先日(12月17日)千種に家内と軽トラに乗って水汲みに出かけた。
上郡の方は天気は良かったのだが、千種に近づくにつれて、どんよりと雪空になった。
殆ど車の通らない、南光町の道を走っていた時である。
道路脇の畑に、猿が3匹いるではないか。
鹿を見るのは全然珍しくは無いのだが、猿を見るとは驚きである。
南光町には有名な船越山の瑠璃寺があり、猿が餌付けされているのだが、人里にも出没するようになったのだろう。
千種に水をくみに行きだしてから、20年以上経つのだが、初めての経験である。
それだけ人がいなくなって、猿が我が物顔に出るようになったのかも知れない。
私たちが子供の頃は、ニホンザルは身近な存在だった。
瑠璃寺も子供会から一度連れて行ってもらった。
そもそも、赤穂御崎には神社の近くの公園に猿が檻に何匹も飼われていた。
小学校の頃、やかましくしていると、「お前らは御崎の猿か!」と大人から叱られた。
わざわざ友達と御崎の猿を見に行ったりもした。
また、一匹だけだったけど、尾崎の神社の上の山の公園にも猿が飼われていた。
時々、お菓子や草などの餌をやった記憶がある。
狭い檻に飼われていて、からかうと怒るので、子供の良い遊び相手になっていた。
姫路の動物園に行っても、ニホンザルは人気があったように思う。
群れになって、遊んでいる様子を見ていて飽きないからである。
しかし、この猿が人里に堂々と現れ出すと、それは別の話になってしまう。
以前私が近所で畑仕事をしている時に、雄猿がどうどうとスイートコーンをくわえて立ち去るのに遭遇した。
猿は、イノシシや鹿の対策のようには簡単では無い。
テレビでニホンザルの被害を放映されたりしているが、これからはこの地域でも起こる可能性がある。
餌付けした猿を観光にしている施設では、人間の方が檻に入って眺めたりする。
それと同じように、これからは、農作物を檻の中で作らなくてはならなくなる。
昔「猿の惑星」という映画が人気になった。
人間に取って代わって、猿が世界を征服する話である。
過疎で寂れていった村は、「猿の惑星」ならず、「猿の村里」になるのかも知れない。
猿が農業でも覚えてくれたらいいのだが、せいぜい出来て猿酒であろう。
山賊のような猿には、犬の手助けが必要かも知れない。
その時には家の大飯食らいの猟犬クロも役に立つかも知れない。
ただ、猿に餌をもらって、なつく可能性もあるけれど・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2016年12月28日水曜日
2016年12月26日月曜日
冬場だけのRun away?!
今日もいつもの高圧電線の鉄塔に、コウノトリが二羽仲良く泊まっている。
地元では最初一羽で来ていたコウノトリを「さっちゃん」と名付けたが、もう一羽には名前をつけてない。
最初は、地方紙などにも取り上げられたりしたが、最近ではマスコミに登場することはあまりなくなった。
ただ、マニアは相変わらず追っかけている。
先日、このコウノトリを毎日のように写真に撮っていて、二羽のことにも詳しいOさんから話を聞いた。
実はさっちゃん以外のもう一羽のコウノトリは、弟でしかも二羽はつがいであるという。
いわゆる近親交配になるので、豊岡の飼育場では二羽を引き離そうとしているらしい。
それを嫌がって、上郡まで来ているのだという。
なぜ上郡なのかは、よく分からない。
他には太子にも立ち寄ったりするらしいが、上郡にずっと冬場は居着いている。
この周りには自然豊かなところはいくらでもあるのに、高い鉄塔が良いのか、田舎過ぎると天敵が危険なのか?
考えてみれば、豊岡の飼育場はそれほど辺鄙なところではなかった。
育った環境に似ているのかもしれない。
ところで、近親交配ということになると考えさせられる。
以前テレビで、絶滅の心配のあるアムール虎が近親交配をしていることを放映していた。
個体数が少なくなると、近親交配の確立が高まるのであろう。
ただ、ロマンチックに考えれば、禁断の恋の逃避行と言うことになる。
神話には兄妹夫婦のモチーフは多くある。
実は、都立大学院時代に松園万亀雄氏のゼミナールで、Incest Taboo(近親相姦禁忌)がテーマになって文献を読んだことがある。
特に、古代エジプトの状況に関して読んだのだが、王家だけでなく、時代が下ると一般庶民も兄妹などの夫婦がいた。
自然界の鳥などは、鳴き声などで近親交配を回避することも知った。
むしろ、近親相姦は文明のなせる業のように思えたのを思い出す。
この二羽は、生まれた年が違うので、同じ巣に育ったわけではない。
飼育場という狭い人為的な空間の中で、たまたま好きになった相手と言うことだろうか。
これも絶滅寸前まで追い込んでいった、日本の近代化の責任でもある。
この頃は、仲の良い二羽を見る度に、何か切ないものを感じる。
ただ、古代エジプトのクレオパトラもそうだったじゃないのと考える手もある。
さっちゃんをクレオパトラに見立てても良いのではないか!
女王様の冬場のRun away、上郡は女王様に選ばれた地である。
地元では最初一羽で来ていたコウノトリを「さっちゃん」と名付けたが、もう一羽には名前をつけてない。
最初は、地方紙などにも取り上げられたりしたが、最近ではマスコミに登場することはあまりなくなった。
ただ、マニアは相変わらず追っかけている。
先日、このコウノトリを毎日のように写真に撮っていて、二羽のことにも詳しいOさんから話を聞いた。
実はさっちゃん以外のもう一羽のコウノトリは、弟でしかも二羽はつがいであるという。
いわゆる近親交配になるので、豊岡の飼育場では二羽を引き離そうとしているらしい。
それを嫌がって、上郡まで来ているのだという。
なぜ上郡なのかは、よく分からない。
他には太子にも立ち寄ったりするらしいが、上郡にずっと冬場は居着いている。
この周りには自然豊かなところはいくらでもあるのに、高い鉄塔が良いのか、田舎過ぎると天敵が危険なのか?
考えてみれば、豊岡の飼育場はそれほど辺鄙なところではなかった。
育った環境に似ているのかもしれない。
ところで、近親交配ということになると考えさせられる。
以前テレビで、絶滅の心配のあるアムール虎が近親交配をしていることを放映していた。
個体数が少なくなると、近親交配の確立が高まるのであろう。
ただ、ロマンチックに考えれば、禁断の恋の逃避行と言うことになる。
神話には兄妹夫婦のモチーフは多くある。
実は、都立大学院時代に松園万亀雄氏のゼミナールで、Incest Taboo(近親相姦禁忌)がテーマになって文献を読んだことがある。
特に、古代エジプトの状況に関して読んだのだが、王家だけでなく、時代が下ると一般庶民も兄妹などの夫婦がいた。
自然界の鳥などは、鳴き声などで近親交配を回避することも知った。
むしろ、近親相姦は文明のなせる業のように思えたのを思い出す。
この二羽は、生まれた年が違うので、同じ巣に育ったわけではない。
飼育場という狭い人為的な空間の中で、たまたま好きになった相手と言うことだろうか。
これも絶滅寸前まで追い込んでいった、日本の近代化の責任でもある。
この頃は、仲の良い二羽を見る度に、何か切ないものを感じる。
ただ、古代エジプトのクレオパトラもそうだったじゃないのと考える手もある。
さっちゃんをクレオパトラに見立てても良いのではないか!
女王様の冬場のRun away、上郡は女王様に選ばれた地である。
2016年12月23日金曜日
プレゼント交換
二学期末のLHRでは、私が副担任をしているクラスで、何か催しをしようということになった。
クリスマス前なので、クリスマスのプレゼント交換などはどうかと、私が提案した。
というのは、私は中学校からミッションスクールに行っていて、そういう催しをしていたからだ。
特別支援学校では、大がかりなクリスマス会をしていた。
定時制の学校ではそれほど大がかりな準備は出来ないので、プレゼント交換ということになった。
主担任の若い女性教師は、経済的なことも配慮して、108円迄というプレゼントの負担制限を設定した。
これは100円ショップで何か良い物を見つけるか、それを用いて自分で作るかを考えたのである。
私はその女性教師から、「家で栽培してある大根でも良いのではないですか?」と言われていた。
それでも気になったので、他の若い女性教師に聞いてみたら、「それは、ちょっと・・・」というので、何か作ることにした。
家には奄美から持ち帰った貝殻が多くあったので、それを用いてネックレスを作ろうかとも思っていた。
家内にプレゼント交換のことを話すと、家内が得意な趣味のビーズ細工をしてくれるという。
百円ショップで、小さなクリスマスリースのビーズセットを買って来て、それを二時間ほどかけて作ってくれた。
そして、綺麗にラッピングしてくれて本番に臨んだ。
主担任の先生は、花より団子と言うことで、買ってきたチョコレートや、職員の休憩室にあったおやつをかき集めてプレゼントにしていた。
いざ交換と言うことになると、生徒の一人が忘れてきていた。
仕方ないので、その忘れた生徒に就職祝いだと言うことで、私の物をあげることにした。
それで、私抜きで交換が始まった。
そして、輪になった交換が合図で止まって、中を見ることになった。
単に駄菓子を100円分買ってきたもの。
UFOキャッチャーで手に入れた大きなプラモデル。
バイト先のまかない飯のそばめし。
その他の多くはやはり、100円ショップで買える品物などだった。
私が持ってきたプレゼントは、うまいことに女子生徒に当たり、非常に喜んでくれた。
後になって思ったのだが、材料を使って手作りにしたプレゼントと、買ってそのままのプレゼントでは意味が違うということだ。
これはバレンタインデーの時のチョコレートも同じなのだ。
材料を使って作るものは、それにかける時間と気持ちが入っている。
時間から考えると、兵庫県の最低賃金で換算すれば、2時間なら1638円と言うことになる。
金に換算すると嫌らしく感じるが、お金を持っていない者でも、労力をかければ価値を生むということである。
奇しくも、大手のホテルのベットメイキングのアルバイトで一番時給の高い生徒が、買った駄菓子のままで済ましていた。
それに対して、小さなお好み焼き屋でアルバイトしている生徒が、手作りのまかない飯だった。
アルバイトをしている定時制生徒の仕事に対する価値観が表れているような気がした。
家内に任せた私が一番横柄なのだが・・・・
クリスマス前なので、クリスマスのプレゼント交換などはどうかと、私が提案した。
というのは、私は中学校からミッションスクールに行っていて、そういう催しをしていたからだ。
特別支援学校では、大がかりなクリスマス会をしていた。
定時制の学校ではそれほど大がかりな準備は出来ないので、プレゼント交換ということになった。
主担任の若い女性教師は、経済的なことも配慮して、108円迄というプレゼントの負担制限を設定した。
これは100円ショップで何か良い物を見つけるか、それを用いて自分で作るかを考えたのである。
私はその女性教師から、「家で栽培してある大根でも良いのではないですか?」と言われていた。
それでも気になったので、他の若い女性教師に聞いてみたら、「それは、ちょっと・・・」というので、何か作ることにした。
家には奄美から持ち帰った貝殻が多くあったので、それを用いてネックレスを作ろうかとも思っていた。
家内にプレゼント交換のことを話すと、家内が得意な趣味のビーズ細工をしてくれるという。
百円ショップで、小さなクリスマスリースのビーズセットを買って来て、それを二時間ほどかけて作ってくれた。
そして、綺麗にラッピングしてくれて本番に臨んだ。
主担任の先生は、花より団子と言うことで、買ってきたチョコレートや、職員の休憩室にあったおやつをかき集めてプレゼントにしていた。
いざ交換と言うことになると、生徒の一人が忘れてきていた。
仕方ないので、その忘れた生徒に就職祝いだと言うことで、私の物をあげることにした。
それで、私抜きで交換が始まった。
そして、輪になった交換が合図で止まって、中を見ることになった。
単に駄菓子を100円分買ってきたもの。
UFOキャッチャーで手に入れた大きなプラモデル。
バイト先のまかない飯のそばめし。
その他の多くはやはり、100円ショップで買える品物などだった。
私が持ってきたプレゼントは、うまいことに女子生徒に当たり、非常に喜んでくれた。
後になって思ったのだが、材料を使って手作りにしたプレゼントと、買ってそのままのプレゼントでは意味が違うということだ。
これはバレンタインデーの時のチョコレートも同じなのだ。
材料を使って作るものは、それにかける時間と気持ちが入っている。
時間から考えると、兵庫県の最低賃金で換算すれば、2時間なら1638円と言うことになる。
金に換算すると嫌らしく感じるが、お金を持っていない者でも、労力をかければ価値を生むということである。
奇しくも、大手のホテルのベットメイキングのアルバイトで一番時給の高い生徒が、買った駄菓子のままで済ましていた。
それに対して、小さなお好み焼き屋でアルバイトしている生徒が、手作りのまかない飯だった。
アルバイトをしている定時制生徒の仕事に対する価値観が表れているような気がした。
家内に任せた私が一番横柄なのだが・・・・
赤穂の牡蠣と海苔
先日職業体験と言うことで、赤穂の漁協に定時制の生徒と一緒にうかがった。
赤穂の漁協の建物は、以前は東浜塩田の工場や倉庫があった場所にある。
私は子供の頃には、このあたりでよく魚釣りをして遊んだ。
昔は、赤穂で牡蠣の養殖をしてはいなかったと思う。
今は全国的にも名の知られた牡蠣の産地にまでになっている。
海苔に関しては、唐船の河口寄りの海岸で、棹を立てて養殖していたのを覚えている。
今は唐船の沖で養殖していて、ずっと海面下にあるので繁殖が良いという。
昔は近所で海苔を干す作業をしている家もあって、その作業を見るのは面白かった。
その頃は、車もあまり通っていなかったので、家の前の路地に天日干しをしていた。
残り物の海苔などを分けてもらって、母親がよく海苔の佃煮を作っていた。
久しぶりに赤穂の海苔をあぶって食べさせてもらった。
磯の風味が強くて、懐かしい味がした。
赤穂の牡蠣は千種川のおかげもあって成長が早く、一年物でも大きくて美味しい。
今回は殻付きの牡蠣を焼いたり、生徒が殻から外した牡蠣を味噌汁に入れて食べた。
焼いた牡蠣は、海そのものが口の中に再現されているようだった。
また、味噌汁に入れた牡蠣を初めて食べたが、こんなに美味しいとは思ってもみなかった。
大きな鍋に一杯あったので、教師生徒あわせて15名ほどで食べられるかと心配した。
心配には及ばなかった。
予定の時間よりも早く、鍋は空になってしまった。
12月にしては思ったより暖かい夜で、御崎の灯台や夜の星が綺麗に光っていた。
御崎の夜景を見ながら、生徒達と楽しくて美味しい時間を過ごせた。
漁協としては、後継者に繋がればということである。
話を聞くと、牡蠣に関しては地元の多くの人が仕事に関わっているようだ。
ただ、牡蠣むきの仕事は冬場だけの仕事で、漁師さん以外はパートということになる。
季節的なこともあって、人手が足りなくてせっかく人気がある唐船の牡蠣小屋も運営できないそうだ。
せっかく赤穂は観光化も進んできたので、一年を通して多くの人が関わることの出来る事業が出来ればと思った。
ただ、年商の多い牡蠣にしても海苔にしても、その分設備に投資される額は大きいという。
自然相手にどれだけリスクを負えるかということである。
私の家の本家や親は船での運送業を営んでいたが、父親はリスクを避けて会社勤めに替わった。
本家も後継者がなく、もう船の運送業は営んでいない。
地場産業の維持というのは、リスクを考えればそんなに容易いものではなさそうだ。
赤穂の漁協の建物は、以前は東浜塩田の工場や倉庫があった場所にある。
私は子供の頃には、このあたりでよく魚釣りをして遊んだ。
昔は、赤穂で牡蠣の養殖をしてはいなかったと思う。
今は全国的にも名の知られた牡蠣の産地にまでになっている。
海苔に関しては、唐船の河口寄りの海岸で、棹を立てて養殖していたのを覚えている。
今は唐船の沖で養殖していて、ずっと海面下にあるので繁殖が良いという。
昔は近所で海苔を干す作業をしている家もあって、その作業を見るのは面白かった。
その頃は、車もあまり通っていなかったので、家の前の路地に天日干しをしていた。
残り物の海苔などを分けてもらって、母親がよく海苔の佃煮を作っていた。
久しぶりに赤穂の海苔をあぶって食べさせてもらった。
磯の風味が強くて、懐かしい味がした。
赤穂の牡蠣は千種川のおかげもあって成長が早く、一年物でも大きくて美味しい。
今回は殻付きの牡蠣を焼いたり、生徒が殻から外した牡蠣を味噌汁に入れて食べた。
焼いた牡蠣は、海そのものが口の中に再現されているようだった。
また、味噌汁に入れた牡蠣を初めて食べたが、こんなに美味しいとは思ってもみなかった。
大きな鍋に一杯あったので、教師生徒あわせて15名ほどで食べられるかと心配した。
心配には及ばなかった。
予定の時間よりも早く、鍋は空になってしまった。
12月にしては思ったより暖かい夜で、御崎の灯台や夜の星が綺麗に光っていた。
御崎の夜景を見ながら、生徒達と楽しくて美味しい時間を過ごせた。
漁協としては、後継者に繋がればということである。
話を聞くと、牡蠣に関しては地元の多くの人が仕事に関わっているようだ。
ただ、牡蠣むきの仕事は冬場だけの仕事で、漁師さん以外はパートということになる。
季節的なこともあって、人手が足りなくてせっかく人気がある唐船の牡蠣小屋も運営できないそうだ。
せっかく赤穂は観光化も進んできたので、一年を通して多くの人が関わることの出来る事業が出来ればと思った。
ただ、年商の多い牡蠣にしても海苔にしても、その分設備に投資される額は大きいという。
自然相手にどれだけリスクを負えるかということである。
私の家の本家や親は船での運送業を営んでいたが、父親はリスクを避けて会社勤めに替わった。
本家も後継者がなく、もう船の運送業は営んでいない。
地場産業の維持というのは、リスクを考えればそんなに容易いものではなさそうだ。
2016年12月17日土曜日
2016年の赤穂義士祭
今年の義士祭は平日で、何とか雨は免れたが曇りがちで、気温も低かった。
去年までは午前中に義士に関する講演を聴いて、その後募金活動などに参加した。
今年は定時制のブースがあるので、その担当者は朝から参加し、ゴミ拾い組は午後からとなった。
前日は雨だったので、花岳寺での追慕祭も大変だったようだ。
義士行列が盛んになるまでは、その追慕祭がメインだった。
因みに、花岳寺の住職さんは、駒澤大学の教授をしておられる。
私が大学生の頃に、名古屋の南山大学で講演をしてくれて、一度だけお目に掛かった。
住職さんは仏教関係の宗教学が専門だったが、私は宗教人類学に強い関心を持っていた。
公演後の喫茶店でお話をして、偶然赤穂と言うことを知って驚いた経験がある。
赤穂にいる時には一度だけ訪ねたが、お留守でお目に掛かることは出来なかった。
義士を祀る花岳寺は大名寺なので、檀家はいない。
拝観料だけで維持できる筈も無いので、どんな収入源があるのだろうとずっと疑問を持っている。
今年は市役所にゴミ拾い組の本部を置いて、その本部に最初待機し、その後ブースの手伝いの予定だった。
曇り空の中で集合して、クラス毎に出かけた後は、遅刻者を待っていた。
遅刻者の対応が済んだ後は、市役所の中に入れてもらって、帰りを待った。
ゴミ拾いも無事終わり、花岳寺に寄ってから城内のブースに向かった。
ブースには沢山のお客さんがいて、それに対応する職員もしっかりいたので、付近をまわることにした。
久しぶりに大石神社にも詣った。
そして、今度公開された二の丸庭園に初めて行った。
そこには赤穂市編さん室に勤める知り合いが係員でいたので挨拶をした。
その後ゆっくりと庭園を歩き、携帯で写真を撮ったりした。
これで一つ観光スポットも増えたのかと思った。
赤穂城内も昔と違って、広い公園のように整備されて、いずれ姫路城のようになるのかなとも思う。
赤穂高校があったり、民家があった時代を知るものにとっては、少し寂しい雰囲気でもある。
いっその事、赤穂に残る古い民家を移築して、宿泊させても良いように思えた。
去年までは午前中に義士に関する講演を聴いて、その後募金活動などに参加した。
今年は定時制のブースがあるので、その担当者は朝から参加し、ゴミ拾い組は午後からとなった。
前日は雨だったので、花岳寺での追慕祭も大変だったようだ。
義士行列が盛んになるまでは、その追慕祭がメインだった。
因みに、花岳寺の住職さんは、駒澤大学の教授をしておられる。
私が大学生の頃に、名古屋の南山大学で講演をしてくれて、一度だけお目に掛かった。
住職さんは仏教関係の宗教学が専門だったが、私は宗教人類学に強い関心を持っていた。
公演後の喫茶店でお話をして、偶然赤穂と言うことを知って驚いた経験がある。
赤穂にいる時には一度だけ訪ねたが、お留守でお目に掛かることは出来なかった。
義士を祀る花岳寺は大名寺なので、檀家はいない。
拝観料だけで維持できる筈も無いので、どんな収入源があるのだろうとずっと疑問を持っている。
今年は市役所にゴミ拾い組の本部を置いて、その本部に最初待機し、その後ブースの手伝いの予定だった。
曇り空の中で集合して、クラス毎に出かけた後は、遅刻者を待っていた。
遅刻者の対応が済んだ後は、市役所の中に入れてもらって、帰りを待った。
ゴミ拾いも無事終わり、花岳寺に寄ってから城内のブースに向かった。
ブースには沢山のお客さんがいて、それに対応する職員もしっかりいたので、付近をまわることにした。
久しぶりに大石神社にも詣った。
そして、今度公開された二の丸庭園に初めて行った。
その後ゆっくりと庭園を歩き、携帯で写真を撮ったりした。
これで一つ観光スポットも増えたのかと思った。
赤穂城内も昔と違って、広い公園のように整備されて、いずれ姫路城のようになるのかなとも思う。
赤穂高校があったり、民家があった時代を知るものにとっては、少し寂しい雰囲気でもある。
いっその事、赤穂に残る古い民家を移築して、宿泊させても良いように思えた。
2016年12月11日日曜日
1年ぶりの水泳
去年の11月に生徒と小さなレースに出て以来、私はプールで泳いでいなかった。
一番の理由は愚犬の散歩をしっかり一時間以上させていたので、運動が足りていたことだ。平日は定時制なので、夕方や夜には行けない。
土日は朝夕の散歩があり、その上に農作業をしていたので行く余裕が無かった。
日曜の今日は午後から時間もあり、息子も夜勤明けで家にいて、犬の散歩も頼めるのでプールに行った。
地元の町民プールでは、スイミングスクールの選手コースの生徒が練習をしていた。
一般のお客さんは最初は年配の女性が一人だけだったが、そのうち増えた。
自分はいつものように、アップでSKPSの800mをおこなった。
1年ぶりだから、全く体が動かないのでは無いかと心配したが、意外に動いた。
しかも、毎日しっかり歩いているせいか、それほど辛くは無い。
当然泳ぐスピードは、生徒と練習していた時に比べて甚だ遅い。
今日泳ぎに来た一番の理由は、嫌なことがあってそれから逃れるためであった。
子供が小さい頃から本格的に練習を始めて、20年近く経つ。
この地元のプールには20年以上の想い出がしみこんでいる。
今日のように嫌なことがあって、夢中で泳いだこともあった。
その時によく思い出した歌のフレーズは、EaglesのHotel Californiaの一節
"Some dance to remember,Some dance to forget"
さしずめ、プールでは"Some swim to remember, Some swim to forget"と言うところだろうか。
プールでは踊るのではなく、人は思い出すために泳ぎ、忘れるために泳ぐ。
今日の自分にとっては、思い出すためであり、忘れるためでもあった。
この同じプールで、我が子と一緒に泳いだり、クラブの生徒達と一緒に泳いだ。
自分に自由な時間が少なくて、もっと自由な時間が欲しいと思っていた。
しかし、今思い出すと充実したかけがえのない時間であった。
また、水泳マスターズチームは厳しくて大変だったけど、練習やレースが楽しかった。
今日はマスターズチームではないが、よくプールで出会った人に一人だけ会った。
その退職した年配の男性は、「本当に久しぶりやね」と声をかけてくれた。
自分の力がどれだけ残っているか分からなかったので、夢中で泳ぐほどのスピードや距離はだせなかった。
ただ、嫌な気持ちが水の中に溶けて出て消えていくように思えた。
また、ジョギングの時は一人黙々と走ることが多いが、水泳ではそばで多くの人が泳いだり歩いている。
特に若い選手が一生懸命泳いでいるので、こちらも励まされる。
当然泳ぐスピードは全く違うのだが、少しでも隣で並んで泳ぐ瞬間が楽しいものである。
泳いで気が晴れたとまでは行かなかったが、気分的には落ち着けたと思う。
こういう時には、水泳をやっていて良かったと思える。
酒やたばこ、ギャンブルなどで憂さ晴らしをする人もいる。
実際自分も、若い頃は酒での憂さ晴らしが多かった。
定年間近になると、いろんなストレスで心身を病む人もいる。
その中で酒たばこで健康を害して、定年前後に亡くなった人を何人も知っている。
世はまさにジョギング、マラソンブームで、それはそれで健康に良いと思う。
それとは違う水泳の魅力は、心も身体も水の中で漂わせることも出来ることだろう。
ほんのしばらくの時間ではあるが、イルカやクラゲになれるのである。
一番の理由は愚犬の散歩をしっかり一時間以上させていたので、運動が足りていたことだ。平日は定時制なので、夕方や夜には行けない。
土日は朝夕の散歩があり、その上に農作業をしていたので行く余裕が無かった。
日曜の今日は午後から時間もあり、息子も夜勤明けで家にいて、犬の散歩も頼めるのでプールに行った。
地元の町民プールでは、スイミングスクールの選手コースの生徒が練習をしていた。
一般のお客さんは最初は年配の女性が一人だけだったが、そのうち増えた。
自分はいつものように、アップでSKPSの800mをおこなった。
1年ぶりだから、全く体が動かないのでは無いかと心配したが、意外に動いた。
しかも、毎日しっかり歩いているせいか、それほど辛くは無い。
当然泳ぐスピードは、生徒と練習していた時に比べて甚だ遅い。
今日泳ぎに来た一番の理由は、嫌なことがあってそれから逃れるためであった。
子供が小さい頃から本格的に練習を始めて、20年近く経つ。
この地元のプールには20年以上の想い出がしみこんでいる。
今日のように嫌なことがあって、夢中で泳いだこともあった。
その時によく思い出した歌のフレーズは、EaglesのHotel Californiaの一節
"Some dance to remember,Some dance to forget"
さしずめ、プールでは"Some swim to remember, Some swim to forget"と言うところだろうか。
プールでは踊るのではなく、人は思い出すために泳ぎ、忘れるために泳ぐ。
今日の自分にとっては、思い出すためであり、忘れるためでもあった。
この同じプールで、我が子と一緒に泳いだり、クラブの生徒達と一緒に泳いだ。
自分に自由な時間が少なくて、もっと自由な時間が欲しいと思っていた。
しかし、今思い出すと充実したかけがえのない時間であった。
また、水泳マスターズチームは厳しくて大変だったけど、練習やレースが楽しかった。
今日はマスターズチームではないが、よくプールで出会った人に一人だけ会った。
その退職した年配の男性は、「本当に久しぶりやね」と声をかけてくれた。
自分の力がどれだけ残っているか分からなかったので、夢中で泳ぐほどのスピードや距離はだせなかった。
ただ、嫌な気持ちが水の中に溶けて出て消えていくように思えた。
また、ジョギングの時は一人黙々と走ることが多いが、水泳ではそばで多くの人が泳いだり歩いている。
特に若い選手が一生懸命泳いでいるので、こちらも励まされる。
当然泳ぐスピードは全く違うのだが、少しでも隣で並んで泳ぐ瞬間が楽しいものである。
泳いで気が晴れたとまでは行かなかったが、気分的には落ち着けたと思う。
こういう時には、水泳をやっていて良かったと思える。
酒やたばこ、ギャンブルなどで憂さ晴らしをする人もいる。
実際自分も、若い頃は酒での憂さ晴らしが多かった。
定年間近になると、いろんなストレスで心身を病む人もいる。
その中で酒たばこで健康を害して、定年前後に亡くなった人を何人も知っている。
世はまさにジョギング、マラソンブームで、それはそれで健康に良いと思う。
それとは違う水泳の魅力は、心も身体も水の中で漂わせることも出来ることだろう。
ほんのしばらくの時間ではあるが、イルカやクラゲになれるのである。
2016年12月10日土曜日
写真アルバム集の執筆で思うこと
『写真アルバム 赤穂・相生・上郡・佐用の昭和』樹林舎が出版された。
この出版に際しては、宮崎素一氏より写真説明やリード文(解説文)の依頼があった。
私は赤穂に関しては、生まれ育ちでありながら、あまり地域研究には関わってこなかった。
原稿の依頼は市の市史編さん室にあったようだが、対応が難しくて宮崎さんの方に依頼されたようだった。
執筆には自信も時間も無かったが、恩義のある宮崎さんから頼まれたら引き受けざるを得なかった。
過去の写真集をあたってみると、赤穂における郷土研究の重鎮が関わっているのが分かった。
そして、前回の出版されたこのシリーズは、赤穂に関しては故西畑俊昭氏が中心となっていた。
西畑氏が生きていたなら、今回もその役割を担っていただろうと思う。
つくづく、赤穂にとっては大切な人を亡くしてしまったのだと、改めて思わざるを得なかった。
写真集の風景は昔を思い出してくれるのだが、物心つく前の風景はまるで別世界である。
おそらく今の若い人がこの写真集を見たら、殆どがそうなのだろうと思う。
今の赤穂の職場に赴任してから、赤穂市内を出歩く機会が増えた。
赤穂市内の様子は、昔の姿を断片的に残してはいるが、ずいぶん変わってしまった。
私は今57歳だが、50年という年月の流れを改めて思い知らされた。
竜宮城へ行かなくても、もし50年前に赤穂を離れていきなり戻って来たら、その変化に驚かされるだろう。
そう言えば以前50年ぶりに行った金比羅さんは初めて行ったのと同じ感覚だった。
そして、浦島太郎同様に自分は白髪頭の老人になってきている。
昭和という時代ほど日本が激変した時代は無かっただろう。
変わることが良いことだ、美しいことだと思ってきた世代でもある。
本当は良い物を大切に残していく方が難しかった時代なのだ。
私たちが幼い頃に神社や寺であふれていた子供の遊ぶ姿はもう見かけない。
土曜の昼によく行った近所のお好み屋。
寒い中を父親と一緒に行った近所の風呂屋。
その他、八百屋、豆腐屋、駄菓子屋、酒屋、魚屋、散髪屋などの多くが消えていった。
そこにはお金と品物のやりとり以外のものがあった。
写真アルバム集もいずれ過去の洛中洛外図のように歴史公証の材料となるのだろう。
その時代に生きた人がどう思い、どう感じていたかは、想像の域を出ない。
ただ、時代の記録は自分たちの体の中、そして子孫の体の中にはDNAとして残り続ける。
この頃よく思うのは、DNAが自分たちの体や心を借りながら時代を超えて生き続けているのだということである。
生物の先生は命を繋ぐことの大切さをよく強調される。
確かに子孫を残して命を繋ぐことは大切である。
しかし、地球上に生命誕生以来、DNAは人以外にいろんな姿で生き続けている。
写真アルバム集は確かに人の営みを中心に掲載されているのだが、そこには別の生き物との関わりもしっかりと写されている。
そういう風に見れば単なるノスタルジーに浸るためだけのものでは無いようにも思える。
この出版に際しては、宮崎素一氏より写真説明やリード文(解説文)の依頼があった。
私は赤穂に関しては、生まれ育ちでありながら、あまり地域研究には関わってこなかった。
原稿の依頼は市の市史編さん室にあったようだが、対応が難しくて宮崎さんの方に依頼されたようだった。
執筆には自信も時間も無かったが、恩義のある宮崎さんから頼まれたら引き受けざるを得なかった。
過去の写真集をあたってみると、赤穂における郷土研究の重鎮が関わっているのが分かった。
そして、前回の出版されたこのシリーズは、赤穂に関しては故西畑俊昭氏が中心となっていた。
西畑氏が生きていたなら、今回もその役割を担っていただろうと思う。
つくづく、赤穂にとっては大切な人を亡くしてしまったのだと、改めて思わざるを得なかった。
写真集の風景は昔を思い出してくれるのだが、物心つく前の風景はまるで別世界である。
おそらく今の若い人がこの写真集を見たら、殆どがそうなのだろうと思う。
今の赤穂の職場に赴任してから、赤穂市内を出歩く機会が増えた。
赤穂市内の様子は、昔の姿を断片的に残してはいるが、ずいぶん変わってしまった。
私は今57歳だが、50年という年月の流れを改めて思い知らされた。
竜宮城へ行かなくても、もし50年前に赤穂を離れていきなり戻って来たら、その変化に驚かされるだろう。
そう言えば以前50年ぶりに行った金比羅さんは初めて行ったのと同じ感覚だった。
そして、浦島太郎同様に自分は白髪頭の老人になってきている。
昭和という時代ほど日本が激変した時代は無かっただろう。
変わることが良いことだ、美しいことだと思ってきた世代でもある。
本当は良い物を大切に残していく方が難しかった時代なのだ。
私たちが幼い頃に神社や寺であふれていた子供の遊ぶ姿はもう見かけない。
土曜の昼によく行った近所のお好み屋。
寒い中を父親と一緒に行った近所の風呂屋。
その他、八百屋、豆腐屋、駄菓子屋、酒屋、魚屋、散髪屋などの多くが消えていった。
そこにはお金と品物のやりとり以外のものがあった。
写真アルバム集もいずれ過去の洛中洛外図のように歴史公証の材料となるのだろう。
その時代に生きた人がどう思い、どう感じていたかは、想像の域を出ない。
ただ、時代の記録は自分たちの体の中、そして子孫の体の中にはDNAとして残り続ける。
この頃よく思うのは、DNAが自分たちの体や心を借りながら時代を超えて生き続けているのだということである。
生物の先生は命を繋ぐことの大切さをよく強調される。
確かに子孫を残して命を繋ぐことは大切である。
しかし、地球上に生命誕生以来、DNAは人以外にいろんな姿で生き続けている。
写真アルバム集は確かに人の営みを中心に掲載されているのだが、そこには別の生き物との関わりもしっかりと写されている。
そういう風に見れば単なるノスタルジーに浸るためだけのものでは無いようにも思える。
2016年12月4日日曜日
鳥の楽園と愚犬騒動
コウノトリがやってきて以来、愚犬クロとの散歩にはそれを撮影しようとする人や車に会うことが多くなった。
近所の知り合いの人も、常に追いかけて写真を撮っているので、密かにパパラッチ○○と呼んでいる。
この頃散歩に出かける時には、コウノトリも朝食を済ませて、高い高圧電線の鉄塔の上で日向ぼっこをしている。
写真を撮る人は、午前中殆どその近くで、動きの無いコウノトリを見張っている。
見張られていたら、地上に降りられないと思うが、日向ぼっこして諦めているのかも知れない。
先日の金曜日は、道端の普通の電信柱に止まっていたので、その大きさを身近に感じられた。
追いかけなければ、そばまで近づいても逃げることはあまりない。
そのコウノトリもさることながら、この季節になると猛禽類が沢山訪れている。
何という種類名なのか分からないが、鳶より少し小さなものが、電信柱や田んぼの中でいるのを何羽か見かける。
また、カラスよりも小さなものもよく飛んでいて、今日もカラスと空中戦をしていた。
皆総称して鷹というのかも知れないが、普段いる鳶やカラスなどと違って、秋から冬にしか見られない。
また、ケリも集団で田んぼを舞っている。
大型のサギもコウノトリに負けないくらい、おおらかに舞っているが誰も見向きもしない。
小鳥も沢山の種類がいて、美しい鳴き声を聞くのが楽しみである。
小川のそばに行くと、美しいカワセミも普通に見ることが出来る。
ただ、千種川の下流にかけている、川鵜に関しては、不気味である。
つい最近も大群が川の上を移動しているのを見たが、大群のカラス同様不快な感じがした。
自然が多く残っていると言いながら、自然そのものよりもこうして里のそばに人と共存している。
人の住んでいるそばの方が、食べ物が多くあるということなのだろうか。
私がよく訪れた奄美の与路島では、猛禽類の餌となったのは、野生化した山羊の子供だった。
この上郡では何が餌になっているか分からない。
ただ、我が家にはハツカネズミが多く住み着いているくらいだから、外にも多くいるのだろう。
そういう、様々な鳥を眺めながら、散歩を楽しんでいるそばで、クロは相変わらず蝗を捕って食べている。
時々散歩の途中でやるジャーキーよりも、蝗の方が好きなようだ。
蝗はまだ良いのだが、先日はヌートリアの子供が何匹も出てきて、えらく振り回された。
今日も、何か獲物、たぶんイタチだと思うが、それを見つけたのか草むらに飛び込んでしまった。
普段ハーネスに、10メートルほどの太いロープをつけているのだが、引っ張った拍子にハーネスが壊れてしまった。
こうなると、うちの愚犬はこれ幸いに脱走してしまう。
以前は追いかけて捕まえたが、紐が付いていない状態では絶対無理である。
一度帰って体制を整えて、他の人に迷惑をかけないように探しに行った。
クロは自分の好きな、隣村の墓場の近くをうろうろしている。
ここは以前に鎖をつけたまま逃走して、救助してやったところの近くである。
そばまで行って、ジャーキーで釣ろうとするのだが、逃げてしまう。
そんなことをしている間に、戻って来た家内が軽トラでやってきた。
家内は私のように捕まえた後で、叩いたりしていないので、ジャーキーを見せたらやってくる。
今回は見事そのジャーキーを使って、田んぼの中で捕まえてくれた。
私も最近は、捕まえても叩かないようにしている。
その代わり、散歩から戻った後の食事は抜きである。
いつも据わっている庭の縁台で、哀しそうな声を出していたが、無視した。
平和な鳥の楽園を堪能した散歩は、結局クロの脱走劇で乱された。
家の息子はやんちゃでは無かったので、あまり悩まされることが無かった。
その代わりにクロのやんちゃに振り回されている。
子育ての終わった夫婦にとっては、孫以上に手の掛かる存在でもある。
繋いでいる時は私に絶対服従するクロだが、逃げた時は家内の方に心を許す。
思い起こせば、独身下宿時代に電話や手紙のやりとりをしていたのは、母親だけだった。
父親というのはそういう存在なのかも知れない。
近所の知り合いの人も、常に追いかけて写真を撮っているので、密かにパパラッチ○○と呼んでいる。
この頃散歩に出かける時には、コウノトリも朝食を済ませて、高い高圧電線の鉄塔の上で日向ぼっこをしている。
写真を撮る人は、午前中殆どその近くで、動きの無いコウノトリを見張っている。
見張られていたら、地上に降りられないと思うが、日向ぼっこして諦めているのかも知れない。
先日の金曜日は、道端の普通の電信柱に止まっていたので、その大きさを身近に感じられた。
追いかけなければ、そばまで近づいても逃げることはあまりない。
そのコウノトリもさることながら、この季節になると猛禽類が沢山訪れている。
何という種類名なのか分からないが、鳶より少し小さなものが、電信柱や田んぼの中でいるのを何羽か見かける。
また、カラスよりも小さなものもよく飛んでいて、今日もカラスと空中戦をしていた。
皆総称して鷹というのかも知れないが、普段いる鳶やカラスなどと違って、秋から冬にしか見られない。
また、ケリも集団で田んぼを舞っている。
大型のサギもコウノトリに負けないくらい、おおらかに舞っているが誰も見向きもしない。
小鳥も沢山の種類がいて、美しい鳴き声を聞くのが楽しみである。
小川のそばに行くと、美しいカワセミも普通に見ることが出来る。
ただ、千種川の下流にかけている、川鵜に関しては、不気味である。
つい最近も大群が川の上を移動しているのを見たが、大群のカラス同様不快な感じがした。
自然が多く残っていると言いながら、自然そのものよりもこうして里のそばに人と共存している。
人の住んでいるそばの方が、食べ物が多くあるということなのだろうか。
私がよく訪れた奄美の与路島では、猛禽類の餌となったのは、野生化した山羊の子供だった。
この上郡では何が餌になっているか分からない。
ただ、我が家にはハツカネズミが多く住み着いているくらいだから、外にも多くいるのだろう。
そういう、様々な鳥を眺めながら、散歩を楽しんでいるそばで、クロは相変わらず蝗を捕って食べている。
時々散歩の途中でやるジャーキーよりも、蝗の方が好きなようだ。
蝗はまだ良いのだが、先日はヌートリアの子供が何匹も出てきて、えらく振り回された。
今日も、何か獲物、たぶんイタチだと思うが、それを見つけたのか草むらに飛び込んでしまった。
普段ハーネスに、10メートルほどの太いロープをつけているのだが、引っ張った拍子にハーネスが壊れてしまった。
こうなると、うちの愚犬はこれ幸いに脱走してしまう。
以前は追いかけて捕まえたが、紐が付いていない状態では絶対無理である。
一度帰って体制を整えて、他の人に迷惑をかけないように探しに行った。
クロは自分の好きな、隣村の墓場の近くをうろうろしている。
ここは以前に鎖をつけたまま逃走して、救助してやったところの近くである。
そばまで行って、ジャーキーで釣ろうとするのだが、逃げてしまう。
そんなことをしている間に、戻って来た家内が軽トラでやってきた。
家内は私のように捕まえた後で、叩いたりしていないので、ジャーキーを見せたらやってくる。
今回は見事そのジャーキーを使って、田んぼの中で捕まえてくれた。
私も最近は、捕まえても叩かないようにしている。
その代わり、散歩から戻った後の食事は抜きである。
いつも据わっている庭の縁台で、哀しそうな声を出していたが、無視した。
平和な鳥の楽園を堪能した散歩は、結局クロの脱走劇で乱された。
家の息子はやんちゃでは無かったので、あまり悩まされることが無かった。
その代わりにクロのやんちゃに振り回されている。
子育ての終わった夫婦にとっては、孫以上に手の掛かる存在でもある。
繋いでいる時は私に絶対服従するクロだが、逃げた時は家内の方に心を許す。
思い起こせば、独身下宿時代に電話や手紙のやりとりをしていたのは、母親だけだった。
父親というのはそういう存在なのかも知れない。
2016年11月13日日曜日
害虫駆除犬?
今年はどういう訳か蝗が多い。
私が作っている畑でも蝗が多くいて、時々捕まえている。
その蝗を我が家の愚犬クロは好んで食べる。
以前は蛙を捕まえて食べていたので、それは止めさせていた。
虫に関しては、蝉やバッタなどのは人も食べると思って、止めなかった。
トノサマバッタなどは、猫がよくとって食べているのを見ていたが、犬には無理である。
ところが蝗は私でも手で摘まめてとれるくらいなので、クロでも簡単に捕まえる。
そういうわけで、このところ散歩で蝗を捕るのが日課になってしまった。
今日の夕方などは、田んぼのそばの道だけにかなりの蝗がいて、散歩は蝗狩りとなった。
食べられる量は大したことが無いので、害虫駆除とまでは行かないが、少しは役には立っているだろう。
あまりに大好きそうなので、戻って来てからも畑の蝗を捕ってきて与えたら、喜んで食べた。
本来なら鹿やイノシシを捕る猟犬が蝗を捕るのは、情けないようにも思うし、食ってしまうのは猟犬としては失格である。
それでも、猟犬の端くれのとして、害虫駆除の蝗狩りとしてがんばってもらおうとも思う。
ところで、今朝(11/13)今年初めてコウノトリ二羽を見かけた。
いつものクロとの散歩コースで、貯水池の水を落とした干潟にいた。
山のそばにあるその大きな貯水池には、毎年沢山の鴨などの水鳥が来ている。
今年はたぶんさっちゃんだと思うが、友達と一緒に来てくれた。
鴨は犬と一緒にそばを通ると逃げるのだが、コウノトリは飛び立たない。
携帯で写真もとったのだが、霧が濃くてうまくとれていなかった。
一方、クロはあまり水鳥には興味を示さない。
鴨より蝗の方が現実的だと冷めているのだろう。
私が作っている畑でも蝗が多くいて、時々捕まえている。
その蝗を我が家の愚犬クロは好んで食べる。
以前は蛙を捕まえて食べていたので、それは止めさせていた。
虫に関しては、蝉やバッタなどのは人も食べると思って、止めなかった。
トノサマバッタなどは、猫がよくとって食べているのを見ていたが、犬には無理である。
ところが蝗は私でも手で摘まめてとれるくらいなので、クロでも簡単に捕まえる。
そういうわけで、このところ散歩で蝗を捕るのが日課になってしまった。
今日の夕方などは、田んぼのそばの道だけにかなりの蝗がいて、散歩は蝗狩りとなった。
食べられる量は大したことが無いので、害虫駆除とまでは行かないが、少しは役には立っているだろう。
あまりに大好きそうなので、戻って来てからも畑の蝗を捕ってきて与えたら、喜んで食べた。
本来なら鹿やイノシシを捕る猟犬が蝗を捕るのは、情けないようにも思うし、食ってしまうのは猟犬としては失格である。
それでも、猟犬の端くれのとして、害虫駆除の蝗狩りとしてがんばってもらおうとも思う。
ところで、今朝(11/13)今年初めてコウノトリ二羽を見かけた。
いつものクロとの散歩コースで、貯水池の水を落とした干潟にいた。
山のそばにあるその大きな貯水池には、毎年沢山の鴨などの水鳥が来ている。
今年はたぶんさっちゃんだと思うが、友達と一緒に来てくれた。
鴨は犬と一緒にそばを通ると逃げるのだが、コウノトリは飛び立たない。
携帯で写真もとったのだが、霧が濃くてうまくとれていなかった。
一方、クロはあまり水鳥には興味を示さない。
鴨より蝗の方が現実的だと冷めているのだろう。
2016年10月31日月曜日
正倉院展と仏像展
29日日曜、朝早く起きて正倉院展を見に出かけた。
上郡駅8時発の電車だが、乗客は意外に多かった。
姫路で新快速に乗り換えたが、ここも乗客が多く、家内とは同じボックスの席には座れなかった。
これには、訳があって私がトイレが近いので、トイレのそばの席に座ろうとして開いてなかったのである。
結局は、トイレから離れた席に座り、途中から満員で混雑したので行けるわけも無く、拘った意味が無かった。
天気も素晴らしく良く、明石海峡の水面がさわやかに輝いていた。
大阪から環状線に乗り換えて、大和路快速に乗った。
結局奈良駅に着いたのは、11時頃だった。
バスに乗って、東大寺の近くまで行くのだが、渋滞していたので歩いた方が早かったかも知れない。
バスから降りて、まず驚いたのは正倉院展に入場するために並んでいる列。
この間行った兵馬俑展などは大したことの無いように思えたが、待ち時間は客の数に比べては短く予定では40分だった。
団体客は別の入り口から、スムーズに入っているのを見て、職場の見学会に応募した方が良かったかなとも思った。
入場して、すぐに「正倉院のみどころ」という解説会に案内されて、講堂に入った。
そこで、今回展示される品の見所の丁寧な解説を聞いた。
自分の日本史の授業ではさらっと流してしまう、漆胡瓶の作成方法などが詳しく解説されてよく分かった。
と言いつつ、朝早く起きて、しかも渋滞や長い行列で疲れていたので、半分居眠り状態で聞いていた。
解説が終わって展示を見て回るが、見所の展示品の前には人だかり。
自分は、背が少しだけ人よりも高いので、上からのぞき見をしながら、適当にまわっていった。
古文書なども熱心に見ている人もいたが、自分は解読できないのでさっと見て通った。
面白かったのは、「和同開珎」の展示の前で、若い奥さんが「銭形平次の」と言ったのを、その友達が「そう!」と相づちを打っていたことだ。
「それは寛永通宝で、時代が違い過ぎるだろう」と、思わずそばの家内に突っ込んでいた。
たぶん、多くの見物客は、古くて価値ある展示として、時代背景はあまり興味が無いのだろう。
日本史は高校では必修で無いので、多くの若い人の基礎知識は中学校程度なのである。
私はこの正倉院展よりも、ついでに見たなら仏像館の仏像展の方が面白かった。
こんなに沢山の仏像を並べているのを見たことが無い。
兵馬俑の兵士の顔並みに、色々と表情を持った仏像がある。
特に南北朝あたりのが、素朴で人間味を感じた。
本来は信仰の対象になる仏像も、多く並べられると美術品になるのかなとも思った。
外に出てみると行列は短くなり、待ち時間は20分になっていた。
昼食は2時頃にテントで売ってある売店で、柿の葉寿司、焼き鯖寿司、かき混ぜご飯を一つずつ買って二人で分けて食べた。
特に焼き鯖寿司が美味しかったが、私は柿の葉寿司を葉っぱまま食べてみた。
桜餅のように一緒に食べるものでは無いと分かった。
帰りは興福寺の方から駅に向かった。
興福寺は小学校の修学旅行依頼で、こんなに五重塔が大きい物だと再認識した。
猿沢の池で若い人が篠笛の練習をしていたのも趣を感じた。
商店街の店をひやかしながら駅について、家内は土産物を買い。
15時5分の大阪行きの大和路快速に乗った。
ゆっくりと大和路の旅とはいかなかったが、平日などにゆっくりとまわりたいと思わせる旅だった。
正倉院展自体には、少々不満は残ったが、小出しにして客を毎年呼ぶことによって維持できているのかなと思った。
私の同僚の父親は日本史の大学教員で毎年香川から見に来ているそうである。
日本史の教師たる者、本物を見ておくべきなのだろう。
日本史教師の端くれとしてそう思った。
上郡駅8時発の電車だが、乗客は意外に多かった。
姫路で新快速に乗り換えたが、ここも乗客が多く、家内とは同じボックスの席には座れなかった。
これには、訳があって私がトイレが近いので、トイレのそばの席に座ろうとして開いてなかったのである。
結局は、トイレから離れた席に座り、途中から満員で混雑したので行けるわけも無く、拘った意味が無かった。
天気も素晴らしく良く、明石海峡の水面がさわやかに輝いていた。
大阪から環状線に乗り換えて、大和路快速に乗った。
結局奈良駅に着いたのは、11時頃だった。
バスに乗って、東大寺の近くまで行くのだが、渋滞していたので歩いた方が早かったかも知れない。
バスから降りて、まず驚いたのは正倉院展に入場するために並んでいる列。
この間行った兵馬俑展などは大したことの無いように思えたが、待ち時間は客の数に比べては短く予定では40分だった。
団体客は別の入り口から、スムーズに入っているのを見て、職場の見学会に応募した方が良かったかなとも思った。
入場して、すぐに「正倉院のみどころ」という解説会に案内されて、講堂に入った。
そこで、今回展示される品の見所の丁寧な解説を聞いた。
自分の日本史の授業ではさらっと流してしまう、漆胡瓶の作成方法などが詳しく解説されてよく分かった。
と言いつつ、朝早く起きて、しかも渋滞や長い行列で疲れていたので、半分居眠り状態で聞いていた。
解説が終わって展示を見て回るが、見所の展示品の前には人だかり。
自分は、背が少しだけ人よりも高いので、上からのぞき見をしながら、適当にまわっていった。
古文書なども熱心に見ている人もいたが、自分は解読できないのでさっと見て通った。
面白かったのは、「和同開珎」の展示の前で、若い奥さんが「銭形平次の」と言ったのを、その友達が「そう!」と相づちを打っていたことだ。
「それは寛永通宝で、時代が違い過ぎるだろう」と、思わずそばの家内に突っ込んでいた。
たぶん、多くの見物客は、古くて価値ある展示として、時代背景はあまり興味が無いのだろう。
日本史は高校では必修で無いので、多くの若い人の基礎知識は中学校程度なのである。
私はこの正倉院展よりも、ついでに見たなら仏像館の仏像展の方が面白かった。
こんなに沢山の仏像を並べているのを見たことが無い。
兵馬俑の兵士の顔並みに、色々と表情を持った仏像がある。
特に南北朝あたりのが、素朴で人間味を感じた。
本来は信仰の対象になる仏像も、多く並べられると美術品になるのかなとも思った。
外に出てみると行列は短くなり、待ち時間は20分になっていた。
昼食は2時頃にテントで売ってある売店で、柿の葉寿司、焼き鯖寿司、かき混ぜご飯を一つずつ買って二人で分けて食べた。
特に焼き鯖寿司が美味しかったが、私は柿の葉寿司を葉っぱまま食べてみた。
桜餅のように一緒に食べるものでは無いと分かった。
帰りは興福寺の方から駅に向かった。
興福寺は小学校の修学旅行依頼で、こんなに五重塔が大きい物だと再認識した。
猿沢の池で若い人が篠笛の練習をしていたのも趣を感じた。
商店街の店をひやかしながら駅について、家内は土産物を買い。
15時5分の大阪行きの大和路快速に乗った。
ゆっくりと大和路の旅とはいかなかったが、平日などにゆっくりとまわりたいと思わせる旅だった。
正倉院展自体には、少々不満は残ったが、小出しにして客を毎年呼ぶことによって維持できているのかなと思った。
私の同僚の父親は日本史の大学教員で毎年香川から見に来ているそうである。
日本史の教師たる者、本物を見ておくべきなのだろう。
日本史教師の端くれとしてそう思った。
2016年10月29日土曜日
国体一位への祝福
昨年まで、水泳部の練習で一緒に泳いでいた真殿悠生君が、障害者の国体で一位をとった。
彼の国体出場は、赤穂の地元紙にも写真入りで載っていた。
出場前に彼がちょうそ下校するときに見かけて、応援して握手をした。
「パラリンピックまで頑張れよ」というと、「それは無理」と言っていた。
しかし、これでパラリンピックも夢ではない。
同じように学校のプールで泳いでいるが、国体出場では横断幕もかけてもらえない。
高校の総合大会なら近畿大会でも、横断幕をかけてもらえる。
せめて、地元紙に写真入りで載せてもらったのが、励みになったと思う。
普段から彼の指導に当たってくれている末政コーチのことも知ってもらってよかったと思う。
普段なかなか日の目を見ない障害者の競技に対しても、しっかりと載せてくれた地元紙にも感謝している。
去年は一般の水泳大会にも彼は出場してくれた。
私もリレーメンバーの一人として、一緒に泳げて楽しかった。
障害を持つものと、そうでないものが一緒に混じってレースを楽しめることも良いと思う。
追記
真殿君は兵庫県のゆずりは賞の受賞が決まりました。
本当におめでとう!
彼の国体出場は、赤穂の地元紙にも写真入りで載っていた。
出場前に彼がちょうそ下校するときに見かけて、応援して握手をした。
「パラリンピックまで頑張れよ」というと、「それは無理」と言っていた。
しかし、これでパラリンピックも夢ではない。
同じように学校のプールで泳いでいるが、国体出場では横断幕もかけてもらえない。
高校の総合大会なら近畿大会でも、横断幕をかけてもらえる。
せめて、地元紙に写真入りで載せてもらったのが、励みになったと思う。
普段から彼の指導に当たってくれている末政コーチのことも知ってもらってよかったと思う。
普段なかなか日の目を見ない障害者の競技に対しても、しっかりと載せてくれた地元紙にも感謝している。
去年は一般の水泳大会にも彼は出場してくれた。
私もリレーメンバーの一人として、一緒に泳げて楽しかった。
障害を持つものと、そうでないものが一緒に混じってレースを楽しめることも良いと思う。
追記
真殿君は兵庫県のゆずりは賞の受賞が決まりました。
本当におめでとう!
2016年9月25日日曜日
大阪の「始皇帝と大兵馬俑展」
この9月22日の休日を利用して、大阪の兵馬俑展を家内と見に行った。
以前から見に行こうと話していたのだが、この夏は暑くて行く気にならなかった。
多くの人出であることを知っていたので、暑い中並ぶのが嫌だったのである。
家内が早く行けば空いているとネットで調べたので、私は朝5時半に起きて犬の散歩に行った。
帰ってきたら、家内は起きて食事の準備をしてくれているだろうと思っていた。
7時前に家に戻って驚いた、家内は起きていなかった!
結局、大阪には11時頃着く新快速に乗って行かざるを得なくなった。
今まで上郡駅に車を駐めたことは無かったので、駐車場のことは知らなかった。
上郡駅の付近の駐車場には、一日100円というところがある。
駅からは少し離れて、砂利が敷かれただけのものだが、駅まで歩いて5分もかからない。
しかし、雨が降りそうだったので、400円の近い方の無人駐車場に置いた。
因みに駅のすぐそばは500円だが、100円ケチった。
秋の1デイパス3600円也を二人で買って電車に乗り込んだ。
電車は休日なので意外と空いていた。
大阪駅で環状線に乗り換えて、福島駅にから歩いた。
私は大阪はあまり歩いた経験が無く、福島は生まれて二度目だ。
一度目は高校3年の冬に、当時やっていたABCラジオのヤンリクという番組の収録に行った時だ。
当時、「ミキサー完備スタジオ貸します」というキダタローのコーナーがあって、それにバンド仲間と出場した。
その時は出演料など無く、交通費として一人500円もらった。
その時の収録の様子は憶えているが、どんなビルだったかとか周りの風景は全く憶えていない。
なにせ40年前の話である。
ということは、当時年配に思えたキダタローさんは、いくつだったのだろう?
ということで、朝日放送の前を通りながらも、全く初めての場所を歩くのと同じだった。
家内は最初から私に任せるつもりで、スマホを使うこともしない。
駅前で見た地図を頼りに何とか国立国際美術館にたどり着いた。
そこで見た光景は、東京ディズニーランドへ行った時以来の長蛇の列。
最後尾の係員に聞くと、1時間かかるという。
今更帰るわけにはいかないので、我慢して並んだ。
私たちのような田舎者は、並ぶのが大の苦手なのである。
やっと中には入れても、展示を見るところも人で混み合って、思うように見られない。
年配の観客は説明を受けるヘッドホーンをつけて、展示にかぶりついているのである。
それでもそれなりに、兵馬俑の魅力を味わうことができた。
兵士の表情が非常に凜々しいのが印象的だった。
時を経ると、戦争や殺戮の遺産も美術館に展示される作品となる。
それを1500円の入館料を払って、何万もの人が訪れる。
ということは、第二次世界大戦の兵器や写真を長く置いておけば、美術館で将来展示してくれるのだろう。
小さな子供が戦闘馬車や兵器の展示を見てすごいと喜んでいたが、未来の子供も戦車を見て喜ぶのだろう。
と、今は皮肉に感じたりもするが、15万人の人を惹きつける魅力のあることは確かである。
午後1時過ぎに美術館を出て驚いた。
誰も並んでいない。
いったい、ネットの情報は何だったのだ。
昼頃来たら空いているなんて書いてなかったはずだ。
常識的に昼飯時にあわせて訪れれば空いていたのである。
気を取り直して、せっかく大阪に来たのだから、美味いものを食べようと店を探した。
結局、ゆっくりできそうなお好み焼き屋で遅い昼食を摂った。
本当はビールも飲みたかったのだが、この後に電車に乗るので尿意を催さないように我慢した。
関西エリアは一日乗り放題なのだからというので、京都に久しぶりに行くことにした。
新快速は乗り損ねたので、快速で京都まで行った。
家内は今の駅ビルを知らなかったので見せてやりたかったのである。
とにかく私たち夫婦は、車では名古屋や東京に行きながら、電車では殆ど出かけたことが無かった。
途中で、雨に降られたが、駅ビルの空中散歩を楽しんだ。
帰りは新快速に飛び乗り、姫路まで戻って来た。
姫路から相生までの普通に乗り、相生で乗り換えて上郡に戻ってきた。
車で移動している者にとって、この乗り換えは非常に面倒に思えるが、上郡に住んでいる以上仕方ない。
ただ、車よりも良いと思うのは、気楽に時間を過ごせることだ。
家内が「今日は楽しかった」と言ってくれたことが、何よりも良かった。
以前から見に行こうと話していたのだが、この夏は暑くて行く気にならなかった。
多くの人出であることを知っていたので、暑い中並ぶのが嫌だったのである。
家内が早く行けば空いているとネットで調べたので、私は朝5時半に起きて犬の散歩に行った。
帰ってきたら、家内は起きて食事の準備をしてくれているだろうと思っていた。
7時前に家に戻って驚いた、家内は起きていなかった!
結局、大阪には11時頃着く新快速に乗って行かざるを得なくなった。
今まで上郡駅に車を駐めたことは無かったので、駐車場のことは知らなかった。
上郡駅の付近の駐車場には、一日100円というところがある。
駅からは少し離れて、砂利が敷かれただけのものだが、駅まで歩いて5分もかからない。
しかし、雨が降りそうだったので、400円の近い方の無人駐車場に置いた。
因みに駅のすぐそばは500円だが、100円ケチった。
秋の1デイパス3600円也を二人で買って電車に乗り込んだ。
電車は休日なので意外と空いていた。
大阪駅で環状線に乗り換えて、福島駅にから歩いた。
私は大阪はあまり歩いた経験が無く、福島は生まれて二度目だ。
一度目は高校3年の冬に、当時やっていたABCラジオのヤンリクという番組の収録に行った時だ。
当時、「ミキサー完備スタジオ貸します」というキダタローのコーナーがあって、それにバンド仲間と出場した。
その時は出演料など無く、交通費として一人500円もらった。
その時の収録の様子は憶えているが、どんなビルだったかとか周りの風景は全く憶えていない。
なにせ40年前の話である。
ということは、当時年配に思えたキダタローさんは、いくつだったのだろう?
ということで、朝日放送の前を通りながらも、全く初めての場所を歩くのと同じだった。
家内は最初から私に任せるつもりで、スマホを使うこともしない。
駅前で見た地図を頼りに何とか国立国際美術館にたどり着いた。
そこで見た光景は、東京ディズニーランドへ行った時以来の長蛇の列。
最後尾の係員に聞くと、1時間かかるという。
今更帰るわけにはいかないので、我慢して並んだ。
私たちのような田舎者は、並ぶのが大の苦手なのである。
やっと中には入れても、展示を見るところも人で混み合って、思うように見られない。
年配の観客は説明を受けるヘッドホーンをつけて、展示にかぶりついているのである。
それでもそれなりに、兵馬俑の魅力を味わうことができた。
兵士の表情が非常に凜々しいのが印象的だった。
時を経ると、戦争や殺戮の遺産も美術館に展示される作品となる。
それを1500円の入館料を払って、何万もの人が訪れる。
ということは、第二次世界大戦の兵器や写真を長く置いておけば、美術館で将来展示してくれるのだろう。
小さな子供が戦闘馬車や兵器の展示を見てすごいと喜んでいたが、未来の子供も戦車を見て喜ぶのだろう。
と、今は皮肉に感じたりもするが、15万人の人を惹きつける魅力のあることは確かである。
午後1時過ぎに美術館を出て驚いた。
誰も並んでいない。
いったい、ネットの情報は何だったのだ。
昼頃来たら空いているなんて書いてなかったはずだ。
常識的に昼飯時にあわせて訪れれば空いていたのである。
気を取り直して、せっかく大阪に来たのだから、美味いものを食べようと店を探した。
結局、ゆっくりできそうなお好み焼き屋で遅い昼食を摂った。
本当はビールも飲みたかったのだが、この後に電車に乗るので尿意を催さないように我慢した。
関西エリアは一日乗り放題なのだからというので、京都に久しぶりに行くことにした。
新快速は乗り損ねたので、快速で京都まで行った。
家内は今の駅ビルを知らなかったので見せてやりたかったのである。
とにかく私たち夫婦は、車では名古屋や東京に行きながら、電車では殆ど出かけたことが無かった。
途中で、雨に降られたが、駅ビルの空中散歩を楽しんだ。
帰りは新快速に飛び乗り、姫路まで戻って来た。
姫路から相生までの普通に乗り、相生で乗り換えて上郡に戻ってきた。
車で移動している者にとって、この乗り換えは非常に面倒に思えるが、上郡に住んでいる以上仕方ない。
ただ、車よりも良いと思うのは、気楽に時間を過ごせることだ。
家内が「今日は楽しかった」と言ってくれたことが、何よりも良かった。
2016年9月11日日曜日
救助され犬
この金曜の夜(9/9)には、愚犬クロの姿は家にはなかった。
クロは庭の地面に打ち込んだ、鉄杭に太い鎖で繋いでいたのだが、杭ごといなくなった。
このところの雨で庭の土が軟らかくなり、家内は抜けかけたのを打ち込んだようだが、駄目だった。
土曜日の朝、逃げ出してもいつもなら帰ってくるはずなのに、帰ってはいなかった。
私は仕事の関係で出かけねばならず、結局暗くなって家に戻って来ても、やはりクロの姿はなかった。
今まで脱走したのは、多くは庭に設置した簡易の檻の隙間からだった。
檻に入れている時は、鎖を放しているので、鎖が何かに絡まる心配は無かった。
ただ一度だけ、散歩の途中で脱走したが、その時の引き綱は簡単に食いちぎれるもので心配なかった。
今回は頑丈な鎖と杭なので、何かに引っかかったら、首輪が抜けない限り抜け出すのは無理だった。
首輪はもらってきた時のままで、大きくなったクロには少し窮屈なくらいだった。
だから首輪が外れることは、期待できなかった。
山奥で鎖が引っかかったら、もう発見できないと思った。
最悪の事態を考えながら、二階の寝室で何もできず横になっていた。
そうすると暗闇の中で、犬の鳴き声がする。
家から西側の方角の山の方から聞こえる。
今から探しに行く手もあるが、暗くて見つけるのが大変だし、怪我をしてもいけないと思った。
ただ、クロの鳴き声だと思ったが、確証はないので家内には黙っておいた。
そして、クロがいなくなったら、また別の犬をもらってこようと、わざとネットを開いて犬の里親募集を見たりした。
実は家内が散歩させた後に、脱走したので、家内が一番気にかけていた。
家内は土曜の昼間に探しに行ったようだが、見つけることはできなかった。
日曜の朝、しっかりと山を歩ける用意をして出かけた。
昨夜の鳴き声の聞こえる方向に行くとやっぱり鳴き声がする。
猟犬なので、鳴き声と言っても遠吠えのような声である。
ずっと吠え続けていたわけではないので、聞こえたあたりにまず向かった。
そこは隣の村の墓場だった。
そして、墓場の上から聞いていると、墓場の下の竹林の方角から聞こえる。
竹林から声の方角に行くと、竹林のそばの元椎茸栽培小屋のそばでクロの匂いがする。
案の定、クロは竹の根元に鎖や杭が引っかかっえ身動きがとれない状態だった。
以前の経験から、ここで怒ると次逃げた時が大変なので、それほど怒らず連れて帰った。
二日ほど身動きがとれなかった割には元気で、普段の散歩の様子で家に戻った。
檻に入れて餌をやり、鎖は今度は庭のパーゴラの柱に巻き付けた。
もともと飼われていたのが、捨てられて野良犬になったクロは、自由な暮らしを知っている、
その一方、飼われていて餌に不自由をしないことも知っている。
適当に自由を楽しみ、適当な時間に戻って餌をねだるというのが、クロの楽しみだ。
しかし、今の時代に放し飼いは許されない。
鎖をつけたままの自由は命取りにもなる。
クロはそのことを今回の経験で分かったかどうか分からない。
むしろ飼い主の私たちが、それを思い知った。
ただ今回最も心配したのは、クロの生死よりも、他の人に迷惑をかけていないだろうかと言うことだった。。
人の役に立ち、喜ばれている犬というのは、完全に飼い主の管理下にある犬である。
盲導犬も、介助犬も、救助犬も、そして普通のペットも、決められたところ以外で自由に活動することは許されない。
今まで飼っていた犬で、これほど脱走した犬はいない。
それは一度も野良犬を経験していなかったからだ。
クロは野良犬を経験していればこそ、自由を渇望する。
現代人は自由だと言うが、本当に自給自足で生活した経験は無い。
だから、我我現代人は拘束からの自由は求めても、本当の自由は渇望しない。
ただ、自由な遊びの時間の経験があるので、常に憧れてはいる。
クロは野良時代は自活できていたので、それ以上に自由を求めているのだろう。
逆に言えば、小さい頃から管理下に置かれて、自由を知らずにいれば自由に憧れない。
そもそも現代人は、家、町、村(里)に引きこもっているだけなのではないか。
家の中に引きこもっている人だけを特別視しているだけように思えてきた。
クロは庭の地面に打ち込んだ、鉄杭に太い鎖で繋いでいたのだが、杭ごといなくなった。
このところの雨で庭の土が軟らかくなり、家内は抜けかけたのを打ち込んだようだが、駄目だった。
土曜日の朝、逃げ出してもいつもなら帰ってくるはずなのに、帰ってはいなかった。
私は仕事の関係で出かけねばならず、結局暗くなって家に戻って来ても、やはりクロの姿はなかった。
今まで脱走したのは、多くは庭に設置した簡易の檻の隙間からだった。
檻に入れている時は、鎖を放しているので、鎖が何かに絡まる心配は無かった。
ただ一度だけ、散歩の途中で脱走したが、その時の引き綱は簡単に食いちぎれるもので心配なかった。
今回は頑丈な鎖と杭なので、何かに引っかかったら、首輪が抜けない限り抜け出すのは無理だった。
首輪はもらってきた時のままで、大きくなったクロには少し窮屈なくらいだった。
だから首輪が外れることは、期待できなかった。
山奥で鎖が引っかかったら、もう発見できないと思った。
最悪の事態を考えながら、二階の寝室で何もできず横になっていた。
そうすると暗闇の中で、犬の鳴き声がする。
家から西側の方角の山の方から聞こえる。
今から探しに行く手もあるが、暗くて見つけるのが大変だし、怪我をしてもいけないと思った。
ただ、クロの鳴き声だと思ったが、確証はないので家内には黙っておいた。
そして、クロがいなくなったら、また別の犬をもらってこようと、わざとネットを開いて犬の里親募集を見たりした。
実は家内が散歩させた後に、脱走したので、家内が一番気にかけていた。
家内は土曜の昼間に探しに行ったようだが、見つけることはできなかった。
日曜の朝、しっかりと山を歩ける用意をして出かけた。
昨夜の鳴き声の聞こえる方向に行くとやっぱり鳴き声がする。
猟犬なので、鳴き声と言っても遠吠えのような声である。
ずっと吠え続けていたわけではないので、聞こえたあたりにまず向かった。
そこは隣の村の墓場だった。
そして、墓場の上から聞いていると、墓場の下の竹林の方角から聞こえる。
竹林から声の方角に行くと、竹林のそばの元椎茸栽培小屋のそばでクロの匂いがする。
案の定、クロは竹の根元に鎖や杭が引っかかっえ身動きがとれない状態だった。
以前の経験から、ここで怒ると次逃げた時が大変なので、それほど怒らず連れて帰った。
二日ほど身動きがとれなかった割には元気で、普段の散歩の様子で家に戻った。
檻に入れて餌をやり、鎖は今度は庭のパーゴラの柱に巻き付けた。
もともと飼われていたのが、捨てられて野良犬になったクロは、自由な暮らしを知っている、
その一方、飼われていて餌に不自由をしないことも知っている。
適当に自由を楽しみ、適当な時間に戻って餌をねだるというのが、クロの楽しみだ。
しかし、今の時代に放し飼いは許されない。
鎖をつけたままの自由は命取りにもなる。
クロはそのことを今回の経験で分かったかどうか分からない。
むしろ飼い主の私たちが、それを思い知った。
ただ今回最も心配したのは、クロの生死よりも、他の人に迷惑をかけていないだろうかと言うことだった。。
人の役に立ち、喜ばれている犬というのは、完全に飼い主の管理下にある犬である。
盲導犬も、介助犬も、救助犬も、そして普通のペットも、決められたところ以外で自由に活動することは許されない。
今まで飼っていた犬で、これほど脱走した犬はいない。
それは一度も野良犬を経験していなかったからだ。
クロは野良犬を経験していればこそ、自由を渇望する。
現代人は自由だと言うが、本当に自給自足で生活した経験は無い。
だから、我我現代人は拘束からの自由は求めても、本当の自由は渇望しない。
ただ、自由な遊びの時間の経験があるので、常に憧れてはいる。
クロは野良時代は自活できていたので、それ以上に自由を求めているのだろう。
逆に言えば、小さい頃から管理下に置かれて、自由を知らずにいれば自由に憧れない。
そもそも現代人は、家、町、村(里)に引きこもっているだけなのではないか。
家の中に引きこもっている人だけを特別視しているだけように思えてきた。
2016年8月18日木曜日
想い出の向かえと送り
今年の盆は静かな盆になった。
私の母親が体の具合が悪く、兄弟家族が集まるの控えたからである。
いつもは集まって昔の思い出話を肴に、飲んだり歌ったりする。
今年は家にいて、撮りだめていたビデオや写真を見直したり整理した。
ちなみに私は、アナログで撮影したビデオや写真をデジタル化して、いつでもパソコンで見られるようにしている。
つい先日は娘が盆休みで勤務地から戻って来て、二日ほどで帰って行った。
その娘や息子の幼い頃のビデオや写真を見直すと、その頃の忘れていた記憶が甦った。
というより、殆ど忘れているので、新鮮に見えてくる。
こんなに子供の表情や仕草は可愛いものだったのかと思う。
自分の親は既に自分の歳では孫がいたのだが、自分には孫はいない。
まるで、孫を見るように我が子のビデオや写真を見ているのである。
また、無くなった自分の父親も元気な姿で写っていると、父親がまだ生きているような錯覚に陥る。
昨日は赤穂へ行くついでに、子供たちが幼かった頃に住んでいた
大津に立ち寄ってみた。
ビデオや写真は子供たちを中心に撮っていたので、風景はあまり写っていない。
そこでよく家族で歩いた道や、遊んだ公園を写真に撮っておこうと思った。
私たち家族が住んでいた家は、建て替えられてもうそこには無かった。
それでも多くの家はそのままで、懐かしかった。
ただ、明らかに空き家になっていたり、売り家になっているところもあり寂しくもあった。
自分が借りた畑の付近は非常に様変わりしていて、山付近は荒れ地になってしまっていた。基盤整備もできず後継者が無くて、荒れ野になるしかないのだなと思った。
最後に息子をよく連れて行った、新幹線のトンネルを見に行った。
息子はそのトンネルから列車が爆音と爆風を伴って出てくるのを非常に喜んだ。
今もそこは鉄道マニアはよく撮影に来るところだと聞いている。
ちょうど列車が出てきたが、写真は上手く撮れなかった。
いつもの盆より寂しい盆になったが、ビデオや写真を見ることで昔に戻ることができた。
お盆というのはご先祖様が戻ってきて帰るという。
その時に昔は思い出話をしながら、ご先祖様を迎えていたのだろう。
写真やビデオがあまり普及していなかった頃は、思い出話が唯一記憶を甦らせる手段だった。
今はビデオや写真で昔の様子が、今起こっているように甦る。
昔の記憶をそのまま保存したデジタルご先祖様であり、デジタル孫のようなものなのである。
一年中過去の記憶に浸っているわけにはいかないが、こうして盆休みをきっかけに浸るのも良いように思う。
仕事に疲れて乾ききった心を想い出は潤してくれる。
晴れ続きの夏に、夕立が潤してくれたような、そんなビデオと写真だった。
いちようは、盆が開ければ、その記憶をまたハードディスクに封じ込めて、今の仕事を頑張らねばならない。
これからは盆に限らず、普段のお墓参りのつもりで、過去の記憶をひもといても良いようにも思えた。
私の母親が体の具合が悪く、兄弟家族が集まるの控えたからである。
いつもは集まって昔の思い出話を肴に、飲んだり歌ったりする。
今年は家にいて、撮りだめていたビデオや写真を見直したり整理した。
ちなみに私は、アナログで撮影したビデオや写真をデジタル化して、いつでもパソコンで見られるようにしている。
つい先日は娘が盆休みで勤務地から戻って来て、二日ほどで帰って行った。
その娘や息子の幼い頃のビデオや写真を見直すと、その頃の忘れていた記憶が甦った。
というより、殆ど忘れているので、新鮮に見えてくる。
こんなに子供の表情や仕草は可愛いものだったのかと思う。
自分の親は既に自分の歳では孫がいたのだが、自分には孫はいない。
まるで、孫を見るように我が子のビデオや写真を見ているのである。
また、無くなった自分の父親も元気な姿で写っていると、父親がまだ生きているような錯覚に陥る。
昨日は赤穂へ行くついでに、子供たちが幼かった頃に住んでいた
大津に立ち寄ってみた。
ビデオや写真は子供たちを中心に撮っていたので、風景はあまり写っていない。
そこでよく家族で歩いた道や、遊んだ公園を写真に撮っておこうと思った。
私たち家族が住んでいた家は、建て替えられてもうそこには無かった。
それでも多くの家はそのままで、懐かしかった。
ただ、明らかに空き家になっていたり、売り家になっているところもあり寂しくもあった。
最後に息子をよく連れて行った、新幹線のトンネルを見に行った。
息子はそのトンネルから列車が爆音と爆風を伴って出てくるのを非常に喜んだ。
今もそこは鉄道マニアはよく撮影に来るところだと聞いている。
ちょうど列車が出てきたが、写真は上手く撮れなかった。
いつもの盆より寂しい盆になったが、ビデオや写真を見ることで昔に戻ることができた。
お盆というのはご先祖様が戻ってきて帰るという。
その時に昔は思い出話をしながら、ご先祖様を迎えていたのだろう。
写真やビデオがあまり普及していなかった頃は、思い出話が唯一記憶を甦らせる手段だった。
今はビデオや写真で昔の様子が、今起こっているように甦る。
昔の記憶をそのまま保存したデジタルご先祖様であり、デジタル孫のようなものなのである。
一年中過去の記憶に浸っているわけにはいかないが、こうして盆休みをきっかけに浸るのも良いように思う。
仕事に疲れて乾ききった心を想い出は潤してくれる。
晴れ続きの夏に、夕立が潤してくれたような、そんなビデオと写真だった。
いちようは、盆が開ければ、その記憶をまたハードディスクに封じ込めて、今の仕事を頑張らねばならない。
これからは盆に限らず、普段のお墓参りのつもりで、過去の記憶をひもといても良いようにも思えた。
2016年8月4日木曜日
夏の出会いと別れ
英語助手のM先生が今日で去って行く。
しばらくは夫と夫のお母さんと一緒に、東日本を旅行するそうだ。
彼女とは2年前の夏に赴任してから、色々と関わりが多かった。
そもそも彼女も文化人類学を大学で専攻していたので、話がよく通じた。
もともと小学校の3年生まで日本にいて、両親とも日本人だったので日本語は堪能だった。
無理して英語を使わずに、日本語で話ができた。
たまに分からない日本語だけ、英語に翻訳する程度で済んだ。
以前、日本語があまりできない英語助手の先生とは英語でよく話をしたが、とにかく疲れた。
飲み会で一時間話を続けた後は、ぐったりとしたのを憶えている。
だから、なるべく英語では話をしたくない。
それでも英語助手の先生の中には、話し相手がなくて気の毒に思うことがあるので、無理して英語で話をすることもある。
英語の教師以外で英語で話をする人は少ないし、英語の教師は受験指導で忙しいので、暇な私は英語助手の先生とは仲良くなった。
M先生はそんな英語助手の先生の中でも、特別に仲良くなれた。
彼女は非常に社交的だったので、多くの先生と関わりを持っていた。
毎日のように色々な人と、食事会などで楽しんでいる様子だった。
そんな忙しい彼女とは、まずは音楽を通して関わりを持った。
彼女の母親はバイオリニストで彼女も小さい頃練習していたので、一緒にバンドを組んだ。
そして、You Raise Me Upのバイオリンをやってもらった。
彼女はしばらく練習していなかったので、少々嫌がったのだが無理して頼んだ。
そして、熱心に練習して仕上げてくれた。
それをYouTubeにアップしたのだが、彼女には気の毒な作品でもあった。
何回か収録した中でも、あまり彼女にとっては良い作品では無かったからである。
私にとっては、この作品は一生の思い出となった。
そのほか、彼女はスポーツ好きで一緒にジョギングや自転車、SUPもやった。
特に最後に一緒にやったSUPは、彼女から色々教わった。
彼女は小さい頃からカヌーをしていて、バランス感覚が優れていたのだ。
彼女は運動が何でもできたが、水泳だけは私の方が上手だった。
自転車に関しては、上り坂では彼女について行くのは辛かった。
またうちの畑の農作業も何度か手伝ってくれて助かった。
娘と殆ど変わらない年齢だったが、彼女は距離感を感じさせなかった。
誰に対しても物怖じしない彼女の姿勢が、そう感じさせたのだろうと思う。
私に限らず多くの同僚の先生は、彼女がアメリカに戻ることを寂しがった。
これだけ熱心で友好的な英語助手の先生は、かつていなかったからである。
私は何度か日本で仕事を続けるように奨めたが、彼女の夫の仕事の関係でそれは無理だった。
でも若い彼女はいつか戻って来てくれると思っている。
今日も彼女には「またすぐに戻ってこれるね 今度は子供を連れて」と言葉をかけた。
でも、こちらからアメリカへ遊びに行くよとは言えなかった。
日本人がアメリカに留学したがらないのと同じ気持ちなのかも知れない。
2016年7月24日日曜日
ひよこの里親
事の始まりは生物の先生が有精卵を注文したところ、数が多く来てしまった事による。
業者が気を遣って、おまけしてくれた卵が授業で必要以上に卵から孵ってしまった。
事前に「誰かもらってくれる生徒はいないか?」と頼まれていたので、授業で話したら二人応募してきた。
ところがいざあげると、そのうちの一人がもてあまして返してきた。
とりあえず他の里親を探したが見つからず、そのうちだいぶ大きくなってしまった。
返してきた二匹を私が行きがかり上、育てなくてはならなくなり、もらうことになった。
その二匹のうち、一匹はもらう前に生物室で暑さのためか、死んでしまった。
私は一匹だけ餌の持参付きもらうことになった。
ただ、雄だと鳴き出すので、返す約束をしている。
生物の先生は雄の場合には、解剖に用いるということだった。
今、家の庭でピーピーと鳴いている。
小屋を作るのは面倒なので、使っていないストーブのガードフェンスに入れた。
下の隙間をふさぎ、上はガーデン用のテーブルで屋根にした。
どこに置くか迷ったが、愚犬クロの近くに置くことにした。
たまにやる鳥の骨の匂いと同じ匂いなのか、散歩の折に襲いかからんばかりに近づいていく。
そのたびにお尻を蹴って叱ったので、少しは控えるようになった。
しかし、家内によるとひよこを眺めながら、食べたいよといわんばかりに、クークー鳴いているという。
ひよこも大きくなってしまったら、襲うことは無くなると期待している。
散歩していても、カラス以上の大きさの鳥には近寄らないからである。
考えてみれば昔は、よくひよこを売っていた。
祭りの出店もそうだが、学校の近くで色つきのひよこを売っていた。
大概は死なせてしまうので、死んだら翌日交換するという条件もあった。
安いひよこは殆ど雄で、おそらく大きくした家では鳴く前にお腹の中に入っていたのかもしれない。
うちは親が卵や肉を採るために、家の納屋のようなところで飼っていた。
父親はひよこ用の箱を作って、電球で暖めていた。
しかし、その父親も歳をとると、鶏を潰せなくなってしまっていた。
昔潰した鶏がつつきに来る夢を見るからだという。
(※鶏を殺すことを「つぶす」とか「しめる」と言った)
私はとある職業高校の文化祭で、「ひよこちゃんレース」を企画したことがあった。
競馬ののりで楽しんでくれるかなと思ったからである。
生徒はそこそこ楽しんでいたが、問題なのはその後である。
近くの種畜牧場からもらってきたひよこは全部雄である。
何匹か文化祭の客にもらってもらったが、8匹あまり余ってしまた。
とりあえずは親に預かってもらったが、そのうち鳴きだして苦情が出始めた。
それで私が、父親からやり方を教わって、すべて処分する羽目になってしまった。
それ以来、雄鳥は飼っていない。
雌なら殺さなくて済むけれど、家内が大の鶏嫌いだった。
今回も鶏の足を見るのが嫌だと近寄らない。
昔は、まさしく庭の鳥=ニワトリで、多くの家の庭先で飼っていた。
私の村では今でも飼っている人いて、時々遠くで雄鳥の鳴き声もする。
ただ、こんな村でもそういう鳴き声の苦情を警察に通報した人が近所にいる。
だから雄鳥はうちでは飼えない。
父親の子供の頃は七面鳥や軍鶏、ウサギを飼ったりしていたという。
鶏のひよこもチャボを使って孵卵させたりしたという。
そのすべてが生活のためであった。
今は鶏もペットである。
持って帰った一人の女子生徒はバナナと名付けて、一緒に散歩している。
いっぱい動画や写真を撮って楽しんでいるようだ。
私の知り合いの美術教師も、雄鳥と部屋で暮らしていた。
非常にしつけができていて、たまに学校に連れてきていた。
私はペットにする気は無い。
雌鳥ならそのまま飼って卵はいただくつもりだ。
そして退職後はどこかで場所を確保して、鶏を平飼いで飼ってみたいとも思っている。
2016年7月10日日曜日
クロのプチ家出
クロが我が家に来ておおかた一年になる。
先日そのクロが家出した。
以前も庭の檻から何度も脱走を繰り返したが、いつも帰ってきていた。
今回も一度近くまで帰ってきたが、捕まえようとして再び逃げてしまった。
今までに逃げ通せたことは無かった。
その日の朝、散歩の時に、狢を見つけて追うので紐を放したのがいけなかった。
長いリード紐でつないでおいたので、何とか捕まると思ったが、山の中に入ってしまった。
私は一度家に帰って山に入れる格好をして、探しに行った。
鳴き声がして、どこかに引っかかっていることが分かった。
声をかけると鳴き声はやんでしまった。
捕まるのを懼れたのだろう。
以前、紐が切れて脱走したときに捕まえて、こっぴどく叩かれた経験がそうさせたのだとだと思う。
山に入って探してみたが鳴き声がしなくなったので、見当が付かなくなった。
家に帰って家内と車でもう一度来たときには、もう紐から放れていたのか鳴き声はもう全く聞こえなかった。
クロはリード紐くらい食いちぎれることは分かっていた。
腹が空いたら帰ってくると思っていたが、案の定夕方になったら近くまで戻って来た。
近所の奥さんがわざわざ知らせに来てくれたのだが、家内が息子にに頼んだのが悪かった。
一番の適役は、普段クロをかわいがっている家内なのである。
当然自分には無理だが、クロは息子から呼び寄せ用のジャーキーだけもらって逃げてしまった。
私も駆けつけて、田んぼの土手にいたので、挟み撃ちにしたが、田んぼの中を走って逃げた。
必死で跡を追いかけたが、今回は全く追いつけなかった。
その後息子に追わせて、自転車を取りに戻ったが、自転車で戻ったときには姿が見えない。
家に戻って携帯電話で連絡を取ったら、高田台の池だと言うので、軽トラで出かけた。
ようやく見つけて溝に入っているのを見つけて挟み撃ちにしようとしたが、ワンと吠えて逃げていった。
高田台の坂道を上り、崖の森に入ってしまったので諦めた。
考えてみれば前回紐が切れたときに捕まえられたのは、真剣に逃げていなかったと言うことだったのだ。
切れた紐が付いていたこともあるが、本気で逃げる気では無かったことも確かである。
それを思いっきり、叩いたことが悪かったようだ。
クロとしては遊んだつもりだったのだろう。
今回は本気で逃げている。
猟犬は訓練した後に放さなければいけないことは分かっていた。
訓練もさることながら、クロとは信頼関係が築けてなかったように思う。
それはなんといっても遊んでやってなかったからだろう。
力尽くで従わせようとしたところもあった。
以前飼っていた犬とクロとの違いは、遊んでやっていたかどうかが大きいと思う。
シェルティーの雌犬モモは常にそばにいようとしたのも、かわいがってもらえたからだろう。
ただ、雄犬はじゃれ方が半端ではないので、かわいがることも面倒だった。
せめて遊んでやることを考えれば良かったと思う。
そう思いながら、帰ってこないクロを一晩待った。
翌朝、クロは戻って来て檻の中にいた。
さすがににいつもいる縁台には座れなかったのだろう。
そこには家内が餌を入れて置いていたのだが、食べてもいなかった。
その日は餌だけやって散歩には連れて行かなかった。
家内は「散歩に連れて行ってやって」といったが、「是々非々で行く」といっていかなかった。
今回は当然叩かなかったし、怒りもしなかった。
そんな不気味な態度の私に対して、上目遣いで見ながらクロは一日しおらしく檻の中にいた。
うっかりと檻の扉に隙間を空けていたのにも関わらず、外出して戻って来ても逃げてはいなかった。
夕方は散歩に出たそうにしたが連れて行かず、翌日から普通の散歩に戻った。
戻ったクロにはハーネスは着いていたが、引き綱の留め金は着いていなかった。
これは人が外さないと無理だと思う。
誰かが引っかかっているクロを外してくれたのかもしれない。
それにしてもまるまる一日の脱走劇ではあった。
思う存分外を逃げ回ったのは良いが、結局帰らざるを得なかった。
殴られる覚悟はしていたと見えて、私の姿におびえていた。
今回は殴れなかった。
もし、昨日捕まえていたなら思いっきり殴っていただろう。
それがクロにはよく分かっていたのだと思う。
いわゆるほとぼりの冷めたところで戻って来て、反省の意志を示すことまでした。
私はクロは二三日家出して、やせ細って帰ってくるかと思ったが、それほど外の世界を望んではいなかったようだ。
食い物をもらえて安心して眠れるところが、どれほどありがたいか元野良犬のクロは知っているのだろう。
逆に言えば出て行って帰ってこないということは、外で生きていく術を知っているか、一緒にいるより、のたれ死んだ方がましというわけだ。
世間でよくある離婚や家出というのもそういうことかなと思ったりした。
自分たち夫婦がやってこれたのは、子育てという共同作業があったからだ。
昔、鳩を飼っていたが、鳩は子供がいると必ず小屋に戻ってきた。
その子育ての中で夫婦ができあがってきたのだろうと思う。
とにかく、今回の逃走劇は色々考えさせられたが、クロが他の人や物に危害を及ぼさなくて良かったと思う。
クロが危害を加えそうな雰囲気では無いので、周りも騒がずにいてくれているのだろう。
それなりに地域に馴染んでいることも確かである。
クロともこれを機会に新たな関係を築かなくてはいけない。
もう力尽くではだめだと分かったからだ。
そしてこのことは人との関わりも遊びの部分が、必要なのだということも学んだ。
先日そのクロが家出した。
以前も庭の檻から何度も脱走を繰り返したが、いつも帰ってきていた。
今回も一度近くまで帰ってきたが、捕まえようとして再び逃げてしまった。
今までに逃げ通せたことは無かった。
その日の朝、散歩の時に、狢を見つけて追うので紐を放したのがいけなかった。
長いリード紐でつないでおいたので、何とか捕まると思ったが、山の中に入ってしまった。
私は一度家に帰って山に入れる格好をして、探しに行った。
鳴き声がして、どこかに引っかかっていることが分かった。
声をかけると鳴き声はやんでしまった。
捕まるのを懼れたのだろう。
以前、紐が切れて脱走したときに捕まえて、こっぴどく叩かれた経験がそうさせたのだとだと思う。
山に入って探してみたが鳴き声がしなくなったので、見当が付かなくなった。
家に帰って家内と車でもう一度来たときには、もう紐から放れていたのか鳴き声はもう全く聞こえなかった。
クロはリード紐くらい食いちぎれることは分かっていた。
腹が空いたら帰ってくると思っていたが、案の定夕方になったら近くまで戻って来た。
近所の奥さんがわざわざ知らせに来てくれたのだが、家内が息子にに頼んだのが悪かった。
一番の適役は、普段クロをかわいがっている家内なのである。
当然自分には無理だが、クロは息子から呼び寄せ用のジャーキーだけもらって逃げてしまった。
私も駆けつけて、田んぼの土手にいたので、挟み撃ちにしたが、田んぼの中を走って逃げた。
必死で跡を追いかけたが、今回は全く追いつけなかった。
その後息子に追わせて、自転車を取りに戻ったが、自転車で戻ったときには姿が見えない。
家に戻って携帯電話で連絡を取ったら、高田台の池だと言うので、軽トラで出かけた。
ようやく見つけて溝に入っているのを見つけて挟み撃ちにしようとしたが、ワンと吠えて逃げていった。
高田台の坂道を上り、崖の森に入ってしまったので諦めた。
考えてみれば前回紐が切れたときに捕まえられたのは、真剣に逃げていなかったと言うことだったのだ。
切れた紐が付いていたこともあるが、本気で逃げる気では無かったことも確かである。
それを思いっきり、叩いたことが悪かったようだ。
クロとしては遊んだつもりだったのだろう。
今回は本気で逃げている。
猟犬は訓練した後に放さなければいけないことは分かっていた。
訓練もさることながら、クロとは信頼関係が築けてなかったように思う。
それはなんといっても遊んでやってなかったからだろう。
力尽くで従わせようとしたところもあった。
以前飼っていた犬とクロとの違いは、遊んでやっていたかどうかが大きいと思う。
シェルティーの雌犬モモは常にそばにいようとしたのも、かわいがってもらえたからだろう。
ただ、雄犬はじゃれ方が半端ではないので、かわいがることも面倒だった。
せめて遊んでやることを考えれば良かったと思う。
そう思いながら、帰ってこないクロを一晩待った。
翌朝、クロは戻って来て檻の中にいた。
さすがににいつもいる縁台には座れなかったのだろう。
そこには家内が餌を入れて置いていたのだが、食べてもいなかった。
その日は餌だけやって散歩には連れて行かなかった。
家内は「散歩に連れて行ってやって」といったが、「是々非々で行く」といっていかなかった。
今回は当然叩かなかったし、怒りもしなかった。
そんな不気味な態度の私に対して、上目遣いで見ながらクロは一日しおらしく檻の中にいた。
うっかりと檻の扉に隙間を空けていたのにも関わらず、外出して戻って来ても逃げてはいなかった。
夕方は散歩に出たそうにしたが連れて行かず、翌日から普通の散歩に戻った。
戻ったクロにはハーネスは着いていたが、引き綱の留め金は着いていなかった。
これは人が外さないと無理だと思う。
誰かが引っかかっているクロを外してくれたのかもしれない。
それにしてもまるまる一日の脱走劇ではあった。
思う存分外を逃げ回ったのは良いが、結局帰らざるを得なかった。
殴られる覚悟はしていたと見えて、私の姿におびえていた。
今回は殴れなかった。
もし、昨日捕まえていたなら思いっきり殴っていただろう。
それがクロにはよく分かっていたのだと思う。
いわゆるほとぼりの冷めたところで戻って来て、反省の意志を示すことまでした。
私はクロは二三日家出して、やせ細って帰ってくるかと思ったが、それほど外の世界を望んではいなかったようだ。
食い物をもらえて安心して眠れるところが、どれほどありがたいか元野良犬のクロは知っているのだろう。
逆に言えば出て行って帰ってこないということは、外で生きていく術を知っているか、一緒にいるより、のたれ死んだ方がましというわけだ。
世間でよくある離婚や家出というのもそういうことかなと思ったりした。
自分たち夫婦がやってこれたのは、子育てという共同作業があったからだ。
昔、鳩を飼っていたが、鳩は子供がいると必ず小屋に戻ってきた。
その子育ての中で夫婦ができあがってきたのだろうと思う。
とにかく、今回の逃走劇は色々考えさせられたが、クロが他の人や物に危害を及ぼさなくて良かったと思う。
クロが危害を加えそうな雰囲気では無いので、周りも騒がずにいてくれているのだろう。
それなりに地域に馴染んでいることも確かである。
クロともこれを機会に新たな関係を築かなくてはいけない。
もう力尽くではだめだと分かったからだ。
そしてこのことは人との関わりも遊びの部分が、必要なのだということも学んだ。
2016年6月19日日曜日
キラーストレスに思う
昨夜と今晩(6/18 19)のNHKの特集番組の「キラーストレス」は非常に興味深いものだった。
ストレスが病気や死に繋がることは漠然とは意識していた。
しかし、そのメカニズムまでは分からなかった。
ストレスが体や脳に与える影響がいかに大きいかを説明してくれていた。
過剰なストレスにさらされている人が癌や心筋梗塞になりやすいことも分かった。
以前職場で現役で心筋梗塞や癌で亡くなった人は過剰にストレスを抱えていたことも確かである。
ストレスは自ら招くものや、人から与えられたりするものもある。
問題なのはそれをはっきりと意識できないことだ。
ライオンの攻撃ははっきりと意識できるが、満員電車のストレスは毎日のことで意識しづらい。
管理職との人間関係もそうである。そもそも仕事のために我慢せねばならないことなのである。
なまじっか慣れるとか上手くやれるとか思わない方が良いのかもしれない。
脅威を与えるライオンと同等と見做して対処方法を考えねばならないように思えた。
戦うときには戦う。逃げるときには逃げなければならない。
特に長のついた役職などは、使いこなせない権威という武器を手に入れてしまった人もいる。
(どこかの知事を指しているのではありませんが・・・)
役職としての権力を手に入れたのは良いが。まともに使いこなせない場合は始末が悪い。
しかも、虎の威を借る狐に過ぎなかったのに、虎になったと勘違いをしている場合もある。
結局は別の虎の狐になったに過ぎないのだが・・・。
上役で無くても同僚との関係でストレスもあるので、すべて上役が悪いというわけでも無い。
場合によって自分が相手のストレスの原因になっているとも限らない。
ストレスへの対処法として、運動や瞑想、楽しいことを考えたり行ったりしたら良いという。
自分が鬱に近い状態になったときに、できていなかったのは運動だったように思う。
今は仕事が忙しくても何とか午前中の運動の時間を確保している。
楽しみは一時に比べれば減ったが、SUPという新たな楽しみもできた。
座禅は以前自己流でした経験があるのだが、これから取り入れてみようかなと思う。
将来や過去のことを気に病むことが大きなストレスとなるようなので、なるべく気持ちを入れ込むことは避けた方が良いだろう。
食物連鎖の頂点に立つ人間には、自らの社会が生んだキラーストレスという脅威にさらされている。
その餌食にならないように気をつけよう・・・
ストレスが病気や死に繋がることは漠然とは意識していた。
しかし、そのメカニズムまでは分からなかった。
ストレスが体や脳に与える影響がいかに大きいかを説明してくれていた。
過剰なストレスにさらされている人が癌や心筋梗塞になりやすいことも分かった。
以前職場で現役で心筋梗塞や癌で亡くなった人は過剰にストレスを抱えていたことも確かである。
ストレスは自ら招くものや、人から与えられたりするものもある。
問題なのはそれをはっきりと意識できないことだ。
ライオンの攻撃ははっきりと意識できるが、満員電車のストレスは毎日のことで意識しづらい。
管理職との人間関係もそうである。そもそも仕事のために我慢せねばならないことなのである。
なまじっか慣れるとか上手くやれるとか思わない方が良いのかもしれない。
脅威を与えるライオンと同等と見做して対処方法を考えねばならないように思えた。
戦うときには戦う。逃げるときには逃げなければならない。
特に長のついた役職などは、使いこなせない権威という武器を手に入れてしまった人もいる。
(どこかの知事を指しているのではありませんが・・・)
役職としての権力を手に入れたのは良いが。まともに使いこなせない場合は始末が悪い。
しかも、虎の威を借る狐に過ぎなかったのに、虎になったと勘違いをしている場合もある。
結局は別の虎の狐になったに過ぎないのだが・・・。
上役で無くても同僚との関係でストレスもあるので、すべて上役が悪いというわけでも無い。
場合によって自分が相手のストレスの原因になっているとも限らない。
ストレスへの対処法として、運動や瞑想、楽しいことを考えたり行ったりしたら良いという。
自分が鬱に近い状態になったときに、できていなかったのは運動だったように思う。
今は仕事が忙しくても何とか午前中の運動の時間を確保している。
楽しみは一時に比べれば減ったが、SUPという新たな楽しみもできた。
座禅は以前自己流でした経験があるのだが、これから取り入れてみようかなと思う。
将来や過去のことを気に病むことが大きなストレスとなるようなので、なるべく気持ちを入れ込むことは避けた方が良いだろう。
食物連鎖の頂点に立つ人間には、自らの社会が生んだキラーストレスという脅威にさらされている。
その餌食にならないように気をつけよう・・・
2016年6月4日土曜日
自家製のヨーグルトと納豆
シャトルシェフでヨーグルトを作った。
ネットではR1の作り方がのっていたので、それと同じ方法でPA-3を作ることにした。
PA-3は体内のプリン体を減らしてくれるというので、毎日1本飲んでいた。
この製品はドリンクタイプで112ml程なのに、安くても100円もして負担を感じていた。
シャトルシェフを買ったのを良い機会に、家内に作ってもらうことにした。
作り方はシャトルシェフの鍋で無調整の牛乳1.6Lを45℃にし、そこに砂糖を40gとPA-3を一本入れる。
鍋をセットした後は、うちではそのまま12時間放置した。
(ネットでは温度が下がると、鍋を温めるように書いてあった)
12時間後には見事とろみが出てきていて、それをタッパに入れて冷蔵庫にしまった。
しゃぼしゃぼのヨーグルトになるのではないかと心配したが、ドリンクタイプを使ったのにしっかりとした固さだった。
それ以降は、普段食べているプレーンヨーグルトと同じように食べることができた。
実は定時制高校の仕事は夕方に小腹が空くので、炭水化物の少ない食品を探していたのでもってこいの食品である。
職場にもチアシード入りのPA-3を保冷容器に入れて食べた。
売っているPA-3のドリンクタイプは甘いし量も少ないが、自家製はちょっと酸っぱいが量はふんだんにあった。
家内は最初自分は通風では無いので必要ないと言っていたが、結局朝の普通のヨーグルト代用で一緒に食べた。
計算すれば普通のプレーンヨーグルトより安くついている。
次は豆乳でチャレンジするつもりである。
自家製の黒大豆が沢山有るので材料費の節約になるからである。
次に納豆を作ることにした。
家で黒大豆を作って保存していたので、それを用いることにした。
これもネットで調べたのだが、お湯にタッパを浮かせるやり方は面倒であり、そこで自分なりに考えた。
分量はネットと同じ乾燥大豆200g、これを12時間水につけてふやかす。
家内に頼んで圧力鍋で40分蒸してもらい、火を止めて30分ほど蒸らし、それをタッパの容器に入れた。
その後はネットでは市販の納豆を10粒と書いてあったが、面倒なので1パックをお湯にといてタッパの大豆に混ぜ込んだ。
そして、タッパは密閉せず軽く蓋をしてシャトルシェフの鍋の中に入れた。
そして手で熱いくらいの温度のお湯を別のタッパの容器に同じように密閉せずに入れる。
その湯たんぽ代わりの容器を、シャトルシェフに入れた大豆入りのタッパの上にのせて、蓋をして保温した。
ヨーグルトは鍋に直に作ったので放置したが、納豆はタッパの容器を使ったので、上にのせた湯たんぽタッパを途中で温めた。
温めるのは簡単で、中のお湯を給湯器から出る適当なお湯と交換するだけである。
お湯に浮かべていないので、湯たんぽタッパの温度は高めにした。
タッパを密閉しなかったのは湿気が必要かなと思っただけである。
12時間後に見事黒大豆納豆が糸を引いた。
そのまま冷蔵庫に保存して、翌日の朝に見てみると表面が白くなっている。
一粒食べると見事なおいしさ。
朝は買っていた納豆があったのでそちらを食べて、昼に食べた。
市販の納豆のたれと辛子を混ぜて食べたが、大きな粒が口の中で溶けて本当に美味しい。
口の中で溶けるのが、煮豆と違うところである。
少々多めに食べても、胃にもたれず満腹感もあった。
これならつまみや小腹が空いたときの軽食にもなりそうだ。
まさしくシャトルシェフは我が家に食の革命を起こしつつある。
ネットではR1の作り方がのっていたので、それと同じ方法でPA-3を作ることにした。
PA-3は体内のプリン体を減らしてくれるというので、毎日1本飲んでいた。
この製品はドリンクタイプで112ml程なのに、安くても100円もして負担を感じていた。
シャトルシェフを買ったのを良い機会に、家内に作ってもらうことにした。
作り方はシャトルシェフの鍋で無調整の牛乳1.6Lを45℃にし、そこに砂糖を40gとPA-3を一本入れる。
鍋をセットした後は、うちではそのまま12時間放置した。
(ネットでは温度が下がると、鍋を温めるように書いてあった)
12時間後には見事とろみが出てきていて、それをタッパに入れて冷蔵庫にしまった。
しゃぼしゃぼのヨーグルトになるのではないかと心配したが、ドリンクタイプを使ったのにしっかりとした固さだった。
それ以降は、普段食べているプレーンヨーグルトと同じように食べることができた。
実は定時制高校の仕事は夕方に小腹が空くので、炭水化物の少ない食品を探していたのでもってこいの食品である。
職場にもチアシード入りのPA-3を保冷容器に入れて食べた。
売っているPA-3のドリンクタイプは甘いし量も少ないが、自家製はちょっと酸っぱいが量はふんだんにあった。
家内は最初自分は通風では無いので必要ないと言っていたが、結局朝の普通のヨーグルト代用で一緒に食べた。
計算すれば普通のプレーンヨーグルトより安くついている。
次は豆乳でチャレンジするつもりである。
自家製の黒大豆が沢山有るので材料費の節約になるからである。
次に納豆を作ることにした。
家で黒大豆を作って保存していたので、それを用いることにした。
これもネットで調べたのだが、お湯にタッパを浮かせるやり方は面倒であり、そこで自分なりに考えた。
分量はネットと同じ乾燥大豆200g、これを12時間水につけてふやかす。
家内に頼んで圧力鍋で40分蒸してもらい、火を止めて30分ほど蒸らし、それをタッパの容器に入れた。
その後はネットでは市販の納豆を10粒と書いてあったが、面倒なので1パックをお湯にといてタッパの大豆に混ぜ込んだ。
そして、タッパは密閉せず軽く蓋をしてシャトルシェフの鍋の中に入れた。
そして手で熱いくらいの温度のお湯を別のタッパの容器に同じように密閉せずに入れる。
その湯たんぽ代わりの容器を、シャトルシェフに入れた大豆入りのタッパの上にのせて、蓋をして保温した。
ヨーグルトは鍋に直に作ったので放置したが、納豆はタッパの容器を使ったので、上にのせた湯たんぽタッパを途中で温めた。
温めるのは簡単で、中のお湯を給湯器から出る適当なお湯と交換するだけである。
お湯に浮かべていないので、湯たんぽタッパの温度は高めにした。
タッパを密閉しなかったのは湿気が必要かなと思っただけである。
12時間後に見事黒大豆納豆が糸を引いた。
そのまま冷蔵庫に保存して、翌日の朝に見てみると表面が白くなっている。
一粒食べると見事なおいしさ。
朝は買っていた納豆があったのでそちらを食べて、昼に食べた。
市販の納豆のたれと辛子を混ぜて食べたが、大きな粒が口の中で溶けて本当に美味しい。
口の中で溶けるのが、煮豆と違うところである。
少々多めに食べても、胃にもたれず満腹感もあった。
これならつまみや小腹が空いたときの軽食にもなりそうだ。
まさしくシャトルシェフは我が家に食の革命を起こしつつある。
2016年5月30日月曜日
らっきょうと梅
この土曜日にらっきょうを掘って処理してつけた。
今年のらっきょうは植えてから二年目の物で小ぶりである。
らっきょうは世話のいらない作物で、草も抜かずにほったらかしでできた。
ただ、掘り起こすときに草が絡まって邪魔にはなった。
まずは植え付けたらっきょうの半分の量だけ掘ることにした。
掘ったらっきょうをそのまま持って帰り、まずは茎を切り落とした。
この後の根の部分と茎に近い頭の部分を食感を考えながら、包丁で切り起こさねばならない。
ここからは家内が中心になる。
二人で庭に腰掛けてその作業を黙々とこなした。
その後は家内が水洗いをしたり、湯通しをしたりして瓶につけ込んだ。
らっきょうは非常に体に良いことが「ためしてガッテン」でやっていたので、作付けを増やしていこうと思っている。
生でも酢味噌で食べたが、あまり辛くなく美味しかったので少し食べ過ぎた。
日曜日には庭になった梅の実を採った。
昨年までは梅の実は殆ど採れなかった。
採れなかったと言うよりも、とっても仕方なかった。
というのは毛虫が多量に発生したので、殺虫剤を散布したので実を利用しようと思わなかったからだ。
今年は春先に根元に多量の消石灰を撒いていた。
害虫は冬の間は根元の土の中にいるそうなので、それを駆除する目的だった。
その甲斐あって、毛虫は多少は発生したが、去年までのように食い荒らされることは無かった。
もう一つ梅の成育に役立ったのは、愚犬クロである。
クロがやってくる雀などに吠えて、幾分追っ払ってくれたので、花がついばまれることが少なかった。
梅は手の届くところは手で取っていたのだが、そのうち面倒くさくなった
そこで木の下に百円ショップで買った小さな寒冷紗を敷いて、棒でたたき落とすことにした。
梅は四方に飛び散ったので、あまり寒冷紗は役に立たなかった。
あちこちに落ちて、草花の下になったのを拾うのも手間だった。
クロが落ちた青梅をかじるので、叱りながら拾った。
直径30cm高さ40cmほどの収穫籠一杯になるほど採れた。
採った梅のへたの処理をするのは、私の仕事になってしまった。
竹串でへそのごまをとるように、へたの部分をほじくっていった。
私の要望はかりかり漬けなのだが、家内に後は任せることにした。
自家製のらっきょうや梅は売っている物とはひと味違うし、農薬や薬品処理をしていないので体に良い。
手間と言えば大きな手間ではあるが、夫婦での共同作業としてやれば負担は少ない。
庭先でやるのも楽しいし、夜なべ仕事でテレビを見ながらしてもいい
この日曜はシャトルシェフも買ったので、ヨーグルトや納豆にも挑戦しようと思っている。
こちらは経済効果も期待できるようにも思えるのだが、成功するやいかに・・・
今年のらっきょうは植えてから二年目の物で小ぶりである。
らっきょうは世話のいらない作物で、草も抜かずにほったらかしでできた。
ただ、掘り起こすときに草が絡まって邪魔にはなった。
まずは植え付けたらっきょうの半分の量だけ掘ることにした。
掘ったらっきょうをそのまま持って帰り、まずは茎を切り落とした。
この後の根の部分と茎に近い頭の部分を食感を考えながら、包丁で切り起こさねばならない。
ここからは家内が中心になる。
二人で庭に腰掛けてその作業を黙々とこなした。
その後は家内が水洗いをしたり、湯通しをしたりして瓶につけ込んだ。
らっきょうは非常に体に良いことが「ためしてガッテン」でやっていたので、作付けを増やしていこうと思っている。
生でも酢味噌で食べたが、あまり辛くなく美味しかったので少し食べ過ぎた。
日曜日には庭になった梅の実を採った。
昨年までは梅の実は殆ど採れなかった。
採れなかったと言うよりも、とっても仕方なかった。
というのは毛虫が多量に発生したので、殺虫剤を散布したので実を利用しようと思わなかったからだ。
今年は春先に根元に多量の消石灰を撒いていた。
害虫は冬の間は根元の土の中にいるそうなので、それを駆除する目的だった。
その甲斐あって、毛虫は多少は発生したが、去年までのように食い荒らされることは無かった。
もう一つ梅の成育に役立ったのは、愚犬クロである。
クロがやってくる雀などに吠えて、幾分追っ払ってくれたので、花がついばまれることが少なかった。
梅は手の届くところは手で取っていたのだが、そのうち面倒くさくなった
そこで木の下に百円ショップで買った小さな寒冷紗を敷いて、棒でたたき落とすことにした。
梅は四方に飛び散ったので、あまり寒冷紗は役に立たなかった。
あちこちに落ちて、草花の下になったのを拾うのも手間だった。
クロが落ちた青梅をかじるので、叱りながら拾った。
直径30cm高さ40cmほどの収穫籠一杯になるほど採れた。
採った梅のへたの処理をするのは、私の仕事になってしまった。
竹串でへそのごまをとるように、へたの部分をほじくっていった。
私の要望はかりかり漬けなのだが、家内に後は任せることにした。
自家製のらっきょうや梅は売っている物とはひと味違うし、農薬や薬品処理をしていないので体に良い。
手間と言えば大きな手間ではあるが、夫婦での共同作業としてやれば負担は少ない。
庭先でやるのも楽しいし、夜なべ仕事でテレビを見ながらしてもいい
この日曜はシャトルシェフも買ったので、ヨーグルトや納豆にも挑戦しようと思っている。
こちらは経済効果も期待できるようにも思えるのだが、成功するやいかに・・・
2016年5月29日日曜日
SUPならぬSDP
昨日は二度目のSUPの練習を行った。
初めての練習は海で、波があったので二度目は川で波の無いところを選んだ。
天気は曇りで気温は低めであったが、風が無いので問題なかった。
私の住む村から少し離れた千種川の河原に、軽トラで水際まで降りていった。
家からは水泳パンツをはいてきて、上は半袖のウェットスーツを着た。
このスタイルはまだ水温が低いときの水泳練習のスタイルである。
違うのは今回はマリンシューズを履いたことだ。
また足とボードを結ぶゴム紐(リーシュコード)は、犬の首輪を足首につけ、カナビラに結んで外れないようにした。
水に浮かべて座って漕いで向こう側の中州に着くのは簡単だった。
ところがいざ立ってボードの乗ると、バランスを崩して何度も転倒した。
水温は少し低かったが、アウトプールの練習よりましだった。
前回は波があるから難しいと思っていたが、波が無くても立つのが精一杯。
少しでもバランスを崩すと簡単に転倒してしまった。
まるで氷の上に立っているようだった。
ボードが水面を簡単に滑っていく感じである。
川底は石ころだらけだったので、思いっきり手を打ちつけてしまった。
立つ練習だけでは面白くないので、まずは膝をついての正座スタイルで漕いだ。
自分は海に関してはあまり恐怖心は無いのだが、川は何となく不気味な感じで落ちたくは無かった。
水の流れはたいしたことは無いのだが、時々浅瀬があってそこにフィンが接触した。
方向転換は一方を前にかくより、後ろにかいた方が簡単にできた。
膝立ちしたりしても波は無いので、問題なく進めた。
正座スタイルは時間が経つと膝が痛くなる。
そこでボードの上であぐらをかいた。
ボードはゴム製でおしりは暖かく感じた。
ただ時折水が上がってくるのでお尻を冷やされた。
漕ぐのに余裕が出てくると、川の様子を見ることができるようになった。
殆どが石ころだらけの河原だが、一カ所に砂地を見つけた。
そこにボードを寄せて、そこで立つ練習を繰り返した。
わざとバランスを崩したりして、ボードになれるようにした。
勢い余って、頭から水中に落ちて紙が砂まみれにもなった。
立つことに慣れてきたが、漕いですすむことはまだ自信が無かった。
立って漕ぐ練習は、波穏やかな日に遠浅の海岸でしようと思った。
簡単にできると思っていたSUPは、スキー以上に難しい。
スキーは足の向きで滑ることを止められるが、ボードが足の力だけでは止まらない。
しかも、重心のかけ方でボードが簡単に動いてしまうのである。
ただ座って漕ぐことは大して難しくは無い。
お尻が濡れることを我慢すれば、ゴムボートより扱いやすいと思う。
ゴムボートは風の抵抗や、水の流れの影響を受けやすいからだ。
ボードなら水の流れに逆らっても進んで行けた。
今回はStand Up Paddleではなくて、Sit Down Paddleになってしまった。
SUPではなくてSDPなら日本海でも漕ぎ出せるような気になってきた。
しかし目標は、あくまでも尻をぬらさないで漕いでいけるSUPである。
初めての練習は海で、波があったので二度目は川で波の無いところを選んだ。
天気は曇りで気温は低めであったが、風が無いので問題なかった。
私の住む村から少し離れた千種川の河原に、軽トラで水際まで降りていった。
家からは水泳パンツをはいてきて、上は半袖のウェットスーツを着た。
このスタイルはまだ水温が低いときの水泳練習のスタイルである。
違うのは今回はマリンシューズを履いたことだ。
また足とボードを結ぶゴム紐(リーシュコード)は、犬の首輪を足首につけ、カナビラに結んで外れないようにした。
水に浮かべて座って漕いで向こう側の中州に着くのは簡単だった。
ところがいざ立ってボードの乗ると、バランスを崩して何度も転倒した。
水温は少し低かったが、アウトプールの練習よりましだった。
前回は波があるから難しいと思っていたが、波が無くても立つのが精一杯。
少しでもバランスを崩すと簡単に転倒してしまった。
まるで氷の上に立っているようだった。
ボードが水面を簡単に滑っていく感じである。
川底は石ころだらけだったので、思いっきり手を打ちつけてしまった。
立つ練習だけでは面白くないので、まずは膝をついての正座スタイルで漕いだ。
自分は海に関してはあまり恐怖心は無いのだが、川は何となく不気味な感じで落ちたくは無かった。
水の流れはたいしたことは無いのだが、時々浅瀬があってそこにフィンが接触した。
方向転換は一方を前にかくより、後ろにかいた方が簡単にできた。
膝立ちしたりしても波は無いので、問題なく進めた。
正座スタイルは時間が経つと膝が痛くなる。
そこでボードの上であぐらをかいた。
ボードはゴム製でおしりは暖かく感じた。
ただ時折水が上がってくるのでお尻を冷やされた。
漕ぐのに余裕が出てくると、川の様子を見ることができるようになった。
殆どが石ころだらけの河原だが、一カ所に砂地を見つけた。
そこにボードを寄せて、そこで立つ練習を繰り返した。
わざとバランスを崩したりして、ボードになれるようにした。
勢い余って、頭から水中に落ちて紙が砂まみれにもなった。
立つことに慣れてきたが、漕いですすむことはまだ自信が無かった。
立って漕ぐ練習は、波穏やかな日に遠浅の海岸でしようと思った。
簡単にできると思っていたSUPは、スキー以上に難しい。
スキーは足の向きで滑ることを止められるが、ボードが足の力だけでは止まらない。
しかも、重心のかけ方でボードが簡単に動いてしまうのである。
ただ座って漕ぐことは大して難しくは無い。
お尻が濡れることを我慢すれば、ゴムボートより扱いやすいと思う。
ゴムボートは風の抵抗や、水の流れの影響を受けやすいからだ。
ボードなら水の流れに逆らっても進んで行けた。
今回はStand Up Paddleではなくて、Sit Down Paddleになってしまった。
SUPではなくてSDPなら日本海でも漕ぎ出せるような気になってきた。
しかし目標は、あくまでも尻をぬらさないで漕いでいけるSUPである。
横浜線と根岸線
先週の日曜日、葉山に住む弟(次男)の嫁の父親の葬儀のために、私の母親の代理として神奈川県の逗子に出かけた。
午後一時に告別式だというのに、家内は相生駅の朝一番の新幹線で行くという。
新幹線駅の新横浜から横須賀線の逗子駅までは1時間程で行くことができる。
関東の土地勘の無い家内は、時間を多めに見積もったようだ。
私はもともと横浜市緑区長津田に住んでいたことがあるので、時間が余ることは分かっていた。
せっかく逗子に行くのだから、少し観光もしてみようと思って、家内の言うに任せた。
家内と新幹線に乗るのは三回目で、一回目は新婚旅行の時に新大阪まで、二回目は子供を連れて結婚式に千葉まで行った時である。
つまり、二人きりで乗るのは二回目であり、家内は20年あまりぶりに新幹線に乗る。
がらがらのこだま号の車中でコンビニで買ったパンや、家内の母親に作ってもらった弁当を朝食にとった。
朝早かったせいか、車中では家内は殆ど睡眠、私はスマホで音楽を聴いていた。
新大阪でひかり号に乗り換えて、富士川の鉄橋を渡る頃に綺麗な富士山が見えた。
頂付近にまだ筋状に雪が残っており、こういう富士山を見るのは初めてだった。
寝ている家内を起こしたが、車中から初めて富士山が見えたと喜んでいた。
新横浜で降りてから、家内は完全にお上りさん状態になり、私に頼り切りになった。
私とても、横浜線を使って鎌倉に行った経験は一度しか無く、私鉄を使う方が多かった。
どこで時間をつぶすか迷ったが、結局切符を横浜までしかかってなかったので山下公園でつぶそうと思った。
根岸線の関内駅から歩いて港までは結構距離があった。
感じは神戸に似ているが、町を歩く人たちが日曜ということもあるが、ゆったりとしていた。
また、ジョギングをする人が多いのにも驚かされた。
山下公園の付近の港では、カッターレースが行われていて、沢山の人だかりである。
これで屋台が多く出ていれば、まさしく相生のペーロンである。
会場付近は屋台では無く、出場チームのタープテントで一杯だった。
日差しは強かったが、風が心地よかった。
ベンチに座って見学しながら、食べ残していたおにぎりを二人で食べた。
カッターレースは面白いのだが、海がまるでどぶ川の色で、自分も加わりたいとは思わなかった。
山下公園はちょうどバラの花が綺麗に咲いていたし、百合の花も綺麗だった。
少し長居しすぎて、東京に単身赴任している弟(三男)と、待ち合わせの逗子駅に着くが30分も遅れてしまった。
私は根岸線の電車がこんなにゆっくりと大船駅まで行くとは思っていたなったからだ。
小田和正が歌っている根岸線、一度だけかつて次男の弟が住んでいた磯子に来たことがあった。
大船駅から横須賀線に乗りかえると、鎌倉へ向かう観光客が一杯だった。
逗子駅では本当は弟と昼食をとる予定だったが、そのまま葬儀場の長運寺にタクシーで向かった。
昼食もとらないまま、一時からの告別式に参加した。
予定では骨揚げまで付き合う筈では無かったが、済んで戻ってから帰ることになった。
斎場で待つ間、ビールとおつまみ、そしておにぎりが出された。
初めての故人の関係者と挨拶や話をした。
告別式でも不思議に思ったのだが、地元のお寺で葬儀をしていながら、近隣の人は殆ど参列が無かった。
聞くところによると、享年81歳の故人は古くから住んでいながら、地元の人とのつきあいはあまり無かったそうだ。
葬儀を済ませて、弟と逗子駅付近の寿司屋で遅い昼食をとった。
こぢんまりとしたその寿司屋には、大江千里のサイン色紙が飾ってあった。
弟は京急で帰るので逗子駅で別れて、我々夫婦は今度は本線で横浜に向かった。
周りの風景は自分がいた約35年前と全く違ってはいたが、線路は当然昔のママである。
横浜駅から横浜線に乗り換える時には、そのまま長津田のアパートに戻るような錯覚に陥った。
その頃そばにはいなかった家内に、思わずそうもらしてしまった。
横浜駅は一度だけ大学のゼミに呼ばれて講義をした時の思い出のホームでもある。
その時に呼んでくれた先輩ももう大学を退官されたことを、数年前はがきで知った。
新横浜駅からはやはり自由席は混んでいて、夫婦別々の席に座った。
夕暮れの富士山のシルエットが美しかった。
何度か富士山は見たことがあるのだが、タイムスリップした私の心にぴったりの風景だった。
名古屋駅からは夫婦一緒に座って姫路駅で降り、相生駅にとまるこだまに乗り換えて、相生駅に降りた。
新幹線に往復6時間以上も乗っていた日帰り旅行はこうして終わった。
葬式でも無い限り、こんな無理な旅行はしない。
家内にとっては滅多に無くて、しかも多くが初めての経験。
私にとっては、昔に戻るセンチメンタルジャーニーでもあった。
翌日もその旅の余韻が心に残り、日常の気持ちに戻すことがなかなかできなかった。
小田和正のMY Hometownを一日口ずさんでいた。
午後一時に告別式だというのに、家内は相生駅の朝一番の新幹線で行くという。
新幹線駅の新横浜から横須賀線の逗子駅までは1時間程で行くことができる。
関東の土地勘の無い家内は、時間を多めに見積もったようだ。
私はもともと横浜市緑区長津田に住んでいたことがあるので、時間が余ることは分かっていた。
せっかく逗子に行くのだから、少し観光もしてみようと思って、家内の言うに任せた。
家内と新幹線に乗るのは三回目で、一回目は新婚旅行の時に新大阪まで、二回目は子供を連れて結婚式に千葉まで行った時である。
つまり、二人きりで乗るのは二回目であり、家内は20年あまりぶりに新幹線に乗る。
がらがらのこだま号の車中でコンビニで買ったパンや、家内の母親に作ってもらった弁当を朝食にとった。
朝早かったせいか、車中では家内は殆ど睡眠、私はスマホで音楽を聴いていた。
新大阪でひかり号に乗り換えて、富士川の鉄橋を渡る頃に綺麗な富士山が見えた。
頂付近にまだ筋状に雪が残っており、こういう富士山を見るのは初めてだった。
寝ている家内を起こしたが、車中から初めて富士山が見えたと喜んでいた。
新横浜で降りてから、家内は完全にお上りさん状態になり、私に頼り切りになった。
私とても、横浜線を使って鎌倉に行った経験は一度しか無く、私鉄を使う方が多かった。
どこで時間をつぶすか迷ったが、結局切符を横浜までしかかってなかったので山下公園でつぶそうと思った。
根岸線の関内駅から歩いて港までは結構距離があった。
感じは神戸に似ているが、町を歩く人たちが日曜ということもあるが、ゆったりとしていた。
また、ジョギングをする人が多いのにも驚かされた。
山下公園の付近の港では、カッターレースが行われていて、沢山の人だかりである。
これで屋台が多く出ていれば、まさしく相生のペーロンである。
会場付近は屋台では無く、出場チームのタープテントで一杯だった。
日差しは強かったが、風が心地よかった。
ベンチに座って見学しながら、食べ残していたおにぎりを二人で食べた。
カッターレースは面白いのだが、海がまるでどぶ川の色で、自分も加わりたいとは思わなかった。
山下公園はちょうどバラの花が綺麗に咲いていたし、百合の花も綺麗だった。
少し長居しすぎて、東京に単身赴任している弟(三男)と、待ち合わせの逗子駅に着くが30分も遅れてしまった。
私は根岸線の電車がこんなにゆっくりと大船駅まで行くとは思っていたなったからだ。
小田和正が歌っている根岸線、一度だけかつて次男の弟が住んでいた磯子に来たことがあった。
大船駅から横須賀線に乗りかえると、鎌倉へ向かう観光客が一杯だった。
逗子駅では本当は弟と昼食をとる予定だったが、そのまま葬儀場の長運寺にタクシーで向かった。
昼食もとらないまま、一時からの告別式に参加した。
予定では骨揚げまで付き合う筈では無かったが、済んで戻ってから帰ることになった。
斎場で待つ間、ビールとおつまみ、そしておにぎりが出された。
初めての故人の関係者と挨拶や話をした。
告別式でも不思議に思ったのだが、地元のお寺で葬儀をしていながら、近隣の人は殆ど参列が無かった。
聞くところによると、享年81歳の故人は古くから住んでいながら、地元の人とのつきあいはあまり無かったそうだ。
葬儀を済ませて、弟と逗子駅付近の寿司屋で遅い昼食をとった。
こぢんまりとしたその寿司屋には、大江千里のサイン色紙が飾ってあった。
弟は京急で帰るので逗子駅で別れて、我々夫婦は今度は本線で横浜に向かった。
周りの風景は自分がいた約35年前と全く違ってはいたが、線路は当然昔のママである。
横浜駅から横浜線に乗り換える時には、そのまま長津田のアパートに戻るような錯覚に陥った。
その頃そばにはいなかった家内に、思わずそうもらしてしまった。
横浜駅は一度だけ大学のゼミに呼ばれて講義をした時の思い出のホームでもある。
その時に呼んでくれた先輩ももう大学を退官されたことを、数年前はがきで知った。
新横浜駅からはやはり自由席は混んでいて、夫婦別々の席に座った。
夕暮れの富士山のシルエットが美しかった。
何度か富士山は見たことがあるのだが、タイムスリップした私の心にぴったりの風景だった。
名古屋駅からは夫婦一緒に座って姫路駅で降り、相生駅にとまるこだまに乗り換えて、相生駅に降りた。
新幹線に往復6時間以上も乗っていた日帰り旅行はこうして終わった。
葬式でも無い限り、こんな無理な旅行はしない。
家内にとっては滅多に無くて、しかも多くが初めての経験。
私にとっては、昔に戻るセンチメンタルジャーニーでもあった。
翌日もその旅の余韻が心に残り、日常の気持ちに戻すことがなかなかできなかった。
小田和正のMY Hometownを一日口ずさんでいた。
2016年5月6日金曜日
教え子の演奏会
この5月4日は前任の全日制の吹奏楽部が定期演奏会を開いた。
2日に昨年度まで授業を担当していた吹奏楽部の生徒たちが、わざわざ定時制の職員室に来た。
小さな紙切れの演奏会の案内を手渡され、是非聴きに来て欲しいという。
ちょうど連休の半ばで、あまり気が進まなかったので、「行けたら行く」と答えた。
そうすると、吹奏楽部の活動に熱心な定時制の先生から
「行けたら行くと言って、ほとんど来る人はいない。」といわれ。
苦笑しながら「絶対に行きます。」と答えてしまった。
当日は天気の良い行楽日和だったが、約束通り演奏会に出かけた。
演奏会場の受付には顧問の先生がプログラムを配ってくれていた。
最初は一階の会場に入って知り合いを探した。
定時制の知り合いは別の知人と一緒に来ていたので遠慮した。
全日制の知り合いはご夫婦できていたので、こっそり後ろに座った。
せっかく夫婦水入らずできているので、声をかけるのも無粋と思い直し、二階の席に移った。
二階席は殆ど人はいなくて、写真屋さんと撮影係の顧問の先生と一緒になった。
一階席も以前担任していた生徒に誘われてきた時よりも、お客さんの数は少ないように感じた。
一部の課題曲や自由曲は練習の成果がしっかりと出て、なかなか完成度が高いと思った。
特に和太鼓などの和楽器を取り入れた「斐伊川流るるクシナダ姫の涙」は心に残った。
二部以降はお客さんを楽しませる趣向が色々と取り入れられていた。
新入部員があまり多くないので、少し迫力には欠けてはいたが、楽しませてくれた。
今回私を誘ってくれたTさんの役者のような奮闘ぶりには、頭が下がる思いだった。
また個人としての高い力量をポピュラーな曲で聴かせてくれたのも良かった。
演奏を聴きながら、以前聴いたときと違う感情を覚えた。
自分が授業を担当した生徒の演奏を聴くのは、今年で最後と思ったからだ。
教室で見かける時とは違う演奏姿を、見られることが良かったのである。
これはある意味、我が子の活躍ぶりを見に来た親と似ているのかもしれない。
演奏が終わって帰り際に、かつての教え子から声をかけられたり、かけたりした。
こういう機会は、もう定時制に移ったので無くなるのだと思うと寂しくも感じた。
もし全日制にそのままいたなら、分からなかっただろうと思う。
教え子たちが教室を離れて活躍する姿を見ることの嬉しさ。
これは私たちが教壇を離れてYouTubeで演奏を視てもらっているのと共通する。
知った人の演奏は、その人の気持ちがよく伝わってくるものなのである。
技術的な完成度とは違う人間くさい温もりや人柄と言うべきなのか
音楽にはそんな大切な表現力もあるのだと気がつかされた。
誘ってくれたり、声をかけてくれた教え子たちに感謝したいと思う。
2日に昨年度まで授業を担当していた吹奏楽部の生徒たちが、わざわざ定時制の職員室に来た。
小さな紙切れの演奏会の案内を手渡され、是非聴きに来て欲しいという。
ちょうど連休の半ばで、あまり気が進まなかったので、「行けたら行く」と答えた。
そうすると、吹奏楽部の活動に熱心な定時制の先生から
「行けたら行くと言って、ほとんど来る人はいない。」といわれ。
苦笑しながら「絶対に行きます。」と答えてしまった。
当日は天気の良い行楽日和だったが、約束通り演奏会に出かけた。
演奏会場の受付には顧問の先生がプログラムを配ってくれていた。
最初は一階の会場に入って知り合いを探した。
定時制の知り合いは別の知人と一緒に来ていたので遠慮した。
全日制の知り合いはご夫婦できていたので、こっそり後ろに座った。
せっかく夫婦水入らずできているので、声をかけるのも無粋と思い直し、二階の席に移った。
二階席は殆ど人はいなくて、写真屋さんと撮影係の顧問の先生と一緒になった。
一階席も以前担任していた生徒に誘われてきた時よりも、お客さんの数は少ないように感じた。
一部の課題曲や自由曲は練習の成果がしっかりと出て、なかなか完成度が高いと思った。
特に和太鼓などの和楽器を取り入れた「斐伊川流るるクシナダ姫の涙」は心に残った。
二部以降はお客さんを楽しませる趣向が色々と取り入れられていた。
新入部員があまり多くないので、少し迫力には欠けてはいたが、楽しませてくれた。
今回私を誘ってくれたTさんの役者のような奮闘ぶりには、頭が下がる思いだった。
また個人としての高い力量をポピュラーな曲で聴かせてくれたのも良かった。
演奏を聴きながら、以前聴いたときと違う感情を覚えた。
自分が授業を担当した生徒の演奏を聴くのは、今年で最後と思ったからだ。
教室で見かける時とは違う演奏姿を、見られることが良かったのである。
これはある意味、我が子の活躍ぶりを見に来た親と似ているのかもしれない。
演奏が終わって帰り際に、かつての教え子から声をかけられたり、かけたりした。
こういう機会は、もう定時制に移ったので無くなるのだと思うと寂しくも感じた。
もし全日制にそのままいたなら、分からなかっただろうと思う。
教え子たちが教室を離れて活躍する姿を見ることの嬉しさ。
これは私たちが教壇を離れてYouTubeで演奏を視てもらっているのと共通する。
知った人の演奏は、その人の気持ちがよく伝わってくるものなのである。
技術的な完成度とは違う人間くさい温もりや人柄と言うべきなのか
音楽にはそんな大切な表現力もあるのだと気がつかされた。
誘ってくれたり、声をかけてくれた教え子たちに感謝したいと思う。
2016年5月1日日曜日
半農半師
定時制の高校に勤めだしてから一月が経とうとしている。
私の勤める定時制は13時20分から21時50分までの勤務である。
当初、自宅にいる午前中は、自分の研究に時間を費やすつもりでいた。
ところが今は、季候も良く農作業も多い時期でもある。
私は農地を借りて畑をしているのだが、地主さんが亡くなり、畑も多く作ることになった。
そうすると、自ずから畑仕事が多くなった。
実のところは、私は部屋に引き籠もるのは子供の頃から苦手である。
人類学という学問に取り憑かれたのも、フィールドワークが魅力的であったからである。
今は出版という目的があるので、文献にひたすらあたっているのだが、早く終えてフィールドに戻りたい。
全日制校勤務の時には、週末には部活動か農作業をしていた。
今は平日でも朝6時に起き,、犬のジョグ散歩をしっかりして、午前中は農作業か読書をしている。
農繁期なので週末は晴れたら農作業一筋である。
田舎にいても、私くらいの年齢で、農作業をしている人はあまりいない。
若くて農作業をしている人は、外国からの研修生であったりする。
同じ上郡で兼業農家の先生が、私が定時制に異動することを知って言った。
「いよいよ、本格的に農業をするのですね。」
私ははっと、「そうだ!その道があった」と思った。
本当は異動に際しては農業のことは全く念頭に無かった。
しかし、運命のいたずらか、異動するとどういうわけか、農業に傾いてしまっていた。
飯が食えなくて、持ち出しの多い研究よりも、農業の方がまだ見返りがあるのも確かだ。
この際は開き直って、晴耕雨読ということにしても良さそうな気もする。
近所の農家は車よりも高いと農機を使って、やむなく田畑を守っている。
私はおいしくて安全な作物を親・家族や知り合いに食べてもらうために農業をしている。
そして、昼間肉体労働をしている生徒たちとも、共感し合うためにも農業が必要な気がする。
ただ、生徒たちの多くは室内労働で、私が一番黒いのはちょっと恥ずかしい。
私の勤める定時制は13時20分から21時50分までの勤務である。
当初、自宅にいる午前中は、自分の研究に時間を費やすつもりでいた。
ところが今は、季候も良く農作業も多い時期でもある。
私は農地を借りて畑をしているのだが、地主さんが亡くなり、畑も多く作ることになった。
そうすると、自ずから畑仕事が多くなった。
実のところは、私は部屋に引き籠もるのは子供の頃から苦手である。
人類学という学問に取り憑かれたのも、フィールドワークが魅力的であったからである。
今は出版という目的があるので、文献にひたすらあたっているのだが、早く終えてフィールドに戻りたい。
全日制校勤務の時には、週末には部活動か農作業をしていた。
今は平日でも朝6時に起き,、犬のジョグ散歩をしっかりして、午前中は農作業か読書をしている。
農繁期なので週末は晴れたら農作業一筋である。
田舎にいても、私くらいの年齢で、農作業をしている人はあまりいない。
若くて農作業をしている人は、外国からの研修生であったりする。
同じ上郡で兼業農家の先生が、私が定時制に異動することを知って言った。
「いよいよ、本格的に農業をするのですね。」
私ははっと、「そうだ!その道があった」と思った。
本当は異動に際しては農業のことは全く念頭に無かった。
しかし、運命のいたずらか、異動するとどういうわけか、農業に傾いてしまっていた。
飯が食えなくて、持ち出しの多い研究よりも、農業の方がまだ見返りがあるのも確かだ。
この際は開き直って、晴耕雨読ということにしても良さそうな気もする。
近所の農家は車よりも高いと農機を使って、やむなく田畑を守っている。
私はおいしくて安全な作物を親・家族や知り合いに食べてもらうために農業をしている。
そして、昼間肉体労働をしている生徒たちとも、共感し合うためにも農業が必要な気がする。
ただ、生徒たちの多くは室内労働で、私が一番黒いのはちょっと恥ずかしい。
2016年4月24日日曜日
夢は夜開く
定時制の学校に換わって、二週間が経った。
まだまだ落ち着いた状況では無い。
一日のペースをどのように組み立てていくかも、よく分かっていない。
今まで午前中を自由に使えたのは休日だけだった。
今は毎日自由に使える。
飼い犬との散歩も、休日と同じコースでしっかり歩ける。
畑仕事もすることができる。
当然読書や、仮眠をとることさえできる。
その一方、夕方から始まる授業は、空腹との戦いでもある。
帰宅してから飲食しようと、夕方は腹もたせしかを食べていない。
眠くは無いのだが、夜も10時頃になると頭が働かなくなる。
同じ敷地内にあった定時制の高校の様子を全く知らなかった。
夜遅く体育館で、スポーツする様子は不思議な感じがした。
全日制の生徒は、暗くなって帰宅することを心配した。
ここでは女子生徒でも、夜の10時でも自転車で帰宅する。
自由な服装、ピアスにも慣れた。
体育の授業で、ピアスを外すことから始まるのも驚いた。
多くの生徒がアルバイトなどの仕事をしてから来る。
私も農作業を午前中に頑張ったときは、夕方は体が重かった。
きっと力仕事をしている生徒は辛いこともあるだろう。
登校拒否の増えた中で、こうして頑張る生徒をみると励まされる。
生徒の服装や言動にはまだ違和感を感じているが、きっとこれが普通に思えてくるのだろう。
繊維産業などが若者に二交代勤務を課していた頃の産物である定時制。
赤穂の繊維産業は消えてしまったのに、定時制だけは残った。
学業に専念できる方が確かに良いのかもしれない。
ただ、世の中の仕事に触れながら、学業の大切さを知ることも良い勉強だろう。
生徒に課した自己紹介の書面では、夢を多くは書かれていなかった。
夢を持っていても書けないのか、書かないのかは分からない。
夢を持つことさえも忘れているはずは無いと思う。
ただ、今を精一杯生きるしか無いことも事実だろう。
私自身、教師になって初めての経験をしている。
望もうが望むまいが、退職は目の前である。
その時こうありたい夢を、今実現するためにがんばっている。
生徒と同じように、夢への可能性は、この夜のがんばりにある。
将来の夢は、夜開く扉をもっている。
まだまだ落ち着いた状況では無い。
一日のペースをどのように組み立てていくかも、よく分かっていない。
今まで午前中を自由に使えたのは休日だけだった。
今は毎日自由に使える。
飼い犬との散歩も、休日と同じコースでしっかり歩ける。
畑仕事もすることができる。
当然読書や、仮眠をとることさえできる。
その一方、夕方から始まる授業は、空腹との戦いでもある。
帰宅してから飲食しようと、夕方は腹もたせしかを食べていない。
眠くは無いのだが、夜も10時頃になると頭が働かなくなる。
同じ敷地内にあった定時制の高校の様子を全く知らなかった。
夜遅く体育館で、スポーツする様子は不思議な感じがした。
全日制の生徒は、暗くなって帰宅することを心配した。
ここでは女子生徒でも、夜の10時でも自転車で帰宅する。
自由な服装、ピアスにも慣れた。
体育の授業で、ピアスを外すことから始まるのも驚いた。
多くの生徒がアルバイトなどの仕事をしてから来る。
私も農作業を午前中に頑張ったときは、夕方は体が重かった。
きっと力仕事をしている生徒は辛いこともあるだろう。
登校拒否の増えた中で、こうして頑張る生徒をみると励まされる。
生徒の服装や言動にはまだ違和感を感じているが、きっとこれが普通に思えてくるのだろう。
繊維産業などが若者に二交代勤務を課していた頃の産物である定時制。
赤穂の繊維産業は消えてしまったのに、定時制だけは残った。
学業に専念できる方が確かに良いのかもしれない。
ただ、世の中の仕事に触れながら、学業の大切さを知ることも良い勉強だろう。
生徒に課した自己紹介の書面では、夢を多くは書かれていなかった。
夢を持っていても書けないのか、書かないのかは分からない。
夢を持つことさえも忘れているはずは無いと思う。
ただ、今を精一杯生きるしか無いことも事実だろう。
私自身、教師になって初めての経験をしている。
望もうが望むまいが、退職は目の前である。
その時こうありたい夢を、今実現するためにがんばっている。
生徒と同じように、夢への可能性は、この夜のがんばりにある。
将来の夢は、夜開く扉をもっている。
2016年4月17日日曜日
離任式のYou Raise Me Up
4月8日の午後に前任校(といっても同じ敷地内)の離任式があった。
私は以前から離任式で歌を歌うことが、何度かあった。
肢体不自由の特別支援学校では、生徒と一緒に歌った「風になりたい」をギター1本で歌った。
総合科学の大学附属高校では、オリジナルの「心の絆」という曲を、録音とともに歌った。
前任校では、離任式にふさわしい曲を探して練習していたが、間に合わなかった。
そこで、文化祭で他の職員と体育館で歌い、昨年はYou Tubeでも流したYou Raise Me Upを歌うことにした。
アカペラで、間奏はハーモニカを使うことにした。
ハーモニカはチューニングの意味も持っていた。
当日、私はいつでもまた話はできるので、思い出の曲を歌いますといきなり歌い出した。
文化祭の時と違い、厳粛で静まりかえっていた。
途中のハーモニカの間奏もとちって、生徒が笑うのも見えたが、そのまま続けた。
そして、歌い終わったとき、温かい拍手をもらった。
離任式というのでは無くて、一つのステージのようだった。
後で聞いたのだが、司会の先生が号令をかけるのを忘れてしまったようだった。
その先生には気の毒だったけど、自然にわき起こった拍手が何よりもの「礼」に思えた。
実は歌の前に、一言言葉を添えようかと考えていた。
何故定時制に移ったかとか、この歌にどんな気持ちを込めようとしたかとか。
他の先生との時間配分も考えて、ただ歌うことにした。
だから、異動の理由は前回のブログで書いたので、この歌への気持ちを今回書くことにした。
実は私は、55歳の免許更新をせずに教師から別の職業に転職するつもりでいた。
しかし、転職は果たせず、免許更新を行い続けることになった。
そんな自分でも、生徒たちは慕ってくれたし、逆に励まされた。
生徒のそばにいられれば、自分は何とか教師を続けられると思った。
本当は生徒のそばで、支えて上げるのが教師の務めであるけれど、教師も生徒によって支えられていると心から思った。
だから、2年前の文化祭ステージでも「懸命にがんばる君たちを見て逆に励まされた」と前置きして歌った。
今回も君たちに励まされて、次の学校でもがんばっていく勇気をもらったと言い添えたい。
新入生や2年生とは関わりがあまりないのだけれど、3年生はきっと私の気持ちを汲んでくれるだろう。
最後の花束贈呈で、生徒会執行部の生徒と肩を抱き合ってそれを確かめることができた。
私は以前から離任式で歌を歌うことが、何度かあった。
肢体不自由の特別支援学校では、生徒と一緒に歌った「風になりたい」をギター1本で歌った。
総合科学の大学附属高校では、オリジナルの「心の絆」という曲を、録音とともに歌った。
前任校では、離任式にふさわしい曲を探して練習していたが、間に合わなかった。
そこで、文化祭で他の職員と体育館で歌い、昨年はYou Tubeでも流したYou Raise Me Upを歌うことにした。
アカペラで、間奏はハーモニカを使うことにした。
ハーモニカはチューニングの意味も持っていた。
当日、私はいつでもまた話はできるので、思い出の曲を歌いますといきなり歌い出した。
文化祭の時と違い、厳粛で静まりかえっていた。
途中のハーモニカの間奏もとちって、生徒が笑うのも見えたが、そのまま続けた。
そして、歌い終わったとき、温かい拍手をもらった。
離任式というのでは無くて、一つのステージのようだった。
後で聞いたのだが、司会の先生が号令をかけるのを忘れてしまったようだった。
その先生には気の毒だったけど、自然にわき起こった拍手が何よりもの「礼」に思えた。
実は歌の前に、一言言葉を添えようかと考えていた。
何故定時制に移ったかとか、この歌にどんな気持ちを込めようとしたかとか。
他の先生との時間配分も考えて、ただ歌うことにした。
だから、異動の理由は前回のブログで書いたので、この歌への気持ちを今回書くことにした。
実は私は、55歳の免許更新をせずに教師から別の職業に転職するつもりでいた。
しかし、転職は果たせず、免許更新を行い続けることになった。
そんな自分でも、生徒たちは慕ってくれたし、逆に励まされた。
生徒のそばにいられれば、自分は何とか教師を続けられると思った。
本当は生徒のそばで、支えて上げるのが教師の務めであるけれど、教師も生徒によって支えられていると心から思った。
だから、2年前の文化祭ステージでも「懸命にがんばる君たちを見て逆に励まされた」と前置きして歌った。
今回も君たちに励まされて、次の学校でもがんばっていく勇気をもらったと言い添えたい。
新入生や2年生とは関わりがあまりないのだけれど、3年生はきっと私の気持ちを汲んでくれるだろう。
最後の花束贈呈で、生徒会執行部の生徒と肩を抱き合ってそれを確かめることができた。
2016年4月2日土曜日
最後の異動
この4月1日付で定時制に異動となった。
私も今年57歳になるので、最後の異動ということになるだろう。
ただ、定時制は前任校と同じ敷地内にある。
いわば、お隣に引っ越しということだが、意外と隣づきあいは少なかった。
もともと、定時制か通信制への異動を希望していた。
一番の目的は研究にもう少し時間を費やしたいこと。
二番目の目的は、年老いた母親の万一に備えること。
三番目の目的は、本来は一番であるべきなのだが、苦学生の力になることである。
定時制・通信制を希望しながら全日制に赴任したのは、学校が親元の近くなので二番目の目的が叶うこと。
そして、もう一度進学指導やクラブ指導もやってみたいとも思った。
また、55歳の免許更新をせずに転職するのが、本来の目的でもあった。
つまり、担任した生徒と一緒に巣立つのが夢だったのである。
しかし、それは果たすことが出来なった。
私は初任が知的障害の特別支援学校、当時は養護学校と言っていた。
二校目が職業高校、三校目が肢体不自由の特別支援学校、四校目は農業科もある全日の総合高校。
五校目は総合科学の進学校、六校目は知的障害の特別支援のマンモス学校、そして七校目が全日の普通高校だった。
正式採用されて、今回の定時制で八校目と言うことになる。
これに加えて、臨時常勤講師として、姫路の中学校で英語、赤穂の中学で数学、尼崎の普通高校で現代社会を教えた経験を持つ。
そうすると、学校で教えた経験は11校ということになる。
また、特別支援学校では小学部の児童も指導しているので、小中高はすべて経験した。
経験できなかったのは、通信制、聴覚、視覚の特別支援学校などである。
多くの学校を経験していることはあまり自慢にはならない。
それだけ同じ学校に長くいなかったことだからだ。
さらに私の場合は途中の二年間、兵庫教育大の大学院に研修に行っている。
だから、平均すれば今までは一校あたり4年ほどしかいなかったことになる。
異動の理由は様々だが、研究を続けるために教師になりながら、それができなかったことも大きい。
単に、時間が無かったということでは無く、例えばクラブの指導などにのめり込んだこともある。
教師の仕事に夢中になって、研究なんかどうでも良いように思えたときもあった。
ただ、理想と現実はいつも乖離したままであった。
だから、本質は青い鳥症候群なのかもしれない。
今回は希望が叶ったことは嬉しいが、その責任の重大さも感じている。
3月まで関わった生徒には、それなりに思いはある。
ただ、どちらかというと裏方やサポートの仕事が多くて、十分に関わることができなかったのが心残りでもある。
本来はクラブや学年集団の中で、もっと親密に関わることができれば良かった。
この全日制は初任校とおなじ最短3年であり、担任が1年間のみというのはかつては無かった。
ただ、担任した生徒と一緒に北海道に修学旅行へ行けたのは、楽しい思い出となった。
礼儀正しくまじめな生徒が多かった。
私は最後の1年間は、毎朝の校門立ち番で、おはようの挨拶をし続けた。
すべての生徒ではないが、返事を返してくれると嬉しかった。
今度は定時制働きながら、そばで応援したい。
そして、私の生き様も視てもらいたいとも思っている。
現役生とも、卒業生も顔を見せてくれたら、うれしいんだけどね!
私も今年57歳になるので、最後の異動ということになるだろう。
ただ、定時制は前任校と同じ敷地内にある。
いわば、お隣に引っ越しということだが、意外と隣づきあいは少なかった。
もともと、定時制か通信制への異動を希望していた。
一番の目的は研究にもう少し時間を費やしたいこと。
二番目の目的は、年老いた母親の万一に備えること。
三番目の目的は、本来は一番であるべきなのだが、苦学生の力になることである。
定時制・通信制を希望しながら全日制に赴任したのは、学校が親元の近くなので二番目の目的が叶うこと。
そして、もう一度進学指導やクラブ指導もやってみたいとも思った。
また、55歳の免許更新をせずに転職するのが、本来の目的でもあった。
つまり、担任した生徒と一緒に巣立つのが夢だったのである。
しかし、それは果たすことが出来なった。
私は初任が知的障害の特別支援学校、当時は養護学校と言っていた。
二校目が職業高校、三校目が肢体不自由の特別支援学校、四校目は農業科もある全日の総合高校。
五校目は総合科学の進学校、六校目は知的障害の特別支援のマンモス学校、そして七校目が全日の普通高校だった。
正式採用されて、今回の定時制で八校目と言うことになる。
これに加えて、臨時常勤講師として、姫路の中学校で英語、赤穂の中学で数学、尼崎の普通高校で現代社会を教えた経験を持つ。
そうすると、学校で教えた経験は11校ということになる。
また、特別支援学校では小学部の児童も指導しているので、小中高はすべて経験した。
経験できなかったのは、通信制、聴覚、視覚の特別支援学校などである。
多くの学校を経験していることはあまり自慢にはならない。
それだけ同じ学校に長くいなかったことだからだ。
さらに私の場合は途中の二年間、兵庫教育大の大学院に研修に行っている。
だから、平均すれば今までは一校あたり4年ほどしかいなかったことになる。
異動の理由は様々だが、研究を続けるために教師になりながら、それができなかったことも大きい。
単に、時間が無かったということでは無く、例えばクラブの指導などにのめり込んだこともある。
教師の仕事に夢中になって、研究なんかどうでも良いように思えたときもあった。
ただ、理想と現実はいつも乖離したままであった。
だから、本質は青い鳥症候群なのかもしれない。
今回は希望が叶ったことは嬉しいが、その責任の重大さも感じている。
3月まで関わった生徒には、それなりに思いはある。
ただ、どちらかというと裏方やサポートの仕事が多くて、十分に関わることができなかったのが心残りでもある。
本来はクラブや学年集団の中で、もっと親密に関わることができれば良かった。
この全日制は初任校とおなじ最短3年であり、担任が1年間のみというのはかつては無かった。
ただ、担任した生徒と一緒に北海道に修学旅行へ行けたのは、楽しい思い出となった。
礼儀正しくまじめな生徒が多かった。
私は最後の1年間は、毎朝の校門立ち番で、おはようの挨拶をし続けた。
すべての生徒ではないが、返事を返してくれると嬉しかった。
今度は定時制働きながら、そばで応援したい。
そして、私の生き様も視てもらいたいとも思っている。
現役生とも、卒業生も顔を見せてくれたら、うれしいんだけどね!
2016年3月27日日曜日
心遣いに感謝
3年生が卒業してから1ヶ月。
3月は入試や、次年度の準備でゆっくり振り返る余裕がなかった。
春休みになって、余裕ができて、やっと3年生からの贈り物を手にして、その心遣いに心が目覚めることができた。
生徒会の執行部が、卒業式の日に、プレゼントしてくれた。
わざわざ、姫路まで買いにいってくれたらしい。
3月は入試や、次年度の準備でゆっくり振り返る余裕がなかった。
春休みになって、余裕ができて、やっと3年生からの贈り物を手にして、その心遣いに心が目覚めることができた。
生徒会の執行部が、卒業式の日に、プレゼントしてくれた。
わざわざ、姫路まで買いにいってくれたらしい。
私は彼らのために、余りしてやれなかった。
むしろ、彼らのほうがどんどんと前向きに仕事をこなしてくれた。
贈り物をされるなんて、後ろめたい気もするが、ありがたく活用しようと思う。
きっと彼らは、どこへ行っても、執行部で活躍した力を発揮してくれるだろう。
ありがとう。生徒会執行部
むしろ、彼らのほうがどんどんと前向きに仕事をこなしてくれた。
贈り物をされるなんて、後ろめたい気もするが、ありがたく活用しようと思う。
きっと彼らは、どこへ行っても、執行部で活躍した力を発揮してくれるだろう。
ありがとう。生徒会執行部
2016年1月28日木曜日
すばらしい贈り物
今日で三年生の授業は終わった。
去年の三年生はは担任した学年と言うことや、朝補習などで深く関わった
特に朝補習や受験指導で多く関わったクラスでは、最終授業で花束をもらってお礼の挨拶を受けた。
感激のあまり涙が出て、ありがとうとしか言えなかった。
今年の三年生は朝補習もしなかったし、センター受験生徒の多いクラスは週二時間だけだった。
そのセンター受験の多いクラスは、最終の授業もセンター試験の前で終わり、その後は午前中授業になった。
センター試験前では最終授業という思い入れは、どちらも起こらなかった。
その後、午前中にある一般クラスの授業があった。
当然一般のクラスからは、最終授業に花束などもらうことも無かったし、お礼の言葉もなかった。
こんなものだろうなと思って、欠席を確認するために三年の学年団席の黒板を見に行った。
あるクラスの担任の先生が昨日Aさんが来ていたのを知っているかと言った。
当然一番前の席だったので知っているというと、彼女は私の4時間目にあった最終授業を受けるためだけに出てきたという。
その前も休んでいたし、今日も休んでいるという。
そう言えばしばらく休んでいたので、昨日も「久しぶりやね」というと、にこっと笑っていたのを思い出した。
調子が悪いのかなと思っていたので事情を聴いてみると。
登校しても意味が無いと言ってずっと休んでいるそうである。
その生徒が私の最終授業の一時間だけのために出てきたという。
実は最初言われた時にはピンとこなかった。
担任の先生は私の授業だけのために来たと言うことを言いたかったのだ。
私は調子が悪いと決めつけていただけに、自分の授業だけのために出てくる意味を理解できないでいた。
後でその意味が飲み込めて嬉しくなった。
たとえ花束をもらわなくても、こんな嬉しいことは無いと思った。
自分の授業だけは特別に学校へ出てきてくれることは、どんな花束よりも、素晴らしい贈り物に思えた。
長く教師生活しているが、こんな素晴らしい贈り物は初めてのように思えた。
去年の三年生はは担任した学年と言うことや、朝補習などで深く関わった
特に朝補習や受験指導で多く関わったクラスでは、最終授業で花束をもらってお礼の挨拶を受けた。
感激のあまり涙が出て、ありがとうとしか言えなかった。
今年の三年生は朝補習もしなかったし、センター受験生徒の多いクラスは週二時間だけだった。
そのセンター受験の多いクラスは、最終の授業もセンター試験の前で終わり、その後は午前中授業になった。
センター試験前では最終授業という思い入れは、どちらも起こらなかった。
その後、午前中にある一般クラスの授業があった。
当然一般のクラスからは、最終授業に花束などもらうことも無かったし、お礼の言葉もなかった。
こんなものだろうなと思って、欠席を確認するために三年の学年団席の黒板を見に行った。
あるクラスの担任の先生が昨日Aさんが来ていたのを知っているかと言った。
当然一番前の席だったので知っているというと、彼女は私の4時間目にあった最終授業を受けるためだけに出てきたという。
その前も休んでいたし、今日も休んでいるという。
そう言えばしばらく休んでいたので、昨日も「久しぶりやね」というと、にこっと笑っていたのを思い出した。
調子が悪いのかなと思っていたので事情を聴いてみると。
登校しても意味が無いと言ってずっと休んでいるそうである。
その生徒が私の最終授業の一時間だけのために出てきたという。
実は最初言われた時にはピンとこなかった。
担任の先生は私の授業だけのために来たと言うことを言いたかったのだ。
私は調子が悪いと決めつけていただけに、自分の授業だけのために出てくる意味を理解できないでいた。
後でその意味が飲み込めて嬉しくなった。
たとえ花束をもらわなくても、こんな嬉しいことは無いと思った。
自分の授業だけは特別に学校へ出てきてくれることは、どんな花束よりも、素晴らしい贈り物に思えた。
長く教師生活しているが、こんな素晴らしい贈り物は初めてのように思えた。
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