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2013年12月25日水曜日

クリスマスツリー

家の庭にはモミの木とゴールドクレストが一本ずつある。
それぞれ、子供が小さい頃のクリスマスのデコレーション用に買ったものを庭に植え替えたのである。
鉢植えから庭に移したとたんにどんどん大きくなった。
西側に植えたモミの木は二階のテラスを超えて庇より高くなっている。
東側に植えたゴールドクレストは、高くなりすぎたので一度先端を切ったのだが、枝がまた高くなって二階の窓くらいまでになっている。

毎年この季節になると、電飾の話題になる。
幹線道路脇の家にでは毎年きれいに飾っているところもある。
年末になると、このモミの木やゴールドクレストに電飾を施してやるのもいいなと思う。
それを家内と話すたびに、狐や狸のための電飾なんて・・・
という落ちになってしまう。
ほとんど人通りも無く、雨戸を閉めるので家の窓からも見ることは無い。
もし、孫でもできればおそらく気を引くために飾るかもしれないけど。
ただ、この二本の木は家にとって大切な風よけになってくれている。

クリスマスのたびに、子供の年齢と比較する。
上は24歳、下は21歳、それが木の高さに現れているのである。
自分も年がいくと、この木は自分たちが死んだ後も残っていくのかなと思ったりもする。
子供たちには親がどんな思いで、この木を眺めているのか知らないだろうと思うけれど・・・
この二本の木はたぶん私たちのことを憶えてくれていそうな気がする。



2013年12月23日月曜日

さっちゃんは何を運んできたの?

コウノトリのさっちゃんは上郡のあちらこちらに出向いては人気者になっているようだ。
今日は朝のジョギングの途中でグライダーのように滑空する姿を見た。
朝日を浴びて、悠然と舞う姿がうらやましく思った。
かつて加藤登紀子が「人は昔々、鳥だったのかもしれないね こんなにも 空が恋しい」と歌った。
私は高い空を飛びたいという訳ではなく、どちらかというと地べたから解放されたい。

夕方散歩していると、近所の奥さんが孫と一緒に見てきたところ出会った。
「コウノトリが 居ると嬉しいな!」と笑顔で話された。
友達と一緒にさっちゃんはじっと田んぼの中で立っている。
近所の人が見物に来ても飛び立って逃げようともしない。
鷺やカラス並の馴染みようである。

散歩から戻ってきて、家内にそのことを話す。
家内は「コウノトリは上郡には赤ん坊を運んでこないね」と知った人と話題にしたという。
そう言えば、今朝届いた町の広報には先月の誕生者数4人となっていた。
転出や亡くなった人が多くて、人口は減り続けている。
一年間に50人くらいしか子供が生まれないとしたら、小学校や中学校はいずれ、まとめて一クラスになってしまう。
自然豊かでコウノトリがやってくる町は、皮肉にも人口がどんどん減っているのである。
ただ、古老に聞けば、もともと私の住んでいる中野という集落には、家はあまりなかったと言うから、元に戻っているとも言える。
昔は多産多死で子供が多く生まれても、多く亡くなったのだから、村々には子供だけは賑やかに居たことは想像できる。
そしたら、昔ならコウノトリはカラスのように追い回されていたかもしれない。

静かになった田んぼにゆったりと過ごすコウノトリを、歳のいった村の人が見物に行く。
村の人はそれで幸せを感じるから「幸(さっ)ちゃん」と名付けた。
昔は子宝に恵まれることが幸せと感じた。
今は、コウノトリが訪れる自然豊かなところに暮らせることを幸せに思う。
さっちゃんはそのお墨付きをこの村に付けてくれた。
さっちゃんが運んでくれたのは、やはり生き物全体の子宝という幸せだった。


2013年12月21日土曜日

あとひとつ


今年ももう終わろうとしている。
色々のことがあったけれど、一番印象に残っているのはこの曲との出会いだろう。
これは私が担任しているクラスで、全校上げてのクラス別合唱大会に臨んだ時に生徒が撰んだ課題曲だった。
残念ながら決勝には残れずに、悔しさや反省点だけが思いとして残った。。
そして、あれだけ一生懸命練習したのに、その行事が終わり時が過ぎるとすっかり忘れてしまっていた。
ところが、楽天イーグルスが日本リーグで優勝してテレビなどで流されると、また思い出した。
今は毎日のように家でギターの練習をしている。

この曲に出会うまではFunky Monkey Babysの曲を聴くことはなかったし、生徒の前でフルネーム言って笑われた。
自分たちがサザンオールスターズをただのサザンというように、ファンモンとしか言わないということを初めて知った。
練習している時はただ、学年で撰ばれて決勝で赤穂のハーモニーホールで歌ってもらいたいと言うことしか考えていなかった。
ただ、歌詞の内容はなかなか良いことは感じていた。
自分で練習し始めて、この曲は川村結花とファンモンの共同作品であることが分かった。
川村結花は「夜空ノムコウ」で良い詞を書くなと思っていた。
彼女を直接知っているものが身内にいたので、がんばって欲しいと思っていた。
この曲で彼女の実力が本物であるように思えた。

この歌詞の中で一番惹かれたのは

熱くなって無駄なんて言葉 聞きあきたよ
もしもそうだとしても 抑えきれないこの気持ちを 希望とよぶなら
いったい 誰が とめられるというのだろう

青年の微妙な心理描写の中で、格好悪くても前向きに生きていきたいという気持ちが伝わってくる。
私は既に五〇歳代半ばで、生徒とは親子以上の年齢差があり、その距離はなかなか埋められるものではない。
それでも、好きな音楽を通してなら、同じように熱くなれることを感じている。
文化祭では私自身は舞台でDesperadoを歌ったのだが、生徒より我々大人の方がDesperadoであるように思えてならない。
目先の景気に本質を見失っている我々大人の方がDesperadoである。
これからを担う若い人は、「あとひとつぶの涙とひと言の勇気」で願いをかなえようとがんばっている。
そんな若い世代を見て、我々大人にはWhy don't you come to your senses(正気に戻れよ)と言うべきなのかもしれない。
そんな一年でもあった。

2013年12月15日日曜日

史実と物語の狭間の義士祭

今年の義士祭は土曜日であった。
私の勤めている高校では、この義士祭「ささえ隊」として協力をしている。
クラブの方も義士祭に関する催しに積極的に参加している。
学校ではまず、赤穂浪士に関わる歴史的な講義がなされる。
今年は「柳沢吉保と赤穂義士」というタイトルだった。
結論から言うと、忠臣蔵に描かれている柳沢吉保の言動は、史実としては全く確かめられないというものだった。
まさしく、忠臣蔵で世に人気を博した祭りにとっては身も蓋もない話である。
実は一二月一四日そのものも、旧暦であったのだから、季節的に言えば一ヶ月ほどずれる。
昔の行事は季節を合わせるために一月遅れにするのだが、義士祭はそうはいかない。
年を越してしまった義士祭は考えられないからである。
それがいつしか「いまから○○年前のこの日に、赤穂浪士は吉良邸に討ち入った」という史実になってしまった。
日本史の研究に携わっている人は、おそらくこの旧暦と新暦のジレンマに苦笑いをしているのだろうと思う。
しかし、暦などは些細なことで、多くの歴史に関するドラマは史実とは異なるわけであり、それを史実と錯覚しておもしろさも増す。
虚構として割り切って描かれてしまうと、歴史物は全く面白みがなくなってしまうのも事実である。
まさしく義士祭はその史実と虚構の狭間の上に成り立っている祭りなのである。

私にとって義士祭は、蛇娘などの「見世物小屋」、アコーディオンで「戦友」を鳴らしながら物乞いをしている「傷痍軍人」というイメージが強い。
親に連れられて見に行った義士祭は行列そのものよりも、そういうものが強烈に印象に残った。
また、大石神社に参拝はするけれど、花岳寺に参拝したことは殆ど無く、赤穂浪士の追慕といういう意味合いはあまりなかった。
ある意味、討ち入りという戦勝記念パレードであったようにも思う。

今日は生徒の引率で、20年ぶりぐらいに義士祭に参加した。
生徒が義士行列や大名行列に参加したり、赤穂踊りなどで活躍しているのを見ると、これまでとは違った祭りに感じる。
年末の非常に寒い気候も吹っ飛ばす賑わいもこの祭りならではである。
残念ながら仕事できているので、楽しめたわけではないが、生徒の活躍が見られただけでも良かったと思った。
生徒も嫌がらずに参加するのは、祭りそのものが楽しいからなのだろうとも思う。

時代劇がテレビや映画から少なくなってきているので、やがてこの祭りも忘れ去られるかもしれない。
ただ、赤穂浪士の魅力は史実よりも物語として、時代に応じて変容させながら人気を得てきていることも事実である。
身も蓋もない史実そのものを生徒に説くよりも、その時代に応じた忠臣蔵・赤穂浪士の描き方を説いた方が面白いかもしれない。
そして、新しく分かった史実もうまく取り入れて、現代に応じた赤穂浪士の物語を創作すれば、生き残れそうだ。

2013年12月8日日曜日

豊かではないが貧しくはない生活

NHKのBSのアーカイブ特集として、チベットの人の暮らしぶりが深夜に放映されていた。
チベットの人が、凍り付いた湖で村人が協力し合って羊を島に渡していた姿は圧巻だった。
食事や祭りを通して、家族や村の人と親密に交わる姿にも、心が和んだ。 
その中で羊飼いが言った言葉「(自分たちの生活)豊かではないが、貧しくない」が記憶に残った。
当然、物質的に恵まれている、私たちの暮らしからすれば随分、物質的に不自由な暮らしである。
同じ生活をしろと言われても、フィールドワークなら一年は暮らせるかもしれないが、居着くことはできないと思う。
ただ、今の田舎暮らしと比較するなら、ほんの一部だが似たところがあるかもしれない。
農作業や、庭の手入れをして休日を過ごし、夕日に照らされた紅葉の山を見ながら散歩する。
近所の人とは何気ない会話をして、家ではささやかな晩酌を楽しむ。

私が奄美与路島のフィールドワークをしていた頃、夜は家々を訪れて話を聞いていた。
夜に家々を訪れることは、島の人も普通に行っていた。
さすがにここは田舎といえど、夜に他の家を訪ね歩く人はほとんど居ないが、夕方はたき火を囲んで居る人や、散歩を一緒に楽しむ人を見かける。
そう言えば、与路島でも夕方になると、浜辺に人が集まって話をしたりしているお年寄りが多くいた。
最近は何となくここでの生活が与路島と同じような生活に思えてきている。
夜中にフクロウの鳴き声がすると、与路島と一緒だなと思う。
面白いことに、近所の農家が山羊を多く飼いだした。
奄美や沖縄のように食用ではなくて、草刈りの手間を省くためらしい。
農業だけで生活することは決して楽そうではないが、私たちのような雇われ人とは違うたくましさを感じる。
どんどん、新しいことにチャレンジしているからである。

そういう生活こそ、心が「貧しくない生活」なのだろう。