ページ

2012年7月28日土曜日

ウナギ捕りし彼の川

先日、広場の草刈り作業があった。そこで近所の人が「先週は33匹釣ったで」という話をしているので、何のことかと聞いてみるとウナギを夜に釣ってきたと言うことである。
そう言えば、赤穂の隣の畑の人が、ミミズを捕ってウナギの餌にすると話していた。
千種川の河口などは昔からミミズを細い竹の針先に付けて、石垣の間などに差し入れて釣っている人がいた。
養殖ウナギが稚魚がいなくなって高騰しているというニュースとは全く無縁の話に驚いた。

私が赤穂の尾崎に住んでいた頃は、千種川は子どもの遊び場であり、漁場であった。
小さい頃は絶対行くなと親から言われていたが、大きくなるにしたがって自由に行くようになる。
当時は安い竹竿でハゼやテンコチを釣ることが多かったが、ヤスを使ってウナギやカレイを突いた。
当時はウナギは大きな石をめくれば、それ程大きくはないが、おかずになる程度のウナギは簡単に捕れた。
大人は釣ったり、潜ったりしてウナギの大きいのを捕まえていた。

ウナギは今でこそご馳走になったが、当時は牛肉が一番のご馳走で、穴子などと同様に骨まで食べさせられる普段のおかずだった。
ドジョウなどは田んぼの井戸にいっぱいいたので、それを捕ってきて飽きるほど食べさせられた。
今はそれが逆転してしまい、高級魚になってしまったのである。
牛肉はご馳走の座から、普段のおかずに落ちてしまった。

そう言えばラジオでメダカの研究者が、絶滅種であるメダカの生態がよく分かっていないということを言っていたのに驚いた。
ウナギも穴子もメダカもドジョウの身近な存在だったのに、その生態が分かっていなかったのである。
考えてみれば、蝉でさえ地中の様子などは知らないし、ツバメが冬どんなところで過ごしているのかもよく知らない。
夏になれば訪れる生き物との関わりを当たり前のこととして接していたのであるが、それらの生き物がいなくなってしまおうとしている。
家の庭のかなめの木にはニイニイ蝉が毎朝うるさく鳴いているのだが、この蝉も最近は貴重らしい。

子どもがいなくなったとか、過疎化で老人ばかりになったという寂しい話はよくマスコミに話題になるが。
ウナギがいなくなったら寂しいのではなくて、値段が上がって食べられないという話題にしかならない。
確かに安ければ食べたいというのは本音だけれど、それ以上に絶滅していく生き物を食い飽きない我々日本人のどん欲さに呆れる。
鯨は欧米人に責められて食べないけれど、ウナギは地球の果てまで行って食い尽くす勢いである。
江戸時代にうなぎ屋のために作られた食文化が、経済大国になって台湾や中国を巻き込み、世界を席巻する。
自然を愛する日本の伝統文化というのは、鯨、マグロ、ウナギを食い尽くすことだったのか。
と、食べられない負け惜しみを言いたくなる。

せめて、完全養殖が軌道に乗るまで我慢しよう。
土用の日は豚肉丼で済ました・・・ただ、ウナ肝は200円奮発して1本食べさせてもらった。
本当は安ければ鰻丼食べたかった・・・・・。
大学生の時にボーナスの出たゼミの先生が、おごってくれた専門店のウナギ尽くしが、未だに忘れられない。
二段重ねの鰻重に、ウナギの卵巻、ウナ肝のお吸い物etc 30年も前の話である。


0 件のコメント:

コメントを投稿