小学生低学年の頃だから、もう45年以上の昔である。
親戚揃って 伯父の100t程の石材を積む木造船で夏に金比羅さんにお参りに行った。
金比羅さんは船乗りにとって守り神なので、昔から定期的にお参りに行っていたようだ。
当然違法なので、保安船が来たら隠れるように言われていた。
出港の際は、船長気分で舳先に立って敬礼したのを覚えている。
伯父に舵を握らせて貰ったが、広い海でぶつかる物もないのに妙に緊張した。
坂出港に停泊して、そこから路線バスに乗って金比羅さんに行った。
金比羅さんの石段は1000段あると言われたが(実際は1368段)、当時の自分にはとても多く感じられた。
その夜は、停泊した船の貨物室に蚊帳を張って寝たが、蚊に刺されてかゆくて眠れなかったのを覚えている。
今日、新しく買ったFitで家内と息子の三人で遠出することにした。行き先は四国とだけ決めておいた。
天気も昨日と打って変わって、快晴で朝の気温は低かったが、うちの近辺は霧でそう寒くはなかった。
四国は青春18切符を使って一周したり、職場の関係で松山周辺に出かけたり、最近では子供と高知にドライブに行ったことはある。
以前から金比羅さんに行ってみたいと思っていたので、高松自動車道を走っていて、看板を見るなり行くことに決めた。
歴史ある観光地なので、行楽シーズンとして渋滞も覚悟したが、渋滞もなく駅近くの駐車場に留めることができた。
そこからしばらく歩くと、商店街に出たのだが、まさしくシャッター街である。
ただ、金物雑貨屋には自分が以前から欲しかった職人籠が飾ってあったので、帰りには寄ることに決めた。
下駄屋もあって下駄も欲しかったが、冬場は使えないので買うのは止めた。
神社の参道には多くの土産物屋や飲食店が立ち並んでいた。
さっきまでのシャッター街とは違い、大勢の観光客がいたが、家族連れやお年寄りがやはり多かった。
幼い頃に来た記憶が甦ってくる。ただ、昔のように強引な客引きはされていない。
昔ながらの店毎に色テープで色づけされた竹杖が貸し出されている。
籠かきも昔ながらにいたが、往復6800円という値段には驚いた。
家内と私の母親を連れてきたら、足が悪いので籠に頼るしかないが、体重が重くて嫌がられるだろうと笑った。
当然、私などはもっと嫌がられるだろう。
浅草で売っている以上に、昔ながらの笠や模造刀、木彫りの置物などが多いのには感心した。
「五人百姓」のいる「大門」の前で、家内はギブアップ、腰が痛いから残るというので、息子と二人で上ることにした。
秋の風情が豊かな石段には、神社や仏閣に多い銀杏の木が色づいている。
山から見下ろす景色もすばらしかった。
本殿でお参りをした後、お守りを買って戻る。
こういう階段は上りより下りの方が膝に来るので用心した。
家内は「大門」から下に降りていた。土産物をゆっくり見る間もなく、先程の商店街に戻った。
職人籠を売っていた金物屋には、かなり高齢の身なりの良いご老人が店番をしていた。
中にある籠には柿渋を塗った物もあり、2380円と400円程高かったが、買うことにした。
袋は要らないと言うと、80円まけてくれたが、こういう店は本来値切って買うところだったのかも知れない。
因みに、私は今でも10年程前に姫路で買った職人籠を修理しながら使っている。
同僚からは、色々からかわれたが、夏場の荷物が多い時を除いてずっと使っている。
これは東京にいる時に板前さんが買い出しに使っているのを見て、欲しかったからである。
少々場所を取り邪魔になるが、意外と便利で重宝している。
これで、新しい籠で堂々と通える。
家内とも帰りながら10年後に来たらこの商店街も無くなっていると話しあった。
遅くなった昼食はやはり讃岐うどんということにした。
国道沿いの駐車場のある店に入った。
水車で粉をひいているのが売りだったが、全く愛想のない主人が普段着で一人やっていた。
私と家内は肉うどん、息子は天ぷらうどんを注文した。
注文してだいぶ経って肉うどんは出てきたが、天ぷらうどんは一度床に落としてやり直していた。
「お待たせしてすみません」とも言わなかったし、出る時に「ありがとう」の一言もなかった。
味は悪くはなかったが、値段も高く愛想が悪い。素人のような主人がやる店には二度と来るまいと思った。
映画にもなった讃岐うどん人気で、鼻持ちならない店がまだ健在なのかも知れない。
客も私達の後からどんどん入ってきた。
渋滞を心配したが帰りもすいていた。
往復250kmの旅は、うどん屋を除いて良い想い出になった。
幼い頃船での一泊二日の旅は遠く感じられたが、日帰りで気楽に行ける場所になった。
曾祖父から四国は縁があり、金比羅さんはもっと縁が深い。
幼稚園に上がる前に、両親が船で石荷を積む仕事をしていた時、私も船に乗せられていた。
明石沖で嵐にあって、難破しかけた。
親父は私に「金比羅 船船を歌え」と言ったという。
私は言われるまま「金比羅 船船 追手に 帆かけて しゅらしゅしゅしゅー」
意味の分からないまま憶えていた歌を歌うと 波がおさまったという。
私が生きているのも金比羅さんのお陰なのかも知れない。
これからも度々お参りに伺いたい。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
ページビューの合計
65,822
2012年11月26日月曜日
2012年11月18日日曜日
原木栽培椎茸の収穫
原木椎茸は2年前の冬に始めた。
量販店で売っているコナラの木と椎茸の種菌を用いて5本ほど庭に置いた。
この春に初めて椎茸がなり、その美味しさに驚いた。
最近では手頃に買える椎茸は菌床栽培の物で、香りも味も食感も原木栽培の物とは大違いである。
といっても、これまで菌床栽培の椎茸を当たり前に食べていたので、原木栽培の椎茸を食べるまでは分からなかった。
以前から近所の人は竹林などを利用して椎茸を栽培しているのは知っていた。
村の人は山の木を自分で伐ったり、知り合いからもらったりして、原木を買うことはないようだ。
私はチェーンソーをまだ持っていないので、木を伐ることは大ごとになる。
上手く行くかどうか自信は無かったのだが、春先にできて自信をつけた。
この夏は猛暑でしかも雨が降らなかったので、ひょっとして秋には出ないのではないかと心配していた。
涼しくなっても、いっこうに出る気配はなくて、半ば諦めていたのだが、朝方の温度が3℃くらいになるこの時期に出てきた。
そう言えば、春先に出たときも気温が低いのに出てきたので狂って出たのかと思った。
普通は夏を2回経なくては出ないというのに、1回だけで出てくれた。
そしてこの秋は2回の夏を経て本格的に出始めた。
実は自信がないのに、本やネットで調べて栽培し始めたのは、今の学校の冬場の作業で椎茸の菌打ちをやることになったからである。
学校の方では、業者から委託されて、量販店とはやり方の違い、発泡スチロールのふた付きの物や、ペースト状の種菌を注入するやり方だった。
農作業があまりない時に、障害の重い生徒でも作業ができたので助かった。
原木に穴を開けて出た沢山のおが屑は、持って帰って燻製のチップに利用した。
しかし、これは業者の人に遠くから運んでもらわねばならず、春先は農園を優先させた関係で仕上げることができなかった。
この冬の作業としては、この業者の委託は止めることにした。
かわりに、自分自身が栽培することができるようになったので、私が委託することもできるようになった。
この椎茸栽培は菌を打ってからの管理が一番気を遣うところであり、日陰の風通しの良いところで、乾燥させないようにする。
ある程度日数が経ったら、今度は少し陽の当たる風通しの良いところに置く。
大事なのは雨がかからなくてはならないと言うことである。
きちっと水分管理ができる人なら、屋根付きでも良いだろうが、放っておくならそういう場所を選んだ方が良い。
幸いというべきか、あいにくと言うべきか、私の庭は前に家が建っているせいもあって、日陰に不自由しない。
しかも、東側は生け垣にしているので、夏場でも涼しいのが幸いしたようだ。
原木栽培の椎茸は結構高い値段で販売されており、それを味噌汁に入れたり、焼いて醤油で食べられるのは贅沢なことである。
少しはお裾分けはできるのだが、まだまだ数は足りない。
他の農作物よりも喜ばれそうなので、今年の冬にはもう少し数を増やそうと思っている。
いずれはチェーンソーを買って自分で原木を伐ることも考えている。
量販店の原木は600円ほどして高いのだが、業者から安く分けてもらう手もある。
他の農作物とは違って、先行投資の意味合いの強い作物だが、贅沢な気分にさせてくれる魅力のある作物だ。
量販店で売っているコナラの木と椎茸の種菌を用いて5本ほど庭に置いた。
この春に初めて椎茸がなり、その美味しさに驚いた。
最近では手頃に買える椎茸は菌床栽培の物で、香りも味も食感も原木栽培の物とは大違いである。
といっても、これまで菌床栽培の椎茸を当たり前に食べていたので、原木栽培の椎茸を食べるまでは分からなかった。
以前から近所の人は竹林などを利用して椎茸を栽培しているのは知っていた。
村の人は山の木を自分で伐ったり、知り合いからもらったりして、原木を買うことはないようだ。
私はチェーンソーをまだ持っていないので、木を伐ることは大ごとになる。
上手く行くかどうか自信は無かったのだが、春先にできて自信をつけた。
この夏は猛暑でしかも雨が降らなかったので、ひょっとして秋には出ないのではないかと心配していた。
涼しくなっても、いっこうに出る気配はなくて、半ば諦めていたのだが、朝方の温度が3℃くらいになるこの時期に出てきた。
そう言えば、春先に出たときも気温が低いのに出てきたので狂って出たのかと思った。
普通は夏を2回経なくては出ないというのに、1回だけで出てくれた。
そしてこの秋は2回の夏を経て本格的に出始めた。
実は自信がないのに、本やネットで調べて栽培し始めたのは、今の学校の冬場の作業で椎茸の菌打ちをやることになったからである。
学校の方では、業者から委託されて、量販店とはやり方の違い、発泡スチロールのふた付きの物や、ペースト状の種菌を注入するやり方だった。
農作業があまりない時に、障害の重い生徒でも作業ができたので助かった。
原木に穴を開けて出た沢山のおが屑は、持って帰って燻製のチップに利用した。
しかし、これは業者の人に遠くから運んでもらわねばならず、春先は農園を優先させた関係で仕上げることができなかった。
この冬の作業としては、この業者の委託は止めることにした。
かわりに、自分自身が栽培することができるようになったので、私が委託することもできるようになった。
この椎茸栽培は菌を打ってからの管理が一番気を遣うところであり、日陰の風通しの良いところで、乾燥させないようにする。
ある程度日数が経ったら、今度は少し陽の当たる風通しの良いところに置く。
大事なのは雨がかからなくてはならないと言うことである。
きちっと水分管理ができる人なら、屋根付きでも良いだろうが、放っておくならそういう場所を選んだ方が良い。
幸いというべきか、あいにくと言うべきか、私の庭は前に家が建っているせいもあって、日陰に不自由しない。
しかも、東側は生け垣にしているので、夏場でも涼しいのが幸いしたようだ。
原木栽培の椎茸は結構高い値段で販売されており、それを味噌汁に入れたり、焼いて醤油で食べられるのは贅沢なことである。
少しはお裾分けはできるのだが、まだまだ数は足りない。
他の農作物よりも喜ばれそうなので、今年の冬にはもう少し数を増やそうと思っている。
いずれはチェーンソーを買って自分で原木を伐ることも考えている。
量販店の原木は600円ほどして高いのだが、業者から安く分けてもらう手もある。
他の農作物とは違って、先行投資の意味合いの強い作物だが、贅沢な気分にさせてくれる魅力のある作物だ。
千種への水汲み2012年秋
千種まで家内と水を汲みに行った。
夏、千種で汲んだ水も少なくなって、家内によるとお茶やコーヒーにしか使わず節約していたという。
農作業などが忙しくてなかなか行けなかったのだが、今日は雨が止みそうな夕方に行くことにした。
この季節としてはかなり強い雨が朝から降り続き、昼過ぎになってやっと小降りになったので出かけることにした。
このところ朝はせわしなく出かけ、帰って来るときは真っ暗なので、家の回りの山の風景が色づいていることに気がつかなかった。
ここはわざわざ紅葉狩りに観光地に行かずとも、紅葉のパノラマが身近に展開している。
犬の散歩で近所の人と出会うときの挨拶などで、「山がきれいね」と言葉を交わしたりする。
そんな紅葉のパノラマは千種の近くまで続く、国道373号線の道沿いにも、楓の赤や、銀杏の黄色が色を添えてくれる。
ところが、千種に近づくにしたがって、山の景色はつまらなくなる。
植林された針葉樹が多くなり、頂上付近とか一部にしか紅葉はなくて、見方によってはまだら禿のようだ。
生活のための針葉樹だから仕方ないのだが、観光に力を入れるなら、もう一度紅葉の山にしたほうが良いように思う。
山の崩壊した和歌山県ではどんぐりを植林していると報道していたので見習って欲しいと思う。
ただ、冬になると雪が積もって真っ白になるので、針葉樹は気にならない。
千種川の水は今朝からの大雨でどす黒く濁っている。
始めは河川工事のせいかと思っていたが、よほど激しく降ったらしい。
その増水した川を今日も緊急河川工事が続き、ダンプが多く行き交っていた。
土曜なのに中学生が丁度クラブの帰りか、自転車で帰宅中であった。
道幅が狭くて、ヘルメットを被った女子中学生の後をダンプがついていくのは、少々可笑しくもあり、危なかっしかった。
いつもは朝に水汲みに出かけるので、交通量は少ないのだが今日は多くて、上郡からずっと前を走るプリウスは結局千種高校の傍まで一緒だった。
水汲み場は誰もいなくてほっとしたとはいえ、夏もそうだったが水汲む人に殆ど会わなくなったのが気になった。
雨が降っていたせいもあるが、何となく不景気で水代も節約しているように思えた。
そう言えば、自分の勤めていいる学校も、ずっと教師がこことは別の処で水を汲んで来ていたのだが、負担が重くてこれからは中止になった。
健康は労力と金銭の負担に大きく関わる。
そして、何よりスキー客も減ったと聞く千種町の収入源も危うく感じてしまう。
水そのものの収入の他、ついでに道の駅なので買い物もするからだ。
家内は携帯を持ってくるのを残念がった。
水汲み場の楓の木が色づいてきれいなのだが、去年は今時分に来て、携帯のカメラに納めて待ち受け画面にしていた。
今回は私も持っていなくて、お地蔵さんの笠にもなっている、きれいな楓は写真に撮ることはできなかった。
赤と緑のコントラストが美しい楓は、雨に濡れていっそう艶やかで美しかった。
水汲んだ帰りには千種の道の駅に寄って、蒟蒻や赤米や山芋の小さいのを買った。
面白かったのは手作りの蜂箱が売ってあったのだ、杉焼きをして飾りにしても良さそうだった。
新米も出ていたが高くて手が出なかった。
今回も白旗城の麓、赤松ではペット用のでかい豚を見かけた。
お婆さんらしき人が傍にすわって眺めていたが、灰色の斑のある豚が2匹もいた。
以前はこの豚を散歩させているのに出くわして、驚いたことがある。
上郡でもペットとして飼っている人のことを聞いたが、どうしても最終的な処分を想像してしまう。
上郡に着いたときには薄暗かったのだが、途中で買い物をしている内に真っ暗になってしまった。
いつもは自宅に帰って直ぐに、家の納戸にしまうのだが今回は明日にすることにした。
夏、千種で汲んだ水も少なくなって、家内によるとお茶やコーヒーにしか使わず節約していたという。
農作業などが忙しくてなかなか行けなかったのだが、今日は雨が止みそうな夕方に行くことにした。
この季節としてはかなり強い雨が朝から降り続き、昼過ぎになってやっと小降りになったので出かけることにした。
このところ朝はせわしなく出かけ、帰って来るときは真っ暗なので、家の回りの山の風景が色づいていることに気がつかなかった。
ここはわざわざ紅葉狩りに観光地に行かずとも、紅葉のパノラマが身近に展開している。
犬の散歩で近所の人と出会うときの挨拶などで、「山がきれいね」と言葉を交わしたりする。
そんな紅葉のパノラマは千種の近くまで続く、国道373号線の道沿いにも、楓の赤や、銀杏の黄色が色を添えてくれる。
ところが、千種に近づくにしたがって、山の景色はつまらなくなる。
植林された針葉樹が多くなり、頂上付近とか一部にしか紅葉はなくて、見方によってはまだら禿のようだ。
生活のための針葉樹だから仕方ないのだが、観光に力を入れるなら、もう一度紅葉の山にしたほうが良いように思う。
山の崩壊した和歌山県ではどんぐりを植林していると報道していたので見習って欲しいと思う。
ただ、冬になると雪が積もって真っ白になるので、針葉樹は気にならない。
千種川の水は今朝からの大雨でどす黒く濁っている。
始めは河川工事のせいかと思っていたが、よほど激しく降ったらしい。
その増水した川を今日も緊急河川工事が続き、ダンプが多く行き交っていた。
土曜なのに中学生が丁度クラブの帰りか、自転車で帰宅中であった。
道幅が狭くて、ヘルメットを被った女子中学生の後をダンプがついていくのは、少々可笑しくもあり、危なかっしかった。
いつもは朝に水汲みに出かけるので、交通量は少ないのだが今日は多くて、上郡からずっと前を走るプリウスは結局千種高校の傍まで一緒だった。
水汲み場は誰もいなくてほっとしたとはいえ、夏もそうだったが水汲む人に殆ど会わなくなったのが気になった。
雨が降っていたせいもあるが、何となく不景気で水代も節約しているように思えた。
そう言えば、自分の勤めていいる学校も、ずっと教師がこことは別の処で水を汲んで来ていたのだが、負担が重くてこれからは中止になった。
健康は労力と金銭の負担に大きく関わる。
そして、何よりスキー客も減ったと聞く千種町の収入源も危うく感じてしまう。
水そのものの収入の他、ついでに道の駅なので買い物もするからだ。
家内は携帯を持ってくるのを残念がった。
水汲み場の楓の木が色づいてきれいなのだが、去年は今時分に来て、携帯のカメラに納めて待ち受け画面にしていた。
今回は私も持っていなくて、お地蔵さんの笠にもなっている、きれいな楓は写真に撮ることはできなかった。
赤と緑のコントラストが美しい楓は、雨に濡れていっそう艶やかで美しかった。
水汲んだ帰りには千種の道の駅に寄って、蒟蒻や赤米や山芋の小さいのを買った。
面白かったのは手作りの蜂箱が売ってあったのだ、杉焼きをして飾りにしても良さそうだった。
新米も出ていたが高くて手が出なかった。
今回も白旗城の麓、赤松ではペット用のでかい豚を見かけた。
お婆さんらしき人が傍にすわって眺めていたが、灰色の斑のある豚が2匹もいた。
以前はこの豚を散歩させているのに出くわして、驚いたことがある。
上郡でもペットとして飼っている人のことを聞いたが、どうしても最終的な処分を想像してしまう。
上郡に着いたときには薄暗かったのだが、途中で買い物をしている内に真っ暗になってしまった。
いつもは自宅に帰って直ぐに、家の納戸にしまうのだが今回は明日にすることにした。
2012年11月16日金曜日
東京(葉山・スカイツリー)へのドライブ
11月2日から3日迄、休みが取れたので家内と一緒に私の母親を連れて東京へ自家用車で行った。
この目的は神奈川県の葉山に弟が家を新築していたのに、一度も見に行っていなかったので、年老いた母に見せてやるということ。
そして、弟の健康状態が気になったので、様子を伺いに行くことだった。
自家用車を用いたのは、母が足が悪いと言うこともあるが、安く済ませることであった。
三人で行って、交通費だけでは4万円以内に収まっている。
その代わり、疲れが家内や母親には出てしまった。
名古屋までは既に日帰りで行っていたので、四日市から伊勢湾岸自動車道、東名、新東名などは初めてであった。
途中、休憩や昼食をとって、行きは朝の10時半に出て葉山の弟宅には午後7時頃着いた。
中でも景色が良かったのは、駿河湾沼津SAあたりで、そこは駿河湾を見渡せる絶好の景色、平日であるのにも関わらず混雑していた。
富士山は遠くから雪の積もった白い頭が見えていたのだが、近づくと雲に隠れてしまって麓しか見えなくなっていた。
富士山こそ見えなかったが、夕陽に赤く染まる駿河湾と沼津の町の景色は今でも脳裏に焼き付いている。
葉山では弟夫婦に御用邸近くのマーロンという有名なレストランに連れて行ってもらった。
夜なのですばらしい景色は見えなかったが、太平洋の波の音は瀬戸内海に住む私達には新鮮だった。
この、葉山は多くの人の憧れの地ではあるが、もともと地元の人には住民税が高く、夏は海水浴客で混雑して大変だそうだ。
弟の家は高台にあって、遠くに江ノ島も見えるところにある。
不便な所であるにも関わらず、地価がすごく高いのには驚いた。
別のもっと高級な高台では芸能人も別荘などを持っているようで、弟の嫁はコンビニ働いていて、有名は芸能人が何度か訪れてきたことを話してくれた。
ただ、弟宅の100m程近くで母親が子供を二人も殺害するという事件があったというし、このところ逗子での殺人事件もマスコミでよく取り上げられている。
病める都会の一面も葉山はもっていた。
何より、東名を下りてからの渋滞には閉口した。ただ、関西と違い割り込みが殆ど無く、整然と車が流れていくのには驚いた。
翌日は母の希望であるスカイツリーを見に行った。
5月に仕事で訪れた時には遠くで眺める程度だったが、傍まで行くとその巨大さに圧倒された。
スカイツリーそのものは2時間待ちと言うことで、登れなかったが、隣のビルの31階で東京の景色を眺めながら食事をとった。
私は大学院時代に1年目中野、2年目新宿区西落合、3年目横浜緑区長津田に住んでいた。
大学は東横線沿いにあった。
家庭教師のアルバイトをしていた関係で、このあちらこちらに行く機会が多くて、ある程度の土地勘があるつもりだったが、全く浦島太郎状態であった。
だいたい、新宿の高層ビルの方向でのさえ始めは分からなかった。
巨大な大都会の景色に圧倒された。
弟宅からの帰りは想い出の鎌倉から湘南の海岸線沿いを通って帰った。
学生時代は、当然、車で通ることは殆ど無かった。
江ノ電に乗るのが楽しみであった。
家内にはこの思い出話が過去への執着に感じたようで、後で嫌みを言われた。
ちょうど、湘南マラソンが終わった後で、空いた道路を夕日の中、駆け抜けることができた。
それから先は再び長い長いドライブが始まり、家に着いたのは4日深夜の1時だった。
家内と交替しながら、Stepwgnで往復した1,400km、葉山から東京は弟が運転してくれた。
燃費は12km/lと伸びたし、帰りは深夜割引で通行料も半額になって安く付いた。
この旅行から帰って暫くは、疲れもあったが、カルチャーショック状態だった。
仕事で行ったときは仕事の方に気が向いていたので、それ程感じなかったのだが、自分の生活を再認識する機会ともなった。
あの巨大な東京には、今は住む気になれない。
巨大地震の畏れよりも、異常に増幅した人口都市の不気味さが堪えられないように思えた。
上郡のど田舎で、畑をいじりながら生活している者にとっては、観光する魅力はあっても住む魅力は無い。
転職して東京に暮らすと言うことも考えたことはあったが、今はもういいという感じである。
東京から田舎に戻ったときは、挫折感に苛まれたが、田舎で何とか暮らせる今の方が良かったようにも思えるようになった。
仕事のしすぎで健康に問題を抱えている弟は家を建てたこともあって、二度と赤穂には住むことはないという。
確かに、葉山は魅力的な街だが、老後を過ごすには過酷なところのようにも思えた。
それは、この上郡の田舎の高台に住む老人にも言えることなのだが、車が運転できないと暮らせない。
葉山近辺では、運転できても駐車場がゆったり利用できる店が少ないそうだ。
金さえあれば何とかなりそうだが、無ければ無縁社会の悲劇を招きそうだ。
今回、まさに葉山とスカイツリーは今まで読んだ多くの文献以上に私の思考を変えてくれた。
この目的は神奈川県の葉山に弟が家を新築していたのに、一度も見に行っていなかったので、年老いた母に見せてやるということ。
そして、弟の健康状態が気になったので、様子を伺いに行くことだった。
自家用車を用いたのは、母が足が悪いと言うこともあるが、安く済ませることであった。
三人で行って、交通費だけでは4万円以内に収まっている。
その代わり、疲れが家内や母親には出てしまった。
名古屋までは既に日帰りで行っていたので、四日市から伊勢湾岸自動車道、東名、新東名などは初めてであった。
途中、休憩や昼食をとって、行きは朝の10時半に出て葉山の弟宅には午後7時頃着いた。
中でも景色が良かったのは、駿河湾沼津SAあたりで、そこは駿河湾を見渡せる絶好の景色、平日であるのにも関わらず混雑していた。
富士山は遠くから雪の積もった白い頭が見えていたのだが、近づくと雲に隠れてしまって麓しか見えなくなっていた。
富士山こそ見えなかったが、夕陽に赤く染まる駿河湾と沼津の町の景色は今でも脳裏に焼き付いている。
葉山では弟夫婦に御用邸近くのマーロンという有名なレストランに連れて行ってもらった。
夜なのですばらしい景色は見えなかったが、太平洋の波の音は瀬戸内海に住む私達には新鮮だった。
この、葉山は多くの人の憧れの地ではあるが、もともと地元の人には住民税が高く、夏は海水浴客で混雑して大変だそうだ。
弟の家は高台にあって、遠くに江ノ島も見えるところにある。
不便な所であるにも関わらず、地価がすごく高いのには驚いた。
別のもっと高級な高台では芸能人も別荘などを持っているようで、弟の嫁はコンビニ働いていて、有名は芸能人が何度か訪れてきたことを話してくれた。
ただ、弟宅の100m程近くで母親が子供を二人も殺害するという事件があったというし、このところ逗子での殺人事件もマスコミでよく取り上げられている。
病める都会の一面も葉山はもっていた。
何より、東名を下りてからの渋滞には閉口した。ただ、関西と違い割り込みが殆ど無く、整然と車が流れていくのには驚いた。
5月に仕事で訪れた時には遠くで眺める程度だったが、傍まで行くとその巨大さに圧倒された。
スカイツリーそのものは2時間待ちと言うことで、登れなかったが、隣のビルの31階で東京の景色を眺めながら食事をとった。
私は大学院時代に1年目中野、2年目新宿区西落合、3年目横浜緑区長津田に住んでいた。
大学は東横線沿いにあった。
家庭教師のアルバイトをしていた関係で、このあちらこちらに行く機会が多くて、ある程度の土地勘があるつもりだったが、全く浦島太郎状態であった。
だいたい、新宿の高層ビルの方向でのさえ始めは分からなかった。
巨大な大都会の景色に圧倒された。
弟宅からの帰りは想い出の鎌倉から湘南の海岸線沿いを通って帰った。
学生時代は、当然、車で通ることは殆ど無かった。
江ノ電に乗るのが楽しみであった。
家内にはこの思い出話が過去への執着に感じたようで、後で嫌みを言われた。
ちょうど、湘南マラソンが終わった後で、空いた道路を夕日の中、駆け抜けることができた。
それから先は再び長い長いドライブが始まり、家に着いたのは4日深夜の1時だった。
家内と交替しながら、Stepwgnで往復した1,400km、葉山から東京は弟が運転してくれた。
燃費は12km/lと伸びたし、帰りは深夜割引で通行料も半額になって安く付いた。
この旅行から帰って暫くは、疲れもあったが、カルチャーショック状態だった。
仕事で行ったときは仕事の方に気が向いていたので、それ程感じなかったのだが、自分の生活を再認識する機会ともなった。
あの巨大な東京には、今は住む気になれない。
巨大地震の畏れよりも、異常に増幅した人口都市の不気味さが堪えられないように思えた。
上郡のど田舎で、畑をいじりながら生活している者にとっては、観光する魅力はあっても住む魅力は無い。
転職して東京に暮らすと言うことも考えたことはあったが、今はもういいという感じである。
東京から田舎に戻ったときは、挫折感に苛まれたが、田舎で何とか暮らせる今の方が良かったようにも思えるようになった。
仕事のしすぎで健康に問題を抱えている弟は家を建てたこともあって、二度と赤穂には住むことはないという。
確かに、葉山は魅力的な街だが、老後を過ごすには過酷なところのようにも思えた。
それは、この上郡の田舎の高台に住む老人にも言えることなのだが、車が運転できないと暮らせない。
葉山近辺では、運転できても駐車場がゆったり利用できる店が少ないそうだ。
金さえあれば何とかなりそうだが、無ければ無縁社会の悲劇を招きそうだ。
今回、まさに葉山とスカイツリーは今まで読んだ多くの文献以上に私の思考を変えてくれた。
登録:
投稿 (Atom)