ここ数年前から、畑に水をやるポンプが欲しかった。
それでも、最低16,000円はするエンジンポンプには手が出なくて、柄杓で水を汲んでいた。
涼しい内は、これも筋肉トレーニングだとやせ我慢できた。
去年は朝早く起きて、大きなポリ容器に数10m先から汲んで、台車で運んだ。
今年の春から、用水路に水をくみ上げて、畑に流した。というのも、長く休耕田になっていたので、水路は塞がれていた。
さすがに今年の夏は、連日35℃を超える暑さ。念願のポンプを買った。
16,000円の一番安いのを買って、早速使ってみると本当に便利である。
ホースは経の違うリールホースがあったので、それを繋いで、用水路から水をくみ上げる。
畑だけでなく、家の庭にもたっぷりと水をやることができるようになった。
柄杓でくみ上げていた頃は、頑張っても200Lもくみ上げればへたってしまったし、水道の水は後の料金を考えると怖くて多く使えない。
赤穂の畑に持って行って、井戸からも水をくみ上げられるようになった。
ところが、これで楽になったと思ったら、豈図らんや!
余裕が出てきたので、草抜きを頑張るようになった。
柄杓の頃はえらくて、草は放っておいたのだが、水を吸われるのが癪で抜いてしまう。
そうすると、しっかり根の入った草はいくら水を掛けても、なかなか抜けない。
結局はえらい思いをすることは一緒である。ただし、これで作物は水不足や栄養不足から解放された。
そのお陰で、茄子も勢いを盛り返し、他の作物も元気を維持している。
機械化とは結局人を楽にするようで、新たな仕事に追い込む道具でもある。
機械化の進んだ稲作農家は、確かに昔に比べて楽になった。
しかし、機会代やその倉庫などを考えると割に合わなくなっている。
経営規模の小さい農家は買った方が安い米を、休日を使って作るのだから、くたびれ損になっている。
畑作りも、できるようになると欲が出て、機械も買うので、その分頑張ってしまう。
機械の減価償却に見合うことを考えて、機械化するのが賢明なのである。
今のところ、草刈り機と管理機(耕耘機)と今回のポンプだけだが、本当はもっと買いたいの物がある。
それは軽トラである。
機械を運ぶだけでなく、臭い肥料や作物(タマネギ、ニンニク)をステップワゴンで運ぶのは辛いものがある。
だんだんと、専業農家に近づいてきた・・・
ところで、アメリカの穀倉地帯が旱魃だと報道されている。
ついに、来るべきものが来たような気がする。
地球温暖化の影響で、食糧不足に陥ることが研究者の間で叫ばれていたが、それが現実化しつつある。
農業は初心者に直ぐに出来るものではない。
私も作物がまともに作れるようになったのは、20年以上やって、つい最近のことである。
いくら田畑があっても、経験のない跡継ぎには農業はすぐには無理である。
深刻な事態に陥る前に準備し始めた方が良いと思う。老婆心ながら・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年7月31日火曜日
2012年7月28日土曜日
ウナギ捕りし彼の川
先日、広場の草刈り作業があった。そこで近所の人が「先週は33匹釣ったで」という話をしているので、何のことかと聞いてみるとウナギを夜に釣ってきたと言うことである。
そう言えば、赤穂の隣の畑の人が、ミミズを捕ってウナギの餌にすると話していた。
千種川の河口などは昔からミミズを細い竹の針先に付けて、石垣の間などに差し入れて釣っている人がいた。
養殖ウナギが稚魚がいなくなって高騰しているというニュースとは全く無縁の話に驚いた。
私が赤穂の尾崎に住んでいた頃は、千種川は子どもの遊び場であり、漁場であった。
小さい頃は絶対行くなと親から言われていたが、大きくなるにしたがって自由に行くようになる。
当時は安い竹竿でハゼやテンコチを釣ることが多かったが、ヤスを使ってウナギやカレイを突いた。
当時はウナギは大きな石をめくれば、それ程大きくはないが、おかずになる程度のウナギは簡単に捕れた。
大人は釣ったり、潜ったりしてウナギの大きいのを捕まえていた。
ウナギは今でこそご馳走になったが、当時は牛肉が一番のご馳走で、穴子などと同様に骨まで食べさせられる普段のおかずだった。
ドジョウなどは田んぼの井戸にいっぱいいたので、それを捕ってきて飽きるほど食べさせられた。
今はそれが逆転してしまい、高級魚になってしまったのである。
牛肉はご馳走の座から、普段のおかずに落ちてしまった。
そう言えばラジオでメダカの研究者が、絶滅種であるメダカの生態がよく分かっていないということを言っていたのに驚いた。
ウナギも穴子もメダカもドジョウの身近な存在だったのに、その生態が分かっていなかったのである。
考えてみれば、蝉でさえ地中の様子などは知らないし、ツバメが冬どんなところで過ごしているのかもよく知らない。
夏になれば訪れる生き物との関わりを当たり前のこととして接していたのであるが、それらの生き物がいなくなってしまおうとしている。
家の庭のかなめの木にはニイニイ蝉が毎朝うるさく鳴いているのだが、この蝉も最近は貴重らしい。
子どもがいなくなったとか、過疎化で老人ばかりになったという寂しい話はよくマスコミに話題になるが。
ウナギがいなくなったら寂しいのではなくて、値段が上がって食べられないという話題にしかならない。
確かに安ければ食べたいというのは本音だけれど、それ以上に絶滅していく生き物を食い飽きない我々日本人のどん欲さに呆れる。
鯨は欧米人に責められて食べないけれど、ウナギは地球の果てまで行って食い尽くす勢いである。
江戸時代にうなぎ屋のために作られた食文化が、経済大国になって台湾や中国を巻き込み、世界を席巻する。
自然を愛する日本の伝統文化というのは、鯨、マグロ、ウナギを食い尽くすことだったのか。
と、食べられない負け惜しみを言いたくなる。
せめて、完全養殖が軌道に乗るまで我慢しよう。
土用の日は豚肉丼で済ました・・・ただ、ウナ肝は200円奮発して1本食べさせてもらった。
本当は安ければ鰻丼食べたかった・・・・・。
大学生の時にボーナスの出たゼミの先生が、おごってくれた専門店のウナギ尽くしが、未だに忘れられない。
二段重ねの鰻重に、ウナギの卵巻、ウナ肝のお吸い物etc 30年も前の話である。
そう言えば、赤穂の隣の畑の人が、ミミズを捕ってウナギの餌にすると話していた。
千種川の河口などは昔からミミズを細い竹の針先に付けて、石垣の間などに差し入れて釣っている人がいた。
養殖ウナギが稚魚がいなくなって高騰しているというニュースとは全く無縁の話に驚いた。
私が赤穂の尾崎に住んでいた頃は、千種川は子どもの遊び場であり、漁場であった。
小さい頃は絶対行くなと親から言われていたが、大きくなるにしたがって自由に行くようになる。
当時は安い竹竿でハゼやテンコチを釣ることが多かったが、ヤスを使ってウナギやカレイを突いた。
当時はウナギは大きな石をめくれば、それ程大きくはないが、おかずになる程度のウナギは簡単に捕れた。
大人は釣ったり、潜ったりしてウナギの大きいのを捕まえていた。
ウナギは今でこそご馳走になったが、当時は牛肉が一番のご馳走で、穴子などと同様に骨まで食べさせられる普段のおかずだった。
ドジョウなどは田んぼの井戸にいっぱいいたので、それを捕ってきて飽きるほど食べさせられた。
今はそれが逆転してしまい、高級魚になってしまったのである。
牛肉はご馳走の座から、普段のおかずに落ちてしまった。
そう言えばラジオでメダカの研究者が、絶滅種であるメダカの生態がよく分かっていないということを言っていたのに驚いた。
ウナギも穴子もメダカもドジョウの身近な存在だったのに、その生態が分かっていなかったのである。
考えてみれば、蝉でさえ地中の様子などは知らないし、ツバメが冬どんなところで過ごしているのかもよく知らない。
夏になれば訪れる生き物との関わりを当たり前のこととして接していたのであるが、それらの生き物がいなくなってしまおうとしている。
家の庭のかなめの木にはニイニイ蝉が毎朝うるさく鳴いているのだが、この蝉も最近は貴重らしい。
子どもがいなくなったとか、過疎化で老人ばかりになったという寂しい話はよくマスコミに話題になるが。
ウナギがいなくなったら寂しいのではなくて、値段が上がって食べられないという話題にしかならない。
確かに安ければ食べたいというのは本音だけれど、それ以上に絶滅していく生き物を食い飽きない我々日本人のどん欲さに呆れる。
鯨は欧米人に責められて食べないけれど、ウナギは地球の果てまで行って食い尽くす勢いである。
江戸時代にうなぎ屋のために作られた食文化が、経済大国になって台湾や中国を巻き込み、世界を席巻する。
自然を愛する日本の伝統文化というのは、鯨、マグロ、ウナギを食い尽くすことだったのか。
と、食べられない負け惜しみを言いたくなる。
せめて、完全養殖が軌道に乗るまで我慢しよう。
土用の日は豚肉丼で済ました・・・ただ、ウナ肝は200円奮発して1本食べさせてもらった。
本当は安ければ鰻丼食べたかった・・・・・。
大学生の時にボーナスの出たゼミの先生が、おごってくれた専門店のウナギ尽くしが、未だに忘れられない。
二段重ねの鰻重に、ウナギの卵巻、ウナ肝のお吸い物etc 30年も前の話である。
2012年7月25日水曜日
エコな暗い夜
節電の意味もあって、夜は極力エアコンは使わずにベランダに扇風機を出して、網戸も開いて送風する。
そうすると外から虫が入ってくるので、それを防ぐことと、節電のために照明も暗くしている。
照明はまず、昼間蓄電するライトをベランダの物干しに置いていおき、夜に部屋の中に入れる。
それだけではパソコンを使うには暗いので、LEDの懐中電灯をキーボードに照射している。
暗いのに目が慣れてきたが、何よりも却ってリビングの明るさの方が落ち着かなくなる。
以前から寝る前には気分を落ち着かせるために、小さな明かりに変えていたのだが、仕事をする時もあまり明るくない方が疲れないし、落ち着くことがわかった。
以前は目が悪くなるから明るくするように言われてきたが、最近はそう言われなくなったので目に不安を感じていない。
そもそも、ディスプレーが充分明るいのである。
暗いのが落ち着くことでふと思い出したのは、やはり奄美のことである。
私が調査していた奄美の村落の家屋には、まだあまりガラスサッシが無かった。
暑い夏の夜は板戸を開け放っていたので、蚊取り線香は欠かせなかった。
当然当時は島に発電所があって、時々停電はしたもののちゃんと電灯は点いていた。
知り合った青年団の仲間と飲むと、決まって電気を消して懐中電灯を蛍光灯に照射して雰囲気を出していたことを思い出す。
これから琉球諸島では八月行事という夜の祭りに向かっていく。
本土でも盆踊りの季節になる。今でこそ照明機器で明るいので月の光は必要ないが、昔は月の光が大切な照明だった。
だから、十五夜に合わせて踊りが行われたのである。
電灯無かった頃、普通の家では蝋燭なども滅多に使わず、月が昇るのを心待ちにした。
それが、月待ちであった。
テレビもラジオもなく、歌ったり話したりするしか娯楽がなかった頃の夜の風景である。
そう言えば私も幼い頃、夏の夕方になると路地に出て、夕涼みをした。
母親は温もった石に腰掛けると気持ちいいと言っていた。
玄関先で穴子などを七輪で焼いていたりした。
路地は大人や子どもの憩いの場でもあった。
だいたい、車など通ることはなかったからだ。
何よりも蚊帳が夏には欠かせなかった。網戸など無かったからだ。
上郡の今住んでいる村は夜だけでなく、日中も川の端の家などは涼しい。
それなのにエアコンを使う家が多い。特に最近建てた家は風通しを考えていない。
太陽光や都市ガスを使ったエコも良いが、もう一度自然に寄り添う生活スタイルを、新しい形で実現してみても良いような気がする。
明かりの少ない暗い夜の生活も良い。
治安が悪いヒートアイランドの都会ではできないことかも知れないが・・・
そうすると外から虫が入ってくるので、それを防ぐことと、節電のために照明も暗くしている。
照明はまず、昼間蓄電するライトをベランダの物干しに置いていおき、夜に部屋の中に入れる。
それだけではパソコンを使うには暗いので、LEDの懐中電灯をキーボードに照射している。
暗いのに目が慣れてきたが、何よりも却ってリビングの明るさの方が落ち着かなくなる。
以前から寝る前には気分を落ち着かせるために、小さな明かりに変えていたのだが、仕事をする時もあまり明るくない方が疲れないし、落ち着くことがわかった。
以前は目が悪くなるから明るくするように言われてきたが、最近はそう言われなくなったので目に不安を感じていない。
そもそも、ディスプレーが充分明るいのである。
暗いのが落ち着くことでふと思い出したのは、やはり奄美のことである。
私が調査していた奄美の村落の家屋には、まだあまりガラスサッシが無かった。
暑い夏の夜は板戸を開け放っていたので、蚊取り線香は欠かせなかった。
当然当時は島に発電所があって、時々停電はしたもののちゃんと電灯は点いていた。
知り合った青年団の仲間と飲むと、決まって電気を消して懐中電灯を蛍光灯に照射して雰囲気を出していたことを思い出す。
これから琉球諸島では八月行事という夜の祭りに向かっていく。
本土でも盆踊りの季節になる。今でこそ照明機器で明るいので月の光は必要ないが、昔は月の光が大切な照明だった。
だから、十五夜に合わせて踊りが行われたのである。
電灯無かった頃、普通の家では蝋燭なども滅多に使わず、月が昇るのを心待ちにした。
それが、月待ちであった。
テレビもラジオもなく、歌ったり話したりするしか娯楽がなかった頃の夜の風景である。
そう言えば私も幼い頃、夏の夕方になると路地に出て、夕涼みをした。
母親は温もった石に腰掛けると気持ちいいと言っていた。
玄関先で穴子などを七輪で焼いていたりした。
路地は大人や子どもの憩いの場でもあった。
だいたい、車など通ることはなかったからだ。
何よりも蚊帳が夏には欠かせなかった。網戸など無かったからだ。
上郡の今住んでいる村は夜だけでなく、日中も川の端の家などは涼しい。
それなのにエアコンを使う家が多い。特に最近建てた家は風通しを考えていない。
太陽光や都市ガスを使ったエコも良いが、もう一度自然に寄り添う生活スタイルを、新しい形で実現してみても良いような気がする。
明かりの少ない暗い夜の生活も良い。
治安が悪いヒートアイランドの都会ではできないことかも知れないが・・・
2012年7月21日土曜日
悲しき上郡
私は上郡には住んでいるが生まれ育ちは赤穂なので、郷土愛というのはあまりない。
ただ、「ど田舎の上郡」と職場で言われると「ムカ!」とくる。
室町時代にこの播磨の地を支配していたのは、この上郡の赤松氏である。
むしろ、播磨の国一揆を起こしたのはあなた方の先祖じゃないのと馬鹿げた反論を内心したくなるが、日本史でもマイナーな歴史なので面白くも何ともなく、口にできない。
赤穂事件よりも嘉吉の乱の方が将軍を殺したのだから、すごいことなのに上郡をそれに結びつけて捉えてくれない。
ただ、赤穂は塩田が事件後も栄えたが、上郡は乱後寂れていった。
始め何でこんな千種川の狭い平地にそのような力を持った勢力が誕生したのかよく分からなかった。
それは、鳥取・島根の日本海側の古代先進地域と、瀬戸内海側の中央先進地域を結ぶラインとして流通を抑えていたこと。
そして、千種川沿いのたたら鉄の生産との兼ね合いが大きいと言うことを知った。
赤穂は塩田開発される前は、海の迫った何もないところだった。
赤穂の人は千種川沿いの人が多く移り住んだように思える。
実は私の父方の祖母は、小赤松という上郡よりも奧の上月町出身である。
何の縁もゆかりもない赤穂の鳥撫へ嫁ぐはずもないので、 昔からのつながりが有ったのだろうと思う。
石原という姓も赤松氏の関連で見いだされるし、上郡には石原姓が多い。
出自をたどればひょっとして私の祖先も上郡かも知れない。
そうすると、「ど田舎上郡」と言われたら、素直に「ごもっとも」と言ってはならないと思うのである。
ただ、悲しいのは上郡は中世の先進地域でありながら、いや、それ故かも知れないが、近代化の波に乗りきれなかった。
現在、網干のJRの車両施設は、当時の計画では上郡に作ろうとして地元の反対でできなかった。
大鳥圭介という明治でも活躍した有力な官僚がいながら、企業誘致は図っていない。
その流れは、今でも市町村合併の失敗。給食がない県下唯一の町となってしまっている。
それでも、私は近代化から取り残されて、昔そのままの村と、一部開発されたベッドタウンの上郡は 気に入っている。
椿峠から眺める高田の扇状地は夏は「我谷は緑なりき」と言いたくなるし、秋は「黄金の稲穂」を輝かせてくれてる。
また、赤穂のように松をあまり植林していないので、秋の紅葉は最高に美しいパノラマを展開してくれる。
上郡にもっと人が住んで欲しいのだが、気をつけて欲しいのは村と街を混同しないことである。
村付き合いは戦前からの流れがそのまま残っている。
高田台や近年開発されている山野里あたりの住宅地とは全く付き合いが違う。
新興住宅街の感覚で 移り住むと直ぐに引っ越しせねばならなくなる。
私の生家の赤穂の新興住宅地は地元の人が多いので、業者の開発した宅地よりも閉鎖的であるが、村よりは開かれている。
村の中で歴史を背負う気持ちでないとやっていけない。
私は「いつでも赤穂に帰ってやる」と思いながら、根を下ろしてしまった。
家内は折角仲良くなった友達と離れるつもりはないようだ。
それも「悲しき上郡」の魅力によるものかも・・・
ただ、「ど田舎の上郡」と職場で言われると「ムカ!」とくる。
室町時代にこの播磨の地を支配していたのは、この上郡の赤松氏である。
むしろ、播磨の国一揆を起こしたのはあなた方の先祖じゃないのと馬鹿げた反論を内心したくなるが、日本史でもマイナーな歴史なので面白くも何ともなく、口にできない。
赤穂事件よりも嘉吉の乱の方が将軍を殺したのだから、すごいことなのに上郡をそれに結びつけて捉えてくれない。
ただ、赤穂は塩田が事件後も栄えたが、上郡は乱後寂れていった。
始め何でこんな千種川の狭い平地にそのような力を持った勢力が誕生したのかよく分からなかった。
それは、鳥取・島根の日本海側の古代先進地域と、瀬戸内海側の中央先進地域を結ぶラインとして流通を抑えていたこと。
そして、千種川沿いのたたら鉄の生産との兼ね合いが大きいと言うことを知った。
赤穂は塩田開発される前は、海の迫った何もないところだった。
赤穂の人は千種川沿いの人が多く移り住んだように思える。
実は私の父方の祖母は、小赤松という上郡よりも奧の上月町出身である。
何の縁もゆかりもない赤穂の鳥撫へ嫁ぐはずもないので、 昔からのつながりが有ったのだろうと思う。
石原という姓も赤松氏の関連で見いだされるし、上郡には石原姓が多い。
出自をたどればひょっとして私の祖先も上郡かも知れない。
そうすると、「ど田舎上郡」と言われたら、素直に「ごもっとも」と言ってはならないと思うのである。
ただ、悲しいのは上郡は中世の先進地域でありながら、いや、それ故かも知れないが、近代化の波に乗りきれなかった。
現在、網干のJRの車両施設は、当時の計画では上郡に作ろうとして地元の反対でできなかった。
大鳥圭介という明治でも活躍した有力な官僚がいながら、企業誘致は図っていない。
その流れは、今でも市町村合併の失敗。給食がない県下唯一の町となってしまっている。
それでも、私は近代化から取り残されて、昔そのままの村と、一部開発されたベッドタウンの上郡は 気に入っている。
椿峠から眺める高田の扇状地は夏は「我谷は緑なりき」と言いたくなるし、秋は「黄金の稲穂」を輝かせてくれてる。
また、赤穂のように松をあまり植林していないので、秋の紅葉は最高に美しいパノラマを展開してくれる。
上郡にもっと人が住んで欲しいのだが、気をつけて欲しいのは村と街を混同しないことである。
村付き合いは戦前からの流れがそのまま残っている。
高田台や近年開発されている山野里あたりの住宅地とは全く付き合いが違う。
新興住宅街の感覚で 移り住むと直ぐに引っ越しせねばならなくなる。
私の生家の赤穂の新興住宅地は地元の人が多いので、業者の開発した宅地よりも閉鎖的であるが、村よりは開かれている。
村の中で歴史を背負う気持ちでないとやっていけない。
私は「いつでも赤穂に帰ってやる」と思いながら、根を下ろしてしまった。
家内は折角仲良くなった友達と離れるつもりはないようだ。
それも「悲しき上郡」の魅力によるものかも・・・
2012年7月18日水曜日
Smoke on the water
ジョンロードが亡くなった。これでDeep Purpleも終わりだろう。
私たちの世代だけでなく、Deep Purpleは特に、Smoke on the waterを、ロックをやり始めた頃に練習する。
私が中学校の3年頃から大学に入った頃まで、一番のめり込んだのは実はロックバンド演奏であった。
ギターは本当に哀しいくらいへたくそだったのだが、ボーカルには少々自信があった。
当時ヤングリクエストというラジオの深夜放送でアマチュアバンドの演奏を流してくれるコーナーがあった。
高校2年の時にその番組に出るために、バンドを組んで練習して出演した。
その時にドラムを叩いてくれたのが、今はサッカーの全日本チームのチームドクターをしている柳田君である。
彼はドラムは初心者だったが、サッカーをやっていたこともあって、リズム感が良かった。
ただ、キダタロー氏はわざわざ音声室にまで行って、加工前の音まで確認してくれたのだが、賞めてくれた後で、批評されたのはドラムとボーカルのリズムが時々狂うということだった。
その時は、Deep Purpleはやらなかった。あまりにも一般的すぎたからだ。
私は高校2年の文化祭で体育館ステージにバンドを組んで出場した。
勉強も運動もせずに輝ける唯一の機会であった。
ところが、私は歌詞を憶えるのが大の苦手で、しかもSmoke on the waterを書いた歌詞の紙をステージで見失ってしまった。
仕方ないので、憶えていた1番を3回繰り返した。英語なので誰も分からなかった。
2年前、職場の忘年会で前年に引き続きバンド演奏をすることになった。
初心者のベースの人がレッスンで習っているSmoke on the waterを演奏することになった。
メインはEric ClaptonのLaylaで、軽く入りに使うつもりであった。
ところが、思い出して練習してみるとボーカルが結構難しい。
全部旋律が違うのである。
ということは 1番を3回繰り返すなんてあり得ないのである。
私のボーカルは全くド素人であったことを再認識した。
その姫路の忘年会会場では、他の職場の忘年会もやっており、リハーサルの段階でクレームがついてしまった。
というのも、セミプロだったリードギターがマーシャルアンプのでかいのを持ち込んで、がんがんやり始めたのだからたまったものではない。
結局、音量を調節できず、演奏はあまり良いできではなかったが、何とかLaylaの高音もこなすことができた。
51歳にして、やっとLaylaを曲がりなりにも、ステージで演奏することができてそれで満足だった。
しかし、本当は歌詞の内容も理解せず、ボーカルとしての表現力を一番試されるSmoke on the waterに内心ショックを受けていた。
その前年はDeep PurpleのHighway Starをそれなりにこなしていたので、余計にショックだった。
おそらく、これからも演奏し続けられるだろうSmoke on the waterは、シンプルに思えて非常に奧の深い音楽だった。
華やかなリードギターやボーカルに比べて、テクニックは評価されながらあまり表に出てこなかったジョンロード。
ステージを見たリードギターのTさんによれば、一番誠実に演奏していたという。
若い頃は何も見えていなかったことも、この歳になって見え始めて、また演奏し治すことに別の価値を見いだせそうである。
仕事が終わってからの練習は大変で、去年は病気を理由にパスした。
今年は是非忘年会で演奏したくなった。
私たちの世代だけでなく、Deep Purpleは特に、Smoke on the waterを、ロックをやり始めた頃に練習する。
私が中学校の3年頃から大学に入った頃まで、一番のめり込んだのは実はロックバンド演奏であった。
ギターは本当に哀しいくらいへたくそだったのだが、ボーカルには少々自信があった。
当時ヤングリクエストというラジオの深夜放送でアマチュアバンドの演奏を流してくれるコーナーがあった。
高校2年の時にその番組に出るために、バンドを組んで練習して出演した。
その時にドラムを叩いてくれたのが、今はサッカーの全日本チームのチームドクターをしている柳田君である。
彼はドラムは初心者だったが、サッカーをやっていたこともあって、リズム感が良かった。
ただ、キダタロー氏はわざわざ音声室にまで行って、加工前の音まで確認してくれたのだが、賞めてくれた後で、批評されたのはドラムとボーカルのリズムが時々狂うということだった。
その時は、Deep Purpleはやらなかった。あまりにも一般的すぎたからだ。
私は高校2年の文化祭で体育館ステージにバンドを組んで出場した。
勉強も運動もせずに輝ける唯一の機会であった。
ところが、私は歌詞を憶えるのが大の苦手で、しかもSmoke on the waterを書いた歌詞の紙をステージで見失ってしまった。
仕方ないので、憶えていた1番を3回繰り返した。英語なので誰も分からなかった。
2年前、職場の忘年会で前年に引き続きバンド演奏をすることになった。
初心者のベースの人がレッスンで習っているSmoke on the waterを演奏することになった。
メインはEric ClaptonのLaylaで、軽く入りに使うつもりであった。
ところが、思い出して練習してみるとボーカルが結構難しい。
全部旋律が違うのである。
ということは 1番を3回繰り返すなんてあり得ないのである。
私のボーカルは全くド素人であったことを再認識した。
その姫路の忘年会会場では、他の職場の忘年会もやっており、リハーサルの段階でクレームがついてしまった。
というのも、セミプロだったリードギターがマーシャルアンプのでかいのを持ち込んで、がんがんやり始めたのだからたまったものではない。
結局、音量を調節できず、演奏はあまり良いできではなかったが、何とかLaylaの高音もこなすことができた。
51歳にして、やっとLaylaを曲がりなりにも、ステージで演奏することができてそれで満足だった。
しかし、本当は歌詞の内容も理解せず、ボーカルとしての表現力を一番試されるSmoke on the waterに内心ショックを受けていた。
その前年はDeep PurpleのHighway Starをそれなりにこなしていたので、余計にショックだった。
おそらく、これからも演奏し続けられるだろうSmoke on the waterは、シンプルに思えて非常に奧の深い音楽だった。
華やかなリードギターやボーカルに比べて、テクニックは評価されながらあまり表に出てこなかったジョンロード。
ステージを見たリードギターのTさんによれば、一番誠実に演奏していたという。
若い頃は何も見えていなかったことも、この歳になって見え始めて、また演奏し治すことに別の価値を見いだせそうである。
仕事が終わってからの練習は大変で、去年は病気を理由にパスした。
今年は是非忘年会で演奏したくなった。
2012年7月16日月曜日
ズッキーニとトマト
夏の野菜の定番はトマト、茄子、キュウリだが、私は10年ほど前からズッキーニも栽培している。
ズッキーニは欧米では普通に食べられている野菜だが、日本の田舎ではまだ珍しい。
近くの直販所で巨大なお化けズッキーニが売られていたこともあったが、栽培している農家自身ズッキーニの食べ方を知らなかったのかもしれない。
今でこそ近所の人も認知してくれるようになったが、以前は「これは何?」と何度も聞かれた。
一度に多くとれるので、近所の人にあげたりもしたが、ラタトーユなどの料理に馴染みが無くて、まねして作る人は殆どいない。
我が家では味噌汁の中にも入っているし、色々刻んでキュウリと同じようにして食べたりしている。
ズッキーニそのものにそれ程味がないけれど、大きく切ってステーキのようにして食べても美味しい。
キャベツなどの葉っぱ物が少なくなる分、キュウリとズッキーニは大切な野菜である。
ただ、このズッキーニは受粉を毎日してやらなければならない。
最近はミツバチの数も減っているので、朝は必ず受粉してやる。
時間が経って九時頃になってしまうと、花が閉じるのでそれをこじ開けて行う。
行わないと、根元だけ脹らんで大きくならない。
ズッキーニの葉っぱは大きくて茎がざらざら棘のような毛があるので、素手であたるとけっこう痛い。
一番の難点は、伸びていくと自分で自立できなくて、支え木が必要だが、重いし葉が茂っているので結構手間である。
また、油断すると実が直ぐに巨大になってしまい茎を痛めたりして、枯らしてしまう。
ズッキーニは苗の価格が高いので、種を買ってポットで作る。
今年は雨や風のせいで、10本植えて半分ほど折れてしまった。
それでも、1日数本とれるので充分自家用としては間に合っている。
トマトは多くとれると、家内がケチャップを炊く。
JAで販売している「トマトゲン」という香辛料を用いれば、濃厚なケチャップができて非常に美味しい。
ただ、家内は非常に暑い思いをして6kg程炊いて、2リットル程にしかならない。市販のケチャップがいかに安いか分かる。
それでも、ピザなどでは違いが歴然だし、冷蔵庫で保存もできるので重宝している。
人にあげると喜ばれるが、これを作る手間暇は理解できないと思う。
以前はケチャップを作るために、加工用トマトも栽培したが、苗を作るのが結構手間なので、普通のトマトを今は使っている。
今年は、テレビでダイエットやコレストロール低下によいと紹介されたこともあってトマトブームで、我が家でもブームに乗って生で食べることが多い。
私自身、一個生かじりするのが好きで、おやつ代わりに食べるのであまり残らない。
私は農作業している途中で、喉が渇くとトマトをその場で丸かじりする。
生暖かいけれど、非常に美味しくて、喉の渇きも不思議と治まる。
苗を10本ほど買って脇芽から何本か増やしたが、これだけ毎日沢山食べるとケチャップにはできないかも知れない。
ズッキーニは欧米では普通に食べられている野菜だが、日本の田舎ではまだ珍しい。
近くの直販所で巨大なお化けズッキーニが売られていたこともあったが、栽培している農家自身ズッキーニの食べ方を知らなかったのかもしれない。
今でこそ近所の人も認知してくれるようになったが、以前は「これは何?」と何度も聞かれた。
一度に多くとれるので、近所の人にあげたりもしたが、ラタトーユなどの料理に馴染みが無くて、まねして作る人は殆どいない。
我が家では味噌汁の中にも入っているし、色々刻んでキュウリと同じようにして食べたりしている。
ズッキーニそのものにそれ程味がないけれど、大きく切ってステーキのようにして食べても美味しい。
キャベツなどの葉っぱ物が少なくなる分、キュウリとズッキーニは大切な野菜である。
ただ、このズッキーニは受粉を毎日してやらなければならない。
最近はミツバチの数も減っているので、朝は必ず受粉してやる。
時間が経って九時頃になってしまうと、花が閉じるのでそれをこじ開けて行う。
行わないと、根元だけ脹らんで大きくならない。
ズッキーニの葉っぱは大きくて茎がざらざら棘のような毛があるので、素手であたるとけっこう痛い。
一番の難点は、伸びていくと自分で自立できなくて、支え木が必要だが、重いし葉が茂っているので結構手間である。
また、油断すると実が直ぐに巨大になってしまい茎を痛めたりして、枯らしてしまう。
ズッキーニは苗の価格が高いので、種を買ってポットで作る。
今年は雨や風のせいで、10本植えて半分ほど折れてしまった。
それでも、1日数本とれるので充分自家用としては間に合っている。
トマトは多くとれると、家内がケチャップを炊く。
ただ、家内は非常に暑い思いをして6kg程炊いて、2リットル程にしかならない。市販のケチャップがいかに安いか分かる。
それでも、ピザなどでは違いが歴然だし、冷蔵庫で保存もできるので重宝している。
人にあげると喜ばれるが、これを作る手間暇は理解できないと思う。
以前はケチャップを作るために、加工用トマトも栽培したが、苗を作るのが結構手間なので、普通のトマトを今は使っている。
今年は、テレビでダイエットやコレストロール低下によいと紹介されたこともあってトマトブームで、我が家でもブームに乗って生で食べることが多い。
私自身、一個生かじりするのが好きで、おやつ代わりに食べるのであまり残らない。
私は農作業している途中で、喉が渇くとトマトをその場で丸かじりする。
生暖かいけれど、非常に美味しくて、喉の渇きも不思議と治まる。
苗を10本ほど買って脇芽から何本か増やしたが、これだけ毎日沢山食べるとケチャップにはできないかも知れない。
2012年7月15日日曜日
健康とストレス解消のための水泳
私は長年水泳をしている。
学生の頃は剣道は少ししていた。恥ずかしい話ではあるが、水泳は大学時代に夏用の風呂の代用として、校内の50mプールに行って泳いだ(現在は温水なので一年中泳げる)。
下宿したアパートには風呂がなかったので、適当に泳いだ後、シャンプーと石鹸で体を洗って節約した。
今でも、上郡の田舎の温水プールでは、禁止されているにも関わらず、シャワーで同じことをしている人がいるが、気持ちは分かる。
趣味として泳ぎだしたのは、博士課程への進学を諦め、赤穂に戻ってから土日暇つぶしに温水プールで泳ぎ始めてからである。
学校では剣道部の顧問をすることが多かったが、趣味では水泳を続けていた。
上郡に転居してからも、相生市のプールや上郡のプールで泳ぎ続け、結局、学校でも水泳部の顧問へ転向した。
続けられたのは、子どもに水泳を習わせている間に傍で泳いでいたからである。
そのうち、顧問として指導技術を身につけるためにレッスンを受けたり、上郡のマスターズのチームに入って練習に励んだ。
特に芦田コーチが上郡でマスターズの指導に当たってくれてから、フォームが良くなって楽に泳げるようになり、ますます水泳が好きになった。
現在のメニューはアップ(SKPS)が200×4 バタフライ(キック200 片手200 スイム50×2 25×2) 背泳(キック200 スイム50×4) 平泳ぎ(キック100 プル100 スイム50×4) クロール(ダッシュ25×4) 個人メドレー(200×1 100×2)を基本にしてだいたい1時間45分くらいでこなしいる。
以前はクロール100mを1分50秒で回して、10本くらい普通にこなしていた。
今も生徒と一緒の時は時間を掛けて5000mほど泳ぐこともある。
剣道は学生の頃にやっていた苦しい思い出が蘇り、趣味としてやろうとは思わないが、水泳は苦しめられた経験が殆ど無いので気楽にできる。
学生時代水泳をしていた人は、逆に趣味として水泳ができないのと同じである。
私は競技スポーツと健康スポーツは違うと常々思っている。
水泳部の顧問までして、自らマスターズのレースにも出たので、健康スポーツに徹していたわけではないが、進路や生活を懸けて競うことはなかった。
進路や生活を懸けて行う競技スポーツは健康にはあまり良くない。
体育の教師が現役を退いてから、指導者に徹して自ら行うスポーツから遠のくのもよく理解できる。
私が専門の研究分野で気楽に文章が書けないのと同じだと思う。
今の上郡プールは残念ながら、業者が変わってマスターズのチームも一部の人に限られてしまった。
私も芦田コーチのいないマスターズには魅力がないので、参加していない。
その分、一般に泳ぐ人も少なく、年券も他よりも安いので私はよく利用している。
上郡は1校だけの中学校には水泳部が無くて、選手は以前から苦労していたが、全国大会にもスイミングクラブから普通に出場できるようになっている 。
上郡は剣道とテニスという常識を変えていく土台を芦田コーチが築いて、現在にも引き継がれていると私は思う。
現在の業者も熱心に指導してくれているので、これからはプールも改修されて、よその町からも習いに来るだろう。
ただそうなると、私が気楽に自由に泳げる環境は失われそうだが、マッ いいか・・・
学生の頃は剣道は少ししていた。恥ずかしい話ではあるが、水泳は大学時代に夏用の風呂の代用として、校内の50mプールに行って泳いだ(現在は温水なので一年中泳げる)。
下宿したアパートには風呂がなかったので、適当に泳いだ後、シャンプーと石鹸で体を洗って節約した。
今でも、上郡の田舎の温水プールでは、禁止されているにも関わらず、シャワーで同じことをしている人がいるが、気持ちは分かる。
趣味として泳ぎだしたのは、博士課程への進学を諦め、赤穂に戻ってから土日暇つぶしに温水プールで泳ぎ始めてからである。
学校では剣道部の顧問をすることが多かったが、趣味では水泳を続けていた。
上郡に転居してからも、相生市のプールや上郡のプールで泳ぎ続け、結局、学校でも水泳部の顧問へ転向した。
続けられたのは、子どもに水泳を習わせている間に傍で泳いでいたからである。
そのうち、顧問として指導技術を身につけるためにレッスンを受けたり、上郡のマスターズのチームに入って練習に励んだ。
特に芦田コーチが上郡でマスターズの指導に当たってくれてから、フォームが良くなって楽に泳げるようになり、ますます水泳が好きになった。
現在のメニューはアップ(SKPS)が200×4 バタフライ(キック200 片手200 スイム50×2 25×2) 背泳(キック200 スイム50×4) 平泳ぎ(キック100 プル100 スイム50×4) クロール(ダッシュ25×4) 個人メドレー(200×1 100×2)を基本にしてだいたい1時間45分くらいでこなしいる。
以前はクロール100mを1分50秒で回して、10本くらい普通にこなしていた。
今も生徒と一緒の時は時間を掛けて5000mほど泳ぐこともある。
剣道は学生の頃にやっていた苦しい思い出が蘇り、趣味としてやろうとは思わないが、水泳は苦しめられた経験が殆ど無いので気楽にできる。
学生時代水泳をしていた人は、逆に趣味として水泳ができないのと同じである。
私は競技スポーツと健康スポーツは違うと常々思っている。
水泳部の顧問までして、自らマスターズのレースにも出たので、健康スポーツに徹していたわけではないが、進路や生活を懸けて競うことはなかった。
進路や生活を懸けて行う競技スポーツは健康にはあまり良くない。
体育の教師が現役を退いてから、指導者に徹して自ら行うスポーツから遠のくのもよく理解できる。
私が専門の研究分野で気楽に文章が書けないのと同じだと思う。
今の上郡プールは残念ながら、業者が変わってマスターズのチームも一部の人に限られてしまった。
私も芦田コーチのいないマスターズには魅力がないので、参加していない。
その分、一般に泳ぐ人も少なく、年券も他よりも安いので私はよく利用している。
上郡は1校だけの中学校には水泳部が無くて、選手は以前から苦労していたが、全国大会にもスイミングクラブから普通に出場できるようになっている 。
上郡は剣道とテニスという常識を変えていく土台を芦田コーチが築いて、現在にも引き継がれていると私は思う。
現在の業者も熱心に指導してくれているので、これからはプールも改修されて、よその町からも習いに来るだろう。
ただそうなると、私が気楽に自由に泳げる環境は失われそうだが、マッ いいか・・・
2012年7月14日土曜日
田んぼのあった頃
昔の米の価値は高かった。1石(180kg)が大人一人の一年分の米の消費量と江戸時代ではみなされていた。
昭和35年で米1升(1.5kg)が122円*1で、当時初任者の月給1万円だったということから、米価約80kg分である。
現在、家で買っている自主流通米の玄米60kgが16000円で、それを基準にすると、月給約26000円となる。現在が高卒の初任給を約16万円とすると、米の価値は5分の1以下になったことになる。
因みに江戸時代なら38000円で一人分の1年間の米がまかなえたことになる。
私の父親は母方の祖母と共同で水田を3反ほど、昭和40年代に買った。
当時は確か1反8俵(480kg)もとれなかったと思うが、現在の自主流通米の価値では384000円の収入、当然肥料や頼んだ機械の費用もあったので、それだけの価値はない。
そのまま初任給比較で5倍の価値として変わっていなかったら、200万円近くになっていたことになる。
父親が必死になって4人の子どもを育てるために、勤めに出ながら稲作りをした意味がよく分かる。
また、当時は土地は値上がるものとして、投機的な意味があった。
父は水田以外にも、宅地や畑を買ったが、水田1枚は高校の用地に売れ、宅地も売って、結局もう一枚の水田を宅地化して家を建てて、宅地名義にした畑が残った。
これら全て母方の祖母と折半で、家も隣同士になった。
ところが、現在ではパチンコで1日1万円以上が動く時代である。
20万円くらい1年間どころか、 半年ですってしまう人もいるだろうし、逆にもうける人もいるだろう。
汗水垂らして、稲を作る意味はなくなり、機械で楽をして利益を無くしてしまっているのが、この地域の兼業農家の実情である。
土地も値上がりどころか、値下がりしてきている。
古代ローマは征服した地域のコロニーから安い穀物が入ってきて母国の農業が荒廃した。
「パンと見せ物と要求する無産ローマ市民」は世界史で必ず習う常識だが、生活保護を受けながらスポーツ観戦や競馬をしているのと現在の日本と同じである。
現在は古代ローマのように兵役とは関係していないので、もっと国家への依存性が高い。
私は父親のように早朝と夕方に農作業をしながら働くことはできないが、せめて週末くらいは自給用の野菜を作ろることを続けている。
農地は全て借地であるが、盆暮れのお礼程度で済んでいる。
これは農作業は決してコストに見合うものではなくて、目的はあくまで「自分で築く生活の証を得る」ためである。
*1 米価の変遷-Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E4%BE%A1%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
昭和35年で米1升(1.5kg)が122円*1で、当時初任者の月給1万円だったということから、米価約80kg分である。
現在、家で買っている自主流通米の玄米60kgが16000円で、それを基準にすると、月給約26000円となる。現在が高卒の初任給を約16万円とすると、米の価値は5分の1以下になったことになる。
因みに江戸時代なら38000円で一人分の1年間の米がまかなえたことになる。
私の父親は母方の祖母と共同で水田を3反ほど、昭和40年代に買った。
当時は確か1反8俵(480kg)もとれなかったと思うが、現在の自主流通米の価値では384000円の収入、当然肥料や頼んだ機械の費用もあったので、それだけの価値はない。
そのまま初任給比較で5倍の価値として変わっていなかったら、200万円近くになっていたことになる。
父親が必死になって4人の子どもを育てるために、勤めに出ながら稲作りをした意味がよく分かる。
また、当時は土地は値上がるものとして、投機的な意味があった。
父は水田以外にも、宅地や畑を買ったが、水田1枚は高校の用地に売れ、宅地も売って、結局もう一枚の水田を宅地化して家を建てて、宅地名義にした畑が残った。
これら全て母方の祖母と折半で、家も隣同士になった。
ところが、現在ではパチンコで1日1万円以上が動く時代である。
20万円くらい1年間どころか、 半年ですってしまう人もいるだろうし、逆にもうける人もいるだろう。
汗水垂らして、稲を作る意味はなくなり、機械で楽をして利益を無くしてしまっているのが、この地域の兼業農家の実情である。
土地も値上がりどころか、値下がりしてきている。
古代ローマは征服した地域のコロニーから安い穀物が入ってきて母国の農業が荒廃した。
「パンと見せ物と要求する無産ローマ市民」は世界史で必ず習う常識だが、生活保護を受けながらスポーツ観戦や競馬をしているのと現在の日本と同じである。
現在は古代ローマのように兵役とは関係していないので、もっと国家への依存性が高い。
私は父親のように早朝と夕方に農作業をしながら働くことはできないが、せめて週末くらいは自給用の野菜を作ろることを続けている。
農地は全て借地であるが、盆暮れのお礼程度で済んでいる。
これは農作業は決してコストに見合うものではなくて、目的はあくまで「自分で築く生活の証を得る」ためである。
*1 米価の変遷-Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E4%BE%A1%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
2012年7月11日水曜日
家業があった頃
私の父親は船乗りだった。それは祖父から継いだもので、乗っていたのは鷆和の御影石を主に運ぶもので、100tほどの木造船だった。
私の幼い頃は、年子の弟と母親も一緒に乗っての運搬仕事をしていて、若い人も一人雇っていた。
父親は船が時化で難破しかかったことや、子ども達の学校のことも考えて、会社勤めに転職した。
本家は祖父母もいたこともあって、伯父は30年ほど前までその家業を続けていた。
つまり、本家の伯父と私の父親が家業を継いだのだが、その家業を続けたのは本家の伯父だけだった。
家業を子どもに任せた祖父は、石材や植木を扱う庭師もしていた。
祖父の左手の指二本が第2関節くらいから無くて、子どもの頃は異様に思えたが、これは石にはさまれて失ったと聞いた。
私は小遣いを貰って祖父の庭師の仕事を何度か手伝った。
私が中学校から結婚するまで過ごした実家の庭は、祖父とその知り合いの庭師が作ったものである。
殆ど来客のない実家の庭にしては立派すぎるものであり、管理ももてあまして父親の死後は、大きな黒松を途中で切ったりもした。
それでも祖父の思いが込められた庭なので、父親も大事に管理していたこともあって、実家に一人暮らす母親も人手を借りながら何とか維持している。
私は幼い頃は盆正月には本家に家族と泊まりがけで出かけた。
本家の伯父を中心に男3人、女1人の兄弟とその家族が集まる賑やかなものだった。
ところが、その食事の席に祖父が加わったのを一度も見たことがなかった。
私は夏休みなどに本家に預けられることがあったが、その時は祖父母やいとこと一緒に食事するのが普通だったが、何故か盆と正月には祖父は一緒に食事をするのを避けていた。
今から考えると、祖父は楽しそうに過ごしている子ども家族の雰囲気を壊したくなかったのかも知れない。
祖父は悪く言うとワンマンな家長で、よく言うと威厳のある職人ともとれた。
この頃、曲がりなりに畑仕事を息子や家内としている時に、ワンマンな自分を見いだすことがある。
別にそれで収入を得ているわけではないのだが、家計の足しになっている農作物は大事な家業になりつつある。
いい加減な仕事を妻子がしていると、厳しく叱咤することもたびたびである。
そんな時に、昔のじいさんや親父が近寄りがたい存在であったことが、実感として理解できる。
今でも家業で生活している家では、親父の存在は大きいのだろうと思う。
ところが会社勤めの親父は疲れかえって、テレビを見ながらくつろぐ姿しか見せられない。
威厳が示せるはずもないし、示す必要もないのである。
仕事のない息子の将来と自分たち夫婦の老後を考える時、何とか家業を興したいと思う。
そして、昔親父や祖父が築いていた家業を思うのであるが、リスクを背負いながら確実に経営を成り立たせていた力量に今更敬服する。
雇われた身に安住できたし、その職業に何らかの誇りも持っていたのだが、子ども一人の生活も保障できないし、老後の不安も抱えざる得ない。
昔は農家も職人も、商売人も家族や親戚と力を合わせて、家業をもり立てて行くのが当たり前だったのだが、大規模に展開しないとやってこられない状態で、廃業を余儀なくされている。
赤穂のショッピングモールが賑やかな一方で、古くからの商店街がシャッター街になっている姿はその象徴だろう。
誰もが働きに出かけられた塩田ももう無い
勉強ができることが、あたかも実力があり成功できると信じてこれた時代はもう終わったように思う。
グローバルな時代を生き抜くには完全に国境を越えて仕事ができる能力を持つか、地域にへばりついて、独自の家業を工夫しながら展開していくしかない。
大きな会社に入ったり公務員になって呑気に暮らしをする時代はもう終わった。
今頃それに気付く自体、呑気な公務員だったのだろう。
私の幼い頃は、年子の弟と母親も一緒に乗っての運搬仕事をしていて、若い人も一人雇っていた。
父親は船が時化で難破しかかったことや、子ども達の学校のことも考えて、会社勤めに転職した。
本家は祖父母もいたこともあって、伯父は30年ほど前までその家業を続けていた。
つまり、本家の伯父と私の父親が家業を継いだのだが、その家業を続けたのは本家の伯父だけだった。
家業を子どもに任せた祖父は、石材や植木を扱う庭師もしていた。
祖父の左手の指二本が第2関節くらいから無くて、子どもの頃は異様に思えたが、これは石にはさまれて失ったと聞いた。
私は小遣いを貰って祖父の庭師の仕事を何度か手伝った。
私が中学校から結婚するまで過ごした実家の庭は、祖父とその知り合いの庭師が作ったものである。
殆ど来客のない実家の庭にしては立派すぎるものであり、管理ももてあまして父親の死後は、大きな黒松を途中で切ったりもした。
それでも祖父の思いが込められた庭なので、父親も大事に管理していたこともあって、実家に一人暮らす母親も人手を借りながら何とか維持している。
私は幼い頃は盆正月には本家に家族と泊まりがけで出かけた。
本家の伯父を中心に男3人、女1人の兄弟とその家族が集まる賑やかなものだった。
ところが、その食事の席に祖父が加わったのを一度も見たことがなかった。
私は夏休みなどに本家に預けられることがあったが、その時は祖父母やいとこと一緒に食事するのが普通だったが、何故か盆と正月には祖父は一緒に食事をするのを避けていた。
今から考えると、祖父は楽しそうに過ごしている子ども家族の雰囲気を壊したくなかったのかも知れない。
祖父は悪く言うとワンマンな家長で、よく言うと威厳のある職人ともとれた。
この頃、曲がりなりに畑仕事を息子や家内としている時に、ワンマンな自分を見いだすことがある。
別にそれで収入を得ているわけではないのだが、家計の足しになっている農作物は大事な家業になりつつある。
いい加減な仕事を妻子がしていると、厳しく叱咤することもたびたびである。
そんな時に、昔のじいさんや親父が近寄りがたい存在であったことが、実感として理解できる。
今でも家業で生活している家では、親父の存在は大きいのだろうと思う。
ところが会社勤めの親父は疲れかえって、テレビを見ながらくつろぐ姿しか見せられない。
威厳が示せるはずもないし、示す必要もないのである。
仕事のない息子の将来と自分たち夫婦の老後を考える時、何とか家業を興したいと思う。
そして、昔親父や祖父が築いていた家業を思うのであるが、リスクを背負いながら確実に経営を成り立たせていた力量に今更敬服する。
雇われた身に安住できたし、その職業に何らかの誇りも持っていたのだが、子ども一人の生活も保障できないし、老後の不安も抱えざる得ない。
昔は農家も職人も、商売人も家族や親戚と力を合わせて、家業をもり立てて行くのが当たり前だったのだが、大規模に展開しないとやってこられない状態で、廃業を余儀なくされている。
赤穂のショッピングモールが賑やかな一方で、古くからの商店街がシャッター街になっている姿はその象徴だろう。
誰もが働きに出かけられた塩田ももう無い
勉強ができることが、あたかも実力があり成功できると信じてこれた時代はもう終わったように思う。
グローバルな時代を生き抜くには完全に国境を越えて仕事ができる能力を持つか、地域にへばりついて、独自の家業を工夫しながら展開していくしかない。
大きな会社に入ったり公務員になって呑気に暮らしをする時代はもう終わった。
今頃それに気付く自体、呑気な公務員だったのだろう。
2012年7月8日日曜日
一晩でできた河原
河原というのは少し大袈裟なのだが、7月6日夜から朝にかけての豪雨で近所を流れる高田川の、私が借りている畑の近くで小さな河原が出現した。
というのも、冬場にユンボーで川底を浚って均していたのだが、大小の石が堆積して元のように河原を作ってしまった。
違う場所では道端の側面が抉られたり、もともとあった河原が益々大きくなっていた。
畑の近くの河原はおおよそ大型ダンプ一杯分の量に思えるが、たかだか、10mの幅に満たず、蛍の舞う小川が、数日轟音を響かせていた。
明け方3時頃に避難準備情報がこの高田川流域に出されたが、その時の水位は近所の人によると、コンクリートの護岸の上から30cmまで達していたという。
川底を浚っていたことも幸いして、それだけで済んだと思う。
上郡や佐用も比較的被害が少なくて済んだのも、300年に一度の大雨にも耐えるという千種川の河川工事を冬場に急いでいたお陰だと思うが、毎年のように繰り返される豪雨にこれから先思いやられる。
ただ、実はこの高田川流域に大きな集落が多くできたのはそんなに古くはなかったという。
千種川流域も、氾濫に備えて山際の一段高い位置に家屋が建てられていたが、近年は低い場所にも家屋が建ちだした。
川の堤防は破れないという前提で、村や町が発展してきている。
本来、沖積平野は川の氾濫によってできあがったものだから、氾濫するのが自然の姿である。
大昔は、氾濫時には浸水覚悟で家屋を建てていたのだろう。
考えてみれば昔の家は、大掃除では畳を上げて、その下の床板まで取り外していた。
実はこの畳が普及したのもそう古くはなくて、貧しい家は土間の上に蓆や藁を敷いたりという。
経済的に豊かな家から順に畳になったようだが、土間だけの家は浸水してもそう被害はない。
こういう農村地帯では、要するに近代化によって豊になってから、大きな浸水被害が起きるようになったのだ。
当然城下町などの町は古くから洪水被害に悩まされてきたようだ。
赤穂も、明治の大水害後、大がかりな工事で二股に分かれていた川を一本にした。
だから、今でも中州という地名が残っている。
土手も一方を低くして、城側中心部の氾濫を防ぐ構造にしていたという。
経済的に発展した現代では、氾濫を防ぐ手立てをずっと続けねばならないだろう。
ただ、温暖化による異常気象に耐えられなくなる限界集落も今後出現し、山が荒れ、水田が沼地になっていくのは確実だと思う。
それも、自然と言えば自然なのだが・・・
というのも、冬場にユンボーで川底を浚って均していたのだが、大小の石が堆積して元のように河原を作ってしまった。
違う場所では道端の側面が抉られたり、もともとあった河原が益々大きくなっていた。
畑の近くの河原はおおよそ大型ダンプ一杯分の量に思えるが、たかだか、10mの幅に満たず、蛍の舞う小川が、数日轟音を響かせていた。
明け方3時頃に避難準備情報がこの高田川流域に出されたが、その時の水位は近所の人によると、コンクリートの護岸の上から30cmまで達していたという。
川底を浚っていたことも幸いして、それだけで済んだと思う。
上郡や佐用も比較的被害が少なくて済んだのも、300年に一度の大雨にも耐えるという千種川の河川工事を冬場に急いでいたお陰だと思うが、毎年のように繰り返される豪雨にこれから先思いやられる。
ただ、実はこの高田川流域に大きな集落が多くできたのはそんなに古くはなかったという。
千種川流域も、氾濫に備えて山際の一段高い位置に家屋が建てられていたが、近年は低い場所にも家屋が建ちだした。
川の堤防は破れないという前提で、村や町が発展してきている。
本来、沖積平野は川の氾濫によってできあがったものだから、氾濫するのが自然の姿である。
大昔は、氾濫時には浸水覚悟で家屋を建てていたのだろう。
考えてみれば昔の家は、大掃除では畳を上げて、その下の床板まで取り外していた。
実はこの畳が普及したのもそう古くはなくて、貧しい家は土間の上に蓆や藁を敷いたりという。
経済的に豊かな家から順に畳になったようだが、土間だけの家は浸水してもそう被害はない。
こういう農村地帯では、要するに近代化によって豊になってから、大きな浸水被害が起きるようになったのだ。
当然城下町などの町は古くから洪水被害に悩まされてきたようだ。
赤穂も、明治の大水害後、大がかりな工事で二股に分かれていた川を一本にした。
だから、今でも中州という地名が残っている。
土手も一方を低くして、城側中心部の氾濫を防ぐ構造にしていたという。
経済的に発展した現代では、氾濫を防ぐ手立てをずっと続けねばならないだろう。
ただ、温暖化による異常気象に耐えられなくなる限界集落も今後出現し、山が荒れ、水田が沼地になっていくのは確実だと思う。
それも、自然と言えば自然なのだが・・・
2012年7月7日土曜日
初めて作った黒ニンニク
今日一週間前に仕込んだニンニクが黒ニンニクになった。
ネットで調べて、いい加減にやったのだが上出来であった。
ニンニクがこんなに甘くなると知らなかった。考えてみれば奄美の塩漬けニンニクは砂糖を加えているのかと思うほど甘かった。これも醗酵して甘くなっていたのだということに気がついた。
ネットでは非常に臭くなるので外に出すように書いてあったのだが、普段よくニンニクを料理に使っている我が家ではさほどの臭さではない。
ただ、完成に近づくと独特の臭いがするので、それがちょっと気になる程度で、全く問題ない。
それでも家内はニンニクの臭いを好まないので、一粒試食しただけで止めてしまった。
甘くて美味しいと一房食べた息子とは大違いである。
この、黒ニンニク製造のために、新しい炊飯器を買った。
といっても、5000円もしない売り出し物。前のは蓋が閉まらなくなって、ゴムバンドで留めていたので、そちらを製造用にした。本当はこちらの方が結構高い炊飯器であった。
これに、小さいニンニクを選って、水洗いをして保温状態で一週間寝かした。
分量などは全く無視した。途中何度か蓋を開けて乾燥してないか確かめる程度で、殆ど放って置いた。
できあがった物は、ネットの写真よりは黒みが少ないが、全く辛みが無く、ニンニクジャムのような感じである。
今までニンニクはネットに入れて保存していたのだが、春になると芽が出てしなびてしまう。
今年は、それを少し電子レンジで加熱したり、生のまま燻製にした。
それはそれなりに美味しいのだが、臭いがきつい。
黒ニンニクは臭いが少ないと書いてあったので、これからは黒ニンニクにして人にあげたり、保存しようと思った。
何よりも小さいニンニクでも充分美味しく食べられそうである。
おそらく、今年は芽が出る前に無くなってしまうだろう。
ネットで調べて、いい加減にやったのだが上出来であった。
ニンニクがこんなに甘くなると知らなかった。考えてみれば奄美の塩漬けニンニクは砂糖を加えているのかと思うほど甘かった。これも醗酵して甘くなっていたのだということに気がついた。
ネットでは非常に臭くなるので外に出すように書いてあったのだが、普段よくニンニクを料理に使っている我が家ではさほどの臭さではない。
ただ、完成に近づくと独特の臭いがするので、それがちょっと気になる程度で、全く問題ない。
それでも家内はニンニクの臭いを好まないので、一粒試食しただけで止めてしまった。
甘くて美味しいと一房食べた息子とは大違いである。
この、黒ニンニク製造のために、新しい炊飯器を買った。
といっても、5000円もしない売り出し物。前のは蓋が閉まらなくなって、ゴムバンドで留めていたので、そちらを製造用にした。本当はこちらの方が結構高い炊飯器であった。
これに、小さいニンニクを選って、水洗いをして保温状態で一週間寝かした。
分量などは全く無視した。途中何度か蓋を開けて乾燥してないか確かめる程度で、殆ど放って置いた。
できあがった物は、ネットの写真よりは黒みが少ないが、全く辛みが無く、ニンニクジャムのような感じである。
今までニンニクはネットに入れて保存していたのだが、春になると芽が出てしなびてしまう。
今年は、それを少し電子レンジで加熱したり、生のまま燻製にした。
それはそれなりに美味しいのだが、臭いがきつい。
黒ニンニクは臭いが少ないと書いてあったので、これからは黒ニンニクにして人にあげたり、保存しようと思った。
何よりも小さいニンニクでも充分美味しく食べられそうである。
おそらく、今年は芽が出る前に無くなってしまうだろう。
2012年7月1日日曜日
家庭菜園の贅沢な暮らし(2012年初夏 )
教師の給料は下がる一方で、ボーナスを貰ってもさほど嬉しくはない。以前に比べればあまりにも目減りしているからである。
ただ、東北地方の失業者や企業の経営不振でリストラや減給されている人に比べればましなので、あまりぼやくと叱られそうである。
そんな中で唯一の贅沢が家庭菜園の収穫物である。
ズッキーニやナス、キュウリなど夏野菜がとれだして、ラタトーユなど家内お手製のご馳走が食べられるからである。
出荷をして金に換えることを考えれば、見合うものではないが、もしそれらを全部買ったとしたら、結構な額になる。
ズッキーニなどは季節にもよるが、一本100円以上することもある。毎日これから贅沢にも朝の味噌汁に入れたり、ふんだんに食べられる。
今年は黒ニンニクを作り始めたし、前年収穫した黒大豆は酢大豆にして毎日食べている。ジャガイモのキタアカリは電子レンジでふかしてビールのつまみにしている。
都会では1ヶ月6,000円以上の会費を払って家庭菜園をしている人もいるとテレビで特集していたが、その人達は買った方が安い野菜そのものの価値よりも、作る悦びをそのお金で買っているのだと思う。
田舎の我々は、贅沢にも新鮮で安全な野菜をふんだんに食べる悦びを得ている。
農業を生業にしている人はそれに生活がかかっているので、商品としか見られないと言うことを知り合いから聞いた。
その人達からすれば単なる趣味かも知れないが、昔のあまり現金収入がなかった頃は、自ら手に入れる作物や獲物が生活を潤していたのだから、本来の姿というべきとも思える。
今になって、この頃に「輪抜け」や「足洗」という行事があったこと分かる。私も週末や平日の帰宅後は殆ど農作業に追われているが、やっと一息つけるからだ。
昔は田植えが終わって、やっと足を洗ってゆっくりできるという意味だったが、今は機械で田植えはやってしまうのでそれ程忙しくない。
むしろ、稲作よりも畑作の方が忙しいのである。畑1反(10a)は水田1町(1ha)に匹敵するとまで言われる。
私は自分の畑や貸して貰っている畑を合計すると、1反近くになるので結構大変である。
狭い1区画で楽しみを得ている都会の家庭菜園とは全く違うが、そういうことがやれる生活はそれなりに気に入っている。
幼い頃の昔、住んでいた家の近くのノットという所で、「足洗」の夜は出店がでて、私は浴衣を着せられて出かけた。
10円持って駄菓子屋にしか行けなかった当時では、100円貰って出店で好きな物を買うことは何よりも楽しみで、未だに木の皮の舟形皿に入ったかき氷の味を忘れられない。
手回しの機械で山盛りにしてくれていた糖蜜だけのかき氷を、木の匙で口にかき込んだ。
当時はそれだけで悦びを感じることができたのだ。
田舎の家庭菜園はその延長上にあるように思う。
ただ、東北地方の失業者や企業の経営不振でリストラや減給されている人に比べればましなので、あまりぼやくと叱られそうである。
そんな中で唯一の贅沢が家庭菜園の収穫物である。
ズッキーニやナス、キュウリなど夏野菜がとれだして、ラタトーユなど家内お手製のご馳走が食べられるからである。
出荷をして金に換えることを考えれば、見合うものではないが、もしそれらを全部買ったとしたら、結構な額になる。
ズッキーニなどは季節にもよるが、一本100円以上することもある。毎日これから贅沢にも朝の味噌汁に入れたり、ふんだんに食べられる。
今年は黒ニンニクを作り始めたし、前年収穫した黒大豆は酢大豆にして毎日食べている。ジャガイモのキタアカリは電子レンジでふかしてビールのつまみにしている。
都会では1ヶ月6,000円以上の会費を払って家庭菜園をしている人もいるとテレビで特集していたが、その人達は買った方が安い野菜そのものの価値よりも、作る悦びをそのお金で買っているのだと思う。
田舎の我々は、贅沢にも新鮮で安全な野菜をふんだんに食べる悦びを得ている。
農業を生業にしている人はそれに生活がかかっているので、商品としか見られないと言うことを知り合いから聞いた。
その人達からすれば単なる趣味かも知れないが、昔のあまり現金収入がなかった頃は、自ら手に入れる作物や獲物が生活を潤していたのだから、本来の姿というべきとも思える。
今になって、この頃に「輪抜け」や「足洗」という行事があったこと分かる。私も週末や平日の帰宅後は殆ど農作業に追われているが、やっと一息つけるからだ。
昔は田植えが終わって、やっと足を洗ってゆっくりできるという意味だったが、今は機械で田植えはやってしまうのでそれ程忙しくない。
むしろ、稲作よりも畑作の方が忙しいのである。畑1反(10a)は水田1町(1ha)に匹敵するとまで言われる。
私は自分の畑や貸して貰っている畑を合計すると、1反近くになるので結構大変である。
狭い1区画で楽しみを得ている都会の家庭菜園とは全く違うが、そういうことがやれる生活はそれなりに気に入っている。
幼い頃の昔、住んでいた家の近くのノットという所で、「足洗」の夜は出店がでて、私は浴衣を着せられて出かけた。
10円持って駄菓子屋にしか行けなかった当時では、100円貰って出店で好きな物を買うことは何よりも楽しみで、未だに木の皮の舟形皿に入ったかき氷の味を忘れられない。
手回しの機械で山盛りにしてくれていた糖蜜だけのかき氷を、木の匙で口にかき込んだ。
当時はそれだけで悦びを感じることができたのだ。
田舎の家庭菜園はその延長上にあるように思う。
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