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2016年9月11日日曜日

救助され犬

この金曜の夜(9/9)には、愚犬クロの姿は家にはなかった。
クロは庭の地面に打ち込んだ、鉄杭に太い鎖で繋いでいたのだが、杭ごといなくなった。
このところの雨で庭の土が軟らかくなり、家内は抜けかけたのを打ち込んだようだが、駄目だった。
土曜日の朝、逃げ出してもいつもなら帰ってくるはずなのに、帰ってはいなかった。
私は仕事の関係で出かけねばならず、結局暗くなって家に戻って来ても、やはりクロの姿はなかった。

今まで脱走したのは、多くは庭に設置した簡易の檻の隙間からだった。
檻に入れている時は、鎖を放しているので、鎖が何かに絡まる心配は無かった。
ただ一度だけ、散歩の途中で脱走したが、その時の引き綱は簡単に食いちぎれるもので心配なかった。
今回は頑丈な鎖と杭なので、何かに引っかかったら、首輪が抜けない限り抜け出すのは無理だった。
首輪はもらってきた時のままで、大きくなったクロには少し窮屈なくらいだった。
だから首輪が外れることは、期待できなかった。
山奥で鎖が引っかかったら、もう発見できないと思った。

最悪の事態を考えながら、二階の寝室で何もできず横になっていた。
そうすると暗闇の中で、犬の鳴き声がする。
家から西側の方角の山の方から聞こえる。
今から探しに行く手もあるが、暗くて見つけるのが大変だし、怪我をしてもいけないと思った。
ただ、クロの鳴き声だと思ったが、確証はないので家内には黙っておいた。
そして、クロがいなくなったら、また別の犬をもらってこようと、わざとネットを開いて犬の里親募集を見たりした。
実は家内が散歩させた後に、脱走したので、家内が一番気にかけていた。
家内は土曜の昼間に探しに行ったようだが、見つけることはできなかった。

日曜の朝、しっかりと山を歩ける用意をして出かけた。
昨夜の鳴き声の聞こえる方向に行くとやっぱり鳴き声がする。
猟犬なので、鳴き声と言っても遠吠えのような声である。
ずっと吠え続けていたわけではないので、聞こえたあたりにまず向かった。
そこは隣の村の墓場だった。
そして、墓場の上から聞いていると、墓場の下の竹林の方角から聞こえる。
竹林から声の方角に行くと、竹林のそばの元椎茸栽培小屋のそばでクロの匂いがする。
案の定、クロは竹の根元に鎖や杭が引っかかっえ身動きがとれない状態だった。
以前の経験から、ここで怒ると次逃げた時が大変なので、それほど怒らず連れて帰った。
二日ほど身動きがとれなかった割には元気で、普段の散歩の様子で家に戻った。
檻に入れて餌をやり、鎖は今度は庭のパーゴラの柱に巻き付けた。

もともと飼われていたのが、捨てられて野良犬になったクロは、自由な暮らしを知っている、
その一方、飼われていて餌に不自由をしないことも知っている。
適当に自由を楽しみ、適当な時間に戻って餌をねだるというのが、クロの楽しみだ。
しかし、今の時代に放し飼いは許されない。
鎖をつけたままの自由は命取りにもなる。
クロはそのことを今回の経験で分かったかどうか分からない。
むしろ飼い主の私たちが、それを思い知った。
ただ今回最も心配したのは、クロの生死よりも、他の人に迷惑をかけていないだろうかと言うことだった。。

人の役に立ち、喜ばれている犬というのは、完全に飼い主の管理下にある犬である。
盲導犬も、介助犬も、救助犬も、そして普通のペットも、決められたところ以外で自由に活動することは許されない。
今まで飼っていた犬で、これほど脱走した犬はいない。
それは一度も野良犬を経験していなかったからだ。
クロは野良犬を経験していればこそ、自由を渇望する。
現代人は自由だと言うが、本当に自給自足で生活した経験は無い。
だから、我我現代人は拘束からの自由は求めても、本当の自由は渇望しない。
ただ、自由な遊びの時間の経験があるので、常に憧れてはいる。
クロは野良時代は自活できていたので、それ以上に自由を求めているのだろう。
逆に言えば、小さい頃から管理下に置かれて、自由を知らずにいれば自由に憧れない。
そもそも現代人は、家、町、村(里)に引きこもっているだけなのではないか。
家の中に引きこもっている人だけを特別視しているだけように思えてきた。

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