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2014年3月31日月曜日

久しぶりのこうちゃん

先日、たまたま姫路に行くのに利用した駅で、前任校で担任したことのあるこうちゃんに再会した。
介助の人と一緒に、ホームにベンチに座っているこうちゃんに、懐かしくて話しかけた。
こうちゃんはよく発作を起こすので、ヘッドギアーを付けている。
電車が大好きで、電車の絵のカードを見て、有名な列車を言い当てた。
本物を見たり、乗ったりするのも大好きで、今日も一駅だけ乗って戻り、その後マクドナルドで昼食をとるという。
こうちゃんに「先生の名前は?」とたずねる
答えられないので、
私から「い」というと彼は「い」
「し」というと「し」
次は自分で「ら」と続けてくれた。
以前から彼は、「いしはら」とは言えずに、「いはら」となってしまっていた。
覚えてくれていて、嬉しかった。
介助の人とこうちゃんの高等部での様子を話をした。
 乗り込んだ電車は赤と緑のツートンで、その電車もお気に入り、一番先頭の車両で、人が多くて立ったまま話をした。
 たった一駅はあっという間に時間が過ぎてしまった。

出かける前は雨が降っていたので、億劫な感じがしたが、こうちゃんに一年ぶりに会えたので、これだけでも気持ちが晴れた。
姫路では、以前勤めていた学校の仲間と一年に一度の同窓会だった。
こちらはそれぞれの職場の、世知辛い状況報告のようになった。
帰りは家内に家の近くの駅まで迎えに来てもらったが、その時にこうちゃんのことを思い出して
「ブン ブン ブーン 蜂が刺す チクッ」と歌った。
実は、こうちゃんは人差し指を立てて振りながら、 「ブン ブン ブーン」とよく歌った。
そこで私は 「ブン ブン ブーン 蜂が刺す チクッ」とこうちゃんのほっぺをつついた。
本当は 「ブン ブン ブーン 蜂が飛ぶ」なのだが、静かにしなくてはいけない時にするので、少々懲らしめの意味もあった。

こうちゃんは障害が重くて、トイレに行く時にもいつも付き添わなくてはいけなかった。
わがままを言ったり、わざと悪戯をすることもあったが、何故か憎めなかった。
彼の担任になる教師はいつも大変苦労したが、皆彼のファンになった。
実は、私は去年一年間、一度も電車に乗っていなかった。
一年に一度の電車の利用で、こうちゃんに再会するとは奇跡だった。
こういうことがあると、ファンの一人としては神様がいると思いたくなる。



2014年3月22日土曜日

クラス解散会

私は前任校の特別支援学校以来、ここ5年間担任をし続けてきた。
授業形態も内容も大きく違う学校で共通して心がけたことは、家族的な雰囲気にクラスがなることだった。
だから、少々の言葉使いのまずさも大目に見てきた。
それは、親に対してずっと敬語で接する子供がいないのと同じだと思っていた。
確かに教師は社会に出た時に身につけなければならない、言葉遣いや礼儀作法を教えねばならない。
しかし、生徒はそこのところは、分かっていて卒業してから出会うときちっとできている。

管理職になったある教師は、「教師は役人だ」と言った。
私は常々、「教師は職人だ」と思ってきた。
確かに、明治以前の寺小屋や塾の先生と、それ以降の学校の先生とは大きく違う。
ただ、役人的な教師が犯した間違いで、戦時中いかに多くの教え子が死んでいったかをずっと語り継がれたはずだ。
いつの間にか、文部省対日教組というような図式に置き換えられてしまった。
しかし、職人である教師は組織を超えて、自分の信念と力量で教育ができると私は思い続けてきた。

残念ながら私はクラスの生徒とはうまくやれても、教員組織とはあまりうまくやれなかった。
前任校などでは高等部の副部長という立場でもあったが、組織をうまくまとめることはできなかった。
今は役職はついていないが、組織の流れにうまくなじめないことをよく感じている。
だから、クラスの生徒には「私の指導が悪いので、来年度は担任はクビだろう」といってきた。
これはクラスの単語テストなどの合格者が少ない事への、生徒に対する叱咤の意味を込めて言った。
実のところは、自分の不適応の本音だった。
そして、クラス全員が英単語テストで合格したら、家でとれたサツマイモをご馳走すると、黒板の上にサツマイモを飾っておいた。
生徒たちは「イモパ(サツマイモパーティー)やろう」と言い続けたが、結局最後までできなかった。
仕方ないので、終業式の日のLHR終了後に解散会をすることにした。

学級の何人かが、歌を歌ってくれた。
学級委員長などは、黒板の上に飾っていたイモをマイクに見立てて踊りながら歌ってくれた。
私は包みの裏に「From Kiyo With Love」と書いた、キットカットをご馳走した。
そして、選曲に困ったけど、前日書いてもらった作文に、「先生のB'zが聞きたかった」というのがあったの思い出した。
「いつかのメリークリスマス」を歌った。

そして、最後は皆で「ultra soul」で盛り上がった。
皆で記念写真を撮る前に、二学期の委員長が代表して色紙を渡してくれた。
その色紙を持って写真を皆で撮った。
後で読んだ色紙にはお礼の言葉などや、来年もよろしくという言葉が書いてあった。
中でも、いつも叱っていたある生徒が「先生にはお世話になりすぎました」とあった。
そのウィットに富んだ言葉を同僚の教師に見せると感心された。
私は「これは、もうこれ以上必要ないと言うことやろね」と苦笑した。

「今回の解散会のような楽しくて、心温まる機会があると教師になって良かったと思う。
自分は良い生徒たちに恵まれている。
ただ、教師になって8割方は失敗したと思っている。」
と色紙を見ながら隣の若い先生に呟いた。

「いつまでも、手をつないでいられると 思っていた」 

組織にうまく適応できない老教師の心のつぶやきがもう一方であった。





2014年3月15日土曜日

早春の鳥たち

口笛を吹いたら、鳥がやってくるというようなメルヘンチックな場面なら良いのだけれど、簡単に呼び寄せる方法がある。
この季節に、畑で耕耘機を使えば良いのである。
先週の週末には、冬の間放っておいた畑を、小型耕耘機で耕した。
すると、地中の虫を食べる小鳥が色々と寄ってくる。
小鳥に関しては、大目に見ているのだが、カラスだけは例外である。
いつも作物を荒らすカラスは追っ払う。
小鳥たちの様子を見ながら畑を耕すのも楽しいものである。

そして、毎年うちの庭で繰り広げられる、赤い実の争奪戦。
うちの庭には、柊南天、紅白の南天、先祖返りしたバラの赤い実がなる。
それらは真冬にはあまり見向きもされないが、この季節には主にヒヨドリがやってきて食べてしまう。
一番人気なのは柊南天の実だが、葉っぱが尖っていたそうなのに、まるで急降下爆撃機のように、木の中に突撃して食べていく。
困るのはあたりに糞をまき散らして、おいていくことである。
近くに置いてある車の窓ガラスに付くとやっかいである。
本当に見事に平らげていって、一つも残らない。

ここまでは我慢するのであるが、我慢できないのは梅の花を食べる雀である。
毎年、梅の花を食べて実が少なくなるので、ネットをかけたり、百円ショップのカラスを使ってみたりした。
ネットは確かに良いのだが、後で外すのがやっかいである。
テングス糸も使ってみたが、それほどの効果が無い。
おもちゃのカラスもそれほどの効き目は無かった。
今年は駄目元で、黒マルチの使い古しで破れたのを、くくってみたら意外と効果があった。
だから、やと遅咲きの梅の花が満開である。
今晩は月も大きく、夕方には梅と月が重なって趣があった。
もう少しすれば、如月の望月【きさらぎのもちづき】と家内は言ったが、それに梅の花が加わるのである。

うちの近所には、カラスや鳶以外にもいろいろな猛禽類が飛んでくる。
大きさも鳩程度のものから、鳶くらいのものまである。
おそらく鷹や鷲の一種なのだが、飛び方がカラスや鳶とも違うし、留まっているのに近づくと直ぐ逃げる。
また、毎年おなじみのケリも賑やかに田んぼを飛び回っている。
そうそう、ヒバリも日中は元気に歌っている。

貯水池

泳いでいるカモ

散歩道の梅
散歩をしていて楽しいのは、そういう鳥たちに出会えるからである。
わざと貯水池の土手に上ると、カモなどの水鳥たちがいっぱいいる。
飛んで逃げるのもいるが、平気で向こう岸に行って泳いでいるのもいる。
水鳥といえば、赤穂の千種川の河口付近のカモの多さである。
おそらく猟ができないので、安心して過ごしているのだろう。

冬の鳥たちが、また去って行くと夏の鳥たちが訪れる。
もう少しすれば鶯もやってくるだろう。
名も知らないが、竹藪で綺麗な声でさえずる鳥もやってくる。
そういう鳥たちを見るたびに、図鑑で名前を調べようと思う。
カメラで撮っておきたいと思ったりもする。
しかし、一番良いのはいつでもそういう鳥たちが周りにいて見られるということである。
田舎の里には鳥たちを呼び寄せる魅力がある。
忙しくて時間の無い人をには、何の魅力も感じないだろうけれど・・・

2014年3月9日日曜日

パッチアダムス

私は機会をみてパッチアダムスという映画を生徒に見せている。
実話に基づいているが、かなり脚色されていることも確からしい。
生徒は自分なりに理解して、映画から学ぶものが多いようだ。
担任しているある生徒は、ことあるごとに「パッチアダムス」と唱えている。

私が、この映画を見せる目的は、既成の権威にとらわれずに、自分が正しいと思うことを学び、そういう仕事に就いて欲しいと言うことだった。
自分の進路選択や取り組みの参考になればと思って見せていた。
しかし、現実は大学進学にしても、その後の就職にしても、厳しいことの含みも持たせていた。
実際のパッチアダムスにしてももっと、泥臭く活動していたようだ。
私自身も、理想とする教育と、実際の学校現場での違いという現実。
自分がしたかった仕事と、生活のために続けている仕事の違いを身にしみて感じてきた。

何度も何度も生徒とこの映画を見ていたのだが、何度見ても同じ場面で涙が出てしまう。
一番の感動は、退学を取り消すための公聴会の場面だが、その時の演説と途中で登場する癌患者だった子供に心が動かされる。
最近、どうしてもある生徒のことを理解してもらいたくて、映画のこの演説を引用した。
映画では医師の資格が無いのにも関わらず、医療行為をしたことのかを問われた時
「医師だけがケアを行うのでは無く、患者もまたケアを行う。誰もが医師で有り患者である。」
というシーンがあるのだが、これを学校にも当てはめた。
「君たちは生徒だが、同時に先生でもある。困っている仲間を見たら先生になったと思って接して欲しい」と呼びかけた。
どこまで、私の真意が伝わったか分からないが、その後の生徒の変化から気持ちは伝わったと思っている。

しかし、教師としての現実は権威というものの一人歩きに立ち向かう術を、組織の中では持てないということである。
仲間が救おうと努力しても、組織の枠の中では救えないこともある。
ただ、その人が生きていこうとする過程の中では、いくらかの手助けになったであろうと思っている。
真の医療を行うために、実際のパッチアダムスは他の所で仕事をせねばならなかった。
真の教育活動や学問を行うためには、それを成り立たせるための現実の仕事をせねばならない。
映画のように最初から寄付などというのはあり得ないのである。
私はパッチアダムスのように、もう若くは無いけれど、自分なりのパッチアダムスを組織を超えて実行したいと思っている。
そもそも、私はいつも組織からはみ出していて、居場所がころころ変わってしまう・・・

2014年3月4日火曜日

軽トラの本領発揮

軽トラに乗り始めて半年以上経つが、通勤に使うことが主で、本来の力を発揮させずにいた。
雪が降った時はタイヤはスタッドレスでは無いので、家内が使っているFitで通った。
寒い朝はキャブが狭いせいか、直ぐに内側が曇り、エアコンを付けると燃費は予想以上に悪くなった。
軽トラに信頼もなく、燃費にも不満を持っている状態であった。
生徒からも、買ったばかりなのに「いつ買い換えるのか」と聞かれ、「死ぬまで乗り続ける」と見栄を張った。
内心はスバルの水平エンジンの車が欲しいとは思いつつ、自分の身の丈に合っているのはこちらだと自分に言い聞かせた。

そんな折、前々から、有機農業には必須の堆肥を作るために、落ち葉を拾いを決行した。
以前、姫路に通勤していた頃は、近くの椿峠の溝などにたまっている落ち葉が欲しいとずっと思っていた。
また、山頂集落である小野豆付近でも、いっぱい落ち葉があることは知っていた。
ところが、忙しさや寒さに負けて、どうしても拾いに行けずじまいだった。

意を決して、大きな熊手と竹箒、籾殻入れの袋をホームセンターで購入して、この週末に拾いに出かけた。
土曜日には、小野豆の山に軽トラで上り、道にたまっている落ち葉をかき集めた。
平家の史跡がある頂上付近まで上る道は急勾配で、少々不安であったが、セカンドで登り切った。
ただし、マフラーの焼ける嫌な臭いがした。
やはり、圧巻は悪路で、舗装していないでこぼこの道、水たまりをどんどん進んでいくことができた。
悪路を通るのは、以前乗っていたピックアップでの方が優れているが、何よりも落ち葉を積み上げるのが楽である。
しかも、狭い道の片隅に気兼ねなく駐車できる。
畑まで積んで帰って降ろす時も、横が開くので随分楽である。

さすがに山道を走るとガソリンも多く食って、元々少なかったので日曜日には給油した。
その帰りに、高田台から上郡に抜ける山道に入ってみた。
道ばたの落ち葉を掃除している人がいたが、その上の方で斜面に落ち葉が捨てられていたので拾った。
畑は前日に積み上げた落ち葉があったので、溝をまたいで畦にタイヤを乗せてその奥にまで進めた。
4WDなので、少々の溝や、穴にタイヤが落ちても平気であった。

まだ、新車と言うことで、オフロードで使うのはためらいもあったが、これでこの車への信頼ができた。
ピックアップに比べて、車体が低いので、大きな段差には対応できないが、その分小回りで切り抜けられる。
山に行って作業したりするのも、景色が良くて楽しいものである。
今日も仕事からの帰りに、千種川の東側の土手道(赤穂鉄道跡)を周世から通ってみた。
残念ながら落ち葉を拾うには無理があったが、通勤路に別の世界が広がったようにも思える。
軽トラは大切に乗るよりも、自由に使いこなすことの方が肝心だと分かった。

梅の開花

うちの玄関は、臘梅の香りで満たされている。
先日、畑のそばに咲いていたのを、私が二枝折ってきて、家内が活けた。
庭の白梅は、やっと数輪開きかけている。
散歩で通る道すがら、梅の咲き具合を見るのも楽しみだ。
山際のお寺の前の紅梅は、今が盛りだし、近所の家の庭の白梅はだいぶ咲きかけた。
桜が一斉に開くのとは違って、梅はかなり咲く日が違う。
観賞用の梅と、実を収穫する目的の梅とも様子が違う。
じつはうちの庭の梅は、実の収穫用の品種である。
臘梅も庭にはあるが、八重の花びらで香りはそれほど強くなく、咲くのも遅い。

今日は御津の綾部山の梅を見に家内と出かけた。
ここは週末は混むので、平日に休みが取れないと行けない。
4年間は特別支援学校にいた都合上、この時期に平日には休みが取れなかった。
今は普通校なので、テスト期間中に代休を取ることができて、家内も年休でつきあってくれた。
私の綾部山とのつきあいは、子供が幼児の頃からで、もう20年以上経つ。
子供らと弁当持参で来て、賑やかな山の斜面で食事をしたのを思い出す。
梅の幹もその頃よりもだいぶ太くなって、風格を感じる。

今日は天気は良かったのだが、風が冷たく、煙突の煙も真横にたなびいていた。
長い間寒かったせいか、咲き始めという段階で、山全体が色づくまでには到らない。
お客さんもそれほど多くなく、屋台の店も暇そうだった。
平日ということで、ご老人がほとんどで、寒さもあって子供連れは多くなかった。
高価なカメラと三脚をもって、年配の人たちが写真を懸命に撮っていた。
私も出かける前は覚えていたのだが、忘れてきてしまった。
家内の携帯で写した。

以前と違うと感じたのは、山からの風景である。
街の家が増えて、田園が減った。
そのかわりに、梺の菜の花畑が綺麗だった。
そして、犬連れの人が多いということである。
以前は子連れの人が多かったが、これも時代のながれだろう。
いずれ、私ら夫婦も孫ではなくて、愛犬を連れてくるのかもしれない。

以前来た時は暖かくて、梅ジュースを飲んだが、今日は甘酒を飲んだ。
ベンチに腰掛けて、瀬戸内海の景色を眺めた。
春の海というには、寒々しかったが、遠くの徳島まで見ることができた。

帰りは久しぶりに、大津のイオンタウンに寄ったのだが、いつも来る休日とは様子がまるで違う。
驚いたのは、男性の老人がたくさんベンチに腰掛けて時間を潰していることである。
確かに、家に居るよりも暖かく、馴染みの人と話もできるのだろうが、ボウーと座っている風景は少し異様である。
ただ、田舎では家に閉じこもって、テレビを見続ける老人が多いのだから、こうして外に出てくる方が健全なのかもしれない。
田舎ではしっかり歩けば、寒さも気にせず散歩で梅見ができるのだけれど、そういう人は少ない。
ダイエットで散歩と言うより、「梅見に歩いてくらー」と言った方が粋のように思えるのだが・・・

2014年3月1日土曜日

厳粛という苦行

昨日は勤務している高校の卒業式だった。
卒業式には厳粛に行うタイプと、和やかに別れを惜しむタイプがある。
自分の母校は人数も一学年140名程で、一人一人証書をもらい、校長と握手をして和やかだった。
長年勤務した特別支援(養護)学校も、式はなるべく厳粛にしたいという向きはあったが、送別会は楽しく行った。
それ以外の県立高校でも、160名程の大学附属高校は、一人一人証書の手渡しで、リアルタイムに映像を流したり、答辞の時に音楽と画像を流して和やかな雰囲気だった。

いままでどちらかというと和やかな卒業式に慣れていた身としては、今回の卒業式は辛かった。
今朝も歯医者に行って治療を受けたが、じっとすることの辛抱は同じであると思った。
歯医者は30分程で済むが、卒業式は2時間と長い。
私は顔がかゆくなっても、なるべく掻かないように努めながら、じっと同じ姿勢を保ち続けた。
静粛な時間に、会場の外のカラスの鳴き声があざ笑うかのように響きわたった。
号令とともも、一斉に立ち上がり、礼をする。まるで軍隊のようであった。
この苦行に耐えるために、思いついたのは「座禅」であった。
以前座禅のまねごとをしたことがあったが、それと同じように目を半開きにして、なるべく何も考えないようにした。
色々と式辞や祝辞があるのに失礼と思うが、あまりにも形式通りの言葉には、正直「無の境地」で望むしか無かった。

そんな中で、心を動かされたのは卒業生の答辞であった。
途中でオルゴールのメロディーも加わって、自然と涙がこぼれ落ちた。
おそらく、会場の誰もがこの答辞に救われたと思う。
残念だったのは、少々長かったことである。
それ以外は、最も素晴らしいものであった。
厳粛であったからこそ、オアシスのように潤いをもたらせてくれた答辞に、私は深く感謝した。