私は高校時代に宮城音弥の『精神分析入門』(1959 岩波新書)を読んでから、フロイトやユングの精神分析に大学時代も関心を持ち続けていた。
特に大学生時代に読んだ岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977 青土社)は、非常に分かりやすく、これによって物事を見る目が違ってきたように思う。
ただ、私が専攻していた文化人類学での文化そのものに関しては、岸田の言う「唯幻論」思考は常識的な基礎で、取り立てて強調する必要も無かった。
だから、精神分析は精神障害の治療と関係し、文化の分析には有効では無いと感じていた。
実際の治療に関しては、よく知っている精神障害を抱えたAさんは、当時は薬物治療しか受けていなかった。
1970年代から1980年代では精神療法はまだ治療としては日本においては確立されていなかったようだ。
私は国立大学病院に通院しているAさんから「自分は(薬事治療)のモルモットにされた」という言葉が忘れられない。
当時の精神科医の医者は患者に与える薬も手探り状態に合ったようで、色々と薬を試されているうちに副作用も重くなっていったようだった。
よく憶えているのは、Aさんと病気に関して口論になってしまい、彼は自分の飲んでいる強力な薬を私に投げつけたことがあった。
Aさんは自宅に引きこもっていたのだが、頭が朦朧とするような薬を飲み続けて苦しんでいることを理解できない私への怒りだったのだ。
本人からではなくAさんの母親からは後に、酷い時には自殺未遂までしたことを聞かされたが、その時には知らなかった。
後に、Aさんが幼い頃に母の再婚の折りに祖母にひとり預けられていたことや、母の再婚者との不仲で別居状態になったころは思春期であり自分を責めていたという。
その義父も別居後すぐに心臓発作で亡くなってしまい、Aさんの心の傷が残されたままになったことが理解できる。
そして、引き籠もりの大きなきっかけとなったのは、大学受験に失敗し浪人生活で寮に住んでいた時に生じた相部屋の人とのトラブルだった。
彼は相部屋の人に我慢が出来なくなって、母親に寮を出て家に帰ると訴えた時に、母親は叱って頬を叩いたそうである。
それ以来、家に引き籠もったり、時に家で暴れるようにもなったという。
若い頃は完全に引き籠もってしまったわけでなく、色々と仕事にも就いたが元気な時は頑張りすぎて、その後で落ち込んでしまい続けられなくなるの繰り返しだった。
今からその当時のことを振り返ると、症状としては双極性障害2型だったように思う。
母子家庭で大きな期待をかけられた心の負担が、大学受験での挫折と追い詰められたことが大きなストレスとなり耐えられなくなったのだと思う。
人によっては、それくらいのことを乗り越えられないでどうすると思うかもしれない。
彼の心は幼少期や思春期の傷を背負ったままだったので、耐えられなかったのだと今の私は思う。
そして、当時の彼には心に寄り添ってくれる人がいなかったのも追い詰められた原因となったのだろう。
今から思えば、幼い頃と思春期の心の傷を「認知行動療法」で治療していれば、改善できたのではないかと思えてくる。
エリック・R・カンデル*1は精神療法に関して次のように述べている。
精神科医はかつて、精神療法と薬物療法は異なる方法で作用すると考えていた。精神療法は心に働きかけ、薬剤は脳に働きかけるとみていた。しかし現在、現実はそうではないとわかっている。精神療法の治療者と患者の間の相互作用は、実際に脳を生物学的に変えることができる。この発見は驚くべきものではない。私自身の研究で、学習によってニューロン間の接続に解剖学的な変化が生じ、その解剖学的変化は、記憶の基盤になっていることがわかっている。精神療法は、結局は学習と記憶という一連のプロセスなのである[エリック・R・カンデル2024(2018):98-99]。
精神分析に始まった精神療法がやっと治療として認められ、薬物療法と併用して効果を上げられる時代になったという。
Aさんは昨年自宅に引き籠もったまま、一人で亡くなってしまった。
もし、この治療が彼の若い頃に確立されていれば、ずっと社会に出て働くことも出来たかもしれない。
ただ、救いだったのは、引き籠もり続けた彼は年老いて寝たきりになった母親を最後まで介護し続けたことだった。
彼が亡くなった時には母親は体調を崩して入院していたのだが、周りは気遣ってAさんの死は知らせなかった。
しかし、分かっていたのだろう、安心したかのように、後を追うように数ヶ月後に亡くなった。
現在は、精神的な障害で用いられた話すことによる治療は、現代ではインフォームド・コンセント(informed consent)にも活かされている。
しかし、現実は多くの患者を抱える医師がじっくりと患者と話し合えることは難しい。
CTやMRIでの検査に頼ってしまっているのが現状だと思う。
精神障害を生じて自殺にまで追い詰められる多い現代社会にあって、自殺の無い社会がある。
それが、イスラム教のアラブ社会である。
それは宗教上で禁止されていることが大きいが、根本的な問題は自己責任をとらされることが無いと言うことだと思う。
日本UAE文化センター代表、作家、エッセイストのハムダなおこは、自殺の無いアラブ社会の理由を次のように述べている*2
アラブには自己責任という思想はありません。自分の行状が今ある運命を導いたと結果づける倣慢さがないのです。人間の身勝手な自己責任という言葉を、対象を選ばずに拡大していったコロナ禍を機会に見直す時が来ているのではないでしょうか[ハムダなおこ2021:102]。
資本主義でかつ民主主義の社会では、自由で平等であるが故に自己責任が要求されている。
家庭環境に恵まれなかったり、たまたま運が悪い巡り合わせでも、「運も実力のうち」として、自己責任なってしまう。
そして、受験戦争に破れたり、就職戦線で負けてたら、努力が足りなかったとか、所詮実力が無かったということになる。
イスラム社会では宗教によって自己責任を回避できるのであるが、そうでない社会では追い詰められて自殺するしか無い。
特に顕著な学歴社会となった日本では、若者が追い詰められて自殺してしまっている。
イスラム教のような宗教を持たない日本人は、せめて精神療法で寄り添ってくれる医師が増えることを望むしか無いのだろうか?
人類の生態史から病気を研究している古澤拓郎は、その著書『ホモ・サピエンスの15万年-連続体の人類生態史-』(2019 ミネルヴァ書房)で、現代日本社会の抱える問題を明らかにしてくれている。
「個人主義化した社会のうつ病」[前掲書:106-114]の項目で、集団主義だった日本人が欧米化で個人主義に移行していったことがうつ病と関連していることを述べている。
「自己責任」とはまさしくこの個人主義の産物である。
学校と企業で家族・親族や地縁関係が崩壊させてしまったのでは、現代の先端医学での治療は焼け石に水となるだろう。
近年は個人の相談相手がChatGPTという驚くべき時代になってしまっている。
私が大学院での挫折で精神的に立ちゆかなくなった時に、電話で一番話し相手になってくれたのは母だった。
もし、母のような話し相手がいなかったら、自殺していたかもしれない。
知り合いのAさんが生き続けられたのも、母親や家族の理解し寄り添ってくれたからだと思う。
宗教でなくても、寄り添っていける人と仲良く暮らすだけで、人は何とか生きていけるように思う。
*1 エリック・R・カンデル 大岩(須田)ゆり訳 2024 『脳科学で解く心の病―うつ病・認知症・依存症から芸術と創造性まで』 築地書館THE DISORDERED MIND(2018)[エリック・R・カンデル2024(2018)]
*2 ハムダなおこ 2021 『アラブに自殺、イジメ、老後不安はない―ムスリムにならう幸福の見つけ方』 国書刊行会