長岡慎介の著『イスラームからお金を考える』 (2024 筑摩書房)の1章では分かり易くイスラム教のことを解説してくれている。
今後、イスラム教が世界で一番信者の人口が多くなるということなので、もっと知っておく必要があるだろう。
アッラーに関しては自殺との関連で上手く説明してくれている。
つまり、「自分の成功をアッラーのおかげだと感謝するのと同時に、失敗もすべてはアッラーのせいだと考えてもよいことを意味しています[前掲書:27]という。
日本人もかつては「運が悪かっただけ」と言って、本人の責任を回避させてくれていた。
現代の日本人は「自己責任」が非常に求められて、失敗は本人の努力が足りなかったからだと責められる。
私自身、日頃の行いや神や仏への信仰心が篤ければ運が良くなると思ってはいたが、試験の得点やスポーツの記録はそれとの関係が薄く、しかも人生を決めてしまうことさえある。
日本人は受験や競技会の前に神社・仏閣にお祈りに行くが、上手くいった時にはお礼に行って、そうでない時に、神や仏のせいにはしない。
イスラム教徒は戦争でもない限り自殺はないが、運や神仏の責任出来ない日本人は追い詰められた多くの人が自殺するということになる。
日本人も今のように資本主義の徹底した時代になるまでは、学歴や実績の数字や賞はそれほど重要な意味を持っていなかった。
今の日本人を救ってくれるのは神や仏ではなくてお金なのであるが、イスラム教徒はアッラーだということだ。
そして究極の目的は「あの世での救済を受けるため、すなわち天国に行くため[前掲書:28]」ということになる。
これもかつての日本人は、極楽に行くことを信じて、阿弥陀仏を拝んできたが、現代ではそれを真剣に信じている人は限られているだろう。
儒教に関しても、人格神はないけれど天道(天の神、宇宙の秩序)が、道徳を守ることを見て運命を左右することと信じられていた。
イスラム教徒はクルアーン(コーラン)を暗誦して、それを生活の実践としていたように、日本人の論語やお経を暗唱して、その教えを理解して実践しようとしていた。
しかし、現代の日本人は論語も受験対策程度となり、お経も僧侶以外は唱えることも無くなってきた。
逆に言えば、かつての日本人は今のイスラム教徒と似たように天国、極楽に救いを求める信仰をしていたということだ。
これも徹底した資本主義の教育によって、金銭とそれに付随する名誉が至上のものとされる価値観に支配されるようになった。
私の父親は非常に現実的な金銭感覚で私を指導してきたが、私の母はその母親(わたしにとって祖母)が、非常に信仰の篤い人だったので父とは正反対だった。
残念ながら母も祖母もイスラム教徒のように、商売などの仕事には長けてなかったので、金銭的には自律できてはいなかった。
ただ、祖母は祖父が戦死した後は、勤めに出ていたし、株の売り買いで収入を得ようとしていたが、遺族年金が重要な収入源だったと思う。
私の世代から上の世代は、父親と母親の金銭感覚と信仰のバランスで、家族や親戚の関係が保たれていたように思う。
イスラム教徒は常に金銭感覚と信仰のバランスをとりながら、人と人との関係を築き上げているので、信者を増やしているのだと思った。
そういうバランスを失ってしまった日本人は、心を病んだり自殺する人が多くて当たり前なのだろう。
私自身は父親の妥協のない姿勢に追い詰められてもいたが、母方の祖母が隣に住んでいて逃げ場が確保できていた。
受験生だった当時の私は馬鹿にしていた言葉だが、祖母がいつも口にした「えろう ならんでええ(偉くならなくて良い)」が、大切な救いの言葉だったように今は思える。