずに反抗していた。

そのくせ周りから取り残されていくのは不安に思っていた。

結果は1年浪人しても国公立大学には行けず、三流の私立大学にしか受からなかった。


周りは恥ずかしいからもう一年受験しろと言われもしたが、家から離れられるのなら不本意な大学でも良いと喜んで入学した。

名古屋には叔父さんがいたのでそこで居候させてもらえば、私学でも何とか暮らせると言うことで話は収まった。

私の両親は私が入学した南山大学がどういう大学かも知らなかったし、私に聞こうともしなかった。

ただ、母だけは私が大学を落ち続けていたので、どんな大学か知らないのに、一つだけでも受かったと喜んでいた。

私は嬉しくも無かったので、その母の喜んでいるのに対し複雑な気持ちでいた。


居候の方は友だちのアパートに転がり込んで、結局安い下宿代でそのまま乗っ取った形で卒業まで過ごすことができた。

親からは授業料は払ってもらい、途中から奨学金が36,000円入ったが、仕送りは4年間毎月2万円だけだった。

私は大学では好きなロックを目一杯するつもりでいて、できればプロになれれば良いとも思っていた。

ところが、その道も上手くいかず、文化人類学の村落調査が自分にはとても魅力的なものとなった。

それには、そのサークルで彼女ができたのも大きな理由でもあった。

そして、もっと研究がしたくなって大学院にも進もうと思った。

これも就職できる当てもなく、無謀な選択であったのだが親には理解できていなかった。

私が研究を続けることを知って母は、あれだけ勉強を嫌がっていたのにと不思議がった。

要するに勉強が嫌いなわけでは無くて、大学受験科目に興味が持てなかったし、入ってからしたい事が勉強と関係なかっただけだったのだ。


いろいろと無理して入った大学院だったが、博士課程に進めず研究者になることを諦めざるを得なかった。

そして、生活も破綻して実家に戻ってきた時は、父は冷淡極まりなく、厄介者が帰ってきたという態度だった。

私は親への反発心などよりも、何とか生きていくための職を得るために教師を目指した。

教員採用試験の一次に合格したくらい頃から、父の態度も変わってきて応援してやろうという雰囲気も出てきた。

そして、教師に正式採用された時には、もう過去のわだかまりもなくなっていた。

結婚して子どもができてからは、実家に子どもを連れて行くと喜んでくれた。

最近弟に孫ができて、その可愛がる様子を見ていて父のことを思い出した。

父も孫が大好きで、一緒に遊んだりして可愛がっていた。

特に、末弟の子どもが近くにいたので、しょっちゅう訪ねていっていたようだ。


そして、忘れていたのは父がその末弟をすごく可愛がっていたことだ。

私は既に小学校3年生だったので、父が末弟を可愛がる様子を傍で見ていて記憶している。

夕方に仕事から帰ってくると、末弟を抱いて歌を歌ったりしてよくあやしていた。

母や他の兄弟も可愛い末弟と関わるのが楽しみだった。

その父が可愛がる様子をクラスの詩集に書いて、担任の先生がみんなの前で読んでくれて少々恥ずかしかったのを憶えている。

父はどちらかというと子どもが好きで、最初から厳しい人では無かったのだと思う。

子どもが成長するに従って、子どもに厳しく接するようになり、時に体罰もともなった。


その末弟がよく口にするのは、いやいや畑でいい加減な態度で草抜きをしていて、父に叱られて、「いね(帰れ)」と叱られたことだ。

それ以来、末弟は畑で農作業が嫌いになったと言うことだった。

確かに、父の末弟への扱いはまずかったかもしれないが、甘やかしすぎたと思っていたのかもしれない。

父は歳がいってからの末弟を非常に可愛がっていたが、一方で他の息子との関わりに手を取られて躾が疎かになっていたことも確かだった。

父親は子どもの世話そのものよりも、独り立ちできることを考えねばならない立場だ。

ちょうど時代の変わり目であった父は、難しい立場にあったのだと最近分かるようになった。

祖父が父に無理矢理家業を継がせたのとは逆に、学歴を付けて良いところに就職させようとする父の強引な意図が私との確執になっていた。

父と息子の確執はその時代が作るもので、必ずしも性格の違いとは言い切れない。

私は父同様に上の世代が置かれていた状況を正しく理解できていなかったようにも思う。

しかし、私が教師になって家族をもって平凡に暮らし始めると、和解できて喧嘩をすることはなくなった。

大切にすべきなのは家族だということで、世代が違っても理解し合えたのだと思う。

本当に親を理解するには、自分で子どもを育ててみないと分からないのかもしれない。

といういことは、子どもを持たない子どもからは死んでも理解されないのかもしれないと思ってしまう。

そういう人を身近に知っているだけに……






2026年7月27日月曜日

避暑と避難のショッピングモール

 先週の日曜は気温の低そうな山地に行った。

しかし、思ったほど涼しくもなく、少しでも気温の低い場所に駐車することもできなかった。

そこで、今週は人は多いだろうと覚悟を決めて、倉敷にあるショッピングモールに出かけた。

近くの姫路にも大型ショッピングモールはあるが、昼食を食べるの魅力ある店があまりない。

岡山には岡山駅近くにも魅力ある飲食店があるショッピングモールはあるが、そこまでたどり着くのに渋滞が多い。

田舎に住む我々夫婦にとって渋滞が一番耐えがたいものなのだ。

倉敷には駅前にも大型ショッピングモールがあるが、飲食店に魅力が無い。

だから、倉敷郊外にある大型ショッピングモールにいつも出かけている。

そこは無料駐車場があるのだが、モール付属の駐車場はいつも満車で、南側の青空駐車場にいつも車を停めている。

そこから、モールまでは信号があったりして、たどり着くのにも一苦労ではあるが、駐車は簡単にできる。


モールの中は予想したとおり多くの人で賑わっていた。

やはり、子連れの家族が多くて、少子化という言葉とは無縁の空間だ。

ただ、モール内の気温は思ったほど低くなく、それほど涼しいとは感じなかった。

これだけの空間を冷やすのにはどれだけ空調に電気をつぎ込んでいるだろうと思いもした。

また、室外機からの熱風は周りに影響を与えるだろうが、ここは町の郊外で幸いしているように思えた。

まずは飲食店街に行って、順番待ちの紙に名前を書いておいた。

いつもは、あまりにも多いので避ける店だったが、メニューが夏向きではないので、意外と少なくて待つことにした。

店の横で20分ほど待って、呼ばれて入ってから注文して20分ほど待ったが、それでちょうど昼の12時となって都合は良かった。

しかし、注文した煮魚定食は予想以上に身体を熱くして、汗をいっぱいかかねばならなかった。


食事後は腹ごなしにウインドーショッピングを楽しんだが、時々くたびれて通路の椅子に腰掛けて休んだ。

この椅子はたいてい座っている人がいて、二人で座る場所を見つけるのはそう簡単では無かった。

通路は人の行き来が激しくて、子どもも走っていたりするので、落ち着いて座っていられる場所では無かった。

モールには学習できる場所も用意していると言うことで、親が買い物している間にベン居雲もできるという気の配り方だった。

広い店内を歩いて運動にもなるし、飲食できてゆっくり過ごせる避暑地でもある。

ここの大きな問題は自家用車で無いと来られないことだろう。


最近はお年寄りが家の中で熱中症で無くなる人が増えているという。

これだけの酷暑なのだから、その避難所としてショッピングモールの役割も重要だろう。

駅近くにあるモールでは公共交通機関を利用して来られる。

災害時に避難する体育館や自治会館と違って、中で歩くこともできるし、イベントを楽しむこともできる。

モールによってはプールやトレーニング施設も兼ね備えている。

できれば、寝そべったり横になって昼寝ができる場所があれば嬉しい。

これからは、老人も楽しめるようなコーナーも作って、自治体とタイアップしながら老人を呼び込むべきだと思う。

イートインなどを利用して飲食もそこで行ない、健康管理で一日過ごすこともできたら、医療費や介護負担も減らせることになる。


追記

このブログを書いた後に熊本で大地震が起こり、その影響でショッピングモールが爆発事故を起こしてしまった。

それで思い出したのは、以前勤めていた学校で、もし、ショッピングモールのフードコートで大きな地震に見舞われたらどうするかということをテーマにした授業があったことだ。

生徒に色々考えさせる授業だったが、今回の震災ではお客さんの避難においては上手くいっていたようだ。

おそらく、職員が大地震を想定した研修や訓練を行っていた成果だと思う。

これから、こういう爆発を想定した研修や訓練がなされていたかどうか分かるだろうが、おそらく徹底してなされていなかっただろう。

実は以前勤めていた特別支援学校でも校舎からガス漏れが見つかって、校舎にはガス管が張り巡らされていることも気がつかされた。

石油ストーブの方が危険で管理が難しいこともあって、ガスを使った暖房が行われている学校もある。

特に準備室などではガスストーブがあるし、家庭科教室だけでなく科学などの実験室ではガス設備などがあって当たり前だ。

今回の事故はショッピングモールだけでなく、避難所となるはずの学校などの施設に関しても大きな問題を投げかけていると思われる。




2026年7月25日土曜日

夏はつとめて(早朝)

 清少納言は枕草子では「夏は夜」と言っているが、夜には農作業ができないし、熱帯夜に外に出て涼む気にもならない。

今の時代のように殺人的な猛暑では夏はつとめて(早朝)に限るのだ。

このところ、夜が早く明けるので、早朝は机に向かうことが多かった。

本を読んだりブログを書いたり、ネットを見たりしていた。

そして、家の裏にある畑での農作業は夕方に行っていたのだが、もう暑くて耐えられなくなった。

去年はもっと早くから早朝に水やりを中心とした農作業をしていた。


今年も先日(7/22)から午前5時前に起きて、空調服を着て農作業を始めた。

水やりをするのだがエンジンポンプをかけると近所迷惑になるので、リールコードを自宅から延ばして電動ポンプを使っている。

去年もスプリンクラーで散水している間に、犬の散歩に出かけてきて先日もそうしていた。

戻ってくると電動ポンプが止まっている。

また、やってしまった家のブレーカーが落ちたのだ。

というのも、早朝は炊飯器を使っていて、容量を超えてしまって去年もよくブレーカーを落としていたことを忘れていた。

そこで家内に炊飯器は午前五時までに炊き上がるように言っておいたので、今朝(7/24)は同じようにしてもブレーカーは落ちなかった。


朝は農作業にも散歩にも涼しくて良いのだが、最大の問題は蚋(ブヨ)という刺されたら腫れ上がる虫に狙われることだ。

虫除けのミストを露出部分に振りかけているのだが、顔の周りにまとわりついてくる。

被っている竹笠に「オニヤンマ君」をぶら下げてみるのだが、完全に追い払うことはできない。

夕方は暑い代わりに蚊やブヨの心配が要らないのとは対照的だ。

人が活動しやすい時は虫たちも元気なので、農作業をするにはその対策が大変だ。

私は空調服も長袖を着るのはその対策で、腕にも電池式の虫除けを付けてきた。

今回は背中の中程にファンを取り付けられるフード付きの長袖空調服を新調して着てみた。

これだと、顔に風が多くかかるので、蚊やブヨを追い払うことができているようだ。

早朝はポンプだけでなく草刈り機も静かな充電式を使ってラジオを聞きながら作業をしている。

こんなに涼しいのに近所の人はあまり農作業をしたがらないのは、農機具がエンジン式が多いことも原因しているようだ。


このところ、うちの村では子どもの数も減ったし、ラジオ体操を以前のように六時半に公園でしなくなった。

ラジオ体操があった頃は、朝でも賑やかな感じがしていた。

これだけ猛暑のなか熱中症で亡くなる人も多く出ているのだから、政府はサマータイムで対処すべきだと思う。

そしたら、日の出前にエンジンの音を立てても苦情は出ないだろう。

真昼の農作業や土木建築工事などで熱中症を減らすこともできると思う。

特に老人にとっては生死に関わる問題だ。

こういう国民の困難を無視した国会運営を行う高市総理の支持率が落ちても当然だと思う。