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2012年12月14日金曜日

赤穂義士祭の想い出

明日は赤穂義士祭である。仕事があるので見に行けない。
中学校から姫路に通っていたので、期末試験の関係から殆ど見に行けなかった。
それまでは、親に連れられて行ったり、友達と行ったりした。
当時は今のように城から駅まで大きな道路が通されていたわけではなく、昔ながらの古い家並みが並んでいた。
城というのは本来は戦に備えて、道はまっすぐ通すものではなかったので、わざと道は曲がっていた。
子供の頃は華岳寺通りは赤穂一番の繁華街だったので、よく買い物に来た。
因みに、赤穂市に住んでいながら、この加里屋というあたりに行くことを、周辺部に住む者は「赤穂へ行く」と言った。
その古い町並みに並ぶ出店を見ながら、太鼓橋に行くと門付近で、昔は傷痍軍人が3人程いて、一人がアコーデオンで「戦友」を奏でながら、物乞いをしていた。
軍帽に白い着物、片足を失い、松葉杖をついた人もいた。
幼い頃の想い出として、義士祭というとその印象がまず思い出される。

義士行列や忠臣蔵の場面を再現したトラックの荷台に設置した舞台も昔からある。
大人になって見物に行って市役所に勤めていた同級生が、その舞台で演じているのを見て、役場勤めも大変だなと思った。
小学生の頃は、義士に関する授業を2時間ほど受けて、学校は早帰りになり祭りに出かけた。
私は剣道少年団に入っていたので、剣道大会に出たこともある。
いつ頃からか、義士駅伝という競技も行われるようになり、教師になってから生徒の伴走を自転車で行ったこともある。
子供にとってやはり一番の楽しみは出店で、子供の頃は見せ物小屋まで来ていた。
学校から禁じられていたので入らなかったが、蛸娘とかよく分からない看板を見ただけで、おぞましく思えた。

義士行列は年によって、自治体に割り当てられるのだが、私の父親は一度だけその行列加わった。
わざわざ休みを取って、家内と子供で見に行った。
写真も一緒に撮ったりしたのだが、ミスで全部失敗してしまった。
親の家には人に写してもらった、義士の衣装をしてはしごを担いでいる父親の写真が飾ってある。
私もカブスカウトに入っていたので、春の義士祭に子供義士行列で加わったが、写真など無い。
この季節は他に祭りらしいものが無いので、近隣からも沢山の人がやってくる賑やかな祭りである。

赤穂といえば、赤穂義士と定番で、最近も中村勘三郎が亡くなった時に、大石内蔵助役を演じた様子が何度も報じられた。
本来は当時旧暦だったから、新暦になおすと一月後半になる。
しかし、年の暮れと義士祭は結びついてしまったので、月遅れにはしない。
今から考えると、大石内蔵助の子孫以外には、その義士の子孫が仕官できることは少なかったようだから、割に合わないと思える。
ただ、武士とヤクザと同じように見れば(少々不謹慎だが)、親分を失った子分が敵討ちをするのは、不自然ではない。
現代の企業のつぶし合いも、武器を持たないだけで、多くの犠牲者を出す戦争のようなものにも思える。
ただ、義理も人情もない企業や官公庁に勤める者には、もう仇討ちは理解不可能な出来事になったように思える。
所詮、私の先祖は百姓だから、当時はこき使われていた身分で、甘い汁を吸う武士に恨みを持っていたかも知れない。
その子孫の私が無邪気に義士祭を祝うのも滑稽であるが、殺戮を重ねた戦国武将を讃えることとそう変わりはないだろう。

昔、赤穂民俗の会のお手伝いをしていた頃、「赤穂には赤穂浪士しかないんかい?!」
と、忿懣を漏らしていた仲間がいたが、彼はその後きっちり、赤穂城の案内をしていた。
赤穂市民にとっては「それしか無い」とは言われたくはないが、忘れ去られるのは寂しい存在である。
上郡町民になった今も、どうしても気になる義士祭である。





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