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2013年11月30日土曜日

友達を連れてきたコウノトリのさっちゃん

朝天気が良いのだけれど、ジョギングで足を痛めていたので、自転車に乗って紅葉の風景を撮りに行こうと出かけた。
近くの田んぼの中で、近所の人が三人じっと何かを見ている。
ピンときた。さっちゃんだ。
自転車で向かおうとしたら、大きな羽を広げて飛び立った。
なんと、二羽もいる。
私は自転車で追いかけていくが、見失ってしまった。
近所の人がカメラを持って川の方へ行くので、たぶんそちらだと向かったが、また飛び立ってしまった。
きつい坂道を、一心で上って、結局元の場所に行くと、高圧線の別々の鉄塔の上に、二羽が休んでいる。

鉄塔の上の二羽
写真を撮ろうと、近くまで歩いて行くと、近所の写真家Oさんが、車で来ていた。
以前に撮影した引き伸ばし写真を二枚もくれた。
近所の田んぼで餌を食べたり、羽を広げている見事な写真だった。
Oさんによれば、一羽は足輪からさっちゃんとわかり、もう一羽はメスだそうだ。
6年前にやってきたさっちゃんが、友達を連れてきたのである。
しばらくは、眺めていたが、じっとしているばかりなので、家に戻った。
裏の畑で黒大豆を収穫していると、近くの鉄塔に二羽が仲良く留まっている。
カメラを持って、農作業をしながら、飛び立つチャンスを待った。

気がつけば、飛び立ったばかりで、あっという間に山の方へ行ってしまった。
写真は間に合わなかったけれど、悠然と飛ぶ姿を眺めることができた。

以前、豊岡の保護センターで、飛び回る姿も見たことがあるけれど、何となく不自然な感じがしていた。
大きなケージの中や、周りを飛び回って、人の世話に依存しているのが歴然だったからである。
本当に自由に飛び回り、自力で餌を探す姿の方が、自然ですばらしい。
確かに、テレビで放映されている映像や画像は見応えはある。
けれども、自分の家のそばを悠然と飛ぶ姿には敵わない。
”さっちゃんが友達を連れてくるような素晴らしいところなのだよ”と自慢したくなる。
ただ、池や田んぼに餌が十分残っているか心配でもある。
鷺や鳶などは、自然に飛び回っているのだけれど、コウノトリは皆が追っかけるので、餌をゆっくり食べられないかもしれない。
現に、スポーツカーに乗った人が大きなカメラを持ってずっと追い回していた。
いつか、鷺や鳶のように珍しくも何ともない存在になってほしいと願っている。

紅葉した山を背にした一羽

2013年11月29日金曜日

食いちぎられた弁護士手帳

前回、東大出の弁護士の同級生I君のことを書いて思い出したことがある。
私にはバンド仲間の悪友Sがいて、彼の家に泊まりに行ったりして、日頃の鬱憤をお互いに晴らしていた。
Sはいつも学校での成績は最下位で、試験ではいつもいわゆる赤点であった。
しかし、受験に関しては要領が良くて、早稲田大学一本に絞り込んで、なんと現役で法学部に合格した。
おそらく、学年の卒業成績最下位で早稲田の法学部に現役合格したのは彼くらいだろう。
当然、Sは大学では勉学をやるわけもなく、モトクロスバイクにのめり込んでいた。
バイク事故で卒業が一年遅れたSは、地元の企業に就職した。

事件は同窓会で起きた。
私はまだ院生だったので、地元の同窓会には顔を出せなかったので、本人から聞いた話である。
東大を出て直ぐに司法試験に受かり、弁護士資格をとったI君は、 同窓会で自慢げにその手帳を披露したそうである。
その場にいた、Sはその手帳をひったくって食いちぎってしまったという。
S本人は「くそ生意気だから、やってやった」と話してくれた。
同じ法学部出のSにとっては、よほど癪に障ったのだろう。
Iはそんな嫌みな男ではなかったのだが、Sの存在への配慮が足りなかったようだ。
Sは同級生でも別格な存在だったので、Iは諦めるしかなく手帳は作り直したという。
その後の同窓会では、ずっとそれが語り草になった。



2013年11月25日月曜日

秋の一日

小野豆からの霧の海
朝、村は霧の中
 
村は霧の中
散歩は小野豆に決めた、霧の海が見られるから
この季節の風物詩である
村の人はこの霧のおかげで米がおいしいと言うが、既に刈り取られている。





千種のホースでの水くみ
散歩から帰って、千種へ水くみに行った
今回は初めて軽トラで行った
ホースを使ったので楽だった

紅葉とお地蔵さん
お地蔵さんの楓は見事に紅葉していた
こんにゃくも買って帰った
途中で見た白旗城祭りは賑やかだった
ちょうど授業で嘉吉の変を教えていた
この祭りはもちろん、赤松満祐のためではなく円心のためのものだ

    2013年11月22日金曜日

    おさつの効果

    ”英語はね!単語 単語 単語ですよ!”
    これは高校時代に教わった英語の恩師の言葉である。
    英語は大学受験の要として力が入れられ、単語テストを行うのが定番だ。
    私も中学生から単語テストを受けてきたと思うが、低い点でペナルティーはなかったと思う。
    今はペナルティーがないと、投げてしまう生徒がいるので、合格点をとらないと単語筆記のペナルティーがある。
    本来は英語力や受験のための単語テストは、ペナルティーをしなくて済むためにがんばらせるものとなっている。
    それでも残念ながら、生徒によっては投げてしまって、私の担任しているクラスは合格者が一桁だった。
    しかも、学年で合格者の数が最低という事態に、一計を案じた。

    「鼻面のニンジン作戦」ならぬ、サツマイモ作戦である。
    これは以前から「全員合格したら、何か奢ってくれる?」という生徒の要望を汲んだ。
    「全員合格したら、うちで採れたサツマイモ食わしてやる」と宣言した。
    一番喜んだのはもちろん、女子生徒である。
    「私は大学芋が良い!」と、ほとんど不合格だった生徒も叫ぶ。
    当然私は無理だということは分かってはいたが、単語テストに楽しく望めれば良いと思っていた。

    さすがに全員は無理だったが、宣言以降はこれまでと違って、合格者どっと増えた。
    とりあえず学年最低の合格者数は脱することができた。
    全員合格を諦めてしまっては元も子もないので、みんな努力したらそれなりのご褒美はしてあげると伏線もはった。
    そして、家から持ってきた土のついたサツマイモを、黒板の上に掲げて「これを目標にがんばれ!」
    と檄を飛ばし続けている。
    ペナルティーを科すことよりも、目に見えるご褒美の目標の方が効果があったのである。
    もちろん、こんなやり方は邪道だとは分かっているが、何か楽しみがないと勉強もつまらないことも確かである。

    考えてみれば、私が英語を嫌いにならないで済んだのは、当時は英語の歌を歌うのが楽しかったからである。
    ビートルズから始まり、色んなバンドの曲を歌詞カードをを片手に、レコードをかけて歌った。
    生徒にも英語の歌を勧めているのだが、残念ながら今は流行っているのは日本の曲ばかりだ。
    そのかわり日常的に英語があふれているのだが、生徒はカタカナ英語とアルファベット英語が結びつかない。
    日本史の授業で、生糸を答えさせるのに、シルクロードというヒントを与えても答えられないのである。
    当然、コットンとcottonも結びつかない。
    これは漢字言葉を知っていても、中国語が分からないのと変わりがないのかもしれない。
    何年間も英語を習い続けた日本人の多くは、英会話のできないカタカナ英語文化を育んだ。
    それは、先人が中国語のできない漢字言葉文化を育んだのと大差ないのかもしれない。
    違うのは漢字文化は中国人と筆談できるが、スペルが書けないカタカナ英語は意思疎通の道具にさえできないのである。
    せいぜい、歌の歌詞に織り込んだり、商品に利用して親しむしかない。
    一方、英語教師は”単語 単語 単語”と叫んで担任を単語テストに動員できる力が持てる。
    これは英単語の持つ何よりも畏るべき力である。

    2013年11月10日日曜日

    Home Coming Day

    赤穂の実家に立ち寄ると、母校の大学から同窓会通信が来ていた。
    私は未だに学生時代の住所のまま変更届を出していない。
    というより、年会費を払っていないのである。
    それなのに、毎年通信を送ってもらえる。
    毎年11月3日は南山大学は文化祭を行っていて、卒業生が戻ってくるHome Cominng Dayとなっていた。
    学生時代は文人研(文化人類学研究会)に属して、文人研の名物の五平餅を作って売った。
    3年生の時には、私の下宿のアパートが仕込み場所になって、大勢の部員が集まって賑やかにやったのを思い出す。

    実は卒業して以来、二度しか母校を訪れていない。
    一度は、都立大大学院生の時代に民族学会が開かれたので参加した。
    もう一度は、兵庫教育大学の院生時代に、東京へ電車を乗り継いで行くついでに、立ち寄ってみた。
    それは、南山大学時代から始めた奄美与路島の調査研究の著作を届けに行く目的もあった。
    何の前触れもせずに行ったので、知った人には誰にも会えなかった。
    夜行の電車を待つまでの時間つぶしで、地下鉄いりなか駅の近くのプールへ行って泳いだのを覚えている。
    去年は叔父の葬式が近くで行われたので、大学の建物だけは眺めることができた。

    当時は毎日ではないが、日記をたまにつけていたので、それを開いてみるとその当時に自分が何を考えていたかわかる。
    卒業して31年も経つと、当時のことは記憶の底で忘れてしまっていたことが多い。
    そんな中で、はっと思ったのは、大学の文学部人類学科に入学当初の気持ちが綴られていた内容である。
    ガイダンスで先輩から、教職も就職も悪くて、将来性のない学科であると知らされて、当時は気持ちが腐っていたようだ。
    私は、当時いい加減な浪人生で、この大学も学科も何を学ぶかわからないまま、「赤本」も買わずに受けて、唯一合格したところだった。
    受験した理由は、名古屋には叔父が住んでいて下宿させてもらえると言うことだけだった。
    最初は、叔父が物置にしていたアパートに居候したが、数ヶ月で同級生のアパートに転がり込み、そのままそこに卒業するまで居着いてしまった。
    その同級生は他校を受験して出て行く予定だったのが失敗して、結局別のアパートに移ってしまった。
    形としては、転がり込んだ私が同級生を追い出してしまった格好であった。

    そんな、いい加減な学生生活の中で、文人研との出会いは人生を変えた。
    文人研での村落調査にのめり込んでいき、倉田勇先生(故人)にお願いして勉強会を開いたりして、奄美与路島に巡り会った。
    そして、当時は独身の都立大学院卒の若い先生と出会いは、研究への意欲を高めるものとなった。
    他にもM君は、私が軽音部に誘っていながら一緒に辞め、その後一緒に文人研で活動をともにした。
    彼のようなよき親友を含め、多くの仲間に恵まれた。
    また、所属した杉本良夫先生のゼミ仲間とは、いろいろと刺激しあうことができた。
    今から思えば一番充実した生活を送ることができたのが、南山大学だったと思う。

    教師となった今は、生徒に「行こうと思う大学をよく調べて、目的を持って進学しなさい」と言う。
    そういう自分は、何も調べす、目的もなく行き、たまたま肌に合ったというのが正直なところである。
    ただ、ミュージシャンになりたいという甘い夢や、マスコミへの就職という現実的な希望も打ち砕かれた中で、何とかしなくてはいけないと思っていたことも確かであった。
    そういう危機意識と、おもしろいと感じるものには貪欲に打ち込めたのがよかったと思う。
    残念ながら研究職には就けなかったが、大学院へ行ったからこそ今の自分があると思っている。
    大学は入試制度ばかり注目されるが、学生が伸びていける環境こそ重要だと思う。
    そういう意味で、当時の自分には大学や生活環境に恵まれていたことが良かった。
    いい加減な浪人生あがりでも、教職に就ける道筋がつけられたのだから。






    2013年11月8日金曜日

    蘇った唐船

    いつのまにか、唐船は兵庫県で一番低い山で宣伝されるようになっていた。
    確かに山なのだが、私には島が砂に埋もれてしまったというイメージでいたので、ぴんとこない。
    昔は「ドンドン山」と言って、山を歩くと音がした。
    言い伝えで唐の船が沈没して埋まっていると言われてもいた。
    子供の頃からいい遊び場所で、岩の隙間の小さな浜でよく遊んだ。
    ただ、狐が住んでいるとか、小さなほこらが岩場にあったので、ちょっと怖かったので林の中を歩き回ることはなかった。

    唐船の砂浜は有料の潮干狩り場になっていたが、小学生の頃は友達同士で行って、尾崎から来たと言ったら、無料にしてくれた。
    シーズン以外はフリーとなり、浜でバカ貝を捕ったり、釣りをしたりした。
    高校生の頃は冬場でも仲間と夜にたき火をして楽しんだりもした。
    以前、生徒に「彼女とデートは何処でしたの?」と聞かれて、「唐船」と答えると笑われたが、時々、高校生のカップルも見かける。
    夜になると御崎の灯台や家島の町の灯りが見えてロマンチックになるのを、生徒は知らないようだ。
    実は今は私のジョギングコースになっている。
    昔とは違ってずいぶん綺麗になった海岸は絶好のコースである。

    この唐船の砂浜に泥がたまってしまって遊泳禁止になり、それを取り除く工事を最近までしていた。
    大きな重機を海の中に入れて、いっぱい泥を取り除いてきれいな砂浜が蘇った。
    これで来年からは観光客も増えるだろう。
    ただ、潮干狩りのシーズンの休日には渋滞になって、うちの畑に行くのにも大変である。
    海浜公園がそばにあって、家族で楽しめるいい場所なのであるが、自動車でないと便利が悪い。
    来年は臨時の駐車スペースもスポーツ施設になるので、どこに留めてもらうのか気になるところである。

    この週末は赤穂シティーマラソンがあるが、ここはハーフコースにもなっている。
    去年は土砂降りの中、大変なマラソンになったが、今年はどうだろう。
    本当は参加したかったのだが、コースである御崎の海岸の坂道に怖じ気づいてしまった。
    今の走りでは制限時間をクリアーできそうにない。
    来年こそはチャレンジしたいと思っている。

    2013年11月4日月曜日

    町医者

    先週は学校で球技大会があり、生徒が足りなくて代わりに卓球に出る羽目になった。
    数日前から、水泳で痛めていた左肩が痛かったので、代わりを若い人に頼んだが、引き受けてもらえない。
    仕方ないので、負けることを 前提に出ることにした。
    ところが、他のメンバーが強かったので、ベスト4になって準決勝、私の試合で勝敗が決まることになった。
    そうなると簡単に負けるわけにはいかない。つい力が入ってしまった。
    試合は負けたが、3位という賞状をつかんだ。
    クラスも男子がバレーで1位だったので、総合3位になった。
    これまで一度も賞状を獲れないクラスだったので、担任としては嬉しかった。

    しかし、翌日左肩や腕が痛くて動かせない。
    おまけに車はミッション、脂汗をかきながら職場に着いた。
    そして、やむを得ず医院に行くことにした。
    痛み止めの注射と飲み薬で、翌日の夕方にはだいぶ楽になった。

    ところが、模試で出勤した土曜の朝から今度は腹痛で、弁当も食べられない。
    夕方にはいったん収まったが、よく日曜は痛いし下痢はするしで、病院に行くことにした。
    そこで、点滴を受けながら、昔のことを思い出した。

    私は幼い頃は体が弱く、しょっちゅう医者にかかっていた。
    加里屋の池田医院がかかりつけで、母親は正月にも診てもらったと言っていた。
    私も院内の風景や、臭いは今でも覚えていて、それを思い出した。
    コップの水にクチバシをつける振り子鳥人形は、待ち時間の退屈さを紛らせてくれた。
    やはり、下痢の症状がひどいときに診てもらって、血管注射がうまく入らず、やっと5回目に入った時の痛さを覚えている。

    母親は住んでいる尾崎ではなくて、遠い加里屋の医院まで連れて行ってくれたのは、池田先生を信頼していたからだと思う。
    当時はバスを使ったが、弟も調子が悪いと、母親は乳母車に二人乗せて通った 。
    大きな幼稚園児だから、今から思えば恥ずかしいが、タクシーを使える余裕はなかった。
    車で家内に病院に連れて行ってもらえるので、今は本当に楽である。
    ただ、この一週間で1万円も医療費にかかってしまった。
    当時、物価は違うにしろ、これだけの医療費は大変だったろう。
    便利さはお金と引き替えらしい。