子どもの頃に母親と一緒に買い物に行って、母親が知った人に会っておしゃべりが始まると、なかなか止まなくて、退屈して嫌だったのを憶えている。
今は一緒に散歩している我が家の犬のクロが同じ立場になっているのが皮肉だ。
おしゃべりは女性の特権だと思うが、男でもけっこうおしゃべりが好きな人も多い。
近所の退職後畑いじり程度の70歳代半ばの男性は、耳が遠いので大きな声で知り合いとおしゃべりをしている。
その人の家には、その人を慕って知り合いがよく来るので、庭先や倉庫の軒下などで椅子に座っておしゃべりをよくしている。
私は長いおしゃべりは苦手なので、その人と話をする時は立ち話をすることが多い。
立ち話でもその人と話をし始めると長くなってしまう。
家内は買い物に行って帰りが遅いなと思ったら、たいていはスーパーで偶然会った知り合いとおしゃべりが長くなったと言っている。
ただ、亡くなった家内の母親のような長電話はしない。
私はどちらかというと、以前は彼女や恋人と長電話のおしゃべりをする方であったが、メールがそれに変わっていった。
家内とは家でもドライブでもおしゃべりをして、疲れてしまうこともたまにある。
元々地歴公民科の教師で、授業中は喋ることが中心だったので、おしゃべりが身についてしまったこともある。
なにせ、面白い話をしないと、生徒は眠ってしまうから、なんとか聴いてもらえるように工夫した。
だから、今でも初めて会った人でも、話をするのには困らない。
ただ、プールでは泳ぐことが目的でちゃんとメニューを組んで泳ぐ距離をこなしているので、おしゃべりはあまりしない。
しかし、水中歩行に来ているお婆さんは喋るのが目的の人が多いし、泳ぎ目的の男性でもおしゃべりが好きな人もたまにいる。
私は散歩の途中で、知り合いと立ち話をして楽しむこともたまにある。
ただ、散歩にはペット犬のクロを連れているので、クロが退屈して紐を引っ張ったりする。
先日は、土曜の朝に散歩している時に、制服を着た女子高校生が後ろから歩いてきた。
大きな道路の前で車が通るのを待っていると、その女子高生も少し後ろで待っている。
渡ってしばらく後ろを歩いているので、つい「どこの高校ですか」と聞いてしまった。
すると、私が以前勤めていた赤穂高校だという。
制服がこの1年生から変更されていたので分からなかったのだ。
これから弟の運動会に小学校に向かうところだったという。
それでこの女子高生が知り合いのおじいさんの孫だということが分かった。
以前に女子高生のおじいさんとは私が赤穂高校で働いていたことを話していた。
女子高生のお父さんもおばさんも赤穂高校出身で、孫もこんど赤穂高校を目指していると聞いていたのだ。
その可愛らしい女子高生は赤穂高校に入学して、今日は吹奏楽部の練習の前に弟の演技を見に行くが、おじいさんは先に行っているという。
その孫娘の女子高生とは吹奏楽の話や、文化祭でのクラス対抗のコーラスの話などをして、短い時間だが楽しく過ごせた。
自分が現役で教師をしていた時と同じ感覚に戻って、女子高生と話ができたのがとても嬉しくてしばらくはその余韻に浸っていた。
もう一度教壇に立てばまた、こういう若い人と話ができることができるのだとは思うのだが、今の現場は自分には煩雑になりすぎて非常勤でも戻る気にはなれない。
こうして、知り合いの孫娘さんと話をして楽しむしかないようだ。
大切なのは若い人の家族や親戚とちゃんと話ができていると言うことだ。
近所にも私が勤めていた高校に通っている女子高生はいるのだが、その父母と話すことが無いので、その女子高生とも話をすることは無い。
共通の知り合いが無くても話ができるのは、プールで一緒に泳ぐことになった水泳選手である。
水泳のことや学校のことを少しだけおしゃべりしたりする。
以前、文化祭でステージに立ってバンド活動をした時は、同じように出演した高校生ともまるで仲間であるかのように挨拶したり話ができた。
農作業をしている人とも、老若男女を問わず、散歩の折などで作物を通しての話ができる。
ちょっとしたおしゃべりがその一日を明るく感じさせてくれている。
近くに住む一人暮らしの高齢男性も、おしゃべりをしに近所を回っている。
かつて狩猟採集民はあまり狩猟採集に時間をかけることは無く、多くの時間を仲間とのおしゃべりに費やしていたという。
人は何万年もの前からおしゃべりが大切な過ごし方になっているようだ。
おしゃべりは孤独を忘れることができる癒やしの薬でもある。
ただし、授業中での勝手なおしゃべりは、教師には毒であった・・・・・