先日、朝,新聞を取りに玄関先にでたら、新聞が来ていない。
この頃、月に一度ほどこういうことがある。
たぶん、普段と違う人が配ってミスをするのだろう。
休みが十分とれない配達員のことを思うと、あまり怒れない。
実は、私もかつて配達員を数ヶ月だけしたことがある。
私は父親の意に反して大学受験に失敗して予備校に通うことになった。
弟も受験生なので、下宿させる余裕が無かった。
それで、私は朝日新聞の奨学生に応募した。
授業料の前借りはせずに済んだが、予備校近くの販売所に住み込んで朝夕刊を配達することになった。
販売所は阪急春日野道駅の北にあり、神戸特有の坂の多い街だった。
販売所の店主は元トラック運転手で、凄みのある人だった。
新聞配達は思ったよりも辛く、失敗の連続だった。
私は原付免許と持っていたので、急な坂道の場所が担当になった。
中には15階建てのマンションがあり、階段を上がったり下がったりせねばならなかった。
たまに配り忘れて、電話がかかってきて届けに行き、電話代10円を渡そうとすると「嫌らしい」と断られ蔑まれたこともある。
受験勉強もまともにできず、「何でこんなことをやっているんだろう」と配りながら涙が流れたりした。
そんな中でも、一緒に頑張った奨学生仲間とは励まし合って仲良くできた。
苦しい時の友というのは、本当にありがたいと思った。
ただ、新聞配達を辞めてから一度きり会っただけで、その後会うことは無かった。
自分としては途中で辞めたやましさと、当時の苦い思い出を思い出すのが嫌だった。
配達を辞めてからは、自宅から御影の大道予備校まで長時間通うことになり、だんだん休みがちになった。
そして、共通一次試験初年の大学受験でも上手くいかず、希望の大学には行けなかった。
そんな、良い思い出の無い新聞配達だが、心に残る思い出がいくつかある。
その一つは、洋菓子工場の宿直のおじさんのことだ。
私が配っていた洋菓子工場の宿直のおじさんは、よく新聞受けにその工場で作る洋菓子を紙でくるんで置いてくれていた。
私はありがたくそれを頂き、配りながらほおばったりした。
その洋菓子にずいぶん慰められたし、たまにおじさんも声をかけてくれて励まされた。
しかし、そのおじさんもしばらくすると退職になってしまった。
その最後の日に、おじさんは待っていてくれて、挨拶してくれた。
私ははずかしながら、軍手をしたまま握手をしてしまった。
何も礼儀作法を知らない、未熟者と思われたかも知れないと今でも悔いが残っている。
都会の世知辛い町に、世間のことを何も知らない若者に暖かく接してくれる人がいるということを教えてくれた。
そのおじさんと洋菓子は、新聞配達をしていたからこそ知り得た思いやりだった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年2月27日火曜日
2018年2月24日土曜日
ギター・マンドリンの音
今日(2/23)、久しぶりにギター・マンドリンの演奏を聴いた。
これは、私の勤める施設で合宿をして練習をしていた大学のクラブが、お礼にと職員のために演奏をしてくれたのである。
演奏曲は「浜辺の歌」だった。
この曲を聴いて、総務課の女性課長さんが逸話を聞かせてくれた。
課長さんがとある高校を離任する際に、吹奏楽部の生徒が課長さんのために演奏してくれたという。
それは、前もって先生が「どんな曲が好きですか」と聞いてくれていた。
課長さんは当時亡くしたばかりのお母さんが好きだったその「浜辺の歌」を答えたという。
事務方の課長さんは、学校の離任式には出られないので、3月31日にわざわざ吹奏楽部や、練習していたクラブの部員がこの曲で送ってくれた。
この曲を聴いて、課長さんは涙が止まらなかった。
今日、聴かせてもらった演奏は、偶然だがそういう一生忘れ得ない思い出を喚び戻すものだった。
寒い季節に、山の中の施設に籠もって練習を重ねた学生さんの優しい気持ちが伝わってきた。
私はかつて龍野実業高校でギターマンドリン部の副顧問をしたことがあった。
部員が集まらず、潰れかけていたが、音楽を愛する気持ちを持って何とか持ちこたえてがんばっていた。
この大学のクラブも一時より部員数は少ないそうだが、こうして維持できているのは、音楽に対する深い気持ちがあるからだと思う。
最近、貸しビデオで「オケ老人」を観て、考えさせられたのは、音楽は上手い下手では無くて、いかに心を通じ合える演奏ができるかと言うことだった。
当然、演奏が下手すぎても無理だが、優れているからといって、心が通じるとは限らない。
そして、課長さんの逸話では無いけれど、人生の深い思い出に結びついてくる。
私ももう一度日々の生活の中に、音楽を刻んでいきたいと思う。
帰って行く学生さんに「マンドリンの音は、この山の中に合っていたね」と声をかけた。
彼は笑顔で頷いた。
これは、私の勤める施設で合宿をして練習をしていた大学のクラブが、お礼にと職員のために演奏をしてくれたのである。
演奏曲は「浜辺の歌」だった。
この曲を聴いて、総務課の女性課長さんが逸話を聞かせてくれた。
課長さんがとある高校を離任する際に、吹奏楽部の生徒が課長さんのために演奏してくれたという。
それは、前もって先生が「どんな曲が好きですか」と聞いてくれていた。
課長さんは当時亡くしたばかりのお母さんが好きだったその「浜辺の歌」を答えたという。
事務方の課長さんは、学校の離任式には出られないので、3月31日にわざわざ吹奏楽部や、練習していたクラブの部員がこの曲で送ってくれた。
この曲を聴いて、課長さんは涙が止まらなかった。
今日、聴かせてもらった演奏は、偶然だがそういう一生忘れ得ない思い出を喚び戻すものだった。
寒い季節に、山の中の施設に籠もって練習を重ねた学生さんの優しい気持ちが伝わってきた。
私はかつて龍野実業高校でギターマンドリン部の副顧問をしたことがあった。
部員が集まらず、潰れかけていたが、音楽を愛する気持ちを持って何とか持ちこたえてがんばっていた。
この大学のクラブも一時より部員数は少ないそうだが、こうして維持できているのは、音楽に対する深い気持ちがあるからだと思う。
最近、貸しビデオで「オケ老人」を観て、考えさせられたのは、音楽は上手い下手では無くて、いかに心を通じ合える演奏ができるかと言うことだった。
当然、演奏が下手すぎても無理だが、優れているからといって、心が通じるとは限らない。
そして、課長さんの逸話では無いけれど、人生の深い思い出に結びついてくる。
私ももう一度日々の生活の中に、音楽を刻んでいきたいと思う。
帰って行く学生さんに「マンドリンの音は、この山の中に合っていたね」と声をかけた。
彼は笑顔で頷いた。
2018年2月20日火曜日
千種水汲み2018年冬
去年の秋に汲んできた水も無くなってしまった。
今年は非常に寒いので、千種まで水を汲みに行けるか心配した。
かつて、冬に水汲みに行った時に駐車場にも雪が溜まっていたりしたことがある。
何よりも、凍結して水が出ないのではないかと思った。
家内は以前に千種町に問い合わせたことがあるが、その日によって出ないことがあると言われたという。
千種川監視のライブカメラで付近の様子を見たが、思ったより雪は無さそうだ。
行って駄目なら、ドライブに出かけたと思って諦めることにした。
今日(2/17)、出かける時は上郡も冬空の天気で、晴れてはいたが風が吹きすさんでいた。
千種に近づくに従って、空が曇ってきて、路面が濡れてきた。
さすがに、南光町のキャンプ場でテントを張っている人はいなかった。
ただ、スキー場に向かう車や、帰ってくる車に出会うことは無かった。
時間が昼前だから少ないとも思えるが、以前と比べるとスキー客は減ったことを感じる。
以前は冬場の娯楽はスキーくらい無くて、若い人は誰でもスキーを楽しんだと思う。
スキーをしなくても、子供を連れて雪遊びを楽しんだ。
今は、マラソンブームで冬場はレースも多い。
また、ゲームやスマホで暖かい室内で楽しんでいる人も多いのだろう。
とにかく、前も後ろも車のいない道路を車は走った。
千種町に入ると雪が散らつき始めて、雪国であることを実感させた。
道路端に雪は残ってはいるが、大した量では無い。
水汲み場付近にも雪はそれ程積もっていなかった。
ただ、雪が降り注ぐ中、じっと水を入れることになった。
いつも使う向かって右にある給水販売機は100円入れても水は出ないどころが、お金も返ってこなかった。
左手の販売機につなぎ直すと普通に出たのでほっとした。
雪の中を指がかじかみ、フタを閉めるのも手間取りながら何とか入れていった。
途中で車がやってきて、出てきた年配の男性と話をしたが、この上にも水汲み場がスキー場の所以外にもう一つあるようだった。
その人はそちらの方に向かった。
水を汲み終わり、車に乗り込んでかじかんだ手を温めた。
昼も過ぎていたし、寒いので道の駅に立ち寄る気にはなれなかった。
雪は来た時よりも多くなっていた。
ところが、南光町あたりから景色は一変した。
雪国から脱出して、まるで南国に来たようだ。
南光町とはよく言ったものだ。
千種から戻ってくる者には、光注ぐ南の町なのである。
それから室内は暖かくなり、ドライブらしくなった。
上郡に戻ってくると、今度は風の強さがひどく感じるようになった。
風の吹きすさぶ中を家にの中に水を入れた容器を運び入れた。
雪国に行ったことを実感できた水汲みになった。
今年は非常に寒いので、千種まで水を汲みに行けるか心配した。
かつて、冬に水汲みに行った時に駐車場にも雪が溜まっていたりしたことがある。
何よりも、凍結して水が出ないのではないかと思った。
家内は以前に千種町に問い合わせたことがあるが、その日によって出ないことがあると言われたという。
千種川監視のライブカメラで付近の様子を見たが、思ったより雪は無さそうだ。
行って駄目なら、ドライブに出かけたと思って諦めることにした。
今日(2/17)、出かける時は上郡も冬空の天気で、晴れてはいたが風が吹きすさんでいた。
千種に近づくに従って、空が曇ってきて、路面が濡れてきた。
さすがに、南光町のキャンプ場でテントを張っている人はいなかった。
ただ、スキー場に向かう車や、帰ってくる車に出会うことは無かった。
時間が昼前だから少ないとも思えるが、以前と比べるとスキー客は減ったことを感じる。
以前は冬場の娯楽はスキーくらい無くて、若い人は誰でもスキーを楽しんだと思う。
スキーをしなくても、子供を連れて雪遊びを楽しんだ。
今は、マラソンブームで冬場はレースも多い。
また、ゲームやスマホで暖かい室内で楽しんでいる人も多いのだろう。
とにかく、前も後ろも車のいない道路を車は走った。
千種町に入ると雪が散らつき始めて、雪国であることを実感させた。
道路端に雪は残ってはいるが、大した量では無い。
水汲み場付近にも雪はそれ程積もっていなかった。
ただ、雪が降り注ぐ中、じっと水を入れることになった。
いつも使う向かって右にある給水販売機は100円入れても水は出ないどころが、お金も返ってこなかった。
左手の販売機につなぎ直すと普通に出たのでほっとした。
雪の中を指がかじかみ、フタを閉めるのも手間取りながら何とか入れていった。
途中で車がやってきて、出てきた年配の男性と話をしたが、この上にも水汲み場がスキー場の所以外にもう一つあるようだった。
その人はそちらの方に向かった。
水を汲み終わり、車に乗り込んでかじかんだ手を温めた。
昼も過ぎていたし、寒いので道の駅に立ち寄る気にはなれなかった。
雪は来た時よりも多くなっていた。
ところが、南光町あたりから景色は一変した。
雪国から脱出して、まるで南国に来たようだ。
南光町とはよく言ったものだ。
千種から戻ってくる者には、光注ぐ南の町なのである。
それから室内は暖かくなり、ドライブらしくなった。
上郡に戻ってくると、今度は風の強さがひどく感じるようになった。
風の吹きすさぶ中を家にの中に水を入れた容器を運び入れた。
雪国に行ったことを実感できた水汲みになった。
2018年2月17日土曜日
小指が痛い
このところずっと、右足の小指の内側が腫れて痛い。
始まりは靴擦れだったのだが、それに霜焼けが加わった。
私は去年まで冬場でも通気性の良い履き物を履いていた。
それでもひどい霜焼けになったことは無かった。
それは赤穂という暖かい気候の土地で働くことができたからだった。
ところが今の職場は上郡以上に寒い。
先日も雨が降っているのに路面が凍り付いていて、職員が転んだので氷をお湯で溶かしたりした。
靴入れは屋外にあり、履き替えるとしばらくは冷たさを我慢しなくてはいけない。
また、仕事場はエアコンはついているが、足下は寒い。
今まで霜焼けに悩まされた経験があまりないので、気にしないでいた。
このところ、小指は腫れ上がりこらえながら歩かねばならなくなった。
靴下を二枚履きにしたら、かえって血行が悪くなったり、すれたりして悪化したようだ。
たまりかねて薬局へ行ったが、今使っている薬以上の物は無かった。
今使っている薬は、紫雲膏という臭い塗り薬でそれが一番効くと薬剤師さんに言われた。
この薬は数年前に足の甲の外側がちょっと霜焼けになった時に買って使った物である。
それは売り切れて置いてなかったので、霜焼けの人が今年は多いのだろうと思った。
その時に中から血行を良くする栄養剤を飲むと良いと薦められたが、値段があまりに高いので家にあるもらった栄養剤を飲むことにした。
他に足に貼るカイロも買ったり、暖かいスリッパや足もとに敷くマットも買った。
夜は風呂上がりに、入念に薬を塗って栄養剤も飲んだ。
これで駄目なら病院に行くつもりであった。
とにかく万全の態勢で今日(2/14)が仕事に臨んだ。
朝は寒かったが、昼頃から暖かくなったせいもあって、前日より痛みは軽くなった。
新しい職場は色々と試練の連続であるが、こういう予期せぬ試練もある。
本来なら症状が軽いうちに、万全の手を打っておけば良かった。
例えば足に貼るカイロも、当初値段が高いから靴下の二枚履きにしたのが間違いだった。
霜焼けは英語でfrostbiteと言うらしい。
霜や寒気が噛むと言う意味から、「寒霜が噛んだ小指が痛い」と歌ってしばらくは痛みを耐えるしかなさそうだ。
結果
2月16日に私は仕事で山に登らねばならなくなった。
そして、足の靴連れは致命的なダメージを受けてしまった。
たまりかねて、今日(2/17)皮膚科に行かねばならなくなった。
さっさと医者にかかっていれば良かったというありきたりの結論となった。
始まりは靴擦れだったのだが、それに霜焼けが加わった。
私は去年まで冬場でも通気性の良い履き物を履いていた。
それでもひどい霜焼けになったことは無かった。
それは赤穂という暖かい気候の土地で働くことができたからだった。
ところが今の職場は上郡以上に寒い。
先日も雨が降っているのに路面が凍り付いていて、職員が転んだので氷をお湯で溶かしたりした。
靴入れは屋外にあり、履き替えるとしばらくは冷たさを我慢しなくてはいけない。
また、仕事場はエアコンはついているが、足下は寒い。
今まで霜焼けに悩まされた経験があまりないので、気にしないでいた。
このところ、小指は腫れ上がりこらえながら歩かねばならなくなった。
靴下を二枚履きにしたら、かえって血行が悪くなったり、すれたりして悪化したようだ。
たまりかねて薬局へ行ったが、今使っている薬以上の物は無かった。
今使っている薬は、紫雲膏という臭い塗り薬でそれが一番効くと薬剤師さんに言われた。
この薬は数年前に足の甲の外側がちょっと霜焼けになった時に買って使った物である。
それは売り切れて置いてなかったので、霜焼けの人が今年は多いのだろうと思った。
その時に中から血行を良くする栄養剤を飲むと良いと薦められたが、値段があまりに高いので家にあるもらった栄養剤を飲むことにした。
他に足に貼るカイロも買ったり、暖かいスリッパや足もとに敷くマットも買った。
夜は風呂上がりに、入念に薬を塗って栄養剤も飲んだ。
これで駄目なら病院に行くつもりであった。
とにかく万全の態勢で今日(2/14)が仕事に臨んだ。
朝は寒かったが、昼頃から暖かくなったせいもあって、前日より痛みは軽くなった。
新しい職場は色々と試練の連続であるが、こういう予期せぬ試練もある。
本来なら症状が軽いうちに、万全の手を打っておけば良かった。
例えば足に貼るカイロも、当初値段が高いから靴下の二枚履きにしたのが間違いだった。
霜焼けは英語でfrostbiteと言うらしい。
霜や寒気が噛むと言う意味から、「寒霜が噛んだ小指が痛い」と歌ってしばらくは痛みを耐えるしかなさそうだ。
結果
2月16日に私は仕事で山に登らねばならなくなった。
そして、足の靴連れは致命的なダメージを受けてしまった。
たまりかねて、今日(2/17)皮膚科に行かねばならなくなった。
さっさと医者にかかっていれば良かったというありきたりの結論となった。
2018年2月14日水曜日
生き方の違い
昨日(2/8)からとある大学が勤め先に研修に訪れていた。
その中の教員として見覚えのある顔、しかし、下の名前は出てきても姓が出てこない。
ネットで大学の教員を調べたら、やはり出ていた。
Aさんは転職前は高校の管理職であったが、早期退職して大学の教員になったことは知っていた。
それがどこの大学だったのか憶えてなかった。
Aさんの夫も大学の職員として働いていて、昨年も私の勤め先の高校であっていた。
来ていた大学の他の職員の方にAさんのことを聞くと、学科長さんだという。
転職してすぐに学科長になっているとは、さすがだなと感心した。
Aさんとは20年程前のとある養護(特別支援)学校で同僚だったが、当時からやり手であった。
今朝見かけたので、話しかけると昔のままである。
懐かしさのあまり、色々と身の上話をした。
Aさんと一緒に働いていた学校の同僚には、Aさんと同じように管理職になって頑張っている女性がいた。
一方、私はその学校で同僚だった男性教員が早期退職しているのをうらやましく思って、自分もそうありたいと思って実行した。
女性の方が学校という場に情熱を燃やし、自分のような男性の方が消極的になる状況なのである。
私はそれはそれで良いと思っている(Aさんにはハッパをかけられたが・・・)。
情熱と能力のある女性はもっともっと管理職や大学教員になるべきだと思う。
私にとって学校は確かにやりがいのある教育現場ではあるが、それが全てでは無いとずっと思っていた。
もともと文化人類学を専攻していた自分にとって、ヒトにとっての学びの場というものを根本的に考えたかった。
今、同じ職場の史跡担当の職員に、大学で臨時講師を務めながら安い時給で働いている人がいる。
彼は大学の通信制で考古学を学んだ苦学生だったが、情熱と努力で子育てを担いながら研究活動を続けている。
待遇的には決して恵まれていないのだが、研究に対する情熱をすごく感じさせる好人物である。
私はことあるごとに、彼と歴史や教育について語り合い、勇気と元気をもらっている。
彼より安全な生活を選んだ私だが、地位財産にあまり執着していない点は似ている。
自分が本当にやりたいことがあれば、どんな境遇であっても生きがいを得る方法もあるような気がする。
世間の人にとっては、それなりの額の年収を捨てて今の仕事をしていることが理解しづらいと思う。
「人生、金だけじゃ無いよ」と、せめて格好だけつけさせてほしい。
ただ、Aさんとの再会は、違った意味でも自分に奮起を促してくれた。
彼女から「何かあったら」とわざわざ帰りがけに頂いた名刺は、お守り代わりに大切にしておこう・・・
その中の教員として見覚えのある顔、しかし、下の名前は出てきても姓が出てこない。
ネットで大学の教員を調べたら、やはり出ていた。
Aさんは転職前は高校の管理職であったが、早期退職して大学の教員になったことは知っていた。
それがどこの大学だったのか憶えてなかった。
Aさんの夫も大学の職員として働いていて、昨年も私の勤め先の高校であっていた。
来ていた大学の他の職員の方にAさんのことを聞くと、学科長さんだという。
転職してすぐに学科長になっているとは、さすがだなと感心した。
Aさんとは20年程前のとある養護(特別支援)学校で同僚だったが、当時からやり手であった。
今朝見かけたので、話しかけると昔のままである。
懐かしさのあまり、色々と身の上話をした。
Aさんと一緒に働いていた学校の同僚には、Aさんと同じように管理職になって頑張っている女性がいた。
一方、私はその学校で同僚だった男性教員が早期退職しているのをうらやましく思って、自分もそうありたいと思って実行した。
女性の方が学校という場に情熱を燃やし、自分のような男性の方が消極的になる状況なのである。
私はそれはそれで良いと思っている(Aさんにはハッパをかけられたが・・・)。
情熱と能力のある女性はもっともっと管理職や大学教員になるべきだと思う。
私にとって学校は確かにやりがいのある教育現場ではあるが、それが全てでは無いとずっと思っていた。
もともと文化人類学を専攻していた自分にとって、ヒトにとっての学びの場というものを根本的に考えたかった。
今、同じ職場の史跡担当の職員に、大学で臨時講師を務めながら安い時給で働いている人がいる。
彼は大学の通信制で考古学を学んだ苦学生だったが、情熱と努力で子育てを担いながら研究活動を続けている。
待遇的には決して恵まれていないのだが、研究に対する情熱をすごく感じさせる好人物である。
私はことあるごとに、彼と歴史や教育について語り合い、勇気と元気をもらっている。
彼より安全な生活を選んだ私だが、地位財産にあまり執着していない点は似ている。
自分が本当にやりたいことがあれば、どんな境遇であっても生きがいを得る方法もあるような気がする。
世間の人にとっては、それなりの額の年収を捨てて今の仕事をしていることが理解しづらいと思う。
「人生、金だけじゃ無いよ」と、せめて格好だけつけさせてほしい。
ただ、Aさんとの再会は、違った意味でも自分に奮起を促してくれた。
彼女から「何かあったら」とわざわざ帰りがけに頂いた名刺は、お守り代わりに大切にしておこう・・・
2018年2月12日月曜日
冬の御崎海岸
今日は赤穂へ一人で買い物に行ったついでに、御崎の海岸をドライブして帰ることにした。
大塚海岸から丸山海岸にかけての道を通っている時に、ふと子供の頃の記憶が蘇った。
小学生の5年生頃だったと思う。
私は友達と学校から帰って、海岸沿いの山を探検のつもりで歩いたことがある。
尾崎小学校から東に行くと向山があり、そこの中腹から丸山海岸に行ける。
そして、海岸の道を海を眺めながら大塚海岸の上、そして御崎公園と歩いて回って帰った。
子供の足にしては大変長い距離に思えた。
途中で、車で駐車している人が乗せて上げようと言ったが断った。
先生から知らない人の車に乗せてもらってはいけないと言われていたからである。
冬場は小学校の授業中に裏山に登ることが多かったことを思い出した。
体力作りの一環だったと思うが、向山によくみんなで登った。
私の3年の担任だった小島先生は、普段からよく生徒を山に連れて行ってくれた。
時には先生がおやつまで用意してくれていた。
自分たちは普段から、尾崎の八幡神社の裏山は遊び場になっており、いつでもよく登って遊んだ。
裏山の椿林の椿の木に枝を渡して、チンパンジーの寝床のようなものを作ったりした。
また、水源地への階段の横の笹だけの中は、冬場でも暖かいのでそこに隠れこんでおやつを食べたりした。
思い出せば冬場でも、家にじっとしていたことは無かった。
同じ海岸の景色を見ても、幼い頃から親しんできた景色は全然意味が違う。
確かに塩田はもうないし、家島は当時とは形が違っている。
遠足などで訪れた丸山海岸の様子もかなり違っている。
それでもしっかりと昔の記憶を蘇らせてくれる。
その丸山海岸に降りてみると、寒風が吹きすさむ中でテントが2張立っていた。
自分たちが幼い頃に、住処(すみか)と称して、冬場でも椿山や笹藪の中で楽しく過ごしたのと一緒のように思えた。
金がなくても友達と一緒にいれば楽しく遊べたあの頃。
今の私がこれから、向かおうとしている世界なのかも知れない。
※写真は現在の海浜公園から見た向山(丸山)
大塚海岸から丸山海岸にかけての道を通っている時に、ふと子供の頃の記憶が蘇った。
小学生の5年生頃だったと思う。
私は友達と学校から帰って、海岸沿いの山を探検のつもりで歩いたことがある。
尾崎小学校から東に行くと向山があり、そこの中腹から丸山海岸に行ける。
そして、海岸の道を海を眺めながら大塚海岸の上、そして御崎公園と歩いて回って帰った。
子供の足にしては大変長い距離に思えた。
途中で、車で駐車している人が乗せて上げようと言ったが断った。
先生から知らない人の車に乗せてもらってはいけないと言われていたからである。
冬場は小学校の授業中に裏山に登ることが多かったことを思い出した。
体力作りの一環だったと思うが、向山によくみんなで登った。
私の3年の担任だった小島先生は、普段からよく生徒を山に連れて行ってくれた。
時には先生がおやつまで用意してくれていた。
自分たちは普段から、尾崎の八幡神社の裏山は遊び場になっており、いつでもよく登って遊んだ。
裏山の椿林の椿の木に枝を渡して、チンパンジーの寝床のようなものを作ったりした。
また、水源地への階段の横の笹だけの中は、冬場でも暖かいのでそこに隠れこんでおやつを食べたりした。
思い出せば冬場でも、家にじっとしていたことは無かった。
同じ海岸の景色を見ても、幼い頃から親しんできた景色は全然意味が違う。
確かに塩田はもうないし、家島は当時とは形が違っている。
遠足などで訪れた丸山海岸の様子もかなり違っている。
それでもしっかりと昔の記憶を蘇らせてくれる。
その丸山海岸に降りてみると、寒風が吹きすさむ中でテントが2張立っていた。
自分たちが幼い頃に、住処(すみか)と称して、冬場でも椿山や笹藪の中で楽しく過ごしたのと一緒のように思えた。
金がなくても友達と一緒にいれば楽しく遊べたあの頃。
今の私がこれから、向かおうとしている世界なのかも知れない。
※写真は現在の海浜公園から見た向山(丸山)
2018年2月10日土曜日
干し大根活用
今期はどういうわけか、大根が育ちすぎているのが多かった。
私が作っている品種は春になってもすが入りにくいタキイの「緑輝」だが、大きすぎると大味になる。
そこで、20本ほど太いのを抜いてそのまま干すことにした。
二階のベランダの庇の下でこの時期まで干して置いた。
去年は酒粕を使って30本ほど漬物を拵えた。
おいしく食べられたが、何せ酒粕代がばかにならない。
今年は何とか安く済ませようと考えた。
まず、「ためしてガッテン」でやっていた焼酎で練った酒粕漬け。
干した大根を縦に8等分くらいにして、大きめのタッパにつけ込んだ。
1週間ほどして取り出してそのまま銀杏に切って、保存用のタッパにいれ食べやすくした。
家内に試食してもらったところ、苦いという。
これは去年もそうだが、焼酎を入れるとどうしても苦くなる。
その苦さをごまかすために、練りわさびを適当に加えた。
入れた時は、涙が出るほどつんときたが、まさしくわさび漬け大根。
日が経つとこなれてきて、いくつでも食べられる。
もう一つは、キムチの素漬け。
キムチの素は大抵の野菜や山菜に使うことができる。
こちらは最初から食べやすい大きさに切って小さなタッパに入れた。
まさしくカクテキもどきである。
カクテキほどみずみずしくは無いが、私は食感がこちらの方が好きだ。
葉野菜が高騰している今は、こうして乗り切るしか無い。
といっても、大根も今年は馬鹿にならない値段である。
大根をあげて喜ばれる年は今までに無い。
私が作っている品種は春になってもすが入りにくいタキイの「緑輝」だが、大きすぎると大味になる。
そこで、20本ほど太いのを抜いてそのまま干すことにした。
二階のベランダの庇の下でこの時期まで干して置いた。
去年は酒粕を使って30本ほど漬物を拵えた。
おいしく食べられたが、何せ酒粕代がばかにならない。
今年は何とか安く済ませようと考えた。
まず、「ためしてガッテン」でやっていた焼酎で練った酒粕漬け。
干した大根を縦に8等分くらいにして、大きめのタッパにつけ込んだ。
1週間ほどして取り出してそのまま銀杏に切って、保存用のタッパにいれ食べやすくした。
家内に試食してもらったところ、苦いという。
これは去年もそうだが、焼酎を入れるとどうしても苦くなる。
その苦さをごまかすために、練りわさびを適当に加えた。
入れた時は、涙が出るほどつんときたが、まさしくわさび漬け大根。
日が経つとこなれてきて、いくつでも食べられる。
もう一つは、キムチの素漬け。
キムチの素は大抵の野菜や山菜に使うことができる。
こちらは最初から食べやすい大きさに切って小さなタッパに入れた。
まさしくカクテキもどきである。
カクテキほどみずみずしくは無いが、私は食感がこちらの方が好きだ。
葉野菜が高騰している今は、こうして乗り切るしか無い。
といっても、大根も今年は馬鹿にならない値段である。
大根をあげて喜ばれる年は今までに無い。
2018年2月8日木曜日
畦焼き2018年
今年も村の畦焼きが今日(2/4)行われた。
昨日は勤め先で芝焼きが行われ、地方新聞の記者も取材に来ていた。
そちらの方は、茶色の芝生の絨毯が炎の赤によって、一面黒に塗り替えられる面白さがあった。
作業する方は、火をつけることより、バケツで延焼を食い止めたり、植えられた木を守るのに精一杯だった。
村の方の畦焼きは、こんな日に行って良いのかと思えるほど風が強い中行われた。
芝生と違い背の高い枯れ草は大きな炎を巻き上げた。
あちらこちらで畦や川原を焼くので、この近辺は霧のように煙で覆われた。
こちらも延焼を食い止めるのが面倒な作業となった。
そんな中で、去年一緒に作業をした人が今年も元気で作業をしているのを感慨深く思った。
というのも、去年一緒に作業をしている時に、腰が痛いというので理由を聞くと癌が肺から転移したという。
しかも、ステージ4でかなり深刻な様子だった。
その後の村作業は、たいてい奥さんが出るようになっていた。
畦焼きは重労働では無いので、本人が出てきたようだった。
70代半ばとはいえ、ステージ4でも元気でいられることを改めて知った。
このまま元気で、来年の畦焼きも一緒に作業できることを願った。
それにしても畦焼きは毎年繰り返されるのだが、危険を冒して何の意味があるのかと毎年考える。
火事予防だとか、害虫予防だとか聞いたがあまり納得いかない。
たぶん草が生える季節になって、草を刈りやすくするためだろうと思う。
勤め先の芝焼きで実は困ったことが起こっていた。
芝に火をつけるトーチの針金が外れて黒い灰に紛れてしまったのだ。
それは芝刈り機の故障につながってしまう。
村の畦焼きはそれ専用のトーチを竹で作ったり、量販店で専用のガストーチを買ったりする。
勤め先で使ったキャンプファイヤー用のトーチは見栄えは良くても、後の芝刈りのことを考えていなかった。
たぶん、取材だけを意識したからだろう。
昨日は勤め先で芝焼きが行われ、地方新聞の記者も取材に来ていた。
そちらの方は、茶色の芝生の絨毯が炎の赤によって、一面黒に塗り替えられる面白さがあった。
作業する方は、火をつけることより、バケツで延焼を食い止めたり、植えられた木を守るのに精一杯だった。
村の方の畦焼きは、こんな日に行って良いのかと思えるほど風が強い中行われた。
芝生と違い背の高い枯れ草は大きな炎を巻き上げた。
あちらこちらで畦や川原を焼くので、この近辺は霧のように煙で覆われた。
こちらも延焼を食い止めるのが面倒な作業となった。
そんな中で、去年一緒に作業をした人が今年も元気で作業をしているのを感慨深く思った。
というのも、去年一緒に作業をしている時に、腰が痛いというので理由を聞くと癌が肺から転移したという。
しかも、ステージ4でかなり深刻な様子だった。
その後の村作業は、たいてい奥さんが出るようになっていた。
畦焼きは重労働では無いので、本人が出てきたようだった。
70代半ばとはいえ、ステージ4でも元気でいられることを改めて知った。
このまま元気で、来年の畦焼きも一緒に作業できることを願った。
それにしても畦焼きは毎年繰り返されるのだが、危険を冒して何の意味があるのかと毎年考える。
火事予防だとか、害虫予防だとか聞いたがあまり納得いかない。
たぶん草が生える季節になって、草を刈りやすくするためだろうと思う。
勤め先の芝焼きで実は困ったことが起こっていた。
芝に火をつけるトーチの針金が外れて黒い灰に紛れてしまったのだ。
それは芝刈り機の故障につながってしまう。
村の畦焼きはそれ専用のトーチを竹で作ったり、量販店で専用のガストーチを買ったりする。
勤め先で使ったキャンプファイヤー用のトーチは見栄えは良くても、後の芝刈りのことを考えていなかった。
たぶん、取材だけを意識したからだろう。
2018年2月6日火曜日
見上げてごらん夜の星を
地方から東京へ集団就職し定時制高校に通っていた生徒たちは、励まされたというこの名曲。
作詞家の永六輔が定時制出身だったというように、どこで聞いたのか私はいつしか思い込んでしまった。
定時制の高校に勤務していた頃はそれを完全に信じていた。
しかし、ネットで経歴を調べても、それは出てこない。
ともあれ、この曲は特別支援学校でも手話を用いながら歌ったりして、大切に歌ってきた曲だった。
定時制に勤めている時は、夜の帰りに空を眺めながら口ずさんだりした。
私が学年主任をしていたある学年は、修学旅行に行きたいという生徒の数が足りなくて中止になった。
担任の先生や教頭、学年主任の私も校長の指示で、旅行を勧めに家庭訪問を夜遅くしたりもした。
一度延期になった旅行の計画も、その後旅行社と綿密に立て直したのだが、どうしても人数が足りなくて断念せざるを得なかった。
今は3年で卒業する生徒も多くいるので、4年まで通う生徒とは一緒に行けるのは最後の年だった。
3年で卒業する生徒にとっては卒業前の寒い夜、修学旅行が中止になったペナルティーが行われた。
校長の指示で修学旅行の代わりに、学年所属の教師と生徒だけで校舎周りの溝掃除が夜の学校で行われることになった。
当然、生徒には学校への感謝の気持ちと言うことにして、ペナルティーの意味は伝えられる筈もなかった。
生徒たちは一生懸命、暗くて寒い中、溝掃除をしてくれた。
担任の先生が他の学年の授業に行っても、副担任の先生と一緒に黙々と続けてくれた。
重いリアカーをひいて、上がった泥を捨てに行ってくれた。
汚れたじょれんやスコップなどの道具も、冷たい水道水で洗ってくれた。
途中でへたってしまう高齢の生徒もいたが、真面目な生徒は普段以上に一生懸命してくれた。
普段は授業をよくサボる生徒が意外に頑張ってくれて嬉しかった。
見上げた夜の寒空には、だいぶ欠けた月だけが生徒たちを上の方から見つめてくれていた。
私は汗が冷えて震えながらも、生徒たちへの感謝の気持ちで心が熱くなった。
ただ、この曲を聴くと、その時のやましさと悔しさ、一教員としての不甲斐なさの気持ちが時に蘇る。
作詞家の永六輔が定時制出身だったというように、どこで聞いたのか私はいつしか思い込んでしまった。
定時制の高校に勤務していた頃はそれを完全に信じていた。
しかし、ネットで経歴を調べても、それは出てこない。
ともあれ、この曲は特別支援学校でも手話を用いながら歌ったりして、大切に歌ってきた曲だった。
定時制に勤めている時は、夜の帰りに空を眺めながら口ずさんだりした。
私が学年主任をしていたある学年は、修学旅行に行きたいという生徒の数が足りなくて中止になった。
担任の先生や教頭、学年主任の私も校長の指示で、旅行を勧めに家庭訪問を夜遅くしたりもした。
一度延期になった旅行の計画も、その後旅行社と綿密に立て直したのだが、どうしても人数が足りなくて断念せざるを得なかった。
今は3年で卒業する生徒も多くいるので、4年まで通う生徒とは一緒に行けるのは最後の年だった。
3年で卒業する生徒にとっては卒業前の寒い夜、修学旅行が中止になったペナルティーが行われた。
校長の指示で修学旅行の代わりに、学年所属の教師と生徒だけで校舎周りの溝掃除が夜の学校で行われることになった。
当然、生徒には学校への感謝の気持ちと言うことにして、ペナルティーの意味は伝えられる筈もなかった。
生徒たちは一生懸命、暗くて寒い中、溝掃除をしてくれた。
担任の先生が他の学年の授業に行っても、副担任の先生と一緒に黙々と続けてくれた。
重いリアカーをひいて、上がった泥を捨てに行ってくれた。
汚れたじょれんやスコップなどの道具も、冷たい水道水で洗ってくれた。
途中でへたってしまう高齢の生徒もいたが、真面目な生徒は普段以上に一生懸命してくれた。
普段は授業をよくサボる生徒が意外に頑張ってくれて嬉しかった。
見上げた夜の寒空には、だいぶ欠けた月だけが生徒たちを上の方から見つめてくれていた。
私は汗が冷えて震えながらも、生徒たちへの感謝の気持ちで心が熱くなった。
ただ、この曲を聴くと、その時のやましさと悔しさ、一教員としての不甲斐なさの気持ちが時に蘇る。
2018年2月4日日曜日
通学路事故
毎年のように通学の児童の列に車が突っ込み、死傷者を出す事故が起こっている。
今回の岡山での事故は、勤め先の近くだっただけに人ごとに感じなかった。
実は息子と娘も小学校の時に同じような経験をしている。
幸い家の子供は軽い怪我で済んだが、二人とも病院に2泊入院した。
6人いた児童の中には、あわや足の切断かというほど重傷の女子もいたし、長い間入院を余儀なくされた女子もいた。
そして、事故に遭った全ての子は、その後車に対しての恐れがトラウマとなって残った。
事故の知らせを聞いたのは、私は出勤前だった。
近くの交差点で一旦停止を怠った車が出会い頭に直進車とぶつかり、そのはずみで児童の列に突っ込んだようだった。
駆けつけた時に、一人の女子がいなくて探していたら、現場から15m程離れた側溝に仰向けになって倒れていた。
痛がるその子を水の流れる溝から抱え上げて、救急車の来るのを待った。
幸い背中のランドセルで水位より高く顔が出ていたが、もし、うつ伏せに落ちていたら死んでいたかも知れない。
この事故はマスコミでも多く報道されて、通学路の安全の重要性が叫ばれた。
しかし、その後も同じような事故は繰り返されてきた。
現代においては、完全に安全な通学路というのは無いだろう。
小学生だけでなく、中学生や高校生もそうである。
中学生や高校生は単独の事故が多いので、あまり報道されないだけである。
私も担任している生徒が自転車に乗って通学途中に事故に遭い、重傷を負った経験がある。
これは当然車優先の社会システムを築いてきたつけであることは間違いない。
スクールバスを用いずに登校させるのであれば、通学路の安全措置を施すべきである。
また、道路整備が難しいのであれば、積極的にスクールバスをもっと増やすべきだと思う。
以前勤めていた特別支援学校では、多い時には11台のスクールバスを維持していた。
通学での運動確保の代用は、登校してから時間を確保すれば良い。
学力も大事だが、体力も欠かせない。
歩行通学の少ない特別支援学校では、体作りの時間を確保している場合が多い。
一般の学校でも見倣うべきだと思う。
かつて私が中学高校だった時も、中間体操として毎日2時間目後の休憩時間に上半身裸で校庭を走らされた。
冬の雪降る中は辛かったが、愉快な時でもあった。
ともかく、安全面だけでは無く、健康体力面でも考えねばならない問題だと思う。
今回の岡山での事故は、勤め先の近くだっただけに人ごとに感じなかった。
実は息子と娘も小学校の時に同じような経験をしている。
幸い家の子供は軽い怪我で済んだが、二人とも病院に2泊入院した。
6人いた児童の中には、あわや足の切断かというほど重傷の女子もいたし、長い間入院を余儀なくされた女子もいた。
そして、事故に遭った全ての子は、その後車に対しての恐れがトラウマとなって残った。
事故の知らせを聞いたのは、私は出勤前だった。
近くの交差点で一旦停止を怠った車が出会い頭に直進車とぶつかり、そのはずみで児童の列に突っ込んだようだった。
駆けつけた時に、一人の女子がいなくて探していたら、現場から15m程離れた側溝に仰向けになって倒れていた。
痛がるその子を水の流れる溝から抱え上げて、救急車の来るのを待った。
幸い背中のランドセルで水位より高く顔が出ていたが、もし、うつ伏せに落ちていたら死んでいたかも知れない。
この事故はマスコミでも多く報道されて、通学路の安全の重要性が叫ばれた。
しかし、その後も同じような事故は繰り返されてきた。
現代においては、完全に安全な通学路というのは無いだろう。
小学生だけでなく、中学生や高校生もそうである。
中学生や高校生は単独の事故が多いので、あまり報道されないだけである。
私も担任している生徒が自転車に乗って通学途中に事故に遭い、重傷を負った経験がある。
これは当然車優先の社会システムを築いてきたつけであることは間違いない。
スクールバスを用いずに登校させるのであれば、通学路の安全措置を施すべきである。
また、道路整備が難しいのであれば、積極的にスクールバスをもっと増やすべきだと思う。
以前勤めていた特別支援学校では、多い時には11台のスクールバスを維持していた。
通学での運動確保の代用は、登校してから時間を確保すれば良い。
学力も大事だが、体力も欠かせない。
歩行通学の少ない特別支援学校では、体作りの時間を確保している場合が多い。
一般の学校でも見倣うべきだと思う。
かつて私が中学高校だった時も、中間体操として毎日2時間目後の休憩時間に上半身裸で校庭を走らされた。
冬の雪降る中は辛かったが、愉快な時でもあった。
ともかく、安全面だけでは無く、健康体力面でも考えねばならない問題だと思う。
2018年2月2日金曜日
糖尿病とは仲良し
1/29日放送のTBS系「名医のTHE太鼓判!」(月曜後7・0)をビデオにとり見た。
自分が糖尿病であることから、糖尿病関連の番組はできるだけ見るようにしている。
中でも、お笑いトリオ、安田大サーカスのクロちゃん(41)の内容は身につまされた。
血糖値だけに限れば、かつての私の方が悪かった。
私は彼のように気ままな食生活をしたわけでは無かった。
ただ、医者から警告されていたのにも関わらず、食生活を改善させず発症させてしまったのは同じだ。
私も医者から「あんた 死ぬで」とはっきり言われた。
番組でも強調されていたように、「痛い」とか「熱がある」とかの症状も無く。
「この頃やたら喉が渇く」とか「運動が辛くなり、痩せてきた」という症状があった。
喉の渇きは水で癒やされたし、痩せたのは運動のおかげと高をくくっていた。
糖尿病の怖いのは、いつの間にか合併症を起こして死に至ることだ。
そして、同じような生活をしていても、なる人とならない人がいる。
今回の番組でも、いしだ壱成の食生活も酷かったが正常だった。
遺伝がかなり大きく影響する。
実は私の母親は酷い肥満だが糖尿病にはなっていない。
父方のおじは糖尿病にかかっており、一人はそれがもとで亡くなっている。
糖尿病になった二人のおじの共通点はスポーツマンであったことだ。
つまり、スポーツを行ってきた食生活の習慣が原因とも考えられる。
私の兄弟の中で唯一糖尿病の私は、唯一のスポーツ好きである。
私の場合、多量のスポーツドリンクと大好きなスイカが原因だったと思っている。
発症前は水泳をガンガンやって、多量にそれらを摂取した。
クロちゃんが筋トレで安心していたのと同じである。
これだけ糖尿病が危険で、多くの人がかかっているのに関心はあまり高くない。
私も別のブログでその体験を書いてきたが、あまり読んでもらえていない。
つまり、糖尿病にかかって治療中の人は、いまさら人の体験記を読む必要が無い。
かかっていない人やグレーゾーンの人にとっては、まるっきり他人事なのである。
症状が出ないので気にかけて調べることが無いのである。
糖尿病である私も、現在はいたって健康である。
ただ、血糖値の値は最近悪くなっている。
糖尿病とは仲良くしたくないのに、大の仲良い関係は続いている。
まさしく糖尿病の腐れ縁は死ぬまで続いてしまいそうである。
定期的な検査と投薬、糖質制限というハンディー背負いながら・・・
自分が糖尿病であることから、糖尿病関連の番組はできるだけ見るようにしている。
中でも、お笑いトリオ、安田大サーカスのクロちゃん(41)の内容は身につまされた。
血糖値だけに限れば、かつての私の方が悪かった。
私は彼のように気ままな食生活をしたわけでは無かった。
ただ、医者から警告されていたのにも関わらず、食生活を改善させず発症させてしまったのは同じだ。
私も医者から「あんた 死ぬで」とはっきり言われた。
番組でも強調されていたように、「痛い」とか「熱がある」とかの症状も無く。
「この頃やたら喉が渇く」とか「運動が辛くなり、痩せてきた」という症状があった。
喉の渇きは水で癒やされたし、痩せたのは運動のおかげと高をくくっていた。
糖尿病の怖いのは、いつの間にか合併症を起こして死に至ることだ。
そして、同じような生活をしていても、なる人とならない人がいる。
今回の番組でも、いしだ壱成の食生活も酷かったが正常だった。
遺伝がかなり大きく影響する。
実は私の母親は酷い肥満だが糖尿病にはなっていない。
父方のおじは糖尿病にかかっており、一人はそれがもとで亡くなっている。
糖尿病になった二人のおじの共通点はスポーツマンであったことだ。
つまり、スポーツを行ってきた食生活の習慣が原因とも考えられる。
私の兄弟の中で唯一糖尿病の私は、唯一のスポーツ好きである。
私の場合、多量のスポーツドリンクと大好きなスイカが原因だったと思っている。
発症前は水泳をガンガンやって、多量にそれらを摂取した。
クロちゃんが筋トレで安心していたのと同じである。
これだけ糖尿病が危険で、多くの人がかかっているのに関心はあまり高くない。
私も別のブログでその体験を書いてきたが、あまり読んでもらえていない。
つまり、糖尿病にかかって治療中の人は、いまさら人の体験記を読む必要が無い。
かかっていない人やグレーゾーンの人にとっては、まるっきり他人事なのである。
症状が出ないので気にかけて調べることが無いのである。
糖尿病である私も、現在はいたって健康である。
ただ、血糖値の値は最近悪くなっている。
糖尿病とは仲良くしたくないのに、大の仲良い関係は続いている。
まさしく糖尿病の腐れ縁は死ぬまで続いてしまいそうである。
定期的な検査と投薬、糖質制限というハンディー背負いながら・・・
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