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2026年7月8日水曜日

哀しき教師

 東京都の小学校で起きた火災は、教師が朝6時に学校へ来て私物を洗濯してストーブで乾かしていたのが原因とされている。

経費節減のためなのか、多忙のためにそうせざるを得なかったのかで、全く見方が分かれてしまうだろう。

ただ、思い出したのは私のある教師のことだ。

私はとある寮のある高校に勤務して、その寮の夜の宿直の勤務をしていた。

たいがいは二人で行うのだが、その時には私より少し年上の先輩男性教師と宿直をしていた。

その人は奥さんも教師で共稼ぎあったが、朝早く一度自宅に帰って子どもの弁当を作っていたがその日の朝も帰って行った。

二人で高校教師として働いているので経済的には全く問題はない。

別の高校勤務の奥さんには宿直はないので、弁当も作れるはずだ。

どうも、夫婦間の問題でそういうことを行っていたようだ。

この場合は勤務の持ち場を離れて、自宅に帰ったわけだが、もし、交通事故でも起こしていたら重大事になっていただろう。

宿直勤務はその人にとっては大きなリスクを伴う勤務でもあった。

別の教師は奥さんが病気がちなのを理由に宿直を免除してもらっていたが、子どもの弁当で免除してもらうことはできなかっただろう。


早朝に学校に来るケースは中学校や高校ではクラブ指導や、朝の補習で珍しくは無い。

また、朝の渋滞を避けるために早く学校に来るケースもあった。

家庭科教室など特別教室や準備室を私的に利用することもそう珍しくは無かったし、以前は校内で生徒とバーベキューをすることも有った。

文化祭などでは屋台を出すために同じようなことをするので、あまり問題に思わなかったように思う。

また、教室を宿泊するように畳などを敷いて、夏休みに合宿したこともある。

校務員さんの部屋は畳が敷いてあって横になれるので、そこで昼寝をさせてもらっている教師もいた。

また、寮の宿直は手当が付くので、若い独身教師は魅力であって、他の教師から頼まれて宿直を多くして、その手当が通常の給料を上回ることもあった。

しかし、それはさすがに途中から止められたようだったが、それまでは、ほぼ寮生と同じような生活をしていたことになる。

そして、定時制の教師は若い人が多かったので、勤務時間を超えてみんな一緒に明け方まで学校で過ごしていたことも聞いたこともある。

当時の定時制の教師はそういう勤務で、多発する生徒の問題行動に対処していたようだった。

今回の音楽担当教諭が学校を自宅代わりにしていたとしても、そう不思議には思えない。

後日のネットニュースで熱心な先生だったと書かれてあって、多忙でそうせざるを得なかったと確信した。


問題なのは、そういう行為は必ず他の教師も知っているわけで、管理職の耳にも入ったはずだ。

知っていて敢えて目をつぶったのか? 本当に知らなかったのか?

音楽教師は入学式、卒業式での大切な学校行事ではピアノでの号令など大切な役割を担当する。

他に音楽会やクラブ担当でも責任ある役割が多いだろう。

学校を中心にして生活する熱心な先生に対して、その行き過ぎた行為を周りからも止められなかったように思えてならない。

確かに音楽教師が重大な過失をしたことには間違いないが、そういようにならないように周りや管理職が配慮していなかったことも問題だろう。

事故や事件が起こってしまったら、起こした本人だけに責任を押しつけて組織としての問題点を隠してしまったら、同じ事の繰り返しになる。

特に校長は音楽教師をかばうでもなく、責任を全部押しつけようとする態度がテレビニュースの画面から伝わってきて、正直憤りを感じていた。


因みに教師の懲戒免職はそう珍しくない。

私が勤めていた学校でも、不正経理や生徒への性的行動で懲戒免職になった人を複数知っている。

特に不正経理の方は、よく知っている教師だったが、余分な仕事を多く引き受ける代わりに、その代償としてちょっとした金をごまかしたように自分には思えた。

懲戒免職にならなくても、自主的に退職せざるを得なかったケースはもっと多く知っている。

また、過労が原因で病気になって現役で亡くなる先生も珍しくなかった。

その一方で、途中で公立から私学に変わったり、転職したりする人も少なからずあった。

また、近年は教師への志望者も減っているし、採用しても続かないということを聞いた。

私と同じ歳の人がまだ特別支援学校に常勤で働いているので理由を聞くと、若い先生に任せておられないという。

人気を失い教師の質の低下を招いていることを危惧せざるを得ない。

教師だけがそういう組織にしたのではなく、政府の教育政策もそういう組織を生み出した責任者だと私は思っている。









2026年7月6日月曜日

やはり芋より米飯

 映画「ひまわり」の中で、ソフィアローレンが皮ごと茹でたジャガイモをむいて食べるシーンがあった。

そういう食べ方をしたことが無かったので新鮮に感じて、何度か自分も同じようにして食べてみたのだが、それが長く続くことが無い。

今年も比較的多くのジャガイモが家でとれたので、早速まるごと蒸かして食べてはみたが、やはり続かなかった。

大学時代に友達からアメリカに留学したときにホームステイして、毎日そういう丸ごとのジャガイモが出されてうんざりしたことは聞いていた。

子どもの頃からそういうジャガイモの食べ方をしていたら、日本人が米を毎日食べるように食べられるのかとも思う。

奄美などでも今のように米が行き渡る前は、サツマイモが主食だった。

20年ほど前に奄美の与路島に行った時に、民宿の年配のご主人が夕食時に米飯は食べずにサツマイモを食べているのをみて、その習慣がまだ活きていることを感じた。

私もサツマイモは蒸かしてよく食べるが、酒のつまみとか小腹が空いた時に食べるのであって、天ぷらなどのおかず以外に米飯代わりには食べない。


うちの母は戦時中にサツマイモやカボチャをよく食べさせられていたので、あまり好きでは無いと言っていた。

お米が無い時にはそれを食べるしか無いのだが、米飯の魅力を超えるものでは無い。

米飯の魅力に対抗でできるものは麺類やパン、豚まんくらいだろうと思う。

しかし、米飯なら三食食べられるが、それらを三食とも食べようとは思わない。

米価の高騰に対抗するために一日一膳として、米飯は朝食だけにしてきて、昼食は麺類が多く、夕食は晩酌をするのでなるべく豚まんなどで済ますようにしている。

世間も私のような米離れが進んできたようで、ようやく米価も下がり始めた。

しかし、これを単に喜んではいられない。

米農家は大規模以外では利益を上げるのが難しいのに、これから採算割れして離農していくだろう。

原因の多くは米農家にあるのでは無くて、政府とJA、米取引業者にあることは確かだろう。

しかし、日本の果樹農家が美味しさで力をつけたように、安全で美味しくしたブランド米を作る努力をしていない原因もあるだろう。

また、逆に徹底的にコスト削減によって安くした米を作る努力もあまりなされていないよう思う。

従来の機械を多用するやり方を変えるには、直播きなどの農法の転換や、共同したり委託しての大規模化が必要だろう。


その一方で、水田は地域の経済だけで無く、環境を担うものである。

近所でも水田ダムという幟を立てて、水田の持つ貯水力を訴えているところもあるが、気温の上昇を抑えたり、豊かな生物の生息地になっている。

近年では農業体験やボラッティアも増えてきたと思うが、米をお金代わりにして雇ったり、お礼にしても良いと思う。

農村地帯も自分たちが草刈りや溝掃除をしてできたお米を実際に食べることで、その奉仕作業の実感を得ることができるだろう。

歴史的に日本は貨幣から米に転換したことがある。

食糧の確保と環境保全から現物の米をもっと利用すべきだろう。

昔のように地域の石高のような数値で示すのも面白いかもしれない。

因みに東京都の生産高は約3000石で、消費高は530万石という計算になる。

江戸時代は全国総石高3000万石で江戸人口が100万人で幕府が天領に400万石持っていたのと現在を比較してみるのも面白い。




2026年7月3日金曜日

生けるもの同士の命を支えつなぐ匂い

 ビル・S・ハンソン著  『匂いが命を決める―ヒト・昆虫・動植物を誘う嗅覚』 (2023 亜紀書房 2021 DIE NASE VORN Eine Reise in die Welt des Geruchssinns)は、匂いがいかに大切なものか教えてくれる。

著者は次のように訴える


間違いなく言えるのは、わたしたちの嗅覚はけっして取るに足らないものではないということだ。嗅覚は激しい感情を呼び覚まし、記憶を喚起し、病気の診断を助けさえする。匂いを嗅げるからこそ、人は人生や愛の生活を存分に楽しめる[前掲書:77]。


実は父が晩年にアルツハイマー型認知症になり、幻嗅に悩まされたり匂いを失ったりしてしまった。

そのことで父は人と会うことを嫌がったり、食事をすることの楽しみを失ってしまっていた。

誰でも風邪を引いたりすると、匂いを感じなくなった経験があると思うので、いかに食事には匂いが大切かを知っていると思う。

近年ではコロナウィリスに感染して発症して、後遺症として匂いを失ったままでいる人もいるという。

これは生活の楽しみを失うということで深刻な事態だと思う。


匂いは人の感情と深く関係していて、母子関係について次のように述べられている。


いくつかの研究が、赤ん坊は、母乳をあたえられているときに母親の匂いの特徴を学習し、やがてその匂いだけで母親を識別できるようになると結論づけている。母親もまた、自分の赤ん坊をその特別な匂いによって識別している。母親の匂いは赤ん坊にとって非常に大きな意味をもっており、その匂いだけでぐずっている赤ん坊をなだめることができ―そのときお腹が空いていれば乳を飲むよううながすことができる。[前掲書:77]


このことから授乳は免疫や栄養面だけの問題では無くて、母子の愛情を深める重要なことであることがわかる。

たとえ、母乳が出なくても肌と肌の触れ合いで匂いを確かめ合う必要があることが分かる。

以前に特別支援学校で重い自閉症の児童を担当した時に、その生育歴に関して母親が育児を拒んでいたことを思い出した。

これは母子関係だけで無く、父子関係にも重要であり、次のように書かれている。


この研究からわかったのは、一般に男性のほうが幼児と新生児をうまく識別する能力をもっているということだった。男性に、乳幼児の匂いを形容してほしいと言うと、彼らは「ほっとする」とか「落ち着く」、そして「甘い」匂いだと表現する。どれも肯定的な表現で、総じて匂いがもっていると考えられる心を鎮める効果を示す言葉だ[前掲書:57-58]。


私の知り合いに赤ん坊の匂いが好きだから、多くの子どもを奥さんに産んでもらったと言っていた人がいる。

そのことを聞いた時は変わった人だと思ったが、考えてみれば我が子を抱いて安らいだ気持ちになったのはその匂いにも大きな理由があったようだ。

それは次のことが理由だと思われる。


モネル化学感覚研究所のヨーアン・ルンドストレームによると、赤ん坊の頭の匂いは、母親の脳内に報酬回路を作り出す(子どもをもたない女性はその限りではない)。赤ん坊の頭の匂いは、空腹な人が美味しそうな料理を見たときに経験するのとよく似た生理的反応を引き起こす[前掲書:54]。


母親だけで無く匂いに敏感な父親にもそれがあてはまるようだ。


私が村落調査で通った奄美諸島与路島では「乳親(ティオヤ)」という習慣がかつてあった。

それは屋崎氏の報告(屋崎 一 2002   『与路島誌』 (自家版))に詳しく書かれており

 授乳は、予め親戚や隣人等を頼んでおき、生まれたらすぐ駆けつけて来て乳を与え、母乳の出るまで続けた。これを乳親(ティオヤ)と称しその子が大きくなっても親子のように双方とも愛情が生まれ交流を深めていたという。[前掲書:345]


赤ん坊に与える母乳は母親から乳が出るまでの単に栄養だけの問題では無く、子どもの性格や将来にも関わるとしたようだ。

そして、実の親以外にも深い関わりをもち続けることは、現代社会で失われてしまった子育ての意味を考え直させられる。

おそらく、母乳をもらった子どもは、その時に感じた味と匂いを深く心の中に刻み続けているのだろうと思う。

そして、母乳を与えた人だけで無く、その赤ん坊と関わった人がその時の赤ん坊の匂いを同じように心に刻み続けているのだと思う。

私自身、自分の息子や娘を抱いていた時の記憶はその匂いとともに鮮明に憶えている。

赤ん坊の匂いが好きで子どもを多くもうけたのと同じように、祖父母が孫と接したいのは昔の感情を呼び戻したいからだと思う。


最近は子や孫の代わりに犬や猫を飼う人が増えたが、私は子犬の匂いが大好きでいつも子どもの頃は抱いて嗅いでいた。

特にお腹のあたりは、暖かくて良い匂いがした。

近所で仔犬などをもらってくると夜泣きするので、母犬の匂いのした布などをもらってきて仔犬に与えたりすると治まったりした。

匂いは犬も人も大切なもので、小型犬をずっと抱いている人は、ひょっとしたら互いに匂いを感じ合っているのかとも思う。

私の子どもの頃は自分の弟と親密に接することはあったが、よその赤ん坊と接する機会はなかったし、大人になっても我が子以外には殆ど無い。

その代わり子どもの頃は雑種の子犬や猫が捨てられていたりして街で接する機会も多かった。

また、ひよこが学校近くで売ったり、祭りで売るテキ屋がいて、それを買ってくることも多かったがそのひよこの匂いも好きだった。

時にツバメや雀の子も拾ってきたりしたのだが、これらの動物の子ども匂いをよく今でもよく憶えている。

動物の子どもには独特の匂いがあって、決して不快には思わない。

オオカミが人間の赤ん坊を食べずに育てたのも、ひょっとして生きものの赤ん坊が放つ独特な匂いのお陰かもしれない。

ただ、虫の幼虫はアゲハチョウなどのように臭くて触る気がしなかったのは、食べられるのを防ぐためだろう。

こう考えると作られた人工的な香りが満ちあふれて、同じ生きものの持つ大切な匂いが失われることは、全ての生き物の命を失うことに通じるのかもしれない。

自然の中でつながって生きていく感覚こそ匂いなのだと思う。








2026年7月1日水曜日

草刈り恐竜クサノザウルスの進化と今後の期待

 前々から欲しくて検討していた自動走行の草刈り機を購入することにした。

「PLOW クサノザウルス 草刈り機 WGC530プラス HONDAエンジン搭載」を通販で予約購入してしばらくして配達されてきて組み立てた。

この草刈り恐竜は、今までの草刈りの常識を一変させてしまった。

とにかく、速い、しかも刈り丈がそろって綺麗に刈れる。

今までの肩掛けや背負いの草刈り機の進む速さとは格段に違うので、一番遅くして今回は刈ったが、慣れてきたらスピードを上げることができるだろう。


ただ、使用には気をつけねばならない点もそれなりにある。

まず、エンジン始動と停止に始動バーを必ず用い、本体を動かす走行バーとは別についている。

自動チョーク式で便利だが、始動バーを握ってないとエンジンはかからないくて、片手だけで行うヒモを引っ張る始動グリップは少し力が要る。

このエンジンを止めないために始動バーはずっと握り続けていなくてはならない点は、これまでの管理機などの機械と大きく違う。

これは急停止させるのには便利なのだが、方向転換をする時にはじめはうっかりと始動バーを離してしまって停止させてしまっていた。

今まで30分ほどかかっていた広さを数分ほどで刈ってしまう。

ただ、溝端や急斜面、狭い畝などでは使えないので、肩掛けの充電草刈り機でやるしかない。

気をつけておかねばならないのは、この草刈り機は平地を想定しており、斜面では使わないようにと注意がある。

ネットで買う前の質問では大丈夫と答えられていたので安心していたのだが、斜度20度を超えたところでは使えないのを後で説明書で知った。

この時は緩い法面で短時間使ったのだが、これからは気をつけないと、エンジンオイルの関係でエンジンが焼け付いてしまうそうだ。

ここが従来の値段の高い自走式草刈り機と大きく違うところで、田んぼの急な角度の畝刈には使うことができないようだ。

とにかく、私が使おうとしているのは平地が中心なので、幸いにもそのことは大きな問題にはならない。


私はなるべく自然農法に近づけようとしているので、まずは除草剤は農地や自宅では厳禁としている。

しかし、空き家となった赤穂の実家では、近所迷惑も考えて駐車場や、庭の一部で除草剤を用いている。

理由は、小石の砂利を敷いているので、草刈り機での作業は難しいことと、庭に生えたイタドリは何度刈っても繁茂するからである。

一番厄介なのは、赤穂の実家の畑で、こちらの畑に手を取られて手が回らなくて、セイタカアワダチソウが蔓延ってしまっている。

こちらは、背負いのエンジン草刈り機で先日刈り倒してきたが、疲れてへとへとになった。

今回、10万円近くの高い費用を費やして、クサノザウルスを購入したのは、その赤穂の畑での負担を減らすためだった。

こちらの畑は農地用の除草剤を使う事も考えたが、防草シートを敷くことにしてネットで注文して買っておいた。

しかし、このところの食料品の値上がりを受けて、来年から作物を作って活用することに変更した。

考えているのはあまり手がかからないもので、夏場はモリンガや、サツマイモ、カボチャ、冬場は麦類、ジャガイモである。

とにかく、まともに作物が作れるように除草しなくてはいけないが、普通の草刈り機では労力もかなりいるし、刈った後の草の始末が大変だ。

昔のように燃やすわけに行かないし、埋めてしまうのも大仕事になる。

その点でいえば草を粉砕してくれるクサノザウルスは優れものである。


村でも自動走行の草刈り機を持っていて使っている人もいる。

しかし、田んぼの畦の一部に使うだけで、村作業には持ってこない。

理由は簡単で燃費が悪いし、村から支給されるのはガソリンの混合油なのでその機械には使えないのだ。

クラッチ操作を誤ると故障をしたりするのでメンテナンスも大変だという。

何よりも価格がクサノザウルスの二倍ほどしていて、耐久性もそうなくて、今使っている機械は3台目だという。

そのことを聞いていたので、クサノザウルスの評判をネットで見聞きして、迷わず購入を決めた。

しばらく使ってみて燃費がそれほど悪くないのなら、村作業にも平地に限って使おうかと思っている。

村の多くの人が使うようになれば、もっと草刈り作業は楽になると思う。


自然農法を志す者としては、ガソリンエンジンを用いるのは心苦しいのだが、酷暑の中で自分の身体を守るためである。

マキタの充電式の農機具も40Vまでパワーアップしてきており、いずれ自動走行の大型の機械も電動化されると思う。

今出回っているエンジン式の大型リモコン草刈り機は、価格が高すぎて一般の家では手が出ない。

これからはガソリンを食うクサノザウルスから進化して、電気で動く手軽な草刈りドローンがいずれ誕生してくれるのを心待ちにしている。



2026年6月30日火曜日

ヨイトマケの経験が田舎暮らしの基本

 「ヨイトマケの唄」を作り歌ってきた美輪明宏さんが亡くなった。

民法では放送禁止にもなったそうだが、理由が歌詞の中の「土方(どかた)」とあって驚いた。

「土方」が差別用語である意識はなかった。

なぜなら、私の大学時代の赤穂でのアルバイトはずっと「土方」と呼ばれる土木作業だったからだ。

また、大学院で博士進学を失敗し夫婦生活が破綻して、ひとり赤穂に戻ってきた時にしていたアルバイトも市の発掘の土方作業だった。

現在の土木作業は機械化されており重労働ではなくなっているが、発掘作業は当時から変わらずけっこう手作業に頼っており、身体に少なからず負担が生じる。


大学時代には村落調査サークルに入っていて、その調査にかかる費用をアルバイトで稼がなくてはいけなかった。

自分たちの調査班は奄美を調査地としたために、交通費や宿泊費が多くかかった。

大学のある名古屋でもアルバイトをしたが、赤穂の家に帰った方が生活費がかからないので、お金が多く貯まる。

しかし、赤穂で短期間でできるアルバイトはあまりなく、弟は国立大学の良いところに入っていたので母のパートで働いている店主の子どもの家庭教師をしていた。

三流の南山大学の私にはそういう話はなくて、当時は土方の仕事しかなかった。

ただし、私の悪友は早稲田大学だったがアルバイト教師をする柄では無かったので、地元に戻って土方していたし、東京でもしていたと言っていた。

特に東京は田舎より日当が高くて魅力的だったが、ちゃんと地下足袋を履かねばならないし、高い現場にも登っていたと言っていた


とにかく、私は夏休みの一ヶ月以上、土方仕事をして過ごした。

小さな個人事業の親方は私の母が知り合いを通して紹介してもらった人だった。

母の知り合いと親方は断酒会の仲間だったのだが、親方は在日の方でお母さんはあまり日本語が得意では無かった。

雨の日などで、仕事の有無を確かめるために自宅に電話した時に、親方のお母さんがでてくれても話がうまく通じなかった。

親戚の叔父さんはそういう人の下で働いていることを小馬鹿にしたが、私はいっこうに気にせず、働いている人たちも少人数で気楽だった。

その作業仲間は定年退職後の年配の人と、40歳を過ぎた位のお母さんと二人暮らしの男性などが常に働いており、時折退職後の臨時のトラック運転手が運搬だけしていた。

親方とその運転手以外には車の運転ができる者はいなかった。

そこに私のような大学生や高校生を夏休みのアルバイトで使ってくれていたが、誰も重機が使えないので、殆ど手仕事で行っていた。

エアハンマーやランマーを使ったことはあるが、ツルハシとスコップ、ジョレンなどが主に使う道具で、コンクリートも手作業でこねていた。

私は長靴を履いて自転車で現場に弁当と水筒を持って通っていたが、昼飯時には汗にまみれているので上半身裸になって乾かして、板の上に横になって昼寝していた。

とにかく夕方になって仕事が終わるまでが長く感じたし、日曜日の休みや雨での休みが有りがたかった。

一緒に働いている二人のおじさんともお好み焼き屋で一度だけ飲んだりしたが、自分らの仕事があるから世の中が成り立っていると言っていた。

親方は強面だったが言葉遣いも丁寧で恐くなかったけれど、一緒に飲食をすることは無かった。


そんな日焼けで真っ黒の顔に汗と泥にまみれた私にも、恋人はちゃんといてくれてこのアルバイトのことをいつも気遣ってくれていた。

時折来る手紙では体に気をつけてといつも書いてくれていて、休日に無理して逢った時にはふたりの肌の色の違いが極端だったのを今でもよく憶えている。

この土方仕事のおかげで、お金も貯まったし、体力も人一倍ついて、長い村落調査を乗り切ることもできた。

そのうち、名古屋暮らしにも慣れてきて、名古屋で鉄工所や餅屋でアルバイトを見つけてするようになった。

大学四年の夏休みは実家に帰っても、9月にある大学院の受験勉強のために費やし土方はできなかった。

大学院に入ってからは東京でははじめに夜警などをした後は、家庭教師をすることができた。

これは、まかりなりにも東京都立大学のネームバリューが役に立ったようだ。


次に土方作業をやり始めたのは、夢破れ暮らしが破綻して、赤穂に戻ってきてからだった。

教員採用試験を受けるために自宅で籠もって受験勉強し、一次試験が終わった後は中学校の臨時講師を勤め始めた。

学期の途中からなので、最初にしたのは姫路の中学校で英語教師が短期留学をしたので、その代用だった。

私は社会科しか免許は無かったが、校長が特別免許出して教壇に立つことができた。

その講師の仕事は一ヶ月しか無くて、次の講師の仕事が見つかるまで、赤穂市の発掘での土方作業をした。

私は大学で考古学の勉強もかじってはいたが発掘経験が無くて、手作業で土を起こしたり、遺物を掘り起こすくらいしかできなかった。

同じ作業仲間も土木作業をやってきた人が多くて、中には指を詰めている人もいた。

その後講師を頼まれた赤穂の中学校では、病欠の数学教師の代用として数学を教えた。

その時に授業で生徒に自己紹介で土方をしていたと言ったら、「ドカチン先生」とからかわれたりもしたが、採用試験も補欠合格していたので私は開き直っていた。

当時、地元では土方のことをドカチンと呼んだりされたが、赤穂の伝統産業の塩業は入浜式の時には土木作業とあまりかわりなく、差別的な意味合いは強くなかった。

この数学講師も一ヶ月程度で終わり、再び次の産休裏の高校講師が始まるまで、発掘の土方作業に戻った。

既に、冬の寒い時期になっていて、凍てついた地面はきつかったし、休憩のテントの中も寒さが身に応えた。


教師になるまでの土方の経験は、私にいろんな事を教えてくれた。

まず、厳しい肉体労働は一日持たせるためのペース配分をやらなければ持たない。

若さに任せて、朝に力を出し尽くすと夕方まで体力が保たないのだ。

そして、スコップなどの道具の使い方が身についた。

力任せにやるのでは無くて、要領よく使わないと身体を痛めることになる。

そして、何か失敗して職を失っても土方ができたのだから何でもできるという妙に開き直った自信。

「ヨイトマケの唄」の主人公はお母さんの苦労の甲斐があって、エンジニアになる設定だ。

歌詞からして本人が立つ工事現場も機械化されていて、土方の経験する必要も無くなっている。

結局、母親の土方仕事は過去の貧しさと汚さを乗り越えた賛美に留まっている。


私の貴重な土方の経験は、今はその経験を教師をしていた時も、退職した後も行っている自然農法的な農作業に活かしている。

私が多くの人が嫌がる農作業の仕事もやり続け得られているのは、土方経験のお陰だ。

因みに勤務した特別支援学校での作業学習では、女性教師には最も嫌われる農作業グループを担当することが多かった。

また、土方経験の乏しい弟たちは農作業をしようともしないし、知り合いに勧めても嫌がられるのが殆どだ。

私は今でも家族の健康を思っての自然農法を基本にしているのでスコップを使って畝を盛り上げたり、芋を掘り上げることが多い。

また、村作業では用水路に多く貯まった溝の泥を鋤簾などでかきあげている。

機械を使うのは草刈りと散水だけだ。

エンヤコラと 今でも土や泥にまみれていて、顔は真っ黒だが両手は白い。

ただ、気になるのは家内と一緒にモールで歩いていると、すれ違う男性がいつも肩をかわしているような気がする。

気のせいだろうか・・・・・






2026年6月29日月曜日

お婆ちゃんとお姉ちゃんの子育て支援

 私の子どもの頃は父親に育休など無く、子どもが生まれる時には母方の祖母が泊まりがけで家にきて手伝ってくれていた。

弟は3人いるが次男は年子だからよく分からないが、3番目の時は私は幼稚園児で4番目の時は小学生だったのでよく憶えている。

3番目は自宅で生まれ、4番目は病院で生まれたが、特に4番目の時は上に子どもが3人もいたので、その世話をする祖母がいなければ出産は不可能だった。

私も祖母の手伝いをして、洗濯物を入れたりしたのを憶えている。

父は仕事へ行って帰ってくるだけで、一緒に家事をした覚えはなく、気にいらないと祖母の手前いつもよりきつく叱ったように思う。

母方の祖母は夫は戦死しており娘家族と隣の相生市に住んでいたのだが、ことあるごとに泊まりがけで来てくれて、小学生のいとこも連れてくることもあった。

私が赤穂の鳥撫で暮らしていた時の幼い写真にもその祖母は多く写っていて、そのころから母の子育てを手伝っていたことが分かる。

その祖母の家族は赤穂で隣同士に家を建てたので、大きな家族のような関係になった。

祖母は毎日こちらの家に来たし、私もしょっちゅう隣に行った。


一方、年子で手のかかる私は、父方の鳥撫の本家にいる人の世話になっていたが、尾崎に移り住んだ後では本家に預けられることが多かった。

父方には祖父と祖母、伯父夫婦と娘、そしてまだ学生の叔母がいた。

伯父夫婦は木造船での運搬の仕事をしていたので、家に居ることは少なくて、祖父母と叔母、従姉がいて、私はそこで家族同然に過ごしていた。

祖母とよく買い物にバスに乗って加里屋まで出かけて、欲しいものを買ってもらったりしていた。

従姉とは歳は6歳離れていたのだが、一緒に遊んでもらったり、風呂も一緒に入ってくれた。

地域の子供会のバス旅行にも叔母と従姉と一緒に宝塚まで連れて行ってもらったことも憶えている。

元々、私は幼稚園に行くまで鳥撫に住んでいたので、周りの人もよく分かってくれていた。

私は優しくされる本家の方が居心地が良くて、尾崎の家に帰るのを嫌がるほどだった。

私の母としても手のかかる私が本家に行っていた方が助かるのだが、父がそれをあまり気に入らなかったようで、父から母を通して呼び返されていた。


本家が私をしっかり面倒見てくれたのは、息子家族の子育てを手伝うこと以外にも、場合によって私が家業の船の運送業を継ぐこともありうることもあった。

また、一人娘の従姉の兄弟のようにしておきたいという意味も有ったと思う。

だから私には叔母と従姉のふたりお姉ちゃんがいたのと同じだったが、大きく生長していくにしたがって疎遠になっていった。

それでも歳がいっても、ふたりのお姉ちゃんとは、その頃のままの感じで接することが多かった。

実の兄弟では一番上として兄貴面していたが、ふたりのお姉ちゃんの前では可愛い弟のような立場でいられた。

そのふたりのお姉ちゃんも近年若くして亡くなってしまい、敬称なしで名前を呼んでくれる人はいなくなってしまって寂しくなってしまった。


最近は親元や親戚から離れたところで就職して、そこで結婚して家族を持つことが多い。

この時に大きな負担となるのは子育てであろう。

いくら父親に育休が認められたり、ベビーシッターを雇うことができたとしても、私が子どもの頃のような手厚い協力は得られない。

初めての子どもの時は、娘は実家に戻って出産することもできるだろうが、2番目3番目となるとそう簡単では無い。

そういう子育て支援がなければ二人三人と子どもを産むことは躊躇うのが当たり前だと思う。

父親も育児に携わらなくてはいけない時代と思わなければならないと思うが、やはり昔のお婆ちゃんやお姉ちゃんの代わりにはならないだろう。

政府が少子化を問題にするなら、そういう肉親の子育て援助が簡単にできる政策も望まれると思う。

2026年6月24日水曜日

身体のリスクに無関心な座り仕事

 私は長年教師を勤めてきたが、管理職や特別支援学校での専任教師などは別として、デスクワークでの時間はそう長くない。

普通校では一日2~4時間は教壇に立っているだろうし、特別支援学校では普通校以上にデスクワークは少ない。

因みに特別支援学校では生徒と一緒に走ったり、歩いたりすることが時間割として組み込まれたりしている。

普通校でも運動系のクラブ指導を行ったり、実習を伴う指導をすれば、デスクワークの仕事はもっと少なくなる。

それでも私は普通校の時には、運動量が少なくて私は肥満気味となり、糖尿病を発症させる原因を作ってしまった。

私は貯まったストレスを飲食で解消していたのだ。


完全退職してそういうストレスからも解放され、健康に留意できる生活となったが、退職してから打ち込もうとしていた研究というデスクワークに没頭してしまった。

それが原因となり、前立腺炎の発症、十二指腸潰瘍の再発を招いてしまった。

かつて、大学院での修士論文を書いている時に十二指腸潰瘍を患って入院を勧められたけど、何とかジョギングをして回復させたのだった。

今回は水泳練習を復活させて、何とか今は回復している。

先日何気なくネットを見ていて、大腸癌の原因として酒・煙草以外にデスクワークがあげられていた。

特に直腸癌のリスクが高いそうだが、知った人の中で直腸癌で人工肛門をつけていたが74歳で亡くなった人がいる。

その人は元教師だったが寺の住職も務めていたし、中学校の管理職を務めていた人だった。

たぶんデスクワークや座っての仕事が多かったのだと思う。


デスクワークは他にも痔や腰痛の原因ともなることが知られている。

また、運動量が乏しいと糖尿病のリスクも高くなる。

糖尿病は自動車の普及で歩かなくなったことが大きな原因だとも言われている。

立ち仕事の多い教師の仕事でも私のように糖尿病になってしまうのだから、普段、歩くことが少ない人はもっと気をつけないといけないと思う。

現代は辛い肉体労働から解放された時代となっているが、その一方でデスクワークや運転、機械操作などあまり運動を伴わない仕事は大きなリスクを抱えていることの自覚がない。

医者や研究者が走ったり泳いだりしているのは、単に趣味だけでは無く健康管理の一貫だと思う。

私もそれを自覚したので、長時間のデスクワークを避けてなるべく運動をするように心がけている。

運動ができない時は、横になってお尻や腰への負担を軽減すると同時に、居眠りをして頭を休めたりしている。


そう考えれば、あれだけ夢見てきた研究職だが、実は身体にはリスクを伴う職業で、山中教授のようにマラソンなどを趣味にするなら問題ないように思う。

私が定期的に通院している糖尿病専門の医師もマラソンを趣味にしている。

手術を伴わない医師の仕事も殆どデスクワークでリスクを伴っているからだろう。

教師の中でも糖尿病の人が多いのは、意外と体育の教師である。

現役の頃に身についていた食事内容が、運動量が落ちても続けているからかもしれない。

体育教師は他の教科よりもデスクワークは少ないとは思うが、食事に似合うだけの運動ができていないように思う。

因みに私の父の男兄弟には糖尿病患者が四人中ふたりいるのだが、全て学生時代はスポーツを頑張った人であり、その後の仕事はデスクワーク中心であった。

父は学生時代にスポーツはしていたが、力仕事が多い職業につき、休日も農作業などをよくしていたので糖尿病にはなっていなかった。

とにかく、現代人は座り仕事が糖尿病や大腸癌などの病気のリスクを伴う仕事で有ることの自覚が足りないように思う。

デスクワーク中心の人は、趣味としてよりも、健康管理として運動をすべきなんだろう。