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2015年10月18日日曜日

御座候

先日、備前海の駅からの帰り、家内が大判焼きという看板を見つけて、「御座候のことやろう」という。
「そうや、御座候は商標名で、太鼓焼き言うたり、自分らは回転焼き言うとった」
家内は子供のために御座候を10個買って帰って、兄妹二人が3ヶずつ食べて、夕食もしっかり食べたことを思い出して語った。

幼い頃は姫路の御座候は本当に特別な物だった。
一年に一回姫路に行く時とか、父親がたまにお土産で買って帰った。
たいてい兄弟で赤餡を食べるか白餡を食べるか争いになった。
赤餡の方が子供には人気があったからである。
姫路近辺の人は御座候が何か分かる。
看板に「姫路の名物御座候」と書いてあるのを、何が御座候(ございます)なの?
と、遠くから来た人は電車から見て言っていたと聞いたことがある。

普段は赤穂(加里屋)の回転焼きを母親に買ってもらっていた。
本当は回転焼きよりも鯛焼きの方が好きだった。
神姫バスの営業所は、当時は旧駅(赤穂鉄道)とも言った。
そこの付近には回転焼きや鯛焼きを売る店があった。
今でも時々思い出すのは、病気になった我々兄弟を、母親が二人乳母車に乗せて医者に連れて行った時のことだ。
兄弟はすでに幼稚園には行っていたが、お多福風邪を患っていた。
病気でもはしゃぐ、やんちゃな私をじっとさせるためでもあったのである。
尾崎から赤穂大橋を渡って行くのだが、当時の私らには橋の向こうは別世界だった。
その時のことを、重い乳母車を押していくのは大変だったと良く聞かされた。
私が思い出すのは、帰りに店によって、買ってくれた回転焼きや冷やし飴だ。
夏の暑い盛り、それが格別に美味しかった。

こういうおやつのつながりは、母子の間での日常のものだ。
何気ない日常は思い出せないが、こういうことは思い出せる。
父子の関係ではおやつの思い出は殆ど無い。
だから家内が話した御座候は自分には記憶が無い。
父子の間で日常で思い出すのは、子供と散歩したりしたことなどである。
私はもう戻らないそういう親子の日常に感傷的な気分になった。
一方、隣の家内は、美味しい御座候が食べたいと車中で何度も言い続けた。

2015年10月10日土曜日

犬力アシスト自転車

最初は犬と一緒に走っていた。
しかし、自分のペースで走れないのでつらい。
そこで、自転車を使って運動させることを思いついた。
というのも、うちの愚犬クロは明らかに体力を持て余しているからだ。
最初用いたのはママチャリ。
ハンドルの部分に付けると前カゴが邪魔になるし、オフロードに弱い。
そこで、MTBを用いることにした。
オフロードでもいけるが、坂道の下りはブレーキを掛けっぱなし。
たちまちブレーキはすり減って効かなくなった。
効きの悪いブレーキで不意に前を横切るので転けそうになった。
そこで子供が使っていたキックスケーターを用いた。
オフロードでは無理だが、運動にもなるし楽しい。

ある朝、犬に引いてもらって、近くの山の麓まで出かけて気持ちよく朝の運動をしていた。
キックスケーターのハンドルにリードを付けてまさしく犬ぞりである。
緩やかな坂道を降りていた時に、急にクロが立ち止まった。
キックスケーターから私は投げ出されて転倒してしまった。
起き上がる私を見るなり、クロはキックスケーターを引いたまま逃げ出した。
カラカラとスケーターが引き摺られる音が谷間にこだまする。
必死で追いかけた。
当然追いつかない。
クロは脱兎のごとく、来た道を引き返す。
心配なのは国道である。
そこは上手く車がいなくて、横切れた。
こちらは全速力は止めてジョギングに切り替える。
田んぼに逃げていけば、きっとスケーターが引っかかると思ったからだ。
案の定、田んぼに逃げ込もうとして、スケーターが溝に引っかかっていた。
その後はしっかり反省してもらい、朝食抜きで一日静かだった。
このことでクロへの信頼は大きく失ったが、逃げ出した先が大好きな山では無く、家の方向だったのが慰めだった。
元野良犬も我が家が一番良いらしい。

そのこと以来、キックスケーターは諦めた。
ネットで色々調べたら、自転車を犬にひかせるギグレースなるものもあるという。
それなりの自転車に道具は必要なのだが、MTBを整備して使うことにした。
ブレーキの遊びを少なくしたので、直ぐに止まれるようになった。
ハンドルにつなぐ位置も工夫して、リードしやすくした。
相変わらず人や犬に過剰反応するので、その時にはじっと待たせることが大変なことに変わりは無い。
それでも歩く時より短時間でかなりの距離を進むことが出来る。
引っ張ってもらう時間も多く楽だが、こちらは少し運動不足。
家内が言うには、クロは昼間ぐっすりと眠っているそうである。
これで悪戯が少なくなれば一挙両得である。
慣れてくればギグレースも良いが、これで山野を駆け巡るのもいいかも・・・

2015年10月4日日曜日

運動会での交流

この10月3日土曜日、赤穂にある特別支援学校と本校の生徒会の五人が交流した。
参加といっても、運動会の来賓扱いで、最初のラジオ体操と午前の玉入れに加わる程度であった。
私は教員に正式採用されて、初任校であった上、特支での勤務は11年で知り合いも多い。
どちらかというと私にとっては同窓会気分でもあった。
最初に歌った校歌もほぼ歌えたが、「養護学校」が「特別支援学校」になっていた。
知っている職員は以前勤めていた学校の職員の場合もあるし、今の勤め先の伴侶であったりした。
旧知の教員は特支だけで無く、職業高校の教師も数人いた。
運動会自体も私にとっては馴染みの風景でしか無かった。
しかし、本校生徒にとっては初めての経験で、新鮮であり歓声を上げたり、拍手で応援した。
特支では確かに運動場が新たに芝生のグラウンドになってはいたが、内容はあまり変わりは無かった。
おそらく普通高校の体育祭も、同じような競技の繰り返しなのであろう。
変わりが無いと感じさせたのは、自分がいた頃先頭に立っていた教員が、已然と先頭に立っているからである。
ただ、髪の毛が全くなかったが、それが却って年齢不詳で時間を超えさせた。
しかも、採用同期の教師も戻ってきていた、彼も二回りほど横に大きくなっていた。
30年前に戻った気分になり、演技に一緒に参加したくなった。

私は前任校が姫路のマンモス特支だったので、本当にこじんまりとした感じに思えた。
おそらく自分がいた頃も、これくらいの規模だったのだろう。
学校の周りの風景もあまり変わりはない。
むしろ、山々は緑が深まった印象を受けた。
この支援学校も隣接する障害者施設も、施設はどんどん増改築されたり、新築された。
それでも、脈々と優しい教育が育み続けられているように思えた。
特支には知っている若い教員も多いので、しばらくはどこに行っても知り合いに会えそうである。

ところが、せっかく観覧していた一般参加者の教え子に声を掛けられたのに、名前が思い出せない。
顔を見れば教え子だということはたいてい分かる。
特支の担任した生徒は名前を忘れることは無い。
普通校や職業校の生徒は、担任していても名前を思い出せないことがある。
どうか、もし声を掛けてくれるなら、先に名乗って欲しい。
「どこどこにいた○○です おぼえてますか」と
いきなり「先生憶えてますか?」は、教師生活30年の私には酷なのです・・・