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2016年4月24日日曜日

夢は夜開く

定時制の学校に換わって、二週間が経った。
まだまだ落ち着いた状況では無い。
一日のペースをどのように組み立てていくかも、よく分かっていない。
今まで午前中を自由に使えたのは休日だけだった。
今は毎日自由に使える。
飼い犬との散歩も、休日と同じコースでしっかり歩ける。
畑仕事もすることができる。
当然読書や、仮眠をとることさえできる。
その一方、夕方から始まる授業は、空腹との戦いでもある。
帰宅してから飲食しようと、夕方は腹もたせしかを食べていない。
眠くは無いのだが、夜も10時頃になると頭が働かなくなる。

同じ敷地内にあった定時制の高校の様子を全く知らなかった。
夜遅く体育館で、スポーツする様子は不思議な感じがした。
全日制の生徒は、暗くなって帰宅することを心配した。
ここでは女子生徒でも、夜の10時でも自転車で帰宅する。
自由な服装、ピアスにも慣れた。
体育の授業で、ピアスを外すことから始まるのも驚いた。
多くの生徒がアルバイトなどの仕事をしてから来る。
私も農作業を午前中に頑張ったときは、夕方は体が重かった。
きっと力仕事をしている生徒は辛いこともあるだろう。
登校拒否の増えた中で、こうして頑張る生徒をみると励まされる。
生徒の服装や言動にはまだ違和感を感じているが、きっとこれが普通に思えてくるのだろう。

繊維産業などが若者に二交代勤務を課していた頃の産物である定時制。
赤穂の繊維産業は消えてしまったのに、定時制だけは残った。
学業に専念できる方が確かに良いのかもしれない。
ただ、世の中の仕事に触れながら、学業の大切さを知ることも良い勉強だろう。
生徒に課した自己紹介の書面では、夢を多くは書かれていなかった。
夢を持っていても書けないのか、書かないのかは分からない。
夢を持つことさえも忘れているはずは無いと思う。
ただ、今を精一杯生きるしか無いことも事実だろう。
私自身、教師になって初めての経験をしている。
望もうが望むまいが、退職は目の前である。
その時こうありたい夢を、今実現するためにがんばっている。
生徒と同じように、夢への可能性は、この夜のがんばりにある。
将来の夢は、夜開く扉をもっている。

2016年4月17日日曜日

離任式のYou Raise Me Up

4月8日の午後に前任校(といっても同じ敷地内)の離任式があった。
私は以前から離任式で歌を歌うことが、何度かあった。
肢体不自由の特別支援学校では、生徒と一緒に歌った「風になりたい」をギター1本で歌った。
総合科学の大学附属高校では、オリジナルの「心の絆」という曲を、録音とともに歌った。
前任校では、離任式にふさわしい曲を探して練習していたが、間に合わなかった。
そこで、文化祭で他の職員と体育館で歌い、昨年はYou Tubeでも流したYou Raise Me Upを歌うことにした。
アカペラで、間奏はハーモニカを使うことにした。
ハーモニカはチューニングの意味も持っていた。

当日、私はいつでもまた話はできるので、思い出の曲を歌いますといきなり歌い出した。
文化祭の時と違い、厳粛で静まりかえっていた。
途中のハーモニカの間奏もとちって、生徒が笑うのも見えたが、そのまま続けた。
そして、歌い終わったとき、温かい拍手をもらった。
離任式というのでは無くて、一つのステージのようだった。
後で聞いたのだが、司会の先生が号令をかけるのを忘れてしまったようだった。
その先生には気の毒だったけど、自然にわき起こった拍手が何よりもの「礼」に思えた。

実は歌の前に、一言言葉を添えようかと考えていた。
何故定時制に移ったかとか、この歌にどんな気持ちを込めようとしたかとか。
他の先生との時間配分も考えて、ただ歌うことにした。
だから、異動の理由は前回のブログで書いたので、この歌への気持ちを今回書くことにした。
実は私は、55歳の免許更新をせずに教師から別の職業に転職するつもりでいた。
しかし、転職は果たせず、免許更新を行い続けることになった。
そんな自分でも、生徒たちは慕ってくれたし、逆に励まされた。
生徒のそばにいられれば、自分は何とか教師を続けられると思った。
本当は生徒のそばで、支えて上げるのが教師の務めであるけれど、教師も生徒によって支えられていると心から思った。
だから、2年前の文化祭ステージでも「懸命にがんばる君たちを見て逆に励まされた」と前置きして歌った。

今回も君たちに励まされて、次の学校でもがんばっていく勇気をもらったと言い添えたい。
新入生や2年生とは関わりがあまりないのだけれど、3年生はきっと私の気持ちを汲んでくれるだろう。
最後の花束贈呈で、生徒会執行部の生徒と肩を抱き合ってそれを確かめることができた。


2016年4月2日土曜日

最後の異動

この4月1日付で定時制に異動となった。
私も今年57歳になるので、最後の異動ということになるだろう。
ただ、定時制は前任校と同じ敷地内にある。
いわば、お隣に引っ越しということだが、意外と隣づきあいは少なかった。

もともと、定時制か通信制への異動を希望していた。
一番の目的は研究にもう少し時間を費やしたいこと。
二番目の目的は、年老いた母親の万一に備えること。
三番目の目的は、本来は一番であるべきなのだが、苦学生の力になることである。
定時制・通信制を希望しながら全日制に赴任したのは、学校が親元の近くなので二番目の目的が叶うこと。
そして、もう一度進学指導やクラブ指導もやってみたいとも思った。
また、55歳の免許更新をせずに転職するのが、本来の目的でもあった。
つまり、担任した生徒と一緒に巣立つのが夢だったのである。
しかし、それは果たすことが出来なった。

私は初任が知的障害の特別支援学校、当時は養護学校と言っていた。
二校目が職業高校、三校目が肢体不自由の特別支援学校、四校目は農業科もある全日の総合高校。
五校目は総合科学の進学校、六校目は知的障害の特別支援のマンモス学校、そして七校目が全日の普通高校だった。
正式採用されて、今回の定時制で八校目と言うことになる。
これに加えて、臨時常勤講師として、姫路の中学校で英語、赤穂の中学で数学、尼崎の普通高校で現代社会を教えた経験を持つ。
そうすると、学校で教えた経験は11校ということになる。
また、特別支援学校では小学部の児童も指導しているので、小中高はすべて経験した。
経験できなかったのは、通信制、聴覚、視覚の特別支援学校などである。

多くの学校を経験していることはあまり自慢にはならない。
それだけ同じ学校に長くいなかったことだからだ。
さらに私の場合は途中の二年間、兵庫教育大の大学院に研修に行っている。
だから、平均すれば今までは一校あたり4年ほどしかいなかったことになる。
異動の理由は様々だが、研究を続けるために教師になりながら、それができなかったことも大きい。
単に、時間が無かったということでは無く、例えばクラブの指導などにのめり込んだこともある。
教師の仕事に夢中になって、研究なんかどうでも良いように思えたときもあった。
ただ、理想と現実はいつも乖離したままであった。
だから、本質は青い鳥症候群なのかもしれない。
今回は希望が叶ったことは嬉しいが、その責任の重大さも感じている。

3月まで関わった生徒には、それなりに思いはある。
ただ、どちらかというと裏方やサポートの仕事が多くて、十分に関わることができなかったのが心残りでもある。
本来はクラブや学年集団の中で、もっと親密に関わることができれば良かった。
この全日制は初任校とおなじ最短3年であり、担任が1年間のみというのはかつては無かった。
ただ、担任した生徒と一緒に北海道に修学旅行へ行けたのは、楽しい思い出となった。
礼儀正しくまじめな生徒が多かった。
私は最後の1年間は、毎朝の校門立ち番で、おはようの挨拶をし続けた。
すべての生徒ではないが、返事を返してくれると嬉しかった。
今度は定時制働きながら、そばで応援したい。
そして、私の生き様も視てもらいたいとも思っている。
現役生とも、卒業生も顔を見せてくれたら、うれしいんだけどね!