別れは突然におとずれた。
何のことはない、たまたまStepwgnのオイル交換に行き、壊れているバンパーや傷のいったヘッドガラスの見積もりを聞いた。
車検を通すには修理に20万円近くかかる、実はVitzもエアコンのコンプレッサーが壊れて修理に10万円かかるというので、替わりの車の購入を考えていた。
前からVitzがミッション車なので、今度もミッション車にしたかった。
今はオートマチックの方がアイドリングストップなどで燃費が良いとされている。
ただ、ミッション車は自分で乗り方を工夫できるので、燃費も良くできるし、走りも面白い。
Vitzが27万kmも乗ることができたのも、1000ccのミッション車だったから燃費が普段でも20km/lとよく、故障も殆ど無かったからだ。
12年前に購入したVitzは当時も人気車だったが、オートマチックが主流でその燃費は15km/lほどだった。
Vitzは家内がMoveで事故をして廃車にしたことをきっかけとして購入した。
事故で軽四の恐さを思い知ったので、せめてリッター車にすることにした。
今回は軽四も考えたが、確かに税金は安いが多くの距離を長く乗るには軽四は適さないことが分かった。
ハイブリッドも確かに燃費は高いが、私のような乗り方をすると充電器を途中で交換しなければならなくなると言われた。
ホンダで勧められたFitはミッション車もまだ普通に出しているので、購入は以前から考えていた。
たまたま、売れ残って工場にあるFitのミッション車が、破格の値段で買えると言うことに心を動かされた。
Vitzは元々家内の買い物用の車であって、私は殆ど乗っていなかった。
7年前に長期研修で上郡から社町まで大学院に通うことになり、燃費の良いVitzに乗ることになった。
往復150kmほどで、ガソリンは満タンにしても一週間持たなかった。
その時に2年間乗り続け、鹿児島に資料収集に行く際も往復1600km以上を乗り切った。
その後はしばらくStepwgnで通勤していたが、4年前に往復80km今の姫路の職場になってからもう一度Vitzが私の通勤車となった。
4年前にも名古屋までVitzで小さな学会にも行き、新名神を乗り切った。
1000ccのVitzの最大の欠点は上り坂の弱さであり、高速道路などではトラックにあおられたりして、嫌な思いをした。
それでも、満タンにすれば上郡から鹿児島まで途中給油せずに行けることは嬉しかった。
確かに渋滞している時はクラッチを踏む左足がだるくなったが、それも慣れると平気になった。
狭い路地でも走行でき、駐車も転回も容易にできた。
姫路バイパスでは婦人用とみなされて、割り込まれやすいのだが、逆に割り込むのも容易である。
エアコンが壊れてから暫く暑い日はバイパスでも窓から手を出して走行したが、心なしか後ろの車は車間距離を取ってくれた。
数々の思い出のあるVitzを手放すのは寂しい。
前にトランクのある古いミゼットを大切に乗っていた人がいたが、クラッシックカーにするほどの値打ちはない。
燃費の悪いStepwgnを廃車にして、Vitzを乗り続けることも考えたが、便利さでStepwgnに軍配が上がった。
飼っていたペットが死んだ時とも少し違うが、昔の人が愛馬を手放す時と同じ気持ちなのかも知れない。
たかが、鉄の塊の機械ではあるが、ハンドルを叩きながらよく頑張ってると夫婦で賞め合ったVitz。
もうすぐお別れである。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年10月28日日曜日
2012年10月21日日曜日
鳥撫の祭り
私の本籍は未だに鷆和(天和)である。
鷆和は鳥撫と眞木の村を合わせた地名で、親からは家の先祖が名付けたというが真偽の程は分からない。
私は幼稚園に上がる前まではこの鳥撫で育った。
今でこそ近くに三菱の工場などがあるが、以前は地名通り鳥が撫でていくような自然豊かな所であった。
本家は鳥撫なので親に連れられて、盆や正月は必ず来たし、夏休みには独身の叔母や6歳年上の従姉もいたので長い間預けられたりした。
そういう時には海でカブトガニを捕ったり、山で蝉をとったりしてよく遊んだ。
近所の子どもとも仲良しだったが、幼い頃は従姉の関係から女の子と遊ぶことが多かった。
また、鳥撫の子供会の行事にも参加したりしていた。
鳥撫の荒神社の玉垣の一番目立つ所に祖父の名前がある。
祖父は元御影石を運ぶ船乗りで、一匹狼のような人だった。
祖母が信心深い人だったので、神社の方への寄付はちゃんとしていたのかも知れない。
ただ、祭りそのものには伯父や祖父はあまり関係していなかった。
それでも昔は10月25日は祭りと言うことで呼ばれていった。
鳥撫の祭りは赤穂市 の無形民俗文化財にも指定されていて見所が多い。
尾崎の祭りは鼻高や獅子舞は男舞といって雄壮なのだが、鳥撫は曲芸に近い。
獅子が梯子を使ったり、肩の上に立ったりする。
(そのあたりは新聞社などのネットに写真やYouTubeに映像があるので見て貰いたい。)
尾崎の祭りは鼻高にあこがれるが、鳥撫では子どもは唐子にあこがれた。
幼い頃はオタヤンといって、獅子頭をかぶった人の後ろでお多福の面をかぶり女装した人がふざけるのが恐かった。
囃子の音も笛が中心で、哀愁が感じさせられ、一度聴くと耳から離れない。
曲芸有り、道化有りの楽しめる祭りである。
鷆和は鳥撫と眞木の村を合わせた地名で、親からは家の先祖が名付けたというが真偽の程は分からない。
私は幼稚園に上がる前まではこの鳥撫で育った。
今でこそ近くに三菱の工場などがあるが、以前は地名通り鳥が撫でていくような自然豊かな所であった。
本家は鳥撫なので親に連れられて、盆や正月は必ず来たし、夏休みには独身の叔母や6歳年上の従姉もいたので長い間預けられたりした。
そういう時には海でカブトガニを捕ったり、山で蝉をとったりしてよく遊んだ。
近所の子どもとも仲良しだったが、幼い頃は従姉の関係から女の子と遊ぶことが多かった。
また、鳥撫の子供会の行事にも参加したりしていた。
鳥撫の荒神社の玉垣の一番目立つ所に祖父の名前がある。
祖父は元御影石を運ぶ船乗りで、一匹狼のような人だった。
祖母が信心深い人だったので、神社の方への寄付はちゃんとしていたのかも知れない。
ただ、祭りそのものには伯父や祖父はあまり関係していなかった。
それでも昔は10月25日は祭りと言うことで呼ばれていった。
鳥撫の祭りは赤穂市 の無形民俗文化財にも指定されていて見所が多い。
尾崎の祭りは鼻高や獅子舞は男舞といって雄壮なのだが、鳥撫は曲芸に近い。
獅子が梯子を使ったり、肩の上に立ったりする。
(そのあたりは新聞社などのネットに写真やYouTubeに映像があるので見て貰いたい。)
尾崎の祭りは鼻高にあこがれるが、鳥撫では子どもは唐子にあこがれた。
幼い頃はオタヤンといって、獅子頭をかぶった人の後ろでお多福の面をかぶり女装した人がふざけるのが恐かった。
囃子の音も笛が中心で、哀愁が感じさせられ、一度聴くと耳から離れない。
曲芸有り、道化有りの楽しめる祭りである。
姫路の祭り
私は中学校・高校と姫路に通っていたが、一度も姫路の祭りを見に行ったことがない。
ただし、たまたま一度だけ姫路城内の屋台の繰り出しに出くわしたことがある。
市内から多くの大人屋台が練りだして壮観な眺めであった。
私らが子どもの頃はどこの地域も平日に秋祭りが行われ、地元の学校や仕事は休みか時間短縮が多かった。
地元から離れていたので、学校は当然休みではない。
それでも、飾磨の生徒は平気で学校を休んだり、早退しているのを見てうらやましく思っていた。
これは今も変わらない。先日の15日の朝も姫路バイパス・姫路東ランプに降りる時は車は全く渋滞しなかった。
地元の生徒も祭りと言うことで休んでいる。灘のケンカ祭りである。
教師も地元の人はしっかり年休を取る。そうしないと地元では白い目で見られるらしい。
飾磨だけではなく、網干の魚吹神社の祭りも同じで、学校や仕事を休むのに躊躇いはないようだ。
多くの地区が休日に祭りをするようになったのに、飾磨と網干は従来の暦通りである。
驚くのは祭りの前日と当日、そして翌日の3日休む人もいることだ。
祭りの翌日は後片付けということらしい。
私は特別支援学校に現在勤めているが、普段あまり音楽が得意ではない生徒も祭り太鼓の囃子を打つのがうまい。
しかも、全部の流れを憶えていて、「よーいやさ」以外の囃子声もちゃんとつける。
小さい頃から聞いたり見たりして身体にしみこんでいるのだろう。
学校の音楽の授業が安っぽく思えたりする。
そういえば、私も赤穂尾崎の祭りの「ドン ドン ドデドン」という単調な拍子は身体にしみこんでいる。
私の父親は赤穂鳥撫出身だったので、太鼓より笛の音をよく口ずさんでいた。
灘は時に死者も出るケンカ祭りだから、若干問題も感じるが、祭りは生きる張り合いにもなる。
寂れた田舎で祭りが廃っていくのを経験するにつれうらやましくなる。
赤穂の尾崎でも大津でも練習の太鼓の音が夜に聞こえ出すと、回りの空気が変わったように思えた。
生活に根ざした祭りとその音色は、どんな芸術的な音楽よりも、心を時めかし時間を超えさせてくれる。
ただし、たまたま一度だけ姫路城内の屋台の繰り出しに出くわしたことがある。
市内から多くの大人屋台が練りだして壮観な眺めであった。
私らが子どもの頃はどこの地域も平日に秋祭りが行われ、地元の学校や仕事は休みか時間短縮が多かった。
地元から離れていたので、学校は当然休みではない。
それでも、飾磨の生徒は平気で学校を休んだり、早退しているのを見てうらやましく思っていた。
これは今も変わらない。先日の15日の朝も姫路バイパス・姫路東ランプに降りる時は車は全く渋滞しなかった。
地元の生徒も祭りと言うことで休んでいる。灘のケンカ祭りである。
教師も地元の人はしっかり年休を取る。そうしないと地元では白い目で見られるらしい。
飾磨だけではなく、網干の魚吹神社の祭りも同じで、学校や仕事を休むのに躊躇いはないようだ。
多くの地区が休日に祭りをするようになったのに、飾磨と網干は従来の暦通りである。
驚くのは祭りの前日と当日、そして翌日の3日休む人もいることだ。
祭りの翌日は後片付けということらしい。
私は特別支援学校に現在勤めているが、普段あまり音楽が得意ではない生徒も祭り太鼓の囃子を打つのがうまい。
しかも、全部の流れを憶えていて、「よーいやさ」以外の囃子声もちゃんとつける。
小さい頃から聞いたり見たりして身体にしみこんでいるのだろう。
学校の音楽の授業が安っぽく思えたりする。
そういえば、私も赤穂尾崎の祭りの「ドン ドン ドデドン」という単調な拍子は身体にしみこんでいる。
私の父親は赤穂鳥撫出身だったので、太鼓より笛の音をよく口ずさんでいた。
灘は時に死者も出るケンカ祭りだから、若干問題も感じるが、祭りは生きる張り合いにもなる。
寂れた田舎で祭りが廃っていくのを経験するにつれうらやましくなる。
赤穂の尾崎でも大津でも練習の太鼓の音が夜に聞こえ出すと、回りの空気が変わったように思えた。
生活に根ざした祭りとその音色は、どんな芸術的な音楽よりも、心を時めかし時間を超えさせてくれる。
2012年10月7日日曜日
薩摩芋の収穫
少し早いと思ったが、ニンニクを植える場所をつくるために掘ってみた。
今年は雨が少なく、学校の農園の薩摩芋は生育があまり良くなかった。
我が家の赤穂の畑では意外にできが良い。砂地という条件が良かったのかも知れない。
今日掘ったのは、ベニアズマのハイブリッドだと勧められて1本50円もしたものだ。
高価な苗は蔓が伸びた際に切って増やしていった。
結局20本買って3倍近く増やしたので、1本あたりは15円程度にはなった。
今回良くできていたのは、ちゃんとマルチを敷いていた所の物で、かなり大きいのもあり、量も多かった。
ハイブリッドと言うから何と何を掛け合わせたのか聞くべきだったが、まるで、教科書に出てくるキャッサバのような感じだった。
農作業はたいてい家内と一緒にするのだが、芋掘りは私が備中鍬で掘って家内が芋づるの始末をなどをした。
隣接したカボチャを植えていた所は、今年は雨が少なくさっぱりで草まみれになってしまった。
隣の畑のお婆さん達も見物にやってきて、「雨が降らんのに、草だけは ようはえる」と言っていた。全く同感である。
切った蔓で増やすのは、なるべく早い時期にせねばならないが、やはり遅くした所はできが悪かった。
私がよく通った奄美では収穫しながら、芋づるを植えていくことを考えると、その気候の違いがよく分かる。
結局、25株ほど掘って、コンテナ1杯半強になった。
曇り空でそれ程暑くはなく、作業ははかどったが、蚊にはまいった。
そして、何よりも大変だったのは、蟻に脛のあたりを何カ所か咬まれて、痛がゆく腫れ上がったことだ。
生のヨモギを揉んですり込んだが、あまり効き目はなかった。
やはり大事なのは、ちゃんとズボンの裾を締めておくことである。
いちよう靴下の中に入れて、地下足袋を履いたのだが、途中で外れていた。
農作業は収穫が多くあると嬉しいが、家内と一緒にやれるのも嬉しい。
私の父親は自分の思うようにしたい方だったので、母親はあまり手を出さなかった。
それでも私らが小学生の頃は、薩摩芋の収穫には必ず家族に手伝わせた。
以前はモグラや鼠が多くいて、その穴を掘り進んで父親と捕まえたことが懐かしい。
私は農作業は家族でやれるから楽しく感じられ、ずっと続けたいと思うのだ。
私の父親は、薩摩芋には執念とも思えるほどの力が入っていて、色んな品種ににもチャレンジしていた。
収穫した芋は家で殆ど食べるのだが、親戚にも配っていた。
父親は弁当にも薩摩芋を持って行くくらいの芋好きだったが、私は下宿していた時に、家から送ってもらった薩摩芋を冬場の主食にしたことがあった。
アパートのガスストーブの上で、アルミ箔に包んで焼いて食べた。
貧しい学生時代に食べ飽きていたのだが、最近はまた美味しく感じるようになった。
今日の夕食に出された2週間前に試し掘りした芋は、油であげただけのものだったが美味しかった。
九州や奄美沖縄では薩摩芋は主食であったり、加工品であったり日常的なものだ。
こちらでは、おかずの意味もあるが、焼き芋などはおやつに近い。
職場でも芋を掘る話をすると、焼き芋を食べたいと若い女性などは暗に要求するほど人気がある。
私は親兄弟や親戚以外には、あまり収穫物をあげられない。
というのは、やはり売っている野菜と比べられるのが怖いというのがある。
プロの作った品物にはかなわない。見栄えや味が違うからである。
薩摩芋も売っているような形の良い芋はあまりとれない。
薩摩芋はコツさえ知っていれば、手間の少なくて収穫の多い優れた作物だ。
今後は自信を持って、職場や近所に配れるほどの物を作りたいと思っている。
今年は雨が少なく、学校の農園の薩摩芋は生育があまり良くなかった。
我が家の赤穂の畑では意外にできが良い。砂地という条件が良かったのかも知れない。
今日掘ったのは、ベニアズマのハイブリッドだと勧められて1本50円もしたものだ。
高価な苗は蔓が伸びた際に切って増やしていった。
結局20本買って3倍近く増やしたので、1本あたりは15円程度にはなった。
今回良くできていたのは、ちゃんとマルチを敷いていた所の物で、かなり大きいのもあり、量も多かった。
ハイブリッドと言うから何と何を掛け合わせたのか聞くべきだったが、まるで、教科書に出てくるキャッサバのような感じだった。
農作業はたいてい家内と一緒にするのだが、芋掘りは私が備中鍬で掘って家内が芋づるの始末をなどをした。
隣接したカボチャを植えていた所は、今年は雨が少なくさっぱりで草まみれになってしまった。
隣の畑のお婆さん達も見物にやってきて、「雨が降らんのに、草だけは ようはえる」と言っていた。全く同感である。
切った蔓で増やすのは、なるべく早い時期にせねばならないが、やはり遅くした所はできが悪かった。
私がよく通った奄美では収穫しながら、芋づるを植えていくことを考えると、その気候の違いがよく分かる。
結局、25株ほど掘って、コンテナ1杯半強になった。
曇り空でそれ程暑くはなく、作業ははかどったが、蚊にはまいった。
そして、何よりも大変だったのは、蟻に脛のあたりを何カ所か咬まれて、痛がゆく腫れ上がったことだ。
生のヨモギを揉んですり込んだが、あまり効き目はなかった。
やはり大事なのは、ちゃんとズボンの裾を締めておくことである。
いちよう靴下の中に入れて、地下足袋を履いたのだが、途中で外れていた。
農作業は収穫が多くあると嬉しいが、家内と一緒にやれるのも嬉しい。
私の父親は自分の思うようにしたい方だったので、母親はあまり手を出さなかった。
それでも私らが小学生の頃は、薩摩芋の収穫には必ず家族に手伝わせた。
以前はモグラや鼠が多くいて、その穴を掘り進んで父親と捕まえたことが懐かしい。
私は農作業は家族でやれるから楽しく感じられ、ずっと続けたいと思うのだ。
私の父親は、薩摩芋には執念とも思えるほどの力が入っていて、色んな品種ににもチャレンジしていた。
収穫した芋は家で殆ど食べるのだが、親戚にも配っていた。
父親は弁当にも薩摩芋を持って行くくらいの芋好きだったが、私は下宿していた時に、家から送ってもらった薩摩芋を冬場の主食にしたことがあった。
アパートのガスストーブの上で、アルミ箔に包んで焼いて食べた。
貧しい学生時代に食べ飽きていたのだが、最近はまた美味しく感じるようになった。
今日の夕食に出された2週間前に試し掘りした芋は、油であげただけのものだったが美味しかった。
九州や奄美沖縄では薩摩芋は主食であったり、加工品であったり日常的なものだ。
こちらでは、おかずの意味もあるが、焼き芋などはおやつに近い。
職場でも芋を掘る話をすると、焼き芋を食べたいと若い女性などは暗に要求するほど人気がある。
私は親兄弟や親戚以外には、あまり収穫物をあげられない。
というのは、やはり売っている野菜と比べられるのが怖いというのがある。
プロの作った品物にはかなわない。見栄えや味が違うからである。
薩摩芋も売っているような形の良い芋はあまりとれない。
薩摩芋はコツさえ知っていれば、手間の少なくて収穫の多い優れた作物だ。
今後は自信を持って、職場や近所に配れるほどの物を作りたいと思っている。
2012年10月6日土曜日
尾崎の祭り
尾崎のトーニン(頭人)ヤイイェー ホイホイー
というかけ声は、尾崎の八幡さん(赤穂八幡神社)の祭りでおどけたヤッコが囃す言葉である。
私は元々は尾崎の生まれではなかったのが、3歳頃に家族で引っ越しをして、祭りを経験してきた。
一番思いで深いのは、近所の家が 頭人があたり、父親がそのヤッコ役をやった時である。
今は、地区自治会で 頭人をつとめているが、当時は個人の家が行っていた。
これは塩田地主の名残で、頭人があたると散財しなくてはならなかった。
おそらく浜子(塩田労働者)のご機嫌をとる目的もあったのだろう。
尾崎でトーニンというと肩車を意味するように、頭人の家の縁者の子どもが稚児となり、ヤッコに肩車される。
私は一番前で鉾を肩にしている人が一番えらい人と思っていたが、どうも露払いの意味らしい。
この行列には親戚縁者が正装して並ぶのだが、そのしんがりに昔の衣装箱を担いだヤッコが数人ふざけて回る。
この役を私の父親はしたのだが、顔はおしろいをして、紅や墨で落書きをしている。
このヤッコは酔ってふざけて盛り上げる役である。
八幡神社からノットと言われる分社まで、獅子舞や御輿、屋台、頭人行列が連なるのである。
普段は無骨な父親だったが、酒を飲むとやたら陽気な一面が出る。
父親がふざけている様子を見るのはどうも恥ずかしかった。
祭りが終わって、出されたサイダーを持ってヤッコの格好そのまま家に戻ってきて、大泣きしたのはまだ幼かった三番目の弟である。
顔を落書きしたままで、おそらく喜ばせようとしたのが、却って恐がらせてしまった。
私はそんなヤッコよりも、幼心に獅子舞の鼻高をやりたかったが、祖母は鼻高をすると運が悪いといつも言っていた。
それでも、男の子は小さい頃は皆、その鼻高の舞の真似をして遊んだ。
祭りはもう一つ幼い頃の思い出がある。
この尾崎の祭りには出店が多く出るのだが、ある年には南京鼠を売っていた。
私はその鼠を買って、チュータと名付けて遊んだ。
その鼠は自分の服の懐の中に入れて、動くのを楽しんだりもした。
祭りの後もあって、食事後、不覚にも私は服のままつい眠ってしまった。
親から「チュータは?」と起こされた時には、無残にも私の身体に押しつぶされた亡骸があった。
「チュータ チュータ チュータが死んでもた!」と泣き叫んだが、まさしく後の祭りである。
その後、ことある毎に親からは、 「チュータが死んでもた!」とからかわれた。
今となっては懐かしい思い出である。
というかけ声は、尾崎の八幡さん(赤穂八幡神社)の祭りでおどけたヤッコが囃す言葉である。
私は元々は尾崎の生まれではなかったのが、3歳頃に家族で引っ越しをして、祭りを経験してきた。
一番思いで深いのは、近所の家が 頭人があたり、父親がそのヤッコ役をやった時である。
今は、地区自治会で 頭人をつとめているが、当時は個人の家が行っていた。
これは塩田地主の名残で、頭人があたると散財しなくてはならなかった。
おそらく浜子(塩田労働者)のご機嫌をとる目的もあったのだろう。
尾崎でトーニンというと肩車を意味するように、頭人の家の縁者の子どもが稚児となり、ヤッコに肩車される。
私は一番前で鉾を肩にしている人が一番えらい人と思っていたが、どうも露払いの意味らしい。
この行列には親戚縁者が正装して並ぶのだが、そのしんがりに昔の衣装箱を担いだヤッコが数人ふざけて回る。
この役を私の父親はしたのだが、顔はおしろいをして、紅や墨で落書きをしている。
このヤッコは酔ってふざけて盛り上げる役である。
八幡神社からノットと言われる分社まで、獅子舞や御輿、屋台、頭人行列が連なるのである。
普段は無骨な父親だったが、酒を飲むとやたら陽気な一面が出る。
父親がふざけている様子を見るのはどうも恥ずかしかった。
祭りが終わって、出されたサイダーを持ってヤッコの格好そのまま家に戻ってきて、大泣きしたのはまだ幼かった三番目の弟である。
顔を落書きしたままで、おそらく喜ばせようとしたのが、却って恐がらせてしまった。
私はそんなヤッコよりも、幼心に獅子舞の鼻高をやりたかったが、祖母は鼻高をすると運が悪いといつも言っていた。
それでも、男の子は小さい頃は皆、その鼻高の舞の真似をして遊んだ。
祭りはもう一つ幼い頃の思い出がある。
この尾崎の祭りには出店が多く出るのだが、ある年には南京鼠を売っていた。
私はその鼠を買って、チュータと名付けて遊んだ。
その鼠は自分の服の懐の中に入れて、動くのを楽しんだりもした。
祭りの後もあって、食事後、不覚にも私は服のままつい眠ってしまった。
親から「チュータは?」と起こされた時には、無残にも私の身体に押しつぶされた亡骸があった。
「チュータ チュータ チュータが死んでもた!」と泣き叫んだが、まさしく後の祭りである。
その後、ことある毎に親からは、 「チュータが死んでもた!」とからかわれた。
今となっては懐かしい思い出である。
2012年10月1日月曜日
豊かさの正体
久しぶりに月末金曜夜の「朝まで生テレビ」を見た。「原発問題」だった。
そこでは日本の原子力開発の杜撰さや、国策と電力会社の呆れた関係が露呈された。
いずれ、昼間の番組や、色々な報道で一般に知る所となるだろう。
衆議院選挙前で良かった。原発推進を唱える自民党総裁はただの笑いものになるだろう。
日本を「Japan as No1」と時代にもう一度戻すのだと自民党の安倍新総裁は唱えた。
あの時代、アメリカの映画での悪役は日本の強欲な企業だった。
アメリカの金融政策で日本は奈落の底に突き落とされた。
それを小泉首相はもう一度アジアを裏切り、アメリカに媚びることによって回復させた。
しかし、アジアは日本の政治を見透かし、自国の経済発展に利用することに専念していた。
考えてみれば豊臣秀吉が朝鮮に兵を送ってから、中国とは仲の悪いままである。
その仲を間接的に取り持っていたのが琉球王国だったのだが、日清戦争でその琉球王国再建の望みも完全に消し去ってしまった。
それは政治上、軍事上のことで、中国や朝鮮とは民間レベルではずっと関係はそれなりに続いていた。
中国の共産党にしろ、日本の政府にしろ、国民を豊かにするのだと愛国心を煽る。
一部の企業はそれに連なり、その恩恵は多くの国民に配分されるだろう。
しかし、それにはリスクを伴っていることも知らすべきである。
戦前に多くの命が戦争で奪われたが、現代ではその経済政策のために多くの人が職を失い、自殺したり生活保護を受けることになった。
国民国家とは、本質的にそういうリスクを伴うものだということを、私は認識してこなかった。
このところオルランド・パターソン著『世界の奴隷制の歴史』 明石書店(2001年)を読み続けているのだが、「奴隷は解放されて市民になった」という引用はどきっとさせられた。
封建社会の農奴から解放されて市民となった日本人は、市民の真の意味を知ろうとしなかった。
家や親族を解体させ、福祉を国家から保証される代わりにいざというときには戦うか、さもなくば国家の政策の意のまま生活するのである。
生殺与奪の権を握られているのは、昔も今の同じなのである。
本来は平和憲法自体が独立した国民国家としては矛盾しているのだが、アメリカとアジアへの偽装工作のために維持してきた。
原発のパンドラの箱が開き、 今度は、国民国家のパンドラの箱が開こうとしている。
マスコミや教育が愛国心を唱えるのは良いが、これまで日本の近代化の真の歴史と、国民国家の真の意味もちゃんと納得させて欲しい。
テレビの解説での尖閣列島問題では、琉球王国の滅亡の歴史は隠蔽されたままだ。
これを言い出すと本当にパンドラの箱が開いてしまうが、最低、北方領土も尖閣列島も根本的には戦争によって帰属が決まったことは同じと考えに行き着くべきだろう。
100年に一度の大恐慌の後に、過去と同じ世界大戦が起こらないように、国民国家の存在そのものを問い直す必要を感じた。
そして、我々の豊かさの正体はあまりにもリスクが大きいことも考えざるを得なかった。
そこでは日本の原子力開発の杜撰さや、国策と電力会社の呆れた関係が露呈された。
いずれ、昼間の番組や、色々な報道で一般に知る所となるだろう。
衆議院選挙前で良かった。原発推進を唱える自民党総裁はただの笑いものになるだろう。
日本を「Japan as No1」と時代にもう一度戻すのだと自民党の安倍新総裁は唱えた。
あの時代、アメリカの映画での悪役は日本の強欲な企業だった。
アメリカの金融政策で日本は奈落の底に突き落とされた。
それを小泉首相はもう一度アジアを裏切り、アメリカに媚びることによって回復させた。
しかし、アジアは日本の政治を見透かし、自国の経済発展に利用することに専念していた。
考えてみれば豊臣秀吉が朝鮮に兵を送ってから、中国とは仲の悪いままである。
その仲を間接的に取り持っていたのが琉球王国だったのだが、日清戦争でその琉球王国再建の望みも完全に消し去ってしまった。
それは政治上、軍事上のことで、中国や朝鮮とは民間レベルではずっと関係はそれなりに続いていた。
中国の共産党にしろ、日本の政府にしろ、国民を豊かにするのだと愛国心を煽る。
一部の企業はそれに連なり、その恩恵は多くの国民に配分されるだろう。
しかし、それにはリスクを伴っていることも知らすべきである。
戦前に多くの命が戦争で奪われたが、現代ではその経済政策のために多くの人が職を失い、自殺したり生活保護を受けることになった。
国民国家とは、本質的にそういうリスクを伴うものだということを、私は認識してこなかった。
このところオルランド・パターソン著『世界の奴隷制の歴史』 明石書店(2001年)を読み続けているのだが、「奴隷は解放されて市民になった」という引用はどきっとさせられた。
封建社会の農奴から解放されて市民となった日本人は、市民の真の意味を知ろうとしなかった。
家や親族を解体させ、福祉を国家から保証される代わりにいざというときには戦うか、さもなくば国家の政策の意のまま生活するのである。
生殺与奪の権を握られているのは、昔も今の同じなのである。
本来は平和憲法自体が独立した国民国家としては矛盾しているのだが、アメリカとアジアへの偽装工作のために維持してきた。
原発のパンドラの箱が開き、 今度は、国民国家のパンドラの箱が開こうとしている。
マスコミや教育が愛国心を唱えるのは良いが、これまで日本の近代化の真の歴史と、国民国家の真の意味もちゃんと納得させて欲しい。
テレビの解説での尖閣列島問題では、琉球王国の滅亡の歴史は隠蔽されたままだ。
これを言い出すと本当にパンドラの箱が開いてしまうが、最低、北方領土も尖閣列島も根本的には戦争によって帰属が決まったことは同じと考えに行き着くべきだろう。
100年に一度の大恐慌の後に、過去と同じ世界大戦が起こらないように、国民国家の存在そのものを問い直す必要を感じた。
そして、我々の豊かさの正体はあまりにもリスクが大きいことも考えざるを得なかった。
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