ページビューの合計

2014年12月31日水曜日

facebookでタイムスリップ

発端は気まぐれだった。
先月にスマホに変えて以来、色々試していたのだが、今日はたまたまfacebookだった。
登録した途端に、私が関わった兵庫県立大学附属高校10回生の友達情報がどっと入ってきた。
特に担任をしていた生徒とは、携帯でのメールのやりとりなどをしていたので、その関係かもしれない。
卒業生たちがfacebookで、繋がっているのがよく分かった。

私は恥ずかしながら、普通高校で担任を3年間やり遂げたのは、県大附属の10回生しかない。
特別支援学校(養護学校)は3年間やり通せるのに、龍野実業も上郡高校では2年生まで、今の赤穂高校は2年生のみである。
どの学年も一緒に修学旅行には行っているのだが、卒業アルバムはもっていない。
普通高校でアルバムを持っているのは、 県大附属の10回生だけなのである。
だから、唯一クラスの同窓会にも加わることが出来る。

facebookの良いところは、近況が写真とともに伝わってくることだ。
子供と一緒に写っているところなど、微笑ましい。
日本のみならず外国にも幅広く活躍しているのがよく分かる。
卒業生は今が若さの花盛りというところ
私は不用意にも、登録時に撮った写真をプロフィールに貼り付けたのだが、さっき卒業アルバム用の写真に張り替えた。
写真では歳は誤魔化せないのだが、せめて教師らしい格好を教え子たちには見てもらいたかった。

久しぶりに懐かしい名前に接したせいか、気持ちも当時に戻ってしまった。
今からほぼ10年前に卒業していった生徒たち、たぶん私の白髪頭を見て驚いているだろう。
今度の同窓会には是非伺いたいと返事したからには、心身ともに10年前と変わらぬ位に元気でありたいと思う。
そして、自由な校風で学んだ教え子たちが、どのような暮らしをしているのか、是非知りたいと思う。

しかし、本当にこういうネットは、時間の空間を超えるタイムマシーンのようだ。
時々、このタイムマシーンで10年間に戻ろう・・・

2014年12月30日火曜日

喪中欠礼

今年は、例年に無く喪中欠礼のお葉書の数が多い。
おそらく私が交流している相手の方は、身内の方が高齢になっている人が多いからだと思う。
ただ、一人だけご本人では無くて、奥さんから頂いたものがあった。
以前、このブログでも書かせていただいた故西畑俊昭氏の奥さんである。
私のブログを読んでくれたことが書き添えられてあって、思わず私も目頭が熱くなってしまった。
ただ、気ままに書いてあるブログに、心を寄せていただいたことを、恥ずかしくもあり、ありがたく思えた。

私は亡くなった方は、その人と関わった人の記憶の中で行き続けると思っている。
文化人類学や民俗学をやっていたせいか、霊魂とかカミの事柄と関わることが多かった。
確かに、霊魂を科学的に量子論レベルで解明しようとする人もいて、興味深いと思っている。
私はその人を直接ないし間接的に知る人が、共同で見たり感じることが出来る存在だと思っている。
感受性の強い人、よく言う霊感の強い人は、知識が無くても感じられるようだが、私はそれほど強くないのでよく分からない。
それとは反対に、その存在を否定してしまう人もいるが、私はそれには賛成できない。

私は赤穂の畑仕事をしている時、その畑で汗水を流して働いていた今は亡き父親を感じている。
父親ならどう言うだろうかと思うと同時に、側で同じように働いているような気がする。
取得する時に宅地にしてしまって、固定資産税が非常にかかるので、処分したいと思いながらも、畑を作り続けるのもそのせいかもしれない。
先祖伝来の田畑に拘る農家の人の気持ちを、経営の観点から疑問を感じることもあった。
父親が亡くなってからは、田畑というのは、親や先祖から子供や孫につないでいく大切な命の絆だと思うようになった。

田畑だけではなくて、師弟関係や仲間で得られた知識や姿勢もそうである。
亡くなった廣山先生や西畑氏との関わりの中で得られたものを、私はその面影ともに引き継ごうと思っている。
中心となる人が欠けてしまうと、そのグループの人との関係は希薄になってしまう。
それでも、先日懇意にしていただいた方の息子さんと、お話が出来て懐かしかった。
その息子さんは薬剤師さんなので、学校の衛生検査や保健委員会に、よく来ていただいている。
廣山先生や西畑氏の関わりがあった人たちは、それなりに赤穂の中で頑張っている。
先日も宮崎素一さんが県で表彰されるニュースを「赤穂民報」で知って、嬉しかったし、励みにもなった。

年賀状を書くことは、年の暮れは故人を偲ぶことにもなる。
と言いつつ、いつもなかなか書けない・・・・

私の大好きな「雪の華」です。かなり以前に歌ったものですが良かったら聴いてください。「雪の華」

2014年12月27日土曜日

いつかのクリスマス

今年のクリスマスはあまり普段と変わりなかったが、私の要望でチキンを、家内の趣味でアイスケーキが食事に出た。
私は中学高校大学とミッション系の学校に10年間も行っていたので、クリスマスとはそこそこ縁があった。
ただ、キリスト教は身近にあったけれど、あまり興味は持てなかった。
クリスマスもどちらかというと、単に年中行事の感じもする。
ミッション系スクールは別として、普通校ではあまりクリスマスは授業とは関係ない。
ところが、廊下で若い女性の先生が、着ぐるみを着ていたので、くまのプーさんかと思ったら、トナカイだった。
よく見たら確かに鼻が赤い。
英語の授業を楽しくするために、先生がALTの先生と色々工夫をしているのだ。

私は特別支援学校での勤めが長いので、そこではクリスマス会を多く経験した。
毎年、生徒と教師が合唱や合奏の練習をして楽しんだ。
中でも、私は思いきってB'zの「いつかのメリークリスマス」をギターを弾きながら歌ったのが忘れられない。
今から3年ほど前だったので、当時の生徒がこの歌を知っているか不安だったが、一緒に歌ってくれたので嬉しかった。
この歌はB'zの中でも一番好きな歌で、忘年会などでも歌ったりしていた。
カラオケが殆どだったので、ギター一本で歌うのは非常に緊張した。

この曲は何となく、自分が東京で暮らしていた頃を思い出させる。
歌詞の中の「線路沿い」というのを、西武新宿線であったり、東急東横線と重ねてしまう。
しゃれた椅子どころか、家具はリサイクルショップで買いそろえたのだが、それなりに輝いていたのかもしれない。
そして、「いつまでも手をつないでいられると思っていた」という一節も、色々と思い出を巡らせる。
若き頃の恋愛の破局、最近では子供や生徒の巣立ち。
特別支援学校では、孫のような生徒が泣き止まないので、手をつないで廊下を一緒に歩いたのを思い出す。
本来はクリスマスは家族で楽しく過ごす日なのに、この曲とともに寂しく感じてしまう。
そういえば、去年のクラス解散会でこの歌を歌ったのだが、生徒は憶えてくれているだろうか。
ラジオなどで流れたら、私のことを思い出してくれたら嬉しい。

カラオケで歌ってみました良かったら聴いてください「いつかのメリークリスマス」

2014年12月21日日曜日

赤穂でのI Love You

この週末、久しぶりに夜の赤穂を歩いた。
年末の忘年会シーズンだというのに、人通りはそれ程多くない。
駅前通を賑やかに歩いているのは、どうも大学生である。
時間があったので、路地裏を歩いてみたが、店の中もお客がいなくて寂しい感じである。

忘年会の一次会が終わり、二次会ではカラオケをしたいというので、何人かでスナックに入った。
そこで、一緒に来ていた音楽専門のNさんが、「尾崎豊の『I love you』を歌いませんか、私は上を歌いますので」と言ってくれた。
あまり自信は無かったけれど、歌い始めると何とか歌える。
さすが、Nさんが、うまくコーラスを付けてくれたので、ますます気持ちが入っていく。
自分でも歌えるのが不思議なくらい声も出る。
最後まで歌い終えて、皆から暖かい拍手を頂いた。
Nさんと握手を交わし、「これからも歌を一緒にやりましょうよ」と約束した。


この歳になると、こういう曲を誰のために歌うのか分からなくなる。
ただ、年齢の近いNさん同様、若かりし日に思いを寄せた人に対して歌っているのかもしれないし、家にいる奥さんに対してかも・・・?
そして、私にはもうしばらくすると、学校を離れていく教え子たちへの気持ちとしてもある。
歌詞の内容は、学校にはふさわしくは無いが、不器用な心のふれあいとしては通じるものがあるだろう。
恋愛がはかないように、学校は出会いと別れの繰り返しでしか無い。
そこにいる生徒は、相変わらず10代後半の世代なのだが、教師である私はどんどん過去のものになっていく。
おそらく尾崎豊など今の生徒は殆ど知らないだろう。
十数年前にある女生徒が、一生懸命、黒板に尾崎豊の歌詞を書いていたことを思い出す。
店を出ての人通りの無い帰り道も、その歌をひとり口ずさんだ。
去年の修学旅行で行った北海道富良野の夜を思い出しながら・・・

追記
家で 尾崎豊の『I love you』をカラオケで一人歌ってみました。良かったら来てください。



2014年12月8日月曜日

どじょう

今朝は村の溝掃除がった。
田植えシーズンと稲刈りが終わったこの時期に行う。
いつものように、溝から泥を上げると、ドジョウがうじゃうじゃ上がってくる。
目に付いたのは、逃がしてやるのだが、いちいち探していたら、作業が進まない。
泥が溜まるところでは、泥を上に上げて溝に落ちないようにだけならしておいた。
一通り溝掃除が終わって戻ってみると、カラスが早速ドジョウをつかまえに来ている。
今まで、農薬が気になって、ドジョウを拾うことは無かった。
考えてみれば、中国から輸入されているドジョウの方が危険な気がする。
せっせせっせと食べてている、ゴイサギも元気そうだし、今年は拾うことにした。
大きいのや小さいのを合わせて、数十匹にもなった。
泥を吐かせるために、大きなプラスティックの水桶に入れて泳がせた。

私が小学生の頃は、今の赤穂の親元の敷地はは田んぼで、そこには井戸があった。
父親と一緒に、その井戸さらえでドジョウを獲ったことが何度かある。
バケツで泥ごとくみ上げて、ざるですくい上げたが、ドジョウが山ほど獲れた。
泥を吐かせてから、味噌汁に入れたり、大きいのは蒲焼きにして食べた。
それほどおいしいとは思わなかったし、来る日も来る日も続いたので、うんざりすることもあった。
生臭い味だし、格別おいしい物では無かった。

大学時代、とある自然愛好家の友達は、水槽に色んな淡水魚を水草とともに飼っていた。
彼は自然愛好家の仲間が来ると、その中の魚や水草を食べた。
ドジョウもその中に混じっていて、いつの間にかいなくなっていた。
聞くとやはりおいしく食べたという。
彼は観察のためと言うより、生け簀として、水槽を用いていたようだ。
彼とは何度も彼の下宿で飲んだが、彼の楽しそうに泳いでいる水槽の魚は食べる気はしなかった。

ドジョウがおいしいと思ったのは、東京に住んでいた時に、たまたま柳川鍋を食べる機会があった時だ。
濃い味付けで、ゴボウと卵に美味く合っていた。
ドジョウがこれほどおいしいとは思わなかった。
飲む機会は多かったのだが、それ以来あまり食べた記憶が無い。
店でドジョウを見かける度に、買って帰って 柳川鍋で食べたいと思うのだが、高くて手が出なかった。
また、中国産というのにもためらいがあったし、家内が嫌がった。
それでも、ドジョウはウナギよりも栄養価があると知っていたので、ずっと食べたいと思い続けていた。
この高田地区のドジョウは、わざわざコウノトリが仲間を連れて、食べに来るくらいだし、普段も鷺の餌となっている。
近所の人は、子供と一緒にとって楽しむ程度で、食べる人はいない。
今回は思い切って食べてみようと思う。
コウノトリのさっちゃんとは、競合しないように慎ましく・・・

追記
2014/12/21の本日
ありがたく、ドジョウを頂きました。
ドジョウは二週間もの間、冷水の中にいただけあって臭みは殆どありませんでした。
ただ、やはり生きている状態から料理するのは、抵抗を感じました。
ゆで上がるまでは私が行い、味付けは家内にやってもらいました。
家内は一口も食べず、私と息子が食べました。
ドジョウ一匹、ウナギ一匹と言いますが、私は多量のウナギを食べたことになります。
ウナギ一匹2000円なら、4万円ほどということになりますか?
それよりも、命を頂くことがいかに貴重かと言うことを知ることの方が価値がありました。


2014年12月6日土曜日

3年最後の期末テスト

3年生2学期末テストの採点を、今日、しおわった。
この生徒たちの答案を見るのも最後かなと思うと、今までとは違う思いになった。
今までは、「できてる」とか「サボってる」とか結果のみを見ることが多かった。
それが、今回は「この生徒は生徒なりに頑張ったな」と感じるものが多かった。
というのも、私が担当しているあるクラスは、試験担当のクラスの中で平均が一番悪かったので、「せめてゲボ脱出」と唱えていた。
答案を見ながら、ゲボでも良いかと思った。
それなりに努力の跡が見られたからである。

以前勤めていた学校では、採点業務を速くするためにマークシートを用いた。
試験を作るのは大変だが、採点は30分もかからなかった。
その頃、ある先生がマークシートを用いないというので、理由を尋ねた。
それは「試験は生徒との対話だから」ということだった。
その頃は、仕事に追われていたので、何となく聞き流していた。
歳も経たせいか余裕も出て、今回は採点も確かに生徒との対話だと思えた。
特に、記号では無くて用語を書いてもらうと、その字に気持ちが表れている。
そう考えると、センター試験などは、生身の人間を相手にしている試験では無いように思える。
そして、そのセンター対応と称して、マークに頼った自分も生徒との対話を重視していなかったと反省せざるを得ない。
本当はレポートなどの文章や、授業中の発表などで対話できる機会があった方が良かったのだろう。
卒業すればレポートや論文などの文章が中心になるからだ。

そう言えば、昨年見ていた学級日誌の文章は、とても貧弱だったことを思い出した。
ツイッター程度の単文しか書けない生徒が多かった。
そのことを考えれば、テストは単語としてはすごい文字数だと思う。
その中にせめて、生徒の思いを読み取らねばならないと思った。


2014年12月5日金曜日

大学の違い

前回のブログで、弟と私の受験の成功と失敗を書いた。
私が受験を失敗したのを痛切に感じさせられたのは、大学生の頃の夏休みのアルバイトである。
当時の赤穂では夏休みだけできるアルバイトは殆ど無くて、私は親の知り合いを通じて、土方のアルバイトをした。
名古屋でも当然アルバイトをしたが、そちらは餅屋の仕事などであった。
私は1年次の軽音学部も、その後の剣道部も長く続かなかった。
ただ、文化人類学研究会の村落調査班は長く続き、その後の人生を変えることになった。
この村落調査は長期休暇期間中に村落に出かけて、聞き取り調査をするので、短期間で稼げるアルバイトが都合が良い。
赤穂の実家に帰ってアルバイトをしたのも、生活費がかからず、短期間に稼げるからであった。

弟も大学が勉強が忙しくなる前は、夏休みに帰ってきてアルバイトをした。
弟には家庭教師のアルバイトが直ぐに見つかった。
家庭教師をする相手は、母親の勤め先の主人の子供である。
ここで、大阪大学と南山大学の差を思い知らされた。
名古屋でも家庭教師のアルバイトに応募したが、一度も出来なかった。
ところが不思議なもので、東京では東京都立大学大学院生として、家庭教師も塾講師もアルバイトは見つかった。
ただ、家庭教師もそれなりに良かったが、それ以外にやった色んなアルバイト経験が世間を広くしたと思っている。

私はそういう機会では受験の失敗を思い知らされたが、南山大学に対しては嫌悪感は持たなかった。
同じ学科の同級生の中には、河合塾で東大を目指して失敗して、入学したのは良いが、その拘りで去って行った者もいた。
ルームメートになった友達も、早稲田大を受け直したが、結局上手くいかなかった。
また、数年して浪人を続けて入学してきた同じ高校の同級生もいたが、彼は長続きしなかった。
その一方で、国立の教育大に受かりながら南山大を選んだ友達もいたが、男子は名古屋大学を落ちた者も多かった。
望んで入学した者と不本意ながら入学した者が入り交じった大学だった。


私が受験の失敗のコンプレックスを抱えながら、大学を続けられたのは、ひとえに研究会の活動のおかげだと思っている。
そこで、信頼できる教官と出会い、親友を得、恋人も得ることが出来た。
そして、研究の道もその中で見いだすことが出来た。
挫折の連続の中でも、腐らず、もがきながら探り当てた活路だったように思う。

大学受験

私は今、高3の生徒の日本史の受験指導をしている。
大学受験では失敗した自分は、受験指導をすることは毎回そのことを振り返ることになる。
40年近く経った今でも、生徒に自分の失敗談を話すことが多いのである。
中学受験も、大学院受験も、教員採用試験も、運転免許も一発で合格したのに・・・
大学受験は現役と浪人二年間で、大道予備校と南山大学の人類学科一つのみしか合格しなかった。
おそらく、他のどの受験よりも労力を費やしたのにも関わらず、希望する大学には行けなかった。
ただ、たまたま合格した南山大学文学部人類学科は大きく自分の人生を変えてくれた。
私は決して研究をしたいとも、教師になりたいとも思っていなかった。
文学に憧れたり、マスコミの仕事がしたかったが、一番やりたいことはバンド活動だった。

とにかく大学に受かりたいと言うよりは、受験生から解放されたかった。
だから、浪人して共通一次元年で不本意な結果となっても、もう浪人は続けたくなかった。
親戚の叔父からも、もう一年頑張ったらどうかと言われても、その気にはなれなかった。
そもそも、新聞奨学生として浪人し始めた時に、住み込みの新聞配達もすぐにやめて、その挫折を味わっていた。
元灘高生や元甲陽高生に混じっての予備校生活も、その長時間の通学で挫折した。
そして、受験自体友達と一緒に旅行気分だったり、下宿に留めてもらうなど安易であった。

それと対照的なのは弟であった。
現役でそこそこの私立大学を合格していたが、国立を目指して浪人した。
親も私の失敗に懲りてか、賄い付きの下宿をさせた。
弟は浪人して見事大阪大学に合格した。
弟は大学卒業後は大手企業に就職したが、その後転職して充実した神奈川県での生活を送っている。
大学受験に関しては、地道でまじめな弟の方が成功したのである。

ただ、この歳になって、余裕のある生活を送っているのはどちらかと言えば自分だろうと思う。
年収は確かに弟の方が上だが、仕事漬けの生活をしている。
持病に関しても私よりも深刻である。
まじめな弟は仕事を生きがいにして生きてきたことだから、不幸では無いと思うが、私から見れば可哀想に思えることもある。
私は大学受験で挫折を味わい、結局望んだ研究職にも就けずにはいるものの、生徒と楽しく関わることが出来る喜びも感じている。
今、真剣に受験に取り組んでいる生徒に、人生という長い目で考えようと言っても無理なことは分かっている。
ただ、失敗しても一生懸命生きていけば、何とかなることも知って欲しいと思っている。
特に、受験のプレッシャーで押しつぶされそうな、君には・・・

2014年12月1日月曜日

ヤンキーと不良

生徒から「先生はヤンキーやったん?」と聞かれることがある。
「不良やったけど ヤンキーとは違う」と答える。
私のイメージでは、ヤンキーは外見からしてツッパリスタイルを維持しているが、私はしていなかった。
同級生には当時流行のパンチパーマをかけたりしている者もいたが、私は長髪程度だった。
ただ、教師からは不良グループと見なされて、成績の良い者には我々とつきあうなと言われた。
言われた中には東大を目指していたのだが、我々と仲が良い者もいてそれを我々に告げた。
今まで物わかりが良いと思っていたその教師に対しては、裏切られた気持ちになったのを憶えている。

我々は大人びたことをするだけで、喧嘩をしたりバイクで走り回ることは無かった。
バンドを組んで演奏する仲間が中心だったが、色んな仲間がいた。
今は亡き中島らもの高校生時代にちと似ているが、彼ほどの逸脱は無かった。
教師になり始めの頃に、そんな話をすると年配の先生は旧制中学校の学生みたいだと言われた。
私学の自由な雰囲気で、自己責任においてたいていのことは許容されていた。
受験という枷があったので、ある一線は守っているつもりではあった。

教師になる人の多くは、まじめな人が多いので、私のような存在は異質である。
私のような教師が多すぎても困ると思うが、そういう教師も必要に思うことがある。
規則が絶対だと思うこと自体が、私には非常に危険だと思うからである。
私はこれからも、ちょい悪親父としてしばらくは教師を続けるつもりである。

追記
 尚、東大を目指していた我々と親交のあった同級生は、無事現役で東大に合格した。

2014年11月30日日曜日

子供の小児ぜんそく

我が家が赤穂を離れた大きな理由として、上の息子の小児ぜんそくがある。
結婚当時、私ども夫婦は、親戚を頼って赤穂市内の大津に居を構えた。
そこは農村地帯ではあったが、そばに山陽自動車道があり、騒音と排気ガスが酷かった。
赤穂市の南部は当時から西が工業地帯、東が住宅地になっている。
当時赤穂市は小児ぜんそくに関しては、治療費が無料になっていた。


私は子供が幼稚園に上がる前に、家を建てようと思った。
その時に、農業もやりたいことと子供の健康を考えて、農村部に移ろうと思った。
市内に拘って、高雄地区や有年地区を探したが、良いのが見つからなかった。
結局、上郡の今の中野に家を建てることになった。
子供のぜんそくは、直ぐには良くならなかった。
特に、この寒くなる季節には発作を起こして、心配させられた。
ぜんそくだけ出なくて、アトピーも酷かったので、飲み水にも拘った。
赤穂に住んでいた頃から、千種に水を汲みに行ったのもそのせいである。
 子供の小児ぜんそくは成長するに従って無くなった。
アトピーは続いているが、自己管理によって改善するようになりつつある。

実は、今日たまたま赤穂市の人権の集いがあって、その時に招聘された講師さんが
「赤穂は工場が多いのが、インターチェンジを降りたら、その中を通ってくるとよく分かる」
という意味のことを言われた。
この方は、たつの市の人なので、そう感じるのだろう。
あまり気がつかなかったが、ずいぶんと工場は増えたなと思う。
私が小学生の頃に学校から見学に行ったのは、住友セメントと東洋紡績。
そして東浜塩田もまだ操業していて、その塩の生産工場も見学した。
それから、ずいぶんと工場が増えたと思う。
何よりも、関西電力の煙突がひときわ目立つ。
工場のおかげで、市の財政は潤い、職場も確保できていることは分かっている。
現在では、工場も環境に気を配っていることも承知している。
その陰で、ぜんそくやじん肺になった人もいることも確かなのである。

2014年11月22日土曜日

師弟関係

最近、一青窈が「他人の関係」をカバーして歌っている。
金井克子がヒットさせた当時は幼かったので、何の意味かよく分からなかった。
おかしいもので、教師と生徒は担任やクラブ顧問をしている生徒意外とは、あまり個人的な会話をすることが無い。
授業だけの関わりであり、まさしく「昨日は昨日、今日は今日」という感じである。
考えてみれば、自分も教師と普通に会話をしたことは、担任の先生以外には殆ど無い。
大学に入ってからも、所属するコース以外の先生とは話す機会はあまりなかった。
他人の関係ならぬ、授業だけの師弟関係が殆どである。

特別支援学校では、よく話をしないと授業にならないので、どの生徒とも話す機会が多かった。
ところが、現在の普通校に戻ってかれこれ2年たって、改めて気がついたことがある。
当然去年担任をした生徒とは、多く話をしたし、今年も普通に話が出来ている。
日本史の授業だけ関わる生徒とは、2年間も担当しているのに、いちども会話をしたことのない生徒が大半である。
特にグレードといわれる成績優秀なクラスの生徒とはあまりなかった。
そういう生徒と、受験間近になって初めて会話をしたりするのである。
そして会話をして初めて、こういう生徒だったのだと気がついたりするのである。
授業を受けている時の、表情や受け答えと、普通の会話では雰囲気が大きく違う生徒もいる。
授業中は教師が質問して、それに答えなければならないので、身構えているのでどうしても堅く感じる。
こちらが柔らかく接したつもりでも、生徒にすれば試される厳しい存在なのだろう。

今の3年の生徒とは去年からの関わりだが、卒業するまであと数ヶ月しか無い。
今年は担任をしていないので、一緒に卒業を祝うという立場には無い。
それでも去年は最大のイベント修学旅行にも一緒に行けたので、思い出深い学年である。
おそらく卒業してしまえば、殆ど会う機会の無い生徒が多いと思う。
せめて残り数ヶ月、生徒たちが良い旅立ちが出来るよう、少しでも力添えができればと思っている。
そして、なるべく個人的に声をかけてみようとも思っている。
師弟関係は他人の関係では無いと思っているから・・・




2014年11月9日日曜日

雨に歩けば

このところ週末に雨が多い。
昨日は曇りながら、何とか降らずに済んだので、一日農作業にいそしんだ。
弁当を持って赤穂の畑に行って、玉葱を300本植えた。
施肥して耕耘し畝をたて、マルチを張って穴を開けて、一本一本植えた。
おかげで、今日は体中が午前中痛かった。

今日は朝から雨、赤穂で開かれる市民マラソンは三年連続雨である。
今年は出ようかなと思った時期もあったが、出なくて良かったと思った。
その代わり、血糖値を下げるために、ポンチョを着て散歩に出かけた。
去年までは雨の日には、エアロバイクをしたりしたが、今年はその気にはなれない。
エアロバイクはどうしても飽きてしまうので、モチベーションが低いと出来ない。
その点では散歩は景色を楽しむことも出来るので、雨の日でも出かけようと思う。

安いポンチョなので、ごわごわして、しわになってしまっている。
足下を濡らさないように、手で前に押しやりながら歩く。
途中でフードの部分が汗で顔にひつきだしたので、持ってきた手ぬぐいで頬被りをした。
これはれっきとしたお百姓さんである。
靴は防水の登山靴を履いてきたので、全然問題は無い。
雨の日は当然誰も散歩していないし、農作業もしていない。
鳶も電信柱の上で、羽を休めている。
いつもの山羊も小屋の中で、じっとしている。
カモだけは元気に飛んで、池に舞い降りてきた。

唯一の欠点はフードで横が見づらいことである。
それを考えると、透明のポンチョか、フードは被らず防水帽子を被るかである。
雨の日の散歩にポンチョが最適なのは、カッパのように蒸せないことである。
要するに、首から下が傘と同じような仕組みになるので、風通しが良い。
手で前を押して開かなくて済むような工夫が、できればとも思う。
しっかりと1時間歩いたので、血糖値も低くて済んだ。
赤穂マラソンはポンチョ着て走るわけには行かないだろうから、さぞかし大変だっただろうと思う。
来年こそはと思うが、こういう雨を考えると二の足を踏んでしまう。




2014年11月3日月曜日

デーションだけ残った?

赤穂でデーション祭りがあるというので、授業で方言についてとりあげた。
赤穂以外の生徒も少なからずいるで、意味を言うことから始めた。
「でー」は「どない」と同じ意味で、「でーなんね」とか「でーしょんならいぇ」とかも使う。
以前は二人称は「おまはん」とか「われ」、西の地区では「おんし」「おんしゃ」。
一人称は男は「わい」とかを使った。
生徒にゲームなどの仲間に入れてもらう時は、何というかと聞くと「入れて」であった。
私は「よしてっけ」を使ったので、姫路の中学校で笑われた話をした。

標準語では無い言葉も紹介して、「ごねる(死ぬ)」「めげる(壊れる)」、「ずつない(腹一杯でしんどい)」「いっこうぇ(行きましょう)」などなど
小学生の頃は、柄が悪いと言われて、方言を授業中に使うと怒られた話をした。
結局、いくら叱られても無くならなかった方言だが、テレビの影響で無くなったとも話した。
私がショックだったのは、生徒から「おじいさんが使う」と言われたことだ。
そうか、私が使っていた(る)言葉は、もう既に生徒らにとっては、おじいさんの言葉だと言うことを認識した。
ついさっきも、近所の人が携帯電話で「おまはん」(上郡でも使う)という言葉を使っているのを聞いた。
若い世代には、そういうのも年寄りの会話として聞かれていると言うことである。

自分が小さい頃、お年寄りが「ほうだはーん(そうなんです)」とか、「おせになって(成長して)」とかの言葉に世代の違いを感じた。
もし、生徒と話をする時に標準語を用わなければ、れっきとした私はおじいさんなのである。
しかし、私は兄弟などと話をする以外は殆ど方言は用いない。
職場でも赤穂出身と分かっていても、用いることは無い。
家内は広島弁混じりの相生弁や標準語なので、夫婦の会話は混乱状態である。
方言が忘れ去られるのは時間の問題だと思うし、自分自身もつかえなくなっている。

生徒たちは播州弁のイントネーションで関西弁や、標準語を話す。
生徒は出かけた先で関西弁だと思って話したら、おかしいと言われたという。
生徒自身イントネーションの違いを、理解していないのである。
いずれそのイントネーションも標準語化するだろう。

地域の特性を活かそうとか、個性を持とうとか言いながら、どんどん均質化が進んでいる。
書き言葉ではない方言は、話す機会や発信する機関が無いと失われる運命にある。
以前、名古屋の祭りで子供が神輿を引きながら、「元気を出して、わっしょい」というのを聞いて違和感を感じた。
しかし、もう近所の子供会でも「わっしょい」を普通に使っている。
因みに私の知っている神輿(屋台)のかけ声は
「おうー おうー まかせ あら えいいやー まかせーっせ」
「えいこらさ あーよいやさのせ こらさ あー よいやさのせ」である。

実はデーション祭りは、行ったことが無い。
生徒に行くのかと聞かれて、「デーッション祭りの日は、たいがい玉葱を植えている」と言って笑われた。
今年は雨が降ったので、祭りが出来たかも知らないし、当然玉葱も植えられなかった。
新しい踊りの祭りに方言を冠するのも、面白そうと思いながら、つい行けていない。
近所の人の中には「エイサー」踊りを頑張って。祭りに参加する人もいる。
新しい時代は地域を越えて魅力あるものを、それなりに地域性を出して表現するのが良いのだろうと思う。
そんな中で、「デーション」という方言は、赤穂を特徴付ける象徴的な言葉になっているのだろう。










2014年10月26日日曜日

磯釜の家

学校で試験監督をしていると、やることが無いので窓の外を見たりする。
4階からは遠く小豆島が見えるし、海浜公園の高い椰子の木の向こうに海が光っている。
市街地の方はどんどん家が建っていて、幼い頃に山から見下ろした風景とは一変してしまっている。
そんな中で思い出すのは、私が小学生頃まで過ごした尾崎磯釜の家である。
福崎町出身の柳田国男は生家を卑下したが、その写真に載っている家よりも貧しい作りだった。
父親は出物の家を購入したのだが、当初は風呂も無くて、向かえの家に入れてもらったり、風呂屋に行った。
父親は何でも節約する方で、家の改造は自分で行った。
トタン屋根で家を拡張して、風呂場も作ったし、納屋も作った。
ただ、当時はサッシが無かったので、風呂や便所は縁側の外にあって外気にさらされ、冬場はすごく寒かった。
今の作りでいえば2DKなのだろうが、押し入れが多くあったので、そのふすまを外して勉強部屋にしたりした。
平屋だったが、屋根裏があったので、時々はしごで屋根裏に上がった。
屋根の上にも、はしごで簡単に上がれたので、上に登ってよく叱られた。
隙間だらけの家だったので冬場は寒くて、電気ごたつを真ん中に布団を敷いて、家族六人が足を突っ込んで眠った。
山上憶良は囲炉裏を囲んで家族で寝たようだが、こたつの回りに同じような風景が展開された。

隣の家は蔵を改造したもので、別の持ち主の借家だったが、どういう訳か壁一つでくっついていた。
中学受験のために父親は、隣との壁際に勉強できる場所をこさえたのだが、声は筒抜けであった。
隣の人に私が英語の練習で発音している時には、黙って皆で聞いていると言われて恥ずかしかったを憶えている。
そんな貧しい家から引っ越しできたのは、父親が買っていた田が高校の用地買収で売れたからだった。
つまり、私はその田んぼを買ってくれて建てられた高校に今勤めているわけである。
その磯釜の家はしばらく知り合いに貸していたが、その親戚の人が買ってくれた。
そして、いつの間にか誰も住まなくなっていた。

数年前に懐かしくて、その家の側を通ってみた。
作りは殆ど昔のままで、玄関の南京錠をかける鍵もそのままだった。
ところが、屋根の一部が落ちて、中の容姿が見えるくらいになっている。
どういう過程で空き家になったのか知らないが、カレンダーもそのままであった。
幼い時代を過ごした家が無くなるのも寂しいが、荒れ果てるのを見るのも哀しい。
たぶん、大人の親にとっては、人生の一過程にしか過ぎないのだろうが、幼年期を過ごした自分達には思い出の凝縮した家である。
そういう私も親たちの昔の話を聞いても、別世界と考えていたから、今の世代の者にとっても同じだろう。
近くで暮らしているのに「思えば遠くへ来たものだ」と感じてしまう今日この頃である。






2014年10月18日土曜日

半袖自慢

私は未だに半袖のポロシャツで出勤している。
いわゆるクールビズのままで、10月半ばにかかったのである。
同じ職場には、もう一人半袖の方がいるが、その方はちゃんとベストのウィンドウブレーカー着ている。
以前勤めていた特別支援学校では、絶対勝てない人が二人もいた。
要するに冬場もずっと半袖で通される人がいたのである。
私はせいぜい頑張っても、11月半ばが限界である。
運動する時には半袖になれても、普段の生活では無理である。
普通校でも、上郡高校に勤めていた時に、12月を過ぎても半袖の人がいたので勝てなかった。
やっと一番になれたのである。

私は赤穂生まれで赤穂育ちなので、実は寒さには弱かった。
今でも上郡の近所の人の薄着には勝てないことがある。
寒さに強くなったのは、水泳とジョギングを続けてきたからだと思う。
特に水泳は真冬でも、温水プールに入るので、寒暖の差に強くなる。
ジョギングした後も、汗が引くまでは真冬でもTシャツ一枚ということが多い。
そのおかげか、風邪をひくことが殆ど無い。
風邪で仕事を休んだことがいつだったか、思い出せないくらいである。

生徒は授業中は教室でじっとしているせいか、ドアや窓を閉めていることが多い。
あまり寒がるので、開けられなくて、半袖で授業をしながら汗をかくこともある。
そのくせ、生徒はぽかぽかの教室で睡魔に襲われる者も中にはいる。
その際には、ロックで鍛えた喉をうならせて叫ぶ。
「○○起きろ」
気の毒なのは隣のクラスである。
私はBon JoviのIt's my lifeのフレーズ Shout it out loudが頭の中で流れる。

60近くになっても、半袖を着て私はたぶん叫び続けてるだろう。
起きろ 寝てる間に戦が始まってしまったぞ
君たちはまさしく眠れる獅子ならぬ、わんこちゃんだったんだぞ
と叫ばなくて済むように・・・ It's my life!

2014年10月13日月曜日

イモよあなたは強かった

今日のサツマイモの収穫に、久しぶりに畑仕事の喜びを感じた。
実は先週に次のニンニクを植えるため、二筋をほどサツマイモを掘ってみた。
いくら掘れど、小さいのが少し出てくるだけで、ナイロン袋いっぱいにもならなかった。
ところが、今回は一筋だけでコンテナ一杯にもなった。
掘り上げる今はたわわに蔓にぶら下がり、型もなかなか良い。
大きいのもたまにはあるが、焼き芋にちょうど良い中ぐらいのが多い。
これぞ鳴門金時という感じである。

実は、始めに量販店の店で買った安い苗は、雨が降らなかったこともあって多くが枯れた。
最初掘った二筋は、それの生き残りであった。
雨が降り出した頃には、量販店にはもう苗も売っていなくて、少々高かったが上郡の種苗の専門店で買った。
しっかりした苗で、ちゃんと根付いてくれたが、植えるのが遅かったので、近くの畑より茂りが悪かった。
隣の畑のおばさんは芋が大きすぎて、料理しづらいとこぼしていたが、たぶん育ちすぎたのだろう。
その点では遅く植えたのが、正解だったのかもしれない。
何より、やはり苗はしっかりしたところで買わねばならないと思った。
安かろう悪かろうでは、結局損失になる。

今年は天候不順で、どこでも畑は苦戦している。
先日も上郡の近所の人が、サツマイモが水っぽいと言っていた。
手入れが出来なかった人は、マルチをしていても苗のそばで草が生えて、成長が悪かったという。
その点では何とか、草にも負けずに育ってくれたと思う。
それは苗を植えるために、あまりマルチを大きく切っていなかったせいでもある。
面倒くさいので、スコップで切れ目を入れて差し込むだけなのである。
雨が多い今年はそれが幸いしたようだ。
今年は里芋もしっかり葉を茂らせてくれているので、収穫が期待できる。
破綻気象の中でも、頼りになるのは芋なのかもしれない。

追記
サツマイモ掘りから一週間後、私は里芋を掘った。
こちらも豊作で、 6株ほどでコンテナの半分くらいになった。
さっさく家内が買ってきた里芋と一緒に煮てくれた。
家のは柔らかくておいしい。
買ってきたのはごりごりと歯触りが悪い。
この里芋は、時期遅れで100円ほどに値下げされた種芋を駄目元で植えたものである。
来年もこの手で行こう・・・

戯れし蟹

今の職場に替わって思い出した幼い頃の記憶がある。
それは「蟹」である。
校舎の廊下を小さいのが、ちょろちょろしているのだが、トレーニングで走る唐船あたりにはいっぱいいる。
これまでは家や職場の周りでも、また家庭訪問で出かけるところでも殆ど見かけることは無かった。
私は蟹を見ると捕まえたくなる。
幼い頃にバケツと火バサミをもって、近所の溝に蟹をよく獲りに行ったからである。
溝の石の隙間から出てきたのを捕まえるのだが、なかなか上手くいかなくて、何度も近所を回り歩いた。
別に食べられるわけでは無いのだが、友達に大きいのを見せて自慢したかった。
蟹の種類も、赤い爪のアカガニと言っていたのや、背中につぶつぶの模様のある豆ガニ、川にいる紫ガニなど、大きくて珍しいのが自慢できた。
ハサミを避けながら、手でつかんで友達に見せるのも楽しかった。
ご飯などの餌をやってしばらく飼っていた。
それでもいくつか死んだりして臭くなると、母親に溝に捨てるように言われて、渋々逃がした。

私は蟹はどこにでもいるものだと思っていたのだが、海の側しかいないそうだ。
確かに家の近所でもたまに見かけるのだが、それは全て沢ガニである。
小さいのから大きいのまで、色んな種類がいるのは海の近辺だけだと気がついた。
生物の先生に聞くと、蟹は海で産卵して幼少期を海で過ごすので、海の側でないと生息できないそうだ。
私はかつて住んでいた尾崎の家の近くの溝で、一生過ごすのとばかり思っていた。
汚いどぶの中で過ごす蟹たちに、そんな生い立ちがあったとはこの歳になって驚きだった。
先日、笠岡のカブトガニの博物館に家内と一緒に訪ねた。
その時に鳥撫(天和)の海で、カブトガニの小さいのを捕まえたのを思い出した。
夏休みによく祖父母の家に遊びにいったので、その時に海に行って獲ってきた。
当時は珍しくも何とも無かったので、死んだらそのまま捨ててしまった。

カブトガニは赤穂ではいなくなったけれど、こうして蟹が今でもいっぱい残っていてくれるのは嬉しい。
唐船の道ばたでは踏んづけそうになるくらいいっぱいいて、小さい頃にこの場所を知っていたらと思ったりもする。
今は誰も見向きもしなくなった蟹だけれど、まだ赤穂に自然が残っていることを示してくれる大事な仲間である。


2014年9月20日土曜日

里の生き物と人

このところ狐によく出会う。
大人になる前の若狐のようだ。
春にもよく見かけたのだが、それはイチゴを狙っていたらしい。
今は、田んぼの中の獲物や落ちた柿などの果物のようだ。
朝の散歩の時などは、しばらくこちらの様子を見ていて、近づいていくと稲の中に隠れる。
さすがなのは、じっとしているのか稲が揺れない。
北海道に修学旅行で行った時に、キタキツネの話を聞いた。
人が餌をやるのでなついているとのこと。
冬場の雪が人と狐を結びつけているのかもしれない。
ここらでは畑や庭を荒らすので歓迎されていない。

今年は例年に無くカルガモの群れをよく見かける。
夏を田んぼや川で越したのだが、10羽ほどが編隊を組んでよく空を舞っている。
台風が来た時はどうするのか気になったが、蓮の池に待避していたようだ。
これも稲を荒らすので歓迎されていないようだが、猟期では無いので獲る人はいない。
鷺も相変わらず多くて、田んぼや家のそばの溝でドジョウなどの小魚をついばんでいる。
急に飛び立って驚かされることもあるが、道で出会うと一声鳴いて飛んでいく。
そう言えば、散歩の時にいつも出合う山羊も、そばを通る時に挨拶のように軽く鳴いてくれる。
気に障るのは電柱や電線に留まっているカラスで、警戒を示す鳴き声で威嚇する。
それでも、襲いかかってくる(側まで飛んで威嚇する)ケリよりはましである。

だから、家に一人で居てテレビを見ているよりも、散歩に出かけて動物や虫たちを眺めている方が楽しい。
そして、何よりも嬉しいのは、近所で赤ん坊の泣き声も聞こえたり、出産間近のお母さんを見かけることである。
そして、子供が安心して虫を捕っていたり、自転車に乗って遊んでいる。
残念ながら友達が少なくて、一人である事が多いのだが、大人が野良事しているので、寂しくはなさそうである。
たまにおばあさんが一緒に網を持って走り回っている。
ご本人は大変かもしれないが、うらやましくもある。

人と生き物がそこそこ仲良く暮らしていっている里、中途半端な動物園よりも楽しい。



2014年9月15日月曜日

秋の農作業と時間

夏休みが終わってやっと休みがとれた。
先週の土日は水泳の県大会の関係で、終日神戸に出かけていた。
近所の農家は、既に白菜の苗を植え付け、大根の種を蒔いて芽が出ていた。
私が手がけている畑には、夏物野菜と草が乱雑に生い茂っていた。
何とか二日がかりで、白菜の苗を植え、大根の種を蒔いた。

今ちょうど、渡辺由文『時間と出来事』中央公論新社を読んでいて、ふと思った。
我々は時間を管理する組織の下で働かされている。
教師は比較的自由な時間は持てるが、勝手に始業時間に遅れることは出来ない。
対して農作業は、基本、いつやっていつ終わっても構わない。
つまり、季節に追われはするが、時間に縛られず、時間から自由なのである。
私の父親は生前、熱心に畑仕事をしていた。
事務職になる前の、職工時代でも田畑の仕事を良くしていた。
生活のためだと思っていたが、それだけではなくて、自由に働く楽しさを知っていたのだ今回気づいた。
元々船乗りの父親は、雇われてする仕事よりも、自分でする農作業に楽しみを見いだしていたのだろう。
確かに、パチンコや釣りなどの娯楽も、自由な時間を使う楽しみかもしれない。
ただ、リスクがあまりにも大きすぎるような気がする。
費やす時間に見合うだけの成果は、普通の人はなかなか得られない。
対して作物は、それなりの学習時間は必要だが、費やす時間に素直に応えてくれることが多い。
そういう意味で、唯一、時間を自分で有効に管理できているのである。

もう一つ楽しいことは、厳しく成果を求められないと言うことである。
それは、現金収入に縛られないで済むということだ。
よく採れれば生活の足しになったり、あげれば別のものになって返ってきたりする。
この夏は天候不順であったが、そこそこ野菜が採れて食卓も潤った。
面白いことに、畑のキュウリが終わったら、庭に自然に生えていたキュウリがなりだした。
食べきれずに庭に捨てていたキュウリが芽を出したのである。
何せキュウリも一本百円以上するというので、貴重な成果である。
先日も自家製の黒ニンニクを母親や兄弟家族にあげたら、非常に喜ばれた。
何せ普通に買ったら500円ほどするのを、30個ほど持って行ってあげたからだ。
家では惜しげも無く、毎日一個を家族で分けて食べている。
また、去年収穫した黒大豆は、豆乳として貴重な健康食になっている。
投資した機械代や、肥料代などに見合うかというと、厳しいものもある。
父親はそれに拘り続けて、殆ど機械は用いず、結局体を壊した。
そちらの方が、返って採算に合わなくなる。
採算がとんとんでも、楽して成果が得られれば、それで良いのである。
なにせ夜に読書するだけの体力は残しておかねばならない。
涼しくなった秋こそ、昼耕夜読の季節である。

2014年9月7日日曜日

ちょっとハワイまで

先週の日曜は鳥取道を通って、ハワイ(羽合)まで家内とドライブに行ってきた。
鳥取道は通行料が無料なので、安くて短時間で日本海側まで行ける。
ただ、入り口までが自宅から1時間ほどかかるのが難点だ。
当然、一般道の山道の方が魅力がある。
鳥取道は殆どトンネルだし、パーキングも少なくて米子道の蒜山のような人気スポットが無い。
その分、渋滞も無く、スムーズに鳥取郊外まで行くことが出来た。

昼食においしい魚をと思って、日本海の海岸沿いの一般国道を走った。
天気はそこそこ良いのだが、波は結構高い。
日曜であるにも関わらず、車の量も少ないし観光バスにも殆ど合わない。
美しい海の景色をみながら、結局湯梨浜町の海岸まで来てしまった。
明日から9月だというのに、海水浴をする人もいた。
是非、来年の夏は海水浴に来たいと家内に話すが、「私は嫌だ」とつれない返事だった。
この歳になると一緒に行ってくれる相手がいない。
孫ができて一緒に来られる日が来るのかと寂しく思う。

結局、家内がスマホで見つけたのは、山陰自動車道にある道の駅の羽合であった。
そこにはレストランがあるというので、期待して行ってみた。
家を出たのが10時過ぎで、到着したのが午後一時を過ぎていた。
東郷湖の見える見晴らしの良いところにあったのだが、レストランの焼き魚定食は売り切れ。
しかたないので、そばセットの食券を買って、汗をかきかき食べた。
野菜の添え物がおいしかったが、並の味であった。
特産物で良いものがあったらと、売店を覗いたが、岩牡蠣が一個700円以上もして手が出ない。
梨など果物は私は控えているので、結局、何も買わなかった。
せっかく良い立地に有りながら、今ひとつ魅力の欠ける道の駅である。
自宅近くの室津の道の駅や備前の海の駅の方が、むしろ人気があるのがよく分かった。
立地だけでは人は呼べないということで、現にお客さんは少なかった。

帰りも引き返して鳥取道で帰った。
せっかく近くなった鳥取であるが、国道沿いは寂れた感じだし、魅力あるスポットに欠ける。
ただ、落ち着いて旅路を楽しむのは良さそうである。
瀬戸内側の人間は海が南にある感覚で、太陽光発電が海を背にしていると不思議に感じる。
風力発電も珍しいし、島の見えないのも様子が全く違う。
安くて時間もかからずに来られて、遠くに来た気分にさせてくれるのが良いところである。
今度はゆっくり時間をかけて、秋の日本海の風景と味を楽しみたいと思った。



2014年8月30日土曜日

髪のDIY

私は散髪屋には年に1~2回ほどしか行かない。
以前は全く行かない年もあった。
それは、自分で電気バリカンを使ってやっていたからである。
それが数年前に壊れて、買おうとしたのだが家内がどうしても駄目だという。
散髪屋へ行くか、嫌なら家内がやってくれるというので、買うのも高いこともあって我慢した。
ここのところは、家内が髪梳きの道具で上手にやってくれていた。
ただ、家内はなるべく髪を長めに残そうとする。
理由は私が厳つい体型と人相なので、人に脅威を与えないためだという。

最近テレビで頭髪の薄さを髪を伸ばして誤魔化すよりも、短くした方が良いと知った。
家内も夏と言うこともあって、頭頂の薄さを目立たないように全体的に短くしてくれていた。
それでも自分としては、水泳の後や洗髪後が面倒だし、一番嫌なのは窓を開けて運転するので髪がばさばさになることだ。
私は軽トラがあまり燃費が良くないし、スピードも余りだしていないので、雨の日以外は窓を開けている。
以前髪を長くしていると、時々目に入ったり、顔に触って嫌だった。
そして何より、でかい頭には短髪の方が、農作業でかぶる麦わら帽子がかぶりやすい。

今回、意を決してリサイクルショップで安い電気バリカンを買った。
もうけたと思って早速、自分で刈り上げた。
大変な状態になってしまった。
安いだけあって、長さを調節する器具が甘くて、ひげ剃り状態になってしまったのだ。
左のこめかみのあたりが完全に剃り上がったので、右も同じようにせねばならない。
こめかみあたりは顔か頭か分からない状態になってしまった。
家内が戻ってきて見て、至る所が虎刈り状態だというので、直してくれて頼んだが、修復不能と突き放された。
いっそ、スキンヘッドにしようかというと、いかついから止めた方が良いと言われて諦めた。

確かに丸刈りはでかい顔が強調されるし、暑さ寒さを直に感じさせられる。
しかし、白髪が目立たなくなるので、年齢不詳になってくれる。
白髪はどうしても老けてみられるのである。
最近は若い人でもスキンヘッドの人も多くなったが、金をつぎ込んで薄さや白さを誤魔化すより、そのほうが良いような気もする。
職場では、遠慮してか良いとも悪いとも言われなかったが、場合によって短い方がセクシーだと一般的に言ってくれる人もいた。
ただ、短くすると初対面の人や、公共の場では距離をとられることも事実である。
以前、私の目の前で、わざわざサングラスを外すおじさんもいて、そこまで恐がらなくてもと思った。
だいたい近年はその方面の方は、もっとおしゃれである。

ただ、この自分でやる散髪は、寒い冬にはできない。
やる時はだいたい、上半身裸で洗面所で行うからである。
そうしないと、刈った短い毛が服に付いてとれない。
冬場は我慢して安い散髪屋に行くか、家内にやってもらう。
だから自分にとっては、夏の装いに戻ったと言うことになる。
今度のバリカンはくせ者なので、次は工夫しなくてはいけないが、二回やれば十分元が取れる。
そう言えば職場の上司も、1000円で散髪してきたと自慢していた。
高給取りでさえそれだから、いわんやぺいぺいは、というところだろうか。
それでも近所の人は、殆ど無い髪でも頻繁に散髪に行って人もいる。
これからの散髪は、安く気分転換できるようになれば、もっと利用するのではないかと思う。
流れ作業のようにやられる安い散髪屋さんは、私は苦手である。
プールやスポーツジムで、ちょっとついでに散髪というのが良いのではないだろうか・・・



2014年8月28日木曜日

水道の修理

数日前から風呂場の洗面台の下に水が溜まっていた。
茶色い錆の混じった水だった。
気がついたのが夜だったので、翌朝に家内に見ておくように言って出かけた。
家内は洗面所の水道の止水コックのあたりが漏れているので、タオルを巻いておいたとメールをよこした。
夜に家に戻って、洗面所を見たら水漏れは無いので、翌日にしっかりと見ることにした。
予め休みを取っていたので、水道を見てみようと洗面台の下をのぞいた。
家内が水請けにした容器も漏れた水でいっぱいになっている。
これは根本的に直す必要があると思った。
台の下には扉がついているのだが、その扉が壊れかけている。
壊れかけた扉が修理の邪魔になるので、はずそうと思って持ち上げたら、水が噴き出してきた。
急いで、家の外の水道の止水コックを閉じに行った。

戻ってみると、洗面所の下は池のようになっている。
急いでありったけのタオルで水を拭いた。
よくよく見ると、蛇口につながる止水コックの根元が錆びてとれかかっている。
用具を使って、その部分を取り除いた。
元の栓を閉めたので、水道が全く使えない。
夜勤から戻った息子はシャワーも使えないし、そもそもトイレの水も流せない。
ホームセンターが開くのを待って、急いでとりあえず止水栓とパテを買いに行った。
洗面台の下は、もう板が腐って底が抜けている。
コンクリートの壁から出た水道管に止水栓を取り付けるために、奥の板も邪魔になったので壊した。
何とか止水栓をはめて、パテを巻いた。
外の水道の止水コックを開いても水が漏れてこないので、安心したがこれで洗面台の水道蛇口は使えない。
ただ、温水用の蛇口は使えるので、しばらくはそれのみを使うほかは無い。

家を建てて、20年ほどになる。
引っ越した夏も今年のように、雨がよく続いて米が不作となった。
電気製品は既に壊れて買い換えているが、こうやって水道にも問題が出始めた。
数ヶ月前に洗面台の蛇口の漏れを直したばかりだった。
リフォームといいうのが、他人事では無くなってしまった。
これからは老後を見据えて、リフォームをする必要もあるだろう。
こんなハプニングは山崩れで家を失った人のことを思えば、大したことがない。
ただ、もしものことに備えることは、大小に違いは無いと思う。
壊れることを念頭に、家は建てるものだと言うことに関しては・・・

2014年8月22日金曜日

歌の盆

盆と正月には、葉山にいる弟夫婦を除いて、兄弟家族が集まる。
うちの両親が歌が好きなこともあって、昔はよく皆でカラオケに行った。
それぞれの子供も大きくなったし、小さい甥や姪はゲームの方が好きなのでカラオケには行かなくなった。
それで家でパソコンを使ってのネットカラオケを、好きな者だけでやることが多くなった。
そして初めてギターを持ち込んだ父親の法事の祭に、泊まりがけで集まった時だった。
最近ははフォークギターを必ず用意して、酔いが回るといつも歌い始める。
私の兄弟は男ばかり四人だが全員バンド演奏の経験がある。
全員がフォークギターの簡単な演奏は出来る。
ギターコード付きの歌詞集をめくりながら、二時間以上も歌い続ける。

今年は、座敷のテレビはゲームをつないで、そこで甥や姪は遊び、その隣で歌の好きな者同士が歌い始めた。
兄弟が歌うのは主にフォークソングやニューミュージックなので、老いた母親は歌えない。
それでも、そばで一緒に楽しんでいる。
そこで、アカペラで「里の秋」を兄弟で二部合唱した。
これは母親がよく私ら兄弟に歌って聴かせた曲である。
続いて「花」の二部合唱・・・

指が痛くなると交代して、声がかれるまで皆で歌った。
私は今年買ったハーモニカも、調子ぱずれでもならしたりもした。
今までの法事や以前の盆などは湿っぽい話が多かったが、今回は明るく最後まで歌って終わった。
私がバンドにのめり込んで、大学受験を失敗したことを親はよく怒っていた。
しかし、その歌のおかげで今でも、皆が仲良く一緒に歌える。
そんな高価な料理や酒を用意しなくても、満足できる歌の盆である。

2014年8月6日水曜日

蓮の花咲く散歩道


今年もだいぶ前から近くの池には蓮が咲いている。
私の散歩コースは、幾通りかあるのだが、この季節は蓮の池のそばを通るコースが多い。
咲き始めの頃は、花の数も少なく、少々寂しい。
しかし、今は花びらが散りかけていたり、種ができた実も混じっている。
その中で、池一面に葉が生い茂り、その上で花がいっぱい咲いている。
この様子を極楽浄土の如しと思うのも不思議は無いと思った。

先日も千種に水をくみに行った時は、ちょうど南光町ではひまわり祭りを行っていた。
あたりいっぱいに黄色い花が咲き誇る様子は、あの映画の世界に思えた。
年々規模が大きくなり、多くの人が訪れる。
御津の梅園は年配の人が多いのだが、ひまわり畑は子供連れや若いカップルも多い。
夏の真っ盛りに、華やかで若々しさを感じさせるのがひまわり畑だ。


近所の蓮の池はマニアの人が写真を撮りに来たりするが、大勢の人が見に来るものでは無い。
近所の人が、美しさを褒めながら散歩がてら見に来る程度である。
蓮根もとる人がいるが、栽培目的ではないので自然である。
栽培目的で水田やため池を利用している蓮は農作物という感じだ。
ほとんど管理せず、自然に任せている蓮なのにむしろ気品を感じる。
多くの花が何か媚びた感じがするのに、蓮はそれを感じさせない。
そして、花同様に葉にも優しさを感じる。
水面を隠してしまって、まるで雲海のように生い茂る葉
何の変哲も無いため池を大きなキャン
パスに変えてくれている。
まさしくこの季節の散歩道は画廊なのである。




2014年7月20日日曜日

Two Seaters

今バンド活動しているユニット名はTwo Seatersである。
元々は私とWさんの二人組で、共通点が乗っている車が二人乗りであったことから名付けた。
それに高校文化祭のために、臨時でTさんが加わった。
偶然にも彼も二人乗りの車に乗っていた。
私は軽トラ、WさんはTwinという小型の軽乗用車、Tさんはスポーツタイプの1800ccの乗用車である。
私の場合は子育ても済んだし、農作業用に必要だった。
他の二人は独身で、二人乗りで十分だったのである。

年齢構成は50代半ば、40代半ば、30代始めと幅広い。
私とWさんは親子ほどの差があるので、当然聴いてきた音楽も違った。
Tさんは10歳違うが、聴いてきた音楽はよく似ている。
この3人で、打ち上げと称してカラオケに行ったのだが、歌は世代を超えて楽しませてくれた。
先日もALTのPさんと、一緒に文化祭の演奏を聴いた時に、話が良くあった。
彼は、アメリカのカリフォルニア育ちなのだが、58歳で聴いていた音楽はよく共通していた。
音楽は国境も越えるのだと、改めて感心した。

音楽は初めて聴くものでも、素晴らしければ世代や国籍を超えて共感を与えることができる。
そして、職場の中でもその立場や年齢、生まれ育った環境も超えることができる。
高校文化祭の体育館ステージで演奏した後に、生徒や保護者の方から感想を寄せてもらった。
普段は、授業という形で接することが少ないWさんやTさんも、生徒と親しく関わるきっかけになってくれたのは嬉しい。
私自身も、授業で関わりの生徒からも話しかけられるのは嬉しかった。
残念だったのは、一番聴いてもらいたかった3年生の多くが、バザーの準備で聴いてもらえなかったことだ。
後で何人もの生徒に残念がられた。
そういう人のために、You Tubeでのデビューも考えている。
学校関係者の方以外の人とも、音楽を通じて交流ができればと思っている。

2014年7月16日水曜日

You raise me up

文化祭初日、有志のステージは無事済んだ。
一ヶ月にわたる練習の成果は、それなりに満足のいくものであった。
当初は二人で始めたのだが、もう一人ボーカルが加わって3人となった。
Groban風の曲に2番の歌詞を途中挿入した形になった。
コーラスの部分を二人で歌うことによって厚みもでだと思う。
生徒からの良い評価も聞いて、嬉しかった

毎回そうなのだが、舞台に立つまでは「なんでまたこんなことを背負い込んだんだろう」と思う。
私は去年に引き継いで、二回目なので何とか気持ちが伝わるように演奏したいと思った。
初めてのピアノ伴奏のWさんは、緊張のあまり手が冷たくなり、愚痴っていた。
途中で加わったTさんは、それとは正反対に陽気である。
彼は歌だけということで、普段の練習通りやれる自信はあったようだ。
私は上手くMCができるだろうか、ハーモニカをとちらないか不安だった。

時間は遅れたが、ステージに立つと前に座っている3年生が私の名前を連呼してくれた。
残念ながら、バザーの準備者は退席せざるを得なかったが、残った生徒が応援してくれた。
曲紹介をした後に演奏を始めた。
いつもは歌詞コードを少し見ながら、丁寧に歌うのだが今回はほとんど見られない。
それでも、全体を見渡しながら精一杯歌った。
ハーモニカも目を閉じて、演奏に集中した。
最後のコーラスになると、自分でも足が震えているのが分かった。
あれだけ賑やかに応援してくれた生徒も静かに聴き入ってくれた。
思いの外、大成功だった。
WさんもTさんも、やって良かったと言ってくれた。
苦労に巻き込んでしまった私としては、それを聞いて安心した。

私は高校生からこういうステージを何回か経験している。
練習をして完成度の高い演奏を目指した。
でも、今回は完成度よりも、何とか気持ちが伝わらないか考えた。
いつもより何度も録音して確かめた。
演奏や歌の上手い人はたくさんいる。
聴く人の心に響く演奏ができる人はそういない。
一人でも私たちの演奏を心に受け止めてくれた人がいれば本当に嬉しい。
You raise me up to more than I can be
まさしく私たちの励みになる。
そして、励みになってくれればもっと嬉しい。

追記 もし良ければ聴いてください。Celtic Woman version(カラオケ)

2014年7月13日日曜日

過酷な職場

私の勤務する学校では昨年よりエアコンが普通教室に入った。
設定温度が28度になっており、室温が30度になれば入れることになっている。
各教室で付けたり消したりもできず、温度調節もできず、階毎に事務が調節している。
ところが、窓を閉めてエアコンをかけたらかえって暑くなってしまう。
我慢できなくて、結局窓を開けざるを得ないので、エアコンは役に立たない。
つまり、設定温度28度で窓を閉め切ると全く役に立たないのである。

以前勤めていた学校では、各教室毎で管理されていたが、それも温度管理が難しかった。
エアコンの吹き出し口ではよく効いて寒い位なのだが、遠いところでは暑い。
どおしても暑いところなくすために、温度を下げざるを得なくて寒さを訴える生徒もいた。
これに関しては扇風機を併用させて、ある程度の温度調節はできた。
ただ、エアコンの消し忘れや、勝手に使用するなどの問題もあった。

一番過酷だったのは、特別支援学校だった。
教室が足りなくて、特別教室を普通教室として使っていた。
この場合、北側の教室である場合が多く、夏場はほとんど風が入らない。
隣の校舎からの照り返しなどで、たまらない状態になった。
それでも、服装を短パンとTシャツにすることができたので、何とか乗り切れた。

今の学校では短パンTシャツで授業ができるのは、体育の授業くらいである。
先日、いつもはポロシャツを着るのだが、試しにカッターを着てみた。
授業中にめまいがして倒れそうになってしまった。
十分水分補給ができてなかったようで、自販機でスポーツ飲料を買って乗り切った。
すべての教師が暑さに参っているわけでは無い。
基礎体温の低い人や、階段を使わずにエレベーターで移動する人などは、大丈夫なようだ。
生徒はじっとしているので、暑いと言いながらも何とか耐えられている。
こんな環境でも、事務からは経費削減で我慢を強いられる
温暖化された環境に耐えられない学校施設そのものが、無用の長物のように思える。
いっそ、超クールビズを生徒も教師も実行したらどうだろうか。
実は男子校だった母校は、暑いときはランニングシャツで授業を受けても良かった。
男女共学では難しいかな・・・

2014年7月4日金曜日

山桃

私がつとめている学校の前の歩道には、山桃が植えてある。
ちょうど今はたくさん実がなって、地面に落ちている。
赤色が黒ずんだのを口に入れると、懐かしい味がする。
山桃は小学生の頃に、友達とよく向山(丸山)に行って木に登ってとって食べた。
その頃は、牧場をしている家の同級生が山の上に住んでいた。
その子の家では、山桃をふるい落として家族で集めると言っていた。
自分たちはせいぜい袋に入れて帰るくらいだが、親は山桃が服を汚すのでいやがっていた。

高い木の上に登って食べていると、時間が過ぎるのを忘れた。
すぐ近くの山中に住んでいたおじいさんに、「キツネが出るぞ」と早く帰るように促されたりもした。
通りがかったアベックも、男性がいい格好をして木に登って彼女にとって見せたりもしていた。
今から考えてみれば、その頃は山の中を歩いてデートするアベックもいたのだ。
山桃はアケビと並んで、元気な野生児のご馳走だった。
学校の前の山桃も、以前は取りに来る人もいたが、今は落ちるに任せている。
鳥も一時は食べに来ていたが、今はあまり見かけない。

街路樹に成り下がって、見向きもされない山桃は今の豊かさを象徴している。
春に生えるこの地方ではコッポンといわれるイタドリもそうだし、野いちごもそうだ。
赤とんぼの歌に出てくる、桑の実も山でなりっぱなしである。
クルミのように健康にいいと宣伝されれば、きっと取りに来る人も出てくるだろう。
でも今は自動販売機の飲料水やコンビニのお菓子には勝てないのである。
自分もとって食べている姿を見られるのは、少し気恥ずかしさを感じてしまう。
あれほど仲間で競って奪い合うようにして食べた山桃なのに・・・

2014年6月30日月曜日

河童仲間

今年水泳の県大会も昨日で終わった。
支援学校にいた4年を除き、10年以上前から水泳部の顧問をしてきた。
当時選手だった人が、教師やコーチとして大会に参加している。
同じ招集の役員で、今でも大会記録をもち、かつては日本新記録をだした選手が教師として参加しているのに感慨深いものを感じた。
引率教師も、顔なじみもいて、互いに老けたことを感じさせられる。
以前はいい記録を出して、上の大会に進むことを目標を第一に参加していたと思う。
今でもそれを目標にしていることに変わりは無い。
ただ、この舞台に立てて堂々と泳ぐこと自体が素晴らしいと思えるようになってきた。

生徒数も減る中で、選手の数はかなり増えて、以前行っていた途中の表彰も時間の関係でできないくらいである。
応援席もびっしり、その歓声や応援の声が大きく鳴り響いていた。
さすがに大会記録はそう多くは出なかったが、いい記録はいっぱい出た。
私学に負けないくらいのがんばりをみせる公立校もあって、顧問としても励まされる。
また、上郡のプールで一緒に泳いでいたちびっこが、大活躍しているのも嬉しい。
招集している時にも、自校以外のそういう生徒と話ができて楽しかった。
実際は休日に遠く神戸まで、朝早くから夕方遅くまで出かけていくのは大変だ。
しかし、なぜかこのポートアイランドでの県大会に来ると元気をもらえる。

今日は町ぐるみの健康診断に出かけた。
ふと案内してくれた若い職員を見ると、なじみの顔。
やはり、上郡のプールで泳いでいたちびっ子である。
彼は高校も上郡で泳いでいたので、大きくなるまで知っている。
聞いてみると今年から町の職員になったという。
こうやって、水泳仲間が地元でも活躍してくれると嬉しい。
こういうつながりが持てるから、スポーツはやっていて楽しいのだ

2014年6月15日日曜日

歌の持つ力

私は今夢中で歌の練習をしている。
夜中でも部屋を閉め切って、YouTubeから流れる演奏に沿って、歌詞カードを見ながらギターを弾き、歌っている。
キーは最初E♭、それから転調して半音上がり、もう一度一音転調するので、一番高い音は上のシのフラットでまともな声が出ない。
それでも、練習を重ねるうちに少しずつ、声が出つつあるが、まだ満足いくものでは無い。

今回は文化祭に職員ユニットととして、有志として出演するつもりで練習している。
一緒に演奏するのは、今年から本校に赴任された先生で、部署が同じでピアノの経験者である。
今回の曲は、私が候補に挙げた中で、彼がこれだと決めた曲である。
一応オーディションがあるので、それに向けて半月前程から取り組んだ。
その若いW君は小さい頃からピアノを習っていた、大学時代にはバンドを組んでいたのだが、楽譜が無いと演奏できない。
私は楽譜はほとんど読めなくて、耳コピーをしてギターコードを見ながら演奏する。
最初はほとんどまともに、二人で合わせることが出来なかった。
お互いに自宅での練習を積み重ね、勤務時間もとっくに過ぎ、クラブの練習が終わった後で音楽室を借りて練習をした。
やっと、昨日の金曜日には、そこそこ聴けるようにはなった。

今回は、可能なら前奏や間奏で使いたいと思ったハーモニカを買って練習もしている。
クロマティックハーモニカの手頃なのをネットで購入したのだが、演奏はかなり難しい。
最初の出だしは半音上げたポジションでの前奏で、間奏は半音下げる。
息づかいが反対になるし、一番低い音がなかなか出せない。
本番で使えるかどうか分からないが、少しずつ吹けるようになっているので練習していて楽しい。
ギターも始めは座って演奏していたが、声を出すために立って演奏する練習もし始めた。
コードも転調が二回あるために、なかなか憶えきれないが、徐々に上達している。

夢中になって練習をしているうちに、今まで感じていた憂鬱な気分が無くなっているのに気がついた。
仕事に追われて、自分がやりたいことが出来なくて、腐り気味であったの気持ちに変化が生じた。
好きな歌なら、どんなに忙しくても時間を作って練習する。
人によっては時間が無くて、音楽などやれないと言うが、それはそれ程音楽が好きでは無いのだと思う。
確かに、何度も同じ曲を繰り返し練習をするのは、うんざりする時もあるのだが、徐々に思うような演奏が出来るようになるのが楽しい。
何よりもひとりでやるのでは無くて、音楽が大好きな人と一緒に演奏できるのも楽しい。

今回演奏するのはYou Raise Me Upで、Josh Grobanの演奏を手本にしている。
多くの人がカバーしているこの曲は、Celtic Womanのものを、荒川静香がスケートで用いて有名になった。
「あなたの励ましがあれば、私は強くなれる」という内容の歌なのだが、私はこの歌を演奏することで強くなれるような気がする。
考えてみれば、歌が好きな母親の影響もあって、歌は幼い頃から大好きだった。
歌を忘れた時は、ほんとうに危機的な状態だった。
どんなに辛い職場でも、歌を通して楽しめる仲間が出来た。
私にとって、You raise me upのYouとは歌で有り、その仲間である。

2014年6月12日木曜日

夏の初めのお客さん

今年も風呂に入るのが楽しい季節になった。
風呂の窓で蛾をハンティングするヤモリ君、何度見ても飽きない。
何度も失敗して、右往左往しながら小さな獲物を仕留めている。
今年はちぎれた尻尾が再生しかかっているのが親分で、もう一匹がその隙を狙っている。
時々、窓ガラスが鳴るほど音を立てて、けんかをしている。
その様子を見るだけで、ゆっくりと湯船につかっていられる。

招かざる客も何度か訪れた。
ムカデやネズミだが、特にムカデは下手をするとかまれるので要注意だ。
今日は私が畑から持ち帰ったレタスに付いていたという。
私はつかんでカゴに入れたが、無事で良かった。
家内は洗っていて見つけて、退治したという。
私がいる時は、その役目は私がする。
先日は私が入浴の最中で風呂場だったので、高温シャワーで退治した。

昨夜は、家内が「ちょっと ちょっと」という。
「なんだ」というと、「とにかく来て」と言うので、行ってみると、なんと蛍が米袋の中で光っている。
玄関の隙間から入って、廊下に置いてある30kg入りの米袋の中に入ったらしい。
そのうち出て行くだろうと放っておくと、気がつけば居間のドアのガラスに張り付いて光っている。
わざわざ近くの川まで見に行かなくても、自宅でテレビを見ながら蛍も眺められる。
電気を消して真っ暗にすると、ドアに小さな星のように瞬いた。
朝起きてみると、そのお客さんも帰ってしまっていた。

用事で訪れる近所の人以外に、ほとんどお客さんのない我が家だが、こういう仲間がたびたび訪れる。
以前はカブトムシや、クワガタムシ、時々、コウモリも訪れた。
昼間は当然小鳥で賑わっているけれど、夜の訪問客にも事欠かない。


2014年6月10日火曜日

タマネギの収穫期の淡路

この日曜日(6/8)は、水泳の交流大会があって、引率で南あわじに行くことになった。
実は淡路島に行くのは、花博(2000年)以来だから、14年ぶりということになる。
明石から見えている淡路島を見ながら、行ってみたいと思い続けていた。
いつも二の足を踏んでいたのは、明石大橋の通行料の高さだった。
この4月からETC利用で900円ということになり、気軽に行けることになった。
車で通る明石大橋は二度目だが、他のどの橋よりも圧巻である。
何よりも、明石海峡が漁船で賑わっているのを見るのも、楽しくなる。
神戸淡路鳴門自動車道は山の上を走っているので、海を眺めながら走れて快適である。
用事できているのでなければ、どこかのパーキングで景色を眺めたいくらいである。

南あわじ市は遠かった、自宅から120kmほどある。
会場の温水プールに着いて、車のドアを開けたとたん、タマネギの臭いがした。
ちょうど収穫期で、回りの畑にはいっぱいタマネギが大きくなっ、て葉が折れ曲がって並んでいる。
天気も良いので、日曜なのに農家の人が忙しそうに収穫作業を始めていた。
私はレースが始まる前に、散歩がてら昼の弁当を買いに出かけた。
タマネギは掘り上げるのは機械だが、後はほとんど手作業である。
ひとまとめに括って,コンテナに入れたりして、タマネギ小屋まで運んでいく。
じっくり腰を下ろして作業をしているのだが、ほとんどの人が中高年で、若い人は滅多に見ない。
特に若い女性を見かけることがないので、何となく寂しい感じがした。
また、有機農業を手がけている私には、草一本生えていない畑には違和感を感じた。
マルチを使わず草が生えていないのは、除草剤を使っている可能性が高いからである。

レースが進んで、昼休みとなった。
私は時間の合間に昼食は済ませていたので、もう一度散歩に出ることにした。
どうも地形が気になっていたからである。
地理の授業を担当しているせいか、どうしてもそちらに関心が向いてしまう。
洲本川があって、その周りに平地があるのだが、もう一段上にも平地がある。
まさしく河岸段丘のようなのだが、一段上の平地は上がってみると、結構広い。
開拓事業によって広げられたのかもしれないが、寺や神社はそういうところに建てられているので、年代は古いようだ。
一段上の平地からは、遠く海まで見える。
洲本高校側の段丘に行くと、もっと広々として、海からの風がさわやかに通っていた。
午後12時過ぎなのだが、それほど暑くもなく散歩できた。

レースが終わって、帰宅する頃には夕方の日差しに回りは赤く染まっている。
明石大橋は今度は西側を見渡したのだが、瀬戸内海はこんなに広大であったのかと感じた。
児島坂出ルートの橋では島がたくさん見えたし、狭い感じがしていたからである。
橋から眺めるパノラマは、一時旅の気分を味合わせてくれた。
兵庫県はいろんな顔を持っているとつくづく思う。
もっと、その魅力をアピールして観光客を呼び込んでほしいと思う。
昼間見た入浴観光施設はお客さんがまばらだったからである。

2014年6月1日日曜日

蛍で賑わう川

今年の蛍はどうか気になって、近くの小川に出かけてみた。
真っ暗な橋の方で人声がする。
近所の老夫婦と若い孫娘が蛍を眺めにやってきていたのだ。
促されて、橋の上から葦の茂った方を見ると。
蛍が乱舞している。
いつも、この風景を写真やビデオで残したいと思うのだが、そんな技術は持ち合わせていない。
他の地域のように蛍祭りを行って、皆で賑やかに眺めるのも良いのだが、知り合い同士で、今年の品評をするのも良い。

その近所のご主人に寄れば、灯りが多くなって蛍が減ったという。
ご夫婦の家はまさに川のそばになるのだが、防犯のため設置された街灯のために、蛍が減ったという。
言われてみれば、以前にはその街灯は無かった。
そもそも、街灯の光だけで、蛍の光は打ち消されてしまっていた。
若い人が村から出て行ったり、年配の人などが亡くなって時との数は減るのに、街灯は増えた。
蛍を見て大喜びする、子供たちはめっきり減ってしまった。
そう言えば、今日は校区の運動会であったのだが、児童数も減ってしまったと聞く。
皮肉なもので、村が寂れていって、蛍の数は増えていったようだ。
亡くなった方の魂だとすれば、納得のいくことなのだけれど。

視線を夜空に向けると、星はかすんでいる。
近所のご主人は地上の灯りで、天の川が見えないという。
私は「PM 2.5もとんでいるからね」というと
ご婦人と若い孫娘が笑った。
そのPM2.5をブロックする太平洋高気圧が張り出して、満天の星が輝く頃には、蛍の季節も終わっているだろう。
地上の星と空の星を両方眺められる日は、この季節でもきっとあると思うけれど・・・


2014年5月30日金曜日

懐かしい再会と驚きの再見

前任校は特別支援学校で、普通校に代わった今ではそこで出会った先生や生徒に出会う機会はほとんど無かった。
ところが、たまたま仕事上の会議で。同じ学年の先生と1年ぶりに出会うことが出来た。
一番気にかかっていたのはやはり、担任していた生徒の卒業後の様子である。
担任した生徒が施設や作業所、職場で頑張っているのを聞いて安心した。
ただ、卒業後を心配した生徒はやはり上手くいっていない様子だった。
私は前任校の先生とほとんど連絡を取っていないので、胸のつかえが取れた感じがした。
二つの学校に別れて、随分変わった様子だった。

夕方、テレビを見ていて驚いた。
なんと、前任校で校長をしていた人が、記者会見をしていた。
立場は市の教育長であった。
その先生が退職後に勤めていた庁舎で会議が有り、先ほど噂をしたばかりだった。
今年から勤め始めた市の教育現場で大きな問題が生じたようだった。
前任校でも学校分割という重責を果たし、今回はそれ以上に大変な場面である。
1年ぶりに見かけた場面がテレビで、それも悪い状況なので懐かしさは吹っ飛んでしまった。
責任を担う人は、どこへ行っても休まることが出来ないのかと、気の毒にも思い、敬服した。





2014年5月17日土曜日

野獣死す

高校時代の一つ上の先輩のN氏の訃報を聞いた。
脳梗塞で一度倒れて、二度目で結局旅立ってしまった。
彼は高校ではサッカー部のキャプテンもし、突出した風格を持っていた。
前歯は試合で蹴られて折れて、そのままにしていた。
遊びも大好きで、やばいことをして小遣いを稼ぎ、それで授業料を稼いだと自慢していた。
一つ上の先輩の中では一番目立つ存在でもあった。

その先輩は彼が高3の時に、文化祭で一緒のバンドを組んで、ドラムを叩いてくれた。
とにかく、サッカーをやっているので、蹴りが強くてバスドラがよく動いてしまった。
あまり音楽に触れていなかったので、リズムはよく狂ったが力強さは魅力だった。

彼は、私も夢見た北大の農学部の獣医学科に合格した。
訃報で以外に、獣医としてどのように暮らしていたかは伝わってこなかった。
しかし、高校時代の彼の行動から、豪放な生活をしていたことが想像できた。
前歯が折れても無頓着でいた彼のことだから、健康にあまり留意しなかったのだろう。
よく働き、よく飲み、よく食べて、よく遊んだであろうことは間違いない。

高校時代の文化祭のステージでやった曲の中で、彼が一番気に入っていたのは、漫画ギャートルズのエンディングの曲であった。
「なんにもない なんにもない 全く何にもない 生まれた生まれた 星が生まれた・・・」
このシンプルな曲を、彼の希望もあって敢えて使った。
私はビートルズのHeltere Skelterが一番歌っていて興奮したが、野蛮に見えた彼の方は静かな曲が好きだった。
野獣のように闘った彼は、心優しい人でもあった。
きっと、広い宇宙のどこかの星になって、前歯の抜けた顔をしてにやっと笑っているだろう。

ネズミ騒動

一週間ほど前に、我が家に大きなクマネズミが進入した。
居間で夜テレビを見ていると、かさかさと音がする。
ふと、棚の上に目をやると、体長20cmほどの茶色の大ネズミ、一瞬目を疑った。
ネズミも動きを止めたが、こちらに悟られたのがわかったのか、おいている箱などの隙間に隠れた。
置いているものをどけて、捕まえると大騒ぎになるのでしばらく様子を見た。
すると、カーテンレールを伝っているのが分かったので、粘着性のねずみ取りを通り道に仕掛けた。

翌朝、ネズミはかかってはいなかった。
そこで、テレビの裏側が、一番物陰になって潜みそうなのでそちらに仕掛け直した。
その翌朝、居間に入ってみると、「チュー チュー」と鳴き声がする。
しかし、明らかにか細くて高い声、ハツカネズミである。
クマネズミを捕るつもりが、ハツカネズミがかかってしまった。
ほかにも侵入者がいたことで、また別の不安も生じた。
鳴き声を聞きながら、朝食をとるのはあまり気持ちのいいものではなかった。
クマネズミの方は、別の座敷の部屋でタンスの上を走り抜けるのを発見した。
ますます不安が増す、服を食い破って巣を作るかのせいがあるからだ。

どうしたらいいものか、思案しながらねずみ取りを増やそうと考えていた矢先の夜。
なんと、クマネズミは食器棚の中にいるではないか。
真ん中で仕切っている食器棚の右側に這い込んだので、片方にガラス戸を寄せて出られなくなるように粘着テープで封をした。
これくらいのテープは食い破られると思ったので、上からちょうどいい寸法のアルミの物差しがあったので、それに補強した。
こうすれば、ネズミは何日か後に飢え死にすると安心した。

翌朝、ハツカネズミが掛かったまま放っておいたねずみ取りが妙である。
なんと、でかいクマネズミが掛かっている。
もう一匹いたのかと、とりあえず散歩に出かけた。
戻って来て、家内に掛かっていることを告げると、戸棚から逃げて掛かったのだという。まさかと思って、戸棚を見ると見事に隙間を空けている。
もっと、しっかり貼り付ければよかったのである。
しかし、せっかく脱出できたのに、ねずみ取りに掛かるとは運の悪いやつだと思った。
火箸と肥料袋を用意してきて、まだ動いているネズミを仕掛けまま入れて、結束バンドで封をした。
本当は、掛かったままゴミに出しておかなかったことを、前日に家内に文句を言ったのだった。
捨てなかったのがかえって、いい結果を招いた。
これで、やっと平和な日常が戻って来た。
しかし、小者はまだいる可能性は十分ある。
家内はまた新しい仕掛けを買ってきた。

2014年5月11日日曜日

好きは上手の元

教えてもらう人によって、成績や特技が伸びたり、伸びなかったりする。
特に私は、その傾向が強くて、この歳になってもそれが続いているようだ。
40過ぎて教えてもらった水泳も、コーチを気に入ったので頑張れた。
そのコーチは30代の男性で、人の気持ちを汲むのが上手だった。
小学校の時も、好きな担任の先生の時には成績も伸びたが、嫌な担任の時にはわざと学校を休んで悪かった。
中学校の時には、好きな数学の教師の時には学年で一番の点数を採れたが、高校になって嫌いな教師の時に理系から文系に変わった。
絵も小学校から習いに行った先生も好きで画家になりたいと思ったが、中学校の美術の先生が嫌いで絵は描かなくなった。
教師になった多くの人は、好きな教師に憧れてなっている人も多い。

ということは教師である自分も、生徒から嫌われると教えている科目も嫌われるし、好かれれば好きになってもらえると言うことである。
ただ、好きになってもらう努力をしても、空回りすることもあるし、逆に嫌われたりもする。
自然に振る舞いながら、生徒から好かれるのはなかなか難しい。
ただ、恋愛と違って、年齢はあまり関係ないようだ。
どこの学校へ行っても、年配の先生で生徒から大変慕われている人がいる。
逆に若くて美人なのに、生徒と上手くいかない人もいる。
教師としては、教える人と関係なく勉強やスポーツをがんばって欲しいと思うが、それは言い訳なのかもしれない。
容貌や年齢に関係なく、生徒にとって魅力ある教師を目指さなくてはいけないのだろう。

ある先生は、中学校も行けず、高校も全日制は中退して、通信制を卒業したという。
ただ、全日制の担任の先生がすごく良くて、憧れて頑張り、国立の教育大に見事合格した。
その担任の先生がいたから、教師を目指したという。
不登校の生徒も、関わる教師によって、教師にさえできることを証明している。
残念ながら自分が担任した生徒は教師になっていないので、教師としての魅力に欠けるのかもしれない。
それでも、教えている歴史が好きで、そのコースに進んだ生徒や、今も進もうとしている生徒がいるのは少しは救いである。
ただ、この道はなかなか食っていけないぞと、言い続けてはいる。
何でも良いから自分で学ぼうとする姿勢が少しでも育ってくれたら、私は それだけで嬉しい。




2014年5月7日水曜日

思考は休みに作られる

この五月の四連休は、ほとんど農作業に明け暮れた。
毎年、夏物の野菜の植え付けに追われるのだが、それでも一日くらいはレジャーを行った。
四月に家内が入院したこともあって、農作業が手つかずにいたので、そのつけがこの連休にまわった。
去年までは家内と二人で作業が出来たが、今年はほぼ一人でしなくてはならない。
そうなると、一人でもやれるように工夫をする。
例えばマルチを使うのは以前は控えていたが、活用せねばならなくなる。
一人で設置する時も、うまく土をかけながら作業して、以前よりも手際よく出来るようになった。
ジョギングで鍛えているせいか、農作業そのものもそう苦痛ではなくなった。

出かける予定が無いと、時間の余裕が出来て、今までしていなかったことも出来た。
例えば、今年からニンニクの芽を摘んで食べ始めた。
畑の横に生えている、蕗を摘んできた。
今日は山に登って、馬酔木を採るついでに、ワラビも採ってきた。
当然一日中農作業というのではなくて、買い物にも出かける。
それも遠くには出かけられないので、姫路とか備前とかである。
初日は千種まで水くみに行った。
それらは、普段の週末にもやっていることで、四連休ならではのことは無い。

取り立てて何も無かった連休だが、ふと振り返ると気持ちが変わっている。
年度末から年度始めと慌ただしく、仕事や雑用に追われて考える余裕など無かった。
この連休も、夜になると疲れて眠ってしまうことの方が多かった。
最終日の午後はさすがに、虚しく感じることもあったが、こうして夜になると、不思議とすがすがしい。
間延びした連休の時間のおかげで、気持ちの余裕が出来たのかもしれない。

子供の頃は夜に、体が成長した。
女性は夜にお肌が作られるという。
運動や、勉強も夜の過ごし方が大切である。
それと同じように、忙しく過ごす毎日に必要なのはこういう休日だと思う。
本当は旅行にでも出かけて、大きく気分転換できれば良いのだろう。
得てして、休みにはクラブの練習とか、受験勉強とか普段以上に求められることもある。
近年は宿題などを出すように、保護者から求められたりもする。
確かに夏休みなどの長い休日もあるのだが、五月のこの連休はそれとは大きく違う。
年度替わりや、季節などの環境の変化に、対応するための調整期間となる。
だから、ゆっくりと過ごせる時間も必要に思える。
気持ちの余裕が出来たところで、これからどう仕事や、勉強や運動をしようかと考えることが出来る。
私にとっても、もやもやしていた思考が、不思議と何となく晴れた良い休みとなった。



2014年5月4日日曜日

自家製豆乳

毎年黒大豆を栽培して、枝豆以外の食べ方としては、甘い煮豆か酢大豆しか無かった。
煮豆は糖分が多いので、正月以外にはほとんど食べない。
枝豆にしても、酢大豆にしても、食べ過ぎると酷い便秘になって苦しんだことがあるので、ほどほどにしなくてはいけない。
何とか消費したかったので、たまにご飯に混ぜて炊いてもらったりしたが、結局去年は余らせた。

以前から、自家製の豆乳を作る電気製品があることは知っていた。

手間をかけて、普通のミキサーで作る方法もあるが、めんどくさくてしなかった。
そこで、少々値が張るが(約8000円)、毎日でも手軽にできる豆乳製造器をネットで買った。
初めて作った時は、豆が十分に粉砕されていなくて、薄い豆乳になった。
そこで水に浸す時間をしっかりかけてやると、濃いい豆乳ができた。
黒大豆なので、灰色がかって見た目は良くないが、癖の少ないおいしい豆乳になった。
冷蔵庫に保存すれば数日は持つので、毎日作る必要は無い。
何よりもおからがおいしい。
市販のおからは、成分を絞りきってまさしく残り糟という感じだが、幾分成分が残っていておいしい。
今流行のおからダイエットではないが、色んなものに混ぜて食べることもできる。

豆乳と言えば子供の頃に、豆腐屋の豆乳を体に良いからと飲まされた。
当時の豆乳は臭いが強くて、無理矢理飲まされているという感じだった。
それが大学生の頃、スジャータの豆乳に出会って、牛乳代わりにおいしく飲んでいた。
調製豆乳も出てきて、飲みやすくなったが、私は何も加えていない豆乳の方が好きである。
牛乳は知識として、日本人には消化できない糖質があることも知っていたし、脂肪分が気になった。
前任校では給食の牛乳は飲まずに持って帰ると、息子が飲んでくれた。
ただし、ヨーグルトは毎日食べている。
以前から、中国では豆乳を家庭で作ってよく飲んでいるということを知り、日本人もその習慣ができれば、もっと健康になるように思っていた。

大豆は枝豆、煮豆や豆腐以外にあまり食べられていない。
近年では家畜の飼料のような扱いもされる。
家庭栽培では米や麦よりも簡単だし、米麦同様長く保存できる。
炊飯器同様に、どの家庭でも豆乳製造器が普及すれば、大豆の消費も上がるだろう。
そうなれば、無理して外国がら飼料を買って牛を多く飼う必要が少しでも減る。
そもそも、省エネにできているアジア人の体質に合っているような気がするのである。
日本人は食事の欧米化によって、多くの生活習慣病を生じるようになった。
そもそも、大豆は豆腐を加工して、色んな食べ方がなされてきた。
あげ、がんもどき、高野豆腐以外にも、精進料理にいたっては何でもありである。
アジアに食料革命をもたらした大豆を、もう一度見直すべきだろう。
学校給食にも、是非豆乳を用いて欲しいと思うのだが・・・



2014年4月26日土曜日

朝ジョグの再開

冬場は夜明けが遅くて、目覚めが遅かった。
この頃は、日が開けるのが早くなって、5時半には目覚める。
ジョギングの用意をして、走り始めてしばらくすると、陽が昇り、やがて6時を知らせるお寺の鐘が鳴る。
このところ、家内が入院したり、仕事が忙しくて2週間程ジョギングできていなかった。
そうすると、背中や腰が凝って辛くなってしまっていた。
運動不足であると思い、ジョギングを再開した。
朝補習のある木曜日などは、5時に起きて外に出た。
冬眠から目覚めたかのごとく、多くの人が散歩を楽しんでいる。
おそらく、真昼よりもたくさんの人が歩いているのだろうと思う。

実は私は高校生の頃からも朝型人間で、勉強するのも早朝が多かった。
たまに定期考査中など、朝起きて勉強しようと思い、結局起きられず、そのまま学校に行ったこともあった。
たまには、家の近くの唐船まで朝早く走ってくることもあった。
年をとったから朝早く起きるようになったわけでは無い。

冬場は夕方に、夕陽を見ながらのジョギングも確かに気持ちいい。
それ以上に、朝日を浴びながらのジョギングも、すがすがしいものである。
「早起きは三文の得」とは、この快適さを言うのだろう。
そして、慌ただしく過ごす一日は、この時間のおかげで潤いを与えられる。
ジョギングをせずに、仕事だけで一日を過ごし眠ってしまうと、空しさを感じる。
30分のジョギング、その前後の歩きの30分、合計一時間でのおかげで、心身ともリフレッシュできる。

歩くだけでも確かに良いのだが、ジョギングによって体を揺さぶられるせいか、背中の筋や筋肉がほぐれるような気もする。
走る前のストレッチも良いのだと思っている。
一番良いのは、歩いている時は色々と思い巡らすが、走っている時はあまり考えない。
景色を見ながら、無理の無いように、それでいて時間を気にしながら走る。
自分より明らかに若い人が歩いていると、「どうだ俺の方が若いぞ」と、密かに思えるのも良い。
逆に自分より年配の人に追い抜かれたりすると、まだまだこれからがんばるぞと思う。
仕事もがんばれて、食事やお酒がおいしくいただけるのも、このジョギングのおかげだと思っている。



2014年4月20日日曜日

急旋回の怖さ

先日来、韓国のフェリー事故で多くの修学旅行の生徒が、安息不明となっていることが報道されている。
このフェリーは、日本で就航していた時の船の名前は「波之上丸」
私が奄美諸島の与路島に村落調査に行く際に、何度か利用した船である。
初めて奄美に行った時の船が、 3000トンほどで波が高く、立って歩くのにも苦労した。
それが、倍以上の大きさを誇るこの船が、簡単に沈没するなど今でも想像できない。
どちらかというと、揺れが緩やかなので、港に降りてもその揺れが続いている感じがしたのを憶えている。

私は修学旅行で飛行機を何度か利用したが、その度に「もしも」を想像した。
この1月に飛行機で、北海道への修学旅行に出かけたが、その時もそうだった。
以前の学校で、グァム島へ修学旅行へ行った帰りに、飛行機が落雷に遭って機内に焦げくさい臭いがした時は驚いた。
飛行機が落雷に遭った程度では墜落しないことは分かったが、揺れも酷くて不安に駆られた。
つい一月前程にもマレーシア航空機が消息不明にもなっている。
絶対安全というのは飛行機にも無い。
もし、韓国のこの学校の消息不明者が全員亡くなったとしたら、この学年はどうなるのだろうと思ったりする。
残された生徒も職員も、心に深い傷を負うだろう。

原因は3等航海士の急旋回によって、荷崩れを起こしたのでは無いかと言うことである。
そして、「波之上丸」の上部に船室を拡張して、重心を高くしていたことも、影響した可能性があるという。
しかも、遭難時における対応のまずさや、船長らの無責任さによって被害を大きくした。
やるせない気持ちになるのは、助かった引率の教頭が、呵責の念から自殺したことである。
生徒を助ける行為から、逃げ遅れた教師と自分との違いに耐えきれなかったのだろう。
はたして、自分がその場にいて、命の危険を顧みず対応できたか自信は無い。

この事故の真の責任者は、誰なのだろうか。
急旋回した3等航海士だろうか
事故の対応をしっかりしなかった船長だろうか
船を改造してリスクを生じさせ、人員の配置をしっかりしなかった船会社だろうか
おそらく全てであろう、これらの悪条件がそろってしまったから、史上最悪と言われる事故が起こった。

これはこの韓国の当事者を笑えない。
日本の今の右への急旋回は、転覆の危機を生じさせてはいないのか。
日本内部できしみを起こして、崩壊の危機をもたらすのでは無いのか。
そして、もしそうなれば多くの庶民が行き場を失う。
そんな不安を駆り立てる、事故でもあった。



2014年4月12日土曜日

遠くの自慢の子より、近くの不出来な子

親は子供が努力して、良い大学へ進み、良い就職ができるよう願い支援する。
子供もそれに応えるべく、受験勉強に励み、就職活動をする。
ところが、田舎では結局、親のそばにいるのは、それがうまくいかなかった子供である。
私もその一人である。
東京の大学院にまで進み、結局挫折して地元に帰って教師になった。
一つ下の弟は、良い大学に入り東京の企業に就職した。
当然、親は弟が自慢で、一時は家を弟に継がせようとした。
しかし、弟には地元に帰る意識などなかった。
そして、親の面倒を少しでも見られているのは、できの悪い私と、似たような末の弟である。

今回、家内の入院に際しても、大学院に進学した娘は帰って来れなかった。
大学を中退して、家にいて福祉関係の仕事に就いている息子は、家事をがんばってくれている。
施設のつとめで身につけた、食器洗いや、洗濯物を干したり取り入れをこなしてくれている。
私と息子の二人で、何とか家事をやっている。
私の学生時代だったら、娘と息子は逆の関係だっただろう。
娘を遠くの大学に行かせることなどあまり考えられなかったからだ。
もう少し昔だったら、長男は家を継ぎ、弟が遺産代わりに進学させられた。
今は男女も長男も関係なく、一人で生きていけるために教育を受けさせる。
継がせるべく家業も財産もないからである。
学校では自己実現と掲げて、良い大学へ良い企業へと生徒を送り込む。
そして、親は取り残されるか、それがうまくいかなかった子供と暮らす。

人は狩猟生活から、農業を行うようになっても、家族や親戚、地域の人と互いに助け合いながら暮らしてきた。
一部の群れをなす動物を除いて、多くの動物は子供は成長すると親から離れていく、それと人も同じになったように思う。
国家と企業が戦略上、都合の良い人材を確保するために、厚生福祉政策を行いそういう社会を築きあげた。
最近のニュースで将来に一人暮らしの数の割合が25%を超えると言っていたが、それを仕組んだのが何かを報道していなかった。
夕方、買い物行くと年配の男性の姿が多いのに改めて気がついた。
おそらく、こんな田舎でも一人暮らしの男性だけでなく、女性も多いのだろう。
一人で夕食をとる寂しさを想像してしまう。
国家が福祉政策で老後の面倒を見てくれても、孤独をいやしてはくれない。
家内が入院して、老後の一人暮らしを垣間見た今の実感である。
そういえば、親元の隣に住んでいた祖母が「偉くなんかならなくて良い」とよく言っていた。
それは単に僻みや嫉みではなかったのだなと最近つくづく思う。
だから、生徒にも「そんなに偉くならなくて良いのだよ」言いたいのだが・・・

2014年4月8日火曜日

寄り添うということ

家内が今日から入院した。予定では二週間の滞在だ。
家内が家を空けるのは、子供が入院した時以来である。
私は仕事や研究調査で家を空けることはたまにあったし、3年前には2週間入院した。
下宿の経験の無い家内にとって、一人で外泊するのはほとんど初めてのことである。
手術への不安も大きいだろうが、心細いだろうなと気にかかる。

いつもの場所に家内がいないというのは、寂しいと言うより、帰りが遅いなと言う感じである。
というのも、仕事の関係で家内が私より遅く帰ってくることがままあった。
先に飲んで眠ってしまうこともあって、起こされることがしばしばあった。
今日は起きているのに、当たり前のことだが、いっこうに帰ってこない。
メールが来たので、返事を書いたが、気になって電話した。
電話は会話が長く続かない。
家内とは昔から長電話したことが無いのである。
こたつに入ってテレビを見ながらやドライブだと、たわいも無いことをずっと話し続けるのに・・・
病室は大部屋で、喋ることはなるべく控えねばならなかった。
これから毎日見舞いに行くにしても、家に帰ってからは、「ああ、今日も帰ってこないのか」と思い続けなくてはならないのだろう。





2014年4月4日金曜日

先日の日曜日、姫路に行った。
20年程前に勤めていた学校の友人たちと会う、毎年一度の恒例の同窓会のためである。
昨年まで姫路に勤めていたが、姫路駅を利用するのは、学校行事で出かける時だけで、年に数度だけであった。
姫路駅やその周辺が改築工事でどんどん変わっていくのは、利用する度に分かっていた。
完成した姿を見たのは初めてであった。
なにせ今の職場に移ってから、鉄道を利用したのは約一年ぶりだったからだ。
その完成された駅と駅周辺に、姫路のイメージの変貌を感じた。

私は、幼い頃から親に連れられていく、楽しい場所は姫路だった。
動物園、駅ビル、サラリーマンスタンド、ヤマトヤシキ等々・・・
父親は「バス乗って、電車乗って、姫路行こう」と自作の歌を子供に歌った。
私は中学受験で一人で通い出し、中学校から6年間通った。
駅は、駅そばの臭いの漂う、雑然とした場所だったが、一時間に一本しか無い電車を待つのに長くいる場所だった。
憧れの女性に会えるのもホームであり、同じ席に座る期待のときめきがある場所でもあった。

大学に行ってからは、帰省して乗り換えで降り立つのも姫路駅で、ホームから揖保乃糸のネオンを見て、帰ってきたなと思った。
通勤が自家用車になり、年に数度しか利用する機会が無くなったが、それでも待ち合わせる場所が駅中央だったりしたので、思い出深い
いつしかホームが高架になり、いつもの7番ホームは無くなった。
そして、50年あまりの多くの思い出が詰まった駅やその周辺が消え去った。
城は修復して原型を留めるけれど、駅は便利さと美しさを求めて変貌する。
東京駅のように歴史的な建築価値が無くても、時代に耐える継続性というコンセプトも欲しいと思った。

姫路からの帰りに、家内の車での迎えを待つのに利用した駅は有年駅だった。
連絡が遅くて、長い時間をそこで過ごすことになったので、駅周辺を眺めていた。
この駅の説明文には「明治23年以来の面影を残す駅」とあった。
その駅の前には新しい駅の完成図が掲げられていた。
気がつけば北側に新しいホームができていた。
この駅舎や、歩けば音のする陸橋ともお別れなのである。
ここも時代を変えてしまうのだなと思った。

2014年4月1日火曜日

輝やきながら、さようなら

彼女は、けなげにお手製のクッキーを、赤いハートマークの絵柄のはいったすてきな袋に包んで、お世話になった先生の机に配って歩いた。
春休みで職員室にいる先生は多くなかったが、手渡しできる先生には「ありがとうございました」とお礼の挨拶をして回った。
二年生の終わる3月31日で学校を離れる、私が担任している女子生徒である。
その姿がいじらしくて、涙が止まらなかった。
決して、きれい事で済むような一年間では無かったけれど・・・

彼女はフルートが上手で、吹奏楽部のステージ演奏では、輝いて見えた。
それと同じくらい、今日の彼女は輝いて見えた。
明るい笑顔で去って行く生徒を見送りながら、気持ちのやりどころは無かった。



2014年3月31日月曜日

久しぶりのこうちゃん

先日、たまたま姫路に行くのに利用した駅で、前任校で担任したことのあるこうちゃんに再会した。
介助の人と一緒に、ホームにベンチに座っているこうちゃんに、懐かしくて話しかけた。
こうちゃんはよく発作を起こすので、ヘッドギアーを付けている。
電車が大好きで、電車の絵のカードを見て、有名な列車を言い当てた。
本物を見たり、乗ったりするのも大好きで、今日も一駅だけ乗って戻り、その後マクドナルドで昼食をとるという。
こうちゃんに「先生の名前は?」とたずねる
答えられないので、
私から「い」というと彼は「い」
「し」というと「し」
次は自分で「ら」と続けてくれた。
以前から彼は、「いしはら」とは言えずに、「いはら」となってしまっていた。
覚えてくれていて、嬉しかった。
介助の人とこうちゃんの高等部での様子を話をした。
 乗り込んだ電車は赤と緑のツートンで、その電車もお気に入り、一番先頭の車両で、人が多くて立ったまま話をした。
 たった一駅はあっという間に時間が過ぎてしまった。

出かける前は雨が降っていたので、億劫な感じがしたが、こうちゃんに一年ぶりに会えたので、これだけでも気持ちが晴れた。
姫路では、以前勤めていた学校の仲間と一年に一度の同窓会だった。
こちらはそれぞれの職場の、世知辛い状況報告のようになった。
帰りは家内に家の近くの駅まで迎えに来てもらったが、その時にこうちゃんのことを思い出して
「ブン ブン ブーン 蜂が刺す チクッ」と歌った。
実は、こうちゃんは人差し指を立てて振りながら、 「ブン ブン ブーン」とよく歌った。
そこで私は 「ブン ブン ブーン 蜂が刺す チクッ」とこうちゃんのほっぺをつついた。
本当は 「ブン ブン ブーン 蜂が飛ぶ」なのだが、静かにしなくてはいけない時にするので、少々懲らしめの意味もあった。

こうちゃんは障害が重くて、トイレに行く時にもいつも付き添わなくてはいけなかった。
わがままを言ったり、わざと悪戯をすることもあったが、何故か憎めなかった。
彼の担任になる教師はいつも大変苦労したが、皆彼のファンになった。
実は、私は去年一年間、一度も電車に乗っていなかった。
一年に一度の電車の利用で、こうちゃんに再会するとは奇跡だった。
こういうことがあると、ファンの一人としては神様がいると思いたくなる。



2014年3月22日土曜日

クラス解散会

私は前任校の特別支援学校以来、ここ5年間担任をし続けてきた。
授業形態も内容も大きく違う学校で共通して心がけたことは、家族的な雰囲気にクラスがなることだった。
だから、少々の言葉使いのまずさも大目に見てきた。
それは、親に対してずっと敬語で接する子供がいないのと同じだと思っていた。
確かに教師は社会に出た時に身につけなければならない、言葉遣いや礼儀作法を教えねばならない。
しかし、生徒はそこのところは、分かっていて卒業してから出会うときちっとできている。

管理職になったある教師は、「教師は役人だ」と言った。
私は常々、「教師は職人だ」と思ってきた。
確かに、明治以前の寺小屋や塾の先生と、それ以降の学校の先生とは大きく違う。
ただ、役人的な教師が犯した間違いで、戦時中いかに多くの教え子が死んでいったかをずっと語り継がれたはずだ。
いつの間にか、文部省対日教組というような図式に置き換えられてしまった。
しかし、職人である教師は組織を超えて、自分の信念と力量で教育ができると私は思い続けてきた。

残念ながら私はクラスの生徒とはうまくやれても、教員組織とはあまりうまくやれなかった。
前任校などでは高等部の副部長という立場でもあったが、組織をうまくまとめることはできなかった。
今は役職はついていないが、組織の流れにうまくなじめないことをよく感じている。
だから、クラスの生徒には「私の指導が悪いので、来年度は担任はクビだろう」といってきた。
これはクラスの単語テストなどの合格者が少ない事への、生徒に対する叱咤の意味を込めて言った。
実のところは、自分の不適応の本音だった。
そして、クラス全員が英単語テストで合格したら、家でとれたサツマイモをご馳走すると、黒板の上にサツマイモを飾っておいた。
生徒たちは「イモパ(サツマイモパーティー)やろう」と言い続けたが、結局最後までできなかった。
仕方ないので、終業式の日のLHR終了後に解散会をすることにした。

学級の何人かが、歌を歌ってくれた。
学級委員長などは、黒板の上に飾っていたイモをマイクに見立てて踊りながら歌ってくれた。
私は包みの裏に「From Kiyo With Love」と書いた、キットカットをご馳走した。
そして、選曲に困ったけど、前日書いてもらった作文に、「先生のB'zが聞きたかった」というのがあったの思い出した。
「いつかのメリークリスマス」を歌った。

そして、最後は皆で「ultra soul」で盛り上がった。
皆で記念写真を撮る前に、二学期の委員長が代表して色紙を渡してくれた。
その色紙を持って写真を皆で撮った。
後で読んだ色紙にはお礼の言葉などや、来年もよろしくという言葉が書いてあった。
中でも、いつも叱っていたある生徒が「先生にはお世話になりすぎました」とあった。
そのウィットに富んだ言葉を同僚の教師に見せると感心された。
私は「これは、もうこれ以上必要ないと言うことやろね」と苦笑した。

「今回の解散会のような楽しくて、心温まる機会があると教師になって良かったと思う。
自分は良い生徒たちに恵まれている。
ただ、教師になって8割方は失敗したと思っている。」
と色紙を見ながら隣の若い先生に呟いた。

「いつまでも、手をつないでいられると 思っていた」 

組織にうまく適応できない老教師の心のつぶやきがもう一方であった。





2014年3月15日土曜日

早春の鳥たち

口笛を吹いたら、鳥がやってくるというようなメルヘンチックな場面なら良いのだけれど、簡単に呼び寄せる方法がある。
この季節に、畑で耕耘機を使えば良いのである。
先週の週末には、冬の間放っておいた畑を、小型耕耘機で耕した。
すると、地中の虫を食べる小鳥が色々と寄ってくる。
小鳥に関しては、大目に見ているのだが、カラスだけは例外である。
いつも作物を荒らすカラスは追っ払う。
小鳥たちの様子を見ながら畑を耕すのも楽しいものである。

そして、毎年うちの庭で繰り広げられる、赤い実の争奪戦。
うちの庭には、柊南天、紅白の南天、先祖返りしたバラの赤い実がなる。
それらは真冬にはあまり見向きもされないが、この季節には主にヒヨドリがやってきて食べてしまう。
一番人気なのは柊南天の実だが、葉っぱが尖っていたそうなのに、まるで急降下爆撃機のように、木の中に突撃して食べていく。
困るのはあたりに糞をまき散らして、おいていくことである。
近くに置いてある車の窓ガラスに付くとやっかいである。
本当に見事に平らげていって、一つも残らない。

ここまでは我慢するのであるが、我慢できないのは梅の花を食べる雀である。
毎年、梅の花を食べて実が少なくなるので、ネットをかけたり、百円ショップのカラスを使ってみたりした。
ネットは確かに良いのだが、後で外すのがやっかいである。
テングス糸も使ってみたが、それほどの効果が無い。
おもちゃのカラスもそれほどの効き目は無かった。
今年は駄目元で、黒マルチの使い古しで破れたのを、くくってみたら意外と効果があった。
だから、やと遅咲きの梅の花が満開である。
今晩は月も大きく、夕方には梅と月が重なって趣があった。
もう少しすれば、如月の望月【きさらぎのもちづき】と家内は言ったが、それに梅の花が加わるのである。

うちの近所には、カラスや鳶以外にもいろいろな猛禽類が飛んでくる。
大きさも鳩程度のものから、鳶くらいのものまである。
おそらく鷹や鷲の一種なのだが、飛び方がカラスや鳶とも違うし、留まっているのに近づくと直ぐ逃げる。
また、毎年おなじみのケリも賑やかに田んぼを飛び回っている。
そうそう、ヒバリも日中は元気に歌っている。

貯水池

泳いでいるカモ

散歩道の梅
散歩をしていて楽しいのは、そういう鳥たちに出会えるからである。
わざと貯水池の土手に上ると、カモなどの水鳥たちがいっぱいいる。
飛んで逃げるのもいるが、平気で向こう岸に行って泳いでいるのもいる。
水鳥といえば、赤穂の千種川の河口付近のカモの多さである。
おそらく猟ができないので、安心して過ごしているのだろう。

冬の鳥たちが、また去って行くと夏の鳥たちが訪れる。
もう少しすれば鶯もやってくるだろう。
名も知らないが、竹藪で綺麗な声でさえずる鳥もやってくる。
そういう鳥たちを見るたびに、図鑑で名前を調べようと思う。
カメラで撮っておきたいと思ったりもする。
しかし、一番良いのはいつでもそういう鳥たちが周りにいて見られるということである。
田舎の里には鳥たちを呼び寄せる魅力がある。
忙しくて時間の無い人をには、何の魅力も感じないだろうけれど・・・

2014年3月9日日曜日

パッチアダムス

私は機会をみてパッチアダムスという映画を生徒に見せている。
実話に基づいているが、かなり脚色されていることも確からしい。
生徒は自分なりに理解して、映画から学ぶものが多いようだ。
担任しているある生徒は、ことあるごとに「パッチアダムス」と唱えている。

私が、この映画を見せる目的は、既成の権威にとらわれずに、自分が正しいと思うことを学び、そういう仕事に就いて欲しいと言うことだった。
自分の進路選択や取り組みの参考になればと思って見せていた。
しかし、現実は大学進学にしても、その後の就職にしても、厳しいことの含みも持たせていた。
実際のパッチアダムスにしてももっと、泥臭く活動していたようだ。
私自身も、理想とする教育と、実際の学校現場での違いという現実。
自分がしたかった仕事と、生活のために続けている仕事の違いを身にしみて感じてきた。

何度も何度も生徒とこの映画を見ていたのだが、何度見ても同じ場面で涙が出てしまう。
一番の感動は、退学を取り消すための公聴会の場面だが、その時の演説と途中で登場する癌患者だった子供に心が動かされる。
最近、どうしてもある生徒のことを理解してもらいたくて、映画のこの演説を引用した。
映画では医師の資格が無いのにも関わらず、医療行為をしたことのかを問われた時
「医師だけがケアを行うのでは無く、患者もまたケアを行う。誰もが医師で有り患者である。」
というシーンがあるのだが、これを学校にも当てはめた。
「君たちは生徒だが、同時に先生でもある。困っている仲間を見たら先生になったと思って接して欲しい」と呼びかけた。
どこまで、私の真意が伝わったか分からないが、その後の生徒の変化から気持ちは伝わったと思っている。

しかし、教師としての現実は権威というものの一人歩きに立ち向かう術を、組織の中では持てないということである。
仲間が救おうと努力しても、組織の枠の中では救えないこともある。
ただ、その人が生きていこうとする過程の中では、いくらかの手助けになったであろうと思っている。
真の医療を行うために、実際のパッチアダムスは他の所で仕事をせねばならなかった。
真の教育活動や学問を行うためには、それを成り立たせるための現実の仕事をせねばならない。
映画のように最初から寄付などというのはあり得ないのである。
私はパッチアダムスのように、もう若くは無いけれど、自分なりのパッチアダムスを組織を超えて実行したいと思っている。
そもそも、私はいつも組織からはみ出していて、居場所がころころ変わってしまう・・・

2014年3月4日火曜日

軽トラの本領発揮

軽トラに乗り始めて半年以上経つが、通勤に使うことが主で、本来の力を発揮させずにいた。
雪が降った時はタイヤはスタッドレスでは無いので、家内が使っているFitで通った。
寒い朝はキャブが狭いせいか、直ぐに内側が曇り、エアコンを付けると燃費は予想以上に悪くなった。
軽トラに信頼もなく、燃費にも不満を持っている状態であった。
生徒からも、買ったばかりなのに「いつ買い換えるのか」と聞かれ、「死ぬまで乗り続ける」と見栄を張った。
内心はスバルの水平エンジンの車が欲しいとは思いつつ、自分の身の丈に合っているのはこちらだと自分に言い聞かせた。

そんな折、前々から、有機農業には必須の堆肥を作るために、落ち葉を拾いを決行した。
以前、姫路に通勤していた頃は、近くの椿峠の溝などにたまっている落ち葉が欲しいとずっと思っていた。
また、山頂集落である小野豆付近でも、いっぱい落ち葉があることは知っていた。
ところが、忙しさや寒さに負けて、どうしても拾いに行けずじまいだった。

意を決して、大きな熊手と竹箒、籾殻入れの袋をホームセンターで購入して、この週末に拾いに出かけた。
土曜日には、小野豆の山に軽トラで上り、道にたまっている落ち葉をかき集めた。
平家の史跡がある頂上付近まで上る道は急勾配で、少々不安であったが、セカンドで登り切った。
ただし、マフラーの焼ける嫌な臭いがした。
やはり、圧巻は悪路で、舗装していないでこぼこの道、水たまりをどんどん進んでいくことができた。
悪路を通るのは、以前乗っていたピックアップでの方が優れているが、何よりも落ち葉を積み上げるのが楽である。
しかも、狭い道の片隅に気兼ねなく駐車できる。
畑まで積んで帰って降ろす時も、横が開くので随分楽である。

さすがに山道を走るとガソリンも多く食って、元々少なかったので日曜日には給油した。
その帰りに、高田台から上郡に抜ける山道に入ってみた。
道ばたの落ち葉を掃除している人がいたが、その上の方で斜面に落ち葉が捨てられていたので拾った。
畑は前日に積み上げた落ち葉があったので、溝をまたいで畦にタイヤを乗せてその奥にまで進めた。
4WDなので、少々の溝や、穴にタイヤが落ちても平気であった。

まだ、新車と言うことで、オフロードで使うのはためらいもあったが、これでこの車への信頼ができた。
ピックアップに比べて、車体が低いので、大きな段差には対応できないが、その分小回りで切り抜けられる。
山に行って作業したりするのも、景色が良くて楽しいものである。
今日も仕事からの帰りに、千種川の東側の土手道(赤穂鉄道跡)を周世から通ってみた。
残念ながら落ち葉を拾うには無理があったが、通勤路に別の世界が広がったようにも思える。
軽トラは大切に乗るよりも、自由に使いこなすことの方が肝心だと分かった。

梅の開花

うちの玄関は、臘梅の香りで満たされている。
先日、畑のそばに咲いていたのを、私が二枝折ってきて、家内が活けた。
庭の白梅は、やっと数輪開きかけている。
散歩で通る道すがら、梅の咲き具合を見るのも楽しみだ。
山際のお寺の前の紅梅は、今が盛りだし、近所の家の庭の白梅はだいぶ咲きかけた。
桜が一斉に開くのとは違って、梅はかなり咲く日が違う。
観賞用の梅と、実を収穫する目的の梅とも様子が違う。
じつはうちの庭の梅は、実の収穫用の品種である。
臘梅も庭にはあるが、八重の花びらで香りはそれほど強くなく、咲くのも遅い。

今日は御津の綾部山の梅を見に家内と出かけた。
ここは週末は混むので、平日に休みが取れないと行けない。
4年間は特別支援学校にいた都合上、この時期に平日には休みが取れなかった。
今は普通校なので、テスト期間中に代休を取ることができて、家内も年休でつきあってくれた。
私の綾部山とのつきあいは、子供が幼児の頃からで、もう20年以上経つ。
子供らと弁当持参で来て、賑やかな山の斜面で食事をしたのを思い出す。
梅の幹もその頃よりもだいぶ太くなって、風格を感じる。

今日は天気は良かったのだが、風が冷たく、煙突の煙も真横にたなびいていた。
長い間寒かったせいか、咲き始めという段階で、山全体が色づくまでには到らない。
お客さんもそれほど多くなく、屋台の店も暇そうだった。
平日ということで、ご老人がほとんどで、寒さもあって子供連れは多くなかった。
高価なカメラと三脚をもって、年配の人たちが写真を懸命に撮っていた。
私も出かける前は覚えていたのだが、忘れてきてしまった。
家内の携帯で写した。

以前と違うと感じたのは、山からの風景である。
街の家が増えて、田園が減った。
そのかわりに、梺の菜の花畑が綺麗だった。
そして、犬連れの人が多いということである。
以前は子連れの人が多かったが、これも時代のながれだろう。
いずれ、私ら夫婦も孫ではなくて、愛犬を連れてくるのかもしれない。

以前来た時は暖かくて、梅ジュースを飲んだが、今日は甘酒を飲んだ。
ベンチに腰掛けて、瀬戸内海の景色を眺めた。
春の海というには、寒々しかったが、遠くの徳島まで見ることができた。

帰りは久しぶりに、大津のイオンタウンに寄ったのだが、いつも来る休日とは様子がまるで違う。
驚いたのは、男性の老人がたくさんベンチに腰掛けて時間を潰していることである。
確かに、家に居るよりも暖かく、馴染みの人と話もできるのだろうが、ボウーと座っている風景は少し異様である。
ただ、田舎では家に閉じこもって、テレビを見続ける老人が多いのだから、こうして外に出てくる方が健全なのかもしれない。
田舎ではしっかり歩けば、寒さも気にせず散歩で梅見ができるのだけれど、そういう人は少ない。
ダイエットで散歩と言うより、「梅見に歩いてくらー」と言った方が粋のように思えるのだが・・・

2014年3月1日土曜日

厳粛という苦行

昨日は勤務している高校の卒業式だった。
卒業式には厳粛に行うタイプと、和やかに別れを惜しむタイプがある。
自分の母校は人数も一学年140名程で、一人一人証書をもらい、校長と握手をして和やかだった。
長年勤務した特別支援(養護)学校も、式はなるべく厳粛にしたいという向きはあったが、送別会は楽しく行った。
それ以外の県立高校でも、160名程の大学附属高校は、一人一人証書の手渡しで、リアルタイムに映像を流したり、答辞の時に音楽と画像を流して和やかな雰囲気だった。

いままでどちらかというと和やかな卒業式に慣れていた身としては、今回の卒業式は辛かった。
今朝も歯医者に行って治療を受けたが、じっとすることの辛抱は同じであると思った。
歯医者は30分程で済むが、卒業式は2時間と長い。
私は顔がかゆくなっても、なるべく掻かないように努めながら、じっと同じ姿勢を保ち続けた。
静粛な時間に、会場の外のカラスの鳴き声があざ笑うかのように響きわたった。
号令とともも、一斉に立ち上がり、礼をする。まるで軍隊のようであった。
この苦行に耐えるために、思いついたのは「座禅」であった。
以前座禅のまねごとをしたことがあったが、それと同じように目を半開きにして、なるべく何も考えないようにした。
色々と式辞や祝辞があるのに失礼と思うが、あまりにも形式通りの言葉には、正直「無の境地」で望むしか無かった。

そんな中で、心を動かされたのは卒業生の答辞であった。
途中でオルゴールのメロディーも加わって、自然と涙がこぼれ落ちた。
おそらく、会場の誰もがこの答辞に救われたと思う。
残念だったのは、少々長かったことである。
それ以外は、最も素晴らしいものであった。
厳粛であったからこそ、オアシスのように潤いをもたらせてくれた答辞に、私は深く感謝した。




2014年2月23日日曜日

成否を分けたもの

このところソチの冬季オリンピックの話題がマスコミで多く流れる。
授業でも浅田真央選手のことを取り上げた。
本番で実力を出し切ることの難しさを受験に絡めた。

私は中学受験も予備校入学試験も、大学院修士も、教員採用試験も一度で合格した。
ところが、大学受験は一校の一コースしか合格していない。
現役も浪人も私学や国公立を含めて、多く受験したが全部不合格だった。
自分でも何がそうさせたかを、深く考えることさえ避けてきた。
今思うと、大学受験以外は落ちても他に行くところもあったし、駄目元というところがあった。
何せ大学院などは指導教官からは、受かるのに3年はかかるだろうとまで言われていた。
受かると思っていなかったので、合格発表時に与路島に調査に行っていた。
結局、それがもとで奨学金をとりそこねて、その後の研究生活面での致命傷になった。

開き直りというのは、いつでもできるわけではない。
浅田選手のように金メダルを期待された立場で、開き直りなどできないだろう。
期待をプレッシャーに感じず成功する選手もいるわけだから、皆がそうだとは言い切れないのだろうが。
ここまで練習したのだからとか、これほど勉強したのだからと後は運しか無い、と開き直れる程、強い人はそう多くはいないだろう。

ただ、人生という長いスパンで考えると、成功と失敗というのは分からない。
たまたま、合格した大学のコースが肌に合ってその道を進むことになった。
しかし、うまく合格した大学院は、多くを失って転向せざるをえなかった。
教員になって良かったかどうかは、まだ結論は出ないが、次のステップでそれが分かるだろう。
要するに、次にうまくつなげられるかどうかが、成功と失敗の評価だろうと思う。
次を見据えることはできないにしても、努力したのだからどんな状況でも何とかなるだろうと思うしか無い。
そう受験生にエールをおくるしかないのです。



2014年2月11日火曜日

書き終えた墓碑銘

赤穂の地元紙「赤穂民報」に西畑俊昭氏が、広島大学より博士号の学位を授与された記事が載った。
私は生徒に、先輩であり、この学校の教師でもあった西畑氏の功績を説明し、このように研究分野でも活躍している人を目標にして欲しいと説いた。
そんな矢先、西畑氏の訃報を聞いた。

私は西畑氏とは教師として新任の時からの知り合いで、広山先生の片腕で大先輩であった。
一年程前は、定期検査で病院に行くとよく出会うので、待ち時間の良い話し友達にもなっていた。
これまでの研究を本にまとめ上げていたことは聞いたので、病気を押して無理をしていたのかなと思った。
氏の著作を手に取ると、その長年の積み重ねと、緻密な研究がよく伝わってきた。
64歳という若さなので、これからもっとこの研究を、多くの人に伝えられるはずだった。

ただ、一年前に病院で話していて、一番楽しそうに話してくれたのは、孫の子守のことだった。
通夜の会場でその様子がスクリーンに映し出された時に、よく伝わった。
会場の前に飾られた学位証も立派だったが、家族との写真の方が西畑氏の誇りのように思えた。


赤穂弁丸出しで、形式張らずにざっくばらんに、しかも、鋭い指摘を良くされていた。
腰に手ぬぐいをぶら下げて、スクーターに乗って通勤していた様子を今でも思い出す。
広山尭道氏は塩業史の研究を、「終わった塩業の墓碑銘を書くようなものだ。」と言われていた。
西畑氏は広山氏から受け継いだその仕事を立派になし終えたように思う。




2014年1月26日日曜日

小樽の苦い思い出

修学旅行の最終日より早いもので一週間経った。
もう遠い昔のように思えてくる。
だから苦い思い出も、笑い話にできる。
実は、旅行前に土産代や食事代のためにお金を用意していなかった。
現金をかき集めて、8000円程でクレジットカードもあるし何とかなると思っていた。

送り返す荷物に入れるために、まず宿泊ホテルで土産のチョコレートを買った。
本当はここでクレジットカードを使うべきだった。
最終日の小樽では、自由行動で昼食を食べる
私は他の多くの職員と何も考えずに寿司屋に入った。
これが大きな間違いだった。
品書きを見ると、最低でも1300円程、家内から北一ガラスが欲しいと言われていた。
出発前日にお金を用意していなかったので、買ってこなくても良いとは言われていた。
それでも、一度欲しいと言う言葉を聞いたからには安物でも買おうと思っていた。
他の職員全員が同じ倍の値段のする寿司を頼み、私一人だけ一番安いものを頼まざるを得なかった。
他の職員にも気まずい思いをさせているなとは思ったが、財布を空にして帰る勇気はなかった。
サービスで出してくれた、タコの卵の寿司も便乗して申し訳ないと思いながら頂いた。

食事が終わると逃げるように、私は一人北一ガラスのアウトレットの店に行った。
アウトレットとはいえ2~3割引き程度で、そこそこの値段はした。
100円ショップのコップと変わらないのにと思いながら、安いコップを2つ買った。
本当はペアグラスという要望だったが、アウトレットでは無理であった。
店員さんがなぜアウトレットかを説明してくれたが、私には安ければそれで良かった。
財布の中には1000円札一枚が残った。
生徒に会ったので昼食は何を食べて、いくらしたか参考までに聞いた。
1500円くらいが多かったが、中には3000円以上や、節約して500円という生徒もいた。
皆、お目当ての海鮮丼が多かったが、ラーメンという生徒も少なからずいた。
生徒と同じ値段くらいの昼食をとったと言うことで、少しはほっとした。

家に戻ってから、北一ガラスのコップを開けてみた。
100円ショップと変わらないと思ったコップが、一つは綺麗な薄ピンク色をしていた。
もう一つは、歪んではいたのだが、手作りの味が良かった。
買ってこなくて良いよと言っていた家内も喜んでくれた。
普段のビールを飲むのに使えば良いと思っていたのに、しまい込まれてしまった。
今日も、口元の少しかけた陶器のコップで、第三のビールを飲んだ。
北一ガラスには、本物のサッポロビールが似合うのだろうと苦笑いである。





2014年1月21日火曜日

富良野

正直に言うと、引率で行く修学旅行には苦い思い出が多くて、気が重かった。
しかも、スキーは20年ほど前に信州に修学旅行に行き習った程度である。
私は特別支援学校では東京ディスニーランドや長崎、普通高校では海外が多かった。
2学期の球技大会でクラスのメンバーが足りなくて、卓球を行い腕が上がらなくなった経験から、今回はスキーはするつもりはなかった。
出発も早朝で、4時には起きなくてはいけなかった。

家を出かけるときに、ふと走り去るものがいる。
キツネだ!
これから行く北海道にはキタキツネがいるが、上郡にだっているぞと愉快になった。
何となく幸先がいいような気がした。

伊丹空港までバスで行き、飛行機で千歳空港に向かう。
伊丹空港で生徒と待機していると、後ろで聞いたような声がする。
前任校の教頭である。
聞くと引率で団長として沖縄の宮古島に行くという、私にはそちらの方が断然魅力的に思えた。
上空から眺める琵琶湖あたりの冬景色も素晴らしかったが、中央の席だったので景色はあまり楽しめなかった。
着陸間近になってみる北海道の白一色景色は、いよいよ別世界に来たという気持ちにさせた。

初めて見る北海道の広大な冬景色にしばらく圧倒された。
バスガイドさんが北海道の方言を話してくれたが、「手袋をはく」という播州弁との共通の言葉にガイドさんがかえって驚いた。
ただ、北海道には方々から移民があったので、兵庫県からの移民者の影響ではないかとガイドさんは解釈された。
淡路島からの移民は有名だが、一番不毛な場所の開拓で苦労したようだ。
私はなるべく自分の研究から気持ちを離そうと心がけたが、どうしても移民やアイヌの民族問題を考えてしまい素直にガイドさんの説明を聞けなかった。

旭山動物園ではペンギンの行列をまず見ることができた。
小規模なこの動物園が、あの巨大な上野動物園をしのいだことに改めて驚いた。
ただ、サファリーパークとは違い、動物にずいぶん無理をさせているように感じた。
沖縄の美ら海水族館もそうだが、観光のためには必要な施設なのかもしれない。

夕方の四時半には、暗くなり車はヘッドライトをつけなくてはいけない。
三〇分ほど時差で明るい時間帯を損した気持ちになった。
富良野のスキー場に近づくと、あたりは真っ暗でその中にナイターのオレンジ色の明かりが山の斜面を照らしていた。
稲作のためにわざと街灯を少なくしている地元上郡の暗さと対照的に思えた。

富良野の景色は素晴らしかった。
私は生徒の様子を見るために歩いて上まで上がった。

なるべく、ゲレンデに入らないように、隅っこを歩いたので、雪に足がのめり込んで歩くのが大変だった。
ただ、斜面でスキー板をはいて、我慢して静止している生徒が愉快に思えた。
滑ることができない状態では、歩いた方が便利なのである。
危険を冒して雪山に登る登山者の気持ちの一端も少しはわかった。

二日間も講習を受けると、生徒たちはずいぶん上達した。
日頃、体育などが苦手な生徒も、楽しんでいるのが嬉しかった。
私も滑りたい気持ちになったが、また肩を痛めて迷惑をかけてはならないと気持ちを抑えた。

スキーも終わり、富良野からの帰りに立ち寄った小樽は、まさしく観光地で、兵庫県からの3校の高校生で溢れていた。
家内に頼まれていた北一ガラスのコップを買うために、昼食を節約した。
それでも普段食べている弁当寿司の3倍の値段を出したが、味はむしろ落ちた。
そばでその倍の値段のを、食べている同僚の寿司は、ずいぶんおいしそうだった。
観光地は安くておいしいものは、よほど慣れていないと無理だということを、付き添いの地元の看護師さんから教わった。
生徒の方も、とてつもない値段の昼食をとるものもいれば、普段と同じ額の生徒もいた。
北一ガラスのコップの値打ちはわからなかった。
百円ショップのコップの方がいいように思えたが、家に戻って来て改めてながめると、手作りの良さが伝わってきた。

今回は私としては二度目のスキーの修学旅行だったが、出発や到着時の引率以外の教師の応援には頭が下がった。
出発時は朝の5時前から、帰着時は夜の11時近くまで交通整理などを行ってくれた。
来年からは信州なのでこういうことは無いという。
この高校にとって最後の北海道の修学旅行になるかもしれない。
私にとっては、初めての北海道だったが、今まで経験した修学旅行の中でも、いい経験になった。
心配された大きなけがや病気、トラブルもなくて、生徒も楽しそうだった。
私は年齢的にもこれが最後の修学旅行の引率になるかもしれない。
生徒たちにも、おそらく授業風景は忘れても、修学旅行の思いでは忘れないだろう。
江戸時代には若者はお伊勢参りをして大人になったいうが、生徒たちも一歩大人に近づいてくれたかなと思う。

旅から戻って見る日常の周りの景色は違ってみえる。
景色だけではなくて、なぜか将来に対する自分の気持ちも変わったようにも感じた。
私はかつてフィールワークに出かけて、何ヶ月も旅に出たこともあったが、たった三泊四日の旅でも意味のある旅はある。
キタキツネには残念ながら会えなかったけれど、青い鳥ならぬ、幸いをもたらすキツネさんはそばにいた。
丹頂鶴も見なかったけれど、コウノトリが地元にはいる。
北海道の素晴らしさと、地元の良さを教えてくれた旅だった。






2014年1月8日水曜日

箱根駅伝

駒澤大学で四区を走った中谷選手は、彼が上郡中学校の時代に県別対抗駅伝に出場した頃から応援していた。
なにせ、彼は上郡の誇る長距離ランナーであるからだ。
先日も、上郡のスーパーマーケットでお母さんと買い物をしている姿を見かけた。
上郡出身のスポーツ選手でこれだけ有名になったのは、テニスの浅越選手以来だろう。
人口の少ないこの町から、一流のスポーツ選手を輩出するのは、地元の熱心な指導者の取り組みがあったと聞く。

もう一人驚いたのは、早稲田大学の井戸選手である。
彼は新宮町出身だそうだが、有名国立大学をけって、箱根を走りたいために早稲田大学に一般入学したそうだ。
龍野高校という進学校から全国レベルの長距離ランナーを排出しているのにも感心した。
龍野高校の10マイルマラソンはこの地域では有名だが、彼は龍野高校を全国的に有名にした。
彼の出身の新宮町も、今でこそたつの市になったが、小さな郡部の町であった。

箱根駅伝で活躍する、西播磨地域出身のこの二人の活躍は、この地域に住む我々に励ましを与えてくれる。
中谷選手は区間賞も取るくらいのトップランナーなので、これから日本を代表するランナーに育ってほしい。
井戸選手は文武両道の大切さを、是非示し続けてほしいと思う。
私は生徒にはよくマラソンと受験とを例えるのだが、井戸選手こそそれに一番ふさわしい人物のように思える。
そしてこれは何に関しても言えることなのだが、小さい頃から一人一人を大切に育てる環境が大切であるということだ。
人口の少ない郡部でも、そうすれば一流の選手や、知識人を生むことができるのだと思う。
そういう土壌を築き上げているのは、名もなき心ある指導者がいるからだと思う。


2014年1月4日土曜日

時間を旅する正月

毎年の事ながら、帰省ラッシュがニュースで流れる。
何時間も渋滞や、混雑に耐えながらふるさとに帰る正月。
親のそばに住む私らにとっては、久しぶりに故郷を離れた兄弟家族と会える日でもある。
今年は、パソコンとプロジェクターを使って昔の写真を写しながら、実家にいながら皆でカラオケを楽しんだ。
カラオケはヤマハの通信カラオケで、背景に好きな写真を付けることができる。
そうすると、歌わない人も写真を見て楽しめるのである。
一番喜んだのは私の年老いた母親であった。
母は何十年も前の写真の頃の気持ちに戻ったようだった。
私も自分の子供や甥姪、兄弟夫婦の昔の姿を見て当時の自分にタイムスリップした。

年賀状も、大学頃から先生、友人や、研究仲間と毎年のやりとりがある。
年に一回だけの時を超えての交流である。
実は、私は元旦に間に合えるように書いていない。
このところ、年末をゆっくり過ごせたことがなくて、落ち着ける正月に書くことが多い。
だから、途切れてしまう人もいるのだが、それでも辞めようとは思わない。
はがき一枚で、懐かしい人に会えるからである。
昔に比べて、だんだんと正月は寂しいものになっているけれど、特別な日であることには変わりはない。

今年も娘を大学のある東広島まで、二日に送ってきた。
行きは西行きで下りなのですいていたが、帰りは事故もあって大渋滞だった。
いつも行きは山陽自動車道を通って、帰りは国道二号線を通ったりするが、一般国道まで車があふれていた。
倉敷や岡山の渋滞を避けるために、帰りも山陽自動車道を途中の玉島あたりから使った。
一般道は途中で海が見えて楽しいから帰りには使うのだが、朝の10時半に出て、結局帰ったのは夜の8時を過ぎていた。
往復400kmあまりを食事や休憩以外はほとんど乗りっぱなしだった。
この娘の帰省のおつきあい旅も、娘が大学を出てしまえば終わりになる。

昔に戻ったり、遠くまで出かけたり、いろいろな旅を正月にはできた。
後には玉手箱を開けた浦島太郎になった自分が残ったけれど・・・