冬場は夜明けが遅くて、目覚めが遅かった。
この頃は、日が開けるのが早くなって、5時半には目覚める。
ジョギングの用意をして、走り始めてしばらくすると、陽が昇り、やがて6時を知らせるお寺の鐘が鳴る。
このところ、家内が入院したり、仕事が忙しくて2週間程ジョギングできていなかった。
そうすると、背中や腰が凝って辛くなってしまっていた。
運動不足であると思い、ジョギングを再開した。
朝補習のある木曜日などは、5時に起きて外に出た。
冬眠から目覚めたかのごとく、多くの人が散歩を楽しんでいる。
おそらく、真昼よりもたくさんの人が歩いているのだろうと思う。
実は私は高校生の頃からも朝型人間で、勉強するのも早朝が多かった。
たまに定期考査中など、朝起きて勉強しようと思い、結局起きられず、そのまま学校に行ったこともあった。
たまには、家の近くの唐船まで朝早く走ってくることもあった。
年をとったから朝早く起きるようになったわけでは無い。
冬場は夕方に、夕陽を見ながらのジョギングも確かに気持ちいい。
それ以上に、朝日を浴びながらのジョギングも、すがすがしいものである。
「早起きは三文の得」とは、この快適さを言うのだろう。
そして、慌ただしく過ごす一日は、この時間のおかげで潤いを与えられる。
ジョギングをせずに、仕事だけで一日を過ごし眠ってしまうと、空しさを感じる。
30分のジョギング、その前後の歩きの30分、合計一時間でのおかげで、心身ともリフレッシュできる。
歩くだけでも確かに良いのだが、ジョギングによって体を揺さぶられるせいか、背中の筋や筋肉がほぐれるような気もする。
走る前のストレッチも良いのだと思っている。
一番良いのは、歩いている時は色々と思い巡らすが、走っている時はあまり考えない。
景色を見ながら、無理の無いように、それでいて時間を気にしながら走る。
自分より明らかに若い人が歩いていると、「どうだ俺の方が若いぞ」と、密かに思えるのも良い。
逆に自分より年配の人に追い抜かれたりすると、まだまだこれからがんばるぞと思う。
仕事もがんばれて、食事やお酒がおいしくいただけるのも、このジョギングのおかげだと思っている。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2014年4月26日土曜日
2014年4月20日日曜日
急旋回の怖さ
先日来、韓国のフェリー事故で多くの修学旅行の生徒が、安息不明となっていることが報道されている。
このフェリーは、日本で就航していた時の船の名前は「波之上丸」
私が奄美諸島の与路島に村落調査に行く際に、何度か利用した船である。
初めて奄美に行った時の船が、 3000トンほどで波が高く、立って歩くのにも苦労した。
それが、倍以上の大きさを誇るこの船が、簡単に沈没するなど今でも想像できない。
どちらかというと、揺れが緩やかなので、港に降りてもその揺れが続いている感じがしたのを憶えている。
私は修学旅行で飛行機を何度か利用したが、その度に「もしも」を想像した。
この1月に飛行機で、北海道への修学旅行に出かけたが、その時もそうだった。
以前の学校で、グァム島へ修学旅行へ行った帰りに、飛行機が落雷に遭って機内に焦げくさい臭いがした時は驚いた。
飛行機が落雷に遭った程度では墜落しないことは分かったが、揺れも酷くて不安に駆られた。
つい一月前程にもマレーシア航空機が消息不明にもなっている。
絶対安全というのは飛行機にも無い。
もし、韓国のこの学校の消息不明者が全員亡くなったとしたら、この学年はどうなるのだろうと思ったりする。
残された生徒も職員も、心に深い傷を負うだろう。
原因は3等航海士の急旋回によって、荷崩れを起こしたのでは無いかと言うことである。
そして、「波之上丸」の上部に船室を拡張して、重心を高くしていたことも、影響した可能性があるという。
しかも、遭難時における対応のまずさや、船長らの無責任さによって被害を大きくした。
やるせない気持ちになるのは、助かった引率の教頭が、呵責の念から自殺したことである。
生徒を助ける行為から、逃げ遅れた教師と自分との違いに耐えきれなかったのだろう。
はたして、自分がその場にいて、命の危険を顧みず対応できたか自信は無い。
この事故の真の責任者は、誰なのだろうか。
急旋回した3等航海士だろうか
事故の対応をしっかりしなかった船長だろうか
船を改造してリスクを生じさせ、人員の配置をしっかりしなかった船会社だろうか
おそらく全てであろう、これらの悪条件がそろってしまったから、史上最悪と言われる事故が起こった。
これはこの韓国の当事者を笑えない。
日本の今の右への急旋回は、転覆の危機を生じさせてはいないのか。
日本内部できしみを起こして、崩壊の危機をもたらすのでは無いのか。
そして、もしそうなれば多くの庶民が行き場を失う。
そんな不安を駆り立てる、事故でもあった。
このフェリーは、日本で就航していた時の船の名前は「波之上丸」
私が奄美諸島の与路島に村落調査に行く際に、何度か利用した船である。
初めて奄美に行った時の船が、 3000トンほどで波が高く、立って歩くのにも苦労した。
それが、倍以上の大きさを誇るこの船が、簡単に沈没するなど今でも想像できない。
どちらかというと、揺れが緩やかなので、港に降りてもその揺れが続いている感じがしたのを憶えている。
私は修学旅行で飛行機を何度か利用したが、その度に「もしも」を想像した。
この1月に飛行機で、北海道への修学旅行に出かけたが、その時もそうだった。
以前の学校で、グァム島へ修学旅行へ行った帰りに、飛行機が落雷に遭って機内に焦げくさい臭いがした時は驚いた。
飛行機が落雷に遭った程度では墜落しないことは分かったが、揺れも酷くて不安に駆られた。
つい一月前程にもマレーシア航空機が消息不明にもなっている。
絶対安全というのは飛行機にも無い。
もし、韓国のこの学校の消息不明者が全員亡くなったとしたら、この学年はどうなるのだろうと思ったりする。
残された生徒も職員も、心に深い傷を負うだろう。
原因は3等航海士の急旋回によって、荷崩れを起こしたのでは無いかと言うことである。
そして、「波之上丸」の上部に船室を拡張して、重心を高くしていたことも、影響した可能性があるという。
しかも、遭難時における対応のまずさや、船長らの無責任さによって被害を大きくした。
やるせない気持ちになるのは、助かった引率の教頭が、呵責の念から自殺したことである。
生徒を助ける行為から、逃げ遅れた教師と自分との違いに耐えきれなかったのだろう。
はたして、自分がその場にいて、命の危険を顧みず対応できたか自信は無い。
この事故の真の責任者は、誰なのだろうか。
急旋回した3等航海士だろうか
事故の対応をしっかりしなかった船長だろうか
船を改造してリスクを生じさせ、人員の配置をしっかりしなかった船会社だろうか
おそらく全てであろう、これらの悪条件がそろってしまったから、史上最悪と言われる事故が起こった。
これはこの韓国の当事者を笑えない。
日本の今の右への急旋回は、転覆の危機を生じさせてはいないのか。
日本内部できしみを起こして、崩壊の危機をもたらすのでは無いのか。
そして、もしそうなれば多くの庶民が行き場を失う。
そんな不安を駆り立てる、事故でもあった。
2014年4月12日土曜日
遠くの自慢の子より、近くの不出来な子
親は子供が努力して、良い大学へ進み、良い就職ができるよう願い支援する。
子供もそれに応えるべく、受験勉強に励み、就職活動をする。
ところが、田舎では結局、親のそばにいるのは、それがうまくいかなかった子供である。
私もその一人である。
東京の大学院にまで進み、結局挫折して地元に帰って教師になった。
一つ下の弟は、良い大学に入り東京の企業に就職した。
当然、親は弟が自慢で、一時は家を弟に継がせようとした。
しかし、弟には地元に帰る意識などなかった。
そして、親の面倒を少しでも見られているのは、できの悪い私と、似たような末の弟である。
今回、家内の入院に際しても、大学院に進学した娘は帰って来れなかった。
大学を中退して、家にいて福祉関係の仕事に就いている息子は、家事をがんばってくれている。
施設のつとめで身につけた、食器洗いや、洗濯物を干したり取り入れをこなしてくれている。
私と息子の二人で、何とか家事をやっている。
私の学生時代だったら、娘と息子は逆の関係だっただろう。
娘を遠くの大学に行かせることなどあまり考えられなかったからだ。
もう少し昔だったら、長男は家を継ぎ、弟が遺産代わりに進学させられた。
今は男女も長男も関係なく、一人で生きていけるために教育を受けさせる。
継がせるべく家業も財産もないからである。
学校では自己実現と掲げて、良い大学へ良い企業へと生徒を送り込む。
そして、親は取り残されるか、それがうまくいかなかった子供と暮らす。
人は狩猟生活から、農業を行うようになっても、家族や親戚、地域の人と互いに助け合いながら暮らしてきた。
一部の群れをなす動物を除いて、多くの動物は子供は成長すると親から離れていく、それと人も同じになったように思う。
国家と企業が戦略上、都合の良い人材を確保するために、厚生福祉政策を行いそういう社会を築きあげた。
最近のニュースで将来に一人暮らしの数の割合が25%を超えると言っていたが、それを仕組んだのが何かを報道していなかった。
夕方、買い物行くと年配の男性の姿が多いのに改めて気がついた。
おそらく、こんな田舎でも一人暮らしの男性だけでなく、女性も多いのだろう。
一人で夕食をとる寂しさを想像してしまう。
国家が福祉政策で老後の面倒を見てくれても、孤独をいやしてはくれない。
家内が入院して、老後の一人暮らしを垣間見た今の実感である。
そういえば、親元の隣に住んでいた祖母が「偉くなんかならなくて良い」とよく言っていた。
それは単に僻みや嫉みではなかったのだなと最近つくづく思う。
だから、生徒にも「そんなに偉くならなくて良いのだよ」言いたいのだが・・・
子供もそれに応えるべく、受験勉強に励み、就職活動をする。
ところが、田舎では結局、親のそばにいるのは、それがうまくいかなかった子供である。
私もその一人である。
東京の大学院にまで進み、結局挫折して地元に帰って教師になった。
一つ下の弟は、良い大学に入り東京の企業に就職した。
当然、親は弟が自慢で、一時は家を弟に継がせようとした。
しかし、弟には地元に帰る意識などなかった。
そして、親の面倒を少しでも見られているのは、できの悪い私と、似たような末の弟である。
今回、家内の入院に際しても、大学院に進学した娘は帰って来れなかった。
大学を中退して、家にいて福祉関係の仕事に就いている息子は、家事をがんばってくれている。
施設のつとめで身につけた、食器洗いや、洗濯物を干したり取り入れをこなしてくれている。
私と息子の二人で、何とか家事をやっている。
私の学生時代だったら、娘と息子は逆の関係だっただろう。
娘を遠くの大学に行かせることなどあまり考えられなかったからだ。
もう少し昔だったら、長男は家を継ぎ、弟が遺産代わりに進学させられた。
今は男女も長男も関係なく、一人で生きていけるために教育を受けさせる。
継がせるべく家業も財産もないからである。
学校では自己実現と掲げて、良い大学へ良い企業へと生徒を送り込む。
そして、親は取り残されるか、それがうまくいかなかった子供と暮らす。
人は狩猟生活から、農業を行うようになっても、家族や親戚、地域の人と互いに助け合いながら暮らしてきた。
一部の群れをなす動物を除いて、多くの動物は子供は成長すると親から離れていく、それと人も同じになったように思う。
国家と企業が戦略上、都合の良い人材を確保するために、厚生福祉政策を行いそういう社会を築きあげた。
最近のニュースで将来に一人暮らしの数の割合が25%を超えると言っていたが、それを仕組んだのが何かを報道していなかった。
夕方、買い物行くと年配の男性の姿が多いのに改めて気がついた。
おそらく、こんな田舎でも一人暮らしの男性だけでなく、女性も多いのだろう。
一人で夕食をとる寂しさを想像してしまう。
国家が福祉政策で老後の面倒を見てくれても、孤独をいやしてはくれない。
家内が入院して、老後の一人暮らしを垣間見た今の実感である。
そういえば、親元の隣に住んでいた祖母が「偉くなんかならなくて良い」とよく言っていた。
それは単に僻みや嫉みではなかったのだなと最近つくづく思う。
だから、生徒にも「そんなに偉くならなくて良いのだよ」言いたいのだが・・・
2014年4月8日火曜日
寄り添うということ
家内が今日から入院した。予定では二週間の滞在だ。
家内が家を空けるのは、子供が入院した時以来である。
私は仕事や研究調査で家を空けることはたまにあったし、3年前には2週間入院した。
下宿の経験の無い家内にとって、一人で外泊するのはほとんど初めてのことである。
手術への不安も大きいだろうが、心細いだろうなと気にかかる。
いつもの場所に家内がいないというのは、寂しいと言うより、帰りが遅いなと言う感じである。
というのも、仕事の関係で家内が私より遅く帰ってくることがままあった。
先に飲んで眠ってしまうこともあって、起こされることがしばしばあった。
今日は起きているのに、当たり前のことだが、いっこうに帰ってこない。
メールが来たので、返事を書いたが、気になって電話した。
電話は会話が長く続かない。
家内とは昔から長電話したことが無いのである。
こたつに入ってテレビを見ながらやドライブだと、たわいも無いことをずっと話し続けるのに・・・
病室は大部屋で、喋ることはなるべく控えねばならなかった。
これから毎日見舞いに行くにしても、家に帰ってからは、「ああ、今日も帰ってこないのか」と思い続けなくてはならないのだろう。
家内が家を空けるのは、子供が入院した時以来である。
私は仕事や研究調査で家を空けることはたまにあったし、3年前には2週間入院した。
下宿の経験の無い家内にとって、一人で外泊するのはほとんど初めてのことである。
手術への不安も大きいだろうが、心細いだろうなと気にかかる。
いつもの場所に家内がいないというのは、寂しいと言うより、帰りが遅いなと言う感じである。
というのも、仕事の関係で家内が私より遅く帰ってくることがままあった。
先に飲んで眠ってしまうこともあって、起こされることがしばしばあった。
今日は起きているのに、当たり前のことだが、いっこうに帰ってこない。
メールが来たので、返事を書いたが、気になって電話した。
電話は会話が長く続かない。
家内とは昔から長電話したことが無いのである。
こたつに入ってテレビを見ながらやドライブだと、たわいも無いことをずっと話し続けるのに・・・
病室は大部屋で、喋ることはなるべく控えねばならなかった。
これから毎日見舞いに行くにしても、家に帰ってからは、「ああ、今日も帰ってこないのか」と思い続けなくてはならないのだろう。
2014年4月4日金曜日
駅
先日の日曜日、姫路に行った。
20年程前に勤めていた学校の友人たちと会う、毎年一度の恒例の同窓会のためである。
昨年まで姫路に勤めていたが、姫路駅を利用するのは、学校行事で出かける時だけで、年に数度だけであった。
姫路駅やその周辺が改築工事でどんどん変わっていくのは、利用する度に分かっていた。
完成した姿を見たのは初めてであった。
なにせ今の職場に移ってから、鉄道を利用したのは約一年ぶりだったからだ。
その完成された駅と駅周辺に、姫路のイメージの変貌を感じた。
私は、幼い頃から親に連れられていく、楽しい場所は姫路だった。
動物園、駅ビル、サラリーマンスタンド、ヤマトヤシキ等々・・・
父親は「バス乗って、電車乗って、姫路行こう」と自作の歌を子供に歌った。
私は中学受験で一人で通い出し、中学校から6年間通った。
駅は、駅そばの臭いの漂う、雑然とした場所だったが、一時間に一本しか無い電車を待つのに長くいる場所だった。
憧れの女性に会えるのもホームであり、同じ席に座る期待のときめきがある場所でもあった。
大学に行ってからは、帰省して乗り換えで降り立つのも姫路駅で、ホームから揖保乃糸のネオンを見て、帰ってきたなと思った。
通勤が自家用車になり、年に数度しか利用する機会が無くなったが、それでも待ち合わせる場所が駅中央だったりしたので、思い出深い
いつしかホームが高架になり、いつもの7番ホームは無くなった。
そして、50年あまりの多くの思い出が詰まった駅やその周辺が消え去った。
城は修復して原型を留めるけれど、駅は便利さと美しさを求めて変貌する。
東京駅のように歴史的な建築価値が無くても、時代に耐える継続性というコンセプトも欲しいと思った。
姫路からの帰りに、家内の車での迎えを待つのに利用した駅は有年駅だった。
連絡が遅くて、長い時間をそこで過ごすことになったので、駅周辺を眺めていた。
この駅の説明文には「明治23年以来の面影を残す駅」とあった。
その駅の前には新しい駅の完成図が掲げられていた。
気がつけば北側に新しいホームができていた。
この駅舎や、歩けば音のする陸橋ともお別れなのである。
ここも時代を変えてしまうのだなと思った。
20年程前に勤めていた学校の友人たちと会う、毎年一度の恒例の同窓会のためである。
昨年まで姫路に勤めていたが、姫路駅を利用するのは、学校行事で出かける時だけで、年に数度だけであった。
姫路駅やその周辺が改築工事でどんどん変わっていくのは、利用する度に分かっていた。
完成した姿を見たのは初めてであった。
なにせ今の職場に移ってから、鉄道を利用したのは約一年ぶりだったからだ。
その完成された駅と駅周辺に、姫路のイメージの変貌を感じた。
私は、幼い頃から親に連れられていく、楽しい場所は姫路だった。
動物園、駅ビル、サラリーマンスタンド、ヤマトヤシキ等々・・・
父親は「バス乗って、電車乗って、姫路行こう」と自作の歌を子供に歌った。
私は中学受験で一人で通い出し、中学校から6年間通った。
駅は、駅そばの臭いの漂う、雑然とした場所だったが、一時間に一本しか無い電車を待つのに長くいる場所だった。
憧れの女性に会えるのもホームであり、同じ席に座る期待のときめきがある場所でもあった。
大学に行ってからは、帰省して乗り換えで降り立つのも姫路駅で、ホームから揖保乃糸のネオンを見て、帰ってきたなと思った。
通勤が自家用車になり、年に数度しか利用する機会が無くなったが、それでも待ち合わせる場所が駅中央だったりしたので、思い出深い
いつしかホームが高架になり、いつもの7番ホームは無くなった。
そして、50年あまりの多くの思い出が詰まった駅やその周辺が消え去った。
城は修復して原型を留めるけれど、駅は便利さと美しさを求めて変貌する。
東京駅のように歴史的な建築価値が無くても、時代に耐える継続性というコンセプトも欲しいと思った。
姫路からの帰りに、家内の車での迎えを待つのに利用した駅は有年駅だった。
連絡が遅くて、長い時間をそこで過ごすことになったので、駅周辺を眺めていた。
この駅の説明文には「明治23年以来の面影を残す駅」とあった。
その駅の前には新しい駅の完成図が掲げられていた。
気がつけば北側に新しいホームができていた。
この駅舎や、歩けば音のする陸橋ともお別れなのである。
ここも時代を変えてしまうのだなと思った。
2014年4月1日火曜日
輝やきながら、さようなら
彼女は、けなげにお手製のクッキーを、赤いハートマークの絵柄のはいったすてきな袋に包んで、お世話になった先生の机に配って歩いた。
春休みで職員室にいる先生は多くなかったが、手渡しできる先生には「ありがとうございました」とお礼の挨拶をして回った。
二年生の終わる3月31日で学校を離れる、私が担任している女子生徒である。
その姿がいじらしくて、涙が止まらなかった。
決して、きれい事で済むような一年間では無かったけれど・・・
彼女はフルートが上手で、吹奏楽部のステージ演奏では、輝いて見えた。
それと同じくらい、今日の彼女は輝いて見えた。
明るい笑顔で去って行く生徒を見送りながら、気持ちのやりどころは無かった。
春休みで職員室にいる先生は多くなかったが、手渡しできる先生には「ありがとうございました」とお礼の挨拶をして回った。
二年生の終わる3月31日で学校を離れる、私が担任している女子生徒である。
その姿がいじらしくて、涙が止まらなかった。
決して、きれい事で済むような一年間では無かったけれど・・・
彼女はフルートが上手で、吹奏楽部のステージ演奏では、輝いて見えた。
それと同じくらい、今日の彼女は輝いて見えた。
明るい笑顔で去って行く生徒を見送りながら、気持ちのやりどころは無かった。
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