この土曜日にらっきょうを掘って処理してつけた。
今年のらっきょうは植えてから二年目の物で小ぶりである。
らっきょうは世話のいらない作物で、草も抜かずにほったらかしでできた。
ただ、掘り起こすときに草が絡まって邪魔にはなった。
まずは植え付けたらっきょうの半分の量だけ掘ることにした。
掘ったらっきょうをそのまま持って帰り、まずは茎を切り落とした。
この後の根の部分と茎に近い頭の部分を食感を考えながら、包丁で切り起こさねばならない。
ここからは家内が中心になる。
二人で庭に腰掛けてその作業を黙々とこなした。
その後は家内が水洗いをしたり、湯通しをしたりして瓶につけ込んだ。
らっきょうは非常に体に良いことが「ためしてガッテン」でやっていたので、作付けを増やしていこうと思っている。
生でも酢味噌で食べたが、あまり辛くなく美味しかったので少し食べ過ぎた。
日曜日には庭になった梅の実を採った。
昨年までは梅の実は殆ど採れなかった。
採れなかったと言うよりも、とっても仕方なかった。
というのは毛虫が多量に発生したので、殺虫剤を散布したので実を利用しようと思わなかったからだ。
今年は春先に根元に多量の消石灰を撒いていた。
害虫は冬の間は根元の土の中にいるそうなので、それを駆除する目的だった。
その甲斐あって、毛虫は多少は発生したが、去年までのように食い荒らされることは無かった。
もう一つ梅の成育に役立ったのは、愚犬クロである。
クロがやってくる雀などに吠えて、幾分追っ払ってくれたので、花がついばまれることが少なかった。
梅は手の届くところは手で取っていたのだが、そのうち面倒くさくなった
そこで木の下に百円ショップで買った小さな寒冷紗を敷いて、棒でたたき落とすことにした。
梅は四方に飛び散ったので、あまり寒冷紗は役に立たなかった。
あちこちに落ちて、草花の下になったのを拾うのも手間だった。
クロが落ちた青梅をかじるので、叱りながら拾った。
直径30cm高さ40cmほどの収穫籠一杯になるほど採れた。
採った梅のへたの処理をするのは、私の仕事になってしまった。
竹串でへそのごまをとるように、へたの部分をほじくっていった。
私の要望はかりかり漬けなのだが、家内に後は任せることにした。
自家製のらっきょうや梅は売っている物とはひと味違うし、農薬や薬品処理をしていないので体に良い。
手間と言えば大きな手間ではあるが、夫婦での共同作業としてやれば負担は少ない。
庭先でやるのも楽しいし、夜なべ仕事でテレビを見ながらしてもいい
この日曜はシャトルシェフも買ったので、ヨーグルトや納豆にも挑戦しようと思っている。
こちらは経済効果も期待できるようにも思えるのだが、成功するやいかに・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2016年5月30日月曜日
2016年5月29日日曜日
SUPならぬSDP
昨日は二度目のSUPの練習を行った。
初めての練習は海で、波があったので二度目は川で波の無いところを選んだ。
天気は曇りで気温は低めであったが、風が無いので問題なかった。
私の住む村から少し離れた千種川の河原に、軽トラで水際まで降りていった。
家からは水泳パンツをはいてきて、上は半袖のウェットスーツを着た。
このスタイルはまだ水温が低いときの水泳練習のスタイルである。
違うのは今回はマリンシューズを履いたことだ。
また足とボードを結ぶゴム紐(リーシュコード)は、犬の首輪を足首につけ、カナビラに結んで外れないようにした。
水に浮かべて座って漕いで向こう側の中州に着くのは簡単だった。
ところがいざ立ってボードの乗ると、バランスを崩して何度も転倒した。
水温は少し低かったが、アウトプールの練習よりましだった。
前回は波があるから難しいと思っていたが、波が無くても立つのが精一杯。
少しでもバランスを崩すと簡単に転倒してしまった。
まるで氷の上に立っているようだった。
ボードが水面を簡単に滑っていく感じである。
川底は石ころだらけだったので、思いっきり手を打ちつけてしまった。
立つ練習だけでは面白くないので、まずは膝をついての正座スタイルで漕いだ。
自分は海に関してはあまり恐怖心は無いのだが、川は何となく不気味な感じで落ちたくは無かった。
水の流れはたいしたことは無いのだが、時々浅瀬があってそこにフィンが接触した。
方向転換は一方を前にかくより、後ろにかいた方が簡単にできた。
膝立ちしたりしても波は無いので、問題なく進めた。
正座スタイルは時間が経つと膝が痛くなる。
そこでボードの上であぐらをかいた。
ボードはゴム製でおしりは暖かく感じた。
ただ時折水が上がってくるのでお尻を冷やされた。
漕ぐのに余裕が出てくると、川の様子を見ることができるようになった。
殆どが石ころだらけの河原だが、一カ所に砂地を見つけた。
そこにボードを寄せて、そこで立つ練習を繰り返した。
わざとバランスを崩したりして、ボードになれるようにした。
勢い余って、頭から水中に落ちて紙が砂まみれにもなった。
立つことに慣れてきたが、漕いですすむことはまだ自信が無かった。
立って漕ぐ練習は、波穏やかな日に遠浅の海岸でしようと思った。
簡単にできると思っていたSUPは、スキー以上に難しい。
スキーは足の向きで滑ることを止められるが、ボードが足の力だけでは止まらない。
しかも、重心のかけ方でボードが簡単に動いてしまうのである。
ただ座って漕ぐことは大して難しくは無い。
お尻が濡れることを我慢すれば、ゴムボートより扱いやすいと思う。
ゴムボートは風の抵抗や、水の流れの影響を受けやすいからだ。
ボードなら水の流れに逆らっても進んで行けた。
今回はStand Up Paddleではなくて、Sit Down Paddleになってしまった。
SUPではなくてSDPなら日本海でも漕ぎ出せるような気になってきた。
しかし目標は、あくまでも尻をぬらさないで漕いでいけるSUPである。
初めての練習は海で、波があったので二度目は川で波の無いところを選んだ。
天気は曇りで気温は低めであったが、風が無いので問題なかった。
私の住む村から少し離れた千種川の河原に、軽トラで水際まで降りていった。
家からは水泳パンツをはいてきて、上は半袖のウェットスーツを着た。
このスタイルはまだ水温が低いときの水泳練習のスタイルである。
違うのは今回はマリンシューズを履いたことだ。
また足とボードを結ぶゴム紐(リーシュコード)は、犬の首輪を足首につけ、カナビラに結んで外れないようにした。
水に浮かべて座って漕いで向こう側の中州に着くのは簡単だった。
ところがいざ立ってボードの乗ると、バランスを崩して何度も転倒した。
水温は少し低かったが、アウトプールの練習よりましだった。
前回は波があるから難しいと思っていたが、波が無くても立つのが精一杯。
少しでもバランスを崩すと簡単に転倒してしまった。
まるで氷の上に立っているようだった。
ボードが水面を簡単に滑っていく感じである。
川底は石ころだらけだったので、思いっきり手を打ちつけてしまった。
立つ練習だけでは面白くないので、まずは膝をついての正座スタイルで漕いだ。
自分は海に関してはあまり恐怖心は無いのだが、川は何となく不気味な感じで落ちたくは無かった。
水の流れはたいしたことは無いのだが、時々浅瀬があってそこにフィンが接触した。
方向転換は一方を前にかくより、後ろにかいた方が簡単にできた。
膝立ちしたりしても波は無いので、問題なく進めた。
正座スタイルは時間が経つと膝が痛くなる。
そこでボードの上であぐらをかいた。
ボードはゴム製でおしりは暖かく感じた。
ただ時折水が上がってくるのでお尻を冷やされた。
漕ぐのに余裕が出てくると、川の様子を見ることができるようになった。
殆どが石ころだらけの河原だが、一カ所に砂地を見つけた。
そこにボードを寄せて、そこで立つ練習を繰り返した。
わざとバランスを崩したりして、ボードになれるようにした。
勢い余って、頭から水中に落ちて紙が砂まみれにもなった。
立つことに慣れてきたが、漕いですすむことはまだ自信が無かった。
立って漕ぐ練習は、波穏やかな日に遠浅の海岸でしようと思った。
簡単にできると思っていたSUPは、スキー以上に難しい。
スキーは足の向きで滑ることを止められるが、ボードが足の力だけでは止まらない。
しかも、重心のかけ方でボードが簡単に動いてしまうのである。
ただ座って漕ぐことは大して難しくは無い。
お尻が濡れることを我慢すれば、ゴムボートより扱いやすいと思う。
ゴムボートは風の抵抗や、水の流れの影響を受けやすいからだ。
ボードなら水の流れに逆らっても進んで行けた。
今回はStand Up Paddleではなくて、Sit Down Paddleになってしまった。
SUPではなくてSDPなら日本海でも漕ぎ出せるような気になってきた。
しかし目標は、あくまでも尻をぬらさないで漕いでいけるSUPである。
横浜線と根岸線
先週の日曜日、葉山に住む弟(次男)の嫁の父親の葬儀のために、私の母親の代理として神奈川県の逗子に出かけた。
午後一時に告別式だというのに、家内は相生駅の朝一番の新幹線で行くという。
新幹線駅の新横浜から横須賀線の逗子駅までは1時間程で行くことができる。
関東の土地勘の無い家内は、時間を多めに見積もったようだ。
私はもともと横浜市緑区長津田に住んでいたことがあるので、時間が余ることは分かっていた。
せっかく逗子に行くのだから、少し観光もしてみようと思って、家内の言うに任せた。
家内と新幹線に乗るのは三回目で、一回目は新婚旅行の時に新大阪まで、二回目は子供を連れて結婚式に千葉まで行った時である。
つまり、二人きりで乗るのは二回目であり、家内は20年あまりぶりに新幹線に乗る。
がらがらのこだま号の車中でコンビニで買ったパンや、家内の母親に作ってもらった弁当を朝食にとった。
朝早かったせいか、車中では家内は殆ど睡眠、私はスマホで音楽を聴いていた。
新大阪でひかり号に乗り換えて、富士川の鉄橋を渡る頃に綺麗な富士山が見えた。
頂付近にまだ筋状に雪が残っており、こういう富士山を見るのは初めてだった。
寝ている家内を起こしたが、車中から初めて富士山が見えたと喜んでいた。
新横浜で降りてから、家内は完全にお上りさん状態になり、私に頼り切りになった。
私とても、横浜線を使って鎌倉に行った経験は一度しか無く、私鉄を使う方が多かった。
どこで時間をつぶすか迷ったが、結局切符を横浜までしかかってなかったので山下公園でつぶそうと思った。
根岸線の関内駅から歩いて港までは結構距離があった。
感じは神戸に似ているが、町を歩く人たちが日曜ということもあるが、ゆったりとしていた。
また、ジョギングをする人が多いのにも驚かされた。
山下公園の付近の港では、カッターレースが行われていて、沢山の人だかりである。
これで屋台が多く出ていれば、まさしく相生のペーロンである。
会場付近は屋台では無く、出場チームのタープテントで一杯だった。
日差しは強かったが、風が心地よかった。
ベンチに座って見学しながら、食べ残していたおにぎりを二人で食べた。
カッターレースは面白いのだが、海がまるでどぶ川の色で、自分も加わりたいとは思わなかった。
山下公園はちょうどバラの花が綺麗に咲いていたし、百合の花も綺麗だった。
少し長居しすぎて、東京に単身赴任している弟(三男)と、待ち合わせの逗子駅に着くが30分も遅れてしまった。
私は根岸線の電車がこんなにゆっくりと大船駅まで行くとは思っていたなったからだ。
小田和正が歌っている根岸線、一度だけかつて次男の弟が住んでいた磯子に来たことがあった。
大船駅から横須賀線に乗りかえると、鎌倉へ向かう観光客が一杯だった。
逗子駅では本当は弟と昼食をとる予定だったが、そのまま葬儀場の長運寺にタクシーで向かった。
昼食もとらないまま、一時からの告別式に参加した。
予定では骨揚げまで付き合う筈では無かったが、済んで戻ってから帰ることになった。
斎場で待つ間、ビールとおつまみ、そしておにぎりが出された。
初めての故人の関係者と挨拶や話をした。
告別式でも不思議に思ったのだが、地元のお寺で葬儀をしていながら、近隣の人は殆ど参列が無かった。
聞くところによると、享年81歳の故人は古くから住んでいながら、地元の人とのつきあいはあまり無かったそうだ。
葬儀を済ませて、弟と逗子駅付近の寿司屋で遅い昼食をとった。
こぢんまりとしたその寿司屋には、大江千里のサイン色紙が飾ってあった。
弟は京急で帰るので逗子駅で別れて、我々夫婦は今度は本線で横浜に向かった。
周りの風景は自分がいた約35年前と全く違ってはいたが、線路は当然昔のママである。
横浜駅から横浜線に乗り換える時には、そのまま長津田のアパートに戻るような錯覚に陥った。
その頃そばにはいなかった家内に、思わずそうもらしてしまった。
横浜駅は一度だけ大学のゼミに呼ばれて講義をした時の思い出のホームでもある。
その時に呼んでくれた先輩ももう大学を退官されたことを、数年前はがきで知った。
新横浜駅からはやはり自由席は混んでいて、夫婦別々の席に座った。
夕暮れの富士山のシルエットが美しかった。
何度か富士山は見たことがあるのだが、タイムスリップした私の心にぴったりの風景だった。
名古屋駅からは夫婦一緒に座って姫路駅で降り、相生駅にとまるこだまに乗り換えて、相生駅に降りた。
新幹線に往復6時間以上も乗っていた日帰り旅行はこうして終わった。
葬式でも無い限り、こんな無理な旅行はしない。
家内にとっては滅多に無くて、しかも多くが初めての経験。
私にとっては、昔に戻るセンチメンタルジャーニーでもあった。
翌日もその旅の余韻が心に残り、日常の気持ちに戻すことがなかなかできなかった。
小田和正のMY Hometownを一日口ずさんでいた。
午後一時に告別式だというのに、家内は相生駅の朝一番の新幹線で行くという。
新幹線駅の新横浜から横須賀線の逗子駅までは1時間程で行くことができる。
関東の土地勘の無い家内は、時間を多めに見積もったようだ。
私はもともと横浜市緑区長津田に住んでいたことがあるので、時間が余ることは分かっていた。
せっかく逗子に行くのだから、少し観光もしてみようと思って、家内の言うに任せた。
家内と新幹線に乗るのは三回目で、一回目は新婚旅行の時に新大阪まで、二回目は子供を連れて結婚式に千葉まで行った時である。
つまり、二人きりで乗るのは二回目であり、家内は20年あまりぶりに新幹線に乗る。
がらがらのこだま号の車中でコンビニで買ったパンや、家内の母親に作ってもらった弁当を朝食にとった。
朝早かったせいか、車中では家内は殆ど睡眠、私はスマホで音楽を聴いていた。
新大阪でひかり号に乗り換えて、富士川の鉄橋を渡る頃に綺麗な富士山が見えた。
頂付近にまだ筋状に雪が残っており、こういう富士山を見るのは初めてだった。
寝ている家内を起こしたが、車中から初めて富士山が見えたと喜んでいた。
新横浜で降りてから、家内は完全にお上りさん状態になり、私に頼り切りになった。
私とても、横浜線を使って鎌倉に行った経験は一度しか無く、私鉄を使う方が多かった。
どこで時間をつぶすか迷ったが、結局切符を横浜までしかかってなかったので山下公園でつぶそうと思った。
根岸線の関内駅から歩いて港までは結構距離があった。
感じは神戸に似ているが、町を歩く人たちが日曜ということもあるが、ゆったりとしていた。
また、ジョギングをする人が多いのにも驚かされた。
山下公園の付近の港では、カッターレースが行われていて、沢山の人だかりである。
これで屋台が多く出ていれば、まさしく相生のペーロンである。
会場付近は屋台では無く、出場チームのタープテントで一杯だった。
日差しは強かったが、風が心地よかった。
ベンチに座って見学しながら、食べ残していたおにぎりを二人で食べた。
カッターレースは面白いのだが、海がまるでどぶ川の色で、自分も加わりたいとは思わなかった。
山下公園はちょうどバラの花が綺麗に咲いていたし、百合の花も綺麗だった。
少し長居しすぎて、東京に単身赴任している弟(三男)と、待ち合わせの逗子駅に着くが30分も遅れてしまった。
私は根岸線の電車がこんなにゆっくりと大船駅まで行くとは思っていたなったからだ。
小田和正が歌っている根岸線、一度だけかつて次男の弟が住んでいた磯子に来たことがあった。
大船駅から横須賀線に乗りかえると、鎌倉へ向かう観光客が一杯だった。
逗子駅では本当は弟と昼食をとる予定だったが、そのまま葬儀場の長運寺にタクシーで向かった。
昼食もとらないまま、一時からの告別式に参加した。
予定では骨揚げまで付き合う筈では無かったが、済んで戻ってから帰ることになった。
斎場で待つ間、ビールとおつまみ、そしておにぎりが出された。
初めての故人の関係者と挨拶や話をした。
告別式でも不思議に思ったのだが、地元のお寺で葬儀をしていながら、近隣の人は殆ど参列が無かった。
聞くところによると、享年81歳の故人は古くから住んでいながら、地元の人とのつきあいはあまり無かったそうだ。
葬儀を済ませて、弟と逗子駅付近の寿司屋で遅い昼食をとった。
こぢんまりとしたその寿司屋には、大江千里のサイン色紙が飾ってあった。
弟は京急で帰るので逗子駅で別れて、我々夫婦は今度は本線で横浜に向かった。
周りの風景は自分がいた約35年前と全く違ってはいたが、線路は当然昔のママである。
横浜駅から横浜線に乗り換える時には、そのまま長津田のアパートに戻るような錯覚に陥った。
その頃そばにはいなかった家内に、思わずそうもらしてしまった。
横浜駅は一度だけ大学のゼミに呼ばれて講義をした時の思い出のホームでもある。
その時に呼んでくれた先輩ももう大学を退官されたことを、数年前はがきで知った。
新横浜駅からはやはり自由席は混んでいて、夫婦別々の席に座った。
夕暮れの富士山のシルエットが美しかった。
何度か富士山は見たことがあるのだが、タイムスリップした私の心にぴったりの風景だった。
名古屋駅からは夫婦一緒に座って姫路駅で降り、相生駅にとまるこだまに乗り換えて、相生駅に降りた。
新幹線に往復6時間以上も乗っていた日帰り旅行はこうして終わった。
葬式でも無い限り、こんな無理な旅行はしない。
家内にとっては滅多に無くて、しかも多くが初めての経験。
私にとっては、昔に戻るセンチメンタルジャーニーでもあった。
翌日もその旅の余韻が心に残り、日常の気持ちに戻すことがなかなかできなかった。
小田和正のMY Hometownを一日口ずさんでいた。
2016年5月6日金曜日
教え子の演奏会
この5月4日は前任の全日制の吹奏楽部が定期演奏会を開いた。
2日に昨年度まで授業を担当していた吹奏楽部の生徒たちが、わざわざ定時制の職員室に来た。
小さな紙切れの演奏会の案内を手渡され、是非聴きに来て欲しいという。
ちょうど連休の半ばで、あまり気が進まなかったので、「行けたら行く」と答えた。
そうすると、吹奏楽部の活動に熱心な定時制の先生から
「行けたら行くと言って、ほとんど来る人はいない。」といわれ。
苦笑しながら「絶対に行きます。」と答えてしまった。
当日は天気の良い行楽日和だったが、約束通り演奏会に出かけた。
演奏会場の受付には顧問の先生がプログラムを配ってくれていた。
最初は一階の会場に入って知り合いを探した。
定時制の知り合いは別の知人と一緒に来ていたので遠慮した。
全日制の知り合いはご夫婦できていたので、こっそり後ろに座った。
せっかく夫婦水入らずできているので、声をかけるのも無粋と思い直し、二階の席に移った。
二階席は殆ど人はいなくて、写真屋さんと撮影係の顧問の先生と一緒になった。
一階席も以前担任していた生徒に誘われてきた時よりも、お客さんの数は少ないように感じた。
一部の課題曲や自由曲は練習の成果がしっかりと出て、なかなか完成度が高いと思った。
特に和太鼓などの和楽器を取り入れた「斐伊川流るるクシナダ姫の涙」は心に残った。
二部以降はお客さんを楽しませる趣向が色々と取り入れられていた。
新入部員があまり多くないので、少し迫力には欠けてはいたが、楽しませてくれた。
今回私を誘ってくれたTさんの役者のような奮闘ぶりには、頭が下がる思いだった。
また個人としての高い力量をポピュラーな曲で聴かせてくれたのも良かった。
演奏を聴きながら、以前聴いたときと違う感情を覚えた。
自分が授業を担当した生徒の演奏を聴くのは、今年で最後と思ったからだ。
教室で見かける時とは違う演奏姿を、見られることが良かったのである。
これはある意味、我が子の活躍ぶりを見に来た親と似ているのかもしれない。
演奏が終わって帰り際に、かつての教え子から声をかけられたり、かけたりした。
こういう機会は、もう定時制に移ったので無くなるのだと思うと寂しくも感じた。
もし全日制にそのままいたなら、分からなかっただろうと思う。
教え子たちが教室を離れて活躍する姿を見ることの嬉しさ。
これは私たちが教壇を離れてYouTubeで演奏を視てもらっているのと共通する。
知った人の演奏は、その人の気持ちがよく伝わってくるものなのである。
技術的な完成度とは違う人間くさい温もりや人柄と言うべきなのか
音楽にはそんな大切な表現力もあるのだと気がつかされた。
誘ってくれたり、声をかけてくれた教え子たちに感謝したいと思う。
2日に昨年度まで授業を担当していた吹奏楽部の生徒たちが、わざわざ定時制の職員室に来た。
小さな紙切れの演奏会の案内を手渡され、是非聴きに来て欲しいという。
ちょうど連休の半ばで、あまり気が進まなかったので、「行けたら行く」と答えた。
そうすると、吹奏楽部の活動に熱心な定時制の先生から
「行けたら行くと言って、ほとんど来る人はいない。」といわれ。
苦笑しながら「絶対に行きます。」と答えてしまった。
当日は天気の良い行楽日和だったが、約束通り演奏会に出かけた。
演奏会場の受付には顧問の先生がプログラムを配ってくれていた。
最初は一階の会場に入って知り合いを探した。
定時制の知り合いは別の知人と一緒に来ていたので遠慮した。
全日制の知り合いはご夫婦できていたので、こっそり後ろに座った。
せっかく夫婦水入らずできているので、声をかけるのも無粋と思い直し、二階の席に移った。
二階席は殆ど人はいなくて、写真屋さんと撮影係の顧問の先生と一緒になった。
一階席も以前担任していた生徒に誘われてきた時よりも、お客さんの数は少ないように感じた。
一部の課題曲や自由曲は練習の成果がしっかりと出て、なかなか完成度が高いと思った。
特に和太鼓などの和楽器を取り入れた「斐伊川流るるクシナダ姫の涙」は心に残った。
二部以降はお客さんを楽しませる趣向が色々と取り入れられていた。
新入部員があまり多くないので、少し迫力には欠けてはいたが、楽しませてくれた。
今回私を誘ってくれたTさんの役者のような奮闘ぶりには、頭が下がる思いだった。
また個人としての高い力量をポピュラーな曲で聴かせてくれたのも良かった。
演奏を聴きながら、以前聴いたときと違う感情を覚えた。
自分が授業を担当した生徒の演奏を聴くのは、今年で最後と思ったからだ。
教室で見かける時とは違う演奏姿を、見られることが良かったのである。
これはある意味、我が子の活躍ぶりを見に来た親と似ているのかもしれない。
演奏が終わって帰り際に、かつての教え子から声をかけられたり、かけたりした。
こういう機会は、もう定時制に移ったので無くなるのだと思うと寂しくも感じた。
もし全日制にそのままいたなら、分からなかっただろうと思う。
教え子たちが教室を離れて活躍する姿を見ることの嬉しさ。
これは私たちが教壇を離れてYouTubeで演奏を視てもらっているのと共通する。
知った人の演奏は、その人の気持ちがよく伝わってくるものなのである。
技術的な完成度とは違う人間くさい温もりや人柄と言うべきなのか
音楽にはそんな大切な表現力もあるのだと気がつかされた。
誘ってくれたり、声をかけてくれた教え子たちに感謝したいと思う。
2016年5月1日日曜日
半農半師
定時制の高校に勤めだしてから一月が経とうとしている。
私の勤める定時制は13時20分から21時50分までの勤務である。
当初、自宅にいる午前中は、自分の研究に時間を費やすつもりでいた。
ところが今は、季候も良く農作業も多い時期でもある。
私は農地を借りて畑をしているのだが、地主さんが亡くなり、畑も多く作ることになった。
そうすると、自ずから畑仕事が多くなった。
実のところは、私は部屋に引き籠もるのは子供の頃から苦手である。
人類学という学問に取り憑かれたのも、フィールドワークが魅力的であったからである。
今は出版という目的があるので、文献にひたすらあたっているのだが、早く終えてフィールドに戻りたい。
全日制校勤務の時には、週末には部活動か農作業をしていた。
今は平日でも朝6時に起き,、犬のジョグ散歩をしっかりして、午前中は農作業か読書をしている。
農繁期なので週末は晴れたら農作業一筋である。
田舎にいても、私くらいの年齢で、農作業をしている人はあまりいない。
若くて農作業をしている人は、外国からの研修生であったりする。
同じ上郡で兼業農家の先生が、私が定時制に異動することを知って言った。
「いよいよ、本格的に農業をするのですね。」
私ははっと、「そうだ!その道があった」と思った。
本当は異動に際しては農業のことは全く念頭に無かった。
しかし、運命のいたずらか、異動するとどういうわけか、農業に傾いてしまっていた。
飯が食えなくて、持ち出しの多い研究よりも、農業の方がまだ見返りがあるのも確かだ。
この際は開き直って、晴耕雨読ということにしても良さそうな気もする。
近所の農家は車よりも高いと農機を使って、やむなく田畑を守っている。
私はおいしくて安全な作物を親・家族や知り合いに食べてもらうために農業をしている。
そして、昼間肉体労働をしている生徒たちとも、共感し合うためにも農業が必要な気がする。
ただ、生徒たちの多くは室内労働で、私が一番黒いのはちょっと恥ずかしい。
私の勤める定時制は13時20分から21時50分までの勤務である。
当初、自宅にいる午前中は、自分の研究に時間を費やすつもりでいた。
ところが今は、季候も良く農作業も多い時期でもある。
私は農地を借りて畑をしているのだが、地主さんが亡くなり、畑も多く作ることになった。
そうすると、自ずから畑仕事が多くなった。
実のところは、私は部屋に引き籠もるのは子供の頃から苦手である。
人類学という学問に取り憑かれたのも、フィールドワークが魅力的であったからである。
今は出版という目的があるので、文献にひたすらあたっているのだが、早く終えてフィールドに戻りたい。
全日制校勤務の時には、週末には部活動か農作業をしていた。
今は平日でも朝6時に起き,、犬のジョグ散歩をしっかりして、午前中は農作業か読書をしている。
農繁期なので週末は晴れたら農作業一筋である。
田舎にいても、私くらいの年齢で、農作業をしている人はあまりいない。
若くて農作業をしている人は、外国からの研修生であったりする。
同じ上郡で兼業農家の先生が、私が定時制に異動することを知って言った。
「いよいよ、本格的に農業をするのですね。」
私ははっと、「そうだ!その道があった」と思った。
本当は異動に際しては農業のことは全く念頭に無かった。
しかし、運命のいたずらか、異動するとどういうわけか、農業に傾いてしまっていた。
飯が食えなくて、持ち出しの多い研究よりも、農業の方がまだ見返りがあるのも確かだ。
この際は開き直って、晴耕雨読ということにしても良さそうな気もする。
近所の農家は車よりも高いと農機を使って、やむなく田畑を守っている。
私はおいしくて安全な作物を親・家族や知り合いに食べてもらうために農業をしている。
そして、昼間肉体労働をしている生徒たちとも、共感し合うためにも農業が必要な気がする。
ただ、生徒たちの多くは室内労働で、私が一番黒いのはちょっと恥ずかしい。
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