このところソチの冬季オリンピックの話題がマスコミで多く流れる。
授業でも浅田真央選手のことを取り上げた。
本番で実力を出し切ることの難しさを受験に絡めた。
私は中学受験も予備校入学試験も、大学院修士も、教員採用試験も一度で合格した。
ところが、大学受験は一校の一コースしか合格していない。
現役も浪人も私学や国公立を含めて、多く受験したが全部不合格だった。
自分でも何がそうさせたかを、深く考えることさえ避けてきた。
今思うと、大学受験以外は落ちても他に行くところもあったし、駄目元というところがあった。
何せ大学院などは指導教官からは、受かるのに3年はかかるだろうとまで言われていた。
受かると思っていなかったので、合格発表時に与路島に調査に行っていた。
結局、それがもとで奨学金をとりそこねて、その後の研究生活面での致命傷になった。
開き直りというのは、いつでもできるわけではない。
浅田選手のように金メダルを期待された立場で、開き直りなどできないだろう。
期待をプレッシャーに感じず成功する選手もいるわけだから、皆がそうだとは言い切れないのだろうが。
ここまで練習したのだからとか、これほど勉強したのだからと後は運しか無い、と開き直れる程、強い人はそう多くはいないだろう。
ただ、人生という長いスパンで考えると、成功と失敗というのは分からない。
たまたま、合格した大学のコースが肌に合ってその道を進むことになった。
しかし、うまく合格した大学院は、多くを失って転向せざるをえなかった。
教員になって良かったかどうかは、まだ結論は出ないが、次のステップでそれが分かるだろう。
要するに、次にうまくつなげられるかどうかが、成功と失敗の評価だろうと思う。
次を見据えることはできないにしても、努力したのだからどんな状況でも何とかなるだろうと思うしか無い。
そう受験生にエールをおくるしかないのです。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2014年2月23日日曜日
2014年2月11日火曜日
書き終えた墓碑銘
赤穂の地元紙「赤穂民報」に西畑俊昭氏が、広島大学より博士号の学位を授与された記事が載った。
私は生徒に、先輩であり、この学校の教師でもあった西畑氏の功績を説明し、このように研究分野でも活躍している人を目標にして欲しいと説いた。
そんな矢先、西畑氏の訃報を聞いた。
私は西畑氏とは教師として新任の時からの知り合いで、広山先生の片腕で大先輩であった。
一年程前は、定期検査で病院に行くとよく出会うので、待ち時間の良い話し友達にもなっていた。
これまでの研究を本にまとめ上げていたことは聞いたので、病気を押して無理をしていたのかなと思った。
氏の著作を手に取ると、その長年の積み重ねと、緻密な研究がよく伝わってきた。
64歳という若さなので、これからもっとこの研究を、多くの人に伝えられるはずだった。
ただ、一年前に病院で話していて、一番楽しそうに話してくれたのは、孫の子守のことだった。
通夜の会場でその様子がスクリーンに映し出された時に、よく伝わった。
会場の前に飾られた学位証も立派だったが、家族との写真の方が西畑氏の誇りのように思えた。
赤穂弁丸出しで、形式張らずにざっくばらんに、しかも、鋭い指摘を良くされていた。
腰に手ぬぐいをぶら下げて、スクーターに乗って通勤していた様子を今でも思い出す。
広山尭道氏は塩業史の研究を、「終わった塩業の墓碑銘を書くようなものだ。」と言われていた。
西畑氏は広山氏から受け継いだその仕事を立派になし終えたように思う。
私は生徒に、先輩であり、この学校の教師でもあった西畑氏の功績を説明し、このように研究分野でも活躍している人を目標にして欲しいと説いた。
そんな矢先、西畑氏の訃報を聞いた。
私は西畑氏とは教師として新任の時からの知り合いで、広山先生の片腕で大先輩であった。
一年程前は、定期検査で病院に行くとよく出会うので、待ち時間の良い話し友達にもなっていた。
これまでの研究を本にまとめ上げていたことは聞いたので、病気を押して無理をしていたのかなと思った。
氏の著作を手に取ると、その長年の積み重ねと、緻密な研究がよく伝わってきた。
64歳という若さなので、これからもっとこの研究を、多くの人に伝えられるはずだった。
ただ、一年前に病院で話していて、一番楽しそうに話してくれたのは、孫の子守のことだった。
通夜の会場でその様子がスクリーンに映し出された時に、よく伝わった。
会場の前に飾られた学位証も立派だったが、家族との写真の方が西畑氏の誇りのように思えた。
赤穂弁丸出しで、形式張らずにざっくばらんに、しかも、鋭い指摘を良くされていた。
腰に手ぬぐいをぶら下げて、スクーターに乗って通勤していた様子を今でも思い出す。
広山尭道氏は塩業史の研究を、「終わった塩業の墓碑銘を書くようなものだ。」と言われていた。
西畑氏は広山氏から受け継いだその仕事を立派になし終えたように思う。
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