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2017年11月30日木曜日

目覚めろ!Calling

寒くなると、寝室は雨戸を閉めるので、朝は暗いままだ。
どうしても夜更かしをするので、朝起きるのが遅くなる。
12月からは朝から仕事にも行くので、朝早く起きる習慣をつけねばならない。
そこで、いつも寝る時に聞くiPadを目覚ましに使うことにした。
その目覚まし曲は、B'zのCalling、関西弁で言うと「呼んでまっせ」と言うところだろうか。
歌詞の内容は、もっと切実な叫びだろうが、朝はその程度の感覚である。
スヌーズなので、6時半に一回イントロが鳴ると、止める。
そして、10分間隔でなって、7時に1コーラスかけて停止する。
すると、隣で寝ている家内も否応なしに起きざるを得ないのである。
そして、この曲を聴くと元気に目覚めることができるのである。

以前このブログで「いつかのメリークリスマス  2012/12/17」で少し触れたが、B'zは以前勤めていた上郡高校の生徒と関わりが深い。
その生徒は、エレキギターの速弾きが得意で、二人で学園祭に出るというので、彼が選んできた。
教師生活の中で、職員バンドは忘年会や、文化祭、同窓会等々いろんなところでステージに立った。
しかし、生徒と組んだのはK君とだけである。
結局、バンドはベースも入って3人になったが、殆どB'zの曲で、1曲だけAerosmithのI don't want to miss a thingを私の希望で入れた。
このステージは本格的な、音響装置を業者を頼んでセッティングしていたので、私にとってこれまで最高の音響環境だった。
初期のB'zのように音源とかぶせてカバーした。
残念ながら、彼には仲間や友達が居なかったので、写真やビデオは残っていない。
でも、そのステージは今でも鮮明に記憶に残っている。
生徒が盛り上がりすぎて、生徒指導部長が押さえに入ったくらいだったからだ。

B'zを聴いたりすると、K君のことをよく思い出す。
彼は特別進学コースにいながら、大学進学を希望せず、音響関係の専門学校に行ったはずである。
因みに私は彼の担任では無く、授業を担当しているだけだった。
一日6時間もギター練習をする程のギター好きで、親も諦めていたようである。
周りと音楽に関して妥協が無かったのでバンドが組めず、私と組んだわけである。
彼とは練習だけで無く、音楽に関してもよく話をした。
修学旅行でグァム島へ行って、彼は浜辺で泳ぎもせず、私に音楽のことを切々と訴えかけてきた。
私も、その道で生きていきたいと思っていた頃があるので、彼の気持ちはよく分かっていた。
しかし、これで生活することも大変だと言うことも分かっていた。
彼には大学に行くよう何度も勧めたが駄目だった。
彼が今どんな仕事についているのか気がかりだが、自分で選んだ道に後悔はしていないだろうと思う。
私は大学の途中で別のことに惹かれて、その道から離れてしまった。
私にとってのCalling(天職)は歌手では無かった。
気の多い自分が30年も続けられたのだから、教職がCallingだったのかもしれない。
今はそこから離れたので、新しいCallingが呼んでるかも・・・

2017年11月28日火曜日

ガジュマルのガジュ子

私は勝手に植物にも名前をつける。
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。

買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。

部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・

2017年11月26日日曜日

無くてはならないコウノトリ

10月に台風が来る前に一度コウノトリは来ていた。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。

実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。

今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。

もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。

2017年11月25日土曜日

越境の学校

一般に姫路城と言えば、天守閣付近のいわゆる内曲輪を指していると思う。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。

淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。

最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。

公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。

これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。





2017年11月23日木曜日

再就職が決まって

再就職が決まって、髪を染めた時
もう若くないさと 君に言い訳したね

と、どこかで聴いた歌をもじって口ずさみました。
そもそも原曲(『いちご白書をもう一度』も、就職が決まってから髪を切るのはおかしい。
モデルになった人は、本当は就職活動の時に髪を切っていたというのをどこかの記事で読んだことがある。
私は今までまともな就職活動をしたことが無かった。
教員採用試験も面接があったが、既に臨時講師をしていたので、その延長という感じだった。
しかも、採用試験は幸いにして一度だけで済んだ。

今回ほど、就職活動の難しさを感じたことは無い。
(知っていれば、教師の時に生徒へ説得力ある話ができただろう)
最初にハローワークから紹介された遺物整理の臨時職員も、落とすため長い面接を経験させられた。
前の人は10分もかからなかったのに、私は1時間近く尋問に近い質問にさらされた。
二人しか応募していなくて、当然その若い女性が採用されたようだ。
出来レースとはすぐ分かったが、落とすのに時間を無為に使わされたのがしゃくだった。
次の仕事はネットで調べた。
NPOであるし、面接した社長さんも元大きな組織の重要ポストに居た人だから信用した。
しかし、その仕事はblack以前の詐欺に近いものだった。
ハローワークを通して同時に採用された人は、簡易裁判に訴えると言っていた。
給料が未払いだったからである。
私は半分研修だったと思って、給料は半分諦めている。
途中でやめた人に給料を払っていないと、前から勤めていた人に聞いていたからである。

その次からの、仕事選びには慎重になった。
ネットも用いるが、ハローワークにも行って相談した。
就職活動の経験が無いので、求人票に書かれている裏の意味もよく理解できていなかった。
例えば事務職員でも、受付や客の応対がありといえば、若い女性を望んでいる。
給料がかなり安いので分かりそうなものなのだが、気がつかず応募してすぐ辞退した。
また、施設だからと言って指導員を募集しているとは限らない。
経理の経験が無いと言うことで、門前払いになったこともある。
そういういくつかの苦い経験をしている内に、約束の半年はとっくに過ぎてしまった。
結局自分には教員の経験を活かすところしか無いという結論に至った。

そこでダメ元で、学童(放課後指導員)に応募した。
近くの町の施設だし、時間も一日6時間働いて、月収15万円は良いと思った。
しかし、学童の仕事は女性が多いし、若い人にも人気があると思った。
それと併行して、ネットでも見つけ、わざわざハローワークからも通知を頂いた社会教育施設にも応募しようと思った。
そこでは指導員と言っても、雑務が多いというのは想像ができた。
それでも教員免許が必要だったので、競争相手が少ないと思った。

結局、私はその社会教育施設にとりあえずの再就職が決まった。
研究には適した学童の方も合格したのだが、精神的な負担を考えてそちらを選んだ。
これからは、学童も男性を求めていることも分かった。
冒頭の歌は、再就職の内定をもらった時に家内に歌った。
実は私は面接の前に、10年以上使ったことも無い洗髪料を買ってきて染めた。
真っ黒にすると不自然なので、グレーにするものを買った。
白髪ではおじいさんに見えると言われたからでもある。
教師をしていた時には生徒の目も気にしなかった白髪。
面接では少しでも若く見せようと思った。
再就職が決まっても、たぶん染め続けねばならないだろう。
私の父親は若い者に馬鹿にされないようにと、現役時代は髪を黒く染め続けていた。
ただ、父親同様、髪が薄いことへの対処がまだ残っている・・・




2017年11月21日火曜日

フラリードッグ

愚犬クロがまたもや逃亡を図った。
前回はちょうど一ヶ月ほど前に、山に逃げて夕方まで帰ってこなかった。
その時は、ハーネスをちゃんと装着していなかったので抜けてしまった。
無理矢理ひっぱたので、ハーネスが抜けてしまい、逃げてしまった。
悪いことに、山際の柵がイノシシにこじ開けられていて、そこから山に入ってしまった。
夕方、家の周りをうろついていると、近所の人が知らせに来てくれたので、捕まえに行くとまた逃げてしまった。
夜になって、庭で音がするので家内に見に行ってもらうと、置いておいた餌を食べていたので捕まえた。
それから、一週間の散歩禁止の謹慎処分となった。

今回は、つないでいたバックルが簡単に外れてしまった。
ひょっとした弾みで以前もとれていたので、気にはなっていた。
最初はクロの方もとれたことが分からなかったが、私が捕まえるのをしくじって逃亡した。
家内にも応援を求めて、挟み撃ちにして捕まえようとしたが、うれしげに逃げていった。
山が近くにあり、逃げ込むと無理なので諦めて帰った。
そして、犬小屋の近くに前回と同じように餌をおいて待っていた。
私は前回の謹慎処分を覚えていたら、ひょっとしたら戻ってこないかもしれないと思った。
しかし、前回よりもずいぶん早く昼には戻ってきて餌を食べていたので捕まえた。

以前は柵に入れていて逃亡を図り、一晩帰ってこなかったこともあった。
今回は最短で戻ってきた。
自由な空腹より、不自由な満腹を選んだわけである。
おとなしい犬なので、迷惑をかけることは無いと思っているが、近所の人から通報されるのは恥ずかしい。
何よりも呼んで戻ってこないというのが憎たらしいのである。
何匹も犬を飼ってきたが、このように逃亡を図る犬は初めてだ。
それは野良犬をやっていたせいでもあるのだが、しつけにも失敗している。

主人の気持ちを逆なでして逃亡する割に戻ってくる。
逃亡するならまた野良犬になる覚悟で逃げてみろと言いたい。
しかし、罰が待っていても必ず戻ってくる。
昔、ポールニューマンの主演映画で「暴力脱獄」というのがあり、主人公ルークは殺されるまで刑務所から脱獄し続けた。
彼は最後まで囚人に甘んじなかったのである。
トラは既に、囚人ならぬ飼い犬に甘んじている。
野良犬の惨めさをよく知っているのだろう。
なぜか子供を一番怖がる。
おそらく一番いじめられたのは子供たちにだろう。
それでいて、逃亡を図りたいのだから、困ったものである。
まるで、伝書鳩のようなフラリーマン(帰宅を嫌がるサラリーマン)がたまに羽目を外して飲みにいくようなものかもしれない。
クロがフラリーマンに似ているのか、フラリーマンがクロに似ているのか?
所詮どちらも、家なしには生きていけない・・・・



2017年11月19日日曜日

千種水汲み2017年秋

当初は猪名川町まで行って,道の駅でそばを食べるつもりだった。
家内が汲んできた水がもう残り少ないと言うので、急遽一緒に千種へ水汲みに行くことになった。
大分前からこの日曜(11/19)は寒くなると天気予報で知っていたので、ネットで道に雪が無いのを確かめてから出かけた。
このところ、JAや町、商工会のイベントがあちこちで開かれている。
道沿いにはその幟が立っているが、ちょうど白旗祭りの幟も立っていた。

昨日は「ひょうご歴史フォーラム」が上郡で開かれた。
「発祥の地、赤松から考えるー赤松氏研究の新展開ー」というテーマだった。
2年ほど前から、白旗城の麓の赤松氏の館跡が発掘調査されている。
その中間報告を兼ねていた。
全国的にも、室町期の館跡の発掘調査は少なくて、成果が上がれば全国初と言うことらしい。
基礎的知識が無いので、この時代の館なるものがどういう役割を持っていたのか分かっていなかった。
この時代は、山城と普段居住する館とは分かれていたことは知っていた。
ただ、聞いてみると、館は来客を接待したり、宴会を催す場のようだった。
どうも一遍上人絵伝の「武士の館」のイメージとも違うようである。
ともかく、まだ研究途上のようで、これから色々と分かってくるということで、楽しみである。


ちょうど、その赤松の村を通り過ぎる時に、毎年11月23日に行われる白旗城祭りの準備がなされていた。
昨日フォーラムに行って初めて知ったのだが、白旗は源氏の旗に由来し、元々は赤松城と言っていたそうだ。
現代からすれば白旗は降参する時の悪いイメージがあるが、この城は落ちない城として宣伝している。
私も一度だけ登ったが険しい坂道だった。
地元の人は毎年この道を整備しているそうである。

千種までの道沿いに見える景色は、秋そのものであり素晴らしい紅葉が続いた。
千種に近づくと、林業の関係で針葉樹が多くなるのだが、そこまでは紅葉の絨毯を敷いたような山が続く。
南光町のキャンプ場も多くの宿泊者がいて、テントを張っている人もいた。
千種に近づくと、路面が濡れている。
どうも雪雲が流れてきて降らしたらしい。
そして、やがて紅葉の谷間から白い雪をかぶった山が見えてきた。
針葉樹の緑、広葉樹の赤、雪山の白が見事なコントラストとして、眼前に広がった。

当然水汲所には、汲みに来た人はなく。
時折晴れたり、時折みぞれや、あられの降る中で、ホースをつないで軽トラに載せた容器に注いだ。

ふたを開け閉めする指先が凍えて感覚を失っていたが、今年初めてのジャンパーが寒さを防いでくれた。
自販機にコインを入れるだけの家内の方が、足下が寒くて足踏みをせねばならなかった。
いつものように、水汲所のそばのお祈り所に手を合わせてから、今回は途中どこにも寄らずに家に戻った。
今回はそばもうどんも食べられなかったが、紅葉狩りで心がいっぱいに満たされた。

2017年11月14日火曜日

足底筋膜炎からの回復

ここ一月以上足の裏親指と中指の付け根あたりの痛みに苦しんでいた。
最初は、プールのターンで壁をきつく蹴るせいかとも思った。
しかし、最近プールに行けなくなっても痛みは続く。
プールに行けなくても、犬の散歩は欠かせなかったのである。
私は犬の散歩に最低7km、多くて10kmほど歩く。
底が薄かったり、硬い靴は避けてジョギングシューズを履いていた。
どうもそれが良くなかったらしい。
と言うのは、ジョギングシューズは履き心地が良いので歩く姿勢を気にしない。
そして、朝露で濡れるのが嫌なので、アスファルトの道を歩いていた。
そんな折、日曜朝の番組「健康カプセル! ゲンキの時間」で「足」の特集が11/5にあった。
私はこの番組はずっと録画し続けているので、欠かさず見ている。
この「足」特集で「足底筋膜炎」の症状が私にぴったり当てはまると思った。
番組のネットで調べると(http://hicbc.com/tv/genki/archive/171105/)
「足の裏に張っている筋膜に炎症が起き、小さな断裂を起こすことで主にかかとが痛む病気です。朝の第一歩目が特に痛みます。」
私の痛いのはかかとではないが、朝の第一歩が特に痛むというのがぴったりである。
朝に限らず、歩き始めが非常に痛み、車から降りてびっこを引いたりもする。
そのくせ歩き始めると痛みも治まり、また長い距離を歩いてしまう。
この番組を見て、まず靴はトレッキングシューズに、インソールを入れて履くようにした。
そして、なるべく路肩の草の生えた土道を歩くようにした。
それでもなかなか直らない。
相変わらず、夜寝る前にインドメタシンの塗り薬を塗らなくては行けない。

そんなある日、紅葉がきれいなので近所の山を登ることにした。
きつい坂道で、足の具合を意識した。
平地で歩くより足裏の指の付け根の負担が少ない。
これは姿勢の問題だと思った。
意識してみれば、自分は前屈みで猫背のようにして歩いている。
それはどうしても犬を意識しているので、下を向くことになる。
また、このところ少々沈みがちの気分も影響していたようだ。

私は少しだけ剣道をしていたので、背筋を張ることは体得している。
問題はどうしてもすり足になることだ。
剣道の上段者が、ゴルフ場ですり足で歩いて芝生を痛め、怒られたと言うことを聞いた。
私も家内と歩いていて、靴を擦って歩くとよく注意される。
そういう欠点はあるものの、姿勢だけは良いのである。
その姿勢がこのところ悪かったらしい。
それ以降姿勢に気をつけるようになって、痛みは治まってきた。
要するに、前屈みで前に重心があり、足の先に負担がかかっていたのである。
ジョギングシューズだから、負担がわかりにくく放置してしまっていた。

今テレビ番組の「陸王」も毎週欠かさず見ているが、いかにシューズが重要かというのがよく分かる。
走らなくても、長く歩く場合も馬鹿にはできない。
分厚く柔らかいシューズは、歩く場合でもそれなりにリスクも抱えていると言うことでもある。
本当は地下足袋を履いて歩きたいのだが、私は体重が重いのでそれもかなりのリスクになる。
以前底の浅いジョギングシューズを履いて練習していて、今回と同じ足底筋膜炎の症状になった。
自分の体型に合ったシューズは慎重に選ばなければいけない。
私にはシューフィッターがいないので、自分で考えねばならない。

そして、やっと本格的なトレッキングシューズを買った。
本格的と言っても、6000円ほどの安い足首まであるシューズである。
因みに本格的なトレッキングシューズは1万円以下はあまりなかった。
安いながら履き心地が全然違うことが分かった。
前の部分が上に反っているので、円運動が足先に生じている。
最初はつま先が馴染まず痛かったが、その内足に合ってきた。
それを数日する内にかなり痛みは治まったのである。
やはり、長い距離を歩く時はそれなりのシューズが必要だと実感した。

2017年11月13日月曜日

備前のしっぽ福浦

以前このブログの「越境のAKB」で紹介したように、私の母方の祖父母は備前福河の福浦に生まれ育った。
因みに備前福河は福浦村と寒河(そうご)村の総称で、現在も駅名に使われている。
私は祖母に連れられて、当時は天和の方から山道を通って歩いて行った。
戦死した祖父の実家はその山道から降りた所にあり、古い家には長槍が飾ってあったのを覚えている。
現在はその家も取り壊されて、井戸だけが残っているという。
山の中腹にある墓参りに行くと、自然石がいくつか並べてあり、今から思うと子供を土葬した目印であったのかもしれない。
子供心に自然石だけの墓というのは、何となく哀れに思えた。

福浦には何度か祖母や母親と一緒に行った。
祖母の実家は港の近くにある入電という地区にあった。
こちらもずいぶん古い家で、便所が外の庭にあった。
祖父の方は船大工、祖母の方も船の運送関係だったようだった。
農地の少ない場所なので、海に関わる仕事が主だったのだろう。
それは私が生まれた鳥撫も同じである。
先日、私が作っている赤穂の畑のお隣さんが、福浦出身の人で祖父母の実家のことの話をした。
懐かしくなって、この日曜に軽トラで自転車を運んで、村の中や海岸を自転車で散策した。
これまでに思い出したように訪ねた場所だが、大きく様変わりしている。
最初の案内板に「龍神の里」の文字があった。
祖母から港の海から龍が出てきた昔話を聞かされていたのでそれだと思った。
地図で調べると、龍神宮という神社もある。
大きな堤防ができているので、龍などはもう出てきそうにない。
天和の方に向かう海岸線の一部は、昔のまま残っていた(上の写真)。
祖母に連れられて、兄弟で海水浴をした覚えがある。
その時に、祖母は親戚の人から、墓の守をちゃんとしないと責められて、泣いていたことを思い出す。
たぶん、戦死した祖父の墓がまだきちっとできていなかったからかもしれない。
祖父の墓は赤穂の高山墓地に今はあるが、先の尖った神道式の墓ではない。
祖母の意向で小さな墓にしており、戦死者とは分からない。
その反対方向の古池という所まで自転車に乗っていった。
この古池という村は、赤穂市の最も西の地区である。
以前勤めていた学校の玄関に、この古池の塩田跡の絵が飾られていたので、行ってみたいと思っていた。
長い海岸線沿いの道は、それほど起伏は無いが路面はあまり良くない。
ひょっとしたら寒河まで道が通じているかと思ったが、海岸線では無くて山道だった。
塩田跡(上の写真)が本当に残っていて、鴨たちがおおらかに泳いでいた。
赤穂で言えば今から40年以上前の風景である。
そのまま残っていると言うことは、開発できなかったと言うことである。
どん詰まりの港で、持ってきた家内の作ったサンドイッチを食べたりして、ゆっくりと過ごした。
鹿久居島もすぐそばに見えて、来年の夏はSUPをここでやろうと思った。
実はその対岸に見える鹿久居島の海岸には、何度かモーターボートで連れて行ってもらったことがある。
赤穂御崎のように観光化は全くされていないからこそ、昔ながらの風情を残す落ち着いた場所だった。
備前のしっぽである福浦の海は、私が海育ちであることを思い出させてくれた。

2017年11月10日金曜日

あの頃の秘伝五平餅売り

秘伝と言っても、五平餅のタレにクルミの擦ったのを混ぜるだけだが、大学の文化祭での宣伝文句だった。
例年11月3日は母校南山大学のHome Coming Day、つまり学園祭だった。
私はその後の人生を狂わせた文化人類学研究会というクラブに入っていた。
そのクラブでは毎年五平餅を作って販売していた。
私が3年の時には、私の下宿アパートに部員が集まって五平餅を作った。
炊飯器を3台ほど持ち込んだので、途中でヒューズが切れたりして大騒ぎにもなった。
当時はもう二度と部屋を貸してやるものかと思ったが、今から思い返せば楽しいひとときでもあった。
(下の写真は五平餅を売る当時の私)


その五平餅は、板で作った板きれの型に、炊いたご飯をすりこぎで練ってからはめ込むのである。
その真ん中に割り箸を差し込んでおく、それをきちっとしなければ食べている途中で落ちる。
かつて、五平餅が食べている途中で落ちてしまい、味噌だれで服が汚れたので、お客さんにクリーニング代を払ったという。
たかだか100円の五平餅に痛い出費であった。
だから、しっかりと固定させねばならない。
タレは赤味噌をベースに、砂糖や酒を加えて味付けをしていた。
ちなみに、南山大学のある名古屋は何でも味噌だれを使う。
味噌おでんは有名だが、エビフライやカツ丼も味噌だれである。
当時はあまり好みでは無かったが、最近は懐かしくてチューブ入りの味噌だれを使ったりしている。


五平餅は七輪に火をおこして、あぶって上でタレをつけ、そしてまた焼く。
焼くのに時間がかかるので、行列ができる。
行列ができると人気があると思い、よく売れるのである。
先日も西播磨のテクノの祭りで県立大学のたこ焼きがよく売れていた。
安いこともさることながら、行列ができていたのがやはりミソであった。
人は行列に弱いのである。
一番いけないのは誰もいない店の前で、販売員が突っ立ていることだ。
私は呼び込み販売は意外と得意だが、好きでは無い。
当時アルバイトで餅の製造をしたが、急きょ販売もやらされ、よく売れたのでまたやってと言われたが、1回で断った。
テクノの祭りではちゃんと販売もしたのだが、昔ほど売れなかった。
私はもうおばちゃんには販売員としての魅力を失ってしまったようだ・・・

2017年11月9日木曜日

カラオケタイムマシーン

私は歌の練習をかねてひとりカラオケをよくする。
カラオケボックスではなくて、自宅のパソコンを使ってである。
ヤマハのカラホーダイ、ネットで歌本をずっと何年も続けている。
学校でもそれを使って生徒たちとカラオケ大会をしたり、歌の練習をしたりもした。
忘れられないのは赤穂高校で担任していたクラスの最後LHRで打ち上げカラオケをした時だ。
私はフォークギターを持ち込んで歌を披露したりもした。
行事で撮った写真を見ながら、何人かが前で歌ってくれた。
最後に生徒が選んでくれたのは、ULTRA SOULだった。
私がB'zをよく歌うことを知っていたからだ。
みんなで歌いながら踊った。
「そして 戦うULTRA SOUL!」「HEY!!」
みんなの声がそろった!


退職した今の楽しみは、ギターの練習もさることながら、背景の画像に子供たちの写真を使うことだ。
子供たちの写真はデジタル化して、年ごとにホルダーに入れている。
過去に遡って、それを背景に歌っているのである。
まさしく「涙そうそう」の世界なのであるが、まるで当時に戻ったような気分になれる。
当時は、生活や仕事に追われて、子供たちを愛おしく感じる余裕さえあまりなかった。
自分たちの手から離れた今は、孫のごとく愛おしい。
バーチャルリアリティーのタイムマシーンなのである。
たまに、一緒に行ったディズニーランドの映像も見直したりするのも楽しいが、こうしてふとタイムスリップするのも良いものだ。

盆や正月に兄弟が実家に集まった時にもこれを用いてカラオケをした。
あらかじめ写真を用意しておいて、授業で使っているプロジェクターで拡大した。
母親が非常に喜んで、懐かしがってくれた。
子供を亡くした弟にはつらい写真もあったのだが、皆でタイムスリップできて良かった。
人の記憶というのはだんだん薄れてしまうが、写真のおかげでまた復活させてくれる。
当時のことが思い出せない場合は、過去を初体験した感覚にもなる。
ただ、肥満がちでなさけない容貌の自分にまた戻ってしまうのがつらいところである。
画像加工して編集し直してやろうか・・・・

2017年11月8日水曜日

全滅した黒大豆

今まで無農薬、無化学肥料での農作物の栽培を20年以上続けてきた。
その中で害虫によって作物が荒らされたことは度々あった。
それに対して、草木灰や有機石灰を撒いたり、アシビ、煙草の葉を水に溶かして撒いたりもした。
今回は無策であった。
今まで黒大豆は放置していても、大した被害が無かったからだ。
ところが今回は害虫によって赤穂の畑に植えていた黒大豆が全滅してしまった。
葉はそれほど被害は無かったので気づかぬうちに、サヤなどが食い尽くされていた。
聞けば近くの畑でも同じような被害があったという。
油断していたのは上郡の方では順調に育っていたからでもある。
しかし、上郡の近所の畑の黒大豆は病気で立ち枯れたという。
台風などで長雨が続いて病気になったのだろうという。
私が耕作している畑は、水はけはあまりよくないのだが、雑草が生えているので、雑草が水を吸ってくれている。
それが却って幸いしたのかもしれない。
以前少しだけ勤めた無農薬、無化学肥料の農場では、害虫に対しては完全放置だった。
虫が食えば、葉物はまた新しいのが自然と生えるということだった。
しかし、大豆のようなものは再生しようが無い。
そもそも発芽した芽を食われればそれでおしまいとなる。
それでほうれん草は全滅したという。
その農場は人海戦術で数をこなして利益を上げていたが、小規模な農家には無理である。
そこで有機農法を調べてみた。
ネット上でGreen Japanの「「有機」表示のできる農薬」によれば
「法律のおいて、「有機農産物」とは「化学的に合成された肥料及び農薬の使用」を避けたものを基本とする、定義されています。一般に言う「有機」か「無機」かという分類は全く関係がないので注意が必要です。つまり、例えば「炭酸カルシウム」でも[化学的に合成」されたものは使えないが、「天然鉱石を粉砕」したものは使えるということですhttp://www.greenjapan.co.jp/yuki_hyoji_noyak.htm」
ということで、「有機」として使える農薬登録のある商品情報もリストアップしてくれている。
要するに化学的合成かどうかの問題で、自然由来の物質を用いれば良いのである。
まさしく自然農薬を上手く活用しておけば問題は無かった。
黒大豆が全滅した一方で、上郡の畑では蒔きもしなかった、パクチ、ブロッコリー、大根が数多く育っている。
本当は花を咲かせて種を採って撒くつもりが、ずぼらして種が落ちてしまったのである。
ブロッコリーはニンニクのところに生えてしまったので、移植した。
パクチは手に負えないぐらい生えているので、そのまま放置している。
大根はそれほど生えてはいないが根性のある大根である。
こちらは自然農法に近いかもしれない。
今回勉強になったのは、有機農業は大規模で人海戦術を用いればできるかもしれない。
しかし、それは流通ルートをしっかり確保できる人に限られる。
だから、小規模な農家が起業するには前もって蓄財するか、年金をもらってからの方が良さそうだ。
作物の状態は常に観察して対策を怠ってはならず、片手間ではできない。
私の有機農業への挑戦はこれからしばらくはまだ研修段階で進みそうである。
しかし、こういう人はままいるようで、流通に乗せず知人に配っているようだ。
その一方で、農薬や化学肥料をふんだんに使って、多く収穫しようとする方が大勢だろう。
近所の農家もそういう農家が多い。
農薬で肝臓を悪くして早死にした父親を持つ農家も相変わらずである。
農業で生計を立てている人は、大きなリスクを背負っていることが身にしみた。

2017年11月7日火曜日

負った子に背負われて

家内は実家の父親の具合が悪くて休日には留守がちになった。
この11月の三連休も半日は看病やら手伝いに出かけていった。
そんな折り、たまたま土曜に休みが取れた息子とドライブに行くことになった。
息子の通勤用の車は、数ヶ月ほど前に中古を買い換えたものである。
ETCも付いていないので、近場に行くことにした。
実は自転車で日生大橋を渡って、鹿久居島に行ってみたいと思っていた。
まずは下見に息子と車で出かけることにしたのである。
息子を乗せてのドライブは、小さい頃から最近までしていた。
しかし、用事で乗せてもらう以外にドライブで車に乗せてもらうのは初めてだった。

日生大橋は狭い急な坂になっていたが、ハイキング姿で一人歩く年配の人がいた。
これはいきなり自転車はきつい坂だなと、車で来て良かったと思った。
地図も持たず、ナビも付いていないので、何も考えず進むと頭島大橋を渡ってしまった。
しばらく行くと市営の駐車場があり、一日100円なのでそこに置いて散策することにした。
頭島という名前はよく聞かされていた。
母親の遠い親戚が民宿をしていると聞かされていたからである。
以前私が職場の幹事をしていた時に、そこを利用しようとしたが不便だと言うことで取りやめになってしまった。
予約までしていて、非常に気まずい思いをした経験の場所でもある。
頭島は思ったより開けていて、民宿も多かった。
観光施設らしき物は何も無く、防波堤で釣りをする人が多かった。
知っている人は、防波堤の空き地に車を駐めているようだった。

港から少し山を越えて、海水浴場まで行った。
細い路地で、海水浴客が車を駐めるのは難しいと思った。
浜辺のすぐそばに墓場があり、それを見て息子は大学時代に病気で亡くなった友達の話をし出した。
息子は高校の同級生を一人病気で、小学校中学校の同級生を放火事件で亡くしている。
特に病気で亡くなった友達とは仲が良かったようで、ショックだったようだ。
実はその友達のお姉さんは私の教え子であり、お父さんは職場の同僚でもあった。
その浜辺から駐車場に戻る時に、山の上に建物があるのが見えたので行くことにした。
この頭島には2017年まで小学校があったようで、山の斜面に記念の絵が描かれてあった。
その廃校になった小学校にも行ってみたが、山の上の景色の良いこぢんまりとした小学校だった。
なぜか、門は閉じられているのに、奥の方に車が一台駐められていた。
見晴らしの良い坂道を下って、駐車場までのんびりと釣り客を見ながら戻った。

島を出てからは、途中で運転を交代して、ブルーラインを通り鷲羽山まで行った。
鷲羽山は家族で何度か行ったところなのだが、息子はあまり憶えていなかった。
鷲羽山の展望台で思い出したようだ。
その時は弁当を途中で買って、海を見ながら食べた。
今回は客の少ないレストランの窓際の一等席でたこ飯定食を食べた。
昼時であるのにお客さんが少ない。
以前家内と二人出来た時にも思ったことだが、観光地としては寂れてしまっている。
ただ、自転車やバイクのマニアには格好の場所になっているようだ。

その後は息子が運転して渋川海岸沿いをドライブした。
いつもながらこの近辺の道は良く分からず、結局岡山港にたどり着いた。
コンビニで休憩した後、私が運転して家路についたが、途中で息子はぐっすり眠ってしまった。
普段あまり車で遠出しないので疲れたと後で行っていた。
久しぶりに息子と二人きりの長い時間を過ごした。
息子は職場のことを色々と話してくれた。
本来は父親ではなくて、友達や彼女とドライブをする年代なのだ。
一緒に過ごすことは望ましい状態とは思えず、父親としては複雑な心境である。
それでも、息子の仕事の様子を聴くことが出来て良かったは思う。
いつか、娘ともこういう時間がつくれたらと思うが、娘は鷲羽山に掛かる大橋の向こう側にいる。



2017年11月4日土曜日

にわか宮総代

退職した途端に村役の一つを強引に任せられた。
宮総代という村役は、要するに神社行事の世話役、作業員なのである。
因みに神社や寺を掃除したり、お清めするのは古代では奴婢の行う仕事だった。
各地区に一人の代表と、区長、副区長が加わって神社の運営を行う。
前任者は、今年はこの地区が行事の当番(総世話役)に当たっているのにも関わらず、降りてしまった。
本来なら前年度から、やるべき仕事を見て知っておかねばならない役柄である。
私はこの村に引っ越して以来、中野地区の荒神祭りには参加したり、世話役もした。
しかし、多くの氏子を抱える与井八幡神社の祭りには殆ど参加したことが無い。
私は生まれは赤穂なので、赤穂の鳥撫と尾崎の祭りや行事は小さい頃からのなじみがある。
この村に引っ越して25年以上になるのに、祭りは一回だけちょっと見に行きすぐに帰った。
子供たちは子供神輿で参加はしていたはずだが、家内が付き添った。
宮総代の最初の仕事は輪越(大祓)で用いる茅の刈り取りだった。
茅を刈り取ってきて、古老の指導を受けながら大きな輪をこさえた。
そして、輪越の神事の世話役で、浄めの世話や、直会の世話をした。
初めて神事たるものに参加して、宮総代代表として玉串奉納も行った。
今まで輪越というのは単に夕方家族でくぐり抜けに行っただけなので、神事作法があるとは知らなかった。
神木から神様をお供しながら、神主を先頭に行列になって輪を3回8の字に回った。
因みにこの神道の大祓は中国由来の道教の影響だそうである。

の輪越より大変だったのは、10月の15日行われた秋祭りだった。
一週間前から、宮総代全員で神社周り草木を剪定したり、掃除を行った。
祭りの前日には応援も来てもらい、例年の幟立てだけではなく、雨が予想されたのでテントを立てた。
当日も朝早くから、提灯やらテントを起こしたが、前日より貯まった雨水をかぶってずぶ濡れになった。
上半身裸で作業した後、本番にそなえて着替えに帰らなければならなかった。
祭り行事は、宮総代はいちよう正装していた。
獅子舞や子供神輿が山の上の神社まで上がって来て、初めて与井の獅子舞をじっくりと見物した。
その舞手の中には、上郡高校の教え子がいて、声をかけたが。
「先生痩せてましたね」と言われ、私は腹の出た教え子に「太ったな」と返した。
何とか玉串奉納の神事も行い、一番の大仕事はビンゴゲームの司会となった。
むしろ司会は教師をしていたので、気楽にできた。
獅子舞の出る秋祭りでビンゴゲームというのは初めての経験だった。
それが終わり、テントを足だけたたんで直会となった。
今回は輪越の洗い米と御神酒だけでは無くて、弁当と酒が用意されていた。
本来ならその世話役なのだが、座って飲み食いしてしまった。
私は神主を覗いて地区役員や宮総代の中で一番若い。
弁当を全部食べてしまったのは私だけだった。
他の人はお酒もほどほどに、弁当は持ち帰っていた。
その数日後の晴れた日に、幟やテントを朝夕に分けて片付けた。
結局、秋祭りに4日間の奉仕を行った。
今後、宮総代は新嘗祭や年末年始の行事の仕事がある。

村の神社の行事も高齢者で担わなくてはならなくなり、いずれ無くなるだろう。
現に、近くの神社は獅子舞の舞手が無くなり、来年から獅子舞は無くなるそうだ。
十分な練習が必要な獅子舞より、簡単に担げる神輿の方がこれから良いのかもしれない。
私の育った赤穂の尾崎では大人神輿が盛んになったようだ。
これも姫路の祭りの影響なのかとも思う。
祭りも時代に合わせて変えていかねばならないだろう

2017年11月1日水曜日

30年前の繰り返し

約束の半年が過ぎてもちゃんとした仕事が見つからないでいる。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。

もみの木とゴールドクレスト

家の庭には二本の大きな木がある。
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。

二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れているので、枝先だけ落とすわけにはいかない。
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・