私は特に高校から大学に入るまでの期間は父との言い争いが絶えなかった。
私は父が求めるように勉強に励まず、好きなロックバンド活動をしていて、成績も振るわなかった。
造船所の職工だった父は、親から家業の海運業を継がせるのに中等学校を中退させられて、その仕事も結局家族のために辞めて造船所に入社した。
その職場において高学歴の上司から低い扱いをされるのをいつも悔しがっていた。
自分の悔しい思いをさせたくないと、高い授業料を払って私学に通わせているのに、まともに勉強しない私が許せなかったようだ。
それに対して、男ばかりの男子校に入った私は、剣道部には入ったものの夏の合宿までしか持たなかった
小学校でやっていた剣道のいい加減な練習とは違って、高校生も混じった厳しい練習に自分はついていけなかった。
だから、勉強以外の楽しみや気晴らしが無くて、それを音楽に求め始めたのだった。
大学の進路に関しても、工学系の理系に進ませたい父と理学・農学系の理系に進む気の自分との葛藤もあり、好きな生物を履修できなかった私は高3で文系に転じてしまった。
文系に転じたものの暗記科目はどちらかというと苦手で、受験勉強をしっかりできず、成績が悪くて父に責められていた。
また、進路に関しても父と口論が絶えず、家の中が荒んだ状態になってしまっていた。
父は大学受験に必死に取り組み将来につなげられる有名な国立大学への進学を強く望んでいた。
また、兄弟が4人もいて、国公立でないと下宿させられないという経済的な事情があった。
まさしく受験戦争の中で、私は家の経済状況も考えずに、気ままにしているように思えたのだろう。
私の方は大学受験経験も無い父に自分の気持ちが分かってたまるかと勉強もせずに反抗していた。
そのくせ周りから取り残されていくのは不安に思っていた。
結果は1年浪人しても国公立大学には行けず、三流の私立大学にしか受からなかった。
周りは恥ずかしいからもう一年受験しろと言われもしたが、家から離れられるのなら不本意な大学でも良いと喜んで入学した。
名古屋には叔父さんがいたのでそこで居候させてもらえば、私学でも何とか暮らせると言うことで話は収まった。
私の両親は私が入学した南山大学がどういう大学かも知らなかったし、私に聞こうともしなかった。
ただ、母だけは私が大学を落ち続けていたので、どんな大学か知らないのに、一つだけでも受かったと喜んでいた。
私は嬉しくも無かったので、その母の喜んでいるのに対し複雑な気持ちでいた。
居候の方は友だちのアパートに転がり込んで、結局安い下宿代でそのまま乗っ取った形で卒業まで過ごすことができた。
親からは授業料は払ってもらい、途中から奨学金が36,000円入ったが、仕送りは4年間毎月2万円だけだった。
私は大学では好きなロックを目一杯するつもりでいて、できればプロになれれば良いとも思っていた。
ところが、その道も上手くいかず、文化人類学の村落調査が自分にはとても魅力的なものとなった。
それには、そのサークルで彼女ができたのも大きな理由でもあった。
そして、もっと研究がしたくなって大学院にも進もうと思った。
これも就職できる当てもなく、無謀な選択であったのだが親には理解できていなかった。
私が研究を続けることを知って母は、あれだけ勉強を嫌がっていたのにと不思議がった。
要するに勉強が嫌いなわけでは無くて、大学受験科目に興味が持てなかったし、入ってからしたい事が勉強と関係なかっただけだったのだ。
いろいろと無理して入った大学院だったが、博士課程に進めず研究者になることを諦めざるを得なかった。
そして、生活も破綻して実家に戻ってきた時は、父は冷淡極まりなく、厄介者が帰ってきたという態度だった。
私は親への反発心などよりも、何とか生きていくための職を得るために教師を目指した。
教員採用試験の一次に合格したくらい頃から、父の態度も変わってきて応援してやろうという雰囲気も出てきた。
そして、教師に正式採用された時には、もう過去のわだかまりもなくなっていた。
結婚して子どもができてからは、実家に子どもを連れて行くと喜んでくれた。
最近弟に孫ができて、その可愛がる様子を見ていて父のことを思い出した。
父も孫が大好きで、一緒に遊んだりして可愛がっていた。
特に、末弟の子どもが近くにいたので、しょっちゅう訪ねていっていたようだ。
そして、忘れていたのは父がその末弟をすごく可愛がっていたことだ。
私は既に小学校3年生だったので、父が末弟を可愛がる様子を傍で見ていて記憶している。
夕方に仕事から帰ってくると、末弟を抱いて歌を歌ったりしてよくあやしていた。
母や他の兄弟も可愛い末弟と関わるのが楽しみだった。
その父が可愛がる様子をクラスの詩集に書いて、担任の先生がみんなの前で読んでくれて少々恥ずかしかったのを憶えている。
父はどちらかというと子どもが好きで、最初から厳しい人では無かったのだと思う。
子どもが成長するに従って、子どもに厳しく接するようになり、時に体罰もともなった。
その末弟がよく口にするのは、いやいや畑でいい加減な態度で草抜きをしていて、父に叱られて、「いね(帰れ)」と叱られたことだ。
それ以来、末弟は畑で農作業が嫌いになったと言うことだった。
確かに、父の末弟への扱いはまずかったかもしれないが、甘やかしすぎたと思っていたのかもしれない。
父は歳がいってからの末弟を非常に可愛がっていたが、一方で他の息子との関わりに手を取られて躾が疎かになっていたことも確かだった。
父親は子どもの世話そのものよりも、独り立ちできることを考えねばならない立場だ。
ちょうど時代の変わり目であった父は、難しい立場にあったのだと最近分かるようになった。
祖父が父に無理矢理家業を継がせたのとは逆に、学歴を付けて良いところに就職させようとする父の強引な意図が私との確執になっていた。
父と息子の確執はその時代が作るもので、必ずしも性格の違いとは言い切れない。
私は父同様に上の世代が置かれていた状況を正しく理解できていなかったようにも思う。
しかし、私が教師になって家族をもって平凡に暮らし始めると、和解できて喧嘩をすることはなくなった。
大切にすべきなのは家族だということで、世代が違っても理解し合えたのだと思う。
本当に親を理解するには、自分で子どもを育ててみないと分からないのかもしれない。
といういことは、子どもを持たない子どもからは死んでも理解されないのかもしれないと思ってしまう。
そういう人を身近に知っているだけに……