昨日、たまたま SWITCHインタビュー 達人達(たち)アンコール「角幡唯介×塩沼亮潤」と言う番組をEテレで見た。
番組紹介では
地球最後の未踏地帯を単独踏破した探検家・角幡唯介
千日回峰行という命がけの荒行を達成した僧侶・塩沼亮潤。
極限状態を経験してきた2人による生と死をめぐる対話
となっている。
二人が死に直面してこそ、得られる生(命)の実感というものは良く伝わってきた。
それとともに、森の中で対話している二人の対話で、昔の人びとの生活、例えば農業も命がけだったという件があった。
私は頭の上では、自然とともに暮らすことの単なるイメージしか持ち合わせてなかった。
たとえ現代人とても様々な死のリスクを負いながら暮らしてはいる。
しかし、現代のような豊かな時代になり、医療や社会保障が整った時代とそうで無い時代では度合いがまるで違う。
私は死のリスクの少ない安全で、生活にあまり不自由で無い状態で、昔の生活を理解しようとしていた。
例えば船乗りという家業で生きていた祖父に対しても、その厳格さがどこから来るのかも理解できずにいた。
祖父ほどでは無いにしても、現実社会の厳しさを言い続けていた父親さえも理解できていなかった。
そして、村落調査を行っていた与路島の人びとの暮らしも、本当は理解できていなかったのかもしれない。
昔の人や、不便な地域で暮らす人は多くのリスクを背負い、それを家族や仲間で助け合いながら命がけで生きていた。
字面の知識ではイメージできないが、死に会えて直面した人から言われる一言は大きなイメージを与える。
この二人は、豊かで安全な現代だからこそあえて死に直面することで、現代に生きる人に生というものを提示できる存在なのだと思った。
ただし、戦争状態にある地域や発展途上の多くの地域では現代でも死に直面しながら生きている。
かつて知識人の多くも、死を賭して学問や研究に打ち込んだであろう。
簡単に命がけという言葉が使われるが、身体を酷使するだけが命がけでは無い。
目先の豊かさを失うことを恐れて、将来の重大なリスクに目を背ける社会や人びとに警鐘を鳴らすのも命がけである。
身体の極限に挑んだ彼らの姿は、実は今生きる我々の本当の死のリスクを浮き彫りにしてくれているように思う。
私の生き方を考える良い機会にもなった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2015年3月22日日曜日
2015年3月17日火曜日
試練は人を強くする
今回の大学受験では最後まで、心配な生徒が何人かいる。
中でもA君は、一番気にかかる生徒だった
それは、私の日本史のクラスでは、日本史はいつも学年トップの成績だった。
そして、模擬テストでも群を抜いて、日本史の得点は良かった。
彼は陸上の長距離選手で、キャプテンまで任される程の人物だった。
彼の最大の弱点は本番に弱いことだった。
陸上の大会でも、ここぞと言う時に踏ん張れずに残念な結果となったという。
その彼はやはり本番のセンター試験でも、自分を失って実力が出せなかった。
試験を受けながら頭が真っ白になって、問題がちゃんと読めなかったという。
センター試験の結果から国公立の志願は諦めた。
私学受験に向けて頑張ったが、前半日程では良い結果が出ない。
周りの生徒が思いもよらない良い結果を出した。
一緒に頑張った日本史グループの中で、一人取り残されたようになって痛々しかった。
私も、彼には不本意な大学でも、大学へ行って勉強して大学院へ進学するよう勧めたりした。
しかし、心の底ではあれだけ頑張ってきたのだから、後半はどこか良いところに受かるのでは無いかと期待していた。
ただ、関西私学の後半日程は彼の得意な日本史を使うことが出来ないので、非常に不安も感じていた。
その彼が、見事志望する大学に合格できた。
彼の志望通りの歴史学を専攻できるコースなど、複数受かっていた。
彼は迷わず歴史学を専攻する大学に行くという。
今日報告に来た彼に会って、周りからとり残されて辛かったことを労った。
そして、出来たら大学院に進んで欲しいと言った。
彼には一発勝負の受験より、地道な研究が合っているようにも思えた。
それでも教師になる夢は抱き続けて欲しいと思っている。
そして、何よりも彼に、この辛い経験で強くなっただろうと聞いた。
彼は言った「少し・・・」
確かにまだ、彼は自信はまだ取り戻していないだろうが、この試練を乗り越えた経験は心に刻まれていると思う。
中でもA君は、一番気にかかる生徒だった
それは、私の日本史のクラスでは、日本史はいつも学年トップの成績だった。
そして、模擬テストでも群を抜いて、日本史の得点は良かった。
彼は陸上の長距離選手で、キャプテンまで任される程の人物だった。
彼の最大の弱点は本番に弱いことだった。
陸上の大会でも、ここぞと言う時に踏ん張れずに残念な結果となったという。
その彼はやはり本番のセンター試験でも、自分を失って実力が出せなかった。
試験を受けながら頭が真っ白になって、問題がちゃんと読めなかったという。
センター試験の結果から国公立の志願は諦めた。
私学受験に向けて頑張ったが、前半日程では良い結果が出ない。
周りの生徒が思いもよらない良い結果を出した。
一緒に頑張った日本史グループの中で、一人取り残されたようになって痛々しかった。
私も、彼には不本意な大学でも、大学へ行って勉強して大学院へ進学するよう勧めたりした。
しかし、心の底ではあれだけ頑張ってきたのだから、後半はどこか良いところに受かるのでは無いかと期待していた。
ただ、関西私学の後半日程は彼の得意な日本史を使うことが出来ないので、非常に不安も感じていた。
その彼が、見事志望する大学に合格できた。
彼の志望通りの歴史学を専攻できるコースなど、複数受かっていた。
彼は迷わず歴史学を専攻する大学に行くという。
今日報告に来た彼に会って、周りからとり残されて辛かったことを労った。
そして、出来たら大学院に進んで欲しいと言った。
彼には一発勝負の受験より、地道な研究が合っているようにも思えた。
それでも教師になる夢は抱き続けて欲しいと思っている。
そして、何よりも彼に、この辛い経験で強くなっただろうと聞いた。
彼は言った「少し・・・」
確かにまだ、彼は自信はまだ取り戻していないだろうが、この試練を乗り越えた経験は心に刻まれていると思う。
2015年3月16日月曜日
祖父の写真
先日母親が、祖父の写真が欲しいと言いだした。
沈没していた戦艦武蔵の映像を見て、自分の父親のことを思い出したという。
私は古いアルバムを母親から預かってスキャンしていた。
私の母方の祖父は、空母の船員であったが、戦死したことは何度も聞かされていた。
父方の方も、父親の兄が同じように海軍の少年兵として戦死していた。
身近に戦死者がいたので、どの家でも戦死者がいるのが当たりまえのように思っていた。
だから、あまり祖父のことは特別詳しく聞いていなかった。
改めて母親に聞いてみると、祖父は職業軍人で下士官だったが、退役して仕事をしていた。
戦争が激しくなって、幼い娘が二人いたのだが、応召されて戦死したと言うことだった。
祖母は女手一つで二人の娘を育て上げた。
母親は父親が亡くなった時に5歳くらいだったので、殆ど父親の記憶が無いという。
残された写真は、若い頃、戦友と撮ったセーラー服を着た写真や、出征祝いの写真であった。
祖父の顔は母方のある従兄弟の若い頃にそっくりだが、祖母からは私自身も似ていると言われていた。
祖父は42歳で亡くなったので、当然年老いた姿は残っていない。
祖母は若い孫たちに、自分の夫の姿を思い浮かべていたのだろう。
今まで戦争の被害者としての家族というイメージしか母の家族には浮かべていなかった。
しかし、祖父は自ら軍人の道を選んだことも確かであった。
貧しい家に生まれたが、選ばれて軍人の道を歩めたのは、それなりの出世であったのだろう。
戦況によって幼い子供を置いて、出征せねばならず戦死したのは不幸ではあった。
その影響は妻子やその家庭にも大きな影響を与えたのも確かである。
しかし、その時代の生き様は、後の時代での結果だけでは評価できるものでは無いと感じた。
確かに我々は今は戦争を体験せずに済んでいる。
しかし、後の時代の子孫たちは、欲望に任せて環境を破壊し尽くした先祖という評価を下すかもしれない。
私の祖父の軍人姿の写真は、やはり格好良い。
そして、家族4人で写った出征記念の写真は痛ましい。
これがその時代の現実なのだろう。
沈没していた戦艦武蔵の映像を見て、自分の父親のことを思い出したという。
私は古いアルバムを母親から預かってスキャンしていた。
私の母方の祖父は、空母の船員であったが、戦死したことは何度も聞かされていた。
父方の方も、父親の兄が同じように海軍の少年兵として戦死していた。
身近に戦死者がいたので、どの家でも戦死者がいるのが当たりまえのように思っていた。
だから、あまり祖父のことは特別詳しく聞いていなかった。
改めて母親に聞いてみると、祖父は職業軍人で下士官だったが、退役して仕事をしていた。
戦争が激しくなって、幼い娘が二人いたのだが、応召されて戦死したと言うことだった。
祖母は女手一つで二人の娘を育て上げた。
母親は父親が亡くなった時に5歳くらいだったので、殆ど父親の記憶が無いという。
残された写真は、若い頃、戦友と撮ったセーラー服を着た写真や、出征祝いの写真であった。
祖父の顔は母方のある従兄弟の若い頃にそっくりだが、祖母からは私自身も似ていると言われていた。
祖父は42歳で亡くなったので、当然年老いた姿は残っていない。
祖母は若い孫たちに、自分の夫の姿を思い浮かべていたのだろう。
今まで戦争の被害者としての家族というイメージしか母の家族には浮かべていなかった。
しかし、祖父は自ら軍人の道を選んだことも確かであった。
貧しい家に生まれたが、選ばれて軍人の道を歩めたのは、それなりの出世であったのだろう。
戦況によって幼い子供を置いて、出征せねばならず戦死したのは不幸ではあった。
その影響は妻子やその家庭にも大きな影響を与えたのも確かである。
しかし、その時代の生き様は、後の時代での結果だけでは評価できるものでは無いと感じた。
確かに我々は今は戦争を体験せずに済んでいる。
しかし、後の時代の子孫たちは、欲望に任せて環境を破壊し尽くした先祖という評価を下すかもしれない。
私の祖父の軍人姿の写真は、やはり格好良い。
そして、家族4人で写った出征記念の写真は痛ましい。
これがその時代の現実なのだろう。
2015年3月9日月曜日
奇跡を起こした二人
私が授業を担当していて、関西の難関私学に合格した生徒の多くは、模擬テストでは良い判定をもらっていなかった。
中でも、ずっとE判定だったY君や、かつては成績不良で問題となったO君の合格は快挙であった。クラスも別々のその二人が、先日そろって挨拶に来てくれた。
私に直接会って話がしたいと、1時間も私が戻ってくるのを待ってくれていた。
私はその時に、彼らが日本史をどのように勉強したかを聞いた。
O君は本格的に勉強を始めたのは去年の7月からだった。
彼の取り組みは側で見ていて知っていた。
塾にも通わずにひたすら学校で、教科書や資料を読んでノートにまとめたり、一問一答の問題をしていた。
私は時々、放課後教室で残って勉強している彼に、声かけとちょっとしたアドバイスをする程度だった
Y君はもともと日本史が好きで、模擬テストもそこそこ良い点数をとっていた。
しかし、他の科目はそれ程でもなかったので、模擬テストの判定は悪かった。
彼も塾には行かずに、ちょっとした通信テキストを使う程度だったという。
勉強方法は、分からない日本史の用語があると、家でスマホを使って、Wikipediaで調べたという。
彼は一問一答も持っていなかったので、受験前に貸してあげたが、それも役だったという。
彼も教科書中心の勉強をして、受験前に過去問をしっかりしたようだった。
Y君は受験前にはあまり学校に来なくなった。
名指しでは無いが、学年集会で教師から「学校に来ずに受験勉強をして受かった者はいない」という言葉を聞いて傷ついた。
私は彼を呼んで自分も学校に行かなかったこと、意地を出して見返してやれと発破を掛けた。
今回も彼はそのことに拘りを持っていたので、こう答えた。
「学校で一生懸命受験勉強して、合格した者もいれば不合格の者もいる。そして、学校でせずに合格した者もいれば不合格の者もいる」
「教師は学校に来て一生懸命勉強して合格した者だけを、どうしても立場上強調して宣伝したがる。それだけだ」
実際、あれだけ学校で一生懸命勉強していたのに、合格できていない生徒もいるのである。
私も正直、私が与えたプリント課題を一生懸命取り組んでくれて、難関私学に合格してくれた生徒は特別嬉しく思う。
ただ、教師が受験生の勉強を邪魔することがあることも知っている。
この奇跡を起こした二人に私が出来たのは、日本史に興味を持ってもらうことと、自分を信じて諦めずがんばることの力添えだけである。
というのも、自分の同級生の中で、学年で成績ビリの友達が、早稲田大学一筋に勉強して見事現役で合格したことを常々話してきたのである。
そして、私はプレゼンを使った授業だが、ノートすることはあまりない。
ただ、画像や映像は多いのと、もっぱら現代の社会に置き換えてたとえ話をする。
受験参考書や問題集も一様参考にはするが、学術的な本を読むことの方が多い。
細かい受験テクニックは殆ど出来ずにいた。
なにせ、過去4年間特別支援学校に勤めていて浦島太郎状態だった。
Y君は大学でどんな勉強したいかもう既に考えていたし、高校時代と同じクラブで頑張りたいという。
O君はこの半年受験勉強を遮二無二行ってきたせいか、今は何も考えていないという。
O君には「これで燃え尽きてしまわないように」と釘を刺した。
そして、二人には是非大学で色んな経験をして欲しいと話した。
彼ら以外にも、何人か合格の報告をしにわざわざ訪ねてくれた生徒がいた。
どの生徒も、私にとっては誇りであり、私のこれからの励みにもなる生徒である。
そして何よりも後輩にとって、良い目標になる生徒でもある。
中でも、ずっとE判定だったY君や、かつては成績不良で問題となったO君の合格は快挙であった。クラスも別々のその二人が、先日そろって挨拶に来てくれた。
私に直接会って話がしたいと、1時間も私が戻ってくるのを待ってくれていた。
私はその時に、彼らが日本史をどのように勉強したかを聞いた。
O君は本格的に勉強を始めたのは去年の7月からだった。
彼の取り組みは側で見ていて知っていた。
塾にも通わずにひたすら学校で、教科書や資料を読んでノートにまとめたり、一問一答の問題をしていた。
私は時々、放課後教室で残って勉強している彼に、声かけとちょっとしたアドバイスをする程度だった
Y君はもともと日本史が好きで、模擬テストもそこそこ良い点数をとっていた。
しかし、他の科目はそれ程でもなかったので、模擬テストの判定は悪かった。
彼も塾には行かずに、ちょっとした通信テキストを使う程度だったという。
勉強方法は、分からない日本史の用語があると、家でスマホを使って、Wikipediaで調べたという。
彼は一問一答も持っていなかったので、受験前に貸してあげたが、それも役だったという。
彼も教科書中心の勉強をして、受験前に過去問をしっかりしたようだった。
Y君は受験前にはあまり学校に来なくなった。
名指しでは無いが、学年集会で教師から「学校に来ずに受験勉強をして受かった者はいない」という言葉を聞いて傷ついた。
私は彼を呼んで自分も学校に行かなかったこと、意地を出して見返してやれと発破を掛けた。
今回も彼はそのことに拘りを持っていたので、こう答えた。
「学校で一生懸命受験勉強して、合格した者もいれば不合格の者もいる。そして、学校でせずに合格した者もいれば不合格の者もいる」
「教師は学校に来て一生懸命勉強して合格した者だけを、どうしても立場上強調して宣伝したがる。それだけだ」
実際、あれだけ学校で一生懸命勉強していたのに、合格できていない生徒もいるのである。
私も正直、私が与えたプリント課題を一生懸命取り組んでくれて、難関私学に合格してくれた生徒は特別嬉しく思う。
ただ、教師が受験生の勉強を邪魔することがあることも知っている。
この奇跡を起こした二人に私が出来たのは、日本史に興味を持ってもらうことと、自分を信じて諦めずがんばることの力添えだけである。
というのも、自分の同級生の中で、学年で成績ビリの友達が、早稲田大学一筋に勉強して見事現役で合格したことを常々話してきたのである。
そして、私はプレゼンを使った授業だが、ノートすることはあまりない。
ただ、画像や映像は多いのと、もっぱら現代の社会に置き換えてたとえ話をする。
受験参考書や問題集も一様参考にはするが、学術的な本を読むことの方が多い。
細かい受験テクニックは殆ど出来ずにいた。
なにせ、過去4年間特別支援学校に勤めていて浦島太郎状態だった。
Y君は大学でどんな勉強したいかもう既に考えていたし、高校時代と同じクラブで頑張りたいという。
O君はこの半年受験勉強を遮二無二行ってきたせいか、今は何も考えていないという。
O君には「これで燃え尽きてしまわないように」と釘を刺した。
そして、二人には是非大学で色んな経験をして欲しいと話した。
彼ら以外にも、何人か合格の報告をしにわざわざ訪ねてくれた生徒がいた。
どの生徒も、私にとっては誇りであり、私のこれからの励みにもなる生徒である。
そして何よりも後輩にとって、良い目標になる生徒でもある。
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