いよいよ三年生が卒業していく
何度か卒業式は経験しているが、担任でも無いのにこれほど寂しく感じることはない。
それは去年担任して、修学旅行などに一緒に行ったことにもある。
それよりもまして、日本史の授業での関わりが楽しかった。
今勤めている学校では、廊下などで会ったら挨拶をすることが当たり前になっている。
礼儀としてきちっとしてくれる生徒も多いが、本当に親しみを込めて挨拶をしてくれる生徒も中にはいた。
「先生 元気?」とか「ひさしぶり」とか、授業で会っているのに懐かしそうに言う生徒もいた。
また、私の姿を見ると、遠くからでも手を振って、挨拶してくれる生徒もいた。
まだ、進路がきちっと決まっていない生徒もいるけれど、大半の生徒は進路に向けて準備をしている。
たぶん生徒の気持ちは、もうそちらの方にいってしまっているのだろうと思う。
卒業式は、もう一度だけ気持ちをこちらに引き戻す日なのだろうと思う。
私は担任では無いので、卒業アルバムは持つことは無いのだけれど、一緒いとったクラス写真は手許にある。
また、去年のクラスの解散会でもらった色紙も大事に本立てに置いてある。
この歳になると、こうやって親しく関わる生徒はもう多くないと思う。
ひょっとしたら、もう担任をすることは無くて、最後になるかもしれない。
この頃は、生徒のような若い先生と話をする機会も増えた。
自分の昔の教師経験に耳を傾けてくれる先生もいて、嬉しいと思っている。
そろそろ、私自身も退職後の第二の人生に向けて、準備をしなくてはいけないと思っている。
息子や娘のような生徒たちが巣立っていって、寂しがっている場合では無いと思っている。
何年か後にあった時に、しょぼくれた爺さんになっていたら恥ずかしいからである。
今の気持ちを歌に託します。小田和正の作品で「その日か来るまで」です。良かったら聴いてください。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2015年2月26日木曜日
2015年2月22日日曜日
受験生から学んだもの
授業で担当した生徒たちの、大学合格発表がこのところ続いた。
今年は学年に所属していなかったので、指定校推薦などは一部の生徒を除いて殆ど知らなかった。
センター試験の結果が出て以来、センター利用の推薦から私立大学の一般入試と生徒たちの結果には一喜一憂した。
私が担当した日本史を使って受験した生徒の合格多く出て、嬉しくもあり、ほっとした。
私は大学受験指導は、前任校が特別支援学校だったので、4年間のブランクがあった。
いわゆる受験テクニックの指導は下手であった。
サブノートを使っての私の授業は、もう一人の日本史担当の先生の授業の板書の量に比べて、三分の1にも満たなかった。
私の授業は落語で言う枕の部分が長くて、時事問題を大きく取り上げて解説した。
そして、自前のプロジェクターを使って、録画した日本史に関する映像を使った。
また、期末試験後などは見てもらいたい映画などを見せた。
私はとにかく、日本史に限らず、何かに興味を持って学ぶことの楽しさを知って欲しかった。
試験もあまりひねらずに、少々難しいプリントを与えて、その中から出題するようにした。
日本史が大好きになって、日本史の教師になりたいという生徒もいた。
その生徒は、実際に模擬試験などでは点数が採れずに、指定校推薦で希望する大学に合格したりしていた。
一般の入試試験を頑張った生徒は、自分で入試対策の勉強をしていた。
私は入試直前では、演習問題を自分でやる授業を主体にして、殆ど講義は行わなかった。
関西の難関私学の合格発表があって、それに何人かの生徒が合格して、報告に来てくれた。
学校を休みがちだったある生徒は、学年集会で「学校を休んでいる生徒に、良い大学には入れたためしがない」と言われた。
私はその生徒を個別に呼んで、意地を出して見返してやるようにハッパをかけた。
その生徒はそれまでの模擬テスト結果を覆して、見事難関私学に合格した。
合格発表に来た彼と握手して、肩を叩いて祝福した。
他にも、個別に関わりのあった生徒が報告に来てくれて、嬉しかった。
彼らはどちらかというと、それほど模擬試験や授業では期待されていない生徒だった。
ただ、日本史が非常に得意だった生徒が、苦戦しているのを見ているのは辛いものがあった。
合格生徒には、「これで燃え尽きたらいけない。大学へ入ってからが本当の勉強だ」と言い続けてきた。
そして、希望する大学に行けそうに無い生徒には、自分のように大学へ入ってから勉強して大学院で希望を叶える手もあると言っている。
彼らのがんばりを身近で見ていると、私自身が励まされる。
学習効果においては、講義そのものはたかだか5パーセントほどしか効果が無いという。
今回良い受験結果が出たのは、私の講義そのものはお粗末だったけれど、彼らが学習する意欲を出す手助けが出来たからだと思っている。
高かった自前のプロジェクターの費用は、これでペイできたのではないかと思う。
早朝に時間外補習を前期だけ担当したけれど、喜びを分かち合った半分は参加していなかった。
反省点として、授業は量よりも質であるということを思い知らされた。
今年は学年に所属していなかったので、指定校推薦などは一部の生徒を除いて殆ど知らなかった。
センター試験の結果が出て以来、センター利用の推薦から私立大学の一般入試と生徒たちの結果には一喜一憂した。
私が担当した日本史を使って受験した生徒の合格多く出て、嬉しくもあり、ほっとした。
私は大学受験指導は、前任校が特別支援学校だったので、4年間のブランクがあった。
いわゆる受験テクニックの指導は下手であった。
サブノートを使っての私の授業は、もう一人の日本史担当の先生の授業の板書の量に比べて、三分の1にも満たなかった。
私の授業は落語で言う枕の部分が長くて、時事問題を大きく取り上げて解説した。
そして、自前のプロジェクターを使って、録画した日本史に関する映像を使った。
また、期末試験後などは見てもらいたい映画などを見せた。
私はとにかく、日本史に限らず、何かに興味を持って学ぶことの楽しさを知って欲しかった。
試験もあまりひねらずに、少々難しいプリントを与えて、その中から出題するようにした。
日本史が大好きになって、日本史の教師になりたいという生徒もいた。
その生徒は、実際に模擬試験などでは点数が採れずに、指定校推薦で希望する大学に合格したりしていた。
一般の入試試験を頑張った生徒は、自分で入試対策の勉強をしていた。
私は入試直前では、演習問題を自分でやる授業を主体にして、殆ど講義は行わなかった。
関西の難関私学の合格発表があって、それに何人かの生徒が合格して、報告に来てくれた。
学校を休みがちだったある生徒は、学年集会で「学校を休んでいる生徒に、良い大学には入れたためしがない」と言われた。
私はその生徒を個別に呼んで、意地を出して見返してやるようにハッパをかけた。
その生徒はそれまでの模擬テスト結果を覆して、見事難関私学に合格した。
合格発表に来た彼と握手して、肩を叩いて祝福した。
他にも、個別に関わりのあった生徒が報告に来てくれて、嬉しかった。
彼らはどちらかというと、それほど模擬試験や授業では期待されていない生徒だった。
ただ、日本史が非常に得意だった生徒が、苦戦しているのを見ているのは辛いものがあった。
合格生徒には、「これで燃え尽きたらいけない。大学へ入ってからが本当の勉強だ」と言い続けてきた。
そして、希望する大学に行けそうに無い生徒には、自分のように大学へ入ってから勉強して大学院で希望を叶える手もあると言っている。
彼らのがんばりを身近で見ていると、私自身が励まされる。
学習効果においては、講義そのものはたかだか5パーセントほどしか効果が無いという。
今回良い受験結果が出たのは、私の講義そのものはお粗末だったけれど、彼らが学習する意欲を出す手助けが出来たからだと思っている。
高かった自前のプロジェクターの費用は、これでペイできたのではないかと思う。
早朝に時間外補習を前期だけ担当したけれど、喜びを分かち合った半分は参加していなかった。
反省点として、授業は量よりも質であるということを思い知らされた。
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