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2012年5月31日木曜日

親父の残してくれたニンニク

今、私が作っている作物の中で、唯一自家製の種(鱗片)を用いているのがニンニクである。
これは父親から受け継いだもので、市販されているニンニクよりも数倍臭いがきつい。
というのも、学校の調理実習で持って行ったら、うちのニンニクを使うと、手に付いた臭いが三日落ちないと、苦情を若い人から言われたことがある。
それはちょっと大袈裟だと思うが、市販のニンニクは臭いが少なく、大玉になっている。
特に中国産などはその傾向が強く、値段も安い。
だから、自分や家内の実家を除いて、他の人にあげることは殆ど無い。

そもそも父親がニンニクを作り始めたのは、自分たち兄弟の健康のためだった。
始めはクコの葉や実を採ってきたり、栽培した。臭いのきつい豆乳も飲まされたりした。
自分は今でこそ身体は強い方だが、小さい頃は気管支炎を起こして直ぐに熱を出した。
弟たちも胃腸が弱かったりした。そこで、親は色々と健康に良いものを探して、ニンニクを作り始めたようだ。最初は小さいものしかできず、大した物がとれなかったという。
ところが、私の憶えている限り、父親の作るニンニクは、非常に大きい。
父親は薩摩芋を作ることと、ニンニクを作ることが得意であった。

私もニンニクを作ろうと、借りている畑で作ってみたが、小さい物しかできない。
ところが、父親が調子を崩してから、赤穂の唐船の近くにある実家の畑で自分が作り出したが、父親と同じ様な大きいニンニクができる。
父親は極端に畑に金を掛けるのを嫌がって、あまり買った肥料を使わず、古くは下肥を、近年では薩摩芋の蔓を埋め込んだりしていた。
私は買ってきた菜種油滓、鶏糞、有機石灰を基本として、堆肥を畑の枇杷の木の根元で作って与えており、父親とはやり方が違う。ということは、肥料の差で大きさが違うということではない。

今年は実家の畑だけでなく、上郡の家の裏で借りた水田転用の畑でも植えた。
それは、あまりにも里芋がセスジスズメにやられたからである。
ニンニクは唐辛子や酢と混ぜて、害虫の忌避剤にもしていたし、赤穂の畑は比較的虫の被害が少ないのはニンニクのお陰ではないかと思ったからである。
ところが、赤穂の畑は分けつした芽も取らずに放っておき、一方で上郡の畑では脇芽も取ったり、肥料も多めにやったのにも関わらず、断然赤穂の方が大きいニンニクができた。
赤穂が砂地、上郡が粘土質という土質の違いもあるし、赤穂は海のそばでマグネシウムなどの成分が良いのかも知れない。
確かに、赤穂では隣の畑もニンニクを作っていて、品種も違うこともあって大きいのができている。
ただ、その市販で買った種を用いたニンニクは病気に弱いらしく、自分の家の畑は良いできであった年に、隣では枯らしてしまっていた。

家内の実家はあげた種で作っているが、うまくいったと言うことを聞いたことがない。やはり、父親が残したニンニクは、長年種として残してきたことと、畑がニンニクにあった土壌になったことが幸いしているのだろうと思う。
上郡の畑は、水田の転用地なのでどうしても水はけが悪く、あまりニンニクには合っていないかもしれないが、何年も作り続ける内に、土壌も変化して、ニンニクに適してくるかも知れない。残念ながら借地なのでいつまで続けられるか分からないが・・・
癌の予防に良いと言って母親も、作ってあげると喜んでくれる。
私が食べ過ぎてニンニク臭いと家内は嫌がるのだが、調子が悪い時や、疲労が溜まったり、頑張る必要があるときにはニンニクに頼っている。
親父の残してくれたニンニクは自分にとって宝物である。
そのうち見なおされて、出荷したら売れるようになるかも知れない。
その日が来るまで、赤穂の畑とニンニクの種は守り通さなくてはいけない。
それがちょっとした、親父への供養だと思っている。ちょっと臭い浪花節になってしまった・・・。

ペーロン花火

行くつもりの無かったペーロンの花火大会に行くことになった。理由は留守番である。
家内の実家が相生にあるが、用事があって家を空けなければならない。
花火の日は留守が多いので空き巣にやられるという。家の前に車があって電気が点いていれば大丈夫だろうと言うことで、とりあえず行って花火を見ることにした。

家内の実家から港までは少し距離があるが、打ち上げる音を聞いてから歩いていって充分間に合う。渋滞する車をよそに、家族と花火を見ながら港まで行く。
子供の小さかった頃は、歩道には歩いて港に向かう人がいっぱいいたのに、若い人夫婦の連れが少しいただけ、釣具屋の前の歩道橋あたりで、やっと見物客に出会った。
それでも、本町商店街の前の交差点では、通行止めにした道を右折させるために、警察官や警備が沢山立っており、そこからは大勢の見物客がひしめいていた。

本町商店街の方に目を転じると、シャッターが下ろされて閑散としている。いくら花火がみられないとはいえ、以前はこの通りにも人が溢れていた。
出店の数も少なくなっていて、やっと播磨病院あたりになって昔の賑わいを感じた。そこからは、いつも見物する市役所の前まで行くのが大変で、たどり着いても多くの人がロータリーの道路に座って見物している。
高い駐車場ができた関係で、見通しは良くないのだが、市役所の植え込みの段に腰を掛けて、見物することにした。腹に応える懐かしい「ドン」という音。
音に驚いて泣いている赤ん坊。街は寂れていくが、花火は昔よりも数倍賑やかに夜空を彩っていた。
ただ、賑やかだけではなく、スイカを象ったものやら、顔らしきものやら工夫がなされていた。怖がる子供をよそに、花火は老若男女楽しめる。
特に若い男女や子連れの家族にとっては、想い出作りの良い機会である。私らのような熟年夫婦にとっても、昔のことを話題にしながら楽しめる良い機会である。

帰りの渋滞が心配なので、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。これは以前からそうなのだが、何度も何度も花火を振り返りつつ、時に名残惜しんで立ち止まったりして、また、人通りの無くなった家内の実家に戻った。

花火は見ているときは楽しいのだが、終わってしまうと、いつもうら哀しい気持に襲われる。来年まで見ることができないというだけではなくて、儚さの最たるものだから、行く時の流れを投影してしまうのだろう。
幼い時に見た自分、学生の頃の自分、幼い子供と見た自分、そして今の自分。花火の姿はどんどん変わり、それを見る人の様相も変わり、そして、何より街が変わった。
それでも、花火を見てその幻想的な時間を過ごしたいという気持は変わらない。
毎日巨額の費用を掛けて楽しませてくれるディズニーランドとは違って、一年に一度だけの精一杯の時間を超えた「夢と奇蹟の世界」は掛け替えのないものに感じる。
震災の影響で中止された去年の分まで、楽しませてくれた花火を、誰もが讃えた。
子ども達は絵に残していくだろうし、実際に絵に描かない多くの人でも、カメラやビデオ以上に美しい花火を心に描くことができたと思う。

2012年5月30日水曜日

久々の東京(修学旅行)

この5月27日(日)から29日(火)まで修学旅行で生徒を引率をして東京まで行ってきた。
東京は2007年に行って以来であるが、今回のように上野・浅草やディズニーランドへは1997年に家族で行って以来である。横浜の中華街や山下公園はもっと古い。
私の通った大学院は東京にあったので、東京都の中野区中野(1985年)、新宿区西落合(1986年)、横浜市の長津田(1987年)に住んだことがある。
特に私は院生と言っても、半分は主に家庭教師などののアルバイトで明け暮れていたので、方々に行く機会が多かった。
しかも、毎年引っ越しをしてその界隈のことは詳しい。2007年は自分が教えていた学年が修学旅行でその期間の授業が無くなったので、年休をとって住んでいた界隈を訪問した。
住んでいた地域はどちらかというと、開発から取り残された地域であまり変貌は無かったが、今回行った上野・浅草はスカイツリーの影響という面で、ディズニーランド、横浜の山下公園付近はは湾岸開発という面で大きく様変わりしていた。

以前は東京で高くて目立つ存在は新宿副都心の高層ビルという風に思っていたが、スカイツリーの存在はそれを変えてしまった。
浅草は特に近くにあって、浅草寺の境内でもそれをバックに記念写真を撮ったりした。
日曜ということもあったが、仲見世通りは人通りで溢れかえり、ここでこれだけ人手が多い経験は、東京在住していたときに行った三社祭以来である。
バスガイドさんも観光の人の流れが変わってしまったので、現在分析中だという。どちらかというと一歩裏に入るといかがわしい感じのした浅草が、国際的な観光地に変わりつつあった。
少し立ち寄ったお台場のフジテレビ付近は、ウォーターフロントと呼ばれる以前しか知らなかったので、まさしく初めての経験である。
私はそこから少し離れるが、家庭教師をした生徒が大田区にいた関係で、その生徒と海岸に魚釣りに行ったことが何度かあって、喧噪な都心から離れた隠れた憩いの場所という感じだった。
また、奄美に調査に行くときは晴海埠頭からフェリーに乗ったので、その近辺はバスで何度か通っていたが、そこは殺風景なゴミの島というイメージしかなかった。
この臨海副都心こそ今の東京を代表しているのだという感じがした。新宿副都心しか知らなかった私はまさしく過去の人であった。

ディスニーランドはたまたま近隣の学校が日曜に運動会が開かれて、その代休ということで、月曜であるにも関わらず超満員状態であった。
「夢と魔法の国」はまさしく現実から別世界に案内してくれたのだが、自分の子どもを喜ばせようと来たときと違って、作られたアニメーションの世界は手が込んで、すばらしい演出にも関わらず、何時間も並んで味わうに値するものとは思えない。
確かに夜のパレードなどは華やかで、その雰囲気に我を忘れるほどであるし、日中もあちらこちらで生演奏をして楽しませてくれている。
でも、出発前夜に見た相生のペーロン前夜祭の花火大会の方が、同じ一瞬の別世界体験でありながら、時間を超えた記憶と感情を呼び起こしてくれた。
自分には小さいときにディズニーランドで楽しんだ経験がないからか知れない。
ただ、小さいの時にテレビで見たウォールト・ディズニーの世界の方が、雄大な自然とのふれ合いや、アニメの愉快さが有ったように思う。
その番組は楽しみで欠かさず見ていた。それに対して、最新技術の3Dやロボット仕掛けの人形での演出が手が込めば手が込むほど、却ってその作為的な部分だけが目に付くようになり、孫のができれば連れてきたいとは思うが、自分が楽しむために来たいとは思わない。
歳のせいなのかもしれない。

むしろ、今回行った中で山下公園の氷川丸は過去の世界を臭いと共に再現してくれた。調査でフェリーに乗る経験の多かったので、この船が大海原を進んでいく様子が想像できる。
操舵室の古めいた羅針盤や、通信室のモールス無線機など、映画でしか見たことのない物に触ってみると、本物でしか味わえない想像を得られる。
昔、デートで来た時には素通りした氷川丸は、今も修学旅行の生徒とご老人にしか人気がないようだ。
一般が200円、障害者は無料のこの船は、高額なディズニーランドとは違った想像豊かな世界に連れて行ってくれた。
また、中華街の食事は、料金の高くてまずいホテルのバイキングよりも数倍美味しくて、お腹が一杯になった。

東京での3日間は、変わりゆく世界と変わらない世界を目の前にして、どう本物を見極めていくかを考えさせられる良い機会になった。
修学旅行は仕事として精神的も肉体的にも厳しいものではあるが、生徒だけではなく教師にも勉強になる機会でもあるように思える。
それは体験によって作為的に得ようというのではなく、楽しみながら自然に味わえる現実と想像の世界でもある。
できればもっと費用を安くして、ゆっくりと体験できればもっと良いものになるような気がするが・・・

2012年5月26日土曜日

夏をつげるペーロン

今年もペーロンがやってくる。去年は東北大震災のため自粛して無かった。
子どもの頃から私にとってペーロンは、舟漕ぎ競争よりも花火である。今でこそあちこちで花火大会は催しされるが、夜空に大輪を咲かせる花火は、この地方では相生のペーロンしかなかった。
自分の母親が相生育ちであり、小学生の頃までは母方の祖母家族が旭町に住んでいた。
そこにはIHI(石川島播磨重工)の社宅があって、棟続きの長屋のような造りであった(因みに私の父はIHIの修理工であった)。ペーロンではよくその祖母の家に行ったのだが、始めは立ち並ぶ長屋作りの家の中で、祖母の家を探すのが難しくて、間違えて他の人の家に入ってしまったこともあった。
港まで親たちと一緒に花火を見に行くこともあったが、人混みで父親に肩車して貰わないと、仕掛け花火は見えなかった。港まで行かずに祖母の家の二階から眺めることもあった。
幼い自分にこの花火のどーんと腹に響く音と、夜空を彩る光の渦がまるで別世界にいる気持ちにさせた。
泊まりがけで見に行ったときは、翌日のパレードや屋台も楽しかった。ただ、舟漕ぎはあまり見る気にはなれなかった。

ところが、このペーロンの時期は中学高校時代には中間試験の期間に近く、さすがに行くことができない。
相生出身の家内もわざと中間試験をペーロン時期にしていたと怒っていたが、五月の末が中間試験というのは学校の日程上仕方ないのである。
それより、姫路の私学に通っていた私には、義士祭が期末試験中であることの方が悔しかった。近隣の公立校では期末試験は終わっていた。
ただ、このペーロンは年によっては中間考査が終わっていることもあり、高校2年の時には相生の友達に誘われて、地元の会社社長の家に呼ばれたことがある。
IHIの関係者とも関わりのあるその家で、パーティーというのを初めて味わった。
また、バンドを一緒に組んだ先輩の親はIHIの重役で、大きな家に住んでいたが、そこにはバンド仲間や先輩の同級生が集まった。
花火は特別にビルの屋上から見ることもできたし、花火の後は歌って騒いで大騒ぎをした。

私は勉強をするために私学に行ったのに、音楽と遊びに目覚めてしまい。
高校3年という受験生にとって大切な年に、こともあろうに当時付き合っていた年上の彼女と試験中であるのにも関わらず、花火を見に行ったことがある。
悪いことは出来ないもので、私を見かけた近所の人に、母親に告げ口されてしまった。私は当然、友達の家に勉強しに行くと言っていたのだが、見事にばれてしまった。
ただ、理解があったのか諦めていたのか、叱られはしなかった。勉強には口うるさい母親だったので、不思議に思えた。18歳のほろ苦くて忘れられないペーロンである。

大学に入ってからしばらくはペーロンとは縁がなかったが、結婚して家内が相生であったことから、家内の実家に呼ばれて花火を見に行くことが多くなった。
家内の家は駅近くなので、家からは見えない。歩いて港まで行って見ることが多かった。
近隣から大勢の人が集まってくるので、車は大渋滞だし、歩く暴走族までやってきて喧噪な雰囲気の中、昔より派手になった花火を堪能した。
一度、子どもを連れて行って、途中で雨に降られて困ったこともあったが、家内の親戚なども訪れて賑やかで楽しい夜であった。

このペーロンが白龍の中国語読みであることは、若い頃は知らなかったし、この祭りが長崎の造船所の職人がもたらしたものであることも、ニュースなのでは報道されていたが、あまり関心はなかった。
ところが、学生時代、私は奄美諸島の与路島と言うところに研究で訪れるようになり、このペーロンと同じ舟漕ぎを経験することになった。
その島ではフナショというが、沖縄のハーリーと同じである。ペーロンのような舟漕ぎ競争は東南アジアを中心に広く行われていて、近年世界大会も開かれていた。
海の神や稲作との関わりがあると思われるが、琉球諸島の舟漕ぎ競争は地域や村で行われる大きな祭りである。
与路島では青年団の舟に乗って、桃の木で作った手製の櫂を握らされて、練習から本番まで付き合った。壮年団とビール1ケースのかかった本番では、直線では青年団が速いのだが、折り返しで技術の差がでて、破れてしまった。
ずぶ濡れになるし、横腹は痛くなるし大変な競技だったが、美しい珊瑚礁の浜で、貴重な体験をさせて貰った。

本来のペーロンは花火ではなくて、舟漕ぎ競争が主なのだが、私の記憶には花火とパレードしかない。相生市民にはチームを作って参加する舟漕ぎ競争の方が大切なのだろう。
本来は海の神への安全祈願のあった祭りは、みんなの娯楽になったが、世代を超えて続けていく行事に根付いたことは良いことだと思う。
一企業がもたらした外来文化ではあるが、遠く琉球諸島や東南アジアと連なっていることもイメージして、祭りを継承して欲しいと思う。

2012年5月22日火曜日

苺とそら豆のシアワセ 2012/05/22

先日来裏の畑で苺が沢山色づき始めた。旬彩蔵という上郡のJAの直販の店で、24ポット2000円という安い苗であったので少々心配したが、立派な実がなり味も良い。
近所でもさすがに色づき始めるとネットを苺にかけ始めたが、全く掛けていない畑もある。カラスもあまり沢山苺がなっているので、食べ飽きたのかも知れない。
苺は一年中畑の一角を占領するし、手間もかかるので面倒な作物だが、家族が喜んでくれるし、小さな子どもや孫がいるところでは必ず作っている。
だから、自分の家で作らなくても、お裾分けが期待できるのだが、今年は畑も広くなったので自分でも作ることにした。
取れたてででかいを、憚ることなく口に入れる至福は何よりも代え難い。農薬など一切使っていないので、全く安心なのである。

今年は他に今まであまり成功しなかったそら豆も植えた。そら豆は小さい頃私の親は沢山作っていて、この季節は甘く炊いたのを毎日のようにおかずに出された。
それでも余るのであんこのようにして、蒸しまんじゅうの中に入れておやつにしてくれたが、小豆よりも生臭いのであまり好きではなかった。今は種自体が高くて多くは植え付けられない。
今回も10株程度である。
それでも、昔に比べて粒が大きくて、電子レンジで加熱しただけなのにすごく美味しい。買ってきたそら豆と比較にならない。
まさしく産地直送の味は自分で作っている者しか味わえない最大の贅沢である。赤穂では高い会費を払って市民農園が貸し出されるようになったが、非常に人気があると地元の新聞に書いてあった。上郡では農家の跡継ぎが意外と畑仕事をしない。
そもそも、男は田で、女が畑という役割分担もあったのだが、田をしない男は畑もしない。やる人は徹底的に綺麗にするので、私のように草と共に育てていたら顰蹙ものであるが、私はそういう批難に屈することはない。
農薬も化成肥料も使ってないのだぞという、プライドもある。趣味で畑作りをする人でも農薬や化成肥料を平気で使う人がいるが、それなら買ってきた方が安くて済む。
農家は見た目を気にする消費者のために農薬を使い、採算を取るために化成肥料を用いる。
自分で作る価値は、惜しまぬ労力と工夫に裏付けられた安全である。しまも、うまく作れば絶対味も良い。

今は普通にいろんな作物が作れだしたが、かれこれ20年の経験の結果である。父親と一緒にしていたときは、草抜きや芋の掘り起こし作業を主にさせられていたので、あまり好きではなかった。
家族のために自分でやり始めて 、最初は玉葱でさえうまく作れなかったが、難しい作物を除いてだいたいうまくいくようになった。
ただ、白菜のように夏の暑いときに種から作ることは、一度成功はしたが手間が多くて今は敬遠している。種まきは家内の仕事だったが、勤めに出始めてあまり出来なくなった。
畑仕事を夫婦や親子で力を合わせてするときには、ささやかな幸せを感じる。
この経験は今の特別支援学校での農園作業と指導でも役に立っている。
家でも職場でも農作業をするのは辟易するところもあるし、顔は日焼けして真っ黒になって教師には見えないのがちょっと気になる。
それでも、こうして美味しい収穫物を口にすると、労を惜しまず頑張ってしまう。田舎ではパチンコが一番賑わっているが、不景気なご時世こそ畑が若い人で賑わって欲しい。
農作業は新しいスポーツであり、ゲームだと思えばパチンコやゴルフよりも、エコで生産的で格好良い。

2012年5月21日月曜日

村作業 2012/05/20(日)

近年、スローライフと言うことで田舎暮らしが見なおされているが、私は元々赤穂の田舎に生まれ育って、学生時代だけの7年間だけ都会に住んだ。
ただ、中学校・高校と姫路という都会に通学していたので、中途半端な地元人である。上郡は結婚して上の息子が4歳くらいに家を建てて引っ越したので、かれこれ18年の暮らしということになる。
この上郡の村では赤穂の昔の暮らしが残っていて、引っ越ししてきた時に下肥を普通に畑にやっているのを見て驚いた(下水のできた今は殆ど無い)。また、当時は在家の報恩講があった。今でもお寺で行う報恩講を続けている村もある。
村に移り住んだ都会の人にとって大きな壁は、村付き合いである。
以前の隣保の葬式は夫婦二人が参加し、女性は朝のまかないで6時頃から出て、男性も朝食を一緒にとった。最近では集会所で葬式を行うことが多くなって、まかないも軽減されてきたが、夫婦が出ることには変わりない。
そして、村作業が特に男性には負担となる。この時期は田植え前で溝掃除があり、道具を持って朝の8時から10時過ぎまで行う。
女性でも参加可能だが、全く参加しないと2千円支払わねばならない。以前住んでいた赤穂の大津という村では、女性が参加すると負担金をとられた。高齢の男性より作業ができるのに理不尽な扱いでもあった。
この、不参加料は村によっては6000円と高額の所もあり、そうしないと参加する人がどんどん減ってしまう。上郡の新興住宅地は500円ほどで、それを払って参加しない人も多いようである。
この村でも理不尽なのは、水田の用水路の掃除まで全員が行う。
下水の完備した現在では、農地を持たない人にとって、用水路は殆ど関係ないのだが、昔からのしきたりでそうなっている。赤穂の大津では水利組合に入っている農家だけが行っていた。

私は村の組(村が3つの組に分かれている)の会計を行っている。その役割としてこの溝掃除の時に飲み物を用意するのだが、スーパーに家内と買い出しに行き、二人で配った(普通は一人でする。家内は配った後で家に戻った)。
本当は冷えた缶ビールも作業終了時に配るのも必要なのだが、参加できない高齢者の寄付で、今回は組長が用意してくれた。
方々に散らばっている村人に配るのも一手間で、あぜ道を籠を持って配ったりもした。作業終了後も村の重鎮と缶ビールを飲みながら会話のお付き合いをして、空き缶を持って帰った。
住民が行う作業は、他に公園の草刈りを隣保(組には3つの隣保がある)で、村祭り前の道作りを組全員で、2月初旬の畦焼きも組全員で行っている。
他に毎月21日は組の村寄り合いで7時から集荷所に集まり、正月の初旬に村全体と、組の発寄り合いとがそれぞれ行われる。こういう村の付き合いが都会から来た人には大きな負担となり、特に回ってきた隣保長はそれらの世話役となるので、それを行った後で村から出て行ってしまう人もあった。
これは地元に昔から住んでいる人にとっても結構負担となり、15軒ある私の隣保も隣保長ができる家は10軒ほどで、高齢世帯や若い若者の単身世帯には無理である。

こういう付き合いを覚悟して入村した家族には問題ない。ただ、売りに出された家屋敷が安いからと引っ越ししてきた人にとっては、大きな問題となり、途中で出ていった家族も何軒かある。
葬式や祭りだけでなく、作業の多い村への引っ越しは、事前によく調べてから考えた方が無難で、それなりの覚悟が必要だ。
また、高齢者になってからの引っ越しには無理があるように思う。一方、村の方も過疎対策を考えるなら、こういう村作業を工夫して軽減を考えるべきで、上郡町も代行したり、助成しなくては過疎は止まらないと思う。
自然豊で米の美味しいこの地域を担う人が、少しでも増えるように、時代変化に応じて改革すべきだろう。それが、昔のしきたりに固執する世代にはなかなか通じないのが悩みの種である。

2012年5月20日日曜日

障害者スポーツ大会 2012/05/19(土)

私は現在特別支援学校に勤務しているので、学校以外の障害者のイベントに関わる機会もたまにある。
今年も兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会が行われ、昨年度担任した生徒に水泳を指導した関係から、三木市の三木山総合公園屋内プールで開かれた水泳大会に引率していくことになった。
因みにこの時期には他の競技も違った会場で行われ、今週は水泳と卓球、来週は陸上競技、フライングディスク、ボーリングの個人競技、団体競技としてはバレーボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカー、フットベースボールが行われる。
会場は三木市の総合防災公園が中心だが、神戸や明石に設定されている種目もある。水泳は知的障害者と身体障害者が合同で行うことになっていたが、今回は視力障害者も参加されていた。

私は元々水泳は趣味で始めたものが高じて、マスターズにも参加するようになり、一般高校の水泳部の顧問をするようにもなった。
学生時代は剣道をかじった程度で、水泳の指導に関しては全くの素人であった。兵庫県は市川高校、報徳学園、須磨学園など全国的にも名前の知れわったった強豪高校があって、オリンピック選手などを輩出していた。
(ただ、水泳は市川高校を除いて、冬場に温水プールで練習できないこともあって、トップ選手は殆どスイミングクラブチームで主に練習している。普通のクラブでも冬場だけ温水プールを利用させて貰うケースが殆どであり、私も生徒を温水プールに引率するのが、大きな負担であった)。
私の住む上郡では市川高校水泳部のOBが、かつては町民プールで水泳の指導を行ってくれており、特にマスターズでは芦田コーチというマスターズの指導経験が長い方に教わって大変勉強になった。

私は三木市の地理が不案内で道を間違えて、受付の9時を過ぎてから会場に入ったので、既にウォーミングアップが始まっており、二階のギャラリーも満員であった。
知的障害者の水泳指導は、西播磨特別支援学校が屋内温水プールに隣接してあるので非常に盛んで、光都スポーツクラブというスイミングクラブチームもあり、どちらも熱心な指導者がついて国体選手送り出すほどのレベルであった。
今回もその選手や保護者の方が大勢来られており、ギャラリーの一角はその人達で一杯であった。他は個人参加が多く、リレーチームを出したのは6団体であった。
私は一般の水泳大会へは何度も生徒を引率して参加して、大会運営の係をしてきたのだが、障害者の大会へは昨年初めて参加し、昨年は応援のみで今回は初めて引率となった。
大会の運営は地元や水泳連盟の方が行ってくれており、係を務める必要がなかった。原則生徒の場合は保護者が責任を持って参加する形になっているので(それで参加しづらい生徒もいる)、引率教師は応援や補助程度である。
私が指導していた生徒は中学校から水泳部に所属しており、健常者に混じってレースにも参加していた。
個人的にその中学校の水泳部顧問を知っていたこともあって、その卒業生の生徒を個人的に指導した。それは学校には水泳に関するクラブも同好会もなかったからである。

この生徒は昨年はいきなりこの大会に参加して、50m自由形の少年の部で2位になったが、1位とは10秒近くの差があった。
今回は昨年の夏休みに私と泳ぎ込んだこともあったので、100m自由形に参加したが、やはり、高校生ではないが、少年の部にはすごい選手がいて、20秒近くの差を付けられての2位だった。因みに1位は1分2秒、うちの生徒は1分22秒であった。
普通の高校生選手の記録と比較すればそれ程のタイムではないが、知的障害者の選手のタイムは素人のスイマーにはかなわない。

一方、身体障害者の泳ぎもすばらしく、その障害によっては知的障害者とは変わらない。また、麻痺の強い人の泳ぎも心を動かせるものがある。
以前私が肢体不自由の特別支援学校(当時は養護学校)で担任していた選手も参加していたが、気の毒なのはたった一人で50m背泳を泳がなくてはならなかったことである(障害の内容でレースの組が違うから)。
彼は国体に参加したことがあって経験豊富とはいえ、もっと競技者が増えて一人で泳がなくて済むようになって欲しいと思う。

一般では学校の水泳大会とスイミングクラブチームの水泳大会が別々に行われているが、学校の選手もスイミングクラブチームの大会への参加は可能である。
その運営は水泳連盟が中心に行っている。それに対して、知的障害者の水泳はスペシャルオリンピックスとこののじぎくスポーツ大会は全く別の組織で運営されており、スペシャルオリンピックスの選手はこの大会に参加しているが、逆はない。
学校でクラブチームが殆ど無いので、スペシャルオリンピックスチームの参加者の方が多いと思うが、今後両者の交流がもっとなされれば良いように思う。
身体障害者の保護者の知り合いにたまたま会ったが、現在中学生なので、その方が指導しているが、今後高校で続けていくのが悩みの種のようだった。

一般に比べてまだまだ規模も小さく、盛り上がりもそう高くはないのだが、勝ち負けやタイムにそう拘りを持たず、和気藹々と参加できる手作りの雰囲気はすばらしいと思う。
日頃練習した成果はなかなか発揮できる場所が障害者にはないので、小学生からご老人まで参加できるこの大会をもっと広めていって欲しいと思った。
是非、障害者と関わりのない方でも、実際に会場に来て頂ければ、テレビで放映される障害者のスポーツ大会の雰囲気とは違ったところも感じて頂けると思う。

2012年5月17日木曜日

大学生の勉強時間 2012/05/16

先日NHKなどのマスコミで大学生の勉強時間が日本では少ないということが大きく取り上げられた。
たまたま通勤時でラジオでNHKのニュース解説を聞いていたが、論説者自身が自分の大学時代の勉強時間が少なかったことを言っていたのも皮肉だった。
どちらかというとエリートであるNHKの論説者が自分のことを棚に上げて、大学生の勉強不足を批判するのは矛盾である。
そもそも、机に向かって本を読んだりレポートを仕上げたりすることだけが勉強なのか?
時間量が大学生の勉強の質を表しているものなのか?
そういうことへの考慮もないまま、単に学校以外での学校の勉強の延長としての学習だけを取り上げることには疑問を感じる。

そもそも、生まれつき記憶力の良い者は、授業中に聞いた内容が直ぐに理解できて頭に入ってしまい復習する必要がない。
私が学んだ学校で教師から、友達の家に遊びに行って、自分はおろか友達の勉強の邪魔をして、現役で東大に行った生徒の話を聞かされた。
私の通った学校は私学だったので、高校3年になると予備校のような授業になっていたので、充分授業内容は東大に行けるものだったのかもしれないにしろ、力のある者はそれほど受験勉強に時間を掛けない。
それは、私が勤めていた公立高校でもリフティングで世界大会に出場しながら、現役で旧帝大の国立大学の医学部に合格した生徒がいたことからも分かる。
普通はそういう秀才のことは例外として扱われるが、逆に長時間勉強しても結果が出せないのも例外とすべきなのだろうか?
要するに、人によって程度の差はあるにせよ、単に時間だけでは計れないのである。

自分の場合、高校時代も大学時代もあまり机に向かった記憶がない。一番机に向かっていたのと思うのは、中学受験の時と卒論、修論の仕上げの時だけだ。
小学校6年生であるにも関わらず、朝の3時頃まで勉強して、8時には小学校に登校したのだから、我ながらたいしたものである。
ところが、勉強の甲斐があって私立中学に合格したが、小学校6年までは勉強嫌いで野生児だったので、中学校の2年くらいから再び勉強嫌いで音楽や恋に目覚め勉強をしなくなった。
そうなると授業中も上の空である。私学に通ったプライドや親や親戚の責めから、浪人して大学受験をしたが、志望叶わず滑り止めの大学しか通らなかった。こういう話はどこでも転がっている。
そこで奮起して芸能界や文壇で名を上げれば自慢話になるのだが、私の場合は勉強もしないのに研究を志して挫折してしまった。

私は文学書以外はあまり本を読まなかった。大学時代も文化人類学は英文の論文を読むというのが重要だったが、苦手であった。
私が研究に取り憑かれたのは、奄美諸島の与路島に魅せられたからであった。フィールドワークを重ねるうちにもっと続けたいと思い、できもしないフランス語も少し勉強して、お情けで大学院に入れて貰った。
当然、英語力などの学力がない上に、経済力もなかったので、家庭教師のアルバイトに明け暮れたり、人に頼ったりしたが、学生は続けられなくなった。
そこで、研究もできそうな教師になったのだが、それは甘い選択でもあった。

今は自分の研究の成果を発表するために2作目の出版への取り組みをしている。
これが最後と思っているので、何としても納得いくものをと思うので、研究を位置づけるために色々と文献を読み始めた。
読めば読むほど深みにはまり、一日二時間以上読書に充てても未だに最後の詰めができない。仕事が終わってから二時間以上を一週間というと、週あたりでは授業以外の学習時間として平均的な日本の大学生を上回っている。
こういう生活が3年近くになり、糖尿病さえ患ってしまった。
「少年老い易く学成り難し」とはよく言ったものである。

成功者でもない田舎教師が言うと値打ちがないが、私が今でも勉強意欲を持って居続けられるのは、大学時代のフィールドワークやクラブ活動を中心とした友達関係、恋愛、アルバイトによる社会経験であったと思う。
大学受験のために生活体験を犠牲にしている日本の学生は、大学時代にこそ生活体験を多くして欲しいと思う。
自分の娘も理系の大学生で、下宿して仕送りも少ないので、アルバイトをよくしているしクラブも熱心である。それで専門コースで一番になったと言っていた(いちおう国立だが、他の学生はあまり勉強しないのかも知れない)。
私は卒業できるのならアルバイトはおおいに結構だと思っている。
ただ、大学生がゲームや漫画のような一人で隠ってしまう時間の使い方するのは、机上での勉強と同じで生活体験ができないので私は反対である。

2012年5月13日日曜日

毛虫の大発生と減った鳥 2012/05/13(日)

私は上郡と赤穂で畑をしている。赤穂は所有する畑を父親が調子が悪くなってから、自分が代わりにやり始めて、亡くなった後も続けている。
上郡は近所の人から借りて作っているのだが、最近気になることがある。それは上郡では鳥が減ったと言うことだ。
赤穂は海浜公園の近くにあることもあって、カラス対策が大変で、先日も畑の枇杷の木の摘果と袋掛け、そして防鳥ネット張りをした。
去年はネットをすればカラスはある程度防げたが、椋鳥はネットの上から袋を破いて食べられた。
今回はネットが枝葉にあたらないように工夫し、テグス糸も脅しで張った。

上郡でも庭の梅の木が雀などに荒らされたりするので、テグスを張ったり、カラスの模造品をぶら下げたりしたが、苺に関しては誰もネットを張っていない。
赤穂では隣の畑の人が、厳重に苺にネットをしているのと対称的である。そういえば上郡ではカラスの姿もあまり見ないし、雀の姿もずいぶん減った。この季節は雀は子育てで、以前は家の樋などで巣を作って、うるさくて困るくらいだった。
去年までは庭木のかなめの木に沢山集まってきて、うるさいので枝をだいぶ刈り込んだくらいである。それが最近は数匹やってくる程度で、ねぐらにすることもない。
その影響かも知れないが、代わりに庭木に毛虫が大発生した。
気がついたら梅の木の葉が食われて、枝だけになっているところもある。始めは火箸を使って一匹ずつ捕まえていたのだが、だんだん無理だと分かってきて、葉の無い枝を切り落として始末したりした。
そして、かなめの木に異常繁殖した毛虫を見て、農薬を使うことに踏み切った。スプレーで売っているものだが、それを使うとぼろぼろと毛虫が沢山落ちてきた。

これまで何度も毛虫には悩まされたが、今年ほど深刻な状態になったことはなかった。
私は畑も庭木も無農薬、無化成肥料で通しており、虫対策は主に寒冷紗や自然農薬を用いた。梅の実は毛虫を落とす時に殆ど落としてしまったので、今年は梅の収穫は諦めた。
それなら最初から梅にも農薬を使えば良かったのだが、農薬を使うことには躊躇いがどうしてもあったのである。
毛虫が異常に発生しているのは私の家だけかも知れないが、近所では庭木を農薬で防除しているのを見たので、防除していない家に集中したのかも知れない。
毛虫の大発生が何に原因するのか考えると、冬が寒かったのが一気に熱くなったことや、越冬のために鳥が上郡から減ったことによるのかも知れないと思う。
もともとうちの近辺では竹林が多く、以前は大きい木が何本もあったので、鳥のお宿に事欠かないところであった。
ただ、姫路の市川近郊のようなカラスの大群は冬場の一時を除いていない。たまに鷹などの猛禽類も渡来したり、コウノトリがやってきて話題になったりもした。そういえば、鷺もあまり見かけないし、鳧もずいぶん少ない。
気象変化によるものなのか、近年水田で多く行われている無人ヘリによる農薬散布のせいなのか、分からない。
去年はあまりの猛暑でキヌヒカリがあまりとれなかったとも聞く。機械化でただでさえ落ち穂や落ち米の減った水田に食べる物がなくなったせいかも知れない。
「沈黙の春」は農薬などの化学物質だけの問題でなく、温暖化による極端な気象変化や、農作業の機械化とも関係しているのではないかと思えてくる。

千種の水汲み2012年春 2012/05/12

我が家ではお茶やコーヒーのみならず、料理に用いる水は殆ど千種から汲んできた水を用いている。きっかけは息子が子どもの頃、アトピーや喘息で飲食物に気を遣っていたことによる。
赤穂にしろ上郡にしろ千種川の水が水道水であるので、水自体は全然問題ないのであるが、消毒に用いられるカルキや、古くなった水道管に問題があるように思えた。
初めの頃は千種スキー場にあるラドン水を給水する施設にまで汲みに上った。冬場はその施設は閉鎖されるので、近くの自然の水がわき出ている場所で汲んだりもした。
容器は看護師をしている親戚の人から貰った透析用の水を入れる10Lのポリ容器が30あまり、他は一般で売っている18Lのポリ容器である。汲んできた水が無くなりそうな頃に、千種まで出かけていくのが恒例である。
自家用車が2002年からはステップワゴンになったが、それ以前はハイラックスのピックアップトラックであったので、その荷台に40近い容器を並べて汲みに行った。
かれこれ20年近くこの水汲みが続いているのである。

費用は現在の平成の大馬鹿門入口の水汲み場では100円で約43Lで、上郡から往復100kmあるので、ガソリン代が1400円かかる。
だいたい、交通費と合計で2500円くらいの費用で、約400Lの水を購入することになる。
この作業工程には三時間の時間が費やされるので、それを夫婦二人の時給計算で考えると高いかも知れないが、だいたい三ヶ月に一度くらいの割合で、千種町まで楽しくドライブすると思えばコストとは思えない。
このところ私は水を運ぶのが仕事で、家内は運転と水を自動給水器から入れる仕事をする。
私には心地良いドライブである。途中の道の駅で買い物したり、以前はよく南光町の「ひまわりの館」で、一緒に行った子ども達と力うどんを食べるのも楽しみだった。
今日は佐用町のコメリに寄って買い物をする用事も兼ねていた。何よりも千種川沿いの自然の移りゆく風景を楽しむことができた。
特に夏場は観光にもなっている南光町のひまわりの風景が良かった。今日は曇ってはいたが、新緑の山々がとても清々しかった。

自宅のある上郡から、千種川沿いの国道373号線を通って千種へ行くのだが、今日は土曜であるにも関わらずダンプの数が非常に多い、千種川の河川改修工事のダンプカーである。地元のダンプのみならず、神戸からのものまである。
それらが狭い国道を行き来しているので、特に交差点では気を遣った。上郡の鞍居川の合流付近は河川工事もかなり進んで見違える広さになっていた。
佐用町を中心とした災害の復旧工事も進んで、久崎では新しい住宅が多く建ち並んでいる。
川幅を広げるための工事や河原や川底の砂を採ったり、ブロックで補強する工事が急ピッチで行われている。折角の清流も茶色く濁っていた。
それは徳久を過ぎたあたりまで続いており、蛍の里と言うには無理があったし、鮎なども棲めそうになかったが、災害対策なので仕方ないことだと、家内と話をした。

途中見た水田では既に田植えを始めているところもある。千種川の上流付近の水田はいつも早いが、このところの気温の低さからは違和感を感じる。
かなり高齢の老夫婦が水を張った田を均しているのだが、その田に這いつくばるような姿が、そこまでしなくてもと思う一方、年老いて尚夫婦で元気に頑張られることに敬意を感じざるを得なかった。
家内と二人で感心し合ったが、こうやって二人で水を汲みに来られるのもいつまでできるか分からないとも思う。10kg以上の重い容器の水を、ちょっと段になって高い位置の給水機から運んだり、自宅の納戸に運ぶのは、そこそこ重労働だからである。

千種町の役場を過ぎて山の麓にある給水場に行くと、土曜日であるにも関わらず誰もいない。私たちのように大量の水を汲む人がいると、かなり待たなくてはならない。
だから以前は代休になった平日や、勤めている高校は定期考査中に休みが取りやすいので、その日に計画して行くことが多かった。
一昨年からは家内が勤めに出た関係で休日しか行くことができない。だから人が多く汲みに来ていないか心配なのである。ところがこのところその心配は杞憂に終わっている。
不景気のせいなのだろうか、水を汲みに来る人はめっきり減っているのである。さっそく車を汲みやすいように傍に留めて外に出てみると、新緑の山であるのに、まるで冬の寒さである。
天気も曇っていて、家内は寒さに備えた服装をしていなかったので、寒風の中非常に寒がった。千種の道の駅の道路端の気温は15℃ほどだったと思うが、体感的には10℃を下回って感じた。少々オーバーだが、先日山で吹雪のために亡くなった人の話題を家内とした。

寒さに震えながら何とか汲み終えそうな頃に、富山ナンバーの軽自動車がやってきて、中から大学生らしい青年が降りてきた。
水を汲むのかと思いきや、物珍しげに給水場を眺めている。おそらく美味しい水の富山の人は、わざわざ水を買うのが珍しいのかも知れない。
それとも地元で水を売る参考にしていたのかも知れない。汲み終わって帰ろうとした頃、別の親子らしき女性二人が水汲みに来たので、車を移動させ恒例の大菩薩の石碑の前の拝殿に拝みに行った。
家内はいつも賽銭は5円で、私は気前よく?50円以上は出している。これも美味しい水を飲ませて貰っている感謝の気持ちである。

途中佐用の町に迂回してコメリに行き、ズッキーニの種や母の日のプレゼントの花を買って帰った。
車中ではラジオを聞くことが多いが、千種町付近では入らなくなるので、音楽を聴く。懐かしいゴスペラーズの「永遠に」が流れると、二十歳で若くして病死した姪を思い出して気持ちが沈まざるを得なかった。
それは彼女の大好きな曲で、葬儀の時もずっと流れていたからである。選んで聴いた訳ではなかったのだが、命日はこの季節であったことを思い出させたくれたのも、何かの縁だと感じた。

自宅に帰って息子にも手伝わせて、水の入った重い容器を階段下の納戸に運ぶ。そこにずっと保存していて、3ヶ月以上置いておいても大丈夫である。
米も30kgの買い置きがあるし、田園地帯の我が家では少々の災害への備えは大丈夫である。千種の水を汲んで健康を守ることと、災害対策は体力か続く限り続けたいと思っている。
自然豊かな千種の山の水は我々住民の宝であり、わざわざ姫路から汲みに来る人もいる。
姫路近辺には他にも何カ所か有料の水汲み場もあるようだが、私はここが一番良い。
あまり宣伝すると人が多くやってきて、水を汲むのに時間がかかるのは困るが、千種の地元の人が管理し維持できるだけの利用が無くては困ることも事実である。

2012年5月6日日曜日

鷲羽山ドライブ 2012/05/06(日)

この五月の連休中は上郡以外はせいぜい赤穂に行く程度で、どこにも出かけなかった。広島の大学で学ぶ娘は鈍行列車で家に戻り、一泊しただけでまた鈍行列車で戻っていった。
おそらく気分転換に帰省しただけであろう。私も学生時代から、気分転換に電車に乗って出かけることが多かった。田舎暮らしの今は、電車で出かけるのは手間のかかる気分転換である。
たいていは自家用車に乗って出かける。
買い物は姫路程度だが、一年に一度の日帰りドライブとなると、東は京都、西は広島、北は鳥取、南は高知くらいになる。休みにちょっとドライブでは、そんなに遠くには出かけない。
今回も出かける時間が10時半だったので、倉敷方面に出かけることにした。
子どもが幼い頃には、日曜日は伊部(備前焼で有名)の近くのホームセンターに出かけ、赤穂の私の両親を訪ねて戻ってくる日課となっていた。
ルートは国道二号線で、ホームセンター迄行き、そこから国道250線で海沿いに赤穂まで行き両親の家に行く、そして、千種川沿いに戻ってくるものである。この季節は「山笑う」というが、新緑が美しい。
途中、山のツツジが咲いているのを眺めたりした。また、海沿いの景色も良くて、日生を過ぎた所から、鹿久囲島などの内海は穏やかで、心が落ち着いたものである。


今日は結局、国道二号線で倉敷まで行ったのだが、どこにも寄らずに鷲羽山に行くことにした。
やはり五月の連休中に、小学生だった二人の子どもを、連れてきたことがあった所である。ここには子どもと遊べる遊園地もあって、地区の子供会でバス旅行にも来たことがある。
今回は10年ぶりくらいの家内と二人きりのドライブなのだが、家内は子供会のバス旅行は憶えていたが、子どもと家族で鷲羽山に来たことは忘れてしまっていた。
家内は余程大きなイベント以外は直ぐに忘れてしまう方で、昔の想い出を語るのは殆ど私の方である。
私は一度見た風景はたいてい記憶する方で、今回も家族で来た時の風景を懐かしく思い出していた。
水島コンビナートは相変わらず壮大な風景で、昔、日暮れに来た時に見た、夕焼けと煙突からの炎のコントラストが忘れられない。
児島坂出ルートの瀬戸大橋を鷲羽山から眺める風景も懐かしく、潮の流れの速いところをゆっくりと貨物船が通るのも10年前と変わりない。
変わってしまったのは観光客である。連休中にも関わらず殆ど混雑がない。
以前、子どもを近くのおもちゃ館に連休中に連れて行こうとして、渋滞で断念した時と大違いである。
鷲羽山展望台付近も、地元の人のイベントが行われて、有志が衣装をそろえて、地元の踊りなどを披露していたが、どうも客は身内らしい。
そこの出店でそれぞれ400円の「たこめし」と「タコの天ぷら」を買って二人で分けて食べたのだが、午後一時過ぎであるのに、出店していた魚屋は引き上げていく。
各テントはB級グルメ風なのだが、やはり近所の自治会の人がやっている感じであった。
踊りが済んでビンゴゲームとなると、多くの人が一斉に舞台付近に集まってくるのを見たが、これも地元の人という雰囲気であった。
展望レストラン付近には賑わいもなく、土産物屋も閑散としている。以前子どもと来た時は途中で弁当を買って、この付近で景色を見ながら食べたのだが、家内は憶えていない。当時は混雑していて、観光施設の中に入るのもためらわれた。
観光客が少ないのは坂道が多くてお年寄りには不向きであること、子どもが楽しめるコーナーがないことなどだろう。
当然、ゲーム世代の若者には人気がない。いくらすばらしい景色があっても、それだけでは客を呼べない時代となってしまったようだ。おいしいタコに関わる食事も、イベントを少し盛り上げる程度でしかない。
人はショッピングモールで楽しむ時代になり、雄大な風景を楽しむ時代は終わった。
遊覧船の客引きの案内の人が、ハンディーマイクで放送した後で、何のためらいもなく、声を出して大あくびをしていることが、この雰囲気を象徴していた。そんな中でタクシーに乗ってきた大学生風の四人の女性客が、古典的な観光客に思えて、観光スポットの威厳を示してくれた。
観光バスも一台もなく、良く言えば落ち着いた観光地、悪く言えば見捨てられた観光地のようにも思えて、時代の移り変わりを感じざるを得なかった。


帰りは家内に運転を代わって貰い、穂の出た麦畑などの風景などをゆっくり見て、昔を一人で思い出しながら家路についた。
家のことや農作業で連休は費やされるのだが、一日それから解放されて、ささやかなドライブに行くのは、私にとってはかけがえのない一時である。
出不精の家内あっても、何とか付き合ってくれるので、孤独ではない。これで子ども夫婦とか孫が一緒ならもっと楽しいのだろうが、その日が訪れるのは、いつのことやら・・・。
五月の連休に私たち家族や兄弟の家族が両親の家に集まり、一緒に食事をしたり、ドライブしたことも遠い昔になってしまった。
過去に拘りのない家内とは昔話はあまり出来ないのだが、聞いてくれなくても横にいる家内に語りかけられるのも、ささやかな幸せであろう。
そして、仕事のことが頭からやっと離れられたのが、何よりも幸せであった。

千種川のシジミ採り

五月の連休の4日は良く晴れたし、潮の状態も良いので、久しぶりにシジミを採りに息子と赤穂まで出かけた。
赤穂の坂越橋を南に少しくだったところには河原に駐車場があって、家族連れなどがよくシジミを拾って楽しんでいる。
私が子どもの頃はシジミはあまり人気が無くて(今でも上郡のような田舎の人には人気がなく、溝の淡水のシジミは誰も食べない)、今日のように大勢の人が押しかけることはなかった。
もっと南の河口付近にある唐船という兵庫県で一番低い山の近くには、昔から潮干狩りをさせる有料の浜があって、私たち地元の子どもは昔は無料で入らせてくれたりもしたのでよく行った。
唐船ビーチは貝を蒔いていて有料だが、自然の貝が採れるところは何カ所かあるのは知っているが、今日は手堅く採れるシジミを掘ることに敢えてした。

場所は人の多い西側の河原ではなくて、東側の河原である。こちらは火葬場が近くにある。駐車場も無いので地元の人以外はあまり来ない。私は車を止められる場所を知っているので、そこに車を置いて、草に覆われた道を下って河原に下りた。
こちら側では中州になったところに一人いるだけで 、誰もいない。川の中に入って掘ってみると、しばらく濁って何も見えなくなるが、一つ二つ大きなシジミが出てきた。
ここは海の水が上ってくるところなので、干潮でないと入れない。引き潮に下る川の水が、濁った水を下流に流してくれて、掘り起こされた貝を露わにしてくれる。人がまだ掘っていないような、青のりの生えた川底を選んで掘ってみるとそこそこ採れた。

さすが清流と言われている千種川の水と、あまり工場のない海の水が混じった所に住む貝はよく育ってでかい。数時間で直径30cm程のざるの底に一杯採れたが、近くで採っていた年配の方は買い物籠にどっさりと採ってこちらに戻ってきた。その中州には人があまり寄りつかないので、貝も大きいし数も多いようだ。

シジミで思い出すのは、子どもの頃に母親や兄弟、近所の人らと一月遅れのひな祭りに、赤穂大橋北側の東側の河原で野遊びとしてシジミ採りに来たことだ。
当時は雛壇を飾る裕福な家はそう無く、ひな祭りと言えば、よもぎ餅にちらし寿司、そして貝掘りだった。
町に住む人は川の中に入って貝を掘って探すだけでも楽しいのかも知れない。田舎に住む私たちは食事のおかずにならないと、無駄な仕事をしたような気分になる。上郡の近所の人の休日の楽しみはパチンコか釣りであることが多い。実益を伴わないと楽しめないようだ。

私は実益の伴わない山登りや、サイクリングもするが、それは気晴らしである。こういう実益を伴う貝掘りは、子どもの頃、生まれ故郷の鳥撫(天和)に父親のバイクの後ろに乗せられて採りに行ったりした。
まさしく世代を超えての、伝統ある実益を伴う遊びである。今日は息子と来たが、はたして孫と一緒に来られる日が来ることやら・・・、それまでシジミが枯渇していませんように・・・