毎年ミニトマトの苗を近所の農家からもらっている。
去年は多く出来たのだが、採るのが面倒でそのまま放置したのが多かった。
その落ちた実から冬前に多くの芽が出てきた。
当然冬が来て霜が降りだすと、その芽は全部枯れてしまった。
今年は、もらった苗のミニトマトは去年とは別の畑に植えた。
去年植えた畑から、夏になると自然に芽が出てきた。
抜いてしまうも惜しいので、そのままにしていた。
すると、そういう苗が植えている作物の間に繁茂しだした。
収穫時になって、植えたミニトマトが熟れ始めたが今ひとつ成りが悪い。
一方、自然に生えたミニトマトは雑草に混じりながら、あちらこちら元気が良い。
この野生化したミニトマトは、当然殆ど支え木をしていないので、殆ど倒れている。
もったいないので、野性ミニトマトを収穫するのだが、座り込んで採らねばならない。
植えたミニトマトは成りも悪いし、小粒なのに対して、野性ミニトマトはなりも良く粒も大きい。
野生のミニトマトの方が結局は良い収穫になった。
植えた方はマルチをして、支え木をして、ネットを張ったのにできが悪いのである。
今年はトマトに適した気候だったにしても、野生恐るべしである。
私が調査に行った奄美の与路島では、野生化した稲を珍重し、幸運の証とした。
おそらく陸稲の系統を引く物だろうが、昔はこぼれた籾が芽を出していたのかもしれない。
稲穂も落ちない今の機械化農業ではあり得ないことである。
野菜も今はビニールハウスや、野菜工場で徹底的に管理される栽培方法が多い。
そんな中で、有機栽培どころか、放置栽培で収穫するのも面白いかもしれない。
これからいくつかの野菜は種が出来るのを待ってみても良いかもしれない。
芋系統もいくつかは放置してみよう思う。
これは今の教育にも言えることである。
恵まれた環境で、教育を施しても生徒は伸びるとは限らない。
先日、小学生が詰め込み教育を行うべきだと新聞の読者欄に投書していた。
私たちの世代は、今の生徒よりもかなり多くの量の勉強をさせられた。
ただ、共通一次の前だったので、それは単なる受験テクニックでは無かった。
課題を与えられて、それをこなすのに苦しんだ覚えは無い。
色んな本を読みあさったり、自分で参考書や問題集を探した。
今の生徒は学校や塾が用意した教材を必死にこなすことが殆どだ。
多くの勉強をすると言うことと、詰め込み教育とは違う。
学校の勉強が、進路に向けての学習の邪魔になることもあると生徒に私は言う。
私の通った中高一貫校の強みは、学校の授業が生徒の学習の邪魔にならなかったことだととも思えたからである。
ただし、私は受験に関係ない人生勉強にのめり込みすぎたのだが・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2015年8月30日日曜日
2015年8月28日金曜日
去勢
今日、愚犬クロの去勢手術を動物病院で行ってもらった。
「岡山から不幸な犬猫をなくす会」から譲り受けた時の条件だった。
これ以上、不幸な犬を増やさないというのが大きな理由だった。
以前飼っていたトラは一度だけ、隣の雌犬に子供をつくらせた。
その時、その子犬は動物病院で飼い主を探してもらったと聞いた。
我が家の犬が放れたのではなくて、隣の犬が放れてやってきた結果だった。
もう近所では雌犬はいないし、野良犬もいないので不幸な犬は増えないと思う。
ただ、万一脱走した時にどこかで不幸な犬を作ることになるかもしれない。
というのが会の方の意向でもあった。
私自身は去勢というのは何となく不自然な気もした。
しかし、雌犬を迎えて子犬を増やすことも出来ない。
他の雌犬への欲望や、雄犬としてもマーキングは無意味で邪魔にも思えた。
そもそも、トラよりも衝動行動が激しく、猟犬の血を感じさせていた。
これから周りと仲良くやって行くには、去勢した方が良いようにも思えた。
睾丸が大きくなってきて、足を少し上げ始めたので潮時だった。
約束では8月いっぱいで言うことなので、ぎりぎりの手術になった。
朝は普通に散歩させて、病院の指示通り水と食事を抜いた。
運搬用のケージに入れて、赤穂迄連れて行った。
軽トラの荷台に後ろ向きだったこともあって、ずっと鳴きっぱなしだった。
病院に預けて夕方迎えに行った。
思ったより元気そうで、私の声を聞いて鳴いているのが分かった。
先日自分が手術しただけに心配したが、会ってみると元気そのものだった。
今日の支払いは2万2千円で安くは無かった。
安売りのペットショップから犬を買うということであれば、むしろ高い。
却って費用が高くついてしまう里親ではあるが、損をしたとは思えなかった。
確かに、色々と面倒を掛けてくれるけれど、魅力もその分ある犬だからである。
保護をした会としても、見殺しにするには忍びなかった理由が分かる。
私は今、自分の研究のテーマとして、奴隷制を調べている。
奴隷を犬となぞらえる有名な学者もいた。
去勢はまさしく、特殊な事例ではあるが中国の宦官と同じである。
もし、奴隷制が普通に行われていた時代だったら、犬の代わりに人を買っただろうかと思う。
言葉が通じる人とそうでない人では全然違うと思った。
同じ奴隷制でも、異民族や異人種の奴隷はより犬や家畜に近いことが分かる。
以前知り合った奴隷を経験した人は、自分で家畜並みと言っていた。
言葉が通じる社会での奴隷ではあったが、そう感じたのである。
一方、解放されても主人の家に居続けた奴隷も知っている。
一人で生きる術を知らない奴隷は、独り立ちする方が過酷なのである。
これは、雇用されている私たちにも言えることだ。
病気になったり、自殺や過労死する仕事でも辞められない。
奴隷と違って、家庭やプライドを背負っているからだ。
そして、被雇用者は消費者としても役に立つので保護されている。
もし戦争になれば戦力になるし、支援体制にも使える。
目の前に主人はいないが、国家という大きな主人に飼われているようにも思える。
国家と一体となった企業や官公庁に雇われ続けなければならない。
他に生きる術を身につけてこなかったからだ。
人権を守るということは、国家に連ならない権力者の奴隷になるのを阻止するという意味のようにも思える。
戦争反対が叫ばれた戦後70年のこの夏。
まさしく死んでいった400万の兵士や国民はなんであったのだろう・・・
「岡山から不幸な犬猫をなくす会」から譲り受けた時の条件だった。
これ以上、不幸な犬を増やさないというのが大きな理由だった。
以前飼っていたトラは一度だけ、隣の雌犬に子供をつくらせた。
その時、その子犬は動物病院で飼い主を探してもらったと聞いた。
我が家の犬が放れたのではなくて、隣の犬が放れてやってきた結果だった。
もう近所では雌犬はいないし、野良犬もいないので不幸な犬は増えないと思う。
ただ、万一脱走した時にどこかで不幸な犬を作ることになるかもしれない。
というのが会の方の意向でもあった。
私自身は去勢というのは何となく不自然な気もした。
しかし、雌犬を迎えて子犬を増やすことも出来ない。
他の雌犬への欲望や、雄犬としてもマーキングは無意味で邪魔にも思えた。
そもそも、トラよりも衝動行動が激しく、猟犬の血を感じさせていた。
これから周りと仲良くやって行くには、去勢した方が良いようにも思えた。
睾丸が大きくなってきて、足を少し上げ始めたので潮時だった。
約束では8月いっぱいで言うことなので、ぎりぎりの手術になった。
朝は普通に散歩させて、病院の指示通り水と食事を抜いた。
運搬用のケージに入れて、赤穂迄連れて行った。
軽トラの荷台に後ろ向きだったこともあって、ずっと鳴きっぱなしだった。
病院に預けて夕方迎えに行った。
思ったより元気そうで、私の声を聞いて鳴いているのが分かった。
先日自分が手術しただけに心配したが、会ってみると元気そのものだった。
今日の支払いは2万2千円で安くは無かった。
安売りのペットショップから犬を買うということであれば、むしろ高い。
却って費用が高くついてしまう里親ではあるが、損をしたとは思えなかった。
確かに、色々と面倒を掛けてくれるけれど、魅力もその分ある犬だからである。
保護をした会としても、見殺しにするには忍びなかった理由が分かる。
私は今、自分の研究のテーマとして、奴隷制を調べている。
奴隷を犬となぞらえる有名な学者もいた。
去勢はまさしく、特殊な事例ではあるが中国の宦官と同じである。
もし、奴隷制が普通に行われていた時代だったら、犬の代わりに人を買っただろうかと思う。
言葉が通じる人とそうでない人では全然違うと思った。
同じ奴隷制でも、異民族や異人種の奴隷はより犬や家畜に近いことが分かる。
以前知り合った奴隷を経験した人は、自分で家畜並みと言っていた。
言葉が通じる社会での奴隷ではあったが、そう感じたのである。
一方、解放されても主人の家に居続けた奴隷も知っている。
一人で生きる術を知らない奴隷は、独り立ちする方が過酷なのである。
これは、雇用されている私たちにも言えることだ。
病気になったり、自殺や過労死する仕事でも辞められない。
奴隷と違って、家庭やプライドを背負っているからだ。
そして、被雇用者は消費者としても役に立つので保護されている。
もし戦争になれば戦力になるし、支援体制にも使える。
目の前に主人はいないが、国家という大きな主人に飼われているようにも思える。
国家と一体となった企業や官公庁に雇われ続けなければならない。
他に生きる術を身につけてこなかったからだ。
人権を守るということは、国家に連ならない権力者の奴隷になるのを阻止するという意味のようにも思える。
戦争反対が叫ばれた戦後70年のこの夏。
まさしく死んでいった400万の兵士や国民はなんであったのだろう・・・
2015年8月22日土曜日
学校の敷居の高さ
夏休みは今年の卒業生が訪ねてくれた。
特にクラブをしていた生徒は、クラブの方に顔を出していた。
クラブをしていなかった生徒は、学校を訪ねるきっかけがないようだ。
クラブに来たついでに、私に会おうとした生徒もいた。
残念ながら、せっかく訪ねてくれたのに、入院していたりして会えなかった。
そんな中で、オープンスクールをきっかけにして、女子バレーボール部の卒業生が訪ねてきたのに出会った。
いきなり、職員室の前の廊下で、「先生!」と言って駆け寄ってきたので驚いた。
2年の時に担任をした卒業生のKさんで、その後も日本史を担当していた。
そのKさんは卒業しても変わってなかったが、顔を見ても分からない生徒もいた。
どうしても分からないので、側にいた元学年主任の先生に聞いていると
本人が「○○でーす」と答えてくれた、本人も変わったと自覚があるらしい。
卒業生によっては髪の色を変えたり、化粧をして大きく変身している生徒もいた。
Kさんは卒業式に写真が撮れなかったからと、一緒に写真を撮った。
その写真を記念にもらおうかと、メールアドレスを書いたメモを渡した。
ところが、いっこうに返事が無い、たぶんどうも最後に余分なドットをつけてしまったせいだろう。
生徒とツーショットで写真を撮るのは、何年かぶりでちょっとハイになっていたからかもしれない。
Kさんから私が担任していたクラスの生徒の様子が聞けて嬉しかった。
特に浪人している卒業生がいるので、彼のことが気になっていた。
Kさんはその浪人生を励ましたりもしているらしい。
私はいい加減な不良浪人だったので、家族以外と話をしないという浪人生を心配に思った。
私は予備校で灘高などの卒業生と相撲を取ったりしていたからだ。
こうして学校を訪ねられる生徒は、本当に少ない。
私自身も、教育実習以外で高校を訪ねたことは無い。
同窓会には不良仲間も来るので、たまに顔を出す。
不良学生だった私には高校の敷居は断然高い。
大学は真面目に過ごしたので、学会などの機会に何回か訪ねたことがある。
私にとってクラブなんかでも、関わりが多かった大学が一番訪ねやすい。
大学院は別の場所に移転してしまったので、卒業後は一度も訪ねたことは無い。
先日も研究室の同窓会のような案内があったが、こちらも別の意味で敷居が高い。
卒業しても関わりが持てるのは、授業以外で関わりが多かった所である。
考えてみれば、中学高校の先生とは授業以外で関わることは殆ど無かった。
わざわざ会う機会を持たなくても、町で会って声を掛け合う時もある。
そういう卒業生も実際は数少ないのだが、Kさんから聞くところによると私のブログを読んでくれている卒業生もいるらしい。
今はネットのお陰で、時間と場所を越えて繋がることも出来る。
おそらく私のように敷居が高くて、学校を訪ねたくても訪ねられない卒業生もいるだろう。
そういう卒業生のためにも、もう少し学校の様子を書こうかとも思っている。
私自身のことを言えば、手術後順調に回復した。
ただ、体の方は回復したが、失った根拠の無い体力への自信は回復していない。
訪ねてきてくれたKさんには、幾分元気を分けてもらったのだが・・・・
特にクラブをしていた生徒は、クラブの方に顔を出していた。
クラブをしていなかった生徒は、学校を訪ねるきっかけがないようだ。
クラブに来たついでに、私に会おうとした生徒もいた。
残念ながら、せっかく訪ねてくれたのに、入院していたりして会えなかった。
そんな中で、オープンスクールをきっかけにして、女子バレーボール部の卒業生が訪ねてきたのに出会った。
いきなり、職員室の前の廊下で、「先生!」と言って駆け寄ってきたので驚いた。
2年の時に担任をした卒業生のKさんで、その後も日本史を担当していた。
そのKさんは卒業しても変わってなかったが、顔を見ても分からない生徒もいた。
どうしても分からないので、側にいた元学年主任の先生に聞いていると
本人が「○○でーす」と答えてくれた、本人も変わったと自覚があるらしい。
卒業生によっては髪の色を変えたり、化粧をして大きく変身している生徒もいた。
Kさんは卒業式に写真が撮れなかったからと、一緒に写真を撮った。
その写真を記念にもらおうかと、メールアドレスを書いたメモを渡した。
ところが、いっこうに返事が無い、たぶんどうも最後に余分なドットをつけてしまったせいだろう。
生徒とツーショットで写真を撮るのは、何年かぶりでちょっとハイになっていたからかもしれない。
Kさんから私が担任していたクラスの生徒の様子が聞けて嬉しかった。
特に浪人している卒業生がいるので、彼のことが気になっていた。
Kさんはその浪人生を励ましたりもしているらしい。
私はいい加減な不良浪人だったので、家族以外と話をしないという浪人生を心配に思った。
私は予備校で灘高などの卒業生と相撲を取ったりしていたからだ。
こうして学校を訪ねられる生徒は、本当に少ない。
私自身も、教育実習以外で高校を訪ねたことは無い。
同窓会には不良仲間も来るので、たまに顔を出す。
不良学生だった私には高校の敷居は断然高い。
大学は真面目に過ごしたので、学会などの機会に何回か訪ねたことがある。
私にとってクラブなんかでも、関わりが多かった大学が一番訪ねやすい。
大学院は別の場所に移転してしまったので、卒業後は一度も訪ねたことは無い。
先日も研究室の同窓会のような案内があったが、こちらも別の意味で敷居が高い。
卒業しても関わりが持てるのは、授業以外で関わりが多かった所である。
考えてみれば、中学高校の先生とは授業以外で関わることは殆ど無かった。
わざわざ会う機会を持たなくても、町で会って声を掛け合う時もある。
そういう卒業生も実際は数少ないのだが、Kさんから聞くところによると私のブログを読んでくれている卒業生もいるらしい。
今はネットのお陰で、時間と場所を越えて繋がることも出来る。
おそらく私のように敷居が高くて、学校を訪ねたくても訪ねられない卒業生もいるだろう。
そういう卒業生のためにも、もう少し学校の様子を書こうかとも思っている。
私自身のことを言えば、手術後順調に回復した。
ただ、体の方は回復したが、失った根拠の無い体力への自信は回復していない。
訪ねてきてくれたKさんには、幾分元気を分けてもらったのだが・・・・
2015年8月14日金曜日
ミニトマトはドライに限る
このところ、つまみは乾燥したミニトマトである。
少々食べ過ぎて、おなかが張っている感じもする。
普通はミニトマトは多く食べても、5個くらいまでだろう。
ドライトマトなら、10個以上食べてしまう。
しかも、干しぶどうほど甘くなく、健康的だ。
売っている乾燥トマトは、妙に味付けをしている。
何も味付けしなくても、十分甘くて美味しい。
ドライフード機を数ヶ月前に買って色々と試した。
ささみジャーキーも、つまみにもってこいである。
ジャガイモも、ポテトチップスより健康的で美味い。
パクチも乾燥すれば、手軽に使える。
不評だったのは、まずキュウリ
これは、味が妙に強調されて、酢の物にしないと食べづらい。
サヤインゲンは、私はそこそこいけると思ったが、家内には不評だった。
下拵えが必要な物は、家内が下拵えをしてくれる。
そうでないものは、殆ど自分でやっている。
ささみ以外は家で採れる野菜である。
一番工夫がいるのは、温度と時間だが、それも慣れてきた。
因みにミニトマトは最初、家内が天日干しでチャレンジした。
天日干しはなかなか乾かなくて、仕上げにドライフード機を使った。
入院のごたごたで、そのまま放置してカビらせてしまった。
カビずに残った物も、今ひとつ味も見た目も良くなかった。
そこで、私が一人でチャレンジしたのだ。
温度を徐々に下げていって、丸二日で出来た。
野菜の保存はなかなか難しいが、ドライフード機のお陰でだいぶ助けられるようになった。
また、酒のつまみとして、ささみジャーキーも非常に美味しい。
ネットなどでは、ペットのおやつにと宣伝している。
100gで80円ほどのささみは、私にはとてもリーゾナブルだ。
缶詰にせよ、市販の物は味が飽きてしまう。
その点手作りの物は、味付けも変えられる。
因みにささみは、家内が酒蒸しした物を乾燥させた。
日持ちも良くて、良いビールのお供になった。
狩猟採集の時代から、人類は食料を乾燥させて保存してきた。
奄美与路島では、魚を干して保存しておいて、行事に際して戻して食べていた。
昔から天日干しとか、燻製、囲炉裏での炙りで完成させた。
今の生活環境では、なかなか難しい。
だから殆どが冷凍保存と言うことになる。
確かに冷凍保存は良いのだが、すぐに冷凍庫が一杯になってしまう。
乾燥させた物はそう長期には保存できないが、腐らせずに持たせることが出来る。
いっぺんに多く採れる野菜には、もってこいだ。
自然生活と文明の融合がドライフード機によってなされる。
少々食べ過ぎて、おなかが張っている感じもする。
普通はミニトマトは多く食べても、5個くらいまでだろう。
ドライトマトなら、10個以上食べてしまう。
しかも、干しぶどうほど甘くなく、健康的だ。
売っている乾燥トマトは、妙に味付けをしている。
何も味付けしなくても、十分甘くて美味しい。
ドライフード機を数ヶ月前に買って色々と試した。
ささみジャーキーも、つまみにもってこいである。
ジャガイモも、ポテトチップスより健康的で美味い。
パクチも乾燥すれば、手軽に使える。
不評だったのは、まずキュウリ
これは、味が妙に強調されて、酢の物にしないと食べづらい。
サヤインゲンは、私はそこそこいけると思ったが、家内には不評だった。
下拵えが必要な物は、家内が下拵えをしてくれる。
そうでないものは、殆ど自分でやっている。
ささみ以外は家で採れる野菜である。
一番工夫がいるのは、温度と時間だが、それも慣れてきた。
因みにミニトマトは最初、家内が天日干しでチャレンジした。
天日干しはなかなか乾かなくて、仕上げにドライフード機を使った。
入院のごたごたで、そのまま放置してカビらせてしまった。
カビずに残った物も、今ひとつ味も見た目も良くなかった。
そこで、私が一人でチャレンジしたのだ。
温度を徐々に下げていって、丸二日で出来た。
野菜の保存はなかなか難しいが、ドライフード機のお陰でだいぶ助けられるようになった。
また、酒のつまみとして、ささみジャーキーも非常に美味しい。
ネットなどでは、ペットのおやつにと宣伝している。
100gで80円ほどのささみは、私にはとてもリーゾナブルだ。
缶詰にせよ、市販の物は味が飽きてしまう。
その点手作りの物は、味付けも変えられる。
因みにささみは、家内が酒蒸しした物を乾燥させた。
日持ちも良くて、良いビールのお供になった。
狩猟採集の時代から、人類は食料を乾燥させて保存してきた。
奄美与路島では、魚を干して保存しておいて、行事に際して戻して食べていた。
昔から天日干しとか、燻製、囲炉裏での炙りで完成させた。
今の生活環境では、なかなか難しい。
だから殆どが冷凍保存と言うことになる。
確かに冷凍保存は良いのだが、すぐに冷凍庫が一杯になってしまう。
乾燥させた物はそう長期には保存できないが、腐らせずに持たせることが出来る。
いっぺんに多く採れる野菜には、もってこいだ。
自然生活と文明の融合がドライフード機によってなされる。
川原にて
今日は、朝散歩に出かけたときは雨はやんでいた。
手術前に行っていた散歩コースを久しぶりに、短縮ではあるが歩いた。
これまで傷の痛みがあって、歩く自信が無かった。
特に、下腹部に近いところが、しばらく痛みが続いた。
不思議なもので先週の木曜日は痛みに苦しんでいたのだが、一週間でかなり歩けるまでに回復できた。
午前中は殆ど雨が降っていて、本ばかり読んでいた。
アンソニー・ギデンスの「国民国家と暴力」である。
(戦争と近代の国民国家は切り離せないことを説いている。)
愚犬クロは朝の散歩に行ってからは、殆ど縁台で寝ている。
午後からもしばらく本を読んでいたのだが、3時頃になって雨もやんだ。
これ以上、本を読む気にならなかったので、散歩に出かけることにした。
思い切って千種川の河原(家から2km程)まで行った。
そこで、トレーニングロープにつないぎ換えた。
口輪は、川原に着いた頃には既に外れていた。
案の定、クロは川に飛び込んで、水しぶきを上げながら、はしゃぎ回った。
それに飽きると河原を走り回り、砂地を掘り起こし始めた。
何か匂いが奥の方からするのか、一心不乱に掘り起こし始めた。
私は、大きな石に腰掛けてその様子を眺めていた。
時々呼び寄せたが、すぐに自分のやりたいことをやり始めた。
かけずり回り、穴を掘り、川に飛び込む。
それを何度も繰り返し、思う存分遊んでいた。
手術で傷を負って走ることもできない身としては、その凄まじいエネルギーにたじろがざるを得なかった。
主人に媚びようともせずに、一心にはしゃいでいる。
かつて自分も若かりし頃、溢れるエネルギーをもてあましていた頃を思い出した。
入試などの受験という鎖につながれて、若さのエネルギーを発散するすべも無く、いろんなところで暴発させていたように思う。
かつては、それをもてあまして悩んでいた。
エネルギーが枯渇しかかっている今の自分には懐かしい。
今だから、かつての自分の若さ故の馬鹿な行為が、自分で許せるのかもしれない。
それでは、歳がいった今は自由になれたかというと、自由になれたわけでは無い。
むしろ、自分を縛る鎖ではなくて、色んな重しを背負いこんでいるように思う。
犬がいなかった頃は、走るか歩くか泳ぐか、とにかく自分の世界に閉じこもった状態で、世間をすり抜けていた。
犬と散歩の時はそうはいかない。
常に他の人や他の犬の様子を気にかけていなくてはいけない。
気を抜いたら、クロの場合は田んぼや溝に飛び込んでしまう。
誰もいない千種川の川原に腰掛けてのんびりする。
かつて、我が子らと一緒にこの川原で水遊びをして以来である。
全く一人で水辺に腰掛けていたら、詩人か自殺志願者に見えるかもしれない。
犬を遊ばせていたら、そうは思われないだろう。
むしろ、はしゃぎ回る犬の方が、注目されるだろう。
確かに犬を散歩させるのは非常に手間だ。
しかし、身近な世界との関わりを、こうやって回復させてくれていることも確かである。
手術前に行っていた散歩コースを久しぶりに、短縮ではあるが歩いた。
これまで傷の痛みがあって、歩く自信が無かった。
特に、下腹部に近いところが、しばらく痛みが続いた。
不思議なもので先週の木曜日は痛みに苦しんでいたのだが、一週間でかなり歩けるまでに回復できた。
午前中は殆ど雨が降っていて、本ばかり読んでいた。
アンソニー・ギデンスの「国民国家と暴力」である。
(戦争と近代の国民国家は切り離せないことを説いている。)
愚犬クロは朝の散歩に行ってからは、殆ど縁台で寝ている。
午後からもしばらく本を読んでいたのだが、3時頃になって雨もやんだ。
これ以上、本を読む気にならなかったので、散歩に出かけることにした。
思い切って千種川の河原(家から2km程)まで行った。
そこで、トレーニングロープにつないぎ換えた。
口輪は、川原に着いた頃には既に外れていた。
案の定、クロは川に飛び込んで、水しぶきを上げながら、はしゃぎ回った。
それに飽きると河原を走り回り、砂地を掘り起こし始めた。
何か匂いが奥の方からするのか、一心不乱に掘り起こし始めた。
私は、大きな石に腰掛けてその様子を眺めていた。
時々呼び寄せたが、すぐに自分のやりたいことをやり始めた。
かけずり回り、穴を掘り、川に飛び込む。
それを何度も繰り返し、思う存分遊んでいた。
手術で傷を負って走ることもできない身としては、その凄まじいエネルギーにたじろがざるを得なかった。
主人に媚びようともせずに、一心にはしゃいでいる。
かつて自分も若かりし頃、溢れるエネルギーをもてあましていた頃を思い出した。
入試などの受験という鎖につながれて、若さのエネルギーを発散するすべも無く、いろんなところで暴発させていたように思う。
かつては、それをもてあまして悩んでいた。
エネルギーが枯渇しかかっている今の自分には懐かしい。
今だから、かつての自分の若さ故の馬鹿な行為が、自分で許せるのかもしれない。
それでは、歳がいった今は自由になれたかというと、自由になれたわけでは無い。
むしろ、自分を縛る鎖ではなくて、色んな重しを背負いこんでいるように思う。
犬がいなかった頃は、走るか歩くか泳ぐか、とにかく自分の世界に閉じこもった状態で、世間をすり抜けていた。
犬と散歩の時はそうはいかない。
常に他の人や他の犬の様子を気にかけていなくてはいけない。
気を抜いたら、クロの場合は田んぼや溝に飛び込んでしまう。
誰もいない千種川の川原に腰掛けてのんびりする。
かつて、我が子らと一緒にこの川原で水遊びをして以来である。
全く一人で水辺に腰掛けていたら、詩人か自殺志願者に見えるかもしれない。
犬を遊ばせていたら、そうは思われないだろう。
むしろ、はしゃぎ回る犬の方が、注目されるだろう。
確かに犬を散歩させるのは非常に手間だ。
しかし、身近な世界との関わりを、こうやって回復させてくれていることも確かである。
2015年8月13日木曜日
若気のクロ
以前紹介したように、うちの愚犬クロは野良犬時代の習慣を維持している。
一番の問題点は狩猟である。
蛙や蝉を捕まえて、その場で食べるのである。
当然、道で死んで乾燥している物も、自分なりに安全を確かめて食べている。
家では十分ドッグフードを食べさせ、骨や犬用のガムも与えているのにである。
野良犬時代に生き抜いてきた習性だと、私も半ば許していた。
ところが、今朝、道ばたの竹輪を見つけてくわえている。
不自然に溝の端に置いてあって、落としたり捨ててあったりという風では無かった。
とっさに毒入り竹輪かもしれないと思い、食べるをの止めさせた。
これで拾い食いはもう禁止となった。
ネットで躾方が紹介しているが、どうも現実的では無い。
仕方ないので、口輪を買ってはめることにした。
ついでに、ハーネスやトレーニング用のロープも買った。
早速、試してみた。口輪の効果はてきめんである。
嫌がって転びながら外そうとしたが、簡単には外れない。
近くの公園でトレーニングロープを使って遊んでやった。
小さければリードを外してやったのだが、ここまで大きくなる逃げたら捕まえられない。
しかも、手からもらう餌は警戒して、見せてもやってこないので使えない。
家に来て初めて、「おいで」と呼んで跳んできたのを抱き寄せてやった。
公園で遊んで、たんぼ道を帰る。
いつものように田んぼに飛び込みたがるが、ハーネスをしているので簡単には引かせない。
ところが不意に田んぼに飛び込んだので、前から思いっきり引っ張ると外れてしまった。
きちっと長さを調節してなかったのだ。
稲の中で遊び回るクロ、姿は見えずただ稲穂が揺れる。
「クロおいで」と呼びかけるが、行ったり来たりを繰り返している。
もう、このまま逃げてしまうのかと不安になった。
ところが、ある程度して気が済んだのか、呼ぶ声に戻ってきた。
これで厳しく怒ると、逃げた時に戻ってこないと思って、戻ってきたことを逆に褒めた。
とんだハプニングだったが、クロが勝手に逃げてしまわないこともこれで分かった。
まだ子供で衝動を抑えきれないクロに付き合うのは大変なことだ。
考えてみれば、人間に直したら中学生くらいなのかもしれない。
生徒に接する気持ちでクロに接するしか無いのか・・・
一番の問題点は狩猟である。
蛙や蝉を捕まえて、その場で食べるのである。
当然、道で死んで乾燥している物も、自分なりに安全を確かめて食べている。
家では十分ドッグフードを食べさせ、骨や犬用のガムも与えているのにである。
野良犬時代に生き抜いてきた習性だと、私も半ば許していた。
ところが、今朝、道ばたの竹輪を見つけてくわえている。
不自然に溝の端に置いてあって、落としたり捨ててあったりという風では無かった。
とっさに毒入り竹輪かもしれないと思い、食べるをの止めさせた。
これで拾い食いはもう禁止となった。
ネットで躾方が紹介しているが、どうも現実的では無い。
仕方ないので、口輪を買ってはめることにした。
ついでに、ハーネスやトレーニング用のロープも買った。
早速、試してみた。口輪の効果はてきめんである。
嫌がって転びながら外そうとしたが、簡単には外れない。
近くの公園でトレーニングロープを使って遊んでやった。
小さければリードを外してやったのだが、ここまで大きくなる逃げたら捕まえられない。
しかも、手からもらう餌は警戒して、見せてもやってこないので使えない。
家に来て初めて、「おいで」と呼んで跳んできたのを抱き寄せてやった。
公園で遊んで、たんぼ道を帰る。
いつものように田んぼに飛び込みたがるが、ハーネスをしているので簡単には引かせない。
ところが不意に田んぼに飛び込んだので、前から思いっきり引っ張ると外れてしまった。
きちっと長さを調節してなかったのだ。
稲の中で遊び回るクロ、姿は見えずただ稲穂が揺れる。
「クロおいで」と呼びかけるが、行ったり来たりを繰り返している。
もう、このまま逃げてしまうのかと不安になった。
ところが、ある程度して気が済んだのか、呼ぶ声に戻ってきた。
これで厳しく怒ると、逃げた時に戻ってこないと思って、戻ってきたことを逆に褒めた。
とんだハプニングだったが、クロが勝手に逃げてしまわないこともこれで分かった。
まだ子供で衝動を抑えきれないクロに付き合うのは大変なことだ。
考えてみれば、人間に直したら中学生くらいなのかもしれない。
生徒に接する気持ちでクロに接するしか無いのか・・・
2015年8月11日火曜日
三度目の入院
8月4日から人生三度目の入院となった。
二度目は教育入院で手術は行わなかった。
一度目は局所麻酔の手術、今回は全身麻酔である。
全身麻酔の腹腔手術で、すぐに回復できると医師から説明は受けていた。
しかし、入院初日、麻酔科医師によって全身麻酔のリスクを知らされた。
正直、止めて帰ろうと思った。
もし、手術を決める前に全身麻酔のリスクを知って真剣に考えていたら、部分麻酔を希望しただろう。
考えてみれば当たり前なのだが、全身麻酔は肺呼吸も止まるので、人工呼吸器が必要なのだ。
それで、肺活量検査を前もって行った理由が分かった。
口の中や歯に影響が及ぶ危険性があるので、口腔外科に手術前日に視てもらい、歯石を取ってもらった。
手術前夜は睡眠剤ももらったのでよく眠れた。
手術当日も、開き直って緊張はしなかった。
というのも、一回目の局所麻酔の手術では、お産よりも痛いという手術を経験していたからである。
その手術よりは痛みはましだろうと思っていた。
朝九時に手術台に寝かされて、麻酔を始めると言われたらすぐに意識を失った。
気がついたら別途に移されるところだった。
やはり、内臓脂肪が多くて手術に手間取ったそうで、終わったのは13時前だった。
実は、事前の説明では15時頃には終わらせたいといわれていた。
もっと、内臓脂肪に手こずると思われていたようだった。
麻酔が切れた後は、痛みとの戦いになった。
いくら腹腔手術でも、体へのダメージはそれなりにあるのだ。
一番大きな傷になったのはへそで、後でそこから出血があって、ガーゼをあてねばならなかった。
手術後は心電モニターや、酸素呼吸器、点滴、導尿、血栓予防のマッサージャーなど、体の身動きがとれる状態では無かった。
仰向けで同じ姿勢をしていると、背中がとても痛んだ。
それらが、一つ一つ外されていって、少しずつ体の姿勢も楽になっていった。
しかし、腹筋に力が入ると痛むので、寝返りを打つのも苦労した。
術後1日目に導尿がとれて、自分でトイレに行けるようになった。
しかし、ずっと移動式の点滴をもったままで、時々血が逆流して気持ち悪い状態になった。
その夜にやっと点滴も外れた。
術後2日目では、入院している3階の廊下をゆっくり歩けるようになった。
術後3日目には、傷口のガーゼがとれて、午後からシャワーを浴びることができた。
歩行訓練のために階段を使って向かい側の以前入院していた棟の3階まで行った。
術後4日目の朝は、早朝散歩に出かけて、コンビニに寄って買い物をした。
術後5日目、かなり普通に歩けるようになり、退院した。
今回の入院した外科の3階は、高齢者が多くて、同室の人も当初すべて高齢者だった。
その中で、若い看護師が元気に活躍していた。
普段高齢者と接することが多いせいか、私も同じような口調で話しかけられた。
私は教壇に立っている時とはいわば逆の立場で、指導され世話をされる立場だった。
そんな中で、この病院で理学療法士として働いている教え子が顔を出してくれた。
また、口腔外科では研修医として働いている教え子にも会えた。
その時だけ、ただの患者から教師に戻れた。
そして、彼女らから力をもらった。
実は今回の病気で大きく自信を失っていた。
体力だけには自信があったのに、肥満と加齢が大きく原因する病気だったからだ。
もう無理はできないと思い知らされた。
病室の周りの高齢者を見るにつけ、自分の老後を思い浮かべていたのだ。
毎日、甲斐甲斐しく病院にやってきてくれる家内らと共に労りながら老後を暮らそうと思った。
しかし、教え子の活躍する姿を目の当たりにして、老い込む歳では無いと思った。
教え子に会ったときに、こんな情けない姿は見せられない。
一度全身麻酔で死んだも同然の体になって、再び甦ったと思おう。
これは文化人類学で言うイニシエーション(通過儀礼)である。
現代に生きるシャーマンになってみるか・・・
二度目は教育入院で手術は行わなかった。
一度目は局所麻酔の手術、今回は全身麻酔である。
全身麻酔の腹腔手術で、すぐに回復できると医師から説明は受けていた。
しかし、入院初日、麻酔科医師によって全身麻酔のリスクを知らされた。
正直、止めて帰ろうと思った。
もし、手術を決める前に全身麻酔のリスクを知って真剣に考えていたら、部分麻酔を希望しただろう。
考えてみれば当たり前なのだが、全身麻酔は肺呼吸も止まるので、人工呼吸器が必要なのだ。
それで、肺活量検査を前もって行った理由が分かった。
口の中や歯に影響が及ぶ危険性があるので、口腔外科に手術前日に視てもらい、歯石を取ってもらった。
手術前夜は睡眠剤ももらったのでよく眠れた。
手術当日も、開き直って緊張はしなかった。
というのも、一回目の局所麻酔の手術では、お産よりも痛いという手術を経験していたからである。
その手術よりは痛みはましだろうと思っていた。
朝九時に手術台に寝かされて、麻酔を始めると言われたらすぐに意識を失った。
気がついたら別途に移されるところだった。
やはり、内臓脂肪が多くて手術に手間取ったそうで、終わったのは13時前だった。
実は、事前の説明では15時頃には終わらせたいといわれていた。
もっと、内臓脂肪に手こずると思われていたようだった。
麻酔が切れた後は、痛みとの戦いになった。
いくら腹腔手術でも、体へのダメージはそれなりにあるのだ。
一番大きな傷になったのはへそで、後でそこから出血があって、ガーゼをあてねばならなかった。
手術後は心電モニターや、酸素呼吸器、点滴、導尿、血栓予防のマッサージャーなど、体の身動きがとれる状態では無かった。
仰向けで同じ姿勢をしていると、背中がとても痛んだ。
それらが、一つ一つ外されていって、少しずつ体の姿勢も楽になっていった。
しかし、腹筋に力が入ると痛むので、寝返りを打つのも苦労した。
術後1日目に導尿がとれて、自分でトイレに行けるようになった。
しかし、ずっと移動式の点滴をもったままで、時々血が逆流して気持ち悪い状態になった。
その夜にやっと点滴も外れた。
術後2日目では、入院している3階の廊下をゆっくり歩けるようになった。
術後3日目には、傷口のガーゼがとれて、午後からシャワーを浴びることができた。
歩行訓練のために階段を使って向かい側の以前入院していた棟の3階まで行った。
術後4日目の朝は、早朝散歩に出かけて、コンビニに寄って買い物をした。
術後5日目、かなり普通に歩けるようになり、退院した。
今回の入院した外科の3階は、高齢者が多くて、同室の人も当初すべて高齢者だった。
その中で、若い看護師が元気に活躍していた。
普段高齢者と接することが多いせいか、私も同じような口調で話しかけられた。
私は教壇に立っている時とはいわば逆の立場で、指導され世話をされる立場だった。
そんな中で、この病院で理学療法士として働いている教え子が顔を出してくれた。
また、口腔外科では研修医として働いている教え子にも会えた。
その時だけ、ただの患者から教師に戻れた。
そして、彼女らから力をもらった。
実は今回の病気で大きく自信を失っていた。
体力だけには自信があったのに、肥満と加齢が大きく原因する病気だったからだ。
もう無理はできないと思い知らされた。
病室の周りの高齢者を見るにつけ、自分の老後を思い浮かべていたのだ。
毎日、甲斐甲斐しく病院にやってきてくれる家内らと共に労りながら老後を暮らそうと思った。
しかし、教え子の活躍する姿を目の当たりにして、老い込む歳では無いと思った。
教え子に会ったときに、こんな情けない姿は見せられない。
一度全身麻酔で死んだも同然の体になって、再び甦ったと思おう。
これは文化人類学で言うイニシエーション(通過儀礼)である。
現代に生きるシャーマンになってみるか・・・
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