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2012年5月17日木曜日

大学生の勉強時間 2012/05/16

先日NHKなどのマスコミで大学生の勉強時間が日本では少ないということが大きく取り上げられた。
たまたま通勤時でラジオでNHKのニュース解説を聞いていたが、論説者自身が自分の大学時代の勉強時間が少なかったことを言っていたのも皮肉だった。
どちらかというとエリートであるNHKの論説者が自分のことを棚に上げて、大学生の勉強不足を批判するのは矛盾である。
そもそも、机に向かって本を読んだりレポートを仕上げたりすることだけが勉強なのか?
時間量が大学生の勉強の質を表しているものなのか?
そういうことへの考慮もないまま、単に学校以外での学校の勉強の延長としての学習だけを取り上げることには疑問を感じる。

そもそも、生まれつき記憶力の良い者は、授業中に聞いた内容が直ぐに理解できて頭に入ってしまい復習する必要がない。
私が学んだ学校で教師から、友達の家に遊びに行って、自分はおろか友達の勉強の邪魔をして、現役で東大に行った生徒の話を聞かされた。
私の通った学校は私学だったので、高校3年になると予備校のような授業になっていたので、充分授業内容は東大に行けるものだったのかもしれないにしろ、力のある者はそれほど受験勉強に時間を掛けない。
それは、私が勤めていた公立高校でもリフティングで世界大会に出場しながら、現役で旧帝大の国立大学の医学部に合格した生徒がいたことからも分かる。
普通はそういう秀才のことは例外として扱われるが、逆に長時間勉強しても結果が出せないのも例外とすべきなのだろうか?
要するに、人によって程度の差はあるにせよ、単に時間だけでは計れないのである。

自分の場合、高校時代も大学時代もあまり机に向かった記憶がない。一番机に向かっていたのと思うのは、中学受験の時と卒論、修論の仕上げの時だけだ。
小学校6年生であるにも関わらず、朝の3時頃まで勉強して、8時には小学校に登校したのだから、我ながらたいしたものである。
ところが、勉強の甲斐があって私立中学に合格したが、小学校6年までは勉強嫌いで野生児だったので、中学校の2年くらいから再び勉強嫌いで音楽や恋に目覚め勉強をしなくなった。
そうなると授業中も上の空である。私学に通ったプライドや親や親戚の責めから、浪人して大学受験をしたが、志望叶わず滑り止めの大学しか通らなかった。こういう話はどこでも転がっている。
そこで奮起して芸能界や文壇で名を上げれば自慢話になるのだが、私の場合は勉強もしないのに研究を志して挫折してしまった。

私は文学書以外はあまり本を読まなかった。大学時代も文化人類学は英文の論文を読むというのが重要だったが、苦手であった。
私が研究に取り憑かれたのは、奄美諸島の与路島に魅せられたからであった。フィールドワークを重ねるうちにもっと続けたいと思い、できもしないフランス語も少し勉強して、お情けで大学院に入れて貰った。
当然、英語力などの学力がない上に、経済力もなかったので、家庭教師のアルバイトに明け暮れたり、人に頼ったりしたが、学生は続けられなくなった。
そこで、研究もできそうな教師になったのだが、それは甘い選択でもあった。

今は自分の研究の成果を発表するために2作目の出版への取り組みをしている。
これが最後と思っているので、何としても納得いくものをと思うので、研究を位置づけるために色々と文献を読み始めた。
読めば読むほど深みにはまり、一日二時間以上読書に充てても未だに最後の詰めができない。仕事が終わってから二時間以上を一週間というと、週あたりでは授業以外の学習時間として平均的な日本の大学生を上回っている。
こういう生活が3年近くになり、糖尿病さえ患ってしまった。
「少年老い易く学成り難し」とはよく言ったものである。

成功者でもない田舎教師が言うと値打ちがないが、私が今でも勉強意欲を持って居続けられるのは、大学時代のフィールドワークやクラブ活動を中心とした友達関係、恋愛、アルバイトによる社会経験であったと思う。
大学受験のために生活体験を犠牲にしている日本の学生は、大学時代にこそ生活体験を多くして欲しいと思う。
自分の娘も理系の大学生で、下宿して仕送りも少ないので、アルバイトをよくしているしクラブも熱心である。それで専門コースで一番になったと言っていた(いちおう国立だが、他の学生はあまり勉強しないのかも知れない)。
私は卒業できるのならアルバイトはおおいに結構だと思っている。
ただ、大学生がゲームや漫画のような一人で隠ってしまう時間の使い方するのは、机上での勉強と同じで生活体験ができないので私は反対である。

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