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2012年12月23日日曜日

なぜオランダ?

私はこの「播磨のしっぽ」以外もGoogleでは「気になる書籍」というのも書いている。
GoogleのBloggerは統計の参加者で海外からのアクセスも知ることができる。
この「播磨のしっぽ」も海外でアクセスされているが数は少ない。
ところが、「気になる書籍」は日によっては、海外の方が多くなる時もある。
この一週間でオランダから14件のアクセスがあったのだが理由が分からない。
私のブログは「気になる書籍」でせいぜい一日に数件、「播磨のしっぽ」も5件未満である。
写真も殆ど載せずに、少々堅苦しいので仕方ないとは思っている。

私は兵庫県立図書館の本を上郡町の図書室を利用して借りている。
インターネットで予約して、図書室で受け渡しができるので非常に便利である。
ただ、中身を見ずに、タイトルや目次で借りなくてはいけないので、取り寄せて読むのを躊躇うのもある。
以前は月に数万円の書籍代をつぎ込むこともあったが、子供ができてからそれも難しくなった。
また、何よりも部屋を書籍が占領してしまい、もう置くところが無くなってしまった。
だから、この頃は図書館で極力借りることにした。
上郡町の図書室はこぢんまりとしているので、職員と直ぐに顔なじみになった。
職員の一人は教え子のお母さんであったり、その御主人が私の子供の先生だったりして心やすい。
赤穂の図書館にもよく行っていたが、貸出期限が2週間であり、遠くで不便である。
その点でインターネット予約貸し出しは、予約してから時間はかかるものの、貸出期間も長く助かっている。
県立図書館にない本も横断検索で県内の他の図書館からも借りられる。
ただ、最大の欠点は国立図書館や民博などの図書資料を取り扱って貰えないことである。

そういうことで、私が読める書籍には限界はあるのだが、基本的な文献に当たることは可能である。
何でもネットで調べて済む時代になってはいるが、しっかりと書籍を読むことは非常にためになっている。
私は若い頃は小説は読むのは好きだったが、専門書を読むことは苦手であった。
専門の文化人類学もフィールドワークが中心で、文献研究が苦手であった。
得てして、机上の論には限界も感じるが、何年も掛けて研究した内容を1週間足らずで読破できるのは、とても有難いことである。
そのへんが、気軽に書いているブログとは全く価値が違う。

私が紹介している書籍は読んだ書籍の一部でしかない。
そもそも手にして全部読み切る書籍の方が少ない。
それでも、購入した書籍はいつでも読めると思って「積ん読」になるが、借りた書籍は頑張って読む。
世界の趨勢は書籍のデジタル化になっており、いずれ音楽配信と同じようにダウンロードということにもなるだろう。
著者への印税の方法も考えてあげるべきだろ思う。
私も1冊専門書を書いて借金を背負ったままであるが、図書館に買ってもらっても本屋では売れていない。
いくら図書館で読んでもらえても、借金の返済には役に立たない。
ただ、研究職でない身では、パチンコで負けて損したことよりは、ましだと思って慰めている。


2012年12月17日月曜日

いつかのメリークリスマス

久しぶりにギターを持って生徒の前で歌った。教師も沢山いた。
学年のクリスマス会の余興での話である。
たかが、学年行事と言っても、総勢100名、ちょっとした小ホールである。
カラオケで歌うのとは違って、どんな舞台に立つ時も緊張し、逃げ出したくなった。
それでいて、性懲りもなく人前で演奏し歌う。
今回は3年生の最後のクリスマス会なので、自ら志願した。
曲はB’zの「いつかのメリークリスマス」である。職場の忘年会のカラオケステージで歌って以来である。
練習をして、ギターは何とか弾けたが、さびの部分の声が納得いかなかった。
それでも、たいていは本番では何とか声が出ることが分かっていたので、本番に望み何とかこなせた。
既にB'zは過去の栄光を失っていたので、今ひとつの反応だったが、自分としてはまずまずだった。

私がB’zを歌い始めたのは、以前勤めていた高校で生徒とバンドを組んで以来である。
ギター好きのその生徒はギターに入れ込んでいたが、人と合わせるのが苦手で、折角の文化祭でもバンドが組めないでいた。
それなら、一緒にやってみようと言うことで、まさしくB’zと同じように二人で始めた。
結局、あぶれたベースと3人で高校の文化祭のステージに立った。
当時は生徒もよくB’zを知っていたので、えらい盛り上がりようだった。
曲によってはかなり厳しいものもあったが、歌いこんで何とかこなせた。

それをきっかけにB’zに興味を持って、NHKの特集を録画して生徒に見せたりもした。
あの声を維持するための稲葉浩志のストイックな生活は、プロたる者はどんなものかを示すのに相応しいと思ったからである。
ボーカルを経験した人なら誰でも分かるが、練習を続けないと声は直ぐ出なくなる。
今回も、声が出る状態まで歌いこみたかったが、そこまでは行けなかったので納得はしていない。
ただ、こういうきっかけがないと、最近では歌を練習する気にはなれなかった。
声帯を一皮剥いた感じで声が出るように本当は歌い込みたかった。
声が出ない分、雰囲気でカバーしようと思ったが、緊張して余裕がなかった。
唯一の救いは、これまでいくらギターを弾いてみろ言っても、手にしなかった女子生徒がその後直ぐにギターを鳴らし出したことだ。

実はこの稲葉浩志は横浜国立大学の教育学部数学科を出ている。
教師を志した時もあったようで、その数学科の同級生が兵庫県の教職員にもいた。
その教師はそのことを自慢げに話してくれたが、当時はそれ程関心がなかったので、聞き流していた。
残念ならがらその教師は私学に換わってしまったので、会う機会もなくなってしまった。
もっと聞いておけば良かったと残念に思っている。
教師を志しながら、ミュージシャンで大成功を収めている稲葉浩志。
ミュージシャンを志して大学へ行きながら、教師になった自分。
比較すると家内に鼻で笑われるほどの雲泥の差である。
しかし、いなかのプレスリーならぬ、稲葉浩志と同僚に おべっか言われて悪い気はしない。

私が今日用いたギターは中学校3年生の時に、友人と一緒に店に行って、彼に勧められて買ったヤマキのギターである。
因みに彼はベーシストで、高校卒業までバンドを組み続けた。
彼は早稲田大の軽音に入ったが、研究者になった。
このヤマキのギターは、糸巻きを途中で変えた以外は、大事に使ってきた。
たまたま、今日同じ学年の先生に見せたら、実は彼もヤマキのギターを大切持っているという。
しかも、彼のは当時でも10万円以上もする物で、今ではプレミアがついて何十万円もするという。
私のは23、000円だったので、よくて10万円になればというくらいかも知れない。
今でも中学校から40年近くも大切に使っているのはこのギターくらいだろう。
 そして、「いつかのメリークリスマス」の歌詞のようにはかない恋愛を、傍で見続けてくれたギターでもある・・・






2012年12月14日金曜日

赤穂義士祭の想い出

明日は赤穂義士祭である。仕事があるので見に行けない。
中学校から姫路に通っていたので、期末試験の関係から殆ど見に行けなかった。
それまでは、親に連れられて行ったり、友達と行ったりした。
当時は今のように城から駅まで大きな道路が通されていたわけではなく、昔ながらの古い家並みが並んでいた。
城というのは本来は戦に備えて、道はまっすぐ通すものではなかったので、わざと道は曲がっていた。
子供の頃は華岳寺通りは赤穂一番の繁華街だったので、よく買い物に来た。
因みに、赤穂市に住んでいながら、この加里屋というあたりに行くことを、周辺部に住む者は「赤穂へ行く」と言った。
その古い町並みに並ぶ出店を見ながら、太鼓橋に行くと門付近で、昔は傷痍軍人が3人程いて、一人がアコーデオンで「戦友」を奏でながら、物乞いをしていた。
軍帽に白い着物、片足を失い、松葉杖をついた人もいた。
幼い頃の想い出として、義士祭というとその印象がまず思い出される。

義士行列や忠臣蔵の場面を再現したトラックの荷台に設置した舞台も昔からある。
大人になって見物に行って市役所に勤めていた同級生が、その舞台で演じているのを見て、役場勤めも大変だなと思った。
小学生の頃は、義士に関する授業を2時間ほど受けて、学校は早帰りになり祭りに出かけた。
私は剣道少年団に入っていたので、剣道大会に出たこともある。
いつ頃からか、義士駅伝という競技も行われるようになり、教師になってから生徒の伴走を自転車で行ったこともある。
子供にとってやはり一番の楽しみは出店で、子供の頃は見せ物小屋まで来ていた。
学校から禁じられていたので入らなかったが、蛸娘とかよく分からない看板を見ただけで、おぞましく思えた。

義士行列は年によって、自治体に割り当てられるのだが、私の父親は一度だけその行列加わった。
わざわざ休みを取って、家内と子供で見に行った。
写真も一緒に撮ったりしたのだが、ミスで全部失敗してしまった。
親の家には人に写してもらった、義士の衣装をしてはしごを担いでいる父親の写真が飾ってある。
私もカブスカウトに入っていたので、春の義士祭に子供義士行列で加わったが、写真など無い。
この季節は他に祭りらしいものが無いので、近隣からも沢山の人がやってくる賑やかな祭りである。

赤穂といえば、赤穂義士と定番で、最近も中村勘三郎が亡くなった時に、大石内蔵助役を演じた様子が何度も報じられた。
本来は当時旧暦だったから、新暦になおすと一月後半になる。
しかし、年の暮れと義士祭は結びついてしまったので、月遅れにはしない。
今から考えると、大石内蔵助の子孫以外には、その義士の子孫が仕官できることは少なかったようだから、割に合わないと思える。
ただ、武士とヤクザと同じように見れば(少々不謹慎だが)、親分を失った子分が敵討ちをするのは、不自然ではない。
現代の企業のつぶし合いも、武器を持たないだけで、多くの犠牲者を出す戦争のようなものにも思える。
ただ、義理も人情もない企業や官公庁に勤める者には、もう仇討ちは理解不可能な出来事になったように思える。
所詮、私の先祖は百姓だから、当時はこき使われていた身分で、甘い汁を吸う武士に恨みを持っていたかも知れない。
その子孫の私が無邪気に義士祭を祝うのも滑稽であるが、殺戮を重ねた戦国武将を讃えることとそう変わりはないだろう。

昔、赤穂民俗の会のお手伝いをしていた頃、「赤穂には赤穂浪士しかないんかい?!」
と、忿懣を漏らしていた仲間がいたが、彼はその後きっちり、赤穂城の案内をしていた。
赤穂市民にとっては「それしか無い」とは言われたくはないが、忘れ去られるのは寂しい存在である。
上郡町民になった今も、どうしても気になる義士祭である。





2012年12月9日日曜日

へそ大根

実は去年作った竹串に輪切りの大根を串刺しにして乾した物は、東北ではへそ大根として有名だった。
ただし、東北では大根は皮を剥いて湯通しして、長い竹の棒に刺しているようだ。
私はたまたま千切りにして乾すのが面倒だったので、何か簡単に乾す手はないかと考えた。
そこで、洗った大根を皮も剥かずにそのまま輪切りにして、自分で作った太い竹串に刺して、竹笊の上で乾した。
この方が千切りにするよりも、沢山の量を効率的に乾せたからである。
普通は千切りにしてしまうと、表裏を返したりこまめにしないと、竹笊などでは竹にひっついてしまう。
串刺しにすると車輪のように並べられて、しかもひっくり返す手間はない。
乾いてしまうと、夏に吊ってあった日よけ朝顔のネットに洗濯ばさみで留めることができた。

干し大根は沢山採れる大根の保存方法として良いのだが、最大の難点は夏場の保存である。
密封して冷凍庫にでも入れておかないとかびてしまう。
毎年のように作ってはかびさせていたので、去年は乾燥した大根を竹串に刺したまま燻製にした。
味も燻製独特の風味で良いし、保存もしやすくなった。
ただ、燻製の強さが本来の優しい干し大根の味を損なってしまうのが欠点であった。
それでも、例年捨ててしまう干し大根も、去年は食べきってしまった。