突然、高等部の3年生のこの時期にMくんが転校することになった。
昨日は9月最後の登校の日であった。
そのMくんの担任の先生が寄せ書用に掛け軸ほどの分厚い布を用意してくれた。
特別支援学校なので、学年の生徒数も多くなく、皆がそれに思い思いの言葉を連ねた。
私も彼には思い出がある。1年生の秋の宿泊学習で、彼は眠れず夜中に歌を歌い続けたからだ。
「海は広いな 大きいな」、何故か秋の高原の宿舎で彼は歌い続けた。
ところが、次の年の宿泊学習は夏に島の宿舎に泊まったが、何も歌わず静かに眠った。
私は彼の「海は広いな 大きいな」の歌がずっと、耳から離れず残っている。
いざ、お別れという時間になって、私の担任している生徒が泣きじゃくった。
彼は中学部から彼と一緒だったのだ。
普段はそれ程関わりがあったわけではないのに、Mくんの去って誰もいなくなった教室に行ってまで泣いた。
友達の転校でこれほど悲しむのだから、卒業式はどうなるのだろうかと心配にもなった。
私たち教師は長年この仕事をやっていると、出会いと別れの繰り返しになってしまうので、こういう感情に無感覚になるのかも知れない。
Mくんのために書かれた寄せ書きは、実は相撲用のまわしの生地を切ったものにされたものだった。
たまたまMくんの担任の先生の実家が、その生地を扱う使う仕事をしていたのだ。
それを聞いた時に私は複雑な気持ちになった。
私は以前、奄美の十五夜で相撲を取った時にまわしを締めたので、股に食い込むまわしのイメージが強いからだ。
相撲に全く縁のない人には、まわしの生地に抵抗はないだろうが、それが壁にぶら下がっていると考えると・・・
まさか、掛け軸に似ているからといって床の間には掛けないだろうが・・・
因みに、私は若い頃痔の手術で一ヶ月入院したのだが、その退院の際に入院している仲間から寄せ書きをした新品のT字帯をもらった(それがこの病院の慣例だった)。
その寄せ書きは戒めを込めて大切に置いているが、引き出しの中にしまったままである。
そのことも複雑な気持ちにさせた。
個人的には複雑な気持ちを覚えるにしろ、手作りの気持ちを大切にしなくてはいけないと自分に言い聞かせている。
それが、この学校の素朴で良いところなのだと。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年9月29日土曜日
下駄に釘
やはり下駄には最後は釘を打ってしまう。
正確には、ねじ釘を上から通して、スパイクにしたのである。
下駄を履いて、犬の散歩をこの夏はずっとしていたが、ついに板状になってしまった。
名古屋の郊外にあった大学の学生の頃は、夏場にはずっとはき続けていて、同級生からそれは「下駄ではなく、板だがね」と言われて笑われた。
その頃は下駄も容易く手に入り、そう無理してはき続ける必要はなかったのだが、履くと愛着が湧く。
それは今も同じなのだが、今はちゃんと歯の着いた下駄はあまり見かけなくなった。
実は今履いている下駄は、リサイクルショップで売っていた旅館の杉板の下駄で500円だった。
鼻緒がきつくて暫くはいていなかったのだが、今年は鼻緒がなじむまで 我慢してはいた。
以前は900円ほどの靴底型の桐下駄だったので、禿びるのを惜しんで下からねじ釘を打った。
その時、だんだん釘先が出て痛かったので、今度は上からにした。
スパイクになった下駄はアスファルトの道では、村中に響く音を出す。
近所の座敷犬はその音が嫌らしく、音がすると中から吠える。
暫く見なかったゴンちゃんというミニチュアダックスフンドも、吠えられてまだ生きていることが分かって安心した。
散歩には下駄が一番良いが、雪駄や沖縄のシマ草履もよく使っている。
雪駄や草履は雨や夜露に弱く、足が汚れる弱点がある。
その雪駄には思い出がある。東京の大学院に在籍していた頃よくはいてたからである。
さすがに山手線は下駄では通学しづらかったので、底裏が自転車タイヤの職人用の雪駄などをはいた。
ある日、研究室の教授のお供で渋谷で飲んでいて、私は酔った勢いで生意気な口をきいてしまった。
怒った教授は「おまえはKさん(大学の恩師)に頼まれたから、修士だけのつもりでとってやったのだ」と本音を言われてしまった。
さすがに厚顔無知な私も衝撃を受けて、 しょぼくれて帰る渋谷駅の階段で躓いて生爪をはがしてしまった。
翌日、あまりに痛いので、下宿近くの医院に行くと、治りが早いからとそのとれかかった生爪を抜かれてしまった。
因みに、爪は見えない部分が見える部分と同じほどあった。
這うように下宿に戻り、その痛みの地獄はそれから暫く続いた。
結局、先輩から励まされたが、力不足で教授の意志を覆すだけの論文も書けずに、博士への進学を諦め修士で大学院を去ることになった。
雪駄にはその辛くて痛い思い出がつきまとい、タイヤ底の職人用の雪駄は爾来履いていない。
今日も中秋の名月まで二日の夕方の月を眺めながら、犬の散歩に出かけた。
彼岸花は今年は咲くのが遅くて、今が満開である。
空には綺麗なお月様、道端には真っ赤な彼岸花と、田舎のたんぼ道は風情に溢れている。
その風情を打ち破る、下駄の金属音。
無粋だと思いながら、せめて裸足でいられる間は持ちこたえて欲しいと思うのである。
下駄に釘を打つと、底は減らなくなるが、板が割れてしまう。
それでも大切に使うのは、お金をけちっているからではなく、本当は新しい鼻緒で痛い思いをするのが嫌だからである。
正確には、ねじ釘を上から通して、スパイクにしたのである。
下駄を履いて、犬の散歩をこの夏はずっとしていたが、ついに板状になってしまった。
名古屋の郊外にあった大学の学生の頃は、夏場にはずっとはき続けていて、同級生からそれは「下駄ではなく、板だがね」と言われて笑われた。
その頃は下駄も容易く手に入り、そう無理してはき続ける必要はなかったのだが、履くと愛着が湧く。
それは今も同じなのだが、今はちゃんと歯の着いた下駄はあまり見かけなくなった。
実は今履いている下駄は、リサイクルショップで売っていた旅館の杉板の下駄で500円だった。
鼻緒がきつくて暫くはいていなかったのだが、今年は鼻緒がなじむまで 我慢してはいた。
以前は900円ほどの靴底型の桐下駄だったので、禿びるのを惜しんで下からねじ釘を打った。
その時、だんだん釘先が出て痛かったので、今度は上からにした。
スパイクになった下駄はアスファルトの道では、村中に響く音を出す。
近所の座敷犬はその音が嫌らしく、音がすると中から吠える。
暫く見なかったゴンちゃんというミニチュアダックスフンドも、吠えられてまだ生きていることが分かって安心した。
散歩には下駄が一番良いが、雪駄や沖縄のシマ草履もよく使っている。
雪駄や草履は雨や夜露に弱く、足が汚れる弱点がある。
その雪駄には思い出がある。東京の大学院に在籍していた頃よくはいてたからである。
さすがに山手線は下駄では通学しづらかったので、底裏が自転車タイヤの職人用の雪駄などをはいた。
ある日、研究室の教授のお供で渋谷で飲んでいて、私は酔った勢いで生意気な口をきいてしまった。
怒った教授は「おまえはKさん(大学の恩師)に頼まれたから、修士だけのつもりでとってやったのだ」と本音を言われてしまった。
さすがに厚顔無知な私も衝撃を受けて、 しょぼくれて帰る渋谷駅の階段で躓いて生爪をはがしてしまった。
翌日、あまりに痛いので、下宿近くの医院に行くと、治りが早いからとそのとれかかった生爪を抜かれてしまった。
因みに、爪は見えない部分が見える部分と同じほどあった。
這うように下宿に戻り、その痛みの地獄はそれから暫く続いた。
結局、先輩から励まされたが、力不足で教授の意志を覆すだけの論文も書けずに、博士への進学を諦め修士で大学院を去ることになった。
雪駄にはその辛くて痛い思い出がつきまとい、タイヤ底の職人用の雪駄は爾来履いていない。
今日も中秋の名月まで二日の夕方の月を眺めながら、犬の散歩に出かけた。
彼岸花は今年は咲くのが遅くて、今が満開である。
空には綺麗なお月様、道端には真っ赤な彼岸花と、田舎のたんぼ道は風情に溢れている。
その風情を打ち破る、下駄の金属音。
無粋だと思いながら、せめて裸足でいられる間は持ちこたえて欲しいと思うのである。
下駄に釘を打つと、底は減らなくなるが、板が割れてしまう。
それでも大切に使うのは、お金をけちっているからではなく、本当は新しい鼻緒で痛い思いをするのが嫌だからである。
2012年9月23日日曜日
秋はやはり自転車
やっと念願の新しい自転車用ヘルメットを買った。
これまではサイズが小さくあご紐が窮屈だった。しかも、20年以上前の製品であった(マニュアル本によると耐用年数は2年)。
さっそく長年乗っているBriddgestoneのRadacで出かけた。
この自転車は27年ほど前に通勤と趣味用に買ったロードバイクで、七段変速でストレートハンドルにバーエンドバーを付けた。
タイヤやチェーン、サドルを交換しながら、思い出したように乗り続けている。
特に去年の秋に糖尿病で教育入院して以来乗る機会が増えたが、真冬や夏の盛りにはさすがに乗れなかった。
今日は千種川に沿って海まで下り戻ってきた。
最初、国道二号線を横切るのに、橋の下をくぐったのだが、段差の衝撃で後ろのタイヤが外れてロックしてしまったが、転倒は逃れた。
冷や汗ものだったが、しっかりと固定させて、その後はトラブルがなかった。
有年中学校の側を通って、国道373号線沿いに周世まで下り、周世から坂越までは山際の細い道をとおった。
この山際の道は滅多に車が通らず、高野あたりの河川敷は広い草原になっていて、つながれた馬が1頭のんびり草を食べている。
いつもは少年サッカーなどが行われているが、小学校の運動会があちこちで行われているせいか、今日は誰もいなかった。
坂越からは一端、川縁の舗装した護岸を走って、尾崎トンネルからは昔からの川沿いの道を通り、新赤穂大橋まで行き、赤穂高校の前を通って、唐船まで行った。
この唐船は兵庫県で一番低い山として知られるようになったが、唐の船が難破して埋まったと言い、山の道を歩く時にドンドンという音がしたので、ドンドン山とも言った。
子どもの頃から潮干狩りや海水浴でよく来たが、実家がこの近くにあったので散歩コースでもあった。
今年は去年の台風の影響で砂地に泥が積もり、海水浴は禁止になっていた。
そこにあるトイレで用を済まして、鏡を見ると驚いた。
ヘルメットに値札が付いたままである。
6、980円の値札を頭の上に付けたまま、国道を走ってきたのである。恥ずかしくて急いで剥がしたが後の祭りであった。
10時頃出て11時半近くに唐船につき、再び川沿いの道を通って上郡に戻る。
唐船を出た頃から雨が少し降ってきた。
行きは主に左岸を通ったが、帰りは主に右岸を通る。
右岸は河原に新赤穂大橋から坂越まで遊歩道があり、 その道を飛ばしていく。
去年入院していた頃はよくこの道を自転車で走ったのだが、台風の影響で土砂や草木が積もったところが何カ所からあったのが、綺麗に掃除されていた。
この道は車も通らないので、歌を歌いながら気楽に走れる。
昼前なので誰もいないのが、気楽なのだが少し寂しい。
坂越から高雄まで、来た時と反対の右岸の川縁の舗装した護岸を走り、高雄から中山までは田んぼの中の農道を走った。
高雄あたりまで来ると、雲はなくなり良い天気である。
同じ 赤穂市でも天候は結構違う。
稲もだいぶ色づいて、もう少しすれば稲刈りである。
中山にある堰から水が農道沿いの水路を勢いよく流れていた。
中山からは行きと同じ道を通って家まで帰ったのだが、家近くはだらだらと長い坂になり、心なしか一番の難所となった。
家に着いたのは12時20分で約2時間半の旅である。
距離は往復60km位あっただろうか、平均時速25km程度である。
エアロバイクでは20km/hで30分こぐと、汗まみれで嫌になるが、自転車だと風を受けて快適に2時間以上こぎ続けることができる。
ただし、ちゃんとそれようの服装をしてお尻を守っていた。
それでも手は素手で、時々しびれたし、靴は「寅さん」作業靴でペダルに食い込み痛かった。
まだ、自転車用の手袋や靴を買うところまではきていない。
水分補給もジョギング用のウェストポーチにペットボトルをつけて走った。当然、走りながらは飲めない。
自転車はまだまだ素人の域は出ないが、以前のようにお尻が痛くてたまらない状態にはならなくなった。
エアロバイクでトレーニングしているお陰で、坂道にも強くなった。
上郡の温水プールが閉館しているので、これからは自転車でのトレーニングは増えると思う。
エアロバイクは雨の日だけにする。車のあまり通らない遊歩道、護岸、農道を走るのは何よりも楽しい。
今度は千種川の上流に向かっていきたいと思っている。
レースにも出ている知人は、ふらっとスキー場あたりまで出かけていた。
何よりも職場のある光都という山の上まで、自転車で通ったりしていたのだが、彼は車並みの費用を自転車に注ぎ込んでいた。
私は6、980円のヘルメットを買って喜べるほどのド素人だが、それはそれなりに楽しんでいる。
今度の職場は是非、自転車で通えるほどの近くであって欲しいとさえ思う。
そういえば、私の父親は私が小学生の頃、尾崎の自宅から相生の造船所まで自転車で通勤したりしていた。
私もそれを見習いたいと思う。
これまではサイズが小さくあご紐が窮屈だった。しかも、20年以上前の製品であった(マニュアル本によると耐用年数は2年)。
さっそく長年乗っているBriddgestoneのRadacで出かけた。
この自転車は27年ほど前に通勤と趣味用に買ったロードバイクで、七段変速でストレートハンドルにバーエンドバーを付けた。
タイヤやチェーン、サドルを交換しながら、思い出したように乗り続けている。
特に去年の秋に糖尿病で教育入院して以来乗る機会が増えたが、真冬や夏の盛りにはさすがに乗れなかった。
今日は千種川に沿って海まで下り戻ってきた。
最初、国道二号線を横切るのに、橋の下をくぐったのだが、段差の衝撃で後ろのタイヤが外れてロックしてしまったが、転倒は逃れた。
冷や汗ものだったが、しっかりと固定させて、その後はトラブルがなかった。
有年中学校の側を通って、国道373号線沿いに周世まで下り、周世から坂越までは山際の細い道をとおった。
この山際の道は滅多に車が通らず、高野あたりの河川敷は広い草原になっていて、つながれた馬が1頭のんびり草を食べている。
いつもは少年サッカーなどが行われているが、小学校の運動会があちこちで行われているせいか、今日は誰もいなかった。
坂越からは一端、川縁の舗装した護岸を走って、尾崎トンネルからは昔からの川沿いの道を通り、新赤穂大橋まで行き、赤穂高校の前を通って、唐船まで行った。
この唐船は兵庫県で一番低い山として知られるようになったが、唐の船が難破して埋まったと言い、山の道を歩く時にドンドンという音がしたので、ドンドン山とも言った。
子どもの頃から潮干狩りや海水浴でよく来たが、実家がこの近くにあったので散歩コースでもあった。
今年は去年の台風の影響で砂地に泥が積もり、海水浴は禁止になっていた。
そこにあるトイレで用を済まして、鏡を見ると驚いた。
ヘルメットに値札が付いたままである。
6、980円の値札を頭の上に付けたまま、国道を走ってきたのである。恥ずかしくて急いで剥がしたが後の祭りであった。
10時頃出て11時半近くに唐船につき、再び川沿いの道を通って上郡に戻る。
唐船を出た頃から雨が少し降ってきた。
行きは主に左岸を通ったが、帰りは主に右岸を通る。
右岸は河原に新赤穂大橋から坂越まで遊歩道があり、 その道を飛ばしていく。
去年入院していた頃はよくこの道を自転車で走ったのだが、台風の影響で土砂や草木が積もったところが何カ所からあったのが、綺麗に掃除されていた。
この道は車も通らないので、歌を歌いながら気楽に走れる。
昼前なので誰もいないのが、気楽なのだが少し寂しい。
坂越から高雄まで、来た時と反対の右岸の川縁の舗装した護岸を走り、高雄から中山までは田んぼの中の農道を走った。
高雄あたりまで来ると、雲はなくなり良い天気である。
同じ 赤穂市でも天候は結構違う。
稲もだいぶ色づいて、もう少しすれば稲刈りである。
中山にある堰から水が農道沿いの水路を勢いよく流れていた。
中山からは行きと同じ道を通って家まで帰ったのだが、家近くはだらだらと長い坂になり、心なしか一番の難所となった。
家に着いたのは12時20分で約2時間半の旅である。
距離は往復60km位あっただろうか、平均時速25km程度である。
エアロバイクでは20km/hで30分こぐと、汗まみれで嫌になるが、自転車だと風を受けて快適に2時間以上こぎ続けることができる。
ただし、ちゃんとそれようの服装をしてお尻を守っていた。
それでも手は素手で、時々しびれたし、靴は「寅さん」作業靴でペダルに食い込み痛かった。
まだ、自転車用の手袋や靴を買うところまではきていない。
水分補給もジョギング用のウェストポーチにペットボトルをつけて走った。当然、走りながらは飲めない。
自転車はまだまだ素人の域は出ないが、以前のようにお尻が痛くてたまらない状態にはならなくなった。
エアロバイクでトレーニングしているお陰で、坂道にも強くなった。
上郡の温水プールが閉館しているので、これからは自転車でのトレーニングは増えると思う。
エアロバイクは雨の日だけにする。車のあまり通らない遊歩道、護岸、農道を走るのは何よりも楽しい。
今度は千種川の上流に向かっていきたいと思っている。
レースにも出ている知人は、ふらっとスキー場あたりまで出かけていた。
何よりも職場のある光都という山の上まで、自転車で通ったりしていたのだが、彼は車並みの費用を自転車に注ぎ込んでいた。
私は6、980円のヘルメットを買って喜べるほどのド素人だが、それはそれなりに楽しんでいる。
今度の職場は是非、自転車で通えるほどの近くであって欲しいとさえ思う。
そういえば、私の父親は私が小学生の頃、尾崎の自宅から相生の造船所まで自転車で通勤したりしていた。
私もそれを見習いたいと思う。
2012年9月14日金曜日
屋根のあるオープンカー
職場からの帰りだった。パンクかと思えるほどの音がした後、アルコール臭が漂った。
車を路肩に止めて、タイヤを確認したが何ともない。
不安を感じつつ車を動かしたが、エアコンが全く効かなくなっているので、了解した。
エアコン系統にトラブルがあったのだ。この夏の暑さで車もダメージを受けていたようだ。
この車はVitz(1000ccMT)、購入してから12年目である。走行距離も優に25、000kmを超えている。
もともとは家内が乗るために購入したのだが、長期研修中や今の職場に換わってからは私が乗っていた。
なにせ、マニュアル車のため20km/lという優れた燃費を持ち、スピードも坂道以外はそこそこでたからである。
私は通学や通勤以外に、鹿児島や名古屋までこの車で出かけた。
山陽自動車道の坂道でトラックに煽られたり、新名神の高い橋の上の横風にハンドルを取られたりして怖い目にあったが、事故は全くなかった。
パンク以外に故障らしいものはなく、ここまで来たのだが、ついに年貢の納め時となった。
コンプレッサーが壊れており、修理するには10万円はかかる。
エンジンの振動も大きくなっており、これからトラブルが出てくる可能性もあるので、修理するメリットはない。
それでも緊急に買い換える必要な無いので、次の車を買うまで乗り続けることにした。
朝は幾分涼しくなったが、渋滞したトンネルで窓を開けていると排気ガスが充満する。
まだ、30℃を超える夕方に運転するのは辛くて、冷却スプレーを頻繁に服の上からかける。
窓から手を出して、外の風を中に引き込んで走るのだが、高速でも気にならなくなった。
たぶん、女性がよく乗るVitzの窓から、黒くて太い腕が出ていると異様に思うだろう。
心なしか後ろの車は車間距離をあけてくれているように思う。
全く関係なく後ろに迫ってくるのは、やはりトラックである。
もうひとつの利点は、信号のない交差点で進入しやすくなったことである。
まだ雨を経験していないが、窓を開け放った運転にも慣れてきた。
聞けば同じ職場の人も同じように車のエアコンが壊れているという。
考えてみれば免許を取って間もない頃の車には、エアコンが付いてなかったのも多かった。
中古で買った車もエアコンのガス漏れで使えなくなった。
当時は窓を開けて運転している人も多かったので、たいして気にならなかった。
ところが、今車の窓を開けて運転しているのは、軽トラくらいである。
たまに、少しだけ窓を開けて運転している普通車も見かけるが、私のように4つの窓を開けている車はいない。
オープンカーは屋根がないから格好良いのだが、屋根のあるオープンカーは様にならない。
それでもけなげに走ってくれるVitzを、直ぐに別の車に買い換える気にはなかなかなれない。
ネットで色々物色しているが、燃費が良くてマニュアル車で、信頼できる車はなかなか見つからない。
軽四も考えたが、職場の人が10万キロでエンジンに問題が起こったことを聞くと、高速で通勤するには不安がある。
そのうち涼しくなって、窓を閉めて走られるようになるだろう。
冬場は服を着込めば寒さもしのげる。
ひょっとして来年の夏まで乗り続けることになるかも知れない。
さすがに、真夏にエアコン無しで通う気力はない。
窓を開けて走れば景色も違って見えるし、燃費も良くなった。
そう言う意味で屋根のあるオープンカーも悪くはないと、愛車のハンドルを叩いてねぎらっている。
車を路肩に止めて、タイヤを確認したが何ともない。
不安を感じつつ車を動かしたが、エアコンが全く効かなくなっているので、了解した。
エアコン系統にトラブルがあったのだ。この夏の暑さで車もダメージを受けていたようだ。
この車はVitz(1000ccMT)、購入してから12年目である。走行距離も優に25、000kmを超えている。
もともとは家内が乗るために購入したのだが、長期研修中や今の職場に換わってからは私が乗っていた。
なにせ、マニュアル車のため20km/lという優れた燃費を持ち、スピードも坂道以外はそこそこでたからである。
私は通学や通勤以外に、鹿児島や名古屋までこの車で出かけた。
山陽自動車道の坂道でトラックに煽られたり、新名神の高い橋の上の横風にハンドルを取られたりして怖い目にあったが、事故は全くなかった。
パンク以外に故障らしいものはなく、ここまで来たのだが、ついに年貢の納め時となった。
コンプレッサーが壊れており、修理するには10万円はかかる。
エンジンの振動も大きくなっており、これからトラブルが出てくる可能性もあるので、修理するメリットはない。
それでも緊急に買い換える必要な無いので、次の車を買うまで乗り続けることにした。
朝は幾分涼しくなったが、渋滞したトンネルで窓を開けていると排気ガスが充満する。
まだ、30℃を超える夕方に運転するのは辛くて、冷却スプレーを頻繁に服の上からかける。
窓から手を出して、外の風を中に引き込んで走るのだが、高速でも気にならなくなった。
たぶん、女性がよく乗るVitzの窓から、黒くて太い腕が出ていると異様に思うだろう。
心なしか後ろの車は車間距離をあけてくれているように思う。
全く関係なく後ろに迫ってくるのは、やはりトラックである。
もうひとつの利点は、信号のない交差点で進入しやすくなったことである。
まだ雨を経験していないが、窓を開け放った運転にも慣れてきた。
聞けば同じ職場の人も同じように車のエアコンが壊れているという。
考えてみれば免許を取って間もない頃の車には、エアコンが付いてなかったのも多かった。
中古で買った車もエアコンのガス漏れで使えなくなった。
当時は窓を開けて運転している人も多かったので、たいして気にならなかった。
ところが、今車の窓を開けて運転しているのは、軽トラくらいである。
たまに、少しだけ窓を開けて運転している普通車も見かけるが、私のように4つの窓を開けている車はいない。
オープンカーは屋根がないから格好良いのだが、屋根のあるオープンカーは様にならない。
それでもけなげに走ってくれるVitzを、直ぐに別の車に買い換える気にはなかなかなれない。
ネットで色々物色しているが、燃費が良くてマニュアル車で、信頼できる車はなかなか見つからない。
軽四も考えたが、職場の人が10万キロでエンジンに問題が起こったことを聞くと、高速で通勤するには不安がある。
そのうち涼しくなって、窓を閉めて走られるようになるだろう。
冬場は服を着込めば寒さもしのげる。
ひょっとして来年の夏まで乗り続けることになるかも知れない。
さすがに、真夏にエアコン無しで通う気力はない。
窓を開けて走れば景色も違って見えるし、燃費も良くなった。
そう言う意味で屋根のあるオープンカーも悪くはないと、愛車のハンドルを叩いてねぎらっている。
2012年9月10日月曜日
広島県西条・呉めぐり
荷物を持って帰る娘を下宿に送るついでに、家内とドライブすることにした。
娘の通う大学は西条という盆地の農村地帯の丘陵に築かれた学園都市の中にあった。
JRの駅から遠くて、娘はバスと電車を乗り継いで帰省するのであるが、経費節減で大抵は鈍行で時間を掛けて帰ってきていた。
車では山陽自動車道を用いると二時間ほどであり、家からの距離は200kmほどで京都へ行くのと変わりはないのだが、ずいぶん遠くへ行くような感覚である。
それは文化圏の違いもあるが、JRで京都に行くには新快速などを使えば早く着けるからである。
山陽自動車道は山の中を通り、景色も単調でトンネルがやたら多い。
京都へ行く時は、いろんな都市風景が展開されるのとは大違いである。
ただ、渋滞はあまりないし、途中で立ち寄る福山のサービスエリアには美味しい海産物の土産が売っている。
実は娘のアパートは家内の親戚筋にあたり、専業農家をする傍らでアパート経営もしている。
先日娘が、その大家さんが栽培しているアスパラを手土産に貰って帰ってきたので、こちらもお菓子を持って挨拶に行くのも目的であった。
西条は駅付近より郊外に大店舗が林立して、このあたりの商業の中心地になっている。
家内の親戚は大崎島の上島と下島にいるのだが、わざわざ買い物に来るようで、その際に娘もずいぶんお世話になっている。
ちょうど昼時になったので、その郊外にあるラーメン屋でつけ麺を親子で食べたが、私の注文した山椒入りのつけ麺はやたら濃くて口合わなかった。
娘をアパートに送り、大家さんにも挨拶を済まして帰るのだが、帰りは前回は一般道を通った。
今回も一般道で帰るつもりだったが、以前に同僚から「呉はなかなか良いよ」と聞いていたので、そちらに回ってから帰ることにした。
田園と山の中の道は狭く、景色も単調だったが、既に稲刈りが済んだ所や、突如と現れた大学の見事さに驚いた。
ずいぶん走ってやっと海が見えた時は嬉しかった。
呉という名前は自分の親が船乗りをし、その後造船所に勤めていたのでよくその名前を聞かされた。
今回は映画の舞台になった所はあえて行かずに、海岸の景色を楽しむことにした。
というのも、場合によっては大崎島に行っても良いと思っていたからだ。
狭くて曲がりくねった海岸の道は、思ったほどの起伏もなく、自転車で走ったら気持ちよさそうであった。
ただ、赤穂の御崎からたつの市の御津にかけての風光明媚な景色と比べて、造船所などの工業地帯が多いのが気になった。
それでも、島に囲まれて景色もよくて、天然の良港の意味がよく分かった。
以前に牛窓というこれも天然の良港は島に囲まれて、風に強いということを聞いていたので、まさしく、呉はそれにもまして天然の良港であることが分かった。
土地勘が無く、ナビに頼っているうちに、大崎島に渡る橋を通り過ぎてしまっていた。
家内は結婚する前までは、よく両親らと里帰りをしていたようだし、幼い頃には夏休みに過ごした経験もあった。
車で来るには下島は橋があるが、上島はフェリーで行かねばならず、法事や墓参りは家内の両親が行き、家内は行っていない。
おじいさん、おばあさんの墓参りをしなくては、罰が当たるぞ私は嫌みを言うのだが、家内は今回も行こうとしなかった。
家内の両親と 一緒でないと行きづらいのも確かである。
いずれ、両親が自力で行けなくなったら、必然と来なくてはならなくなると思う。
竹原まで海沿いの道を堪能して、道の駅で休憩を取ったり、土産を買った。
竹細工が有名だが、 10万円もする竹細工のバッグには驚いたが、すごく良くて欲しいと思った。
今自分が愛用している職人籠とは大違いである。
家内の母が島の土産によく買って帰ってきた硬い木綿豆腐を思い出して買った。
当然、名産の酒も忘れなかった。
三原からは前回通った道と同じになった。
前回は三原までは山の中の国道2号を通ったが、三原からは海沿いになる。
前回福山で渋滞にあったが、今回は倉敷から岡山にかけて渋滞にあってしまい、結局1時頃西条を出て、戻ったのは7時を過ぎていた。
行きの二時間のドライブの3倍もの時間を帰りに掛けたのだが、断然帰りの方が良かった。
確かに長時間同じ姿勢で運転して腰が痛くなったりしたが、家内と運転を交替しながら、そう疲れは感じなかった。
何よりも、自然の風景だけでなく、町の様子が分かるのが良い。
兵庫県では造船所は後退するばかりだが、何とか生き残っている広島県。
突如現れた山間の町に、何の産業があってこれほど人が多く住んでいるのだろうかと思ったりもする。
そして、やはり目立つのは道路沿いの潰れた店である。
バブルの頃は流行ったのであろう店が、幹線道路沿いに取り残されている。
これからは南海トラフ地震の津波にも警戒しなくてはならない海沿いだが、このあたりは外海から遠いのでそう不安は無いだろうとも思った。
幼い頃はおそらく船でやってきた呉に、大人になって初めて訪れた。
20年ほど前大崎島で葬式があった時に乗ったフェリー乗り場も久しぶりに見た。
娘も来年で大学を卒業するので、その後は滅多に来ることはないだろうが、京都と同じ距離だと思えばもっと来ても良い。
東への近い距離感を、西にも持てればもっとなじみ深いとことになるだろう。
大崎島は私にとっては奄美大島より遠い島でもあった。
娘の通う大学は西条という盆地の農村地帯の丘陵に築かれた学園都市の中にあった。
JRの駅から遠くて、娘はバスと電車を乗り継いで帰省するのであるが、経費節減で大抵は鈍行で時間を掛けて帰ってきていた。
車では山陽自動車道を用いると二時間ほどであり、家からの距離は200kmほどで京都へ行くのと変わりはないのだが、ずいぶん遠くへ行くような感覚である。
それは文化圏の違いもあるが、JRで京都に行くには新快速などを使えば早く着けるからである。
山陽自動車道は山の中を通り、景色も単調でトンネルがやたら多い。
京都へ行く時は、いろんな都市風景が展開されるのとは大違いである。
ただ、渋滞はあまりないし、途中で立ち寄る福山のサービスエリアには美味しい海産物の土産が売っている。
実は娘のアパートは家内の親戚筋にあたり、専業農家をする傍らでアパート経営もしている。
先日娘が、その大家さんが栽培しているアスパラを手土産に貰って帰ってきたので、こちらもお菓子を持って挨拶に行くのも目的であった。
西条は駅付近より郊外に大店舗が林立して、このあたりの商業の中心地になっている。
家内の親戚は大崎島の上島と下島にいるのだが、わざわざ買い物に来るようで、その際に娘もずいぶんお世話になっている。
ちょうど昼時になったので、その郊外にあるラーメン屋でつけ麺を親子で食べたが、私の注文した山椒入りのつけ麺はやたら濃くて口合わなかった。
娘をアパートに送り、大家さんにも挨拶を済まして帰るのだが、帰りは前回は一般道を通った。
今回も一般道で帰るつもりだったが、以前に同僚から「呉はなかなか良いよ」と聞いていたので、そちらに回ってから帰ることにした。
田園と山の中の道は狭く、景色も単調だったが、既に稲刈りが済んだ所や、突如と現れた大学の見事さに驚いた。
ずいぶん走ってやっと海が見えた時は嬉しかった。
呉という名前は自分の親が船乗りをし、その後造船所に勤めていたのでよくその名前を聞かされた。
今回は映画の舞台になった所はあえて行かずに、海岸の景色を楽しむことにした。
というのも、場合によっては大崎島に行っても良いと思っていたからだ。
狭くて曲がりくねった海岸の道は、思ったほどの起伏もなく、自転車で走ったら気持ちよさそうであった。
ただ、赤穂の御崎からたつの市の御津にかけての風光明媚な景色と比べて、造船所などの工業地帯が多いのが気になった。
それでも、島に囲まれて景色もよくて、天然の良港の意味がよく分かった。
以前に牛窓というこれも天然の良港は島に囲まれて、風に強いということを聞いていたので、まさしく、呉はそれにもまして天然の良港であることが分かった。
土地勘が無く、ナビに頼っているうちに、大崎島に渡る橋を通り過ぎてしまっていた。
家内は結婚する前までは、よく両親らと里帰りをしていたようだし、幼い頃には夏休みに過ごした経験もあった。
車で来るには下島は橋があるが、上島はフェリーで行かねばならず、法事や墓参りは家内の両親が行き、家内は行っていない。
おじいさん、おばあさんの墓参りをしなくては、罰が当たるぞ私は嫌みを言うのだが、家内は今回も行こうとしなかった。
家内の両親と 一緒でないと行きづらいのも確かである。
いずれ、両親が自力で行けなくなったら、必然と来なくてはならなくなると思う。
竹原まで海沿いの道を堪能して、道の駅で休憩を取ったり、土産を買った。
竹細工が有名だが、 10万円もする竹細工のバッグには驚いたが、すごく良くて欲しいと思った。
今自分が愛用している職人籠とは大違いである。
家内の母が島の土産によく買って帰ってきた硬い木綿豆腐を思い出して買った。
当然、名産の酒も忘れなかった。
三原からは前回通った道と同じになった。
前回は三原までは山の中の国道2号を通ったが、三原からは海沿いになる。
前回福山で渋滞にあったが、今回は倉敷から岡山にかけて渋滞にあってしまい、結局1時頃西条を出て、戻ったのは7時を過ぎていた。
行きの二時間のドライブの3倍もの時間を帰りに掛けたのだが、断然帰りの方が良かった。
確かに長時間同じ姿勢で運転して腰が痛くなったりしたが、家内と運転を交替しながら、そう疲れは感じなかった。
何よりも、自然の風景だけでなく、町の様子が分かるのが良い。
兵庫県では造船所は後退するばかりだが、何とか生き残っている広島県。
突如現れた山間の町に、何の産業があってこれほど人が多く住んでいるのだろうかと思ったりもする。
そして、やはり目立つのは道路沿いの潰れた店である。
バブルの頃は流行ったのであろう店が、幹線道路沿いに取り残されている。
これからは南海トラフ地震の津波にも警戒しなくてはならない海沿いだが、このあたりは外海から遠いのでそう不安は無いだろうとも思った。
幼い頃はおそらく船でやってきた呉に、大人になって初めて訪れた。
20年ほど前大崎島で葬式があった時に乗ったフェリー乗り場も久しぶりに見た。
娘も来年で大学を卒業するので、その後は滅多に来ることはないだろうが、京都と同じ距離だと思えばもっと来ても良い。
東への近い距離感を、西にも持てればもっとなじみ深いとことになるだろう。
大崎島は私にとっては奄美大島より遠い島でもあった。
2012年9月3日月曜日
文明災害としての地震
東京に住んでいる時に、関西から来た私にとって、日常的に揺れる地震は始めは脅威だった。
初めて味わった震度4で、下宿の部屋で大騒ぎしている様子を下宿のおばさんに笑われた。
それも、何度もその程度の地震を経験するにしたがって慣れてしまった。
そのおばさんの言った言葉で思い出すのは、関東大震災の年は夏が非常に暑かったということである。
このごろ、毎年のように暑いのでその言葉を忘れていたが、東北の震災の前の年も夏が異常に暑かったように思う。
今年の夏も異常に暑いのだが、奇しくも南海トラフ地震の被害予想が報道された。
死者予想最大32万人、比較するのには不適切かも知れないが、広島の原爆死者が9~12万人と言うから、それの3倍以上である。
これはあくまで予想であるので、警鐘として受け止め対策を講じる材料なのだが、被害が予想されない地域の住民も含んで、真剣に考えるべき事だと思う。
1000年に1回とか、100年に1回とかという周期的な被害であるにしても、日本は地震や津波から逃れられない国土である以上、それに備えた都市文明を築くべきであった。
しかし、現実は東京や横浜ではウォーターフロントとして、副都心になっているし、私が住んでいた赤穂でも、塩田跡が住宅地や工場地になっている。
それらは本当のリスクを真剣に考えて建設したのではあるまい。弟は赤穂の御崎港の直ぐ傍に新宅を設けたが、津波のことなど考えていなかったようだ。
考えてみれば都市というのは、洪水災害の多い沖積平野や盆地に築かれており、リスクよりも立地条件の良さが優先された。
そもそも風水思想は地震を想定などしていなかっただろうし、日本の様な急流の川に適用するには無理がある。
日本における都市そのものが大きなリスクを背負ったまま発展してきていると言える。
ただ、阪神大震災とその後に起こった鳥取での地震を比較すると、家屋の造りに大きな差があり、それは淡路と神戸の被害の違いでもあった。
残念ながら、我が家は阪神大震災以前に建てられた物で、建築基準の甘い頃の二階建てである。
二階建て家屋そのものは、台風への備えはできていても、地震への備えは当時はできていなかった。
今に後悔しても、やっとローンが終わりかけて喜んでおり、新しく建て直すことは無理である。
気休めなのは柱がやたらと多く、居間にはハッチが天井を支えていることだ。
昔、田中角栄が日本列島改造計画というのを出して、地方の発展を図ったが、それと同じように、災害に強い都市に改造する大変革を起こすべきだと思う。
家屋に関しては補助金を出して、耐震工事を古い民家もできるようにし、津波のための大堤防を張り巡らすしかないだろう。
そして、リスク分散のための地方都市への機能移転開発も同時に行うべきだと思う。
地震や津波にこれから先も付き合っていく覚悟が求められているのだと思う。
迷信と笑われても仕方がないが、非常に暑かった夏、前にも書いたが、鳥や蛇があまりいなかった春から初夏、不安である。
地震研究者も虫の知らせで、研究報告をしているのかと思ってしまう。
杞憂にしても、備えることに無駄はないだろう。
初めて味わった震度4で、下宿の部屋で大騒ぎしている様子を下宿のおばさんに笑われた。
それも、何度もその程度の地震を経験するにしたがって慣れてしまった。
そのおばさんの言った言葉で思い出すのは、関東大震災の年は夏が非常に暑かったということである。
このごろ、毎年のように暑いのでその言葉を忘れていたが、東北の震災の前の年も夏が異常に暑かったように思う。
今年の夏も異常に暑いのだが、奇しくも南海トラフ地震の被害予想が報道された。
死者予想最大32万人、比較するのには不適切かも知れないが、広島の原爆死者が9~12万人と言うから、それの3倍以上である。
これはあくまで予想であるので、警鐘として受け止め対策を講じる材料なのだが、被害が予想されない地域の住民も含んで、真剣に考えるべき事だと思う。
1000年に1回とか、100年に1回とかという周期的な被害であるにしても、日本は地震や津波から逃れられない国土である以上、それに備えた都市文明を築くべきであった。
しかし、現実は東京や横浜ではウォーターフロントとして、副都心になっているし、私が住んでいた赤穂でも、塩田跡が住宅地や工場地になっている。
それらは本当のリスクを真剣に考えて建設したのではあるまい。弟は赤穂の御崎港の直ぐ傍に新宅を設けたが、津波のことなど考えていなかったようだ。
考えてみれば都市というのは、洪水災害の多い沖積平野や盆地に築かれており、リスクよりも立地条件の良さが優先された。
そもそも風水思想は地震を想定などしていなかっただろうし、日本の様な急流の川に適用するには無理がある。
日本における都市そのものが大きなリスクを背負ったまま発展してきていると言える。
ただ、阪神大震災とその後に起こった鳥取での地震を比較すると、家屋の造りに大きな差があり、それは淡路と神戸の被害の違いでもあった。
残念ながら、我が家は阪神大震災以前に建てられた物で、建築基準の甘い頃の二階建てである。
二階建て家屋そのものは、台風への備えはできていても、地震への備えは当時はできていなかった。
今に後悔しても、やっとローンが終わりかけて喜んでおり、新しく建て直すことは無理である。
気休めなのは柱がやたらと多く、居間にはハッチが天井を支えていることだ。
昔、田中角栄が日本列島改造計画というのを出して、地方の発展を図ったが、それと同じように、災害に強い都市に改造する大変革を起こすべきだと思う。
家屋に関しては補助金を出して、耐震工事を古い民家もできるようにし、津波のための大堤防を張り巡らすしかないだろう。
そして、リスク分散のための地方都市への機能移転開発も同時に行うべきだと思う。
地震や津波にこれから先も付き合っていく覚悟が求められているのだと思う。
迷信と笑われても仕方がないが、非常に暑かった夏、前にも書いたが、鳥や蛇があまりいなかった春から初夏、不安である。
地震研究者も虫の知らせで、研究報告をしているのかと思ってしまう。
杞憂にしても、備えることに無駄はないだろう。
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