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2026年6月30日火曜日

ヨイトマケの経験を通した暮らし

 「ヨイトマケの唄」を作り歌ってきた美輪明宏さんが亡くなった。

民法では放送禁止にもなったそうだが、理由が歌詞の中の「土方(どかた)」とあって驚いた。

「土方」が差別用語である意識はなかった。

なぜなら、私の大学時代の赤穂でのアルバイトはずっと「土方」と呼ばれる土木作業だったからだ。

また、大学院で博士進学を失敗し夫婦生活が破綻して、ひとり赤穂に戻ってきた時にしていたアルバイトも市の発掘の土方作業だった。

現在の土木作業は機械化されており重労働ではなくなっているが、発掘作業はけっこう手作業に頼っており、身体に少なからず負担が生じる。


大学時代には村落調査サークルに入っていて、その調査にかかる費用をアルバイトで稼がなくてはいけなかった。

自分たちの調査班は奄美を調査地としたために、交通費や宿泊費が多くかかった。

大学のある名古屋でもアルバイトをしたが、赤穂の家に帰った方が生活費がかからないので、お金が多く貯まる。

しかし、赤穂で短期間でできるアルバイトはあまりなく、弟は国立大学の良いところに入っていたので母のパートで働いている店主の子どもの家庭教師をしていた。

三流の南山大学の私にはそういう話はなくて、当時は土方の仕事しかなかった。

ただし、私の悪友は早稲田大学だったが教師をする柄では無かったので、地元に戻って土方していたし、東京でもしていたと言っていた。

特に東京は田舎より日当が高くて魅力的だったが、ちゃんと地下足袋を履かねばならないし、高いところにも登っていたと言っていた


とにかく、私は夏休みの一ヶ月以上、土方仕事をして過ごした。

小さな個人事業の親方は私の母が知り合いを通して紹介してもらった人だった。

母の知り合いと親方は断酒会の仲間だったのだが、親方は在日の方でお母さんはあまり日本語が得意では無かった。

雨の日などで、仕事の有無を確かめるために自宅に電話した時に、親方のお母さんがでてくれても話がうまく通じなかった。

親戚の叔父さんはそういう人の下で働いていることに眉をひそめたが、私はいっこうに構わず、働いている仲間も少人数で気楽だった。

一緒に働いている年配のおじさんともお好み焼き屋で一緒に飲んだりしたが、自分らの仕事があるから世の中が成り立っていると言っていた。

親方は強面だったが言葉遣いも丁寧で恐くなかったけれど、一緒に飲食をすることは無かった。


そんな日焼けで真っ黒の顔に汗と泥にまみれた私にも、恋人はちゃんといてアルバイトのことをいつも気遣ってくれていた。

時折来る手紙では体に気をつけてといつも書いてくれていて、夏休みに無理して逢った時にはふたりの肌の色の違いが極端だったのを今でもよく憶えている。

この土方仕事のおかげで、お金も貯まったし、体力も人一倍ついて、長い村落調査を乗り切ることもできた。

そのうち、名古屋暮らしにも慣れてきて、名古屋で鉄工所や餅屋でアルバイトを見つけてするようになり、大学四年の夏休みは大学院の受験勉強でできなかった。

大学院に入ってからは東京でははじめに夜警などをした後は、家庭教師をすることができた。

これは、まかりなりにも東京都立大学のネームバリューが役に立ったようだ。


次に土方作業をやり始めたのは、夢破れ暮らしが破綻して、赤穂に戻ってきてからだった。

教員採用試験を受けるために自宅で籠もって受験勉強し、一次試験が終わった後は中学校の臨時講師を勤め始めた。

学期の途中からなので、最初にしたのは姫路の中学校で英語教師が短期留学をしたので、その代用だった。

私は社会科しか免許は無かったが、校長が特別免許出して教壇に立つことができた。

その講師の仕事は一ヶ月しか無くて、次の講師の仕事が見つかるまで、赤穂市の発掘での土方作業をした。

私は大学で考古学の勉強もかじってはいたが発掘経験が無くて、手作業で土を起こしたり、遺物を掘り起こすくらいしかできなかった。

同じ作業仲間も土木作業をやってきた人が多くて、中には指を詰めている人もいた。

その後講師を頼まれた赤穂の中学校では、病欠の数学教師の代用として数学を教えた。

その時に授業で生徒に自己紹介で土方をしていたと言ったら、「ドカチン先生」とからかわれたりもしたが、採用試験も補欠合格していたので私は開き直っていた。

当時、地元では土方のことをドカチンと呼んだりされたが、赤穂の伝統産業の塩業は入浜式の時には土木作業とあまりかわりなく、差別的な意味合いは強くなかった。

この数学講師も一ヶ月程度で終わり、再び次の高校講師が始まるまで、発掘の土方作業に戻った。

既に、冬の寒い時期になっていて、凍てついた地面はきつかったし、休憩のテントの中も寒さが身に応えた。


教師になるまでの土方の経験は、私にいろんな事を教えてくれた。

まず、厳しい肉体労働は一日持たせるためのペース配分をやらなければ持たない。

若さに任せて、朝に力を出し尽くすと夕方まで体力が保たないのだ。

そして、スコップなどの道具の使い方が身についた。

力任せにやるのでは無くて、要領よく使わないと身体を痛めることになる。

そして、何か失敗して職を失っても土方ができるという妙に開き直った自信。

「ヨイトマケの唄」の主人公はお母さんの苦労の甲斐があって、エンジニアになる設定だ。

歌からは本人が土方の経験をしたとは思えない。

結局母親の仕事を肯定していることにはなっていない。

私の貴重な土方の経験は、今はその経験を教師をしていた時も、退職した後も行っている自然農法的な農作業に活かしている。

私が多くの人が嫌がる農作業の仕事もやり続け得られているのは、土方経験のお陰だ。

因みに勤務した特別支援学校での作業学習では、女性教師には最も嫌われる農作業グループを担当することが多かった。

土方経験の乏しい弟たちは農作業をしようともしない。

私は今でも家族の健康を思って、えーんやこーらー土にまみれ農作業をしているし、村のために溝の泥をかきあげている。






2026年6月29日月曜日

お婆ちゃんとお姉ちゃんの子育て支援

 私の子どもの頃は父親に育休など無く、子どもが生まれる時には母方の祖母が泊まりがけで家にきて手伝ってくれていた。

弟は3人いるが次男は年子だからよく分からないが、3番目の時は私は幼稚園児で4番目の時は小学生だったのでよく憶えている。

3番目は自宅で生まれ、4番目は病院で生まれたが、特に4番目の時は上に子どもが3人もいたので、その世話をする祖母がいなければ出産は不可能だった。

私も祖母の手伝いをして、洗濯物を入れたりしたのを憶えている。

父は仕事へ行って帰ってくるだけで、一緒に家事をした覚えはなく、気にいらないと祖母の手前いつもよりきつく叱ったように思う。

母方の祖母は夫は戦死しており娘家族と隣の相生市に住んでいたのだが、ことあるごとに泊まりがけで来てくれて、小学生のいとこも連れてくることもあった。

私が赤穂の鳥撫で暮らしていた時の幼い写真にもその祖母は多く写っていて、そのころから母の子育てを手伝っていたことが分かる。

その祖母の家族は赤穂で隣同士に家を建てたので、大きな家族のような関係になった。

祖母は毎日こちらの家に来たし、私もしょっちゅう隣に行った。


一方、年子で手のかかる私は、父方の鳥撫の本家にいる人の世話になっていたが、尾崎に移り住んだ後では本家に預けられることが多かった。

父方には祖父と祖母、伯父夫婦と娘、そしてまだ学生の叔母がいた。

伯父夫婦は木造船での運搬の仕事をしていたので、家に居ることは少なくて、祖父母と叔母、従姉がいて、私はそこで家族同然に過ごしていた。

祖母とよく買い物にバスに乗って加里屋まで出かけて、欲しいものを買ってもらったりしていた。

従姉とは歳は6歳離れていたのだが、一緒に遊んでもらったり、風呂も一緒に入ってくれた。

地域の子供会のバス旅行にも叔母と従姉と一緒に宝塚まで連れて行ってもらったことも憶えている。

元々、私は幼稚園に行くまで鳥撫に住んでいたので、周りの人もよく分かってくれていた。

私は優しくされる本家の方が居心地が良くて、尾崎の家に帰るのを嫌がるほどだった。

私の母としても手のかかる私が本家に行っていた方が助かるのだが、父がそれをあまり気に入らなかったようで、父から母を通して呼び返されていた。


本家が私をしっかり面倒見てくれたのは、息子家族の子育てを手伝うこと以外にも、場合によって私が家業の船の運送業を継ぐこともありうることもあった。

また、一人娘の従姉の兄弟のようにしておきたいという意味も有ったと思う。

だから私には叔母と従姉のふたりお姉ちゃんがいたのと同じだったが、大きく生長していくにしたがって疎遠になっていった。

それでも歳がいっても、ふたりのお姉ちゃんとは、その頃のままの感じで接することが多かった。

実の兄弟では一番上として兄貴面していたが、ふたりのお姉ちゃんの前では可愛い弟のような立場でいられた。

そのふたりのお姉ちゃんも近年若くして亡くなってしまい、敬称なしで名前を呼んでくれる人はいなくなってしまって寂しくなってしまった。


最近は親元や親戚から離れたところで就職して、そこで結婚して家族を持つことが多い。

この時に大きな負担となるのは子育てであろう。

いくら父親に育休が認められたり、ベビーシッターを雇うことができたとしても、私が子どもの頃のような手厚い協力は得られない。

初めての子どもの時は、娘は実家に戻って出産することもできるだろうが、2番目3番目となるとそう簡単では無い。

そういう子育て支援がなければ二人三人と子どもを産むことは躊躇うのが当たり前だと思う。

父親も育児に携わらなくてはいけない時代と思わなければならないと思うが、やはり昔のお婆ちゃんやお姉ちゃんの代わりにはならないだろう。

政府が少子化を問題にするなら、そういう肉親の子育て援助が簡単にできる政策も望まれると思う。

2026年6月24日水曜日

身体のリスクに無関心な座り仕事

 私は長年教師を勤めてきたが、管理職や特別支援学校での専任教師などは別として、デスクワークでの時間はそう長くない。

普通校では一日2~4時間は教壇に立っているだろうし、特別支援学校では普通校以上にデスクワークは少ない。

因みに特別支援学校では生徒と一緒に走ったり、歩いたりすることが時間割として組み込まれたりしている。

普通校でも運動系のクラブ指導を行ったり、実習を伴う指導をすれば、デスクワークの仕事はもっと少なくなる。

それでも私は普通校の時には、運動量が少なくて私は肥満気味となり、糖尿病を発症させる原因を作ってしまった。

私は貯まったストレスを飲食で解消していたのだ。


完全退職してそういうストレスからも解放され、健康に留意できる生活となったが、退職してから打ち込もうとしていた研究というデスクワークに没頭してしまった。

それが原因となり、前立腺炎の発症、十二指腸潰瘍の再発を招いてしまった。

かつて、大学院での修士論文を書いている時に十二指腸潰瘍を患って入院を勧められたけど、何とかジョギングをして回復させたのだった。

今回は水泳練習を復活させて、何とか今は回復している。

先日何気なくネットを見ていて、大腸癌の原因として酒・煙草以外にデスクワークがあげられていた。

特に直腸癌のリスクが高いそうだが、知った人の中で直腸癌で人工肛門をつけていたが74歳で亡くなった人がいる。

その人は元教師だったが寺の住職も務めていたし、中学校の管理職を務めていた人だった。

たぶんデスクワークや座っての仕事が多かったのだと思う。


デスクワークは他にも痔や腰痛の原因ともなることが知られている。

また、運動量が乏しいと糖尿病のリスクも高くなる。

糖尿病は自動車の普及で歩かなくなったことが大きな原因だとも言われている。

立ち仕事の多い教師の仕事でも私のように糖尿病になってしまうのだから、普段、歩くことが少ない人はもっと気をつけないといけないと思う。

現代は辛い肉体労働から解放された時代となっているが、その一方でデスクワークや運転、機械操作などあまり運動を伴わない仕事は大きなリスクを抱えていることの自覚がない。

医者や研究者が走ったり泳いだりしているのは、単に趣味だけでは無く健康管理の一貫だと思う。

私もそれを自覚したので、長時間のデスクワークを避けてなるべく運動をするように心がけている。

運動ができない時は、横になってお尻や腰への負担を軽減すると同時に、居眠りをして頭を休めたりしている。


そう考えれば、あれだけ夢見てきた研究職だが、実は身体にはリスクを伴う職業で、山中教授のようにマラソンなどを趣味にするなら問題ないように思う。

私が定期的に通院している糖尿病専門の医師もマラソンを趣味にしている。

手術を伴わない医師の仕事も殆どデスクワークでリスクを伴っているからだろう。

教師の中でも糖尿病の人が多いのは、意外と体育の教師である。

現役の頃に身についていた食事内容が、運動量が落ちても続けているからかもしれない。

体育教師は他の教科よりもデスクワークは少ないとは思うが、食事に似合うだけの運動ができていないように思う。

因みに私の父の男兄弟には糖尿病患者が四人中ふたりいるのだが、全て学生時代はスポーツを頑張った人であり、その後の仕事はデスクワーク中心であった。

父は学生時代にスポーツはしていたが、力仕事が多い職業につき、休日も農作業などをよくしていたので糖尿病にはなっていなかった。

とにかく、現代人は座り仕事が糖尿病や大腸癌などの病気のリスクを伴う仕事で有ることの自覚が足りないように思う。

デスクワーク中心の人は、趣味としてよりも、健康管理として運動をすべきなんだろう。






2026年6月22日月曜日

コウノトリの子育て夫婦に学ぶ

 ちょうど今、村(上郡町中野)近くに居着いているコウノトリの子どもが巣立ちを前にして、親鳥と一緒に餌を獲っている。

それまで、親鳥はトラクターの後や傍に近寄りながら、せっせせっせと餌を獲っては雛の元に行って吐き戻してやっていた。

子どももやっと親の餌を獲るのを見ながら、自分で獲る練習をしているようだ。

まだ、完全に巣から離れたわけでなく、巣に戻っているのを見かけることが多い。

去年も雛の3羽がこうしてしばらく親と一緒に餌を獲る練習をした後、巣立ってどこかに行ってしまった。

ただ、その後で一度だけ3羽が戻ってきたのを見かけたことがあるが、居続けることは無かった。]


コウノトリの親は子育てした我が子と協力してこれから生きていくわけでも無いし、群れることはない。

ヨーロッパではコウノトリが赤ん坊を連れてくると言われているのは、シュバシコウと言われる渡り鳥で日本のように居続けているのとは違うようだ。

ただ同じように、一生懸命子育てをしている様子は、しっかりと目撃できるだろう。

ツバメなども身近に目撃できるが、コウノトリの場合は餌を獲ることを教えたりしているのも目撃できる。

日本なら子どもが居残って一緒に暮らしている姿を期待したいところだが、飛び立っていった子どもは親とは暮らさない。

私は以前同じ職場にいたアメリカからの英語のALT(外国語指導助手)から、自分の親との関係が非常に希薄なのを聞いて奇異に思っていた。

アメリカの場合は離婚が多くて、ALTで実の両親が夫婦でいる人は殆ど無く、実の母親とその再婚相手との関わりがある人もいた。

どうも、子どもは自立した親を頼らないし、親も子どもを頼らないというのが普通のようだった。


ある意味で、コウノトリの子育てはアメリカ人など欧米の家族の姿と似ているのかもしれない。

同じヨーロッパでもドイツの場合は違うようだが、核家族を中心としての子育て家族と言うべきなのだろう。

日本の場合は子育てと、老人介護も含んだ家族を理想としていたが、家業を失って家が存続できずに欧米の核家族的になったのが実情だと思う。

ただ、欧米のように子どもが親と一緒に住むことを恥ずかしくは思わないので、独身の子どもなどは親と一緒に暮らし続けるようだ。

親の方も独身の子どもと一緒に暮らすことは、世間体が悪いとはあまり思わないで済んでいる。

しかし、これからの時代は、欧米流に独立心の強い子どもで無いと強く生きていけなくなっている。

親の方もコウノトリのように子どもは自立して自分たちとは別に暮らしていくべきものだと思って子育てをするべきなのだろう。

子どもに自分たちの老後に不安を与えるような教育費の投資はする時代では無くなっている。

コウノトリは餌場を確保するための自立であろうし、現代人は職を確保するための自立となるのだろう。

もう、子どもに老後の世話をしてもらう時代は終わったと、コウノトリに学びながら肝に銘じている。

そして、コウノトリのように夫婦が生涯一緒に生きていくのも理想としたい。

コウノトリが交尾前に互いにクラッタリング(嘴音)することは、慣れ親しんだ夫婦でもしっかりと愛を表現していくのが大切なことを教えてくれている。




2026年6月19日金曜日

現代社会の残虐なダークサイドミステリー

 先日NHKのダークサイドミステリーの再放送「古代メキシコ「いけにえ」3000年の謎 〜死と生のふしぎな世界〜」(初回2024年8月20日()午後9:00)を見た。

絵ではあるが、血の流れる身体から心臓取り出すところや、神殿から血が流れ落ちる様子が描写されていた。

古代文明の残虐さを表現するには充分だったと思う。

番組の中でも専門家が現代の交通事故の犠牲者と比較していたが、現代においても交通事故や戦争はある意味で文明の「いけにえ」と呼べるように思える。

ただ、古代メキシコでは再生を願う思考に裏付けられているというのがもう一方の専門家の意見だ。

以前見た番組で太平洋戦争の兵士の遺書に、これからの日本の再生のために犠牲になるという趣旨が書いてあったのを観たように思う。

交通事故に遭った人がそういう気持ちで死に臨んでいるとは思えないが、遺族としてはせめてこんな悲劇が起こらないための犠牲と受け止める人もいるかもしれない。

こんな「いけにえ」が行われている文明社会でも、血塗られた場面が多くあるはずなのに、そういう場面は映像、写真、絵での表現は避けている。

以前見た映画「黒い雨」は原爆の悲惨さを表現していたが、わざと白黒としたのは観る人の想像を引き出すためと解説されるが、私はあまりにも悲惨だからだと思う。

アメリカ映画の「プライベートブライアン」ではカラーで戦争の悲惨さを表現し、特にノルマンジー上陸作戦の海岸場面は、その残虐性が伝わってくる。

これは戦闘員として覚悟の死だから受け入れられるが、無抵抗な一般市民に対する残虐シーンは受け入れることが困難だ。


古代文明の残虐性を描くならば、現代社会の残虐性もしっかりと描くべきだと思う。

それが、日常生活の交通事故だったり、非日常の戦争であっても、我々の社会には残虐性が古代文明よりも残酷に繰り広げられていることを放送すべきだろう。

NHKは大河ドラマにおいての戦闘シーンでも、血の流れる場面などはあまり描かない。

それは戦闘シーンを娯楽番組として楽しませるためだと思う。

戦闘や戦争を娯楽として楽しませるNHKが、一方で平和を訴えているというのも矛盾を感じるが、それが現代人へのサービスとなっているのだから仕方ないかもしれない。

古代文明や歴史上の物語の残虐性は娯楽として放映し、現代の残虐性は隠蔽してしまう。

交通事故に関しては被害者以外は恩恵を受け、製造関連企業や販売では利益を得ているのだから、目をつぶろうというのかもしれない。

そういう意味では、古代文明と同じ再生のための「いけにえ」と言うべきなのかもしれないが・・・・・




2026年6月17日水曜日

深刻な協力し合える機会の喪失

 赤穂の実家には父が買った田んぼが2枚、畑が1枚かつては有った。

60年近く前ではまだ田植えは手で植えていて、父は本家の田植えの手伝いに行ったし、うちの田植えにも父の親兄弟などが手伝いに来てくれた。

はじめは稲刈りも手刈りをしていたが、バインダーが登場した後でも、脱穀作業には親戚が来て手伝ってくれていた。

それは田んぼでよく見られた風景で、田植えや稲刈りは賑やかなものだった。

今は機械が殆どやってくれるので、ひとりかふたりでやっているのが普通だ。

田んぼが賑やかになる風景はほとんど見られなくなった。

もう、親戚や労働仲間と協力し合って農作業をする機会が無くなってしまった。

ただ、上郡の村では草刈りや溝掃除を協力し合って頻繁に行っている。

草刈りに関しては便利な機械ができたので、いずれそちらにかわるように思われるし、用水路も配管施設に変わるだろう。


農作業以外でも、私の父は元船乗りで自分の100tほどの木造船を持っていて、その兄夫婦も同じような船を所有していた。

それで船の積み荷の上げ下ろしや船体の管理作業には兄弟同士で協力していたようだ。

その関係は父が船を辞めても続き、私は幼い頃にはその作業に連れられていっていた。

憶えているのは伝馬船に乗せられて、父が伯父の船体のペンキ塗りをするのをながめていたことだ。

また、父の弟が内職の仕事をし始めたので、私の母はそのその内職の仕事のとりまとめ役などをうちで行ったりしていた。

最近はそういう内職の仕事も機械化されて、家で内職をしている人はあまり見かけない。

とにかく便利な機械が無かった頃は、親戚や仲間で協力し合って手伝うのが当たり前で、仲良くするために盆正月や祭りは一緒に祝うことが当たり前だった。


それに対して家内の実家は街にあって、農作業をすることも無かった。

もともと、義母の家はミカン農家であったのだが、一時趣味で家庭菜園を夫婦で行ってはいたがあまり長く続かなかった。

それでも、義父は会社を早期退職後に、その義母の実家のミカンの収穫を手伝いに泊まりがけで行ったりもしていた。

農家ではなかった家内の義父の兄弟姉妹関係は希薄であったが、義母の方の兄弟姉妹関係は親しいものであったが、皆遠方に住んでいたので助け合うことは少なかったようだ。

みかんは稲作のように機械化は進まなかったようだが、稲作ほど協力し合って一度に済ませてしまう必要がなかった違いもあったようだ。


確かにまだ職場などでは協力してやらないといけないことが多く残ってはいる。

しかし、家族や親戚、近隣や友達と協力しあう関係が乏しくなってきたと感じる。

そのことで、その関係は希薄となり、それが結局職場の関係にも影響を及ぼしてきているようにも思える。

人間関係の希薄さを補うために、会社で運動会での催しを復活させる動きもあるようだ。

ただ、子育てや介護などの協力関係の基盤は家族・親戚や地域にある。

特に子育ては夫婦にとっても親戚においても協力し合える良い機会になる。

以前のように夫は子どものことを妻に任せきりも問題があったのに、今では学童保育に任せきる夫婦もいる時代になっている。

そして、子どもがいない夫婦が増えて、子育てを通しての協力関係が築けない場合も多い。

かつては、生業や子育て、介護と人間関係は一体化されていたのに、現代は分離されてしまったのだ。

これからは肉体労働だけで無く知的な作業もAIにとって換わられてしまうので、職場の協力関係ももっと希薄になってくるだろう。

人類は協力する力で進化してきたと言われている。

協力し合えなくなった現代日本人が人口を減らしているのは当然の結果と言えるのかもしれない。

沖縄の人口が増えているのはそういう協力し合える社会を維持しているからだと思っている。

その代わり、協力関係を大切にしている移民の人が新たなる日本人を形成してくれるだろう。








2026年6月15日月曜日

ふるさとは近くにあっても忘れ去るもの

 私の父親の兄弟は8人生まれて5人生き残って家族をもった。

亡くなった1人は戦死だったが、後のふたりは子どもの頃に病死、事故死だった。

生き残った5人はひとりを除いて全て赤穂市内に暮らし続けた。

ひとりだけ就職のために遠く名古屋に暮らすことになったが、死ぬまで赤穂に帰りたいと言い続けていた。

母親はふたり姉妹で、その父母はもともと市内の福浦だったが、神戸を経て相生に移り住んでそこで育った。

母は結婚して親戚の多い赤穂に戻り、祖母のいる伯母家族も、その後隣同士で家を建てて赤穂に暮らすようになった。

一方、私の兄弟で赤穂に居を構えたのはひとりだけで、私は隣の上郡に居を構えた。


それに対して、家内の父母は広島県の島に生まれ育ったが、義父の兄弟姉妹は誰ひとり島に残らなかった。

義母の兄弟姉妹も跡取りの長男を除いて島を離れてしまい、娘のひとりだけが隣の島に嫁いで近くに住んでいた。

そういうことで、家内は幼い頃には母親の実家のある島で過ごした経験はあったが、そのうち盆正月にも行かなくなったという。

つまり、私の兄弟の地元を離れる状態が、既に親の世代に起こっていたのがそういう島の現実だったようだ。

逆に言えば私たち兄弟にとっては赤穂のような街も、広島の離島と変わりなくなってしまったということだ。

ただし、義母の生まれ育った島は今は橋で本土と繋がっているので、もう離島とは言えなくなっている。


親の世代では赤穂に暮らしていた父母の兄弟姉妹もその子どもの世代、つまり私のいとこで赤穂に暮らしているのは実質今はひとりだけだ。

というのも、亡くなってしまったり、家は赤穂にあっても、夫の仕事関係で赤穂を離れていたり、単身赴任をしているからだ。

私を含めて赤穂に住み続けていたいという執着心は無くなってしまっていると言って良いかもしれない。

私自身は結婚して子どもが幼稚園に入るまでは、赤穂で親戚の家を借りて住んでいた。

しかし、こどもが喘息とアトピーで健康に良い環境を求めて上郡に家を建てた。

本当は、赤穂に拘りがあって、坂越や有年、福浦あたりの環境に良さそうな場所で探したが、良い土地が見つからなかった。

上郡は赤穂市ではないが、赤穂郡なので赤穂という所に住み続けていることは形として同じである。

そして、その上郡の村も地元に居続けていく跡継ぎがいる家は、半分以下だと思う。


赤穂では大学を出て就職できる企業も少なく、上郡は高卒でも少ない上に、兼業農家をしながら仕事勤めをする人自体いなくなっている。

そして、地元で暮らす魅力が失われてしまっていることが原因だと思う。

私が子どもの頃の赤穂はまだ塩田が残り、繊維産業などの企業の元気だった。

ただ、赤穂の西地区のようにセメント会社などの煤塵などで、うちの子どものように喘息を発症する子どもも増えてきたようだ。

赤穂の中心街でさえ、近年でも工場から出される排煙の臭いをすることもあった。

綺麗な川や海がありながらも、環境は確実に悪化していた。

その点で言うとコウノトリの居続ける私が今住んでいる村の方が、かつて私が生まれ育った鳥撫や尾崎のような魅力が残っている。


一番赤穂の現実を感じたのは、母の葬式だった。

父方の近隣に住む叔父叔母などは少しは来てくれたが、本人の母方親族はひとりもいなかった。

また、近所からの参列者もいなく、ひとりだけ友達が来てくれた。

母が自分の親の方の親戚関係を大切にしていなかったせいでもあるが、コロナの影響とは言え血縁・地縁関係が薄れてしまったことを実感した。

その点で言えば、上郡の方がまだ葬式では以前ほどでは無いにしろ残っていると感じている。

私自身は赤穂は便利で暮らしやすいと思うけど、上郡の村で親しくなった人も多くて、いまさら関わりの疎遠な赤穂に戻りたいとは思わない。

ふるさとはたとえ近くにあっても忘れ去るものとなってしまっている。