私は小学校を卒業してから、姫路の中学校高校と進んだので、恩師は小学校までの先生に限られる。
ただ、教師になることを志してからの恩師というべき人がいる。
それは故広山堯道先生である。
先日、ふと同じ職場の人と会話をしていて、先生の名前をその人が知っていて驚いた。
塩の研究家として、近隣ではちゃんと一般の地歴公民科の教師も知っているのだと改めて知った。
そして、私は弟子とは言えないまでも、その教えを少しでもうけた一人であることに誇りが持てた。
広山先生は2006年の3月5日に他界され、その葬儀で私は撮影役を頼まれた。
住職でもあった先生の広度寺での葬儀は一般の葬儀とは全く違うもので、上人となる儀式でもあった。
ただ、浄土宗の信者さんが近隣に少ないので、我々のような先生に世話になった者が、受付やらの下働きをさせてもらった。
最後は狭い路地を、担ぎ台に乗せた棺を我々が広い通り迄、担わせてもらった。
その後の6月18日の先生を偲ぶ会には、市長さんも来られて、偉大な功績を偲んだ。
広山先生は赤穂高校の教師として、ずっと塩の研究をしながら教鞭を執られた。
退職されてからは、赤穂歴史博物館の館長さんやら、仏教大学で研究者の育成を行われた。
赤穂高校での教師時代のことを何度か聞かしてもらったが、わざと勉強の苦手なクラスの担任になって、よく魚釣りに一緒にいったことなどを聞かせてもらった。
しかし、市長さん等の話からは、すばらしい授業をなされていたことがよく分かった。
広山先生の著作の多さには驚いたが、社会的な貢献の大きさにも感銘した。
私は未だに本一冊書いただけだし、社会的な貢献など殆どできていない。
広山先生について、赤穂民俗の編纂などを少しだけお手伝いをした程度である。
一番の想い出は、広山先生の身近にいる弟子のN氏とM氏2人と私が一緒に東京へ、資料収集や塩の博物館などに挨拶回りに行ったことである。
ちょうど赤穂藩士のことを調べていたことや、赤穂民俗のことで行く必要ができたのである。
私はたまたま国立歴史民俗博物館に、大学院時代にお世話になった上野和男先生がおられたので、紹介できた。
このN氏とM氏は助さん角さんで、私はさしずめ風車の弥七のような、お上り旅だった。
奇しくも、この春から私は広山先生と同じ職場に勤めることになった。
先生ほどの仕事はできそうにはないけれど、少しでも先生に近づこうと思っている。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2013年3月29日金曜日
2013年3月20日水曜日
春の日の自転車
昨日は天気が良かったので昼から年休を取って帰った。
馬鈴薯を切って、できれば畑仕事をしようと思ったが、馬鈴薯を切った後で畑仕事も何もする気が起こらなくなった。
5月初旬頃の暖かさで、気もゆるみ、しばらくはうたた寝をした。
折角天気が良いのだからと自転車に乗って、赤穂まで出かけた。
前回赤穂へ自転車で出かけたのは、消防出初め式の日だったので、2ヶ月近く経ている。
あの時はあまりの冷たい風に打ちのめされて、最後はまともにペダルもこげなくなった。
今回は比較的楽ではあったが、行きは南風の向かい風で、いくら暖かいとはいえ、少々辛かった。
前日の雨で千種川の水は濁って水量も多かった。
方々で梅の花が咲いて、春を彩っている。
楢原から有年にかけての河原はきれいに焼かれて、堆積した砂が見事だった。
今度はマウンテンバイクでその河原を走りたくなった。
中山からは田圃の中の道を通ったが、何も植えていない田圃は退屈であった。
周世からは川の東側の土手道を走った。木漏れ陽が冬とは違ってサングラスからも明るく感じさせた。
坂越からは川岸の道を通って、尾崎トンネルの手前まで行き、そこからまた土手沿いの道で唐船までいった。
途中、赤穂大橋から新赤穂大橋までの土手の下に水仙が植えられていて、香りが漂ってきた。
土手に長く植えられている水仙は、手作りの感じがして親しみを感じた。
唐船の海でミサゴが飛んでいた。他にも多くの鳥が舞っており、賑やかな感じがした。
以前、網干の港でミサゴを巨大なレンズをつけたカメラで撮影しているマニアがいたが、赤穂ではいつでも間近で見られる。
そう言えば昨日、出勤する時に家の近くで白い鷹か隼を見かけて感動した。
うちの近所で見かける猛禽類はミサゴと違って、小型でスピード感もある。
このところ運動のために、勤務先の市川の土手を自転車で走って姫路港に出かけることが多い。
姫路の港にしては比較的自然が残っているのだが、それに比べても自然豊で風景も良いと改めて思った。
散歩している人や、運動している高校生ものんびりしている。
ただ、遠くのナンバープレートをつけた怪しげな車の青年には、ちょっと構えた。
高校前のうちの畑によるとやはり草がおおく生えていて、玉葱の生育が悪かった。
草が生えながらもニンニクは順調に生育していた。
植えてある金柑の実を採って食べて、途中で食べるためにポケット一杯詰め込んだ。
帰りは西側の河原の道を坂越まで走り、坂越からは川岸を走って木津の取水口までいった。
ご老人が歩いているのに何人も出会った。自転車の人も一人いた。
周世からは今度は東側の土手道を走った。相変わらず見事な孟宗竹が立ち並んでいる。
そして、ここは風の心配の要らない走りやすいところではあるが、石ころが多いのが玉に瑕である。
途中で何度も金柑をほおばったが、それで幾分元気も出た。結局全部食べてしまった。
家に着く頃はへとへとになったが、よたよたと愚犬の散歩にでかけなくてはならなかった。
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