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2014年1月26日日曜日

小樽の苦い思い出

修学旅行の最終日より早いもので一週間経った。
もう遠い昔のように思えてくる。
だから苦い思い出も、笑い話にできる。
実は、旅行前に土産代や食事代のためにお金を用意していなかった。
現金をかき集めて、8000円程でクレジットカードもあるし何とかなると思っていた。

送り返す荷物に入れるために、まず宿泊ホテルで土産のチョコレートを買った。
本当はここでクレジットカードを使うべきだった。
最終日の小樽では、自由行動で昼食を食べる
私は他の多くの職員と何も考えずに寿司屋に入った。
これが大きな間違いだった。
品書きを見ると、最低でも1300円程、家内から北一ガラスが欲しいと言われていた。
出発前日にお金を用意していなかったので、買ってこなくても良いとは言われていた。
それでも、一度欲しいと言う言葉を聞いたからには安物でも買おうと思っていた。
他の職員全員が同じ倍の値段のする寿司を頼み、私一人だけ一番安いものを頼まざるを得なかった。
他の職員にも気まずい思いをさせているなとは思ったが、財布を空にして帰る勇気はなかった。
サービスで出してくれた、タコの卵の寿司も便乗して申し訳ないと思いながら頂いた。

食事が終わると逃げるように、私は一人北一ガラスのアウトレットの店に行った。
アウトレットとはいえ2~3割引き程度で、そこそこの値段はした。
100円ショップのコップと変わらないのにと思いながら、安いコップを2つ買った。
本当はペアグラスという要望だったが、アウトレットでは無理であった。
店員さんがなぜアウトレットかを説明してくれたが、私には安ければそれで良かった。
財布の中には1000円札一枚が残った。
生徒に会ったので昼食は何を食べて、いくらしたか参考までに聞いた。
1500円くらいが多かったが、中には3000円以上や、節約して500円という生徒もいた。
皆、お目当ての海鮮丼が多かったが、ラーメンという生徒も少なからずいた。
生徒と同じ値段くらいの昼食をとったと言うことで、少しはほっとした。

家に戻ってから、北一ガラスのコップを開けてみた。
100円ショップと変わらないと思ったコップが、一つは綺麗な薄ピンク色をしていた。
もう一つは、歪んではいたのだが、手作りの味が良かった。
買ってこなくて良いよと言っていた家内も喜んでくれた。
普段のビールを飲むのに使えば良いと思っていたのに、しまい込まれてしまった。
今日も、口元の少しかけた陶器のコップで、第三のビールを飲んだ。
北一ガラスには、本物のサッポロビールが似合うのだろうと苦笑いである。





2014年1月21日火曜日

富良野

正直に言うと、引率で行く修学旅行には苦い思い出が多くて、気が重かった。
しかも、スキーは20年ほど前に信州に修学旅行に行き習った程度である。
私は特別支援学校では東京ディスニーランドや長崎、普通高校では海外が多かった。
2学期の球技大会でクラスのメンバーが足りなくて、卓球を行い腕が上がらなくなった経験から、今回はスキーはするつもりはなかった。
出発も早朝で、4時には起きなくてはいけなかった。

家を出かけるときに、ふと走り去るものがいる。
キツネだ!
これから行く北海道にはキタキツネがいるが、上郡にだっているぞと愉快になった。
何となく幸先がいいような気がした。

伊丹空港までバスで行き、飛行機で千歳空港に向かう。
伊丹空港で生徒と待機していると、後ろで聞いたような声がする。
前任校の教頭である。
聞くと引率で団長として沖縄の宮古島に行くという、私にはそちらの方が断然魅力的に思えた。
上空から眺める琵琶湖あたりの冬景色も素晴らしかったが、中央の席だったので景色はあまり楽しめなかった。
着陸間近になってみる北海道の白一色景色は、いよいよ別世界に来たという気持ちにさせた。

初めて見る北海道の広大な冬景色にしばらく圧倒された。
バスガイドさんが北海道の方言を話してくれたが、「手袋をはく」という播州弁との共通の言葉にガイドさんがかえって驚いた。
ただ、北海道には方々から移民があったので、兵庫県からの移民者の影響ではないかとガイドさんは解釈された。
淡路島からの移民は有名だが、一番不毛な場所の開拓で苦労したようだ。
私はなるべく自分の研究から気持ちを離そうと心がけたが、どうしても移民やアイヌの民族問題を考えてしまい素直にガイドさんの説明を聞けなかった。

旭山動物園ではペンギンの行列をまず見ることができた。
小規模なこの動物園が、あの巨大な上野動物園をしのいだことに改めて驚いた。
ただ、サファリーパークとは違い、動物にずいぶん無理をさせているように感じた。
沖縄の美ら海水族館もそうだが、観光のためには必要な施設なのかもしれない。

夕方の四時半には、暗くなり車はヘッドライトをつけなくてはいけない。
三〇分ほど時差で明るい時間帯を損した気持ちになった。
富良野のスキー場に近づくと、あたりは真っ暗でその中にナイターのオレンジ色の明かりが山の斜面を照らしていた。
稲作のためにわざと街灯を少なくしている地元上郡の暗さと対照的に思えた。

富良野の景色は素晴らしかった。
私は生徒の様子を見るために歩いて上まで上がった。

なるべく、ゲレンデに入らないように、隅っこを歩いたので、雪に足がのめり込んで歩くのが大変だった。
ただ、斜面でスキー板をはいて、我慢して静止している生徒が愉快に思えた。
滑ることができない状態では、歩いた方が便利なのである。
危険を冒して雪山に登る登山者の気持ちの一端も少しはわかった。

二日間も講習を受けると、生徒たちはずいぶん上達した。
日頃、体育などが苦手な生徒も、楽しんでいるのが嬉しかった。
私も滑りたい気持ちになったが、また肩を痛めて迷惑をかけてはならないと気持ちを抑えた。

スキーも終わり、富良野からの帰りに立ち寄った小樽は、まさしく観光地で、兵庫県からの3校の高校生で溢れていた。
家内に頼まれていた北一ガラスのコップを買うために、昼食を節約した。
それでも普段食べている弁当寿司の3倍の値段を出したが、味はむしろ落ちた。
そばでその倍の値段のを、食べている同僚の寿司は、ずいぶんおいしそうだった。
観光地は安くておいしいものは、よほど慣れていないと無理だということを、付き添いの地元の看護師さんから教わった。
生徒の方も、とてつもない値段の昼食をとるものもいれば、普段と同じ額の生徒もいた。
北一ガラスのコップの値打ちはわからなかった。
百円ショップのコップの方がいいように思えたが、家に戻って来て改めてながめると、手作りの良さが伝わってきた。

今回は私としては二度目のスキーの修学旅行だったが、出発や到着時の引率以外の教師の応援には頭が下がった。
出発時は朝の5時前から、帰着時は夜の11時近くまで交通整理などを行ってくれた。
来年からは信州なのでこういうことは無いという。
この高校にとって最後の北海道の修学旅行になるかもしれない。
私にとっては、初めての北海道だったが、今まで経験した修学旅行の中でも、いい経験になった。
心配された大きなけがや病気、トラブルもなくて、生徒も楽しそうだった。
私は年齢的にもこれが最後の修学旅行の引率になるかもしれない。
生徒たちにも、おそらく授業風景は忘れても、修学旅行の思いでは忘れないだろう。
江戸時代には若者はお伊勢参りをして大人になったいうが、生徒たちも一歩大人に近づいてくれたかなと思う。

旅から戻って見る日常の周りの景色は違ってみえる。
景色だけではなくて、なぜか将来に対する自分の気持ちも変わったようにも感じた。
私はかつてフィールワークに出かけて、何ヶ月も旅に出たこともあったが、たった三泊四日の旅でも意味のある旅はある。
キタキツネには残念ながら会えなかったけれど、青い鳥ならぬ、幸いをもたらすキツネさんはそばにいた。
丹頂鶴も見なかったけれど、コウノトリが地元にはいる。
北海道の素晴らしさと、地元の良さを教えてくれた旅だった。






2014年1月8日水曜日

箱根駅伝

駒澤大学で四区を走った中谷選手は、彼が上郡中学校の時代に県別対抗駅伝に出場した頃から応援していた。
なにせ、彼は上郡の誇る長距離ランナーであるからだ。
先日も、上郡のスーパーマーケットでお母さんと買い物をしている姿を見かけた。
上郡出身のスポーツ選手でこれだけ有名になったのは、テニスの浅越選手以来だろう。
人口の少ないこの町から、一流のスポーツ選手を輩出するのは、地元の熱心な指導者の取り組みがあったと聞く。

もう一人驚いたのは、早稲田大学の井戸選手である。
彼は新宮町出身だそうだが、有名国立大学をけって、箱根を走りたいために早稲田大学に一般入学したそうだ。
龍野高校という進学校から全国レベルの長距離ランナーを排出しているのにも感心した。
龍野高校の10マイルマラソンはこの地域では有名だが、彼は龍野高校を全国的に有名にした。
彼の出身の新宮町も、今でこそたつの市になったが、小さな郡部の町であった。

箱根駅伝で活躍する、西播磨地域出身のこの二人の活躍は、この地域に住む我々に励ましを与えてくれる。
中谷選手は区間賞も取るくらいのトップランナーなので、これから日本を代表するランナーに育ってほしい。
井戸選手は文武両道の大切さを、是非示し続けてほしいと思う。
私は生徒にはよくマラソンと受験とを例えるのだが、井戸選手こそそれに一番ふさわしい人物のように思える。
そしてこれは何に関しても言えることなのだが、小さい頃から一人一人を大切に育てる環境が大切であるということだ。
人口の少ない郡部でも、そうすれば一流の選手や、知識人を生むことができるのだと思う。
そういう土壌を築き上げているのは、名もなき心ある指導者がいるからだと思う。


2014年1月4日土曜日

時間を旅する正月

毎年の事ながら、帰省ラッシュがニュースで流れる。
何時間も渋滞や、混雑に耐えながらふるさとに帰る正月。
親のそばに住む私らにとっては、久しぶりに故郷を離れた兄弟家族と会える日でもある。
今年は、パソコンとプロジェクターを使って昔の写真を写しながら、実家にいながら皆でカラオケを楽しんだ。
カラオケはヤマハの通信カラオケで、背景に好きな写真を付けることができる。
そうすると、歌わない人も写真を見て楽しめるのである。
一番喜んだのは私の年老いた母親であった。
母は何十年も前の写真の頃の気持ちに戻ったようだった。
私も自分の子供や甥姪、兄弟夫婦の昔の姿を見て当時の自分にタイムスリップした。

年賀状も、大学頃から先生、友人や、研究仲間と毎年のやりとりがある。
年に一回だけの時を超えての交流である。
実は、私は元旦に間に合えるように書いていない。
このところ、年末をゆっくり過ごせたことがなくて、落ち着ける正月に書くことが多い。
だから、途切れてしまう人もいるのだが、それでも辞めようとは思わない。
はがき一枚で、懐かしい人に会えるからである。
昔に比べて、だんだんと正月は寂しいものになっているけれど、特別な日であることには変わりはない。

今年も娘を大学のある東広島まで、二日に送ってきた。
行きは西行きで下りなのですいていたが、帰りは事故もあって大渋滞だった。
いつも行きは山陽自動車道を通って、帰りは国道二号線を通ったりするが、一般国道まで車があふれていた。
倉敷や岡山の渋滞を避けるために、帰りも山陽自動車道を途中の玉島あたりから使った。
一般道は途中で海が見えて楽しいから帰りには使うのだが、朝の10時半に出て、結局帰ったのは夜の8時を過ぎていた。
往復400kmあまりを食事や休憩以外はほとんど乗りっぱなしだった。
この娘の帰省のおつきあい旅も、娘が大学を出てしまえば終わりになる。

昔に戻ったり、遠くまで出かけたり、いろいろな旅を正月にはできた。
後には玉手箱を開けた浦島太郎になった自分が残ったけれど・・・