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2015年11月30日月曜日

10年ぶりのレース

きっかけはちょっとしたことだった。
本校の水泳部の主顧問が、別件の校務のために生徒引率できなかった。
私は代行を頼まれたのだが、今回の相生コスモスのレースは選手登録の必要が無かった。
私は10年前までは、マスターズの選手登録をして上郡のチームからレースにたまに出ていた。
本校の水泳部は男子の正選手が3人、女子が一人、そしてマネージャーが女子二人である。
そして、肢体不自由の選手が一人いるが、選手登録はしていなかった。
男子3人の内の一人は開催者の相生コスモスの選手でそちらから出場し、私が入らないとリレーは組めなかった。
どうせ引率するなら自分も出場し、リレーも参加しようと思った。

私は生徒と練習に普段付き合ったり、自分でも気が向いたら泳ぎに行っていた。
しかし、ここ数年は肩を壊したり、腹部を手術をしたりでまともな練習が出来ていなかった。
そこで、このレースに向けて練習を頑張りすぎたら、3週間前に痛風発作を起こしてしまった。
練習を積むどころか、まともに歩くことさえ出来なかった。
やっと一週間前くらいから泳げるようになって、今日の日を迎えた。
いつものことながら、レース前の朝は逃げ出したくなった。
特にリレーがあると、プレッシャーが倍増した。
それでも会場について、多くの人が集まってくると自然に気持ちが入ってきた。
ちびっ子や初心者が多いかと思ったら、意外と現役の選手も多く来ていた。

アップの練習で早くもM君が鼻血を出してしまった。
彼は肢体不自由なのだが、練習を頑張って全国の強化選手にも選ばれていた。
しかし、脚力が弱いのと、飛び込みの練習不足で苦手だった。
水面で顔面を打って鼻血が出てしまったのである。
彼は一般の人に交じってのレースで、リレーに出るのは初めてだった。
それでも200mメドレーリレーは何とか上手くいった。
しかし、自分のバタフライのタイムを知って情けなくなった。
M君がフリーしか泳げないので、私がバタフライを泳いだのだが、このリレーの結果では一番遅くて足を引っ張ってしまった。

リレーは周りは速いチームで気後れしたが、個人種目になると同じ年齢層でほっとした。
今まで滅多に出なかった50mフリーに出たのだが、やはり哀しい結果だった。
それでもM君より少しだけ速かったので、ほっとした。
彼には申し訳ないが、彼が出場してくれていなかったら私も出場していなかった。
顧問が生徒の足を完全に引っ張って、しゃしゃり出るわけにはいかなかった。
M君には56のジジーに負けたことに発憤して、世界を目指してくれることを願っている。
体のハンディーと年齢のハンディーでは、体のハンディーの方が厳しいことは分かる。
ただチャンスと言うことでは、彼の方が余程開けているのである。
私はどうあがいても世界で活躍できそうには無い。

昼休みに食事をとっていると、懐かしい人が挨拶に来た。
親子三人なのだが、父親は直ぐに分かった。
しかし母親は旧姓を名乗られても分からない。
話をしていてようやく、分かった。
この家族は前に勤めていた学校の水泳部の卒業生だったのだが、結婚していたとは知らなかった。
母親は近畿大会にも出場する選手だったが、体型も容貌も変わっていたので分からなかった。
可愛い子供を連れて挨拶してくれたのに、午後からのレースが気になってゆっくりと話が出来なかった。
こういうことがあると、クラブ顧問をやっていて良かったと思う。
彼らも子育ての余裕が出来たら、きっとまた泳いでくれるだろう。
そしたら、このコスモスで一緒にレースを楽しめそうだ。

午後からは25mバタフライに出場した。
当然、若かりし頃のタイムには遠く及ばなかった。
以前のマスターズチーム仲間は60代で14秒台で泳いでいた。
それよりも4秒も遅いタイムで、まだまだ頑張らねばと思った。
いよいよ、最後のフリーリレーとなった。
トータル年齢で区分してあるので、社会人チームと同じ組になった。
中学・高校生と同じ組より、私としては気分的には楽なのだが、周りは断然速かった。
結果はどうあれ、やっと無事終わってほっとした。
万一気分でも悪くなって、生徒に心配を掛けるようになってはいけないと思っていた。
老若男女、色んなハンディーを持っている人も一緒に楽しめる良いレースだった。
圧巻は全国大会に出場している赤穂の中学生だった。
こんな田舎の片隅で、全国レベルの泳ぎも見せてもらった。
単に競走だけで無く、応援やレクレーションのある楽しいレースだった。
頭が下がるのはコスモスプールのスタッフである。
休憩時間も殆どとらずに、レースを運営してくれた。
こういうレースがあるから水泳は楽しい。
私は久しぶりに、爽快な気持ちになれたことを、水泳仲間皆に感謝したいと思う。

なお、メドレーリレーで2位になっていた。
後日、表彰状がと届いた。
一生の宝物である。
職員室で他の教師に見せびらかしてやった!

2015年10月18日日曜日

御座候

先日、備前海の駅からの帰り、家内が大判焼きという看板を見つけて、「御座候のことやろう」という。
「そうや、御座候は商標名で、太鼓焼き言うたり、自分らは回転焼き言うとった」
家内は子供のために御座候を10個買って帰って、兄妹二人が3ヶずつ食べて、夕食もしっかり食べたことを思い出して語った。

幼い頃は姫路の御座候は本当に特別な物だった。
一年に一回姫路に行く時とか、父親がたまにお土産で買って帰った。
たいてい兄弟で赤餡を食べるか白餡を食べるか争いになった。
赤餡の方が子供には人気があったからである。
姫路近辺の人は御座候が何か分かる。
看板に「姫路の名物御座候」と書いてあるのを、何が御座候(ございます)なの?
と、遠くから来た人は電車から見て言っていたと聞いたことがある。

普段は赤穂(加里屋)の回転焼きを母親に買ってもらっていた。
本当は回転焼きよりも鯛焼きの方が好きだった。
神姫バスの営業所は、当時は旧駅(赤穂鉄道)とも言った。
そこの付近には回転焼きや鯛焼きを売る店があった。
今でも時々思い出すのは、病気になった我々兄弟を、母親が二人乳母車に乗せて医者に連れて行った時のことだ。
兄弟はすでに幼稚園には行っていたが、お多福風邪を患っていた。
病気でもはしゃぐ、やんちゃな私をじっとさせるためでもあったのである。
尾崎から赤穂大橋を渡って行くのだが、当時の私らには橋の向こうは別世界だった。
その時のことを、重い乳母車を押していくのは大変だったと良く聞かされた。
私が思い出すのは、帰りに店によって、買ってくれた回転焼きや冷やし飴だ。
夏の暑い盛り、それが格別に美味しかった。

こういうおやつのつながりは、母子の間での日常のものだ。
何気ない日常は思い出せないが、こういうことは思い出せる。
父子の関係ではおやつの思い出は殆ど無い。
だから家内が話した御座候は自分には記憶が無い。
父子の間で日常で思い出すのは、子供と散歩したりしたことなどである。
私はもう戻らないそういう親子の日常に感傷的な気分になった。
一方、隣の家内は、美味しい御座候が食べたいと車中で何度も言い続けた。

2015年10月10日土曜日

犬力アシスト自転車

最初は犬と一緒に走っていた。
しかし、自分のペースで走れないのでつらい。
そこで、自転車を使って運動させることを思いついた。
というのも、うちの愚犬クロは明らかに体力を持て余しているからだ。
最初用いたのはママチャリ。
ハンドルの部分に付けると前カゴが邪魔になるし、オフロードに弱い。
そこで、MTBを用いることにした。
オフロードでもいけるが、坂道の下りはブレーキを掛けっぱなし。
たちまちブレーキはすり減って効かなくなった。
効きの悪いブレーキで不意に前を横切るので転けそうになった。
そこで子供が使っていたキックスケーターを用いた。
オフロードでは無理だが、運動にもなるし楽しい。

ある朝、犬に引いてもらって、近くの山の麓まで出かけて気持ちよく朝の運動をしていた。
キックスケーターのハンドルにリードを付けてまさしく犬ぞりである。
緩やかな坂道を降りていた時に、急にクロが立ち止まった。
キックスケーターから私は投げ出されて転倒してしまった。
起き上がる私を見るなり、クロはキックスケーターを引いたまま逃げ出した。
カラカラとスケーターが引き摺られる音が谷間にこだまする。
必死で追いかけた。
当然追いつかない。
クロは脱兎のごとく、来た道を引き返す。
心配なのは国道である。
そこは上手く車がいなくて、横切れた。
こちらは全速力は止めてジョギングに切り替える。
田んぼに逃げていけば、きっとスケーターが引っかかると思ったからだ。
案の定、田んぼに逃げ込もうとして、スケーターが溝に引っかかっていた。
その後はしっかり反省してもらい、朝食抜きで一日静かだった。
このことでクロへの信頼は大きく失ったが、逃げ出した先が大好きな山では無く、家の方向だったのが慰めだった。
元野良犬も我が家が一番良いらしい。

そのこと以来、キックスケーターは諦めた。
ネットで色々調べたら、自転車を犬にひかせるギグレースなるものもあるという。
それなりの自転車に道具は必要なのだが、MTBを整備して使うことにした。
ブレーキの遊びを少なくしたので、直ぐに止まれるようになった。
ハンドルにつなぐ位置も工夫して、リードしやすくした。
相変わらず人や犬に過剰反応するので、その時にはじっと待たせることが大変なことに変わりは無い。
それでも歩く時より短時間でかなりの距離を進むことが出来る。
引っ張ってもらう時間も多く楽だが、こちらは少し運動不足。
家内が言うには、クロは昼間ぐっすりと眠っているそうである。
これで悪戯が少なくなれば一挙両得である。
慣れてくればギグレースも良いが、これで山野を駆け巡るのもいいかも・・・

2015年10月4日日曜日

運動会での交流

この10月3日土曜日、赤穂にある特別支援学校と本校の生徒会の五人が交流した。
参加といっても、運動会の来賓扱いで、最初のラジオ体操と午前の玉入れに加わる程度であった。
私は教員に正式採用されて、初任校であった上、特支での勤務は11年で知り合いも多い。
どちらかというと私にとっては同窓会気分でもあった。
最初に歌った校歌もほぼ歌えたが、「養護学校」が「特別支援学校」になっていた。
知っている職員は以前勤めていた学校の職員の場合もあるし、今の勤め先の伴侶であったりした。
旧知の教員は特支だけで無く、職業高校の教師も数人いた。
運動会自体も私にとっては馴染みの風景でしか無かった。
しかし、本校生徒にとっては初めての経験で、新鮮であり歓声を上げたり、拍手で応援した。
特支では確かに運動場が新たに芝生のグラウンドになってはいたが、内容はあまり変わりは無かった。
おそらく普通高校の体育祭も、同じような競技の繰り返しなのであろう。
変わりが無いと感じさせたのは、自分がいた頃先頭に立っていた教員が、已然と先頭に立っているからである。
ただ、髪の毛が全くなかったが、それが却って年齢不詳で時間を超えさせた。
しかも、採用同期の教師も戻ってきていた、彼も二回りほど横に大きくなっていた。
30年前に戻った気分になり、演技に一緒に参加したくなった。

私は前任校が姫路のマンモス特支だったので、本当にこじんまりとした感じに思えた。
おそらく自分がいた頃も、これくらいの規模だったのだろう。
学校の周りの風景もあまり変わりはない。
むしろ、山々は緑が深まった印象を受けた。
この支援学校も隣接する障害者施設も、施設はどんどん増改築されたり、新築された。
それでも、脈々と優しい教育が育み続けられているように思えた。
特支には知っている若い教員も多いので、しばらくはどこに行っても知り合いに会えそうである。

ところが、せっかく観覧していた一般参加者の教え子に声を掛けられたのに、名前が思い出せない。
顔を見れば教え子だということはたいてい分かる。
特支の担任した生徒は名前を忘れることは無い。
普通校や職業校の生徒は、担任していても名前を思い出せないことがある。
どうか、もし声を掛けてくれるなら、先に名乗って欲しい。
「どこどこにいた○○です おぼえてますか」と
いきなり「先生憶えてますか?」は、教師生活30年の私には酷なのです・・・

2015年9月26日土曜日

体育祭

私の中学高校時代に体育祭は無かった。
姫路中地の陸上競技場で陸上記録会を行っていた。
だから、大縄とか百足競走などの演技種目は全くなかった。
教師になってから、公立校ではこのような演技種目が大切にされていることを知った。
中学校の講師時代に人間タワーというものを初めて知って驚いた。
特別支援学校では、作り物での仮装行列、組み体操、ダンスなどを熱心に取り組んだ。
そういうものが体育祭の花になっていた。

私の勤めている学校では、今年の体育祭は雨に祟られ放しであった。
百足競走の練習では十分に時間がとれなかったせいか、けが人が続出した。
演技そのものが中止になるのかと思われるほどの状況だった。
毎年、練習や本番でけが人を出すのが恒例とは言え、ケガ覚悟の行事には疑問を感じた。
以前勤めていた進学を重視する学校では、体育祭のための準備は殆ど無かった。
だから当日でも直ぐ出来るようなクラス対抗綱引きなどを行った。
ダンスも体育の時間に少し練習したようだが、前日の打ち合わせでできた。
しかし、いきなりリレーを行うので、そこで大きなトラブルが起こった。
因みにアメリカから来ているALTの先生に聞くと、こういう行事の経験は無いそうである。

本番当日も前日来の雨で開催が危ぶまれた。
しかし、雨で日延べになっていたので、時間を遅らせたり内容を一部変更して実施された。
平日にも関わらず、多くの保護者や関係者が見学に来てくれていた。
特別支援学校以外で、これほど多くの見学者がいるのは初めてであった。
当然私の母校の陸上記録会では見学者どころか、来賓もゼロであった。
この高校の体育祭は中学校の体育祭とあまり変わらないように思えた。
どこの学校でも感じるのは、こういう行事で見せる生徒の表情が普段と違うことである。
文化祭でもそれは感じるのであるが、座学の授業では目立たない生徒がヒーローになっていたりする。
運動の苦手な生徒も、それなりに楽しんでいる風でもある。
勉強もこれくらいに熱くやれれば良いというのは野暮な教師の言葉である。
本来は勉強もこのように熱心にやれる場を提供するべきなのだろう。

生徒とも行事を通じて、普段に無い関わりを持てるが、職員同士に関してもそうである。
今回は混合リレーに若い教師も加わって盛り上げてくれた。
係を担当している若い先生とも、普段に無い会話が出来て楽しかった。
職員の交流は飲み会というのが定番だったが、こういう行事を通して部署を超えて関われる。
最近では会社の運動会も見直されているという。
私は母校の陸上記録会よりも、運動を中心とした祭りのような体育祭の方が好きである。
どうしても勝ち負けや記録を重視するとけが人が出るので、もっと楽しめる要素を増やした方が良い。
立派な演技を見せるのも良いが、盆踊りのように観客も一緒に加われるプログラムもあって良いと思う。
体育祭は学校の秋祭りの、エンヤコラサーでいいんじゃないだろうか?

2015年9月21日月曜日

破壊犬クロ

うちの子供が幼かった頃、私が持っていた昔の記念品を次々と壊してくれた。
その時に、「子供は思い出の破壊者」と日記には綴っている。
惜しい物もあれば、壊してくれて気が晴れる物もあった。
今、家にいる愚犬クロは、思い出どころか、家まで壊す勢いである。
先日も、エアコンの室外機の配管を食い破った。
縁台代わりにしているソファーもぼろぼろになった。
体を洗ってやる時は大騒動で、こちらもかすり傷を負う。
去勢した後の抜糸は家でしたが、家内と二人がかりで、格闘した。
その都度、私は我慢した。
堪忍袋の緒が切れたのは、自分を散歩に連れてくれる散歩道具を全部食いちぎった時である。

私もうっかりしていたのだが、伸縮可能なリード、ハーネス、口輪2つを籠に入れて、そばに置いたまま仕事に出かけてしまった。
帰宅して、何があったか分からず、しばらく呆然としたが、全てが壊されているのを知って怒りがこみ上げてきた。
岡山県の「不幸な犬と猫をなくす会」に返すことも考えたくらいである。
それでも気をとり直して、修理することにした。
特にリードは値が張る物だったが、結局直すことは出来なかった。
他は、結束バンドを用いて何とか修理していった。
しばらくは、クロも私の怖さを思い知ったようだったが、つい先日も、別の太い引き綱を食いちぎり、今日は代用のトラロープの引き綱を食いちぎった。
結局、歯が立つ物は無理だと思い、鋼鉄ワイヤーの固定式の物を引き綱に代用した。

犬小屋の周りには、ベランダボックスを用いたり、ベンチを用いたりして、悪さをしないように対策をした。
それでも、穴を掘ったり色んな物をくわえ込んだり壊したりした。
結局、今日猪や鹿よけの鋼鉄柵を周りに張り巡らした。
同じ村の中で、ダルメシアンを飼っている家では、綺麗な白いフェンスで囲ってあった。
雑種の猟犬のフェンスは一枚400円で十分である。

最近は、私もだいぶ体力も回復したので、散歩の時に一緒に走ったりする。
今日は千種川の川原で、放してやったが、本来の猟犬に戻ったクロを捕まえるのに全速で走った。
先日も、池で蓮の実を採っていたら、自分から池に飛び込んだ。
自分で飛び込んだくせに、這い上がれなくて引き綱で助けてやった。
枯れ草の上では潜り込んだり、のたうち回る。
散歩している他の犬でそういう姿を見たことが無い。
昨日の夕方の散歩では、昼間の農作業で疲れていたので、自転車に乗って行った。
進行方向に別の犬を見るや、犬ぞり状態になった。
その別の老犬の持ち主は、その力強さに感心していた。
私は早く、通り過ぎていくように頼んだ。

こうして、破壊犬クロは平穏な私の生活を、一変させてしまった。
まさしく、子供が幼かった頃と似ているなと苦笑せずにはいられない。

2015年8月30日日曜日

野生のトマト

毎年ミニトマトの苗を近所の農家からもらっている。
去年は多く出来たのだが、採るのが面倒でそのまま放置したのが多かった。
その落ちた実から冬前に多くの芽が出てきた。
当然冬が来て霜が降りだすと、その芽は全部枯れてしまった。
今年は、もらった苗のミニトマトは去年とは別の畑に植えた。
去年植えた畑から、夏になると自然に芽が出てきた。
抜いてしまうも惜しいので、そのままにしていた。
すると、そういう苗が植えている作物の間に繁茂しだした。

収穫時になって、植えたミニトマトが熟れ始めたが今ひとつ成りが悪い。
一方、自然に生えたミニトマトは雑草に混じりながら、あちらこちら元気が良い。
この野生化したミニトマトは、当然殆ど支え木をしていないので、殆ど倒れている。
もったいないので、野性ミニトマトを収穫するのだが、座り込んで採らねばならない。
植えたミニトマトは成りも悪いし、小粒なのに対して、野性ミニトマトはなりも良く粒も大きい。
野生のミニトマトの方が結局は良い収穫になった。
植えた方はマルチをして、支え木をして、ネットを張ったのにできが悪いのである。
今年はトマトに適した気候だったにしても、野生恐るべしである。

私が調査に行った奄美の与路島では、野生化した稲を珍重し、幸運の証とした。
おそらく陸稲の系統を引く物だろうが、昔はこぼれた籾が芽を出していたのかもしれない。
稲穂も落ちない今の機械化農業ではあり得ないことである。
野菜も今はビニールハウスや、野菜工場で徹底的に管理される栽培方法が多い。
そんな中で、有機栽培どころか、放置栽培で収穫するのも面白いかもしれない。
これからいくつかの野菜は種が出来るのを待ってみても良いかもしれない。
芋系統もいくつかは放置してみよう思う。

これは今の教育にも言えることである。
恵まれた環境で、教育を施しても生徒は伸びるとは限らない。
先日、小学生が詰め込み教育を行うべきだと新聞の読者欄に投書していた。
私たちの世代は、今の生徒よりもかなり多くの量の勉強をさせられた。
ただ、共通一次の前だったので、それは単なる受験テクニックでは無かった。
課題を与えられて、それをこなすのに苦しんだ覚えは無い。
色んな本を読みあさったり、自分で参考書や問題集を探した。
今の生徒は学校や塾が用意した教材を必死にこなすことが殆どだ。
多くの勉強をすると言うことと、詰め込み教育とは違う。
学校の勉強が、進路に向けての学習の邪魔になることもあると生徒に私は言う。
私の通った中高一貫校の強みは、学校の授業が生徒の学習の邪魔にならなかったことだととも思えたからである。
ただし、私は受験に関係ない人生勉強にのめり込みすぎたのだが・・・

2015年8月28日金曜日

去勢

今日、愚犬クロの去勢手術を動物病院で行ってもらった。
「岡山から不幸な犬猫をなくす会」から譲り受けた時の条件だった。
これ以上、不幸な犬を増やさないというのが大きな理由だった。
以前飼っていたトラは一度だけ、隣の雌犬に子供をつくらせた。
その時、その子犬は動物病院で飼い主を探してもらったと聞いた。
我が家の犬が放れたのではなくて、隣の犬が放れてやってきた結果だった。
もう近所では雌犬はいないし、野良犬もいないので不幸な犬は増えないと思う。
ただ、万一脱走した時にどこかで不幸な犬を作ることになるかもしれない。
というのが会の方の意向でもあった。

私自身は去勢というのは何となく不自然な気もした。
しかし、雌犬を迎えて子犬を増やすことも出来ない。
他の雌犬への欲望や、雄犬としてもマーキングは無意味で邪魔にも思えた。
そもそも、トラよりも衝動行動が激しく、猟犬の血を感じさせていた。
これから周りと仲良くやって行くには、去勢した方が良いようにも思えた。
睾丸が大きくなってきて、足を少し上げ始めたので潮時だった。
約束では8月いっぱいで言うことなので、ぎりぎりの手術になった。

朝は普通に散歩させて、病院の指示通り水と食事を抜いた。
運搬用のケージに入れて、赤穂迄連れて行った。
軽トラの荷台に後ろ向きだったこともあって、ずっと鳴きっぱなしだった。
病院に預けて夕方迎えに行った。
思ったより元気そうで、私の声を聞いて鳴いているのが分かった。
先日自分が手術しただけに心配したが、会ってみると元気そのものだった。
今日の支払いは2万2千円で安くは無かった。
安売りのペットショップから犬を買うということであれば、むしろ高い。
却って費用が高くついてしまう里親ではあるが、損をしたとは思えなかった。
確かに、色々と面倒を掛けてくれるけれど、魅力もその分ある犬だからである。
保護をした会としても、見殺しにするには忍びなかった理由が分かる。

私は今、自分の研究のテーマとして、奴隷制を調べている。
奴隷を犬となぞらえる有名な学者もいた。
去勢はまさしく、特殊な事例ではあるが中国の宦官と同じである。
もし、奴隷制が普通に行われていた時代だったら、犬の代わりに人を買っただろうかと思う。
言葉が通じる人とそうでない人では全然違うと思った。
同じ奴隷制でも、異民族や異人種の奴隷はより犬や家畜に近いことが分かる。
以前知り合った奴隷を経験した人は、自分で家畜並みと言っていた。
言葉が通じる社会での奴隷ではあったが、そう感じたのである。
一方、解放されても主人の家に居続けた奴隷も知っている。
一人で生きる術を知らない奴隷は、独り立ちする方が過酷なのである。

これは、雇用されている私たちにも言えることだ。
病気になったり、自殺や過労死する仕事でも辞められない。
奴隷と違って、家庭やプライドを背負っているからだ。
そして、被雇用者は消費者としても役に立つので保護されている。
もし戦争になれば戦力になるし、支援体制にも使える。
目の前に主人はいないが、国家という大きな主人に飼われているようにも思える。
国家と一体となった企業や官公庁に雇われ続けなければならない。
他に生きる術を身につけてこなかったからだ。
人権を守るということは、国家に連ならない権力者の奴隷になるのを阻止するという意味のようにも思える。
戦争反対が叫ばれた戦後70年のこの夏。
まさしく死んでいった400万の兵士や国民はなんであったのだろう・・・

2015年8月22日土曜日

学校の敷居の高さ

夏休みは今年の卒業生が訪ねてくれた。
特にクラブをしていた生徒は、クラブの方に顔を出していた。
クラブをしていなかった生徒は、学校を訪ねるきっかけがないようだ。
クラブに来たついでに、私に会おうとした生徒もいた。
残念ながら、せっかく訪ねてくれたのに、入院していたりして会えなかった。
そんな中で、オープンスクールをきっかけにして、女子バレーボール部の卒業生が訪ねてきたのに出会った。
いきなり、職員室の前の廊下で、「先生!」と言って駆け寄ってきたので驚いた。
2年の時に担任をした卒業生のKさんで、その後も日本史を担当していた。
そのKさんは卒業しても変わってなかったが、顔を見ても分からない生徒もいた。
どうしても分からないので、側にいた元学年主任の先生に聞いていると
本人が「○○でーす」と答えてくれた、本人も変わったと自覚があるらしい。
卒業生によっては髪の色を変えたり、化粧をして大きく変身している生徒もいた。

Kさんは卒業式に写真が撮れなかったからと、一緒に写真を撮った。
その写真を記念にもらおうかと、メールアドレスを書いたメモを渡した。
ところが、いっこうに返事が無い、たぶんどうも最後に余分なドットをつけてしまったせいだろう。
生徒とツーショットで写真を撮るのは、何年かぶりでちょっとハイになっていたからかもしれない。
Kさんから私が担任していたクラスの生徒の様子が聞けて嬉しかった。
特に浪人している卒業生がいるので、彼のことが気になっていた。
Kさんはその浪人生を励ましたりもしているらしい。
私はいい加減な不良浪人だったので、家族以外と話をしないという浪人生を心配に思った。
私は予備校で灘高などの卒業生と相撲を取ったりしていたからだ。

こうして学校を訪ねられる生徒は、本当に少ない。
私自身も、教育実習以外で高校を訪ねたことは無い。
同窓会には不良仲間も来るので、たまに顔を出す。
不良学生だった私には高校の敷居は断然高い。
大学は真面目に過ごしたので、学会などの機会に何回か訪ねたことがある。
私にとってクラブなんかでも、関わりが多かった大学が一番訪ねやすい。
大学院は別の場所に移転してしまったので、卒業後は一度も訪ねたことは無い。
先日も研究室の同窓会のような案内があったが、こちらも別の意味で敷居が高い。
卒業しても関わりが持てるのは、授業以外で関わりが多かった所である。
考えてみれば、中学高校の先生とは授業以外で関わることは殆ど無かった。

わざわざ会う機会を持たなくても、町で会って声を掛け合う時もある。
そういう卒業生も実際は数少ないのだが、Kさんから聞くところによると私のブログを読んでくれている卒業生もいるらしい。
今はネットのお陰で、時間と場所を越えて繋がることも出来る。
おそらく私のように敷居が高くて、学校を訪ねたくても訪ねられない卒業生もいるだろう。
そういう卒業生のためにも、もう少し学校の様子を書こうかとも思っている。
私自身のことを言えば、手術後順調に回復した。
ただ、体の方は回復したが、失った根拠の無い体力への自信は回復していない。
訪ねてきてくれたKさんには、幾分元気を分けてもらったのだが・・・・

2015年8月14日金曜日

ミニトマトはドライに限る

このところ、つまみは乾燥したミニトマトである。
少々食べ過ぎて、おなかが張っている感じもする。
普通はミニトマトは多く食べても、5個くらいまでだろう。
ドライトマトなら、10個以上食べてしまう。
しかも、干しぶどうほど甘くなく、健康的だ。
売っている乾燥トマトは、妙に味付けをしている。
何も味付けしなくても、十分甘くて美味しい。

ドライフード機を数ヶ月前に買って色々と試した。
ささみジャーキーも、つまみにもってこいである。
ジャガイモも、ポテトチップスより健康的で美味い。
パクチも乾燥すれば、手軽に使える。
不評だったのは、まずキュウリ
これは、味が妙に強調されて、酢の物にしないと食べづらい。
サヤインゲンは、私はそこそこいけると思ったが、家内には不評だった。

下拵えが必要な物は、家内が下拵えをしてくれる。
そうでないものは、殆ど自分でやっている。
ささみ以外は家で採れる野菜である。
一番工夫がいるのは、温度と時間だが、それも慣れてきた。
因みにミニトマトは最初、家内が天日干しでチャレンジした。
天日干しはなかなか乾かなくて、仕上げにドライフード機を使った。
入院のごたごたで、そのまま放置してカビらせてしまった。
カビずに残った物も、今ひとつ味も見た目も良くなかった。
そこで、私が一人でチャレンジしたのだ。
温度を徐々に下げていって、丸二日で出来た。

野菜の保存はなかなか難しいが、ドライフード機のお陰でだいぶ助けられるようになった。
また、酒のつまみとして、ささみジャーキーも非常に美味しい。
ネットなどでは、ペットのおやつにと宣伝している。
100gで80円ほどのささみは、私にはとてもリーゾナブルだ。
缶詰にせよ、市販の物は味が飽きてしまう。
その点手作りの物は、味付けも変えられる。
因みにささみは、家内が酒蒸しした物を乾燥させた。
日持ちも良くて、良いビールのお供になった。

狩猟採集の時代から、人類は食料を乾燥させて保存してきた。
奄美与路島では、魚を干して保存しておいて、行事に際して戻して食べていた。
昔から天日干しとか、燻製、囲炉裏での炙りで完成させた。
今の生活環境では、なかなか難しい。
だから殆どが冷凍保存と言うことになる。
確かに冷凍保存は良いのだが、すぐに冷凍庫が一杯になってしまう。
乾燥させた物はそう長期には保存できないが、腐らせずに持たせることが出来る。
いっぺんに多く採れる野菜には、もってこいだ。
自然生活と文明の融合がドライフード機によってなされる。

クロの散歩姿

いつもの散歩コース・蓮の咲く池の前

川原にて

今日は、朝散歩に出かけたときは雨はやんでいた。
手術前に行っていた散歩コースを久しぶりに、短縮ではあるが歩いた。
これまで傷の痛みがあって、歩く自信が無かった。
特に、下腹部に近いところが、しばらく痛みが続いた。
不思議なもので先週の木曜日は痛みに苦しんでいたのだが、一週間でかなり歩けるまでに回復できた。

午前中は殆ど雨が降っていて、本ばかり読んでいた。
アンソニー・ギデンスの「国民国家と暴力」である。
(戦争と近代の国民国家は切り離せないことを説いている。)
愚犬クロは朝の散歩に行ってからは、殆ど縁台で寝ている。
午後からもしばらく本を読んでいたのだが、3時頃になって雨もやんだ。
これ以上、本を読む気にならなかったので、散歩に出かけることにした。

思い切って千種川の河原(家から2km程)まで行った。
そこで、トレーニングロープにつないぎ換えた。
口輪は、川原に着いた頃には既に外れていた。
案の定、クロは川に飛び込んで、水しぶきを上げながら、はしゃぎ回った。
それに飽きると河原を走り回り、砂地を掘り起こし始めた。
何か匂いが奥の方からするのか、一心不乱に掘り起こし始めた。

私は、大きな石に腰掛けてその様子を眺めていた。
時々呼び寄せたが、すぐに自分のやりたいことをやり始めた。
かけずり回り、穴を掘り、川に飛び込む。
それを何度も繰り返し、思う存分遊んでいた。
手術で傷を負って走ることもできない身としては、その凄まじいエネルギーにたじろがざるを得なかった。
主人に媚びようともせずに、一心にはしゃいでいる。
かつて自分も若かりし頃、溢れるエネルギーをもてあましていた頃を思い出した。

入試などの受験という鎖につながれて、若さのエネルギーを発散するすべも無く、いろんなところで暴発させていたように思う。
かつては、それをもてあまして悩んでいた。
エネルギーが枯渇しかかっている今の自分には懐かしい。
今だから、かつての自分の若さ故の馬鹿な行為が、自分で許せるのかもしれない。
それでは、歳がいった今は自由になれたかというと、自由になれたわけでは無い。
むしろ、自分を縛る鎖ではなくて、色んな重しを背負いこんでいるように思う。

犬がいなかった頃は、走るか歩くか泳ぐか、とにかく自分の世界に閉じこもった状態で、世間をすり抜けていた。
犬と散歩の時はそうはいかない。
常に他の人や他の犬の様子を気にかけていなくてはいけない。
気を抜いたら、クロの場合は田んぼや溝に飛び込んでしまう。

誰もいない千種川の川原に腰掛けてのんびりする。
かつて、我が子らと一緒にこの川原で水遊びをして以来である。
全く一人で水辺に腰掛けていたら、詩人か自殺志願者に見えるかもしれない。
犬を遊ばせていたら、そうは思われないだろう。
むしろ、はしゃぎ回る犬の方が、注目されるだろう。
確かに犬を散歩させるのは非常に手間だ。
しかし、身近な世界との関わりを、こうやって回復させてくれていることも確かである。 

2015年8月13日木曜日

若気のクロ

以前紹介したように、うちの愚犬クロは野良犬時代の習慣を維持している。
一番の問題点は狩猟である。
蛙や蝉を捕まえて、その場で食べるのである。
当然、道で死んで乾燥している物も、自分なりに安全を確かめて食べている。
家では十分ドッグフードを食べさせ、骨や犬用のガムも与えているのにである。
野良犬時代に生き抜いてきた習性だと、私も半ば許していた。
ところが、今朝、道ばたの竹輪を見つけてくわえている。
不自然に溝の端に置いてあって、落としたり捨ててあったりという風では無かった。
とっさに毒入り竹輪かもしれないと思い、食べるをの止めさせた。

これで拾い食いはもう禁止となった。
ネットで躾方が紹介しているが、どうも現実的では無い。
仕方ないので、口輪を買ってはめることにした。
ついでに、ハーネスやトレーニング用のロープも買った。
早速、試してみた。口輪の効果はてきめんである。
嫌がって転びながら外そうとしたが、簡単には外れない。
近くの公園でトレーニングロープを使って遊んでやった。
小さければリードを外してやったのだが、ここまで大きくなる逃げたら捕まえられない。
しかも、手からもらう餌は警戒して、見せてもやってこないので使えない。
家に来て初めて、「おいで」と呼んで跳んできたのを抱き寄せてやった。

公園で遊んで、たんぼ道を帰る。
いつものように田んぼに飛び込みたがるが、ハーネスをしているので簡単には引かせない。
ところが不意に田んぼに飛び込んだので、前から思いっきり引っ張ると外れてしまった。
きちっと長さを調節してなかったのだ。
稲の中で遊び回るクロ、姿は見えずただ稲穂が揺れる。
「クロおいで」と呼びかけるが、行ったり来たりを繰り返している。
もう、このまま逃げてしまうのかと不安になった。
ところが、ある程度して気が済んだのか、呼ぶ声に戻ってきた。
これで厳しく怒ると、逃げた時に戻ってこないと思って、戻ってきたことを逆に褒めた。
とんだハプニングだったが、クロが勝手に逃げてしまわないこともこれで分かった。
まだ子供で衝動を抑えきれないクロに付き合うのは大変なことだ。
考えてみれば、人間に直したら中学生くらいなのかもしれない。
生徒に接する気持ちでクロに接するしか無いのか・・・

2015年8月11日火曜日

三度目の入院

8月4日から人生三度目の入院となった。
二度目は教育入院で手術は行わなかった。
一度目は局所麻酔の手術、今回は全身麻酔である。
全身麻酔の腹腔手術で、すぐに回復できると医師から説明は受けていた。
しかし、入院初日、麻酔科医師によって全身麻酔のリスクを知らされた。
正直、止めて帰ろうと思った。
もし、手術を決める前に全身麻酔のリスクを知って真剣に考えていたら、部分麻酔を希望しただろう。
考えてみれば当たり前なのだが、全身麻酔は肺呼吸も止まるので、人工呼吸器が必要なのだ。
それで、肺活量検査を前もって行った理由が分かった。
口の中や歯に影響が及ぶ危険性があるので、口腔外科に手術前日に視てもらい、歯石を取ってもらった。

手術前夜は睡眠剤ももらったのでよく眠れた。
手術当日も、開き直って緊張はしなかった。
というのも、一回目の局所麻酔の手術では、お産よりも痛いという手術を経験していたからである。
その手術よりは痛みはましだろうと思っていた。
朝九時に手術台に寝かされて、麻酔を始めると言われたらすぐに意識を失った。
気がついたら別途に移されるところだった。
やはり、内臓脂肪が多くて手術に手間取ったそうで、終わったのは13時前だった。
実は、事前の説明では15時頃には終わらせたいといわれていた。
もっと、内臓脂肪に手こずると思われていたようだった。

麻酔が切れた後は、痛みとの戦いになった。
いくら腹腔手術でも、体へのダメージはそれなりにあるのだ。
一番大きな傷になったのはへそで、後でそこから出血があって、ガーゼをあてねばならなかった。
手術後は心電モニターや、酸素呼吸器、点滴、導尿、血栓予防のマッサージャーなど、体の身動きがとれる状態では無かった。
仰向けで同じ姿勢をしていると、背中がとても痛んだ。
それらが、一つ一つ外されていって、少しずつ体の姿勢も楽になっていった。
しかし、腹筋に力が入ると痛むので、寝返りを打つのも苦労した。

術後1日目に導尿がとれて、自分でトイレに行けるようになった。
しかし、ずっと移動式の点滴をもったままで、時々血が逆流して気持ち悪い状態になった。
その夜にやっと点滴も外れた。
術後2日目では、入院している3階の廊下をゆっくり歩けるようになった。
術後3日目には、傷口のガーゼがとれて、午後からシャワーを浴びることができた。
歩行訓練のために階段を使って向かい側の以前入院していた棟の3階まで行った。
術後4日目の朝は、早朝散歩に出かけて、コンビニに寄って買い物をした。
術後5日目、かなり普通に歩けるようになり、退院した。

今回の入院した外科の3階は、高齢者が多くて、同室の人も当初すべて高齢者だった。
その中で、若い看護師が元気に活躍していた。
普段高齢者と接することが多いせいか、私も同じような口調で話しかけられた。
私は教壇に立っている時とはいわば逆の立場で、指導され世話をされる立場だった。
そんな中で、この病院で理学療法士として働いている教え子が顔を出してくれた。
また、口腔外科では研修医として働いている教え子にも会えた。
その時だけ、ただの患者から教師に戻れた。
そして、彼女らから力をもらった。

実は今回の病気で大きく自信を失っていた。
体力だけには自信があったのに、肥満と加齢が大きく原因する病気だったからだ。
もう無理はできないと思い知らされた。
病室の周りの高齢者を見るにつけ、自分の老後を思い浮かべていたのだ。
毎日、甲斐甲斐しく病院にやってきてくれる家内らと共に労りながら老後を暮らそうと思った。
しかし、教え子の活躍する姿を目の当たりにして、老い込む歳では無いと思った。
教え子に会ったときに、こんな情けない姿は見せられない。
一度全身麻酔で死んだも同然の体になって、再び甦ったと思おう。
これは文化人類学で言うイニシエーション(通過儀礼)である。
現代に生きるシャーマンになってみるか・・・

2015年7月30日木曜日

野良犬だったクロから思うこと

我が家に来てクロも、もう少しで2週間になる。
色々と手こずることが多くて、不安に思うことが多かった。
一番困るのは散歩の時に、他の犬や人に過剰に反応することである。
引き綱を引いて、足下で押さえつけるようにしているが、それでも暴れる。
それを見て、年配の犬連れのご婦人はおもしろがっている風でもある。
やはり律儀そうな年配の男性は、ここは決まった散歩ルートとばかり、道を変えずに向かってくる。
そう言えば、かつて猟犬を連れたご老人が、散歩で苦労していたのを思い出した。
その人は、甲斐犬を飼っていて、田んぼに引き釣り込まれて倒れたりもしていた。
今できる対策は、散歩ルートを変えてなるべくそういう人と犬に会わないことである。
結局それも、根本的な解決にはならないが、成長すれば少しはましになるかもしれない。

とにかく、生後8ヶ月でいたずら盛りなので、色んな悪さをしてくれる。
庭の花を傷めるので、ネットを張ったら引き倒してしまった。
そこでベランダボックスを置いたら、その上で寝そべっている。
まるで御山の大将である。
じゃれて噛むこともあったので、それはきつく叱った。
しかし、道ばたに落ちている干からびた蛙を食べることは止めない。
おそらく、捨て犬時代の大切な食料だったのだろう。
猟犬の血を引くので、草むらや泥の中でも飛び込んでいく。
私もガス抜きと思って、あまり制止はしない。

最近新聞の記事の中で、戦災孤児の手記が連載されている。
野良犬だったクロと比較するのは気の毒だが、場合によって孤児の方が惨めに思える内容もある。
野良犬でも上手く飼い主に巡り会えれば、一生寝食の心配はいらない。
しかし、戦災孤児の多くは野垂れ死んだり、親戚の家で惨めに暮らしたらしい。
野良犬は、豊かさの中で身勝手な飼い主の生む悲劇である。
戦災孤児は、豊かさを求めて身勝手な権力者と大衆が生んだ悲劇である。
日本では過去のものとなった戦争が生む悲劇も、海外では日常となっているところもある。
日本の自衛隊は番犬から猟犬ないし闘犬に変身させられようとしている。
犬も番犬に徹していれば良いものを、猟犬や闘犬になったら手傷を負うだろう。
「狡兎死して走狗烹【に】らる」という格言もある。

2015年7月24日金曜日

学術書の悲哀

先日、自分の著書を生徒に見せるために、ネットで検索した。
我が目を疑った。
Amazonで中古で6056円の値段が付いている。
定価は3000円であり、おそらく絶版のためにプレミアが付いている。
新品の場合を3000円で受け付けているところもあれば、20000円の値段を付けているところもある。
在庫を多く持っているとは思えないので、出版社へ問い合わせしていないネットショップもあるのだろう。

私はこの本を出版するために、親族や学校厚生会から借金をした。
出版社から割り当てられた書籍を売っても、とうてい足りない額である。
一生に一度かもしれないと思って、新車に買い換えるのを我慢すれば良いかと思った。
当然、大学の先生のように授業で用いることは無いので、数多く売れるはずも無い。
ただ、公立図書館や大学などで購入して頂いているのは検索すれば分かった。
出版してから9年目で出版社の抱える在庫は無くなったようだ。
しかし、再版の打診も無いので、このまま絶版と言うことだろう。
再版が無いと言うことは、著作料も入らないということである。
そして、出版社とっても、割の良い書籍では無かったと思う。

私は次の出版にかかって、やはり10年近く経ってしまった。
借金も払い終わっていない状態で、同じような形で出版しようとは思っていない。
出版社と折り合いが付かなければ、最低、大学生協などでの自費出版とデジタル出版を考えている。
そうは言いながら、原稿が仕上がらなければ話にもならない。
とにかく、原稿を書く余裕が無いのが実情だ。
あまりにもやりたいことが多すぎる(反省)

世の中に原稿料を多く稼げる人がいる一方で、借金を背負ってまで出版するのは何故か。
いつも、家内への言い訳は
「多くの図書館が私の著書を置いてくれている。自分の本は何十年経っても価値を持ち続けてくれる」
その価値が、中古で6000円、新品で2万円なのかなとも思う。
500円の文庫本40冊分の価値を付けてもらったと思えば、幸せなのかな・・・

2015年7月20日月曜日

新しい我家の一員

我が家にまた犬を迎えた。
飼っていたトラという雑種犬が死んで2年経つ。
私は柴犬が欲しくて、ペットショップに見に行ったこともある。
しかし、家内は経済的な理由で最後まで渋っていた。
かつて、モモというメスのシェルティーを飼っていた。
30年近く前だが、3万円で譲ってもらった。
今は、ペットショップで10万円をきる犬はあまり見かけない。
雑種のトラを近所からもらったのは、経済的な理由ではない。
モモが血統書付きの犬として、頭も性格も良かったが、しょっちゅう病気をして、最後は病気で死んだからだ。
その点雑種のトラは殆ど病気にはならなかったが、頭も性格もあまり良くなかった。
次の犬は、日本の風土に馴染んでいて賢そうな日本犬の柴犬が、良いように思えていた。

まだ、経済的な余裕がない家計においては、経費の安い形をとらざるを得なかった。
そこで、ネットの「ペットのおうち」などで犬の里親に応募した。
そのネットにおいて、現在、飼い犬の置かれている現実に気が重くなった。
里親を募集しているのは、雑種が多いのはもちろんだが、名だたる犬種の成犬や、障害を抱えた幼犬。
殺処分を回避したいという、ボランティアの人の努力に頭が下がった。
その一方で、犬を商売としてしか考えていない人もいることも確かであった。
また、無責任な飼い主が多いことも、情けないことに思えた。
ペットブームの闇の部分を垣間見ることになった。

今回、迎えた犬は仮の名を「りく」と言った。
生後7ヶ月くらいで、すでに体重が11kgもあった。
ネットの大きな写真では可愛く見えた。
実は添えられていた最近の写真をしっかり見ていなかった。
ただ、幼犬を求めたのは躾のためで、可愛さではなかった、
実際会ってみると、ビーグルのかかった雑種らしいのだが、可愛い幼犬の域ではもうなかった。
野良犬になっていたのを岡山市の保健所に捕獲されたという。
今の時点ではボランティアの人が預かってくれているが、その人は他に犬を飼っておられた。
このまま飼い主がいなければ、殺処分しか無い運命だった。
その犬の人なつっこい行動からして、もとは飼い犬であったことが分かった。
大きくなってもてあましたか、猟犬として育てようとしたが不向きと分かったか・・・
とにかく捨てられたか、逃げだしたらしい。
人なつっこい反面、車におびえ、物を軽く投げただけですごく恐がった。
野良の時期に、余程怖い目に遭ったのであろう。
とにかく、この犬の命を助けたのは、献身的な「岡山から不幸な犬猫をなくす会」のボランティアの方だった。

我が家では名前を新たに、「クロ」と息子が名付けた。
私たち夫婦は子供のいない時代から、犬を飼っていたので、また元に戻った感じだ。
我が家の犬の第一の役割は、家族の運動不足の解消である。
どんなに疲れていようと、朝夕の散歩が待っているからである。
クロは殆ど鳴かないので、番犬にはならないと思う。
ただ、庭に犬が居るということで、少しは安心できる。
何よりも、仲間が増えて賑やかになった。
家内は以前から犬と一方的に話をする癖があり、既に始めている。
近所の殆どの犬は血統書付きの室内犬なので、庭飼いの最後の雑種と言うべきかもしれない。
庭飼いと言いながら、居間の側の縁台の上に寝そべっているので、室内と殆ど変わらない。モモもトラも、居間の側の小屋でずっとそうして暮らしてきた。

2015年7月12日日曜日

芸は心を救う

残念ながら「芸が身を助ける」ほど、歌は上達しなかった。
でも、ことあるごとに歌によって救われてたなと改めて思う。
今回、若いメンバーとユニットを組んでYouTubeデビューを果たせた。
去年もやはり若い人とメンバーを組んで高校文化祭のステージに立った。
当然聴いている音楽や嗜好も違うわけだが、世代を超えて良いと思える曲なら一緒にやれた。
おかげさまでYouTubeの視聴カウントは、思ったよりも多くてびっくりしている。
おそらく私たちのことを知っている人が、観てくれているのだと思う。

私は幼稚園の頃に音楽教室に通って、オルガンを習ったのだが上手くならなかった。
外に出て遊ぶ方が好きだったので、一日に決められた練習が苦痛で嫌だった。
結局、ピアノまでたどり着かずに、辞めてしまった。
中学校の時にギターに出会い、何とかコードだけは弾けるようになった。
しかし、ボーカルが中心で、ギターは下手なままだった。
高校時代は先輩や同級生、弟などともバンドを組んで文化祭で活躍した。
そして、ヤンリクというラジオ番組の「ミキサー完備スタジオ貸します」にもでた。
浪速のモーツァルト=キダ・タロー先生に歌を褒められたのが、今でも自慢である。
私には、女房役のベースが付いてくれて、どのバンドでもI君とは一緒だった。
残念ながらI君とは別々の大学に入った。
I君はインドにとりつかれて、研究者になってしまった。

大学でも不思議と女房役のベースとN君と出会った。
その彼と軽音学部に所属したこともあったが、クラブの嗜好が合わなくて直ぐに辞めた。
N君とは結局一緒に文化人類学研究会で班を作って、村落調査を始めた。
N君も京都で教師になって、今でもバンドを続けているという。
私も、どこの職場でも、バンド仲間ができた。
でも、職場を転々としているので、ずっと長くつきあいの出来る仲間はいない。
それでも、今回のように、自分の子供と年齢が変わらない仲間と一緒に演奏できる。
将来に大きな希望を持っている人たちと、一緒に演奏していると元気が出る。

かつて、父母は私のバンド活動が、受験勉強の失敗の原因だと避難した。
確かに、高校3年にもなっても続けていたバンド活動は受験の妨げだっただろう。
しかし、大学受験は失敗したけれど、その後の人生においてたくさんの仲間と出会えた。
確かにそれで食ってはいけないのだけれど、心は十分充たされる。
近年、親父バンドが流行っているのは、物や金で充たされない心を救うためだと思う。
平均年齢40歳以上とはいわずに、水泳マスターズのように世代を超えて集えたらと思う。
コンテストやコンサートの機会が少ない私たちにとって、YouTubeが唯一の出演機会になっている。
でも、本当は観客と一緒に演奏を楽しみたい。
それが本当の音楽だと思っている。

2015年7月1日水曜日

YouTubeデビュー

念願のYouTubeのデビューができました。
昨年の高校文化祭では、男性3人ユニットによる体育館演奏。
この時の演奏の様子は、ビデオカメラの電池切れで、ほとんど後で見ることはできませんでした。
生徒には「YouTubeデビューするから、見てな」と約束しながら、3年生は卒業してしまいました。
その後、ALTの先生のバイオリンが加わって、練習を重ね、デビュー直前までこぎ着けました。
ところが、ピアノを担当してくれていたW先生が、東京都に採用されて離任されてしまいました。
ヴォーカルの校務員のTさんも、離任されてしまいました。

今年度の文化祭が近づき、どうしようかと迷っていました。
そこに、ピアノの先生とヴォーカルの先生が加わっていただき。
やっとデビューにこぎ着けました。
ネット上のコンテストにも参加しようと思っています。
(※応募締め切りで参加できず)
文化祭への出演も色々事情があって、断念しました。
2年前一緒にステージに立ったH先生が、今回一人で演奏されるので期待しています。

我々の演奏を、是非見てみてください。
アドレスは
 https://www.youtube.com/watch?v=jAu8ydrZQGk

体育館で収録しました。
何度か私のスマホで撮影したのですが、本番途中でスマホが熱くなってストップしてしまいました。
本当はそれをアップしたかったのですが、それに次ぐ作品です。

メンバー紹介
ヴァイオリン ALTのM先生です。アメリカ出身ですが、ご両親とも日本人です。お母様譲りの美しい音色が魅力です。

ピアノ 英語のT先生です。小さい頃からピアノを習っていたそうです。ソロで聴いてもうっとりさせてくれます。

ヴォーカル 国語のT先生です。大学でコーラス部に所属して、指揮を行っていたそうです。美しい声が魅力です。

私以外は20歳代の若々しい構成です。
世代の垣根を超えて、一緒に音楽活動ができる喜びを感じています。
見た目の私の白髪と、お腹には目をつぶって、他を注目してくださいね!

2015年6月27日土曜日

おまえが 教師か!?

おまえが 教師か!?
私が教育実習のために、母校に戻ったときに言われた言葉である。
言ったのは、生徒だった頃の生徒指導の先生である。
言われても仕方ない。
私は高校生時代は、勉強もせずにバンドに狂っていた所謂不良であった。
高校では喧嘩などはしなかったし、教師に反抗的な態度をとっていたわけではない。
単に仲間と好き勝手して、成績も悪かっただけである。
家でも説教をする父親と常にぶつかっていた。

当時、教員免許は教師になろうと思ってとったのでは無い。
文学部の人類学科のコースで教師になっているのは、英語とか国語の免許を特別にとった者が殆どだった。
社会の免許を取っても、教師になれる確率は低いが、万一のためにもっておこうと思った。
というのも当時は大学院へ行こうと思っていたので、研究者になれなかったら教師しか無いと思ったからである。
その万一の備えが良かったのか悪かったのか分からない。
というのも、大学院での同期のもう一人は教員免許を持っておらず、研究者になるしか無く、そしてなった。
もし、もっていなかったら研究者になる道にしがみついていたかもしれない。
研究者への道を諦められたのは、故郷に戻って教師になる逃げ道があったからである。

結局、自分は研究を続けたいという思いを、最後まで断ち切れず、中途半端な教師になってしまった。
ただ、教師は大学の教員ほどでは無くても、自分の専門を追求すべきであるとは思っている。
その姿を生徒に見せることも、教師としての一つの指導法でもあると思っている。
だから、自分が追求していることは何でも、生徒に伝えた。
残念ながら、今の学校は組織体制を重視するので、自分のような職人タイプの人間は上手く馴染めず、職場を転々とした。

今年は、教育実習生を引き受けることになった、
担任としてクラスに受け入れた実習生を除いて、二人目である。
特別支援学校では、視障害児教育の教員免許を持っていなかったので、実習生は指導できなかった。
三週間という実習期間は、ばたばたする内に過ぎ去った。
自分が実習生の頃は、最後は教師と飲んだ。
というのも、実習費用を払ったので、そのお金で飲もうと、教師が奢ってくれた。
今は、実習費用も受け取らず、飲むことはおろか食事もすることは無い。
そのかわり、教生の実習ノートには自分の思いをしっかり書いたつもりである。
実習生が教師になるかどうかは分からないが、残り少ない教員生活には思い出となった。

その教育実習が終わってしばらくして、職員室でどこか見覚えのある他校の教師を見かけた。
その教師も、やはり見覚えがあるという表情でこちらを見ていた。
そのうちその教師から声をかけられた。
「石原先生ですね?」
分からずにいると、以前勤めていたところで教育実習を指導した生徒だった。
彼は本校で行われていた会議に出席していて、他校で進路指導部長をしていた。
その時は名前も思い出せなかったが、当時のことは私もしっかり憶えていた。
まさか、これまで唯一指導した実習生が教師になっているとは思ってもみなかった。
正直、指導したときはなれるとは思っていなかった。
後で彼を知った人に聞いたら、何年も講師経験をして採用されたらしい。
教え子のなかには何人もの教師はいるが、実習生は初めてである。
これも教育実習が取り持つ縁なのかなと思った。

そういえば、「おまえが教師か!?」といわれた先生にはその後一度も会っていない。
会ったら「ちっとは教師らしくなったでしょうと」言いたいものだが・・・

2015年5月21日木曜日

Vegetable Job

今年はタマネギもニンニクもできが良い。
タマネギは肥料の効きにムラがあるので、大小様々である。
ニンニクは白ニンニクは上郡で、赤ニンニクは赤穂で作っている。
マルチをちゃんと使った白ニンニクの出来は、玉が大きくて素晴らしかった。
赤ニンニクはマルチをしなかったので、草抜きに追われて手間が掛かった割に、出来は今一つであった。
しかし、去年はタマネギは殆どとれなかったし、ニンニクも小粒だったので満足している。
農作業は家庭の事情が現れる。
去年は家内が入院したりして、農作業がどうしても疎かになっていた。
今年は家内の手はあまり借りられなくなったが、その分効率的に行うことに努めたので成果が上がった。

今回のタマネギの収穫は、職場のALTの先生にも手伝ってもらった。
彼女はアメリカ育ちの日系人で、都会育ちなので初めてタマネギの茎を切ったという。
そばに植えてある作物がジャガイモであることも分からなかった。
彼女はタマネギとニンニクをおすそ分けしてもらったお礼だと手伝ってくれた。
彼女は同じ文化人類学を専攻したというので、当初から話が合った。
一緒に音楽活動もして、バイオリンを弾いてくれている。
ジョギングや自転車に乗ることも共通の趣味である。
日本人ならいくらフィアンセがいるといっても、まだ若い独身女性なので気軽にお付き合いできないところだ。
しかし、日系人とはいえアメリカ人の彼女はあまり男女や年齢を気にしない。
私も娘のような年齢の彼女に、そう気を遣わなくて接することができている。

家内が借りてきたビデオでWood Jobという作品を今日見終わった。
舞台となった三重県の山奥とはかなり違うが、田舎という点ではここも同じである。
まさしくALTのMさんは林業体験をする主人公のようなのかもしれない。
彼女は日本には移住するつもりは無くて、アメリカに戻ってフィアンセと小さな畑をやりたいと言っていた。
農業が本場のアメリカで家庭菜園というのも面白いと思うが、反って企業化された農業の国では新鮮なのかもしれない。
かつては研究者を志した私だが、こうやって田舎で農作業をしながら暮らしている。
田舎暮らしだからこそ見えてくるものもあるし、言えることもあるように思えている。
最前線の学会の動向とは無縁にはなっているが、滅び行く田舎の最前線にいる。
Wood Jobのように若い者を拐かして、田舎に引きずりこむ役割を担うのも必要かもしれない。

2015年5月16日土曜日

スナイパーの目にも涙

私は以前に同僚の教師から、「あんたはスナイパー(狙撃手)だ。厳しい批判を誰をも畏れず浴びせる」と言われた。
20年くらい前、教師成り立ての頃の話である。
私は教育現場において、おかしいと思うことには、誰がどういう立場であろうと異議を唱えてきた。
結局、居づらくなって、同じ職場に長くて6年、最短3年で変わってきた。
おかげで正式採用になって30年近くになるが、現在の学校で7校目になる。
こういう調子だから、同僚の教師から褒められたこともないし、あまり慕われたことも無い。
ただ、こんな教師でも生徒だけは慕ってくれて、それだけで何とか30年近くも教師を続けられた。

転勤が多いと言うことは、それだけ嫌がられる職務が多いと言うことになる。
今の学校現場では、長く同じ職場にとどまっている方が、有利になる仕組みになっているからである。
嫌がられる職務では、一番その職場の問題点を突きつけられる。
有言実行のつもりで改善に取り組んだりしたが、限界を感じて去らざるを得なかった。
それでも一緒に改革に望んだ仲間がいた学校では充実した日々もおくれた。
自分を理解してくれている人が、たった一人である場合もあった。
そんな自分もそろそろ引き際かなと思うようになった。

そんな折、同じ教科の送別会の飲み会があった。
お酒も回って、気楽に話せる状況になり、そういう引き際の話になった。
すると驚いたのは、今まであまり話したことも無かった同僚の先生が、私に対して身に余る評価で慰留してくれる。
どちらかというと、批判的な目を向けていた相手であったので、恐縮してしまった。
彼は一番私と生徒の関係を、側で見てくれていたようだ。
別の教師には辛辣な評価を下す彼が、手放しで自分自身が私に比べて指導上で劣ることを口にしている。
誰にも理解されていないと思っていた自分は、不覚にも涙を流してしまった。
私も先輩の教師の背中を見て、それを目標に教師を続けてきた。
私はスナイパーだったので、背中を隠してきたつもりだった。
しかし、私の背中の方に守るべき生徒がいることを知ってくれていた同僚もいたようだ。

2015年4月12日日曜日

スマホで我流から学びへ

私は水泳に関してはコーチについて習った。
その時に専門家から指導を受けることの大切さを学んだつもりだった。
ところがジョギングや自転車に関しては、相変わらず我流のままだった。
それでもジョギングではRuntasticを用いて、時間と距離によりペースを把握するようになった。
それが先日来、NHKのランスマやチャリダーを録画し得見るようになって、考えが変わった。
やはり、ジョギングも自転車もちゃんと専門家から学ばなくてはいけない。
マラソンなら1kmを7分で走れば、5時間以内で戻ってこれる。
雨の日に自転車に乗る時には、おなかの中にナイロンのゴミ袋を入れて保温するなど・・
やっている人には当たり前に思えることが分かっていなかった。
だから今朝のジョギングでは、1km7分程度で7km走って満足できた。
以前なら1km5分ほどで走っていたので、1kmを6分でも遅いと思っていた。

本来ならコーチについて練習した方が良いのだろうが、Runtasticでなんとかペース配分が分かる。
本来なら心拍計も用いた方が良いのだろうが、そこまでスピードを上げるつもりは無いので、今のところ必要で無い。
学校内ではスマホ携帯を用いるなと言う指導を行っている。
しかし、全て禁止するのでは無くて、運動部のトレーニングなどに用いれば良いと思う。
スマホは重いのでて陸上部の練習には、もっと本格的なウェアラブル端末の方が良いだろう。
先日もALTの先生と一緒に走ったが、二人で走るとペースが分からなくなるので、Runtasticは非常に役に立った。
ただし、彼女はマイルでのペース配分だったので、換算するのに頭を悩ました。
この時は1kmで平均6分23秒、総距離4.62kmだった。
Runtasticは履歴も残るので後でも振り返ることが出来る。

スマホは大きいのを買ってしまったので、最初はベルトにつけるポーチで対応した。
ジャージの上にベルトを締めたり、ウェストポーチを利用したりした。
これは非常に面倒で手間になった。
そこで思い切って3000円もする腕に装着するポーチを買った。
これは非常に便利だし、途中経過の音声が良く聞こえるようになった。
ただ、相変わらずイヤホンのコードが邪魔になるので、なるべく音楽は聴かずに走っている。
因みに歩く時は音楽を聴くことが多い。

将来は水泳にも対応できる、ウェアラブル端末も使えたら良いとは思う。
こちらは長年やっているので、ペース配分はだいたい分かる。
しかし、どれだけ泳ぎ込んできたかは記録していないので分からない。
Runtasticの良いところは、もう一つ統計が見られることだ。
週、月、年、総計の単位で知ることが出来る。
これはずいぶんと励みになるだろう。
スマホはコーチであり、サポーターでもあるのである。
そして、テレビのランスマとチャリダーもしっかりと見ることにしようと思う。

2015年4月5日日曜日

旅立ちへのエール?

一年間一緒に仕事をしたW先生が東京に旅立った。
彼は東京都の教員採用試験に合格して、今回、都の肢体不自由の特別支援学校に赴任する。
今年30歳の彼の経歴はかなり人とは違う。
彼は小学校から高校まで不登校傾向で、結局高校は職業高校を中退して通信制を卒業した。
大学は地方の国立の教育大学で、専攻は美術だがピアノも弾けて多才であった。
大学院にまで進んで、美術関係で数々の賞をもらったり、海外で個展を開くほどの活躍をしていた。
その彼が地元兵庫県で教員を目指して、臨時講師を続けていた。
東京を選んだのは、今年兵庫県で美術の採用が無かったのと、個人的な理由からである。

彼とは一年間にわたり、色んな話が出来た。
自分の子供ほどの年齢の若者から、色んなことを教わったし、こちらもできる限りのアドバイスをした。
彼は不登校の折りに両親に迷惑を掛けたと言うことで、非常に家族思いであった。
内臓疾患のある父親を入院させて、その面倒も見続けた。
彼は十分に親孝行を果たしたと思う。

彼を支えたのは、家族以外でも職業高校の折に担任をしてくれた先生や、同じ塾の友達であったりした。
学校には行けない彼を、周りの人が一生懸命励まし、そして彼はそれに見事応えていった。
ただ、彼はどういう訳か大きな事件に遭遇することが多かったようだ。
講師をしていた特別支援学校では、同じクラスを担当していた先生が生徒の手を握りながら現場で亡くなったという。
高校でも生徒の思わぬ出血の場面に遭遇して、腰を抜かしてしまい、その後腰痛に苦しんでいる。
其の他、普通の人なら一生に一度も経験できないことをいくつか経験している。

そんな彼が、生き馬の目を抜く東京で暮らすことには、心配であった。
個人的な事情も知って、私は反対もしたが、彼の意志は強く、そして希望にあふれていた。
私は東京で障害教育の免許を取得して、また戻っておいでよと行って送り出した。
案の定、彼は免許も持たないのに障害児教育に携わることになった。
本当は東京に馴染んで、活躍をしてそこで生活を築いていくことが出来れば良いのだろう。
若い頃の私だったら、骨を埋める気持ちで頑張れと言っただろう。
しかし、今の私は家族や色んな人との関わりを考えて、また戻っておいでよと言ってしまう。
これは遠く大学院で研究を続けている娘への気持ちと同じである。
一緒に暮らさなくても、近くい住んでいてくれれば良い。
親のエゴなのかもしれないが、色んな経験から思いやる気持ちでもある。

2015年3月22日日曜日

命がけとは

昨日、たまたま SWITCHインタビュー 達人達(たち)アンコール「角幡唯介×塩沼亮潤」と言う番組をEテレで見た。

番組紹介では

地球最後の未踏地帯を単独踏破した探検家・角幡唯介
千日回峰行という命がけの荒行を達成した僧侶・塩沼亮潤。
極限状態を経験してきた2人による生と死をめぐる対話

となっている。

二人が死に直面してこそ、得られる生(命)の実感というものは良く伝わってきた。
それとともに、森の中で対話している二人の対話で、昔の人びとの生活、例えば農業も命がけだったという件があった。

私は頭の上では、自然とともに暮らすことの単なるイメージしか持ち合わせてなかった。
たとえ現代人とても様々な死のリスクを負いながら暮らしてはいる。
しかし、現代のような豊かな時代になり、医療や社会保障が整った時代とそうで無い時代では度合いがまるで違う。
私は死のリスクの少ない安全で、生活にあまり不自由で無い状態で、昔の生活を理解しようとしていた。

例えば船乗りという家業で生きていた祖父に対しても、その厳格さがどこから来るのかも理解できずにいた。
祖父ほどでは無いにしても、現実社会の厳しさを言い続けていた父親さえも理解できていなかった。
そして、村落調査を行っていた与路島の人びとの暮らしも、本当は理解できていなかったのかもしれない。
昔の人や、不便な地域で暮らす人は多くのリスクを背負い、それを家族や仲間で助け合いながら命がけで生きていた。
字面の知識ではイメージできないが、死に会えて直面した人から言われる一言は大きなイメージを与える。
この二人は、豊かで安全な現代だからこそあえて死に直面することで、現代に生きる人に生というものを提示できる存在なのだと思った。
ただし、戦争状態にある地域や発展途上の多くの地域では現代でも死に直面しながら生きている。

かつて知識人の多くも、死を賭して学問や研究に打ち込んだであろう。
簡単に命がけという言葉が使われるが、身体を酷使するだけが命がけでは無い。
目先の豊かさを失うことを恐れて、将来の重大なリスクに目を背ける社会や人びとに警鐘を鳴らすのも命がけである。
身体の極限に挑んだ彼らの姿は、実は今生きる我々の本当の死のリスクを浮き彫りにしてくれているように思う。
私の生き方を考える良い機会にもなった。

2015年3月17日火曜日

試練は人を強くする

今回の大学受験では最後まで、心配な生徒が何人かいる。
中でもA君は、一番気にかかる生徒だった
それは、私の日本史のクラスでは、日本史はいつも学年トップの成績だった。
そして、模擬テストでも群を抜いて、日本史の得点は良かった。
彼は陸上の長距離選手で、キャプテンまで任される程の人物だった。
彼の最大の弱点は本番に弱いことだった。
陸上の大会でも、ここぞと言う時に踏ん張れずに残念な結果となったという。
その彼はやはり本番のセンター試験でも、自分を失って実力が出せなかった。
試験を受けながら頭が真っ白になって、問題がちゃんと読めなかったという。

センター試験の結果から国公立の志願は諦めた。
私学受験に向けて頑張ったが、前半日程では良い結果が出ない。
周りの生徒が思いもよらない良い結果を出した。
一緒に頑張った日本史グループの中で、一人取り残されたようになって痛々しかった。
私も、彼には不本意な大学でも、大学へ行って勉強して大学院へ進学するよう勧めたりした。
しかし、心の底ではあれだけ頑張ってきたのだから、後半はどこか良いところに受かるのでは無いかと期待していた。
ただ、関西私学の後半日程は彼の得意な日本史を使うことが出来ないので、非常に不安も感じていた。

その彼が、見事志望する大学に合格できた。
彼の志望通りの歴史学を専攻できるコースなど、複数受かっていた。
彼は迷わず歴史学を専攻する大学に行くという。
今日報告に来た彼に会って、周りからとり残されて辛かったことを労った。
そして、出来たら大学院に進んで欲しいと言った。
彼には一発勝負の受験より、地道な研究が合っているようにも思えた。
それでも教師になる夢は抱き続けて欲しいと思っている。
そして、何よりも彼に、この辛い経験で強くなっただろうと聞いた。
彼は言った「少し・・・」
確かにまだ、彼は自信はまだ取り戻していないだろうが、この試練を乗り越えた経験は心に刻まれていると思う。

2015年3月16日月曜日

祖父の写真

先日母親が、祖父の写真が欲しいと言いだした。
沈没していた戦艦武蔵の映像を見て、自分の父親のことを思い出したという。
私は古いアルバムを母親から預かってスキャンしていた。
私の母方の祖父は、空母の船員であったが、戦死したことは何度も聞かされていた。
父方の方も、父親の兄が同じように海軍の少年兵として戦死していた。
身近に戦死者がいたので、どの家でも戦死者がいるのが当たりまえのように思っていた。
だから、あまり祖父のことは特別詳しく聞いていなかった。
改めて母親に聞いてみると、祖父は職業軍人で下士官だったが、退役して仕事をしていた。
戦争が激しくなって、幼い娘が二人いたのだが、応召されて戦死したと言うことだった。

祖母は女手一つで二人の娘を育て上げた。
母親は父親が亡くなった時に5歳くらいだったので、殆ど父親の記憶が無いという。
残された写真は、若い頃、戦友と撮ったセーラー服を着た写真や、出征祝いの写真であった。
祖父の顔は母方のある従兄弟の若い頃にそっくりだが、祖母からは私自身も似ていると言われていた。
祖父は42歳で亡くなったので、当然年老いた姿は残っていない。
祖母は若い孫たちに、自分の夫の姿を思い浮かべていたのだろう。

今まで戦争の被害者としての家族というイメージしか母の家族には浮かべていなかった。
しかし、祖父は自ら軍人の道を選んだことも確かであった。
貧しい家に生まれたが、選ばれて軍人の道を歩めたのは、それなりの出世であったのだろう。
戦況によって幼い子供を置いて、出征せねばならず戦死したのは不幸ではあった。
その影響は妻子やその家庭にも大きな影響を与えたのも確かである。
しかし、その時代の生き様は、後の時代での結果だけでは評価できるものでは無いと感じた。
確かに我々は今は戦争を体験せずに済んでいる。
しかし、後の時代の子孫たちは、欲望に任せて環境を破壊し尽くした先祖という評価を下すかもしれない。

私の祖父の軍人姿の写真は、やはり格好良い。
そして、家族4人で写った出征記念の写真は痛ましい。
これがその時代の現実なのだろう。

2015年3月9日月曜日

奇跡を起こした二人

私が授業を担当していて、関西の難関私学に合格した生徒の多くは、模擬テストでは良い判定をもらっていなかった。
中でも、ずっとE判定だったY君や、かつては成績不良で問題となったO君の合格は快挙であった。クラスも別々のその二人が、先日そろって挨拶に来てくれた。
私に直接会って話がしたいと、1時間も私が戻ってくるのを待ってくれていた。
私はその時に、彼らが日本史をどのように勉強したかを聞いた。

O君は本格的に勉強を始めたのは去年の7月からだった。
彼の取り組みは側で見ていて知っていた。
塾にも通わずにひたすら学校で、教科書や資料を読んでノートにまとめたり、一問一答の問題をしていた。
私は時々、放課後教室で残って勉強している彼に、声かけとちょっとしたアドバイスをする程度だった
Y君はもともと日本史が好きで、模擬テストもそこそこ良い点数をとっていた。
しかし、他の科目はそれ程でもなかったので、模擬テストの判定は悪かった。
彼も塾には行かずに、ちょっとした通信テキストを使う程度だったという。
勉強方法は、分からない日本史の用語があると、家でスマホを使って、Wikipediaで調べたという。
彼は一問一答も持っていなかったので、受験前に貸してあげたが、それも役だったという。
彼も教科書中心の勉強をして、受験前に過去問をしっかりしたようだった。

Y君は受験前にはあまり学校に来なくなった。
名指しでは無いが、学年集会で教師から「学校に来ずに受験勉強をして受かった者はいない」という言葉を聞いて傷ついた。
私は彼を呼んで自分も学校に行かなかったこと、意地を出して見返してやれと発破を掛けた。
今回も彼はそのことに拘りを持っていたので、こう答えた。
「学校で一生懸命受験勉強して、合格した者もいれば不合格の者もいる。そして、学校でせずに合格した者もいれば不合格の者もいる」
「教師は学校に来て一生懸命勉強して合格した者だけを、どうしても立場上強調して宣伝したがる。それだけだ」
実際、あれだけ学校で一生懸命勉強していたのに、合格できていない生徒もいるのである。
私も正直、私が与えたプリント課題を一生懸命取り組んでくれて、難関私学に合格してくれた生徒は特別嬉しく思う。
ただ、教師が受験生の勉強を邪魔することがあることも知っている。

この奇跡を起こした二人に私が出来たのは、日本史に興味を持ってもらうことと、自分を信じて諦めずがんばることの力添えだけである。
というのも、自分の同級生の中で、学年で成績ビリの友達が、早稲田大学一筋に勉強して見事現役で合格したことを常々話してきたのである。
そして、私はプレゼンを使った授業だが、ノートすることはあまりない。
ただ、画像や映像は多いのと、もっぱら現代の社会に置き換えてたとえ話をする。
受験参考書や問題集も一様参考にはするが、学術的な本を読むことの方が多い。
細かい受験テクニックは殆ど出来ずにいた。
なにせ、過去4年間特別支援学校に勤めていて浦島太郎状態だった。

Y君は大学でどんな勉強したいかもう既に考えていたし、高校時代と同じクラブで頑張りたいという。
O君はこの半年受験勉強を遮二無二行ってきたせいか、今は何も考えていないという。
O君には「これで燃え尽きてしまわないように」と釘を刺した。
そして、二人には是非大学で色んな経験をして欲しいと話した。
彼ら以外にも、何人か合格の報告をしにわざわざ訪ねてくれた生徒がいた。
どの生徒も、私にとっては誇りであり、私のこれからの励みにもなる生徒である。
そして何よりも後輩にとって、良い目標になる生徒でもある。

2015年2月26日木曜日

その日が来るまで

いよいよ三年生が卒業していく
何度か卒業式は経験しているが、担任でも無いのにこれほど寂しく感じることはない。
それは去年担任して、修学旅行などに一緒に行ったことにもある。
それよりもまして、日本史の授業での関わりが楽しかった。
今勤めている学校では、廊下などで会ったら挨拶をすることが当たり前になっている。
礼儀としてきちっとしてくれる生徒も多いが、本当に親しみを込めて挨拶をしてくれる生徒も中にはいた。
「先生 元気?」とか「ひさしぶり」とか、授業で会っているのに懐かしそうに言う生徒もいた。
また、私の姿を見ると、遠くからでも手を振って、挨拶してくれる生徒もいた。

まだ、進路がきちっと決まっていない生徒もいるけれど、大半の生徒は進路に向けて準備をしている。
たぶん生徒の気持ちは、もうそちらの方にいってしまっているのだろうと思う。
卒業式は、もう一度だけ気持ちをこちらに引き戻す日なのだろうと思う。
私は担任では無いので、卒業アルバムは持つことは無いのだけれど、一緒いとったクラス写真は手許にある。
また、去年のクラスの解散会でもらった色紙も大事に本立てに置いてある。
この歳になると、こうやって親しく関わる生徒はもう多くないと思う。
ひょっとしたら、もう担任をすることは無くて、最後になるかもしれない。

この頃は、生徒のような若い先生と話をする機会も増えた。
自分の昔の教師経験に耳を傾けてくれる先生もいて、嬉しいと思っている。
そろそろ、私自身も退職後の第二の人生に向けて、準備をしなくてはいけないと思っている。
息子や娘のような生徒たちが巣立っていって、寂しがっている場合では無いと思っている。
何年か後にあった時に、しょぼくれた爺さんになっていたら恥ずかしいからである。

 今の気持ちを歌に託します。小田和正の作品で「その日か来るまで」です。良かったら聴いてください。

2015年2月22日日曜日

受験生から学んだもの

授業で担当した生徒たちの、大学合格発表がこのところ続いた。
今年は学年に所属していなかったので、指定校推薦などは一部の生徒を除いて殆ど知らなかった。
センター試験の結果が出て以来、センター利用の推薦から私立大学の一般入試と生徒たちの結果には一喜一憂した。
私が担当した日本史を使って受験した生徒の合格多く出て、嬉しくもあり、ほっとした。
私は大学受験指導は、前任校が特別支援学校だったので、4年間のブランクがあった。
いわゆる受験テクニックの指導は下手であった。
サブノートを使っての私の授業は、もう一人の日本史担当の先生の授業の板書の量に比べて、三分の1にも満たなかった。

私の授業は落語で言う枕の部分が長くて、時事問題を大きく取り上げて解説した。
そして、自前のプロジェクターを使って、録画した日本史に関する映像を使った。
また、期末試験後などは見てもらいたい映画などを見せた。
私はとにかく、日本史に限らず、何かに興味を持って学ぶことの楽しさを知って欲しかった。
試験もあまりひねらずに、少々難しいプリントを与えて、その中から出題するようにした。
日本史が大好きになって、日本史の教師になりたいという生徒もいた。
その生徒は、実際に模擬試験などでは点数が採れずに、指定校推薦で希望する大学に合格したりしていた。
一般の入試試験を頑張った生徒は、自分で入試対策の勉強をしていた。
私は入試直前では、演習問題を自分でやる授業を主体にして、殆ど講義は行わなかった。

関西の難関私学の合格発表があって、それに何人かの生徒が合格して、報告に来てくれた。
学校を休みがちだったある生徒は、学年集会で「学校を休んでいる生徒に、良い大学には入れたためしがない」と言われた。
私はその生徒を個別に呼んで、意地を出して見返してやるようにハッパをかけた。
その生徒はそれまでの模擬テスト結果を覆して、見事難関私学に合格した。
合格発表に来た彼と握手して、肩を叩いて祝福した。
他にも、個別に関わりのあった生徒が報告に来てくれて、嬉しかった。
彼らはどちらかというと、それほど模擬試験や授業では期待されていない生徒だった。
ただ、日本史が非常に得意だった生徒が、苦戦しているのを見ているのは辛いものがあった。

合格生徒には、「これで燃え尽きたらいけない。大学へ入ってからが本当の勉強だ」と言い続けてきた。
そして、希望する大学に行けそうに無い生徒には、自分のように大学へ入ってから勉強して大学院で希望を叶える手もあると言っている。
彼らのがんばりを身近で見ていると、私自身が励まされる。
学習効果においては、講義そのものはたかだか5パーセントほどしか効果が無いという。
今回良い受験結果が出たのは、私の講義そのものはお粗末だったけれど、彼らが学習する意欲を出す手助けが出来たからだと思っている。
高かった自前のプロジェクターの費用は、これでペイできたのではないかと思う。
早朝に時間外補習を前期だけ担当したけれど、喜びを分かち合った半分は参加していなかった。
反省点として、授業は量よりも質であるということを思い知らされた。

2015年1月29日木曜日

惜別と感謝

今日、3年生の最後の授業があった。
授業の始めに、自分の古い大学時代の体験を話したりした。
いつものようにプリント学習をして、いつものように終わった。
すると、号令を掛けた生徒が、少し待ってくださいというので、何かと思うと。
センター試験で一番頑張った生徒が代表して、花束とメッセージカードを渡してくれた。
そして、皆で「2年間ありがとうございました」と言って拍手してくれた。
予想もしていなかったので、涙が出て「ありがとう」としか言えなくなってしまった。
教師生活を長い間しているのだが、3年生の最後の授業で花束をもらったのは初めてであった。
メッセージカードにも、感謝の気持ちが添えられていて心を打った。

今の3年生とは去年からのつきあいだが、今年は学年から外れて関わりも少なかった。
ただ、日本史の生徒とは授業や補習など、多くの関わりが持てた。
センター試験でも、期待以上の成績を上げてくれて嬉しかった。
普段はまじめでおとなしい受験選抜クラスの生徒とは、あまり雑談で話すことも無かった。
まだ受験が残っている生徒から、このような心遣いをもらえるとは思っても見なかった。
どちらかというと、一般クラスの生徒とは色々話す機会があったが、最後の授業はあっけないものだった。
そのどちらの生徒も、私にとっては別れるのが寂しい生徒たちである。
一緒に修学旅行に行ったことも、その思いを強くさせているのだろうと思う。
担任として卒業生を送ることが出来なかったのは残念だが、その小さな花束で私は教師として幸せを感じた。
後は生徒たちが、希望する大学に進学できること、進路先で上手くやれるよう祈るだけである。
私は、こんな素晴らしい生徒たちと2年間過ごすこと出来て、本当に良かったと思う。
私こそ感謝の気持ちで一杯である。
ありがとう そして、君たちのことをいつまでも思っています。

涙が出て言葉に出来なかったので、気持ちを歌に託しました。
良かったら聴いてください。
「たしかなこと」(小田和正作品)

2015年1月25日日曜日

成人を祝う会

前任校である特別支援学校の教え子たちが,今年成人を迎えたというので、それを祝う会があり参加した。
私は障害児教育の学校は三校経験しているが、こういう催しは初めてであった。
姫路駅前の立派なホテルの会場を借りて、正装でと言うのでネクタイだけは締めていった。
会場でその意味が分かった。
教え子の多くは成人式に備えて、スーツや着物を用意しているが、自治体の主催する成人式には多くが参加していなかった。
障害者の会である手をつなぐ親の会(育成会)の催しもあるが、それにも殆どの卒業生は参加していなかったという。
保護者や高校時代の担任の先生が中心となって、晴れ舞台をつくってあげていることが分かった。

教師の方は、学校が分割されたり、異動したりで、そのまま勤めている先生は三分の一以下で、しかも全員が出席ということでは無かった。
生徒の方も、私が担任しているクラスは、7人中4人しか出席しておらず、欠席していた生徒の方が気になった。
卒業して2年ほどしか経っていないこともあって、雰囲気は高校時代とあまり変わりは無かった。
ただ、着物を着せてもらっている女子は、やはり華やかで見違えた。
何よりも、保護者の方がこの会を喜んでいる様子が格別良かった。

私は普通校に移って、2年目と言うこともあって、以前の雰囲気に戻るのに戸惑いもあった。
生徒とはいつものように話せるのだが、ステージで踊ったり歌ったり、ゲームをすることに躊躇いができてしまっていた。
その点では、特別支援学校に勤め続けている先生が、女装したりして卒業生たちを引きつける工夫で和ませてくれた。
卒業生たちは、高校にいた時と同じのりで、楽しい時間が過ごせたと思う。

帰りすがら思ったのは、やはり参加しなかった生徒のことだった。
事情も色々あっただろうが、自治体の成人式にも、こういう催しにも参加していないのだろう。
ただ、自分自身も成人式には参加していないし、祝ってもらったことも無い。
自分は大学が名古屋で遠かったので、赤穂に戻る負担も多くて成人式には帰らなかった。
スーツも教育実習を行うまで、持っていなかった。
そして、何より中学校から地元赤穂を離れているので、友達に会う目的がなかったからである。
その点、地元の学校を卒業した私の子供は成人式にはちゃんと帰って参加したのとは違う。
要するに生まれ育った場所と、どれだけ密接なのかと言うことである。
そういう意味で、特別支援学校の生徒と私は、地元との関わり薄い点で似ているのである。
違うのは自分達の手で、同窓会などの催しを出来るかどうかと言うことだろう。
私は高校の同窓会には、学生時代からよく参加した。
生徒たちは学校が主催する学校全体の同窓会に参加できるが、参加する人数は多くは無い。
だから、卒業後に学年で集まることが出来る最大の催しが、この成人を祝う会なのである。

今回、無事成人を迎えることが出来た生徒を見て、嬉しく思った。
参加できなかった生徒や教師の方が気にはなるけれど、こういう催しが盛大に出来ていることの方を喜ぶべきだろうと思った。
個人個人の様子を聞いたら、色々考えさせられることもあったけれど、これからも何とか頑張っていきていってくれると思う。
年老いていく自分の方がむしろ取り残される感じもするが、また町で出会ったら互いに様子が話せるよう互いに健康であればと思う。

2015年1月18日日曜日

千種の水くみ2015年冬

水くみ場、手前が我が家の軽トラ
今日、家内と千種に水くみに行ってきた。
1月にくみに行くのは初めてである。
いつもなら、雪のシーズンを避けて早めにくみに行っている。
昨年の暮れは、早々と寒くなったこともあって、忘れていた。
雪が積もっていたら、水くみ場の駐車場も埋まっているだろうし迷った。
朝の散歩をしながら、どうしようか考えた。
コーヒーやお茶は、買ってきた水を飲んで、料理はくみ置きで良いかなと思った。
しかし、水道水で作った味噌汁のまずさを思い出した。
うちで使う味噌は、家内の母親の手作りで、添加物も無い。
だから、余計に水道水のカルキの味が強調される。
散歩していて、天気も良いし、気温が高いので行けると確信した。

早速、散歩から帰宅して行く準備をした。
雪のシーズンは、スタッドレスタイヤをはいているフィットで行く。
しかし、ホースが使えないので、ノーマルタイヤだけど、軽トラで行くことにした。
100円玉を用意していなかったので、ガソリンを入れたり、買い物をしてから出かけた。
千種川の河川工事は、どんどんと進んで、橋も新しく架け替えられていたりした。
周りの集落は工場も無くなって寂れていく感じなのに、工事だけ大がかりなのか不自然だった。
そんな折、佐用町の久崎小学校に、「ありがとう久崎小学校123年」という横断幕を見た。
どうも、久崎小学校は廃校になるらしい。

調べてみると、徳久小学校は昨年の3月に廃校になっており、佐用町の小学校の統廃合が進んでいるようだ。
上郡町でも小学校の統廃合は進んでいるのだが、佐用町も同じらしい。
久崎小学校は作用の水害の時に、対策本部が置かれ、色んな車両が集まってきて、その対応に追われていたのを思い出す。
災害からの復興が進む一方で、子供の数はどんどん減っているのだなと思った。
実は、私の父方の祖母がこの近くの小赤松の出で、実家の家も久崎の大工さんに建ててもらった。
そういう意味で、久崎には親しみを感じていただけに、寂しい思いである。
小規模の小学校から、大規模な中学校へ行くと、元気を失う子供が多いと、学童に勤めている家内は小学校の先生からから聞いたという。
それなら、いっそうのこと中学校や高校も小規模にしても良いのでは無いかとも思う。
学校が大規模である必要性は、これからの時代は薄れてきたと思う。
職場自体が小規模になっているからである。

千種に近づくと、さすが雪国の様子に変わっていった。
だんだんと山は白くなり、道ばたには雪が積もっていた。
ただ、この暖かさで、雪はだいぶ溶けていて、ノーマルタイヤでも問題は無い。
水くみ場の駐車場も、雪はあったが、問題なく車をとめられた。
問題はくむ人の多さである。
以前は、休日に来ても、誰もいないことが多かった。
今回は、既にくんでいる人もいたし、くみ始めてからもやってきた。
うちは多く水をくむので、待ってもらうのに気がとがめる。
しかし、待っている人もたくさん水をくむようで、待ってもらうしかないのである。
平成の大馬鹿門前の水くみ場が賑あうのは、スキー場近くの水くみ場が閉鎖されているからである。
ホースを継ぎ足しての水くみは、容器を運ぶより楽だが、じっとしているので少し寒い。
時々、冷たい風が吹いてきて寒さを感じるが、曇っていたのが晴れて、雪がまぶしく暖かさも感じた。

冬の午後は普通曇ることが多いのだが、天気も良く帰りの車の中は暖かい。
遠くで浮かぶ、雲も冬雲とは違い、まるで春のようである。
そう言えば、スキー客に行きも帰りも殆ど会っていない。
昼間の時間帯ということもあるが、スキー離れを感じさせた。
千種付近に住む人の、生活を考えるとそちらも賑わってもらいたい。
スキーが盛んだった頃は、千種は華やかに思えた。

地方に住みたいという人が多いというのに、地方はそういう人を受け入れる経済力が無い。
ただ、これからの時代は金をなるべく用いずに生活する方法を工夫するべきだ。
そして、消費税がかからない個人取引で売買する方法がある。
それを上手く仲介できる人がいれば、もっと地方は暮らしやすいだろう。
そもそも、教育費や医療費がそれほど負担にならなければ、収入も多くは必要が無い。
地方創世は地方のそういう負担を、都会よりも大幅に減らすことから初めてもらいたい。

2015年1月11日日曜日

トンドの火よいつまでも

今年から村の字のトンドのやり方が変わった。
今までは一〇数件の隣保(班)ごとに、当番で準備をしていた。
ところが、人手不足でその負担に耐えられない班が出てきて、上中野という大字(組)全体で行うことになった。
日時も以前は1月14日の夕方に火を付けると言うことで、その前の休日に支度をした。
今年からは、成人の日の前日の朝に準備をして、夕方に火を付けるようになった。
本来は小正月の行事で、それが成人の日の休日となり、その休日が日曜にくっつけられて混乱した。
本来は旧暦の小正月行事だから、新暦の1月14日に拘る必要も無かったのだが、いつまでも拘っていた。
場合によって、平日の夕方に火を付けて、翌日の平日の朝に後片付けになって面倒になる。

以前は夜一〇時頃になると、近所の人が呼びに来て、火を囲んでの酒盛りになった。
殻付きの牡蠣を食べたり、冷凍保存していた魚介類や鹿肉などを焼いて食べた。
酒を飲んで中から暖めし、トンドの火を囲んでの会話は心温まるものだった。
年によっては、明け方の三時近くまで飲み明かした。

村人は高齢化して、ずいぶん寂しくなったのだが、トンドがやれるだけましである。
中野の村でも隣の組は、去年から止めてしまった。
近隣の町の中では、止めてしまっので、注連縄の処分に困って、やっている村の人に頼むところもあるという。
いつまでこのトンドに加われるか分からないが、寝小便をしでかすまで続けたいと思う。

泣けないお墓

この土曜日は、叔父の三回忌で名古屋まで出かけた。
家内と、母親と一緒に、朝五時に起きて、車で出かけた。
昨年は、大学時代に住んでいた近くなので、ナビを無視してお寺を目指して迷った。
今年は、ナビにも従ったし、もう叔父の見舞いから、葬式、法事と4回目になるので迷わなかった。
ところが、私の母親が時間を間違えて、1時間も早く来てしまった。
赤穂の親戚は、青春十八切符と新幹線を上手く使って、時間より少し遅れてやって来た。

うちの親や叔父は本来は浄土真宗なのだが、お墓の都合で去年より真言宗で法事を行っている。
叔母が言うには、地下鉄の駅が近くて便利で手頃な近代的な墓が見つかったので、決めたと言うことである。
昨年の納骨の儀式の時に初めて見て驚いた。
カードをかざすと、叔父の墓が現れてくるのである。
いわいる立体駐車場原理の、お墓なのである。
お経も今まで唱えてきたものとずいぶん違うし、お墓もテレビゲームのようだし、気持ちが入らない。
食事も、そのお寺で済ましたのだが、運転のこともありお酒も飲めず、親戚も食事が終わると早々に帰り支度を始めた。
交通に往復7時間を費やして、やってきた名古屋での法事は、つつがなく終了した。

叔父は、赤穂を離れて、名古屋で就職して、そこで所帯を構えたが、できる限り帰省を続けた。
亡くなるまで、赤穂に帰りたいと言い続けていた。
しかし、赤穂に思いがあるのは、叔父のみであった。
赤穂の親戚は、赤穂の雰囲気を、その法事の場に持ち込みはしたが、異なるお経と異次元のお墓の前では、たじろぐばかりだった。
食事が済むと、一人の叔父が「はよ いの(帰ろ)」と席を立ってしまったのも、そのせいだと思う。
せっかく来たのに、亡くなった叔父が生きていたら、寂しい思いをしたろうと思う。
私は学生時代に、叔父にずいぶん世話になったので、今度の七回忌には、この雰囲気を変えられたらと思っている。
ただ、亡くなった叔父の魂は、もう、赤穂に戻ってきているような気がするのだが・・・

2015年1月6日火曜日

お節のDIY



我が家のお節

この写真を見て、おかしいと思いませんか?

家内の母親に見てもらうと、直ぐ指摘されました。

そう!鯛の頭が右を向いているでしょう。

なぜか?

裏を見せられないからです。

つまり、私が焼く時に焦がしてしまったのです

去年から、節約のために鯛は私が七輪で焼いています。

去年は、焼き網に引っ付いて、皮が破れて見苦しくなったので、今年は串刺しにして焼きました。

これだけ大きい鯛ですから、高さ調節のブロックの上に、鉄のタイヤホイールの中を落とした筒を置いて載せました。

なるべく遠火で焼いたので、時間がかかり、つい炭を加えたまま、近くで大豆の脱穀をしていました。

油断でした!

気がついた時には、首がもげかかるほど焦げてました。

しかし、気を取り直して、裏面はじっくりと焼きました。





他のお節はスーパーで買ったのと、家内の手作りです。

特に黒豆を煮るのは、家内の得意としているところなのですが、今回は家で採れた黒大豆ではありません。

選別するのを、手間に思ったからです。

最近はお節を買うのが当たり前なのですが、自分で作ると安上がりです。

この鯛は、刺身用なのですが、一匹税込みで1000円ほどです。

家内の実家で、立派な鯛を頂きましたが、値段を聞いて驚きました。

なんと、これより一回り大きいのですが、5000円だそうです。

見た目は良かったのですが、身は固くてパサパサで、味では絶対勝ったと思いました(口が裂けても言えませんが・・・)。

入れ物のお重は、自分にはよく分からないけど、高いものだそうです。

安売りスーパーの品物と、手作りで我が家のお節はガッチリです。

2015年1月4日日曜日

論文提出の悪夢

これから新学期だし、受験生にとってはいよいよ受験の始まる大切な時期である。
私はこの1月10日頃になると、論文提出の悪夢が蘇る。
私は大学受験に関しては、それ程苦しんだという記憶は無い。
焦りばかりで、苦しむ手前でケリが付いたというのが実態かもしれない。
むしろ、卒業や進学がかかった卒論や修論は、地獄の苦しみを味わった。
素案文章をいっぱい書いておいて、いざまとめや清書と言うことになって、なかなか文章がまとまらなかった。

特に修論は、教官の指示に従わずに、調査資料を用いて書いたので、もてあます羽目になった。
殆ど不眠不休の状態が、一週間あまりも続き、机の上で目を開けたまま眠ってしまっていた。
つまり、起きて論文を書いているのだが、午前二時だったのがいつの間にか朝だったりした。
その間、文章は全く書けていなかった。
なかなか書けないし、締め切りは迫って、小説家がなぜ自殺するかが身をもって分かった。
当時は手書きだったので、清書は数人の人に手伝ってもらった。
提出の日は、駅の階段で上るのが辛くて、先輩に介助してもらいながら、手すりにしがみついてホームまで上がった。
大学までの坂道も、ふらついてやっと提出したが、帰りの電車は眠り込んで乗り換え駅を寝過ごしてしまった。

当然そんな状態だから、内容も良くなくて、先輩からはもう一年留年してやり直すように言われたが、当時は色んな意味で限界が来ていた。
この歳になれば、一年くらい余分にやってもいいように思うのだが、当時の1年は今の10年にも感じられた。
結局、博士課程への進学を断念して、高校教員になることにした。

先日、ノーベル賞を受賞した天野浩・名古屋大学教授が、実験は何度失敗しても楽しくて続けられたとテレビで言っておられた。
大成する人は、やはり違うのだなと思った。
氏は私とほぼ同じ年で、こちらが南山大学にいる時に、名古屋大学にいたのだと思うと親近感を感じる。
しかし、研究と言うことになると、全く足下にも及ばない。
失敗を楽しみに換える力など、自分にはとうていなかった。

今から考えると、都立大学は本当に素晴らしい師や先輩にめぐまれていた。
しかし、その環境を活かす力が自分には無かったのである。
ただ、その失敗はその後の人生に活かすことが出来たと思う。
今でも少しずつ研究が続けられているのも、そのお陰だし、そこに在籍できたことに誇りも持てている。

ただし、そう思えるようになったのは、つい最近のことで、長い間悪夢でしかなかった。




2015年1月3日土曜日

久しぶりの小野豆とコウノトリ

以前にも触れたことがあるが、上郡の高田地区には平家伝説で有名な小野豆という集落がある。
いつものウォーキングコースを変更して、小野豆まで行くことにした。
昨日今日と、箱根駅伝があり、上郡出身の中谷選手も3区で区間賞を取るなど活躍していた。
ただ、彼の所属する駒澤大学は、箱根の山登りで躓いていた。
駅伝に刺激されたわけでは無いが、山登りを頑張ってみようと思ったのである。
私はウォーキングやジョギングには、スマホのRuntasticを使って距離やペースを測っている。
また、ウォーキングの時にはそれの附属アプリのRuntastic Musicで音楽を聴きながら歩く。
このアプリは、距離ごとや時間ごとに、かかった時間やペース、消費カロリーを告げてくれる。
そして、音楽もその告知の時には小さくなったり、写真を撮る時などには止まってくれる。
そして、終了した時に、その記録が集計されて、Fscebookなどでも公開できる。

今回は、平坦な道なら、1kmを10分から13分の間で歩いたが、さすがにきつい坂では、17分くらいになっていた。
平家塚のあるところまで行ったのだが、406mもあって、意外と高いことが分かった。
途中の枝垂れ桜があるところでは、山陰になっていたせいか、雪が残っていて滑った。
自宅から往復、7.75km、時間は1時間40分、消費カロリーは505kcalであった。
小田和正の「小田日和」というアルバムが気に入っていて、それを聞きながらなので楽だった。
そして、このRuntasticからの告知が励みになる。
季節の良い時などは、風景や鳥の鳴き声を楽しんだら良いのだろうが、冬場はトレーニングであるから、楽な方が良い。
と言いながら、この季節には土日には登るのはためらわれる。
狩猟が行われていて、山から銃声が聞こえてくる。
以前に何も考えずに犬を連れて登ったら、猟犬に遭遇して危ない雰囲気になった。
今日はさすがに正月だから、狩猟は行われていないと思って登った。

平家塚のある公園からは、遠くに瀬戸内海が光って見えた。
スマホで写真を撮ってみたが、撮り方もよく分かっていなくて、上手く撮れなかったのが
残念だった。
こういう近くの山に登るのは、良い気分転換になる。
以前は、毎日のように登っていたし、子供と一緒に登るのも楽しみだった。
子供はバギーに乗せて登ったこともある。
今では、愛犬も死んでしまったので、一人で登るしかない。
また、村に戻ってくると、村が違った風景に見えるから不思議である。

午後からは、家内が勤めている学童の児童が、赤穂のジャスコで踊るというので見に行った。
わざわざ新宮から踊りに来ていて、「播州わらべ」というグループだったが、大人も混じっていた。
正月らしく賑やかで楽しいものだった。
その帰りに、家の近くで大きな鳥が降りてくるのが見えた。
コウノトリのさっちゃんかも?
家内はわざわざ車を止めて、ブログ用の写真にしたらとスマホで撮影を始めた。
 だいぶ前から二羽コウノトリが来ているのは知っていた。
最近では、いるのが当たり前になって騒がれなくなり、平気で近くまで降りてくるようになっていた。
家内の撮影したコウノトリ

家内に「さっちゃんのドジョウを食べた」と言われたが、さっちゃんはさすがに、家の側の溝には降りてこない。
決して競合はしてはおりません・・・