播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2014年12月31日水曜日
facebookでタイムスリップ
先月にスマホに変えて以来、色々試していたのだが、今日はたまたまfacebookだった。
登録した途端に、私が関わった兵庫県立大学附属高校10回生の友達情報がどっと入ってきた。
特に担任をしていた生徒とは、携帯でのメールのやりとりなどをしていたので、その関係かもしれない。
卒業生たちがfacebookで、繋がっているのがよく分かった。
私は恥ずかしながら、普通高校で担任を3年間やり遂げたのは、県大附属の10回生しかない。
特別支援学校(養護学校)は3年間やり通せるのに、龍野実業も上郡高校では2年生まで、今の赤穂高校は2年生のみである。
どの学年も一緒に修学旅行には行っているのだが、卒業アルバムはもっていない。
普通高校でアルバムを持っているのは、 県大附属の10回生だけなのである。
だから、唯一クラスの同窓会にも加わることが出来る。
facebookの良いところは、近況が写真とともに伝わってくることだ。
子供と一緒に写っているところなど、微笑ましい。
日本のみならず外国にも幅広く活躍しているのがよく分かる。
卒業生は今が若さの花盛りというところ
私は不用意にも、登録時に撮った写真をプロフィールに貼り付けたのだが、さっき卒業アルバム用の写真に張り替えた。
写真では歳は誤魔化せないのだが、せめて教師らしい格好を教え子たちには見てもらいたかった。
久しぶりに懐かしい名前に接したせいか、気持ちも当時に戻ってしまった。
今からほぼ10年前に卒業していった生徒たち、たぶん私の白髪頭を見て驚いているだろう。
今度の同窓会には是非伺いたいと返事したからには、心身ともに10年前と変わらぬ位に元気でありたいと思う。
そして、自由な校風で学んだ教え子たちが、どのような暮らしをしているのか、是非知りたいと思う。
しかし、本当にこういうネットは、時間の空間を超えるタイムマシーンのようだ。
時々、このタイムマシーンで10年間に戻ろう・・・
2014年12月30日火曜日
喪中欠礼
今年は、例年に無く喪中欠礼のお葉書の数が多い。
おそらく私が交流している相手の方は、身内の方が高齢になっている人が多いからだと思う。
ただ、一人だけご本人では無くて、奥さんから頂いたものがあった。
以前、このブログでも書かせていただいた故西畑俊昭氏の奥さんである。
私のブログを読んでくれたことが書き添えられてあって、思わず私も目頭が熱くなってしまった。
ただ、気ままに書いてあるブログに、心を寄せていただいたことを、恥ずかしくもあり、ありがたく思えた。
私は亡くなった方は、その人と関わった人の記憶の中で行き続けると思っている。
文化人類学や民俗学をやっていたせいか、霊魂とかカミの事柄と関わることが多かった。
確かに、霊魂を科学的に量子論レベルで解明しようとする人もいて、興味深いと思っている。
私はその人を直接ないし間接的に知る人が、共同で見たり感じることが出来る存在だと思っている。
感受性の強い人、よく言う霊感の強い人は、知識が無くても感じられるようだが、私はそれほど強くないのでよく分からない。
それとは反対に、その存在を否定してしまう人もいるが、私はそれには賛成できない。
私は赤穂の畑仕事をしている時、その畑で汗水を流して働いていた今は亡き父親を感じている。
父親ならどう言うだろうかと思うと同時に、側で同じように働いているような気がする。
取得する時に宅地にしてしまって、固定資産税が非常にかかるので、処分したいと思いながらも、畑を作り続けるのもそのせいかもしれない。
先祖伝来の田畑に拘る農家の人の気持ちを、経営の観点から疑問を感じることもあった。
父親が亡くなってからは、田畑というのは、親や先祖から子供や孫につないでいく大切な命の絆だと思うようになった。
田畑だけではなくて、師弟関係や仲間で得られた知識や姿勢もそうである。
亡くなった廣山先生や西畑氏との関わりの中で得られたものを、私はその面影ともに引き継ごうと思っている。
中心となる人が欠けてしまうと、そのグループの人との関係は希薄になってしまう。
それでも、先日懇意にしていただいた方の息子さんと、お話が出来て懐かしかった。
その息子さんは薬剤師さんなので、学校の衛生検査や保健委員会に、よく来ていただいている。
廣山先生や西畑氏の関わりがあった人たちは、それなりに赤穂の中で頑張っている。
先日も宮崎素一さんが県で表彰されるニュースを「赤穂民報」で知って、嬉しかったし、励みにもなった。
年賀状を書くことは、年の暮れは故人を偲ぶことにもなる。
と言いつつ、いつもなかなか書けない・・・・
私の大好きな「雪の華」です。かなり以前に歌ったものですが良かったら聴いてください。「雪の華」
2014年12月27日土曜日
いつかのクリスマス
私は中学高校大学とミッション系の学校に10年間も行っていたので、クリスマスとはそこそこ縁があった。
ただ、キリスト教は身近にあったけれど、あまり興味は持てなかった。
クリスマスもどちらかというと、単に年中行事の感じもする。
ミッション系スクールは別として、普通校ではあまりクリスマスは授業とは関係ない。
ところが、廊下で若い女性の先生が、着ぐるみを着ていたので、くまのプーさんかと思ったら、トナカイだった。
よく見たら確かに鼻が赤い。
英語の授業を楽しくするために、先生がALTの先生と色々工夫をしているのだ。
私は特別支援学校での勤めが長いので、そこではクリスマス会を多く経験した。
毎年、生徒と教師が合唱や合奏の練習をして楽しんだ。
中でも、私は思いきってB'zの「いつかのメリークリスマス」をギターを弾きながら歌ったのが忘れられない。
今から3年ほど前だったので、当時の生徒がこの歌を知っているか不安だったが、一緒に歌ってくれたので嬉しかった。
この歌はB'zの中でも一番好きな歌で、忘年会などでも歌ったりしていた。
カラオケが殆どだったので、ギター一本で歌うのは非常に緊張した。
この曲は何となく、自分が東京で暮らしていた頃を思い出させる。
歌詞の中の「線路沿い」というのを、西武新宿線であったり、東急東横線と重ねてしまう。
しゃれた椅子どころか、家具はリサイクルショップで買いそろえたのだが、それなりに輝いていたのかもしれない。
そして、「いつまでも手をつないでいられると思っていた」という一節も、色々と思い出を巡らせる。
若き頃の恋愛の破局、最近では子供や生徒の巣立ち。
特別支援学校では、孫のような生徒が泣き止まないので、手をつないで廊下を一緒に歩いたのを思い出す。
本来はクリスマスは家族で楽しく過ごす日なのに、この曲とともに寂しく感じてしまう。
そういえば、去年のクラス解散会でこの歌を歌ったのだが、生徒は憶えてくれているだろうか。
ラジオなどで流れたら、私のことを思い出してくれたら嬉しい。
カラオケで歌ってみました良かったら聴いてください「いつかのメリークリスマス」
2014年12月21日日曜日
赤穂でのI Love You
年末の忘年会シーズンだというのに、人通りはそれ程多くない。
駅前通を賑やかに歩いているのは、どうも大学生である。
時間があったので、路地裏を歩いてみたが、店の中もお客がいなくて寂しい感じである。
忘年会の一次会が終わり、二次会ではカラオケをしたいというので、何人かでスナックに入った。
そこで、一緒に来ていた音楽専門のNさんが、「尾崎豊の『I love you』を歌いませんか、私は上を歌いますので」と言ってくれた。
あまり自信は無かったけれど、歌い始めると何とか歌える。
さすが、Nさんが、うまくコーラスを付けてくれたので、ますます気持ちが入っていく。
自分でも歌えるのが不思議なくらい声も出る。
最後まで歌い終えて、皆から暖かい拍手を頂いた。
Nさんと握手を交わし、「これからも歌を一緒にやりましょうよ」と約束した。
この歳になると、こういう曲を誰のために歌うのか分からなくなる。
ただ、年齢の近いNさん同様、若かりし日に思いを寄せた人に対して歌っているのかもしれないし、家にいる奥さんに対してかも・・・?
そして、私にはもうしばらくすると、学校を離れていく教え子たちへの気持ちとしてもある。
歌詞の内容は、学校にはふさわしくは無いが、不器用な心のふれあいとしては通じるものがあるだろう。
恋愛がはかないように、学校は出会いと別れの繰り返しでしか無い。
そこにいる生徒は、相変わらず10代後半の世代なのだが、教師である私はどんどん過去のものになっていく。
おそらく尾崎豊など今の生徒は殆ど知らないだろう。
十数年前にある女生徒が、一生懸命、黒板に尾崎豊の歌詞を書いていたことを思い出す。
店を出ての人通りの無い帰り道も、その歌をひとり口ずさんだ。
去年の修学旅行で行った北海道富良野の夜を思い出しながら・・・
追記
家で 尾崎豊の『I love you』をカラオケで一人歌ってみました。良かったら来てください。
2014年12月8日月曜日
どじょう
田植えシーズンと稲刈りが終わったこの時期に行う。
いつものように、溝から泥を上げると、ドジョウがうじゃうじゃ上がってくる。
目に付いたのは、逃がしてやるのだが、いちいち探していたら、作業が進まない。
泥が溜まるところでは、泥を上に上げて溝に落ちないようにだけならしておいた。
一通り溝掃除が終わって戻ってみると、カラスが早速ドジョウをつかまえに来ている。
今まで、農薬が気になって、ドジョウを拾うことは無かった。
考えてみれば、中国から輸入されているドジョウの方が危険な気がする。
せっせせっせと食べてている、ゴイサギも元気そうだし、今年は拾うことにした。
大きいのや小さいのを合わせて、数十匹にもなった。
泥を吐かせるために、大きなプラスティックの水桶に入れて泳がせた。
私が小学生の頃は、今の赤穂の親元の敷地はは田んぼで、そこには井戸があった。
父親と一緒に、その井戸さらえでドジョウを獲ったことが何度かある。
バケツで泥ごとくみ上げて、ざるですくい上げたが、ドジョウが山ほど獲れた。
泥を吐かせてから、味噌汁に入れたり、大きいのは蒲焼きにして食べた。
それほどおいしいとは思わなかったし、来る日も来る日も続いたので、うんざりすることもあった。
生臭い味だし、格別おいしい物では無かった。
大学時代、とある自然愛好家の友達は、水槽に色んな淡水魚を水草とともに飼っていた。
彼は自然愛好家の仲間が来ると、その中の魚や水草を食べた。
ドジョウもその中に混じっていて、いつの間にかいなくなっていた。
聞くとやはりおいしく食べたという。
彼は観察のためと言うより、生け簀として、水槽を用いていたようだ。
彼とは何度も彼の下宿で飲んだが、彼の楽しそうに泳いでいる水槽の魚は食べる気はしなかった。
ドジョウがおいしいと思ったのは、東京に住んでいた時に、たまたま柳川鍋を食べる機会があった時だ。
濃い味付けで、ゴボウと卵に美味く合っていた。
ドジョウがこれほどおいしいとは思わなかった。
飲む機会は多かったのだが、それ以来あまり食べた記憶が無い。
店でドジョウを見かける度に、買って帰って 柳川鍋で食べたいと思うのだが、高くて手が出なかった。
また、中国産というのにもためらいがあったし、家内が嫌がった。
それでも、ドジョウはウナギよりも栄養価があると知っていたので、ずっと食べたいと思い続けていた。
この高田地区のドジョウは、わざわざコウノトリが仲間を連れて、食べに来るくらいだし、普段も鷺の餌となっている。
近所の人は、子供と一緒にとって楽しむ程度で、食べる人はいない。
今回は思い切って食べてみようと思う。
コウノトリのさっちゃんとは、競合しないように慎ましく・・・
追記
2014/12/21の本日
ありがたく、ドジョウを頂きました。
ドジョウは二週間もの間、冷水の中にいただけあって臭みは殆どありませんでした。
ただ、やはり生きている状態から料理するのは、抵抗を感じました。
ゆで上がるまでは私が行い、味付けは家内にやってもらいました。
家内は一口も食べず、私と息子が食べました。
ドジョウ一匹、ウナギ一匹と言いますが、私は多量のウナギを食べたことになります。
ウナギ一匹2000円なら、4万円ほどということになりますか?
それよりも、命を頂くことがいかに貴重かと言うことを知ることの方が価値がありました。
2014年12月6日土曜日
3年最後の期末テスト
この生徒たちの答案を見るのも最後かなと思うと、今までとは違う思いになった。
今までは、「できてる」とか「サボってる」とか結果のみを見ることが多かった。
それが、今回は「この生徒は生徒なりに頑張ったな」と感じるものが多かった。
というのも、私が担当しているあるクラスは、試験担当のクラスの中で平均が一番悪かったので、「せめてゲボ脱出」と唱えていた。
答案を見ながら、ゲボでも良いかと思った。
それなりに努力の跡が見られたからである。
以前勤めていた学校では、採点業務を速くするためにマークシートを用いた。
試験を作るのは大変だが、採点は30分もかからなかった。
その頃、ある先生がマークシートを用いないというので、理由を尋ねた。
それは「試験は生徒との対話だから」ということだった。
その頃は、仕事に追われていたので、何となく聞き流していた。
歳も経たせいか余裕も出て、今回は採点も確かに生徒との対話だと思えた。
特に、記号では無くて用語を書いてもらうと、その字に気持ちが表れている。
そう考えると、センター試験などは、生身の人間を相手にしている試験では無いように思える。
そして、そのセンター対応と称して、マークに頼った自分も生徒との対話を重視していなかったと反省せざるを得ない。
本当はレポートなどの文章や、授業中の発表などで対話できる機会があった方が良かったのだろう。
卒業すればレポートや論文などの文章が中心になるからだ。
そう言えば、昨年見ていた学級日誌の文章は、とても貧弱だったことを思い出した。
ツイッター程度の単文しか書けない生徒が多かった。
そのことを考えれば、テストは単語としてはすごい文字数だと思う。
その中にせめて、生徒の思いを読み取らねばならないと思った。
2014年12月5日金曜日
大学の違い
私が受験を失敗したのを痛切に感じさせられたのは、大学生の頃の夏休みのアルバイトである。
当時の赤穂では夏休みだけできるアルバイトは殆ど無くて、私は親の知り合いを通じて、土方のアルバイトをした。
名古屋でも当然アルバイトをしたが、そちらは餅屋の仕事などであった。
私は1年次の軽音学部も、その後の剣道部も長く続かなかった。
ただ、文化人類学研究会の村落調査班は長く続き、その後の人生を変えることになった。
この村落調査は長期休暇期間中に村落に出かけて、聞き取り調査をするので、短期間で稼げるアルバイトが都合が良い。
赤穂の実家に帰ってアルバイトをしたのも、生活費がかからず、短期間に稼げるからであった。
弟も大学が勉強が忙しくなる前は、夏休みに帰ってきてアルバイトをした。
弟には家庭教師のアルバイトが直ぐに見つかった。
家庭教師をする相手は、母親の勤め先の主人の子供である。
ここで、大阪大学と南山大学の差を思い知らされた。
名古屋でも家庭教師のアルバイトに応募したが、一度も出来なかった。
ところが不思議なもので、東京では東京都立大学大学院生として、家庭教師も塾講師もアルバイトは見つかった。
ただ、家庭教師もそれなりに良かったが、それ以外にやった色んなアルバイト経験が世間を広くしたと思っている。
私はそういう機会では受験の失敗を思い知らされたが、南山大学に対しては嫌悪感は持たなかった。
同じ学科の同級生の中には、河合塾で東大を目指して失敗して、入学したのは良いが、その拘りで去って行った者もいた。
ルームメートになった友達も、早稲田大を受け直したが、結局上手くいかなかった。
また、数年して浪人を続けて入学してきた同じ高校の同級生もいたが、彼は長続きしなかった。
その一方で、国立の教育大に受かりながら南山大を選んだ友達もいたが、男子は名古屋大学を落ちた者も多かった。
望んで入学した者と不本意ながら入学した者が入り交じった大学だった。
私が受験の失敗のコンプレックスを抱えながら、大学を続けられたのは、ひとえに研究会の活動のおかげだと思っている。
そこで、信頼できる教官と出会い、親友を得、恋人も得ることが出来た。
そして、研究の道もその中で見いだすことが出来た。
挫折の連続の中でも、腐らず、もがきながら探り当てた活路だったように思う。
大学受験
大学受験では失敗した自分は、受験指導をすることは毎回そのことを振り返ることになる。
40年近く経った今でも、生徒に自分の失敗談を話すことが多いのである。
中学受験も、大学院受験も、教員採用試験も、運転免許も一発で合格したのに・・・
大学受験は現役と浪人二年間で、大道予備校と南山大学の人類学科一つのみしか合格しなかった。
おそらく、他のどの受験よりも労力を費やしたのにも関わらず、希望する大学には行けなかった。
ただ、たまたま合格した南山大学文学部人類学科は大きく自分の人生を変えてくれた。
私は決して研究をしたいとも、教師になりたいとも思っていなかった。
文学に憧れたり、マスコミの仕事がしたかったが、一番やりたいことはバンド活動だった。
とにかく大学に受かりたいと言うよりは、受験生から解放されたかった。
だから、浪人して共通一次元年で不本意な結果となっても、もう浪人は続けたくなかった。
親戚の叔父からも、もう一年頑張ったらどうかと言われても、その気にはなれなかった。
そもそも、新聞奨学生として浪人し始めた時に、住み込みの新聞配達もすぐにやめて、その挫折を味わっていた。
元灘高生や元甲陽高生に混じっての予備校生活も、その長時間の通学で挫折した。
そして、受験自体友達と一緒に旅行気分だったり、下宿に留めてもらうなど安易であった。
それと対照的なのは弟であった。
現役でそこそこの私立大学を合格していたが、国立を目指して浪人した。
親も私の失敗に懲りてか、賄い付きの下宿をさせた。
弟は浪人して見事大阪大学に合格した。
弟は大学卒業後は大手企業に就職したが、その後転職して充実した神奈川県での生活を送っている。
大学受験に関しては、地道でまじめな弟の方が成功したのである。
ただ、この歳になって、余裕のある生活を送っているのはどちらかと言えば自分だろうと思う。
年収は確かに弟の方が上だが、仕事漬けの生活をしている。
持病に関しても私よりも深刻である。
まじめな弟は仕事を生きがいにして生きてきたことだから、不幸では無いと思うが、私から見れば可哀想に思えることもある。
私は大学受験で挫折を味わい、結局望んだ研究職にも就けずにはいるものの、生徒と楽しく関わることが出来る喜びも感じている。
今、真剣に受験に取り組んでいる生徒に、人生という長い目で考えようと言っても無理なことは分かっている。
ただ、失敗しても一生懸命生きていけば、何とかなることも知って欲しいと思っている。
特に、受験のプレッシャーで押しつぶされそうな、君には・・・
2014年12月1日月曜日
ヤンキーと不良
「不良やったけど ヤンキーとは違う」と答える。
私のイメージでは、ヤンキーは外見からしてツッパリスタイルを維持しているが、私はしていなかった。
同級生には当時流行のパンチパーマをかけたりしている者もいたが、私は長髪程度だった。
ただ、教師からは不良グループと見なされて、成績の良い者には我々とつきあうなと言われた。
言われた中には東大を目指していたのだが、我々と仲が良い者もいてそれを我々に告げた。
今まで物わかりが良いと思っていたその教師に対しては、裏切られた気持ちになったのを憶えている。
我々は大人びたことをするだけで、喧嘩をしたりバイクで走り回ることは無かった。
バンドを組んで演奏する仲間が中心だったが、色んな仲間がいた。
今は亡き中島らもの高校生時代にちと似ているが、彼ほどの逸脱は無かった。
教師になり始めの頃に、そんな話をすると年配の先生は旧制中学校の学生みたいだと言われた。
私学の自由な雰囲気で、自己責任においてたいていのことは許容されていた。
受験という枷があったので、ある一線は守っているつもりではあった。
教師になる人の多くは、まじめな人が多いので、私のような存在は異質である。
私のような教師が多すぎても困ると思うが、そういう教師も必要に思うことがある。
規則が絶対だと思うこと自体が、私には非常に危険だと思うからである。
私はこれからも、ちょい悪親父としてしばらくは教師を続けるつもりである。
追記
尚、東大を目指していた我々と親交のあった同級生は、無事現役で東大に合格した。