私の祖母は父方も母方も信心深かった。
母方の祖母は特に神霊的な予兆を信じる人で、その体験をよく話してくれた。
因みにその祖母は私が中学に入るまでは相生にある家からよく母の手伝いに泊まりがけで来てくれていたが、中学に入ってから隣同士で赤穂の新築の家に住んでいた。
一番憶えているのは、祖母の家族は神戸で米屋をやっていたのだが、その倉庫で猫が亡くなっていた。
それを見た祖母は不吉な知らせとしてどうしても店を辞めると言って、その店を番頭さんに譲り渡して相生に引っ越してしまった。
ところが、昭和13年(1938年)の集中豪雨で、死者616名、被災家屋は約9万戸にも達する大水害が起き、店も潰れ番頭さんも亡くなったという。
当時私の母は5歳ほどだったので、祖母から聞いて私に話してくれたことである。
猫の死骸を予兆として捉えられたのは、日頃から環境に不安を感じていたかもしれないし、慣れない商売が上手くいってなかったのかもしれない。
ただ、猫の死骸を理由で思い切った実行をしたことが祖母たるゆえんだ。
気の毒なのは番頭さんで祖母の予見を信じていれば、亡くならずに済んでいたわけである。
また、母が私の出産に際しては祖母は仏壇でお祈りをしていたのだが、光が差してきたので「照」のつく名前をつけてほしいと言ったという。
ところが、父方の祖母の方が私に名前をつけるのが優先され、それでも清光として「光」を入れることになった。
因みにその名前の字は弟に継がれた。
父方の祖母も信心深かったので、それなりの人に相談して名前をつけたのだったが、大石内蔵助の愛刀の名前である清光は赤穂では名乗っている人が多い。
結果的に弟の方が良い大学に入り良い会社に勤めたことに関しては、母方祖母の縁起を担いだことは活きたことになる。
それだけ予知能力があるのなら夫の戦死も予知できただろうと思うが、応召された時点で覚悟は決めていたのかもしれない。
戦争は死の予感があろうがなかろうが、国家によって無理強いされる死の宣告に等しいものだったように思える。
信仰深い祖母でお祈りや参拝は欠かさなかったが、それだけで終始していたわけでは無かった。
祖母は以前は煙草を吸っていて、よく「わかば」を店に買いに行かされていた。
後から祖母と一緒に暮らしていた伯母から聞いた話によると、それは結核患者(伯母の夫)の看病をしていて、その感染予防で吸い始めたという。
自分への感染も顧みず献身的に看病をしていたと伯母は言っていた。
煙草か結核感染予防になるというのは当時の迷信で、今は逆効果になることは知られている。
祖母にとってはそういう呪(まじな)いで、結核感染の不安を克服しながら尽くしていたのだと思う。
呪いの効果があってかなかってか、結果的に祖母は結核にも癌にもならずに99歳になって老衰で亡くなったが、伯母は献身的な世話を最後まで尽くしていた。
祖母の忘れられない言葉として憶えているのは、口癖のように言った「偉く ならんで ええ(良い)」である。
自分が高校時代の受験勉強にそれなりに打ち込んでいる時だった。
当時は何を馬鹿なことを言っているのだと思っていた。
普通は大学に入って偉い人になりなさいと言うのが、親や祖父母の言う言葉なのにその逆をずっと言い続けていたからだ。
受験勉強を失敗した者が身近にいたのでその反動かとも思ったし、孫が遠くに離れていって寂しくなるからかとも思っていた。
しかし、自分が親になってその言葉は子どもには言わないけれど、そう思うようになっている。
私は大学教員などの研究職を目指して無理をしてまで大学院に進学した。
しかし、無理な生活は結果的に破綻してしまい、それまで私を支えてくれていた大切な人まで失ってしまった。
その後、あまり無理をせずに教師の道に進んだが、教師になってからはけっこう無理もしてきた。
医者から「あんた 死ぬで」と言われたりもしたが、仕事だけでなく研究職への未練も絶ちきれずにいた。
そのうち、周りの管理職や上を目指した教師などが心臓疾患や膵臓癌などで早死にしていくのを目の当たりにして、無理をしてはいけないことに気がついた。
研究職へつくことも自分には無理を強いることでしか無いと思いほぼ諦めている。
「偉くなる」ことより、自分なりに価値あると思うことを努力していくことが、幸せに繋がると今は思える。
辛い経験の多い波乱に満ちた人生だった祖母は、決してそれを孫には語らなかった。
その代わりに、人の幸せは「偉い人になることでは無い」という言葉を孫に残してくれたのだと思う。