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2026年5月28日木曜日

たこ(Callus)を失う現代人

 今、私はアコギ(フォークギター)の練習をしていて、指先が痛いのを我慢している。

しばらくアコギを弾いていなかったので、指先のたこは消えてしまっていた。

たこが無い状態で弦を押さえると痛いのを我慢し続けなくてはならない。

たこができるまでの辛抱なのだが、それまでは風呂に入って指先がしみたりする。

できれば、指先だけで無く、人差し指の関節あたりもできたら、バレーコードの音が綺麗にならせる。

とにかく、私は左指にはしっかりとたこを作らねば、ちゃんとしたアコギの演奏が出来ない。


以前は、剣道で手のひらにたこを作っていた。

最近は学校の授業では、わざと小手をはめて竹刀を振らせて、痛くないようにしているようだ。

竹刀の素振りは必ず皮で覆われた柄(つか)を絞るようにして振りを止める。

一番重要なのは、左手の薬指と小指の根元で、そこにたこがあると上手い剣士と言うことになる。

初心者は左手だけで無く右手などの人差し指の根元に出来るが、私も習い始めの頃はたこになる前に剥けてしまって痛かった。

また、板間で裸足のすり足をするために足の裏にもたこができた方が楽になった。

剣道も上達するにはたこが必要だったのだ。

ただ、これは油拭きの体育館で練習したせいもあって、剣道専用の板間の道場ではそんなに酷いことにはならなかったはずだった。

因みに、小学生の頃は運動場で裸足で剣道の練習やランニング、相撲、徒競走をしていたので、運動場のように石ころが落ちていないところでは平気だった。


ところで、沖縄奄美では戦後しばらくまで裸足で街でも歩くことが普通だったようで、当然地方では舗装されていない道を裸足で歩いていたようだ。

農作業や山仕事でも裸足だった人もいて、与路島で以前聞いたところによれば、そういう人はしっかりと足の裏にたこに覆われていたそうだ。

だから、重い荷物を持って歩くと、そのたこに覆われた足の裏が割れてしまったそうだ。

因みに、40年ほど前でも農作業をする時に裸足でして、自宅との行き帰りも裸足の人も見かけた。

とにかく、本土でもかつては裸足での生活は普通だったように思える。

さすがに旅など遠くに出かける時や磯辺などは、草鞋や草履が必要となったのだろう。

その当時の与路島でも磯辺で魚を捕る時には半分サイズの草履をオッショー(お爺さん)は履いていた。

現代人は裸足で直接地面に触れることはないので、剣道などをする人以外は足の裏にたこは無いだろう。


こういう肉体労働やスポーツ以外でたこができるのはギターなどの楽器を使う以外に、ペンだこがあった。

私は筆圧が高くて、鉛筆やペンシル、ボールペンを強く握っていたために、大きなペンだこが右手の中指に出来て、今もその名残がある。

ところが、最近は滅多にそういう筆記用具を使うこと無く、ひたすらキーボードをたたいている。

キーボードを叩くのも、こういう文章を書く時だけで、普段はマウス程度で済んでいる。

このごろは中学校や高校でもタブレットを使うようになったし、試験もマークシートが増えてきた。

また、文字入力も音声によって簡単にできるようになっている。

もう、ペンだことは無縁だと思う。


そして、何よりもギターもエアロバンドギターが出現して、固い弦を抑えなくてもはめ込まれたシリコンに触れるだけでよいデジタルギターが出現している。

私はその楽器を使ったらピアノの音も出せるので、是非欲しいと思っている。

このギターはまだチョーキングが出来ないので、それが出来るようになれば、アコギやエレキギターよりも魅力が出てくるだろう。

それでも、私はアコギの深い音色の方に魅力を感じている。

長年連れ添ったアコギは安物だったが、そのギターなりの音色を持ち続けてくれている。

だから、たこをしっかりと拵えて頑張って引き続けようと思っている。

たこを失う現代人になることへのささやかな抵抗でもある。



2026年5月25日月曜日

癒やしのおしゃべり

 子どもの頃に母親と一緒に買い物に行って、母親が知った人に会っておしゃべりが始まると、なかなか止まなくて、退屈して嫌だったのを憶えている。

今は一緒に散歩している我が家の犬のクロが同じ立場になっているのが皮肉だ。

おしゃべりは女性の特権だと思うが、男でもけっこうおしゃべりが好きな人も多い。

近所の退職後畑いじり程度の70歳代半ばの男性は、耳が遠いので大きな声で知り合いとおしゃべりをしている。

その人の家には、その人を慕って知り合いがよく来るので、庭先や倉庫の軒下などで椅子に座っておしゃべりをよくしている。

私は長いおしゃべりは苦手なので、その人と話をする時は立ち話をすることが多い。

立ち話でもその人と話をし始めると長くなってしまう。


家内は買い物に行って帰りが遅いなと思ったら、たいていはスーパーで偶然会った知り合いとおしゃべりが長くなったと言っている。

ただ、亡くなった家内の母親のような長電話はしない。

私はどちらかというと、以前は彼女や恋人と長電話のおしゃべりをする方であったが、メールがそれに変わっていった。

家内とは家でもドライブでもおしゃべりをして、疲れてしまうこともたまにある。

元々地歴公民科の教師で、授業中は喋ることが中心だったので、おしゃべりが身についてしまったこともある。

なにせ、面白い話をしないと、生徒は眠ってしまうから、なんとか聴いてもらえるように工夫した。

だから、今でも初めて会った人でも、話をするのには困らない。

ただ、プールでは泳ぐことが目的でちゃんとメニューを組んで泳ぐ距離をこなしているので、おしゃべりはあまりしない。

しかし、水中歩行に来ているお婆さんは喋るのが目的の人が多いし、泳ぎ目的の男性でもおしゃべりが好きな人もたまにいる。

そういう人は泳ぎから歩きに替えて、監視員さんやお婆さんと長話をしている。


私は散歩の途中で、知り合いと立ち話をして楽しむこともたまにある。

ただ、散歩にはペット犬のクロを連れているので、クロが退屈して紐を引っ張ったりする。

先日は、土曜の朝に散歩している時に、制服を着た女子高校生が後ろから歩いてきた。

大きな道路渡る時に車が通り過ぎるのを待っていると、その女子高生も少し後ろで待っている。

渡ってしばらくしても後ろを歩いているので、つい「どこの高校ですか」と聞いてしまった。

すると、私が以前勤めていた赤穂高校だという。

制服がこの1年生から変更されていたので分からなかったのだ。

これから弟の運動会に小学校に向かうところだという。

それでこの女子高生が知り合いのおじいさんの孫だということが分かった。


以前に女子高生のおじいさんとは私が赤穂高校で教師として働いていたことを話していた。

女子高生のお父さんもおばさんも赤穂高校出身で、孫もこんど赤穂高校を目指していると聞いていたのだ。

その可愛らしい女子高生は赤穂高校に入学して、今日は吹奏楽部の練習の前に弟の演技を見に行くが、おじいさんは先に行っているという。

その孫娘の女子高生とは吹奏楽の話や、文化祭でのクラス対抗のコーラスの話などをして、短い時間だが楽しく過ごせた。

自分が現役で教師をしていた時と同じ感覚に戻って、女子高生と話ができたのがとても嬉しくてしばらくはその余韻に浸っていた。

もう一度教壇に立てばまた、こういう若い人と話ができることができるのだとは思うのだが、今の現場は自分には煩雑になりすぎて非常勤でも戻る気にはなれない。

こうして、知り合いの孫娘さんと話をして楽しむしかないようだ。


大切なのは若い人の家族や親戚とちゃんと話ができていると言うことだ。

近所にも私が勤めていた高校に通っている女子高生はいるのだが、その父母と話すことが無いので、その女子高生とも話をすることは無い。

共通の知り合いが無くても話ができるのは、プールで一緒に泳ぐことになった水泳選手である。

水泳のことや学校のことを少しだけおしゃべりしたりする。

水泳以外でも、文化祭でステージに立ってバンド活動をした時は、同じように出演した高校生ともまるで仲間であるかのように挨拶したり話ができた。

農作業をしている人とも、老若男女を問わず、散歩の折などで作物を通しての話ができる。

ちょっとしたおしゃべりがその一日を明るく感じさせてくれている。

近くに住む一人暮らしの高齢男性も、おしゃべりをしに近所を回っている。

かつて狩猟採集民はそれほど狩猟採集に時間をかけることは無く、多くの時間を仲間とのおしゃべりに費やしていたという。

人は何万年もの前からおしゃべりが大切な過ごし方になっているようだ。

おしゃべりは孤独を忘れることができる癒やしの薬でもある。

ただし、授業中での勝手なおしゃべりは、教師には毒であった・・・・・


2026年5月23日土曜日

音楽を孤独を癒やす薬に

 私の父は、私がロックバンド活動にのめり込んで、受験勉強をまともにしなくて失敗したと、バンド活動をずっと否定し続けた。

その父も、子どもが独立して家から離れてからは、民謡やカラオケに母と熱心に取り組んでいて、ずっと叱られていた私には矛盾を感じるところもあった。

ただ、自分もそういう歳になって分かるのだが、子どもの手がかからなくなるとどうしても淋しくなるので、その気持ちを癒やすのに音楽が必要だ。

父は中等学校を無理矢理に父親から家業をやらせるために中退させられた。

それまでは卓球部に入って熱心に練習していたという。

だから、大学受験のための競争に晒される孤独を知らない。

私が中学3年からギターを始めて、バンド活動にのめり込んでいったのは、勉強をサボることよりも、それによって心の救いを求めていたのだと今は思える。

中高一貫の私立の男子校の生徒にとって、運動・文化クラブで励むか自由な音楽活動を楽しむかくらいしか勉強から気持ちを解放されることが無かった。

音楽はひとりで気持ちよく聴くことも多いが、ユニットやバンドのなどのように気の合った仲間と一緒に楽しむことができる。

私は親友と呼べる友達をそのバンド活動から得られたし、ステージなどを通して新しい友達を得ることもできた。


実は、当時でも既に上級生が在籍中に自殺しており、卒業後に自殺したり、精神疾患となったりした例をいくつか知っている。

現在の中学高校生に自殺が増えたのも、当時の自分たちの状況に似ているように思えてならない。

当時はまだ高卒でも良い就職があったし管理職へ昇進できていたので、無理して大学へ行く必要は無かったが、あえて受験中心の私学に入った。

今は、高卒で現業ならそれなりの良い仕事も有るが、管理職への昇進コースにはなかなか進めないので、無理して大学に入ろうとする生徒が多い。

私たちが学生の頃に比べて就職はしやすくなっていても、将来性のある企業に入ったり、個人としての能力を持つ必要が重要となっている。

だから、親は子どものことを考えて、受験勉強に勝ち抜くための支援を行ったり叱咤激励するのだと思う。

しかし、それは一方で子どもにとっては大きな負担となり、場合によって自殺に繋がってしまう。


私が何とかそういう環境でも、生き抜いて来られたのは、音楽があったからだと今は思えるようになっている。

そもそも、音楽は人間にとって古来から癒やしとして、治療にも用いられてきたのだ。

ただ、音楽で進学をしようとしたり、それを職業としようとするものにとっては、癒やしとはならないだろう。

当時はプロのミュージシャンになりたかったが、そのためのレッスンやトレーニングは私は行わなかった。

あくまで、自由なバンド活動の延長でプロになれれば良いと思っていた。

しかし、プロの世界はそんなに甘くは無く実現できなかったが、それはそれで楽しみを残すことができたので良かったと思う。

家内は幼い頃からピアノを習ってきたのに、今は殆ど弾こうともしない。

ピアノ発表会に向けての練習が、私たちの試験勉強とかわりが無かったのだろうと思う。

娘もそういう練習をしてきたので、今はピアノに触れようとしない。


音楽は楽しみながら聴いたり、演奏してこそ癒やしとして薬になる。

一緒にバンドを組んだある若いピアノマンは、ステージに立つとあまりにも緊張するので非常に精神的負担で、一度はドタキャンしたこともあると言っていた。

私もステージに立つ前は胃が痛くなるほど緊張するが、ステージに立つと楽しめるので、またステージに立ちたくなる。

これは癒やしでは無くて、ドーパミンという脳内麻薬の陶酔だろうと思う。

今は、そういうドーパミンを求める音楽では無くて、孤独を癒やすための演奏をしているだけだ。

今は一緒に演奏する仲間はいないが、これから積極的に作っていこうと思っている。

もし、学生・生徒の中で死にたくなるほど追い詰められている人の中には、音楽そのものやそれを通した仲間によって救われる人もいると思う。

ぜひ、試してほしいと思う。




2026年5月20日水曜日

高市総理の笑顔の破壊力

 今日(5/20)の党首討論で中道改革連合の小川淳也代表は高市総理に対して


「その破壊力のある笑顔で各国首脳と渡り合ってこられたんだろうなと、改めて敬意を評したい」


と呼びかけたという。

私はテレビを見ていなかったのだが、ネットのニュースで書かれてあった。

以前から家内は高市総理の笑顔は目が笑っていないとずっと言っていた。

確かに言われてみれば、彼女の笑顔は魅力的でもあるが、どこか人を不安にさせる笑顔でもあり、小川代表が破壊力と表現したのも分かるような気がする。

中国の習近平が無表情であるのとは対照的ではあるが、表情を政治利用していることは共通しているだろう。


私は中学校から地元の赤穂を離れて、姫路の中高一貫の私立の中学部に通った。

周りの同級生は姫路やそれ以東の都市部出身者が多かった。

姫路以西の出身者も私のように田舎育ちで山野を駆け巡っていた生徒はほとんどいなかった。

そういう自分にとって異質な生徒が殆どの教室で、自分を守る方法が笑顔であり、いつもニコニコしていたので、「ニコニコ先生」と言われたりもした。

田舎ではガキ大将だったのだが、都会に出るとまるっきし意気地が無かったが、そのうちに慣れてきて笑顔は必要でなくなった。


高市氏が総理になる前はどんな雰囲気だったのかよく知らないが、総理になってから確かに笑顔が増えたように感じる。

周りに気後れしたりしているわけでは無いだろうが、自分を守る武器としてうまく使っているようにも思える。

だから、どうしても目が笑わってないので、不安にさせることもあるように思える。

これが外交で通用するのかどうか分からないが、少なくともトランプには気に入られているようだ。

私も無骨いながら年上の女性などから笑顔が可愛いと言われたりしたのだが、普段の険しい顔とは違う意外性が受けたのかもしれない。

そういう意味で、タカ派として警戒されている高市氏にとっての笑顔も意外性として若者の気持ちも掴んでいるのだろう。


自分自身は笑顔に関しては警戒心を持っている。

特に買い物に出かけて、店員に笑顔で話しかけられると身構えてしまう。

また、街角での勧誘や布教で笑顔が用いられているが、どうしても無表情で対応してしまっている。

それに対して、幼い子どもには思わず笑みがこぼれてしまう。

最近はどういうわけか、幼い子どもに挨拶されたり、手を振ってもらったりする機会が増えた。

自然と笑みが浮かんでいるので、親しみを感じてくれているのかもしれない。


前の総理の石破氏は普段は顔が恐いと言われていた。

特に目が据わっている感じがしたのでそう感じたのだと思う。

ところが、たまに笑顔で話せると親しみを感じさせることが多く、不安を与えるものではなかった。

そこらへんが人間性の違いなのかもしれないが、高市氏の笑顔に騙されて多くの若者が投票して現在生活が苦しくなっている。

高市氏がやらなくても同じだったと言われるかもしれないが、中国との関係悪化はイラン戦争と並んで大きな痛手だとも思える。

また、トランプに媚びることで、日本人としての誇りも失わせてしまった罪は重い。

彼女の笑顔は平和憲法や経済を崩壊させる破壊力を持っているのかもしれない。




2026年5月19日火曜日

歌はいつまでも忘れない

 NHK番組、知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「人はなぜ音楽を愛するのか?」で認知症の老人が若い頃の歌はしっかり憶えていることが紹介された。

これは音楽知覚認知学のエリザベス・ヘルムス・マーギュリスの 『音楽心理学ことはじめ―音楽とこころの科学』(福村出版 2022年)にその理由が書かれてある


 認知症が記憶システムを深く崩壊させたときにも、複数の脳部位と経路に音楽が定着してしまうことが、音楽の記憶が生き残るのを助けます。数多くの臨床観察で、認知症患者が病気の進んだ段階に移行したときでも、青年期の音楽を覚えており、楽しむことができることが示唆されています。さらに重い認知障害のある人々でも、選曲された音楽のうち感情的に共鳴した曲を識別し続けることができます。こうした成功した音楽の記憶のエピソードによって、その経験の直後や最中に、音楽に関連しない課題の認知的機能を改善できると主張する人もいます[前掲書:47-48]。


音楽が心の中に生き続ける理由が分かると思う。

私は現在完全退職して、農作業を中心にウォーキング、水泳、読書、音楽などを中心に暮らしている。

どれも欠かせない日課だが、現役の時以上に大切なのが音楽だ。

今まではヤマハのカラホーダイを使ってひとりカラオケやひとり弾き語りをしていた。

最近始めたのが以前にも書いたハーモニカだが、ハーモニカを練習しているとギターの方も頑張ろうと思い出した。

長年、アマチュアバンドのボーカルをしていたので、やはりギターでの弾き語りが自分の本領だと思っている。

ハーモニカも加えた弾き語りができるようになりたいと励んでいる。

こうして音楽に取り組んでいると、中学生の頃から育んできた音楽への情熱が蘇ってくる。

その頃に歌っていた歌を自分なりに今歌うと、当時の感情も蘇ってくる。

歌は他の人に聴いてもらうものだけで無く、自分自身に聴かせて心豊かにさせるもので、独り言よりも自然に感じる。


私は恋人ができたり、結婚してこどもができると、音楽には疎遠になってしまうことが多かった。

でも、失恋したり、子育てが落ち着くと音楽にまた立ち戻っていた。

退職して人との関わりが乏しくなると、それを埋めるのに今は音楽が大切な存在となっている。

昔を思い出すためであり、今の孤独を忘れるために音楽は無くてはならないものになっている。

亡くなった母もデイサービスや入所施設で一番楽しみにしていたのが歌を歌うことだった。

歌が好きで得意だったから、そういうところでも楽しく過ごせたようだった。

ただ、困ったことは通院に付き添っている時に、病院の待合所で歌を口ずさんでしまうことだった。

待つ時間が長くて退屈してしまい、他の人が大勢いるのに小さい声ではあるが歌ってしまっていた。

さすがに、迷惑になるので止めてもらったが、それほど歌が母には無くてはならないものだった。


私もその子どもであるので、おそらくこれからどこへ行っても歌は忘れないだろう。

呆けてきたら母のように、周りの人に関わらず歌ってしまうかもしれない。

今でも家内とドライブをしている時に窓を開けたまま、かけている音楽に合わせて歌っている。

特に停車している時は、家内が人に聞かれるから窓を閉めるように促す。

仕方ないので、いったん窓は閉めるが、走り出すと窓を開けて気分良く歌うのがお決まりのドライブだ。

このときは家内に無理矢理聴かせているわけだが、たまに家内も歌っていたりする。

実は家内は幼い頃からピアノを練習しているので、私よりも音感に優れていて、間違いをよく指摘される。

何よりも同じ世代なので、知っていて好きな曲が共通しているのが良い。


先日は水泳仲間の画家さんと話をしていて、彼が学生時代にバンドでベースをしていてかなりの腕前だと分かった。

それを知ってから、セッションできるようにギターも上達しようと決心した。

他にもプールで一緒になる近所の奥さんもハーモニカを練習していて、その話題で話ができている。

音楽は退職した者の世界を広げてくれる大切なものだと最近特に感じている。







2026年5月16日土曜日

開業医と公務員の老後の違い

 はじめは少し右下奥歯の歯茎が痛む程度だったのが、痛みが増してきたので歯肉炎だろうとそれを抑える軟膏を買って塗っていた。

因みに、私は左下の奥歯は二本失って部分入れ歯を入れており、硬い物などはどうしても右の奥歯でかむ習慣がついていた。

軟膏を塗ったお陰でいくぶん効いたように思えたのだが、痛みは治まらなかった。

その軟膏以外にシュミテクトというそれ用の歯磨き粉を買って使ったら、一時的に痛みは治まったが痛みは以前よりも増してきた。

それは痛みが治まったので右奥歯を使って悪化させてしまったようだった。

とうとう我慢の限界が来て、友達の歯医者に電話したら1時間後に診てくれるというので、急いで支度をして出かけた。

どうも、原因は右下奥歯よりもその上の右上奥歯の詰め物にあったらしく、それを削ってくれて下の奥歯への負担を無くしてくれた。

要するに長い間のかみ合わせの悪さが原因となり、それで歯肉炎、歯周病を起こさせていたようだった。


歯医者から帰ってからも痛みは強いので、出してもらった痛みのみを飲んだ。

痛み止めの薬には炎症を抑えると書いてあったので、そんなに酷い痛みで無くても飲むように心がけた。

徐々に痛みは経験されていき、一週間後に歯医者に行った時には、取り除いていた上の奥歯の詰め物を作るための処置をしてくれた。

そして詰め物を入れてもらって改善した。

もっと早く歯医者に行っておくべきだったと、今は反省している。


この歯科医とは中学校からの同級生で、休日に一緒に遊んだこともある友達でもあった。

ただ、私と違って真面目でおとなしくて、私がロックバンド活動仲間と付き合うようになってからは、疎遠になっていた。

彼は私のように女の子と付き合うことも無く勉強に励んだので、優秀な成績でもって国立大学の歯学部に入って歯医者になった。

私が大学院を出て地元に戻ってきてから、歯はずっと彼に診てもらっていた。

歯科医は自分の育った地元で開業したが、住んでいるのは少し離れた都市部のマンションだった。

奥さんと二人暮らしで子どもはいなかった。

一緒に飲みに行こうと言ったりしたが、結局一度も行っていない。

また、彼はおとなしくてあまり交友関係が無かったので、同窓会には一度も来ずに誘っても嫌がった。


私は既に年金生活を送っていてあえてもっと金を稼ぐより、自由な時間を過ごしたいと思っている。

彼は開業医なので国民年金で、年金をあてにできないという。

貯金があるだろうと訊くと、遊興費で使ってしまって無いという。

彼の唯一の楽しみが京都の祇園などの高級料亭などで飲むことらしくて、泊まりがけで飲みに行くという。

以前は頻繁に行っていたが、今は回数が減ったという。

私には全く分からない世界に彼は生きていたことが分かった。

病気になっても滅多に休めない開業医にとっては、一番の生きがいでありモチベーションに高級料亭やクラブがなっていたということらしい。

特に歯科医は老人の治療が多いので、若い人との関わりを金を使ってでも持ちたいということもあるという。

私のようにひとりの部屋でひとりカラオケや弾き語りをするのと違い、若い人と楽しく歌う生きがいを持っている

彼はその家業があるので、そのモチベーションで倒れるまで仕事ができると言うことだ。


彼の生き方を知って、研究者になることにしがみつかなかった意味が分かったように思う。

もし、私が研究者になっていれば、大学や研究機関で長く勤められたし、執筆などで収入を得られたかもしれない。

それこそ、文系なので東大の医学部教授ほどではないにしろ、高級料亭などでのお付き合いができたかもしれない。

しかし、私は親が築いていた家庭を見本として、子育てや親戚づきあいを大切にする暮らしを求めた。

だから、生活の安定が見込まれる教育公務員になった。

ただ、自分の親の頃のように、親兄弟の家族が集まる盆正月の楽しみはもう無い。

仕事を続けるという意味では開業医の友達の方が、社会の役に立って立派だし充実した暮らしだと思う。

一方の私は現在社会役立つ仕事はしていないけれど、仕事に縛られず無理のない愉快な生活が送れている。

私が研究者になることへの拘りを持ちながらも、しがみつかなかったことは決して間違っていたとは思っていない。






2026年5月12日火曜日

誰と生きて、どう死ぬのか?

 過疎地である私の村では、子どもが都会で暮らしていて殆ど戻ってこず、親が亡くなっても、お骨は49日までお寺に預けなくてはならない家もある。

夫婦で暮らしている間は良いのだが、特に男性は妻を亡くすと周りとの関わりも少なくなって孤立してしまう。

伴侶外に親しく関わることができない人は、いったい伴侶以外の誰と生きてきたのかと考えさせられてしまう。

子どもも近くに住んでいれば一緒に買い物に行ったり、食事をする機会もあるが、遠くに暮らしている子ども家族とは殆ど行き来が無い。

田舎の人間にとって子どもは共に生きていける相手ではなくなってしまっている。

特に大学まで進学させた自慢の子どもがそうであり、高卒の子どもの方が近くにいる場合が多い。

また、事情があって結婚できなかったり、結婚しても離婚してひとりになった子どもが一緒に住んでいる場合も少なからずある。

この場合は親は老後の不安は軽減されるが、その子どもが不安となる。


とにかく田舎では、大学まで進学したり、高卒でも大企業に入った場合は、親の傍や近くに住めるのはほんのわずかである。

大学に進学させて生活費を削って高い授業料や仕送りを工面した親には、孤独な老後しか待っていない。

ただ、子ども夫婦に子どもができて孫を連れて帰省する時までは、幸せと感じられる月日が何年か続くが、それも孫が小学校くらいまでだ。

子どもが帰省しなくなった夫婦は、仕事仲間や地域の人と仲良く暮らし行くしかない。

しかし、田舎も地縁関係が薄れてしまって、形だけの付き合いになりつつある。

そして、付き合いの下手な人は親戚がいても、家に引きこもってしまう場合も出てきている。


移動する狩猟採集民は、その移動について行けなくなると、老人はそのキャンプ地に残って死を待っていた。

現代の日本では年金があるので、しばらくは一人でも生きていける。

近代化された狩猟採集民は国から年金が支払われて、親戚の若者がたかりに来て逆に大切にされたりした。

日本の年金暮らしにたかるは、引きこもる子や孫か若い詐欺集団くらいだ。

さすがに田舎だから、孤独死のケースはまだ出ていないが、誰にも看取られずに亡くなるケースは増えている。

これはかつて移動型狩猟採集民や、姥捨、ないし出小屋に隠居した過去の貧しい地域の日本とあまり換わりが無い状態だと思う。

かつては若い人がその老人の負担で生存が危ぶまれるという事情があった。

現代も家業を持たない家族にとって、田舎で若い人が暮らすことは永存に関わることと考えた方が良いのだろう。

だから、もう老後に子どもを当てにすることはなく、孤独死も覚悟の上で老後を生きていくしかあるまい。

これが、学校教育で子どもは高学歴となりながら、移動型狩猟採集民と同じ老後を強いられる現代日本人の実情なのだと思う。