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2018年1月30日火曜日

インフルエンザとは不仲

私は高校生の時に高熱を出して、早退した記憶があり、たぶんそれがインフルエンザだったと思う。
病院も行かずに、自宅で汗をかいて熱を冷ました。
その時以来、学校や仕事を休むような高熱の記憶はあまりない。
ただ、私は熱に弱く、少しでも熱があると「死ぬかもしれんよ」と家内に弱音を吐いている。
だから、高熱は出しているが、扁桃腺を腫らして高熱というのが多かった。

教師というのは生徒のウィルスや菌をまともに受ける職業だ。
学級で多く感染者が出て休むことがあったが、私はうつらなかった。
今から思うとよくうつらなかったと思うのはノロウィルスである。
勤めていた学校の寮で発生して、親に変わって病院に連れて行ったことがある。
教師の中では、神戸のルミナリエに行き、電車の人混みで感染して入院した人もいる。
娘などはレジのバイトをしていて、子供が傍で嘔吐しただけで感染した。

今は菌やウィルスに強いように自分でも思うが、実は子供の頃は正月にも病院に通う虚弱な体質だった。
すぐに扁桃腺を腫らして熱を出したり、食中毒を起こしてひどい下痢になった。
当時、足に注射を打っていたので、太ももに窪みが残っていたのを思い出す。
太っていた割に足が細いのもそのせいかなと思ったりもするのである。
それが一人暮らしを経験したり、水泳やジョギングをするようになって体質が変わった。
また、近年は機能性をもったヨーグルトもよく食べている。
運動を余りしない家内もそのおかげで元気なのかも知れない。

今回は、生まれて初めてインフルエンザの予防注射をうった。
これは今の職場では強制されているのである。
教師の時は強制されることは無かった。
ところが、予防注射をうっている職員が、このところ感染している。
私も感染したらしばらく休めるかなと、不謹慎なことを言ったりもしたが、今のところかかっていない。
ウィルスや菌とは仲が悪い関係がしばらく続きそうだ。





2018年1月28日日曜日

奄美の健康

日曜朝の健康番組「健康カプセル『ゲンキの時間』」で健康長寿の地域として喜界島が紹介されていた。
冒頭、司会者やゲストが言っていたように、「奄美は行ったことがあるけれど喜界島は無い」
というのが私にも当てはまる。
実は喜界島は琉球王国の歴史との兼ね合いで、非常に考古学等で脚光を浴びている。
私も是非行きたい場所でもある。
何よりもハブがいないので、安心してどこでも歩けるのが魅力だ。
ただ、喜界島出身者の方から水はおいしくないと聞かされていた。

喜界島の料理は他の奄美地域でも普通に食べられていると思う。
ただ、長寿草なる物は知らなかった。
喜界島はごまは有名だったので知っていたが、みかんは知らなかった。
シークァーサーに勝るとも劣らない健康食品であることも驚きであった。
ただ、私がよく通った与路島でも自然に生えている柑橘類が多く。
健康には良さそうだが、強烈な酸味や香りがあった。
地元の人も栽培したり、人に勧めるものでは無かった。
そういう柑橘類も奄美にはあるが、喜界島は商品化にまでしていることが素晴らしい。

私が通っていた当時も健康長寿な人は多かったが、無医村だったので万一の対応が遅れたケースもあった。
健康長寿である理由に、食生活や体を動かすことと、人との関わりをあげていた。
まず食生活は沖縄と違って、米軍の影響による変化はあまりなく、伝統的な料理をアレンジしたことが良かったと思う。
ただ、焼酎が日常に飲めるようになり、アルコール依存で健康を害している人もいた。
私は特に人との関わりが重要だったと思う。
ネットに「孤独」がいかに健康を害するものか書いてあったのを読んだことがある。
「孤独」は気力も体力も失わせる重大な病因である。
与路島の人は夜になると知人や親戚の家を訪ね歩いて、飲食や歌を楽しんでいた。
冠婚葬祭が派手で、村の祭りや行事も多く、宴会に歌や踊り、船こぎや相撲を楽しんでいた。
それもだんだん過疎が進みたまに孤立したご老人もいたのが、気がかりでもあった。

私は今住んでいる上郡に足らないのは、人と人の関わりだと思っている。
赤穂は自分の母親のようにカラオケや民謡で楽しくやれる機会も多い。
以前は近所の家の縁側やたき火のそばでのおしゃべりがあった。
今はそれが失われて家に引きこもっている人も多い。
一時は盛んだったゲートボールもあまり見なくなった。
みんなが気軽に立ち寄れて、楽しめる機会が持てれば健康寿命は伸びると思う。
何よりも病院で友達と会話を楽しむ必要がなくなる。





2018年1月27日土曜日

時代を紡ぐ万葉岬

いつ頃からか万葉岬という名前が相生に現れた。
国民宿舎の相生荘からの変身である。
実はここが相生荘の時代に、家内がしばらく臨時職員として勤めていた。
以前から椿が咲く頃には、神戸新聞の取材に応じてモデルを務めたと言っていた。
残念ながらその頃の写真は手元に無く、家内の実家にあった記事も白黒で印象も薄かった。
当然、見合いする前の話で、私にはあまり関心がわかなかった。

ここには龍野の養護学校(特別支援学校)に勤めていた頃はよく利用した。
当時は、平日に泊まりがけでの飲み会が多くて、夕方から来て朝早く帰り、景色を堪能したことは無かった。
ただ、大学の頃に家族で初日の出を拝みに来たのだが、人が多くて駐める場所に苦労したのを覚えている。
万葉の岬を名乗るようになってからは、一度も来た頃は無く、その前を素通りしていた。
だから、じっくり風景を眺めたのは初めてだとも言える。

今日(1/27)は義父の49日の法要の後の食事で来ることになった。
上郡付近は朝から雪が降り積もり、岬も寒いだろうと思ったが、昼間来てみると暖かい。
食事はやはり牡蠣中心となったが、おいしく頂いた。
特に魚が色々入った炊き込みご飯は、懐かしい味がした。
ただ、みんなに受けるようなメニューだったので、海をもっと感じさせてくれる料理がほしかった。

昼間からはそう飲めるものでも無くて、食後にあたりを散歩した。
万葉岬の名前の由来となった歌碑が建っていた。
「縄の浦ゆ背向に見ゆる奥つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも」万葉集巻三、山部赤人
「室の浦の湍門の崎なる鳴島の磯越す浪に濡れにけるかも」作者不詳、万葉集巻十二
http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/old/literature/kanegasaki.html
という歌が、この地ゆかりの歌だという。
縄の浦は相生湾のことらしいが、那波という相生の町の地名もそこからきているのかもしれない。
室の浦は室津付近の湾を指すらしいが、ともに地名がしっかり受け継がれて時代を感じさせる。

今日法要を勤めてくれたご室津浄運寺の御住職から、浄運寺が参勤交代の大名に支えられていたことを聞いていた。
万葉の時代から、鎌倉時代、江戸時代とこの地は歴史を刻んできたことがよく分かる。
今は相生の町も造船所も一時の勢いを失い、時代から取り残された感がある。
それでもこの岬のホテルは落ち着いた雰囲気で、人を惹き付けてくれている。
千葉から来た跡継ぎの嫁はここに住むのは嫌だと公言した。
確かになじみの無い人にとっては、これと言って魅力が無いのかも知れない。
しかし、相生も赤穂も近畿の中では、住みやすくて人気のある場所になったいる。
私にはごみごみした東京圏の都市よりもよっぽど居心地が良いと所と思う。
なにせ時代を紡いできた地であり、これからもそうであると思っている。
と言いつつも、この法要で親が播磨生まれは私と息子、娘3人だけでマイナーな存在だった・・・



2018年1月26日金曜日

誰もいない渋川の海

とてつもない寒風が吹き、渋川の海岸には荒波が打ち寄せていた。
岡山県の人にとっては、渋川という名の海水浴場はよく知られている。
「川に海水浴?」と初めて聞いた時は疑問に思ったと、岡山の大学に通っていた家内から聞かされていた。
思っていたより広大で、宿泊施設も整っているのに驚いた。
ここは最近では渋川マリン水族館のゾウガメが逃げて懸賞金がかけられて有名になった。
私は今回、その隣にある「渋川青年の家」に研修で宿泊することになった。
岡山県の社会教育施設に勤める人たちの集いである。
午後からの講演を受けて、夕方の自由時間に浜辺に降りてみた。
来た時よりは波はおさまっていたが、風がひどくきつかった。
遠くに本四架橋の児島坂出ルートの橋が見える。
娘はその坂出の近くの宇多津に住んでいるのだが、海を挟んでそのあたりが見えるのも不思議に思える。
この海岸は夏場は人でごった返して、それほどきれいに感じないと同僚から聞いた。
どこの海岸もそうだが、冬の海辺の方が美しい。
夏でも美しいのは沖縄・奄美の海だと私は思っている。
その夜は懇親会や同室の人と、色々と話が聞くことができてためになった。
職場の規模が小さいので、こういう機会でないと見地を広げられない。
特に離島の施設の人から、その暮らしぶりを聞くことができて良かった。
また、私のように転職した人との話も、勇気づけられた。

翌朝、朝食後に海に出てみると、若い人たちが海に向かって叫んでいた。
今も昔もあふれるエネルギーを海にぶつけるのは変わらない。
そのエネルギーは午前のプログラムに発揮されていた。
私も年甲斐も無く「ドッジビー」に夢中になっていた。
20代から60代半ばまでの男女が、一緒に楽しめた。
これこそ社会教育だと思った。
社会教育は青少年だけのものではない。
学校と違って、年齢や男女、貧富の差も関係なく一緒に学んだり楽しむ場だと思う。
誰もいない渋川の海で、その可能性を少し学んだ。


2018年1月22日月曜日

雪の東京

今日(1/22)から東京では雪が心配されている。
私が東京で暮らした初めての年の冬(1984年)のことを思い出す。
当時私は中野の下宿に住んでいた。
そのアパートは6畳1間で、小さなタイルの台所がついていたが、風呂は無くトイレも共同だった。
部屋は二階の西側で、朝は薄暗く、隣にもアパートがあったので、午後からも陽はあまり入らなかった。
中野駅からは東に中央線の線路沿いに10分ほどで、近くに図書館もあった。
まさしくかぐや姫の「神田川」の世界で、貨物列車が通ると揺れたが、川は傍には無かった。
近くの風呂屋には、家庭教師のバイト前に一人で出かけたが、私には非常に熱くあまり湯にはつからなかった。
家賃23,000円の貧乏学生にはありがたい下宿だったが、大学院には遠く交通費も馬鹿にならなかった。
ここは大学のゼミの先生のお母さんが経営する下宿を紹介されて、知り合いのいない自分にはありがたかった。

雪が降った東京は大混乱に陥った。
首都高は止まり、電車もかなり遅れた。
電車はポイントが凍り付いて動かなくなったので、カンテラをたいて暖めていた。
雪道はアイスバーンになって、雪道になれない都会の人が転んで怪我をしたり、頭を打ってなくなる人もいた。
救急車が頻繁に走り回る羽目になっていた。
原宿駅前の坂には車が放置されていたり、普通の道路でもまともに通れなかった。

その後も雪かきをしっかりしなかったので、下宿の前の道路は凍り付いて溶けない。
大家さん(先生のお母さん)に頼まれて、私はその氷をハンマーで割ったり、お湯で溶かしたりした。
大家さんは持病を持っていたので、きつい作業はできなかったのである。
この東京の雪の混乱はしばらく続いた。

そして、それから2年後、私は博士課程への進学を諦めた日の雪も思い出す。
出願を諦めて、哀しい気持ちになっていた時に、無情の雪が降っていた。
育った赤穂では殆ど降らない雪は、東京ではしょっちゅう降り、東北の一部のように思えた。
そして、それが東京で見る最後の雪となった。




2018年1月21日日曜日

二つの恋ヶ崎

私が生まれた鷆和には、恋ヶ崎というしゃれた名前の浜辺がある。
親は綱崎(つなさき)と普通言っていたので、その名を知ったのはずっと後のことである。
若い頃に原付バイクに乗ってドライブがてらに行った時のことである。
そこにお巡りさんがやってきて、不審者に思われたのか職務質問された。
免許証を提示させられたのだが、当時は本籍地も記載されていたので地元の関係者というのがすぐわかった。
お巡りさんは不審者と疑ったのを笑顔でごまかして、去って行った。
ここには今でも、SUPをするために夏場には来る。
小さい頃には家族で泳ぎに来たり、父親と貝を掘りに来た。
当時はハマグリも採れて、どういうわけか子供たちは鎌を砂に立て引きずって探していた。
結婚してからも子供を連れて、海水浴に来てスイカを食べたりした。
工場や採石場があるので、景色はそれほど良くないが落ち着ける場所である。
ただ、一度もデート場所に使ったことは無く、同僚のメグ(ALT)とSUPをしたことがあるだけである。

私にとっては、恋ヶ崎と呼びたいのはどちらかというと唐船(からせん)海岸である。
ここは私のその後育った尾崎の遠浅の浜辺で、小学校の頃は私たちの釣りや貝掘り、海水浴の遊び場であった。
中学校や高校時代の友達を連れてきて遊んだのもここだし、彼女とデートに来たのもここである。
今は前に見える家島は採石されて無残になっているが、小豆島も間近に見えて景色は素晴らしい。
昔と違って、海岸も美しく整備され、海浜公園の一部になっている。
ここには赤穂高校に赴任してからは、勤務が終わった後や、休憩時間に散歩したり、ジョギングを行っていた。
時々教え子がデートしているのに出会うので、少々向こうには気まずい思いをさせていた。
教え子たちにはまさしく恋ヶ崎であった。

去年の春まで勤めていた定時制の出勤前にはよくここを散歩した。
特に秋頃から運動不足解消のために、浜辺を通って公園内に入り、駐めた車に戻っていた。
寒い冬の日も、この海岸と海浜公園を歩くと気分が爽やかになった。
何よりも風景だけでは無く、鴨やカモメなどの海鳥に出会えるのが楽しみでもあった。
公園で子供連れの親子を見ると、自分たちの子供を連れて来た頃を思い出していた。
その時の私には、昔を恋しく思う恋ヶ崎であった。



2018年1月19日金曜日

裏山登り

このところ仕事柄、山に登る機会が多い。
こう切り出すと、林業関係者かと思われるかも知れないが、オリエンテーリングに備えての下見である。
私は昔から肥満系の体質だったので、山登りは苦手だった。
上り坂は苦しいし、下り坂は足に応えた。
高校生の頃は殆ど山に登ることが無かったので、いつも山仕事をしている70歳後半の祖父よりも登るのが遅かった。
逆に言えば祖父はとろい高校生には負けない体力を維持していたのだ。
私もそれを考えれば、これから鍛えればしっかり登れるようになると思う。

実は学校教師として山に登る機会が結構あった。
赤穂養護学校(特別支援学校)では、赤穂の御崎から尾崎にかけての山を生徒と歩いた。
龍野実業ではしょっちゅう同僚の先生と裏山に登り、気分転換をした。
兵庫県立大学附属高校では、1年生の野外活動で大山に登った。
姫路特別支援学校では、授業や行事として生徒と裏山を登る機会が多かった。
特に姫路特別支援学校では、裏山に登ると姫路の街や遠く瀬戸内海の島々が眺められて最高だった。

こういう経験があり、普段もクロと一緒に近くの裏山に登ることがあっても、本格的な登山をしたいと思わなかった。
登り慣れた人にはついて行けないと思ったからである。
今回も若い職員は坂道を駆け上がれるのに、自分は待ってもらいながらついていった。
しかも、私は汗びっしょりなのに、若い職員は汗一つかいていなかった。
60歳間近の私が20代、30代の職員と同じように歩けるはずが無いのだが、これからはそうも言っていられない。
兵庫県立大学附属高校に勤めていた頃、講演で三浦雄一郎氏が来てくれたが、氏は60歳で死にかけてから登山を始めたことは有名だ。
エベレストに登った三浦氏を思えば、裏山に登るくらい大したことは無い。

たかが裏山だけれど、裏山に登る魅力も確かにある。
山に登って里に戻ると、あたりが違った風景に見えるから不思議だ。
私がよく通った奄美与路島の八月お踊りの歌の中にも、裏山に登る歌がいくつもある。
裏山に登って自分の生活している村や、職場などを遠い山や海と対比させて遠く眺めることが最高の気分転換になるからだろう。
普段抱えている悩みやストレスをいくらか解消してくれる。
本格的な登山と違って、それなりの靴を履き、それなりの格好をすればいつでも登れる。
それが裏山を登ることの魅力でもある。
そして、なによりも自然の動植物を身近に感じることで、たとえ一人でも孤独から解放される。


2018年1月15日月曜日

街が恋しい

私が住んでいる上郡町は自然豊かな田舎である。
今勤めている職場も、それ以上に自然豊かな田舎である。
その職場は野生動物の禁漁区にもなっていて、まさしく野生の王国でもある。
考えてみれば、今まで30年間教員をしていて、街の中の学校と呼べる学校は一つも無い。
ただし、臨時講師の時代には姫路城の近くの白鷺中学とか、尼崎小田高校のような街の学校経験はある。
とにかく、採用されて教諭として赴任した学校は自然豊かな立地にあった。
その時代には街が恋しいと思ったことは一度も無かった。
むしろ、その自然に癒やされることが多かった。
山の近くの学校では、山に登ったり、海の近くの学校では海岸を歩いたりしていた。

ところが、今回の職場はその自然そのものを相手にすることが多くなった。
今まで生徒との関わりが主だったのに対して、自然の方が今のところ主なのである。
しかも、職場までの道の途中にも街らしい街は無い。
そうなると休みの日には街に出かけたくなる。
今日(1/13)もわざわざ岡山大学の近くのスポーツ店まで家内と車で買い物に出かけた。
今までは都市部の道路の運転は煩わしいので避けていたのだが、今回はそう思わずずっと自分が運転した。

実は、私は小学校まで自然豊かな環境で学んだが、中学校から殆ど都市部である。
姫路の中学・高校、神戸の予備校、名古屋の大学、東京の大学院。
例外は長期研修で通った兵庫県加東市の大学院である。
下宿暮らしは、神戸、名古屋、東京、横浜の経験を持っている。
しかしながら、一度も街の暮らしに満足したことは無く、休みには自然を求めていた。
また、学生時代の村落調査で長く滞在した奄美与路島は、自然そのものだった。
だから、街が大好きというわけではけっして無い。
なのに、今は街が恋しいと時々思う。
それは、今住んでいる村が寂れてしまっているかも知れない。
かつて、老人が取り残されていた奄美与路島と似た様子になってきた。
そう言えば、調査中にたまには古仁屋という街に出かけたことを思い出す。
それでも、田舎暮らしをやめたいというわけでは無い。
こうして、たまの休日に出かけて、車や人の多いのを経験するだけで良い。
所詮、街に憧れる田舎のネズミなのかも知れない。

2018年1月13日土曜日

「雪の華」の似合う学校

私は以前、兵庫県立大学附属高校に勤務していた。
ここは西播のチベットとも呼ばれるほどの寒冷地にある。
自宅の家から、北の学校方向に冬場雲がかかっていると、雪が降っているのだなと思った。
上郡は赤穂より2℃ほどいつも低かった、学校のある光都はさらにそれより2℃低かった。
雪が降ると根雪になり、スキー場と同じ景色になった。
当然教室はストーブを焚いているのだが、廊下がすぐに外という教室もあり、教室から吹雪の中にでることもしばしばあった。
外にある廊下は凍り付くこともしばしばで、悪戯好きの生徒はわざと冬場に水を撒いたりした。

ストーブの思い出としては、女生徒が近寄りすぎてスカートを焦がしていたこと。
一番困ったのは、ある女生徒が使い捨てカイロをストーブの上で破ってしまい、その鉄粉が舞い上がって目に入ってしまった。
私の担任している寮住まいの生徒だったので、上郡の眼科まで連れて行ってやった。
拡大して見せてくれた目蓋の裏にはしっかりと鉄粉がひっついていた。
このように雪に関しては、あまり良い思い出は無いが、当時はやっていた中島美嘉の「雪の華」が合う学校だった。
同じ地歴科の若い教員と飲んで、カラオケでこの曲を歌った時。
その若先生は、「まさしくうちの学校の歌ですね」と言ってくれた。
私は徳永英明のカバー曲は、途中のサビの部分を低く歌うのであまり好きでは無い。
10回生の卒業記念DVDには、雪の風景とともにこの中島バージョンの曲を自ら歌いBGMに用いた。
雪の日や「雪の華」を聴いたり、歌ったりするたびに生徒と学校を思い出す。

※写真は学校の寮の雪景色

2018年1月10日水曜日

初泳ぎ2018

今日(1/8)久しぶりにプールに行った。
朝から結構雨が降っていて、クロの散歩はしなかったので、血糖値を下げる目的で出かけた。
このところ慣れない仕事に精神的に疲れて、夕方はプールに行けてなかった。
年末年始は休みなので、行けないのは当然なのだが、プールが開いても行けなかった。
プールでガンガン練習していた頃は、この年末年始の休みが却って苦痛だった。
泳ぎで体調や生活のリズムを維持していたからだ。
泳がないと精神的にも不安定になったのを覚えている。
水泳部の顧問の時は、1月4日にプールが開き次第練習を行っていた。

今日は雨だったので、普段は夕方に泳いでいる知人にあった。
彼は退職後、毎日泳ぎを続けているが、とうとう糖尿病になって薬を飲んでいるという。
6コースの内、3コースが成人用のコースに占められていた。
成人用といっても、来ている人はお年寄りの女性ばかりである。
残りの3コースの内の1コースのみで、3人が泳ぐことになった。
泳力は違うけれど、そこは適当に待ったり、途中でターンをして泳いだ。
普段は800mのアップの後でバタフライ、背泳、平泳ぎ、個人メドレーの練習を順にする。
今日はバタフライの練習は後に回して、平泳ぎから始めた。
すると、他の人がいなくなってやりはじめた最後のバタフライの50mは、タイムも遅く辛かった。
ここのところ水泳の練習不足が体にハッキリと表れていた。

NHKスペシャルの「NHKスペシャル!人体 ミクロの大冒険」は、非常に興味が持て参考になる。
今回の「骨」の特集も、非常に勉強になった。
骨が記憶力や、精力に影響しているとは全く知らなかった。
骨には衝撃が必要と言うことで、水泳に関しては問題があることが分かった。
水泳はせいぜいターンの時に壁を蹴る程度で、自分もジョギングで足が調子悪くなり始めた。
やはり水泳だけでは駄目だったようだ。
走れなくても、しっかり歩くことが必要だと分かった。
人類はやはり二足歩行で生きる力を獲得していることがよく分かった。
自動車での移動、長時間のデスクワークこそ病気や老化のリスクを高めているらしい。
ネトゲ廃人が問題になっているが、まさしく人類滅亡への先駆けなのだろう。

2018年1月7日日曜日

膵臓がんで逝った知人

星野仙一さんが膵臓がんで亡くなったニュースをネットで知った時、やっぱりと思った。
70歳というい若さで、まだ元気に活躍していると思っていた。
元千代の富士も膵臓がんで60歳で亡くなった。
膵臓がんは治療が進んだとはいえ、分かった時点でおしまいと言われてきた。
実は、私の知人もこの病気で亡くなった人が多い。
私自身も、一番気をつけなくてはいけない癌である。

私の知人の場合、この癌で亡くなる人でゆったりと生活していた人は居ないと言うことだ。
殆どの人は退職していないか、退職間近の人だったが、退職した人でも多忙な人だった。
50代後半で亡くなったある英語の教師は、優秀な教師として国から表彰されるほどの人物だった。
学校の中心人物として、国際交流を中心に活躍していた。
個人としての活動も、ボランティアやビデオ撮影など多彩だった。
ただ、そんな彼でも、精神的に追い詰められていたこともあったことを、本人から聞いたこともあった。
しかし、そんな弱さは絶対に表には表さなかった。
亡くなった時も朝まで元気で、見舞いに来た人と接していたという。
彼の葬儀には、多くの人が参列して、故人の若すぎる死を悼んだ。

教師にはもう一人、膵臓がんで亡くなった人がいたが、その人は60歳を過ぎても働き続けていた。
非常に周りのことに気を遣われる人で、よく私にも声をかけて頂いた。
普段から健康に気をつけているようで、たまにジョギングもしていた人だった。
ただ、亡くなった後で聞いた話によると、飲むととことん付き合ってしまうタイプだった。
体育の先生だったことで、飲みづきあいも多かったのかもしれない。
学校への思い入れも強かったので、家族の意向で記念品が学校に贈られた。

近所にも膵臓がんで亡くなった人が二人いるが、一人は仲の良かった人である。
この人は、息子さんと二人暮らしだったが、夜は一人飲み屋で飲んで家にはあまりいないいことが多かった。
海外旅行に行ったり、プレジャーボートを所有して釣りに普段からよく行っていた。
私も誘われて、何度か一緒に海に行って魚や貝を採ったことがある。
亡くなったのは、60歳の定年退職間近の時だった。
膵臓がんが分かった時点で、息子さんのために家を大幅に改築したりした。
結局その家は、亡くなった後に結婚した息子さん夫婦によって建て替えられた。

私の知っている膵臓がんで亡くなった人は全て男性だ。
人それぞれ生活の仕方は違うのだろが、暢気に暮らしていた人では無いと思う。
どちらかというと、他人には弱いところを見せないタイプだった。
今の時代に暢気に暮らしていける人がどれだけ居るのかと言われればそれまでだが。
自分を守ることを普段から心がける必要があると思っている。
だから、私は持病もあって糖質制限を公言している。
普段から職場で頂くお菓子は全て持ち帰って、決して一人では食べない。
昨日も職場で出された餅入りのラーメンも我慢して断った。
私はラーメンは大好きで、以前は飲食後によく食べていた。
しかし、今は「ラーメンはダーメン」が口癖だ。
ただ、糖質ゼロのビールや酒は口に合わずだめだ・・・





2018年1月5日金曜日

播州清水寺への参拝

今日(1/2)、朝には既に愚犬クロと散歩で近くの山に上がっていた。
落人伝説で有名な小野豆という山頂集落である。
本当は元旦に登って初日の出を拝むべきところだったが、クロは人混みは苦手なので二日目に行くことにした。
海が見える「平家塚ふれあい公園」まで家から歩いて行った。
海は朝日に照らされて、遠くで光っていた。
海にゆかりのある平氏も、同じ景色を見ていたのだろうと思う。
海にゆかりがあるのは私とても同じで、考えてみれば赤穂に戻らなくても上郡から海は見えていた。
ただし、天気が良くなければ見えない。


山から戻ってから家族3人で出かけることにした。
今年は我が家は義父が亡くなって四九日も経っておらず喪中であり、神社への初詣は控えている。
その代わり、お寺にお参りするのは良いだろうということで、お寺に行くことにした。
私自身は最初から播州清水寺に行きたいと思っていた。
ここは兵庫教育大に通っていた頃に知り、それ以来行きたいお寺だった。
行き先は言わずに、私が運転して出かけた。
途中の安富で渋滞に巻き込まれてしまった。
これは近くの安志加茂神社への参拝の渋滞であることがすぐ分かった。
その渋滞で播州清水寺への参拝の気持ちが揺らぎ、福崎のお寺にしようかと家内に相談した。
家内は時間がかかることを覚悟で、播州清水寺を選んだ。
一か八かの裏道で、途中から渋滞は抜けることができた。

社町までは通い慣れた道で私が運転し、社町のコンビニで休憩を取り運転を代わってもらった。
篠山に抜ける山道沿いに進み、お寺の入り口にたどり着いた。
なんと、入山料が一人500円かかる。
ゲートの前に駐車場もあったので、おいて上がろうかとも思ったが、車で上がって正解ということがすぐに分かった。
険しい山道お登りついた山頂にお寺はあり、そこから見える景色は周りを見渡せて抜群だった。

駐車場はほぼ満杯で、参拝客の多いのに驚いた。
おそらく大晦日や元旦は車の渋滞が坂まで続いていたのだろう。
2日で時間も午後だったので、渋滞をまのがれたらしい。
仁王門をくぐり、大講堂に向かうと列ができている。
参拝するためにこんなに長く並ぶのは初めての経験だった。
大講堂の舞台からは遠く明石海峡などを望むことができた。
山頂から海を望むのはこの日は二度目の経験である。
そこから石段を登って根本中堂を参拝した。
そこではミルクコーヒーが振る舞われていたが、あまり人気は無かった。
因みに参拝客相手の屋台がたくさん出ていて、中には鶏の唐揚げも売っていた。
寺の中で鶏肉を売るということに抵抗を感じると家内と話したが、これも時代の流れだろう。
そして、その裏に回るとこの清水寺の由緒となった「おかげの井戸」に行き、2年寿命が延びるというので自分の姿を映した。

帰りは再び私が運転して、東条湖を回って帰った。
そこは、子供が小学生の頃、子供会から来たところだが、一緒に来た息子は。覚えていなかった。
寒いのにも関わらず東条湖ランドには、たくさんの人が来園していた。
食事がまだなので、加西のイオンに寄って、食べようとしたが駐車場が満杯で駐められなかった。
結局自宅の近くのスーパーで、買い物をして夕食となった。
急ぎ足で、食事さえできなかった、参拝だったが一年の初めとなる良い機会になった。
播州清水寺は季節ごとに良い景色が、見られるようなのでまた来たいと思った。
因みに今朝登った小野豆も播州清水寺も平氏と関係があり、ともに海が見える。
後者は清盛で前者は経盛だが、落人のような私には因縁を感じた・・・







2018年1月3日水曜日

思い出作りの正月2018

以前高校に勤めていた時に、野球部の顧問が「クラブ活動は思い出作り」と言っていたのをよく思い出す。
休日も練習や試合で明け暮れて、家庭を犠牲にしている顧問の言葉に耳を疑った。
しかし、「甲子園が目標」「プロ野球選手になる」という言葉よりも、重みがあるものだった。
どんなに努力を積み重ねても、甲子園に出られたり、プロ野球選手になれるのは一握りだ。
選手自身も顧問も野球に全てを打ち込む意味を問われて、ほぼ不可能に近い意味を見いだすことはできない。
それなら、いっそ「思い出作り」と、開き直った方が納得いくだろう。

これは自分たちの生活に関しても言えることがある。
この正月に弟夫婦は10時間以上かけて、神奈川県の葉山から車で帰省した。
しかも、親の負担にならないようにホテルに宿泊した。
親兄弟を中心とした嫁孫とで過ごしたのは、3時間ほどだった。
うちのこの集まりは、多くが歌が好きなので、カラオケがメインになる。
今回もカラオケ屋を貸し切りにして、みんなでお好み焼きをつつきながらカラオケを行った。
この風景は、私たち兄弟の子供が小さい頃からの風景でもある。
大学院で学ぶ姪も嫌がらず来てくれて、歌ってくれた。
私の歌を聴いて、母親がうまくなったと前回同様褒めてくれた。
母親はカラオケや民謡を先生について練習している。

普段話せないことを、話せば良いのだろうが、実は兄弟はLINEの仲間であり、いつでも連絡が取れるのである。
だから、正月盆に改めて話をする必要も無い。
いつ倒れてしまうかも分からない一人暮らしの高齢の母親と、楽しい時間を過ごすために集まったのである。
いわば「思い出作り」のための正月であった。

仕事で明け暮れる日常の生活を思い出すことはあまりない。
しかし、楽しく過ごした盆や正月、祭りなどはよく覚えている。
葬式や法事以外に集まることができて、良い思い出になるのが盆や正月だ。
家に家業があったり、近くに住んで農作業を手伝い合っていた頃は、生活のための集まりだった。
今は、歌や旅行などの楽しみを一緒にするための集まりになっている。
それが、できるだけでも幸せなのかもしれない。
果たして、将来私の家族はそういう機会を持てるのだろうか?
子供は二人とも結婚して居らず、孫もいない。
それでも、集まることができれば、旅行くらいは行けるかもしれない。
人それぞれの、思い出作りの正月を迎えれば良いのだろう。