私たち夫婦には子どもはいるが孫がいない。
子どもにはそれなりの事情があるので、孫が欲しいとは言えるものではない。
先日も弟に今度4人目の孫が誕生するとライン連絡があったが、それは幸せなことだと返事した。
羨ましいというよりも、自分の生き方そのものが問われるような気がした。
考えてみれば母方の祖父は、まだ小学生だった娘ふたりを残して戦死した。
しかし、孫が6人もその後生まれて、ひ孫も9人、玄孫はこんど4人目となる。
祖父はその子孫とは一度も会えなかったわけだが、しっかりと自分の遺伝子を残すこととなった。
私は、このままでは自分の遺伝子を絶えさせてしまうことになるが、それと同じくらい哀しいのは祖父として記憶してくれる者が誰もいないということだ。
子どものできなかった人もいっぱいいるわけだし、戦争や事故、災害で子孫を失ってしまった人がいるので、そんなに悲観するべきでは無いのだが。
学歴を積んだり、経済的に不安なく暮らせても、子孫を残すという生物学的な競争では敗者というべきなのかもしれない。
ただ、日本では今の時代は子どもの数がどんどん減っているのだから、そういう人は珍しくも無いだろう。
逆に言えば自分が生き残るだけで精一杯で、子孫を残す余力が無いと言うことかもしれない。
かつては家業を守るために子どもを産むことや、養子をもらってまで子育てを行った。
逆に家業の無かたったり、子どもを養いきれない貧しい人は、子どもをお金に換えることも行ってきた。
現代の日本人の多くは残せる家業を持っていないだろうし、子どもにかかる教育費の見返りなどは期待することはできない。
戦死した祖父は家業が継ぐほどでも無かったので、職業軍人となった。
いったん退役後は祖母と米屋を開いたりしたが辞めて、賃金労働者になったが応召されてしまった。
戦死した後は、祖母は遺族年金と会社勤めで貧しい生活ながらも娘ふたりを育てあげることができた。
現代では離婚しても親が単身で子どもを育て上げることは珍しくなくなっているが、Youtubeなどでは食事もまともにできないと訴えられてもいる。
亡くなった母も子どもの頃の貧しかった生活のことをよく話していたが、姉妹だけでパンを焼いて売った経験も話していた。
貧しい者でもたくましく生きていける場そのものが、現代日本社会には無いのかもしれない。
ただ、皇族を筆頭として、後継者の問題は単に貧富の差の問題では無い。
以前読んだ狩猟採集民の生活に関する本の中で、自分の妻が不貞で産んだ子どもを怒りながらもしっかりと育て上げる話が載っていた。
その子どもは同じバンドの仲間となって、これから自分や仲間を助けてくれることにもなるからだ。
今の日本では血が繋がっている子どもでも、親の助けになることは期待できない。
ましてや親戚や地域の人の助けになることなど求められてもいず、学校では自己実現をしなさいと教えられてきた。
血が繋がって無くても子どもを育てることに価値がある社会と、血が繋がっていても自分や子育てに関わる人にとっては価値を失う社会の違いだろう。
血縁や地縁で助け合えない社会は自分が生き残るのが精一杯で、子孫を残していくことなど考えられなくなった社会なのかもしれない。