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2016年8月18日木曜日

想い出の向かえと送り

今年の盆は静かな盆になった。
私の母親が体の具合が悪く、兄弟家族が集まるの控えたからである。
いつもは集まって昔の思い出話を肴に、飲んだり歌ったりする。
今年は家にいて、撮りだめていたビデオや写真を見直したり整理した。
ちなみに私は、アナログで撮影したビデオや写真をデジタル化して、いつでもパソコンで見られるようにしている。

つい先日は娘が盆休みで勤務地から戻って来て、二日ほどで帰って行った。
その娘や息子の幼い頃のビデオや写真を見直すと、その頃の忘れていた記憶が甦った。
というより、殆ど忘れているので、新鮮に見えてくる。
こんなに子供の表情や仕草は可愛いものだったのかと思う。
自分の親は既に自分の歳では孫がいたのだが、自分には孫はいない。
まるで、孫を見るように我が子のビデオや写真を見ているのである。
また、無くなった自分の父親も元気な姿で写っていると、父親がまだ生きているような錯覚に陥る。

昨日は赤穂へ行くついでに、子供たちが幼かった頃に住んでいた
大津に立ち寄ってみた。
ビデオや写真は子供たちを中心に撮っていたので、風景はあまり写っていない。
そこでよく家族で歩いた道や、遊んだ公園を写真に撮っておこうと思った。
私たち家族が住んでいた家は、建て替えられてもうそこには無かった。
それでも多くの家はそのままで、懐かしかった。
ただ、明らかに空き家になっていたり、売り家になっているところもあり寂しくもあった。
自分が借りた畑の付近は非常に様変わりしていて、山付近は荒れ地になってしまっていた。基盤整備もできず後継者が無くて、荒れ野になるしかないのだなと思った。
最後に息子をよく連れて行った、新幹線のトンネルを見に行った。
息子はそのトンネルから列車が爆音と爆風を伴って出てくるのを非常に喜んだ。
今もそこは鉄道マニアはよく撮影に来るところだと聞いている。
ちょうど列車が出てきたが、写真は上手く撮れなかった。

いつもの盆より寂しい盆になったが、ビデオや写真を見ることで昔に戻ることができた。
お盆というのはご先祖様が戻ってきて帰るという。
その時に昔は思い出話をしながら、ご先祖様を迎えていたのだろう。
写真やビデオがあまり普及していなかった頃は、思い出話が唯一記憶を甦らせる手段だった。
今はビデオや写真で昔の様子が、今起こっているように甦る。
昔の記憶をそのまま保存したデジタルご先祖様であり、デジタル孫のようなものなのである。
一年中過去の記憶に浸っているわけにはいかないが、こうして盆休みをきっかけに浸るのも良いように思う。
仕事に疲れて乾ききった心を想い出は潤してくれる。
晴れ続きの夏に、夕立が潤してくれたような、そんなビデオと写真だった。
いちようは、盆が開ければ、その記憶をまたハードディスクに封じ込めて、今の仕事を頑張らねばならない。
これからは盆に限らず、普段のお墓参りのつもりで、過去の記憶をひもといても良いようにも思えた。

2016年8月4日木曜日

夏の出会いと別れ

英語助手のM先生が今日で去って行く。
しばらくは夫と夫のお母さんと一緒に、東日本を旅行するそうだ。
彼女とは2年前の夏に赴任してから、色々と関わりが多かった。
そもそも彼女も文化人類学を大学で専攻していたので、話がよく通じた。
もともと小学校の3年生まで日本にいて、両親とも日本人だったので日本語は堪能だった。
無理して英語を使わずに、日本語で話ができた。
たまに分からない日本語だけ、英語に翻訳する程度で済んだ。

以前、日本語があまりできない英語助手の先生とは英語でよく話をしたが、とにかく疲れた。
飲み会で一時間話を続けた後は、ぐったりとしたのを憶えている。
だから、なるべく英語では話をしたくない。
それでも英語助手の先生の中には、話し相手がなくて気の毒に思うことがあるので、無理して英語で話をすることもある。
英語の教師以外で英語で話をする人は少ないし、英語の教師は受験指導で忙しいので、暇な私は英語助手の先生とは仲良くなった。
M先生はそんな英語助手の先生の中でも、特別に仲良くなれた。

彼女は非常に社交的だったので、多くの先生と関わりを持っていた。
毎日のように色々な人と、食事会などで楽しんでいる様子だった。
そんな忙しい彼女とは、まずは音楽を通して関わりを持った。
彼女の母親はバイオリニストで彼女も小さい頃練習していたので、一緒にバンドを組んだ。
そして、You Raise Me Upのバイオリンをやってもらった。
彼女はしばらく練習していなかったので、少々嫌がったのだが無理して頼んだ。
そして、熱心に練習して仕上げてくれた。
それをYouTubeにアップしたのだが、彼女には気の毒な作品でもあった。
何回か収録した中でも、あまり彼女にとっては良い作品では無かったからである。
私にとっては、この作品は一生の思い出となった。

そのほか、彼女はスポーツ好きで一緒にジョギングや自転車、SUPもやった。
特に最後に一緒にやったSUPは、彼女から色々教わった。
彼女は小さい頃からカヌーをしていて、バランス感覚が優れていたのだ。
彼女は運動が何でもできたが、水泳だけは私の方が上手だった。
自転車に関しては、上り坂では彼女について行くのは辛かった。
またうちの畑の農作業も何度か手伝ってくれて助かった。
娘と殆ど変わらない年齢だったが、彼女は距離感を感じさせなかった。
誰に対しても物怖じしない彼女の姿勢が、そう感じさせたのだろうと思う。

私に限らず多くの同僚の先生は、彼女がアメリカに戻ることを寂しがった。
これだけ熱心で友好的な英語助手の先生は、かつていなかったからである。
私は何度か日本で仕事を続けるように奨めたが、彼女の夫の仕事の関係でそれは無理だった。
でも若い彼女はいつか戻って来てくれると思っている。
今日も彼女には「またすぐに戻ってこれるね 今度は子供を連れて」と言葉をかけた。
でも、こちらからアメリカへ遊びに行くよとは言えなかった。
日本人がアメリカに留学したがらないのと同じ気持ちなのかも知れない。