今日は、朝散歩に出かけたときは雨はやんでいた。
手術前に行っていた散歩コースを久しぶりに、短縮ではあるが歩いた。
これまで傷の痛みがあって、歩く自信が無かった。
特に、下腹部に近いところが、しばらく痛みが続いた。
不思議なもので先週の木曜日は痛みに苦しんでいたのだが、一週間でかなり歩けるまでに回復できた。
午前中は殆ど雨が降っていて、本ばかり読んでいた。
アンソニー・ギデンスの「国民国家と暴力」である。
(戦争と近代の国民国家は切り離せないことを説いている。)
愚犬クロは朝の散歩に行ってからは、殆ど縁台で寝ている。
午後からもしばらく本を読んでいたのだが、3時頃になって雨もやんだ。
これ以上、本を読む気にならなかったので、散歩に出かけることにした。
思い切って千種川の河原(家から2km程)まで行った。
そこで、トレーニングロープにつないぎ換えた。
口輪は、川原に着いた頃には既に外れていた。
案の定、クロは川に飛び込んで、水しぶきを上げながら、はしゃぎ回った。
それに飽きると河原を走り回り、砂地を掘り起こし始めた。
何か匂いが奥の方からするのか、一心不乱に掘り起こし始めた。
私は、大きな石に腰掛けてその様子を眺めていた。
時々呼び寄せたが、すぐに自分のやりたいことをやり始めた。
かけずり回り、穴を掘り、川に飛び込む。
それを何度も繰り返し、思う存分遊んでいた。
手術で傷を負って走ることもできない身としては、その凄まじいエネルギーにたじろがざるを得なかった。
主人に媚びようともせずに、一心にはしゃいでいる。
かつて自分も若かりし頃、溢れるエネルギーをもてあましていた頃を思い出した。
入試などの受験という鎖につながれて、若さのエネルギーを発散するすべも無く、いろんなところで暴発させていたように思う。
かつては、それをもてあまして悩んでいた。
エネルギーが枯渇しかかっている今の自分には懐かしい。
今だから、かつての自分の若さ故の馬鹿な行為が、自分で許せるのかもしれない。
それでは、歳がいった今は自由になれたかというと、自由になれたわけでは無い。
むしろ、自分を縛る鎖ではなくて、色んな重しを背負いこんでいるように思う。
犬がいなかった頃は、走るか歩くか泳ぐか、とにかく自分の世界に閉じこもった状態で、世間をすり抜けていた。
犬と散歩の時はそうはいかない。
常に他の人や他の犬の様子を気にかけていなくてはいけない。
気を抜いたら、クロの場合は田んぼや溝に飛び込んでしまう。
誰もいない千種川の川原に腰掛けてのんびりする。
かつて、我が子らと一緒にこの川原で水遊びをして以来である。
全く一人で水辺に腰掛けていたら、詩人か自殺志願者に見えるかもしれない。
犬を遊ばせていたら、そうは思われないだろう。
むしろ、はしゃぎ回る犬の方が、注目されるだろう。
確かに犬を散歩させるのは非常に手間だ。
しかし、身近な世界との関わりを、こうやって回復させてくれていることも確かである。
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