ページビューの合計

2017年10月29日日曜日

播磨科学公園都市まちびらき20周年

この10月28日、29日は西播磨ふれあいフェスティバルが雨の中開催された。
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは無かった。ところが、販売の応援で行く必要ができて、28日だけ朝早くから出かけることになった。
朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?

過酷な現実

教員がブラック企業と言われるようになってきたが、それは過重勤務によるものである。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。

紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。

作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・

私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。

2017年10月18日水曜日

夢のムコウ

家内との約束の半年は過ぎてしまった。
私は早期退職後の半年の間に、次の出版を果たす予定だった。
しかし、本格的な研究の感覚を取り戻すだけに半年近くかかってしまった。
再び稼ぎながら研究を続けることを余儀なくされた。
ハローワークに出向くと、隣の県のB市で遺物整理のアルバイトがあった。
ちょうど、考古学も勉強しているので良いと思い応募した。
面接の日に出向いて、若くて美しい女性がもう一人応募しているのが分かった。
普通は素人のおばさんがパートでやることが多いが、これは負けたと思った。
案の定、面接は老眼の痛いところを突いてきた。
かくして結果として、うら若き女性に私はアルバイトを奪われてしまった。
その後、その採用担当者が別の仕事を用意しようとしてくれた。
しかし、それも事務手続きの問題で駄目になった。
駄目になった報告を聞いて、すぐにネット上で次を探した。
ネット上では、教師や放課後支援員をチェックしていた。
それと、興味本位で農作業も検索していた。
何気なく農作業の検索結果を見てみると、隣の相生市で作業員を募集している。
NPOなので、直感的にいけるのではないかと思った。
早速電話して、話を進めることにした。
夜電話がかかってきて、採用担当者の声を聞くとおじいさんの声だった。
最初の電話の人も若くて頼りなく、担当者も年配で少々不安に感じた。
翌日約束の時間より遅れて、現れた方は腰の曲がったおじいさんだった。
農場を見せてもらった後、近くの喫茶店で話を伺った。
おじいさんと思った人が、実はこのNPOの理事長で、それと関連する合資会社の社長だった。
年齢を伺うと81歳で、しかも神戸から通ってきているというので驚いた。
やはり、有機農業のNPOで私が今まで目指してきたことと全く同じだった。
私は、有機農業を通じて、健常者と障害者がともに働ける場所を作りたいと思い続けてきた。
しかし、その夢の最大のネックは販売であった。
この理事長のM氏は現役時代は流通関係で活躍された人で、退職後に地道に取り組んできた人だった。
当然、意気投合してしまい、私は働かせてもらうことになった。
実際の仕事の打ち合わせと言うことで、再び喫茶店で話を聞いて驚いた。
私は、当初はパートタイムで働かせてもらうことになっていたのだが、正職員に抜擢された。
前回の打ち合わせでは、正職員は若い人に頼むということになっていたからだ。
戸惑いもあったが、やる以上はとことん頑張ろうと思った。
この30年あまり、研究職と農業職を目指すことの間で揺れ動いたが、神様の選んでくれたのは後者だった。
当然これで研究を終わらせるつもりはない。
私の文化人類学の原点は、生活実践にある。
大学や研究施設の研究者だけが、研究者ではない。
比べるのは憚れるが、かの南方熊楠も在野の生活実践家だった。
また、このブログを通しても、実践報告を行いたいと思う