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2026年7月28日火曜日

父親との確執と和解

 私は特に高校から大学に入るまでの期間は父との言い争いが絶えなかった。

私は父が求めるように勉強に励まず、好きなロックバンド活動をしていて、成績も振るわなかった。

造船所の職工だった父は、親から家業の海運業を継がせるのに中等学校を中退させられて、その仕事も結局家族のために辞めて造船所に入社した。

その職場において高学歴の上司から低い扱いをされるのをいつも悔しがっていた。

自分の悔しい思いをさせたくないと、高い授業料を払って私学に通わせているのに、まともに勉強しない私が許せなかったようだ。

それに対して、男ばかりの男子校に入った私は、剣道部には入ったものの夏の合宿までしか持たなかった

小学校でやっていた剣道のいい加減な練習とは違って、高校生も混じった厳しい練習に自分はついていけなかった。

だから、勉強以外の楽しみや気晴らしが無くて、それを音楽に求め始めたのだった。


大学の進路に関しても、工学系の理系に進ませたい父と理学・農学系の理系に進む気の自分との葛藤もあり、好きな生物を履修できなかった私は高3で文系に転じてしまった。

文系に転じたものの暗記科目はどちらかというと苦手で、受験勉強をしっかりできず、成績が悪くて父に責められていた。

また、進路に関しても父と口論が絶えず、家の中が荒んだ状態になってしまっていた。

父は大学受験に必死に取り組み将来につなげられる有名な国立大学への進学を強く望んでいた。

また、兄弟が4人もいて、国公立でないと下宿させられないという経済的な事情があった。

まさしく受験戦争の中で、私は家の経済状況も考えずに、気ままにしているように思えたのだろう。

私の方は大学受験経験も無い父に自分の気持ちが分かってたまるかと勉強もせずに反抗していた。

そのくせ周りから取り残されていくのは不安に思っていた。

結果は1年浪人しても国公立大学には行けず、三流の私立大学にしか受からなかった。


周りは恥ずかしいからもう一年受験しろと言われもしたが、家から離れられるのなら不本意な大学でも良いと喜んで入学した。

名古屋には叔父さんがいたのでそこで居候させてもらえば、私学でも何とか暮らせると言うことで話は収まった。

私の両親は私が入学した南山大学がどういう大学かも知らなかったし、私に聞こうともしなかった。

ただ、母だけは私が大学を落ち続けていたので、どんな大学か知らないのに、一つだけでも受かったと喜んでいた。

私は嬉しくも無かったので、その母の喜んでいるのに対し複雑な気持ちでいた。


居候の方は友だちのアパートに転がり込んで、結局安い下宿代でそのまま乗っ取った形で卒業まで過ごすことができた。

親からは授業料は払ってもらい、途中から奨学金が36,000円入ったが、仕送りは4年間毎月2万円だけだった。

私は大学では好きなロックを目一杯するつもりでいて、できればプロになれれば良いとも思っていた。

ところが、その道も上手くいかず、文化人類学の村落調査が自分にはとても魅力的なものとなった。

それには、そのサークルで彼女ができたのも大きな理由でもあった。

そして、もっと研究がしたくなって大学院にも進もうと思った。

これも就職できる当てもなく、無謀な選択であったのだが親には理解できていなかった。

私が研究を続けることを知って母は、あれだけ勉強を嫌がっていたのにと不思議がった。

要するに勉強が嫌いなわけでは無くて、大学受験科目に興味が持てなかったし、入ってからしたい事が勉強と関係なかっただけだったのだ。


いろいろと無理して入った大学院だったが、博士課程に進めず研究者になることを諦めざるを得なかった。

そして、生活も破綻して実家に戻ってきた時は、父は冷淡極まりなく、厄介者が帰ってきたという態度だった。

私は親への反発心などよりも、何とか生きていくための職を得るために教師を目指した。

教員採用試験の一次に合格したくらい頃から、父の態度も変わってきて応援してやろうという雰囲気も出てきた。

そして、教師に正式採用された時には、もう過去のわだかまりもなくなっていた。

結婚して子どもができてからは、実家に子どもを連れて行くと喜んでくれた。

最近弟に孫ができて、その可愛がる様子を見ていて父のことを思い出した。

父も孫が大好きで、一緒に遊んだりして可愛がっていた。

特に、末弟の子どもが近くにいたので、しょっちゅう訪ねていっていたようだ。


そして、忘れていたのは父がその末弟をすごく可愛がっていたことだ。

私は既に小学校3年生だったので、父が末弟を可愛がる様子を傍で見ていて記憶している。

夕方に仕事から帰ってくると、末弟を抱いて歌を歌ったりしてよくあやしていた。

母や他の兄弟も可愛い末弟と関わるのが楽しみだった。

その父が可愛がる様子をクラスの詩集に書いて、担任の先生がみんなの前で読んでくれて少々恥ずかしかったのを憶えている。

父はどちらかというと子どもが好きで、最初から厳しい人では無かったのだと思う。

子どもが成長するに従って、子どもに厳しく接するようになり、時に体罰もともなった。


その末弟がよく口にするのは、いやいや畑でいい加減な態度で草抜きをしていて、父に叱られて、「いね(帰れ)」と叱られたことだ。

それ以来、末弟は畑で農作業が嫌いになったと言うことだった。

確かに、父の末弟への扱いはまずかったかもしれないが、甘やかしすぎたと思っていたのかもしれない。

父は歳がいってからの末弟を非常に可愛がっていたが、一方で他の息子との関わりに手を取られて躾が疎かになっていたことも確かだった。

父親は子どもの世話そのものよりも、独り立ちできることを考えねばならない立場だ。

ちょうど時代の変わり目であった父は、難しい立場にあったのだと最近分かるようになった。

祖父が父に無理矢理家業を継がせたのとは逆に、学歴を付けて良いところに就職させようとする父の強引な意図が私との確執になっていた。

父と息子の確執はその時代が作るもので、必ずしも性格の違いとは言い切れない。

私は父同様に上の世代が置かれていた状況を正しく理解できていなかったようにも思う。

しかし、私が教師になって家族をもって平凡に暮らし始めると、和解できて喧嘩をすることはなくなった。

大切にすべきなのは家族だということで、世代が違っても理解し合えたのだと思う。

本当に親を理解するには、自分で子どもを育ててみないと分からないのかもしれない。

といういことは、子どもを持たない子どもからは死んでも理解されないのかもしれないと思ってしまう。

そういう人を身近に知っているだけに……






2026年7月27日月曜日

避暑と避難のショッピングモール

 先週の日曜は気温の低そうな山地に行った。

しかし、思ったほど涼しくもなく、少しでも気温の低い場所に駐車することもできなかった。

そこで、今週は人は多いだろうと覚悟を決めて、倉敷にあるショッピングモールに出かけた。

近くの姫路にも大型ショッピングモールはあるが、昼食を食べるの魅力ある店があまりない。

岡山には岡山駅近くにも魅力ある飲食店があるショッピングモールはあるが、そこまでたどり着くのに渋滞が多い。

田舎に住む我々夫婦にとって渋滞が一番耐えがたいものなのだ。

倉敷には駅前にも大型ショッピングモールがあるが、飲食店に魅力が無い。

だから、倉敷郊外にある大型ショッピングモールにいつも出かけている。

そこは無料駐車場があるのだが、モール付属の駐車場はいつも満車で、南側の青空駐車場にいつも車を停めている。

そこから、モールまでは信号があったりして、たどり着くのにも一苦労ではあるが、駐車は簡単にできる。


モールの中は予想したとおり多くの人で賑わっていた。

やはり、子連れの家族が多くて、少子化という言葉とは無縁の空間だ。

ただ、モール内の気温は思ったほど低くなく、それほど涼しいとは感じなかった。

これだけの空間を冷やすのにはどれだけ空調に電気をつぎ込んでいるだろうと思いもした。

また、室外機からの熱風は周りに影響を与えるだろうが、ここは町の郊外で幸いしているように思えた。

まずは飲食店街に行って、順番待ちの紙に名前を書いておいた。

いつもは、あまりにも多いので避ける店だったが、メニューが夏向きではないので、意外と少なくて待つことにした。

店の横で20分ほど待って、呼ばれて入ってから注文して20分ほど待ったが、それでちょうど昼の12時となって都合は良かった。

しかし、注文した煮魚定食は予想以上に身体を熱くして、汗をいっぱいかかねばならなかった。


食事後は腹ごなしにウインドーショッピングを楽しんだが、時々くたびれて通路の椅子に腰掛けて休んだ。

この椅子はたいてい座っている人がいて、二人で座る場所を見つけるのはそう簡単では無かった。

通路は人の行き来が激しくて、子どもも走っていたりするので、落ち着いて座っていられる場所では無かった。

モールには学習できる場所も用意していると言うことで、親が買い物している間にベン居雲もできるという気の配り方だった。

広い店内を歩いて運動にもなるし、飲食できてゆっくり過ごせる避暑地でもある。

ここの大きな問題は自家用車で無いと来られないことだろう。


最近はお年寄りが家の中で熱中症で無くなる人が増えているという。

これだけの酷暑なのだから、その避難所としてショッピングモールの役割も重要だろう。

駅近くにあるモールでは公共交通機関を利用して来られる。

災害時に避難する体育館や自治会館と違って、中で歩くこともできるし、イベントを楽しむこともできる。

モールによってはプールやトレーニング施設も兼ね備えている。

できれば、寝そべったり横になって昼寝ができる場所があれば嬉しい。

これからは、老人も楽しめるようなコーナーも作って、自治体とタイアップしながら老人を呼び込むべきだと思う。

イートインなどを利用して飲食もそこで行ない、健康管理で一日過ごすこともできたら、医療費や介護負担も減らせることになる。




2026年7月25日土曜日

夏はつとめて(早朝)

 清少納言は枕草子では「夏は夜」と言っているが、夜には農作業ができないし、熱帯夜に外に出て涼む気にもならない。

今の時代のように殺人的な猛暑では夏はつとめて(早朝)に限るのだ。

このところ、夜が早く明けるので、早朝は机に向かうことが多かった。

本を読んだりブログを書いたり、ネットを見たりしていた。

そして、家の裏にある畑での農作業は夕方に行っていたのだが、もう暑くて耐えられなくなった。

去年はもっと早くから早朝に水やりを中心とした農作業をしていた。


今年も先日(7/22)から午前5時前に起きて、空調服を着て農作業を始めた。

水やりをするのだがエンジンポンプをかけると近所迷惑になるので、リールコードを自宅から延ばして電動ポンプを使っている。

去年もスプリンクラーで散水している間に、犬の散歩に出かけてきて先日もそうしていた。

戻ってくると電動ポンプが止まっている。

また、やってしまった家のブレーカーが落ちたのだ。

というのも、早朝は炊飯器を使っていて、容量を超えてしまって去年もよくブレーカーを落としていたことを忘れていた。

そこで家内に炊飯器は午前五時までに炊き上がるように言っておいたので、今朝(7/24)は同じようにしてもブレーカーは落ちなかった。


朝は農作業にも散歩にも涼しくて良いのだが、最大の問題は蚋(ブヨ)という刺されたら腫れ上がる虫に狙われることだ。

虫除けのミストを露出部分に振りかけているのだが、顔の周りにまとわりついてくる。

被っている竹笠に「オニヤンマ君」をぶら下げてみるのだが、完全に追い払うことはできない。

夕方は暑い代わりに蚊やブヨの心配が要らないのとは対照的だ。

人が活動しやすい時は虫たちも元気なので、農作業をするにはその対策が大変だ。

私は空調服も長袖を着るのはその対策で、腕にも電池式の虫除けを付けてきた。

今回は背中の中程にファンを取り付けられるフード付きの長袖空調服を新調して着てみた。

これだと、顔に風が多くかかるので、蚊やブヨを追い払うことができているようだ。

早朝はポンプだけでなく草刈り機も静かな充電式を使ってラジオを聞きながら作業をしている。

こんなに涼しいのに近所の人はあまり農作業をしたがらないのは、農機具がエンジン式が多いことも原因しているようだ。


このところ、うちの村では子どもの数も減ったし、ラジオ体操を以前のように六時半に公園でしなくなった。

ラジオ体操があった頃は、朝でも賑やかな感じがしていた。

これだけ猛暑のなか熱中症で亡くなる人も多く出ているのだから、政府はサマータイムで対処すべきだと思う。

そしたら、日の出前にエンジンの音を立てても苦情は出ないだろう。

真昼の農作業や土木建築工事などで熱中症を減らすこともできると思う。

特に老人にとっては生死に関わる問題だ。

こういう国民の困難を無視した国会運営を行う高市総理の支持率が落ちても当然だと思う。



2026年7月24日金曜日

海を見ていた午前

 ユーミンの「海を見ていた午後」は私の大好きな曲で、ひとりでカラオケやギターを弾いてよく歌っている。

弟夫婦が三浦半島の葉山に住んでいるし、私も横浜に住んでいた時に山下公園は想い出の場所となっている。

実際にモデルとなったドルフィンからは、三浦半島ではなくて房総半島が見えるそうだが、どちらにしろ自分の想い出を重ねられる。

地元の赤穂でも想い出の残る海岸は色々あるのだが、地元では綱崎という恋ヶ浜は私の生まれ故郷の鳥撫(となぜ)の海岸で特別な海辺だ。

ジェットスキーが荒らすので立ち入り禁止になったと思ったら、いつのまにかプライベートビーチになっていた。

そして、先日は女子大生がジェットスキーにはねられ心肺停止になって、ドクターヘリで運ばれるような大事故が起こってしまった。

そもそも、恋ヶ浜のいわれとなった物語では、江戸時代に岡山から駆け落ちした夫婦の悲しい死が語られている。

武士の娘と駆け落ちした下男がその妻のために漁に出て帰らぬ人となり、妻は夫を浜に出て待ち続けて亡くなってしまったという伝承物語だ。

私は幼い頃には父と貝掘りに行った場所で、鳥撫の親戚とも海水浴に来ていたし、結婚してからも子どもが小さい頃に家族で泳ぎに来ていて、その物語とは無縁だった。

今回の事故で、却って恋ヶ浜の物語が因縁じみて感じた。

ただ、赤穂の海岸には事故や自殺の話がどこでもあって、それを気にしていたら来られなくなってしまう。

喜びも悲しみを飲み込んでしまうのが海だと船乗りの息子の私は思っている。


この恋ヶ浜での近年での一番の思い出は、娘のようなALTのメグと一緒にSUPをして楽しんだことだ。

土曜日の午前に彼女を誘って恋ヶ浜でSUPを楽しみ、海を眺めながら途中でコンビニで買ったおむすびを二人で分けて食べた。

メグはアウトドアのインストラクターをしていたこともあってSUPも上手かったが、着替えも平気で草むらに入ってしていた。

メグは両親が離婚して父親とは行き来が無かったので、私を父親のように思ってか慕ってくれてた。

一緒に自転車で赤穂御崎や唐船海岸を走ったり、カラオケやギターで歌って二人で楽しんだりした。

メグがアメリカに帰っても恋ヶ浜にずっと通っていた。

ジェットスキーが我が物顔で噪音を立てているところからなるべく離れて、ひとりでもSUPをよく楽しんでいた。

そして、立ち入り禁止で閉め出されてしまった。


閉め出されてから、恋ヶ浜には行けなくなったので、最近は赤穂御崎の大塚海岸や東御崎展望台に立ち寄ることが多くなった。

そこも中学生頃からの想い出の残る場所であるが、最近は大塚海岸ではSUPをしようと下見のつもりできている。

先日(7/22)も家内を病院に朝早く連れて行って、図書館が開く10時までの時間つぶしに大塚海岸に行った。

日除けのポンチョを羽織って海岸の遊歩道を歩いたが、日陰も無くて暑いだけであった。

大塚海岸は以前は海水浴場だったので屋根付きの休憩所がある。

以前からそこに年配の男性が集まって会話を楽しんでいるのを見かけていた。

私は御崎地区の生徒と同じ中学校に通う尾崎育ちなのだが、中学校から姫路に通ったので地元とはなじみがない。

だから、そういう地元の人と関わるのは敬遠して、そばに行くことも無かった。

しかし、今回はあまりにも暑かったので、少し離れたコンクリートのベンチで休憩をすることにした。


年配の男たちは賑やかに会話していたが、それを聞き流しながら海をながめていた。

涼しい風が吹き抜けて気持ちいい。

そこで、冷たいベンチに横になってしばらく目をつぶっていた。

そのそばの山の上には思い出の展望台がある。

今はひとりベンチで海をながめているが、かつてはそこで二人だけで眺めていた。

ユーミンの歌のようにロマンチックでは無いけれど、それを思い出すひとときである。

その後行った赤穂図書館には老人を中心に人で溢れていた。

確かに冷房がよく効いた図書館は快適だったが、そこを出た時の息苦しさは耐えがたかった。

それよりも、大塚海岸の休憩所で過ごした時間の方がすごく心地よかった。


御崎の海岸は子どもの頃からの海水浴・魚獲り、思春期での物思い、恋人とのデート、教師としてのキャンプの引率と半世紀以上の付き合いがある場所だ。

大塚海岸だけでなく、丸山海岸にも家族や親戚と海水浴などでよく行ったが、そちらは駐車場が有料になってから行っていない。

今はこうして大塚海岸の休憩所のベンチに座って、ひとりでただ海を眺めて涼んでいるだけなのだ。

奄美の与路島に通っていた頃も、時間があるとひとりで集落の東にある前浜に出て、海や請島を眺めて色々考えをめぐらせていた。

その時も、シマのオッショー(爺)が堤防に立って海を眺めたり、アダンの木陰で年老いたアンマ(婆)が海を眺めていたのを憶えている。

私もそのオッショーやアンマのように、ただ海をひとり眺めてボーと過ごす歳になったようだ。

海をボーといつまで眺めていても飽きることは無い。

ボーと生きていると言われて叱られない場所でもある。


2026年7月23日木曜日

沈黙の夏

 かつてアメリカの生物学者レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を1962年出版して、殺虫剤や農薬の影響で春になっても鳥が鳴かなくなることを警告した。

今年は夏になっても蝉が鳴かない静かな日々が続いている。

我が家には生け垣や庭木に木を多く植えている。

夏の初めにニイニイゼミから始まって、アブラゼミ、クマゼミと鳴いていき、朝早くから夕方遅くまでうるさく鳴き通す。

以前はあまりうるさいので、水鉄砲などを使って追い払うこともあった。

ところが今年は蝉はあまり鳴いていなくて、例年より静かである。

その分、小鳥などが鳴いているのが気持ちよく聞こえている。

テレビやネットでは気候との関係を指摘して、梅雨が早く開けて異常高温が続いているからだという。

そうすると、こういう夏が毎年やってくると、蝉はいなくなってしまうのだろうか?


夏が暑いということでいつも思い出すのは、東京の大学院で研究していた頃に、下宿のお婆さんから聞いたことだ。

それは関東大震災が起こった時の夏は非常に暑かったということだ。

このところ毎年異常な高温が続いているので、そのことはあまり気にかけなくなっている。

関東の方はまだ梅雨も明けずに雨が続いていたが、一転して酷暑に襲われている。

今年はスーパーエルニーニョとも言われていて、本来は冷夏になりやすいはずなのだが、暑いし台風も多く発生している。

ヨーロッパの異常高温、ベネズエラで巨大地震、カナダで猛烈な山火事などとんでもないことが続いて起きている。

以前読んだ本で、地球の温暖化は極地帯の氷を溶かして海水の量が増して重くなり、地殻に影響を与えるということを知った。

そうすると、地震も関連してくることになるだろう。


戦争も環境破壊と言われているが、ウクライナによるロシアの石油基地攻撃、イランとアメリカとの戦争による石油施設の破壊は、重大な環境破壊である。

日本では南海トラフ地震が予想されているが、これだけ温暖化が進むと発生周期が縮まってしまう可能性も考えられるだろう。

蝉の鳴き声が消えた沈黙の夏を、その予兆と捉えるか、ただの温暖化の一現象と捉えるかは結果が出てしか正解は分からない。

どちらにせよ、10年に1度の暑い夏だそうだ。

我が家の作物もオクラ以外はまともに育ってないし、近隣の畑もキュウリやトウモロコシが枯れているのを見かける。

だから、地温が上がりすぎないように雑草を伸ばしており、旱魃飢饉に備えてサツマイモに水をやって大事に育てている。




2026年7月20日月曜日

親からの負の遺産に悩む地方

 法律の改正で親の不動産の名義変更を死後3年以内に行わねばならなくなった。

私の親は改正前に亡くなったので、法の制定後の3年ということで余分に1年だけ余裕があったことは後で知った。

バブル期頃までなら売却して兄弟4人でその利益を分割すれば良かった。

しかし、今の時代はこういう地方ではまともに売れず、捨て値で業者に売却するには、私は非常に抵抗を感じた。

親が懸命に働いてやっと新築の家を手に入れた苦労と、その時の悦びを知っていた。

また、その家で兄弟は育ち結婚して離れていったが、盆正月や連休にその家族が集まって賑やかに過ごした。

そういう思いの詰まった家が十数万円の安い値段と引き換えにするのは悔しかった。

確かに兄弟家族の誰もが住まない家を誰かに活用してもらった方が良いとは思う。

親が一代で築いた家で、先祖代々というものでもないし、さほど立派な家でも無い。

だけど、親の思い以外にも祖父が息子のために作った庭はそれなりに見事である。

それなりに価値を理解してくれる人に使ってほしいと思おうが、それを不動産屋に期待することはできない。


私は長男として一番両親と関わったので、その家を維持するために固定資産税と電気・水道料金を払い続けている。

その費用は今の年金暮らしには負担とはなっているが、そもそも私が就職できて年金ももらえるようになったのは両親の支えのおかげなのだ。

そして、家を更地にすれば国に返納できるが、旧来の土壁であるし庭の石の処分をを含めれば処分費用が1000万円は近くになる。

それだけの費用を超える地価価格でも無く、売れる見込みが立たない家を高額の費用で解体する馬鹿もいない。

先日大工の棟梁と話す機会があって、そういう家が赤穂でも増えていて、もう放置するしか手が無いという。

山間部などの家はこっそりと安く埋めてしまっていることも聞いたし、実際に近くで目撃している。

かつては木造の家が廃屋となったら、その場で土で埋めたり、川や池の埋め立てに用いたりしていた。

それができない現代では、家を建てる時に壊すことも考えておかねばならなかったのだ。


両親は昔のように不動産には価値があって、後を見てくれる子どもに相続させれば良いと思っていたようだが、そもそもすでに均等分割の時代にはそぐわない。

今回も私の名義にするのは、そのままにしていると兄弟みんなに罰金がかかるからで、処分にかかる費用は負担し合うことになっている。

とにかく、兄弟はそのことで長男である私に早く名義変更をするように迫ってきた。

業者に頼むと多額の費用がかかるので、自分の手でするために末弟が法務局へ出向いてその書類の書き方も聞いてくれていた。

そこで勘違いがあって、母が亡くなって3年目の今年の7月までが期限だと思っていたのが、亡くなったのが法律の成立までで来年まででよかったのだ。

勘違いしたまま急いで必要な書類を取り寄せたり、文書の作成は家内にかなり手伝ってもらって行った。

そして、法務局に予約を取って必要な書類の点検をしてもらっていたときに、大きな不備が発見された。

ギリギリに行ったので期限を越えるかと心配したが、そこで法務局の相談員の方に来年まで期限があることを聞いてほっとした。


実は宅地は隣に一緒に住むこととなった母方の家族と父親名義で共有していたのだが、その後分筆したのに、両方とも建物はもとの地番ままになっていた。

つまり市役所は同じ地番の建物二つに固定資産税をかけていたことになる。

そこで、市役所で実家の建物の地番を変えてもらう手続きを取らねばならなかった。

それでなんとか書類申請ができたのだが、その点検で今度は畑の名義になっていた父の住所が以前のままだったので、その住所に同姓同名の人がいないことの証明が必要となった。

法務局の人の説明では不在証明だけで良いように電話で言われたのだが、家内が持って行ったら不在籍証明も必要だとまた市役所に行くことになった。

結局、法務局には弟が1回、夫婦で2回、家内だけで2回行き、赤穂市役所には夫婦で合計5回出向いたことになる。

これは夫婦とも自由な時間があったからできたのであって、普通の仕事をしていたらできなかっただろう。

書類を取得するのと申請するので合計すると5万円以上かかったが、業者に頼んだらもう15万円ほどかかっただろうと法務局での相談員に言われた。

これだけの労力と費用を支払って負の遺産を相続する悲哀を感じざるを得なかった。

これを大学の仲間のラインで報告したら、やはり地方の地元に戻った仲間から同じことを聞いた。

都会の仲間の方はうまく処分できれば利益にもなるので、関心が薄いこともよくわかった。


荒廃する空き家対策で作られた法律に、田舎に住む多くの人は多額の費用や労力を強いられている。

赤穂の実家の周りも空き家だらけになっているし、今暮らしている上郡の村でも日々空き家が増えていっている。

しかし、その空き家が壊されているのを見たのは、山裾で古い廃屋が壊されて地中に埋められているときだけだ。

こっそりとそれができない家屋は、名義が換わっても放置され続けるしかないだろう。

私はすでに40年ほど前に奄美の与路島で同じ風景を見ていた。

40年の年月が経って奄美の孤島と変わらない風景が眼前に展開している。

当時、研究調査で世話になった奄美在住の故山下欣一(学者)さんに、「過疎は本土と一緒だろう!」と言われて、当時は違うと思っていたが、今は同じと答えるしかない。

しかし、考えようによっては上郡の村にはコウノトリが住み着いたし、赤穂も公害が減ってきているように思える。

地方に残る者がその自然と引き換えに負担すべき代償なのかもしれない。

ただし、それが負担できない人はますます地方から出ていくだろう。

また、与路島でオッショーからよく聞かされた「ガクシェイシャン(学生さん) おしまいぜすぞ」の声が聞こえてきそうだ。









2026年7月18日土曜日

酷暑に欠かせぬ水対策

 私は去年から300リットルのポリタンクを買って、雨水をそこに受けて利用している。

梅雨が上がって貯めた水を二階のバルコニーや庭の鉢上の木や生えている草木に電動ポンプを使ってかけてやっている。

それまでは二階のバルコニーには水道水を使ってミストを噴霧して鉢上の木に水を与えたり冷やしていた。

これだと水道代が月あたり1万円ほどかかるので、タンクに貯めた雨水や用水路の水を使うことにした。

ただ、それらの水には細かいゴミが混じるので、繊細なミストに使うとすぐに目詰まりを起こしてしまう。

そこで去年からはホースに小さな穴の開いた散水器具でバルコニーで水を撒いている。

庭の草木にはホースを繋いでそのままかけてやれば良い。


問題なのは用水路は庭から道路を挟んで流れていて、近くの用水路かあ水をくみ上げるにはホースを道路に渡さねばならない。

そうすると車がそのホースを踏んでいくことになるので、ホースも痛むし近所の人はホースを踏むのに気を遣ってくれている。

そこで、50mほど離れてはいるが、庭から道路を跨ぐことをせずにホースや電気コード伸ばせる場所の用水路で水をくみ上げることにしている。

一番長いホースは30mなので庭のポンプには、もう20mのホースを繋いでいる。

300リットルのタンクは二日もすればなくなってしまうので、そのたびにエンジンポンプか電動ポンプを使ってくみ上げてきた。

朝早くやる時にはエンジンポンプだとうるさいので、コードリールの電気コードを延ばして電動ポンプを使っていた。

裏の畑の散水にも同じような方法をとっていたが、こちらは水を貯めておくための容器を3カ所くらい置いておいて、そこに水を貯めもヒシャクなどを使って散水した。

それは毎日ポンプを回すのはけっこう手間がかかるからだ。


以前は軽トラを使ったりしたが、今は小さめのアルミ製のリアカーを使って、そこにポンプなどを載せて用水路まで運んでいく。

エンジンポンプの場合は取水ホースもかさばるし、3リットルのガソリンタンクも用意しておいたりする。

用水路が畑のぞばにある人は、畑に小さな屋根をつけてポンプを設置したままにしているが、うちは設置したままにするわけにはいかない。

さすがに長いホースだけは畑においてベランダボックスを逆さにして覆っておいている。

これで昨年は家の草木対策、暑さ対策、畑の散水を乗り切ってきた。


去年までの作業は非常に手間がかかるので、今年は充電式の電動ポンプを使いたいと思ってネットで調べてみた。

最近は中国製の5000円前後の安価な物と、日本製の2万円近くする高価な物が売ってある。

レビューを見るとやはり中国製の物には多くの問題があるようだが、日本製はあまりにも高すぎる。

せっかく買った電動ポンプを活用した方が良いと、蓄電池も考えたがそちらは色々応用できた伸しても値段が高すぎる。

そこでふと思いついたのは、今使っているマキタのバッテリー活用だ。

最近はマキタも40vのバッテリーを使って、農機具以外にも電動アシスト自転車なども販売している。

うちではまだ18vのままだが、18vのバッテリーを使って家電の電源に変換させるコンバーターがないか調べたら、見事に見つけることができた。

中国製で不安はあるのだが、7000円ほどでリスクを感じながら注文して、配達されてきた。


試しに電動ポンプをつないでみたが、負荷がかかると止まってしまった。

負荷のあまりかからない扇風機などは普通に使えるので、水中ポンプでもバスポンプや水槽用の小型ポンプなら使えそうだ。

それはいずれ買うことにして、当面はエンジンポンプでの冠水を続ける予定だ。

300リットルのタンクの水は12時間ほどしか持たないので、毎日のように用水路から水をくみ上げねばならない。

エンジンポンプを使った作物への水やりと、貯水タンクへの水の補充が大切な日課となった。