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2026年8月24日月曜日

ヒト本来の分割睡眠

 睡眠に関しては個人的にも色々悩むところがあって、完全退職する前は睡眠時間を確保するために医師から睡眠導入剤を処方してもらったりしていた。

というのも、今でもそうなのだが夜中に寝酒を飲む習慣が出来てしまっている。

自分自身糖尿病なのに夜中に飲食をしてしまっている。

酒に関しては芋焼酎をレモンなどの柑橘類を入れて炭酸で割って飲んでいる。

水泳や農作業で身体を動かしているのに、夕方の晩酌時につまみとおかずだけでご米飯を食べないせいもある。

そして夕食後そのまま寝てしまい、夜の九時前後に起きて机に向かって本を読んだりネットを観たり、ブログを書いたりしている。

そして、夜中の11時に切り上げて飲食してうとうとしながら過ごしてから、風呂に入って夜中の2時前後に床について眠ることが多い。

起きる時間は冬と夏とで大差なく、朝の5時前後に目が覚めてしまい、冬は机に向かい、夏は散歩と農作業に出かける。

その日によって睡眠時間は違うが、夜には合計6時間ほどしかとれていない。

ただし、机に向かっていて眠くなったら軽く10分ほど仮眠したり、昼食後も15分程度眠ってしまい、仮眠の合計は30分くらいになると思う。


睡眠導入剤は糖尿病の数値が悪い時に寝酒をしないのが主な目的で、現在は悪くないので眠剤は飲まずに寝酒をしている。

働いている時は昼間の仕事に応えると思うので、眠剤を飲んでいたこともある。

世の中に流布する必要な睡眠時間が8時間とか7時間という以外にも、睡眠ゴールデンタイム午後10時から明け方の3時までという拘りもあった。

若い頃は子供を寝かしつけているうちに自分も眠ってしまって朝だったと言うことが多かった。

また、朝の10時くらいまで寝坊したり、逆に徹夜も平気でできていた。

それが徐々にそういう睡眠に変わっていたのだった。

こういう途切れ途切れの睡眠に不安を感じていたのでネットで調べてみたら、次の記事が目にとまった。


人類はかつて「睡眠を1晩2回」に分けていた、その習慣が消えた理由とは?」『ナゾロジー』

この記事はhttps://www.sciencealert.com/humans-used-to-sleep-twice-every-night-heres-why-it-vanishedを参考にして書かれたもので、原文も同じような内容である。


要するに我々が当たり前だと思っている現代の睡眠は産業革命以降に身についてきたもので、それまでは分割睡眠が当たり前だったということだ。

一回眠りについて、夜中に目が覚めて1から2時間ほど起きていて、また眠りにつくという睡眠である。

現代のように電灯や時計などがなかった時代は、夕食は暗くなる前に済まして、暗くなると寝てしまっていた。

朝も明るくなって起きてくるので、夏と冬とでは床についている時間が違うのが当たり前だった。

明かりがないからと言って夜は単に眠るためのものではなく、若者は夜遊びで出かけたし、夫婦にとっては大切な営みの時間でもあった。

夜の明るさが違ってくる月齢を昔の人は非常に意識していたのもそのせいである。

狩猟採集の時代からつい最近の農耕中心の時代まで、分割睡眠が当たり前であったことは不思議ではない。

むしろ、現代は未開人を除いて、労働のために睡眠を管理されてしまったと言った方が良いのだろう。

人類学者はそういう分割睡眠のことはあまり民族誌に書き残していないのは、夜の過ごし方は聞きづらかったこともあるかもしれない。

また、睡眠はあまりにも個人的に柔軟に季節や出来事で変化して、決まったスタイルがなかったので一般化して著せなかったかもしれない。

そもそも、活動をともにする昼間と違って夜の過ごし方は個人の自由で、決まり事などなかったからだと思える。

この睡眠時間の事からも分かるように、現代の医学などは現代のライフスタイルの枠の中で研究されたもので、ヒト本来の心身のあり方とは別物である。

そして、医学的に推奨されることと違うと不安を感じてしまい、時に薬やサプリに頼ってしまう。

その方が病院や薬局、製薬会社には都合が良いのかもしれないが、われわれ庶民にとっては余計な心配と出費となってしまう。

労働管理されている時は仕方ないところもあるが、退職して自由を得たらヒト本来の睡眠方法に戻っても悪くはない。

ただ、昔と違って電灯もあるし、テレビなどの娯楽もあるし、日常的に酒も飲める。

むしろ睡眠そのものより、それとの付き合い方に気をつけるべきなのだろうと思っている。

と書きつつ、非常に後ろめたい気持ちになってしまう・・・・・


2026年8月23日日曜日

仕事優先が生むDV(家庭内暴力)

 私は大学院時代(1984年)に家庭教師派遣センターからの紹介で高校浪人をしている生徒A君の指導を任された。

そのA君の実家は大阪にあったが、中学時代に不良グループと問題行動を多く起こして、高校にも入れなかった。

その父親は年齢が高く単身赴任で東京に来ていた。

母親は不良グループから引き離す意味も込めて、単身赴任をしている夫を頼って子供と一緒に上京してきていた。

私が家庭教師として選ばれたのはおそらく見た目ががっしりしていたし、剣道も少しかじっていたことも有ると思う。

A君は確かに見た目はいわゆるヤンキーぽかったが、話をすると非常に明るくて素直な感じだった。


ところがある日、家を訪れるとふすまがズタズタに破けている。

どうしたのかと尋ねたら、どうも父親と一戦やって暴れた後らしい。

本人は父親に暴力を振るうつもりは無かったが、もみあいになって引き倒して馬乗りになってしまったという。

そしたら、父親が驚いて息を詰まらせてしまったという。

A君はそんな父親を観て却って動揺したようだが、母親から「死んだらどうする」と酷く叱られたのが不満でもあったようだ。

手を先に出してきたのは父親のほうだったからだ。

おそらく父親は自分の力を過信していたのと、まさか抵抗するとは思っていなかったのだろう。

父親は妻子のために働いて尽くしてきたつもりでも、家庭より企業を優先してきたことは確かであった。


実は私は父親には何度も殴られたことがあったが、元船乗りで職工をしていた父に一度もやり返そうとは思わなかった。

私は幼い頃から父親とは色んな場面での関わりが非常に深かったこともその理由だと思う。

ところが弟は父親と取っ組み合いの互角の喧嘩をしたことがある。

父も年齢のせいで弟を圧倒できる体力と気迫が欠けていたのだと思うが、弟とは私に比べて父親との関わりが少なかった。

それは子供が増えるし、生長するのでて仕事優先の生活になっていたからだ。

A君の父親は息子に手を出せるくらいの親密な信頼関係ができていなかったのだと思う。

私はA君とは高校入試前まで付き合って、勉強以外にも一緒に釣りをしたり、受験勉強合宿として父親の会社の伊豆の温泉保養施設で過ごしたりした。

A君は私には反抗的な態度をとることもなく、色々と話をしてくれたが、大人に対する反抗心は持ち続けていた。

それでも大阪に戻って私立高校を受けて合格したと手紙をもらって安心した。


こういう未成年の子供が親に行うDVは、子供が大人になるにつれて行われなくなるだろうが、男女間のDVは大人になってから生じるようだ。

教師をしていると卒業生が恋人からDVで苦しんでいる話も聞くこともあったが、こればっかりは救いようがなかった。

恋人関係は関わり方が一面的で、互いにわかり合うには時間が少なすぎるからだと思う。

そして、一番聞くに堪えないDVは子供が老いた父親に対するものである。

最近聞いた話として、離れて暮らしている50歳代の一人息子が80歳をこえる一人暮らしの父親に対して行っているDVだった。

息子はたまに実家に帰ってくるのだが、父親をこき使って、腹が立つと顔などを殴っているという。

その父親は現在入院しているのだが、退院後には自宅では一人で暮らすのは無理なので施設などに入ることを検討しているが、その息子が反対しているという。

息子にとって父親はDVをして鬱憤晴らしをする相手であるようだ。

そういう状態を近くに居る親戚が知っていても、なかなか対処できないのが現実だ。

その息子は高学歴で非常勤ながら大学の講師を勤めている。

一人っ子として甘やかされて育ったのかもしれないが、本当に大切なことを学んできていない人格破綻者としか言い様がない。

ただ、彼自身も人格を形成する上で、大切な家庭や地域、学校との関わりに問題を抱えさせられていたのかもしれない。


私が家庭教師をしたA君の場合は父親が当時単身赴任だったが、それ以前も船舶関係の仕事をしていたので留守がちであったという。

A君とのしっかりとした親子関係が築かれなかった可能性が高い。

高齢の父親にDVを行う息子は大学に入ってからは家で両親と関わる機会が少なかったようだ。

どちらかというと母親からは溺愛されていたようにも思えたが、その母親が昨年亡くなったのも原因となっているのかもしれない。

母親が亡くなったことの責任を父親に負わせていることも考えられる。

親の介護に関しては、遠くに離れて暮らしてきた子供にとっては、他人とかわらない感覚ではないかと思えたりする。

大人になってからも血縁関係の希薄さはDVや介護放棄に結びつく可能性を感じる。

それは特に地方にとって仕事優先しなくては生活が困難な状況が根本原因である。


最近は父親だけで無く、母親も勤めに出て子供と接する機会が乏しくなっている。

学童に勤めている家内から学童に預けられっぱなしの子供の話をよく聞かされる。

一般的にDVが原因で学童にきている児童もいるようだが、暴力をふるわなかっても、育児から逃げている親はDVに準ずるように思える。

いじめにも暴力行為と無視行為あるように、育児逃避は無視行為に近いと思われる。

親子関係だけで無く祖父母や親戚との関係が希薄に育った人は、自分の父母や祖父母の年齢の人に対しての詐欺行為に罪意識は感じないかもしれない。

日本人はみんながそろって貧しくなってきていると言われている。

家で農林水産業や商業を行っていた時代は貧しくても、親子や祖父母、親戚と助け合いながら生きていけた。

今は、学童やゲームに任せて働かなければならない時代になってしまっている。

「親はなくとも子は育つ」のは血縁地縁がしっかりした時代ならばこそである。

失った地縁血縁に代わるのが学童やクラブになっているのなら、その充実を国が責任をもって政策として果たすべきだと思う。


2026年8月21日金曜日

大成成就に欠かせない真の図太さ

朝(8/8)にスマホでNHKAMラジオの「マイあさ」を聴きながら犬の散歩をしていると、 “図太さ”を手に/伊達公子(テニスプレーヤー) の話が耳に入った。

そう言えば自分が大学院の修士時代に何が欠けていたかと言って、図太さであったと思い知らされた。

スポーツマンにしろ研究者にしろ「真の図太さ」がなければ一流には慣れないのだろうと思う。

私は大学院のひとりの教官から「君は修士だけのつもりでとったのだ」と言われても、「見返してやる」と修士論文に必死で取り組む図太さはあるにはあった。

しかし、教官の見立ては当たっていたのだろう、大した論文に仕上げることはできなかったのでやむなく去らざるを得なかった。

本当に研究を続けたかったなのなら、もう一年の残れたし、指導教官や先輩からそう勧められたのだから、図太く残って良い論文に仕上げ直せば良かったのだ。

要するに底の浅い図太さでは逆境になった時に、逃げたり潰れてしまうのだろう。

真の奥の深い図太さであったなら、最後まで挑み続けて、場合によっては見返すこともできた。


伊達さんはセルビアのジョコビッチ選手が戦時下でも干上がったプールで練習していたことを例に挙げていた。

ただ、ジョコビッチ選手は幼い頃から世界レベルのテニス選手から天才と褒められていたそうなので、真の実力と自信がその図太さを支えていたのだろう。

小学校の時には「神童」と言われたこともあったが、中学校で私立の淳心学院に入ると、本当の天才が同級生や先輩にいて自信を失っていった。

本当の天才の先輩は大した努力などせずに、遊びながら簡単に東大に合格していた。

なら、努力することをするべきだったのだが、私は好きなことを徹底的できるが、好きでもないことを我慢して行う能力に欠けていた。

せっかく文化人類学という好きな学問に出会えて徹底的に研究しようとしていたのだから、図太く続けていくべきだった。

結局、能力があるかどうかも大きいが、やりたいことに拘り続ける図太さが重要なのだと思う。


本来は努力をし続ける根気強さが一番大切なのだとは思う。

ただ、そういう真面目で根気強い人は自分の身体の健康を顧みずに努力し続けるので、命に関わる病気や難病を持っている人も多い。

それほど好きでもない仕事などをやらざるをえないとストレスが貯まって、自分を自分で壊してしまうことになる。

私が教師をしていて大病を患ったのも、その追い込まれた仕事によるストレスからであった。

今は、その持病とも付き合いながら、図太く生きようと心がけているが、もう一流にはなれそうにない。

本当は大学院の時に図太く研究を続けていればと悔やみだけが残り続けている・・・・・



2026年8月20日木曜日

「食の戦争」のゲリラ戦農法には充電式農具

一般には家庭菜園と言われる農作業や自然農法は大型農業機械を用いることはない。

アメリカ型の大規模粗放農業ではトラクター、コンバイン、農薬散布用のリモコンヘリやドローンの以外にも、穀物の乾燥、脱穀、貯蔵など機械や施設が必要だ。

それを用いない農法は、いわばアメリカとの「食の戦争」*1でのゲリラ戦の農業で、金銭的にも時間的にもあまり負担せずに参加できるゲリラ戦農法と言うべきかもしれない。

本来なら従来の手作業の農具を使うべきだろうが、トレーニングの一環としてできる若いうちはともかく、歳を重ねるとそれはかなり難しくなる。

 私はもう3ヶ月以上前に右の肘から手首までにある腕橈骨筋を痛めてずっとその痛みから逃れられないでいる。

原因は米糠と粉砕した竹を使った肥料を箱プラで作っている時に、無理な力でこね続けて炎症を起こしたからである。

この筋肉は農作業をする時などや、重い物を持ち運んだりする時によく使うので、だんだんと酷くなって医者に診てもらって痛み止め注射などを打ってもらった。

痛み止めの薬を飲んだり、痛み止めの塗り薬や貼り薬を施しても、痛みは消えること無く現在も続いている。

このところ夏草対策で草を削るホーをよく使う関係で、腕だけでなく、腰まで痛み始めた。

そこで身体力の限界を感じて、充電式の小型耕運機(カルチベータ)をネット通販で買うことにした。


しっかりと耕すための管理機は持っているのだが、ちょっとした畝の草を削り取るには大きくて小回りがきかず不便であった。

その管理機はガソリンエンジンで動くものであったが、自然農法的な栽培を始めてから殆ど使わなくなっていた。

最近収穫以外で農作業で使っていたのはスコップや備中鍬、ホー、ノコギリ鎌が中心で補助的に充電式草刈り機を使っていた。

一番身体的に負担があるのは実はホーで、この時期のヒメシバは根の張りが非常に強くて広く伸びている。

地面に張り付いていて、作物の根元にあるヒメシバは充電式草刈り機では刈りづらかった。

そこで小回りのきく小型充電耕運機を使うことにしたのだ。

この小型充電耕運機はネットで購入して組み立てたのだが、部品のネジが足らなくて連絡したが、盆休みも重なってなかなか送ってこない。

しかたないので自分で100円ショップで合いそうなネジを買ってつけたら、問題なく使うことができた。


私は充電式の農機具として草刈り機を持っていたが、マキタの充電池は高額だが優れているので今はマキタの充電池が使える器具を主に買っている。

今回の小型充電耕運機もマキタの充電池に対応していたので買ったのだが、18V、6.0Aの充電池で非常に強力で持続ある作業をしてくれた。

農作業だけで無く、家の周りや畦の草木を刈るのには、充電式のチェーンソー、ノコギリ、バリカンなどを用いてきた。

太さが4cm程の枝などを切るには剪定バサミのほうが効率が良いのだが、今までは手作業で行っていた。

これも今回からマキタ充電池対応の充電剪定バサミをやはり通販で購入した。

充電式のバリカンと剪定バサミを使えば、作業効率も上がって、身体的な負担も少なくて難なく作業をこなすことができた。


まだ、充電式よりエンジン式でないと難しい作業があるので、エンジン式の機械も持っている。

荒れ地や村作業ではエンジン式の背負い式草刈り機でないと、充電式では時間が持たない。

ただ、最近は40Vの充電式草刈り機もマキタから出たので、今後はそれを購入して使う手もある。

同じく広い面積の草刈りにはエンジン式の小型自走草刈り機を用いている。

これを用いたら時間的に3分の一以下になるし、身体的に楽である。

そしてどうしても欠かせないのがエンジン式の水ポンプである。

充電式の物も出ているが、やはり性能的にはかなり劣ってしまう。

電動式のポンプも持っているが、リール式電気コードの負担が大きくて畑では使えない。

エンジン式の農業機械もいずれ優れた充電式にかわっていくと思う。


今後の見通しとして太陽光発電を利用して家庭用のポータブルの蓄電池を購入すれば自前の電力を活用することができる。

肥料としては無料で手に入る米糠以外に、刈草、落ち葉を用いた堆肥も作っていくつもりである。

落ち葉の回収はこれからは充電ブロワーを用いれば楽になるだろう。

米糠と粉砕した草竹木を混ぜ合わせるのには充電耕運機が最適だ。

私の父は農具に金をかけると採算が合わないと行って、機械などは全く買わなかった。

確かにこれだけ農機具に投資するくらいなら農産物はよほど買った方が安くつく。

しかし、私は農作業を金儲けとしてしているつもりはない。

自分や家族の健康を守るためでもあるが、「食の戦争」のゲリラ百姓として闘っているつもりだ。

金の事だけ考えるなら、アルバイトをした方がよほど楽である。

それでは、せっかく完全退職したのに、結局金銭で使われ続けることになる。

農作業は唯一金銭で使われずに、暮らしに役立つ食料を得ることができる仕事である。


*1 『食の戦争―米国の罠に落ちる日本』  鈴木宣弘 2013 文藝春秋









2026年8月18日火曜日

水田は「食の戦争」の生命線

 このところ米離れが進んだりして、在庫の米がだぶつき始めて、新米が出始める前に値を下げて売り出し始めた。

JAも農家からの買い取り価格を提示しなかったり、去年よりも安くしてしまったので、大規模農家でも採算割れを起こして廃業を考えたりしている。

現在、私は近所の農家から玄米を30kg12000円で分けてもらっている。

先日量販店でコシヒカリが税込み5kg2500円で販売されており、30kgに換算すると15000円となり差があまりないので驚いた。

もし、白米が2000円以下になると、糠分を考えれば買っている玄米より安くなってしまうのだ。

近所の農家はJAの買い取り価格を参考にして価格を決めているので、もし、買い取り価格が下がれば安くしてくれるだろう。

しかし、このところ肥料や燃料費のの値上がりなどでコストが上がっているので、赤字になってしまう可能性がある。

農業機械の維持費を考えれば、廃業を考えなくてはならなくなってしまうかもしれない。


私は昨年度の米騒動の時には米依存からの脱皮を唱えた。

それは農家とJA、政府の癒着による米価格の消費者への負担増からである。

しかし、農家はJAや政府から突き放されてしまったら、個人経営では立ち行かなくなってしまう。

そもそも、大規模機械化農家以外は、農村の住民の農道管理、水管理に依存している。

水田は農村地帯のダムであり、環境保存と災害対策にとって重要な役割も果たしている。

水田が荒廃して、荒れ地になったり、太陽光発電所になったら、その役割を果たせなくなってしまう。

規模の拡大でアメリカ並みに米価を下げることなど不可能だ。

アメリカの食糧戦略は環境破壊の上で成り立っているのであり、アメリカとの「食の戦争」*1には「ゲリラ戦」で持ちこたえるしかない。

そもそも、そのアメリカも地下水の使い過ぎで枯渇が心配されているし、このところ干ばつでダムや川の水量が減り、取水制限が計画されている地域もある。

アメリカの粗放農業が崩壊するまで、農村の「ゲリラ部隊」を維持して何とか水田を維持し続ける方が食糧戦略的に有利だと思う。

この「ゲリラ戦」を戦い抜くために、農家を支援して水田を国民全体で維持できる政策が必要不可欠だろう。


問題はアメリカが米に対して国からの補助金を禁止しているのだが、米そのものに補助金を出さずに、水田の維持管理や裏作の麦等に補助金を出せば良いと思う。

江戸時代は米は年貢や祭事用として農家はそれほど普段は食べておらず、麦などの雑穀やら芋を中心とした食事だった。

つまり、農家の暮らしは米では無く、裏作や畑地からの得られる農産物によって支えられていた。

米で採算が採れないとなれば、裏作の作物でそれを補えるような補助金を政府が支給すれば良いと思う。

米用の農業機械は麦や雑穀に転用がしづらいそうなので、農業機械の購入に補助を与えるのも重要だろう。

また、高騰する輸入肥料や燃料対策としての、国内で賄えられるように本格的な事業も行っていく必要があるだろう。

今は山は林業だけになってしまっているが、かつては燃料だけで無く肥料や飼料を得る場所であったし、焼き畑で食糧をえる重要な場所だった。

山をもう一度肥料や飼料を得る場所として見直すゲリラ戦法をすべきだろう。


もう既に、食糧危機が始まっている。

日本では水田を守らなければ国民の命を守れない。

水田で作られる米は、品種改良で温暖化にも対応できる優れものである。

水田のダムのお陰で気温の上昇もいくぶん抑えられる。

そして、アメリカとの「食の戦争」で全滅しないためには、水田を死守せねばならないと思う。

私は米依存脱皮から、水田活用のための米活用に転じたいと思う。


*1 『食の戦争―米国の罠に落ちる日本』  鈴木宣弘 2013 文藝春秋




2026年8月17日月曜日

現代は中世にも勝る近代戦乱時代

少し日は経つがニチレイがサイバー攻撃を受けて全国の食品サプライチェーンが混乱に陥った。

サイバー攻撃の目的は業務妨害と恐喝だが、今回犯行声明を出したのはロシア系のハッカー集団だった。

海外のハッカー集団からの攻撃で日本の企業は多くの被害を出していてこの5年間でその損失は115億円という。 

一方、企業だけでなく民間人に対しての特殊詐欺が横行しており、警察を装った特殊詐欺も横行しており、被害額も億を超えるものまでになっている。

この特殊詐欺の被害額は桁外れで、2026年の上半期で約1816億円を超えるというから驚きである。


国家間の破壊殺傷戦争は兵器によって相手を屈服させて賠償金を得たり、植民地を得たりして勝利した国家が敗北した国家を支配することが目的だった。

プーチンやトランプの戦争も旧来の破壊殺傷戦争を行って泥沼に陥っているのだ。

しかし、最先端の世界戦争は旧来の破壊殺傷兵器による戦争に留まらない。

そもそも金融や為替を使って国家の財政を破綻させたり、弱体化させてしまう時代なのだ。

金融や為替を使っての国家間の支配や駆け引きがずっと続いている。

また、日本人は大企業や国家間の金融やサイバーによる世界戦争しかて意識していない。

しかし、特殊詐欺もネットをうまく利用した組織的な略奪戦争で、中世の倭寇のように日本に留まらず国際的でもある。

違うのは、武器を用いて殺傷したり拉致しないということだけれど、それよりも巧妙に個人の暮らしの中に侵入して金銭などを略奪することだ。

また、匿流などは詐欺行為以外にも強盗殺人にまで攻撃が及んでいる。

これだけ被害が広がっているのに、警察は詐欺にむしろ利用されているのだから内乱状態に陥っていると言われても仕方ない。

我々は決して平和な時代に生きていると勘違いしてはいけないのだ。

こういう時代の背景は行きすぎた資本主義による極端な格差社会が、内乱の原因だということも知っておかねばならないと思う。


八月は日本では破壊殺傷戦争に関する平和教育キャンペーンがマスコミなどを中心に行われる。

NHKラジオでは識者が戦争被害だけで無く加害のこともしっかりと伝えるべきだと述べていたが、全くその通りだと思う。

この平和教育も負けて被害を受けた戦争は否定しているが、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争のように勝利した側の立場に立てるものは否定していない。

そして、何より破壊殺傷戦争は確かに今の日本では行われていないが、破壊殺傷を伴わない世界戦争には巻き込まれているし、殺傷を伴う特殊詐欺や匿流の内乱状態だと認識すべきだ。

破壊殺傷を伴うアジア太平洋戦争中でも、対外的に侵略攻撃をしている時は国内では平穏で、侵略攻撃され始めて国内は悲惨な状態になった。

現在はハッカー攻撃などされている様子が破壊殺傷戦争のように映像化されないし、匿流に殺傷されるのがどちらかというと富裕層なので身近に感じづらい。

破壊殺傷戦争を経験して戦争反対を唱えている高齢者も特殊詐欺のターゲットにもなっていることは確かだろう。


しかし、一番深刻な戦争は人や国家、企業などへの攻撃では無く、自然への攻撃である。

地球環境は破壊されて気候が破綻して、結果的に酷暑という反撃に遭って多数の死者をこの夏に生じた。

かつて、日本の中世の戦国時代も戦乱などで自然が破壊されて、それを江戸時代になって回復させた歴史をもつ。

今我々の生きる近代戦乱時代はかつて殺戮も酷かったが、現代でも地球規模の自然破壊で生物全体で生存の危機が迫っている。

日本人は平和ぼけなのではなくて、現状認識不足だけなのだと思う。

こんな危機的な状態でも、破壊殺傷戦争ができる国家に戻そうとしているのだから、救いようがないだろう。











2026年8月16日日曜日

若き戦死者の親の悲しみ

 先日夜に、テレビを何気なく見ていたら戦死した特攻隊員の妹さんのことが特集されていた。

強く訴えたかったのは戦死した哀しみだけで無く、その攻撃で戦死したアメリカ軍兵士に対する侘びる気持ちであった。

戦争は死を覚悟した殺し合いと言ってしまえばおしまいなのだが、兵士の家族の哀しみは割り切れるものではない。

今回の番組で特に心に残ったのは、母親が息子を少年兵として送り出した後悔であった。

お兄さんが少年兵として予科練に入隊するのに父親は強く反対したが母親は賛成してくれたので入ることができた。

ところが、特攻隊員となって戦死してしまった後は、母親は食事がまともにとれないくらい心が傷ついてしまい、翌年亡くなってしまったということだった。

自分の息子が強く熱望したことに後押ししたことが、結果的に死に追いやってしまったことの母親として耐えがたい苦しみだったのだと思う。


それを思うと海軍に志願して若くして戦死した伯父のことが気にかかった。

それで、伯父の軍人墓に刻まれている墓碑銘を墓参りした時にスマホで写して文章を読んでみた。

「昭和十八年十八才ニテ海軍機関兵に志願ス 同年四月二十二日 大竹海兵團に入團 同年十月 山彦丸ニ乗船太平洋戦争ニ参加 昭和十九年一月十二日 本州南方方面ニ於テ戦死」

とあった。

大竹海兵団とは広島県大竹市にあったは主に新兵に基礎教育をする機関で、大竹海兵団に入団したのは、延べ約15万4千人といわれている。*1

そして山彦丸は太平洋戦争時に日本海軍の特設工作艦となりました。南方へ伸びて多くの損傷艦船の応急修理にあたりましたが、1944年1月に米潜水艦の攻撃により八丈島沖で沈没しました(AI Overview)

山彦丸は昭和十九年一月二日に小笠原付近で機関室に被雷し、航行不能で八丈島まで曳航されたが、一月十三日に後半部が沈没し十四日に完全に沈没している*2。

伯父の戦死は十二日となっているので、最初の魚雷攻撃で亡くなったことになる。

その時伯父の母親は36歳、父親は43歳だった。


伯父が海軍に志願した理由については「家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父」で私にとって祖父である父親への反発であることは書いた。

伯父が戦死した当時は私の父は十三歳だったので、どれだけ伯父と深い話ができていたか分からない。

私は当時の戦意高揚の風潮から伯父の海軍への憧れもあったように思う。

十六才から父親と稼業であった運搬船に乗って仕事をしていたが、当時の船は機帆船で小さなもので石材を運んでいた。

父親との厳しくて地味な仕事よりも名誉と誇りが持てる海軍に入隊したかったようにも思える。

伯父が任務についた山彦丸は総トン数が6、800t程の損傷艦船の修理を担っていたが、艦砲や機関銃も装備されていた。

父親と一緒に100tにも満たない機帆船で働くのとは雲泥の差の勤務で、使命感と誇りを感じていただろうと思う。


戦死した伯父のことは盆や正月に親戚が集まっても語られることは無かったので、どんな思いで任務に当たっていたかを知ることはできなかった。

私も祖父母には伯父のことをあえて聞くことは無かった。

ただ、伯父が戦死した当時はまだ六才だった五男の叔父が、長男である戦死した伯父を非常に慕っていたことは叔父本人から聞いていた。

そして、その五男の叔父は自分の長男に戦死した伯父と同じ名前をつけた。

同じ名前をもらったいとこも叔父からそのことは聞かされていたと聞いていた。

だから戦死した伯父は甥っ子の名前として甦って、記憶され続けていることになる。

その点で言えば戦死した母方の祖父の名前を継いだ者はいなくて、孫の殆どは記憶していなかったと思う。


実は伯父が戦死してその石原家で初めて生まれ育った男子は私だった。

今考えれば祖母が私のことを非常に可愛がってくれたのがよく分かる。

祖母の口からは聞いたことは無かったが、戦死した息子を重ねてみていたのだろうと思う。

確かに同じ名前の孫もいたが、一番祖母と関わりが多かったのは私だった。

祖母は私が大学や大学院で金銭面で苦労していることを知っていて、ことあるごとに1万円を母に託してくれた。

そして、私の結婚式にも無理して出席してくれた。

祖母の葬式にはなんの恩返しもできなかったと、三十才過ぎの私は人目もはばからず泣いてしまった。


祖母はあまり感情を孫の前では表さなかったが、子供の戦死や事故死、病死などで3人も失っていた。

祖父は昔ながらの頑固一徹だったので祖母は苦労したこともあり、やはり母方の祖母と同じように信仰に救いを求めていた。

精神的に不安定な時期もあったようだが、晩年は多くの子や孫に囲まれて平穏な日々を過ごすことができた。

テレビで特集された特攻隊員の母親のように戦死の原因を負わなかったことも救いだったのだろうと思う。

一方で、祖父は子供から戦死の原因とされて辛かっただろうと思うが、最期まで泣き言や恨み言を言う人では無かった。

ただ、盆や正月で自分の子や孫と一緒に飲食をして楽しむことが無かったのも、伯父の戦死も原因の一つだったのかもしれない。

ただ、私には普通のおじいさんで、盆正月以外は飲食も一緒にして普通に話をしていた。




*1 大竹海兵団と海軍潜水学校の歩みhttps://www.city.otake.hiroshima.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shogai/rekishibunkazai/1453512491368.html

*2 山彦丸の船歴  https://tokusetsukansen.jpn.org/J/03_TKS/330_002.htm