私の今の職場は教員免許が必要で、教師になるために勤めている人もいた。
しかし、なれる人は殆ど無く、一般企業に転職する人が多い。
採用試験前に仕事が多忙で、採用試験の勉強をする余裕など無いからである。
これは、学校に常勤講師をしている人も同じで、教師をしていた当時も常勤講師を長くやっている人が学校には多かった。
私は博士課程への進学の夢を絶たれ、やむなく教師の道に進んだ。
「デモしか教師」というの言葉が、当時はまだ残っていた。
「教師デモなるか、なれるのは教師シカ残っていない」という、学生運動世代の言葉だと思う。
しかし、私の世代はそれ程教師になるのは簡単では無かった。
私は博士課程への進学を再チャレンジも考えて、一時は環境調査のアルバイトや横浜市に残り塾の講師もした。
当時勤めていた塾には、東大出の塾講師もいたり、研究職を志す人もいた。
しかし、塾の講師の荒んだ不安定な現実も知り、帰郷して高校教員になる道を選んだ。
最初は、専門の文化人類学に近い地理を受験しようと思った。
しかし、地理は採用人数が少なく、採用される可能性が低いので世界史にしようと思った。
因みに私は南山大学の入試では世界史を用いて合格できていた。
しかし、採用試験までに2ヶ月ほどしかなく、世界史の受験には時間がないと思って日本史にした。
ただ、当時は完全に失業状態で、採用試験の受験勉強だけに時間を費やすことができた。
東京から落ち延びて、無収入で将来もわからない「負け犬」のように観られていることを感じていた。
当時は修士といえど、文系は新卒以外に大手企業就職は殆ど無理だった。
同じ研究室にいて修士で終わり、就職した人の中には語学力を活かしてテレビ番組の制作に携わったり、地方公務員になる人はいた。
私にはどちらも不向きであると思っていた。
だから、安定した生活を得るためには、どうしても教師になる道しか残っていなかったのである。
兵庫県の採用試験の一次を日本史で受験して、その後は臨時講師をした。
私は中学高校は私学出身だったので、学校現場に相談できる先生はなく、直接教育委員会に問い合わせた。
年度の途中での臨時講師はあまりなく、最初は姫路の白鷺中学で海外研修に行った英語教師の裏を受け持った。
家庭教師や塾では英語は教えていたが、中学校での授業は非常に戸惑った。
採用試験は一次は合格したが、臨時講師は一ヶ月ほどで終わった。
二次試験は集団面接と、模擬授業だったが対策もまともにできていなかった。
生徒に薦められる日本史に関する本を聞かれたが答えられなかった。
模擬授業の題は「安土桃山文化」だったが、解説はできたが板書が全くできなかった。
私は不合格を覚悟したが、結果としては補欠合格ということになった
その後は、赤穂東中学校で病気になった数学教員の裏として、1年生と3年生の数学を教えた。
長い間数学はやっていなかったので、3年生の図形の証明問題で授業中につまづくこともあった。
その後は、赤穂市の発掘調査の土木作業をしたりした。
そして、尼崎小田高校の産休の先生の裏として、常勤で1年の学年付で現代社会を担当することになった。
この仕事は、たとえこの年採用が無くても、続けられる仕事だったが、何とか採用された。
初任校は赤穂養護学校(特別支援学校)だった。
当時の私は養護学校がどういうものかわからなかったが、喜んで赴任した。
とにかく、進学を諦めて教員になるまでの一年間は、塾の講師や中学校や高校の講師、発掘の土木作業員などを転々としていた。
若い臨時講師の先生には安定した生活を望む人も多い。
既に結婚した人もいるから仕方ないかも知れない。
ただ、現役の大学生や大学院生と採用試験で競うにはそれなりの態勢が必要だろう。
臨時講師としての実績を採用試験で大きく評価してくれれば良いのだが、そう単純では無さそうだ。
私が教員になれたのは、たまたまその時に安定した生活がなくて、採用試験に集中せざるを得なかっただけかも知れない。
まさしく「捨てる神あれば拾う神あり」であった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
ページビューの合計
65,957
2018年3月30日金曜日
2018年3月27日火曜日
猪名川のそばドライブ2018
また、猪名川にそばを食べに行こうと言いながら、なかなか行けなかった。
今日(3/15)は、天気も良いし家内も休みなので、一緒に行くことを思い立った。
猪名川へのルートは、加東市の社から東へまっすぐ三田経由して行く。
前回は、社で篠山の方に向かってしまい、大きく迂回してたどり着いた。
ドライブとしては、面白かったが時間がかかりすぎていた。
今回は、その時の帰りのルートをたどって行くことにした。
社は正月に播磨清水寺に初詣して以来である。
ついこの間のように思えるのだが、2ヶ月の経って季節も春になった。
私にとって、社までのルートは兵庫教育大学への通学ルートで馴染みある道である。
その時も、途中の加西のマックスバリューでトイレ休憩をしていたのだが、今回もそうした。
東条湖付近からは、逆にしか通ったことが無いので、家内にスマホでナビをしてもらったら、いきなり山陽自動車道に入ってしまった。
仕方ないので次の出口で降りたが250円で、スマホでは8分くらいの短縮と言うことになった。
結局、猪名川の道の駅に着いたのは午後1時半だった。
出発したのが10時半だったから、上郡の自宅から3時間かかったことになる。
自動車道をフルに活用していれば、一時間は短縮できただろうが急ぐ旅でもないし、自動車道は魅力が乏しい。
春の暖かな山の景色を眺めながらのドライブは悪くない。
猪名川の道の駅の駐車場は満杯で入れず、引き返して臨時駐車場に何とか一カ所空きを見つけて入った。
その後もぞくぞくと車が入ってきたが、もう空きスペースはなかった。
日曜日とはいえ、こんなに人気があるとは思わなかった。
しかも、道の駅の中のそば屋は順番待ちで、名前を書いて待つしか無い。
時間つぶしに他の店で買い物をすることにした。
すると、臨時のそばを食べさせるコーナーがあった。
発泡スチロール製の容器で、汁そばとかけそばしか無いが安いし、そう待つ必要が無さそうだ。
そば屋の名前を消してここで食べることにして、「梅おろしそば500円」を二人とも注文してテーブルに相席で順番を待った。
お茶もペットボトルで買わねばならないので、家内は車からさっきマックスバリューで買ったお茶を取りに行った。
そばをテントの下で打っている人には、職人風の人も一人いたが、ジーパンをはいた臨時職員という人が二人いた。
しかし、人前でそばが打てるほど腕前であるので、プロ並みであることは間違いない。
むしろ、レジのおばさんが不慣れで、どれが汁そばでかけそばか聞いても分からず、調理職員に聞いていた。
番号が呼ばれて取りに行き頂いたが、見た目は貧相ながらそばのこしは抜群。
さすが十割そばと感心しながらおいしく頂いた。
本当は盛り蕎麦を頼んで、そば湯も飲みたかったが仕方ない。
安いのだから、もう1杯頼んでおけば良かったかなと思った。
食べ終わって少し足り苦しいので、野菜の直売所の前で売っている揚げたてのコロッケを食べた。
1ケ100円で中には黒大豆が一つ入っていた。
野菜の直売所は原木しいたけが多く売られていて安かったので買った。
午後であったので野菜は売りきれが多く、買いたい物はあまり無かった。
トラックで売りに来ていたカレイの一夜干しを家内は安いので買った。
土産物屋を回って、外に出てみると観光バスが二台も入ってきているので驚いた。
道の駅は多くあるが、これほど人気あるのは兵庫県では見たことが無い。
帰りはトイレ休憩を兼ねて、東条湖の道の駅に立ち寄った。
こちらも農産物や特産品の販売を猪名川より多くやっており、神戸の地ソースやキクイモの粉末が売ってあったので買った。
少し腹が減ったので、家内に串刺しのこんにゃく田楽を買ってもらった。
本来150円だったが、店じまい前で冷めているので100円にしてくれたという。
たれ味噌がそこそこ美味く、おなかも満足できた。
工業団地の一角という感じだったが、そこそこ人気があるようだった。
今回は日曜日でしかも時間帯が悪かったので、少々物足りないドライブになった。
兵庫県の西の端から東の端への十割そばを求めてのドライブだった。
物足りなかったが美味かったので、今度はすいている時にまた行きたいと思った。
こういう道の駅が多くできたら、田舎も村おこしになるのだろうと思う。
かつての観光地が閑散としている中で、こういう道の駅が人気が出るのは地元の人の熱意だと思う。
そこには手作りの良さと、村祭りの様な雰囲気が魅力になっているのだろう。
大型ショッピングモールには無い、遠くてももう一度行きたいと思う魅力なのである。
今日(3/15)は、天気も良いし家内も休みなので、一緒に行くことを思い立った。
猪名川へのルートは、加東市の社から東へまっすぐ三田経由して行く。
前回は、社で篠山の方に向かってしまい、大きく迂回してたどり着いた。
ドライブとしては、面白かったが時間がかかりすぎていた。
今回は、その時の帰りのルートをたどって行くことにした。
社は正月に播磨清水寺に初詣して以来である。
ついこの間のように思えるのだが、2ヶ月の経って季節も春になった。
私にとって、社までのルートは兵庫教育大学への通学ルートで馴染みある道である。
その時も、途中の加西のマックスバリューでトイレ休憩をしていたのだが、今回もそうした。
東条湖付近からは、逆にしか通ったことが無いので、家内にスマホでナビをしてもらったら、いきなり山陽自動車道に入ってしまった。
仕方ないので次の出口で降りたが250円で、スマホでは8分くらいの短縮と言うことになった。
結局、猪名川の道の駅に着いたのは午後1時半だった。
出発したのが10時半だったから、上郡の自宅から3時間かかったことになる。
自動車道をフルに活用していれば、一時間は短縮できただろうが急ぐ旅でもないし、自動車道は魅力が乏しい。
春の暖かな山の景色を眺めながらのドライブは悪くない。
猪名川の道の駅の駐車場は満杯で入れず、引き返して臨時駐車場に何とか一カ所空きを見つけて入った。
その後もぞくぞくと車が入ってきたが、もう空きスペースはなかった。
日曜日とはいえ、こんなに人気があるとは思わなかった。
しかも、道の駅の中のそば屋は順番待ちで、名前を書いて待つしか無い。
時間つぶしに他の店で買い物をすることにした。
すると、臨時のそばを食べさせるコーナーがあった。
発泡スチロール製の容器で、汁そばとかけそばしか無いが安いし、そう待つ必要が無さそうだ。
そば屋の名前を消してここで食べることにして、「梅おろしそば500円」を二人とも注文してテーブルに相席で順番を待った。
お茶もペットボトルで買わねばならないので、家内は車からさっきマックスバリューで買ったお茶を取りに行った。
そばをテントの下で打っている人には、職人風の人も一人いたが、ジーパンをはいた臨時職員という人が二人いた。
しかし、人前でそばが打てるほど腕前であるので、プロ並みであることは間違いない。
むしろ、レジのおばさんが不慣れで、どれが汁そばでかけそばか聞いても分からず、調理職員に聞いていた。
番号が呼ばれて取りに行き頂いたが、見た目は貧相ながらそばのこしは抜群。
さすが十割そばと感心しながらおいしく頂いた。
本当は盛り蕎麦を頼んで、そば湯も飲みたかったが仕方ない。
安いのだから、もう1杯頼んでおけば良かったかなと思った。
食べ終わって少し足り苦しいので、野菜の直売所の前で売っている揚げたてのコロッケを食べた。
1ケ100円で中には黒大豆が一つ入っていた。
野菜の直売所は原木しいたけが多く売られていて安かったので買った。
午後であったので野菜は売りきれが多く、買いたい物はあまり無かった。
トラックで売りに来ていたカレイの一夜干しを家内は安いので買った。
土産物屋を回って、外に出てみると観光バスが二台も入ってきているので驚いた。
道の駅は多くあるが、これほど人気あるのは兵庫県では見たことが無い。
帰りはトイレ休憩を兼ねて、東条湖の道の駅に立ち寄った。
こちらも農産物や特産品の販売を猪名川より多くやっており、神戸の地ソースやキクイモの粉末が売ってあったので買った。
少し腹が減ったので、家内に串刺しのこんにゃく田楽を買ってもらった。
本来150円だったが、店じまい前で冷めているので100円にしてくれたという。
たれ味噌がそこそこ美味く、おなかも満足できた。
工業団地の一角という感じだったが、そこそこ人気があるようだった。
今回は日曜日でしかも時間帯が悪かったので、少々物足りないドライブになった。
兵庫県の西の端から東の端への十割そばを求めてのドライブだった。
物足りなかったが美味かったので、今度はすいている時にまた行きたいと思った。
こういう道の駅が多くできたら、田舎も村おこしになるのだろうと思う。
かつての観光地が閑散としている中で、こういう道の駅が人気が出るのは地元の人の熱意だと思う。
そこには手作りの良さと、村祭りの様な雰囲気が魅力になっているのだろう。
大型ショッピングモールには無い、遠くてももう一度行きたいと思う魅力なのである。
2018年3月23日金曜日
大学院を出たけれど
新聞に載っていた週刊現代の広告の見出し。
大学院博士課程なんか進んだら一生貧乏暮らしです
衝撃データー入手!4割が借金300万円超え でも、就職率は3割以下
中身は読んでないので、詳しくはよく分からないけれど、なんとなく想像はつく。
10年前に兵庫教育大学の大学院に長期研修として学んでいた時、文系の大学教員から博士課程を出て、コンビニショップの店長になっている話を聞いていた。
その人は、立派な国立大学の博士課程を出た人だった。
文系の場合は、私が大学を出た頃から、研究職への就職は多難な時代だった。
大学院の面接の時に、「就職無いよ」と言われ、「何とかなるでしょう」と答えた。
その答え方で通してくれたとも言われた。
今でこそ、学校教師に修士を採用することも多くなったが、当時はあまりなかった。
そもそも、私は高校教員になるつもりで、大学院に進学したわけでは無い。
それでも、万が一に備えて大学院でも1級の教員免許はとっていた。
東京都立大学の同じ研究室に教員免許をもっている人はあまりいなかった。
ある意味では、この大学院は教師になるということが念頭には無く進学するのが普通だった。
だから、所属した研究室のOB、OGには、高校教員は滅多にいない。
私は博士課程への進学を強く希望しながらも、修論のできが悪く受験さえできなかった。
やむなく、帰郷して高校教師の道を選びその道を歩んだ。
同じ研究室に所属していた人の多くは研究職に就いているが、そうで無い人も少なからずいる。
一番気の毒だったのは、博士課程在籍中の海外調査において現地で病気で亡くなった一年上の先輩である。
博士課程に進んだからと言って、将来が約束されていたわけでは無い。
ただ、ある種の徒弟制が残っていた当時、修士課程は「馬の糞」と言われて、一人前に扱われなかった。
だから、どうしても博士課程に進みたかった。
私は教師になっても、細々と研究は続けてきた。
研究職への夢も見続けてきた。
一方、華やかに見える研究職や大学教員の過酷な現実も知ってはいた。
兵庫教育大学の大学院ではそれを思い知らされた。
だから、どうしても研究職に就きたいと思い続けているわけでは無い。
ただ、研究職に就かずとも研究は続けたいと思っている。
研究で収入が得られることにこしたことは無いが、そうで無くても研究は自分の生きる力になっている。
何よりも、多くの研究者が心血を注いで書き上げた文献を、理解する力がいくらかついてきた。
若い時は分かったつもりでいただけだと分かった。
それだけでも、研究してきたご褒美だと思っている。
理系の場合は、最先端の研究をしないと価値を失ってしまうそうだ。
企業や研究機関に採用されることが多い反面、臨時雇用として消耗品のように扱われることも聞く。
それが、週刊現代に取り上げられているのだろうと想像がつく。
ある意味で、記録の結果を求められるスポーツ選手と変わりないのである。
それなら、スポーツ界と同じような感覚で大学院の博士課程に進むべきなのだろう。
また、スポーツ界と同じように、優秀な研究者を育てるもっと支援組織を作るべきだろう。
考えてみれば「馬の糞」の修士は、博士とは違いアマチュアだから他に使い道があっただけなのだ。
文系の場合は長くやれば価値が出てくる場合もあるし、論文博士の道も残っている。
そんな「馬の糞」の生き残りの私が、一目置かれる研究を残す夢もその一念からである。
それが、私の生きる力になっている。
大学院博士課程なんか進んだら一生貧乏暮らしです
衝撃データー入手!4割が借金300万円超え でも、就職率は3割以下
中身は読んでないので、詳しくはよく分からないけれど、なんとなく想像はつく。
10年前に兵庫教育大学の大学院に長期研修として学んでいた時、文系の大学教員から博士課程を出て、コンビニショップの店長になっている話を聞いていた。
その人は、立派な国立大学の博士課程を出た人だった。
文系の場合は、私が大学を出た頃から、研究職への就職は多難な時代だった。
大学院の面接の時に、「就職無いよ」と言われ、「何とかなるでしょう」と答えた。
その答え方で通してくれたとも言われた。
今でこそ、学校教師に修士を採用することも多くなったが、当時はあまりなかった。
そもそも、私は高校教員になるつもりで、大学院に進学したわけでは無い。
それでも、万が一に備えて大学院でも1級の教員免許はとっていた。
東京都立大学の同じ研究室に教員免許をもっている人はあまりいなかった。
ある意味では、この大学院は教師になるということが念頭には無く進学するのが普通だった。
だから、所属した研究室のOB、OGには、高校教員は滅多にいない。
私は博士課程への進学を強く希望しながらも、修論のできが悪く受験さえできなかった。
やむなく、帰郷して高校教師の道を選びその道を歩んだ。
同じ研究室に所属していた人の多くは研究職に就いているが、そうで無い人も少なからずいる。
一番気の毒だったのは、博士課程在籍中の海外調査において現地で病気で亡くなった一年上の先輩である。
博士課程に進んだからと言って、将来が約束されていたわけでは無い。
ただ、ある種の徒弟制が残っていた当時、修士課程は「馬の糞」と言われて、一人前に扱われなかった。
だから、どうしても博士課程に進みたかった。
私は教師になっても、細々と研究は続けてきた。
研究職への夢も見続けてきた。
一方、華やかに見える研究職や大学教員の過酷な現実も知ってはいた。
兵庫教育大学の大学院ではそれを思い知らされた。
だから、どうしても研究職に就きたいと思い続けているわけでは無い。
ただ、研究職に就かずとも研究は続けたいと思っている。
研究で収入が得られることにこしたことは無いが、そうで無くても研究は自分の生きる力になっている。
何よりも、多くの研究者が心血を注いで書き上げた文献を、理解する力がいくらかついてきた。
若い時は分かったつもりでいただけだと分かった。
それだけでも、研究してきたご褒美だと思っている。
理系の場合は、最先端の研究をしないと価値を失ってしまうそうだ。
企業や研究機関に採用されることが多い反面、臨時雇用として消耗品のように扱われることも聞く。
それが、週刊現代に取り上げられているのだろうと想像がつく。
ある意味で、記録の結果を求められるスポーツ選手と変わりないのである。
それなら、スポーツ界と同じような感覚で大学院の博士課程に進むべきなのだろう。
また、スポーツ界と同じように、優秀な研究者を育てるもっと支援組織を作るべきだろう。
考えてみれば「馬の糞」の修士は、博士とは違いアマチュアだから他に使い道があっただけなのだ。
文系の場合は長くやれば価値が出てくる場合もあるし、論文博士の道も残っている。
そんな「馬の糞」の生き残りの私が、一目置かれる研究を残す夢もその一念からである。
それが、私の生きる力になっている。
2018年3月20日火曜日
人生を左右する奨学金
だいぶ前になるが、卒業後に奨学金が返せなくて、本人のみならず保証人の親が破産する事態に陥っている記事を見た。
そこで思い出したのは、自分の奨学金のことだ。
私は奨学金には、嬉しい思いと悔しい思いがある。
嬉しかったのは大学1年生の途中からもらった特別奨学金である。
当時、実家からの仕送りが少なく、名古屋で苦しい生活をしていたので助かった。
悔しい思いをしたのは、大学院で奨学金をもらえなかったことである。
私には3人の弟がいたので、大学院では親からの援助は全く得られなかった。
当時、奨学金がもらえなかったことで、授業料や東京での生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れなくてはならなくなった。
奨学金がとれなかったのは、予約奨学金に応募できなかったからである。
私は、大学4年生の時に東京都立大学大学院への進学を志した。
私の指導教官からは、「おまえが合格するには数年かかる」と言われていた。
実際自分にも、合格する自信が無く、4年生の受験はとっかかりだと思っていた。
実際、フランス語の問題も論述もあまりできたと思わなかったので、初日の試験の後は友達と飲んでいた。
翌日、一次試験合格の3人の一人になっていて驚いた。
私以外は国立大学で、埼玉大学と神戸大学だった。
二日酔いの頭で、2次の面接に臨んだが、自分が受かるとは思わなかった。
4年生ではとりあえず卒業して、アルバイトでもしながら学費を貯めて進学に備えようとしていた。
そのために、受験後は卒論のために奄美の与路島に調査に行っていた。
そこで、合格の知らせを聞いて驚き喜んだ。
しかし、それはある意味で苦難の始まりだった。
つまり、すぐに予約奨学金に応募しなくてはならないのに、調査のために時期を逸してしまったからだ。
それでも、入学時に奨学金がとれることを期待した。
しかし、同じ1枠に応募してきた競争相手は親の年収が200万円にも満たなかった。
相手は、東京在住の自営業者で、そんな年収で生活できるはずも無いと思われたが、仕方ないことだった。
わたしは奨学金をもらうことができなかった。
私はその後は郵便局でのアルバイトに始まり、警備員のアルバイトで夜警をしたあと、家庭教師をすることで生活を維持した。
しかし、授業料を納めることができないこともあり、一時は出席停止処分寸前にも陥ったりした。
大学院の先生から「お金を貸してやろうか」とも言われたが、何とか納めることができた。
とにかく、家庭教師を週に2回の家を3軒受け持ったりして、生活するだけでやっとという生活になった。
そして、それを打開するために無茶な所帯を築いてしまった。
結局、研究も所帯も行き詰まり破綻して、ひとり故郷に戻らざるを得なかった。
「もし、予約奨学金がとれていたら人生は変わっていた」とその後、悔やみ続けた。
しかし、今から思えば人が3年かかって修士論文を書くのを、4年かければ良かったのだと思う。
また、仮に博士課程に進学できていたとしても、まともに就職できていたかどいうか。
若い時は1年がすごく重く長く感じる。
長い人生においては、1年や2年は大したことは無いのだが、長い目で考える力は無い。
私には長い目で見る力は全く無かった。
ただ、怪我の巧妙というべきか、その後は生活を安定することに尽くした。
教員となり、奨学金の返済も免除されて、人並みの家族に恵まれた。
そのくせ、3年も早く退職したのは、当時果たせなかったことへの悔いが残っていることも一つの大きな理由である。
家内には本当に悪いと思いつつ、やり残した人生の宿題をやり遂げなければ気が済まなかった。
当時果たせなかった自分の研究を、仕上げた後にどうなるものかは分からない。
それでも、せめて残り少なくなった人生を悔いの無いように過ごしたいのである。
いつか、「とれなかった奨学金のせいにしなくても済む人生」が今の大きな目標なのである。
そこで思い出したのは、自分の奨学金のことだ。
私は奨学金には、嬉しい思いと悔しい思いがある。
嬉しかったのは大学1年生の途中からもらった特別奨学金である。
当時、実家からの仕送りが少なく、名古屋で苦しい生活をしていたので助かった。
悔しい思いをしたのは、大学院で奨学金をもらえなかったことである。
私には3人の弟がいたので、大学院では親からの援助は全く得られなかった。
当時、奨学金がもらえなかったことで、授業料や東京での生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れなくてはならなくなった。
奨学金がとれなかったのは、予約奨学金に応募できなかったからである。
私は、大学4年生の時に東京都立大学大学院への進学を志した。
私の指導教官からは、「おまえが合格するには数年かかる」と言われていた。
実際自分にも、合格する自信が無く、4年生の受験はとっかかりだと思っていた。
実際、フランス語の問題も論述もあまりできたと思わなかったので、初日の試験の後は友達と飲んでいた。
翌日、一次試験合格の3人の一人になっていて驚いた。
私以外は国立大学で、埼玉大学と神戸大学だった。
二日酔いの頭で、2次の面接に臨んだが、自分が受かるとは思わなかった。
4年生ではとりあえず卒業して、アルバイトでもしながら学費を貯めて進学に備えようとしていた。
そのために、受験後は卒論のために奄美の与路島に調査に行っていた。
そこで、合格の知らせを聞いて驚き喜んだ。
しかし、それはある意味で苦難の始まりだった。
つまり、すぐに予約奨学金に応募しなくてはならないのに、調査のために時期を逸してしまったからだ。
それでも、入学時に奨学金がとれることを期待した。
しかし、同じ1枠に応募してきた競争相手は親の年収が200万円にも満たなかった。
相手は、東京在住の自営業者で、そんな年収で生活できるはずも無いと思われたが、仕方ないことだった。
わたしは奨学金をもらうことができなかった。
私はその後は郵便局でのアルバイトに始まり、警備員のアルバイトで夜警をしたあと、家庭教師をすることで生活を維持した。
しかし、授業料を納めることができないこともあり、一時は出席停止処分寸前にも陥ったりした。
大学院の先生から「お金を貸してやろうか」とも言われたが、何とか納めることができた。
とにかく、家庭教師を週に2回の家を3軒受け持ったりして、生活するだけでやっとという生活になった。
そして、それを打開するために無茶な所帯を築いてしまった。
結局、研究も所帯も行き詰まり破綻して、ひとり故郷に戻らざるを得なかった。
「もし、予約奨学金がとれていたら人生は変わっていた」とその後、悔やみ続けた。
しかし、今から思えば人が3年かかって修士論文を書くのを、4年かければ良かったのだと思う。
また、仮に博士課程に進学できていたとしても、まともに就職できていたかどいうか。
若い時は1年がすごく重く長く感じる。
長い人生においては、1年や2年は大したことは無いのだが、長い目で考える力は無い。
私には長い目で見る力は全く無かった。
ただ、怪我の巧妙というべきか、その後は生活を安定することに尽くした。
教員となり、奨学金の返済も免除されて、人並みの家族に恵まれた。
そのくせ、3年も早く退職したのは、当時果たせなかったことへの悔いが残っていることも一つの大きな理由である。
家内には本当に悪いと思いつつ、やり残した人生の宿題をやり遂げなければ気が済まなかった。
当時果たせなかった自分の研究を、仕上げた後にどうなるものかは分からない。
それでも、せめて残り少なくなった人生を悔いの無いように過ごしたいのである。
いつか、「とれなかった奨学金のせいにしなくても済む人生」が今の大きな目標なのである。
2018年3月17日土曜日
知らぬ間にしていた涙活
先日(3/11)、「健康カプセルゲンキの時間」で涙活を特集していた。
「ストレスは現代人の多くが抱える、万病の元。実は、そんなストレスを解消する驚くべき方法がある。
その名も「涙活」。涙を流す事でストレス解消になる。」
と解説している(http://hicbc.com/tv/genki/archive/180311/)が、ネット上には涙活に関する記事がいくつもある。
私には初めて知る情報で、非常に新鮮だった。
私たちの世代は「涙君さよなら」が流行った時はまだ幼かった。
父親からは「男なら、歯を食いしばって泣くな!」と言われて育った。
そして、河島英五の「酒と泪と男と女」をことあるたびに歌った。
男は酒で女は泪というのが常識の世代でもあった。
今でも、テレビなどで男性が泣くことに対して一般にはあまり良い評価は受けていない。
ただ、昔よりは男の泪にも好意的になったと思う。
「ストレスは現代人の多くが抱える、万病の元。実は、そんなストレスを解消する驚くべき方法がある。
その名も「涙活」。涙を流す事でストレス解消になる。」
と解説している(http://hicbc.com/tv/genki/archive/180311/)が、ネット上には涙活に関する記事がいくつもある。
私には初めて知る情報で、非常に新鮮だった。
私たちの世代は「涙君さよなら」が流行った時はまだ幼かった。
父親からは「男なら、歯を食いしばって泣くな!」と言われて育った。
そして、河島英五の「酒と泪と男と女」をことあるたびに歌った。
男は酒で女は泪というのが常識の世代でもあった。
今でも、テレビなどで男性が泣くことに対して一般にはあまり良い評価は受けていない。
ただ、昔よりは男の泪にも好意的になったと思う。
以前ブログでも書いた「パッチアダムス」https://kiontgm.blogspot.jp/2014/03/blog-post_9.htmlでは、笑いの効果がテーマだった。
しかし、私はこの映画では毎会泪していた。
何度も何度も生徒に見せるたびに、同じシーンで泣いていた。
知らぬ間に涙活していたようだ。
教壇を離れた今年は、生徒に見せる機会が無いので涙活ができていない。
たぶん、いくつかのドラマで泪を流しているだろうとは思うけれど、これと言って思い出せない。
ただ、私は泣きたい時には、ひとりギターを弾きながら酒の力を借りて歌を歌う。
滅多に歌うことは無いが、ゴスペラーズの「永遠に」は涙無くしては歌えない。
二十歳にして亡くなった姪を思い出す歌だからである。
以前、その父親である弟と飲んでいる時にカラオケで歌ったら、弟が号泣してしまったのでそれ以来は弟の前では歌っていない。
姪の大好きだった思い出の曲で、葬式の時もずっとかけ続けられていた曲だからである。
また、「涙そうそう」も涙が出てしまう。
娘の友達が幼くして亡くなった時に、それを偲んで小学校の卒業式で同級生児童によって歌われたことを思い出すからである。
こういう哀しい思い出で涙活するよりも、感動的なシーンで涙活する方が良いとは思う。
ただ、健康番組でも涙活に使われていた映像も、哀しさを含む感動話だった。
涙が出る感動は哀しさを乗り越える、または懸命に乗り越えようとしていることでこそ感動があるのだろうと思う。
「笑う門には福来たる」と漫才や落語で笑って健康を手に入れることも良いだろう。
パッチアダムスも笑いによって患者を癒やそうとした。
でも、哀しさを受け入れて泣くことも大切であることが今回初めて分かった。
男にとっては恥ずかしいと思っていた泪も、酒の代わりに親しむべきものなのだろう。
「泣いて泣いて ひとり泣いて」は、女性だけのものでは無いと思う。
と言いながら、私は生徒の前で良く泣いていた・・・・
しかし、私はこの映画では毎会泪していた。
何度も何度も生徒に見せるたびに、同じシーンで泣いていた。
知らぬ間に涙活していたようだ。
教壇を離れた今年は、生徒に見せる機会が無いので涙活ができていない。
たぶん、いくつかのドラマで泪を流しているだろうとは思うけれど、これと言って思い出せない。
ただ、私は泣きたい時には、ひとりギターを弾きながら酒の力を借りて歌を歌う。
滅多に歌うことは無いが、ゴスペラーズの「永遠に」は涙無くしては歌えない。
二十歳にして亡くなった姪を思い出す歌だからである。
以前、その父親である弟と飲んでいる時にカラオケで歌ったら、弟が号泣してしまったのでそれ以来は弟の前では歌っていない。
姪の大好きだった思い出の曲で、葬式の時もずっとかけ続けられていた曲だからである。
また、「涙そうそう」も涙が出てしまう。
娘の友達が幼くして亡くなった時に、それを偲んで小学校の卒業式で同級生児童によって歌われたことを思い出すからである。
こういう哀しい思い出で涙活するよりも、感動的なシーンで涙活する方が良いとは思う。
ただ、健康番組でも涙活に使われていた映像も、哀しさを含む感動話だった。
涙が出る感動は哀しさを乗り越える、または懸命に乗り越えようとしていることでこそ感動があるのだろうと思う。
「笑う門には福来たる」と漫才や落語で笑って健康を手に入れることも良いだろう。
パッチアダムスも笑いによって患者を癒やそうとした。
でも、哀しさを受け入れて泣くことも大切であることが今回初めて分かった。
男にとっては恥ずかしいと思っていた泪も、酒の代わりに親しむべきものなのだろう。
「泣いて泣いて ひとり泣いて」は、女性だけのものでは無いと思う。
と言いながら、私は生徒の前で良く泣いていた・・・・
2018年3月15日木曜日
綾部山の梅2018年
今日(3/15)御津町の綾部山に家内と梅を見に行ってきた。
急に暖かくなって、我が家の梅も咲いているのでさぞかし見頃だろうと思っていた。
その期待を裏切ることは無かった。
平日であるにも関わらず、観梅のお客さんはいっぱいだった。
去年や二年前は、満開にほど遠かったし、肌寒かった。
今回は満開の梅の眺めと香りに包まれながら、坂を登っていくと暑くなって、展望所に行く時には半袖になっていた。
一方、家内の方は数日前から風邪をひいて、梅の香りも分からず、坂を登るの息切れをしていた。
平日なので、いつもの甘酒を提供している場所は閉じていたが、ゆっくりそこで休憩した。
瀬戸内海の島々が春霞の中に霞んでいた。
お客さんは、お年寄りが多いが、立派な写真機を持った年配の人が目立った。
平日と言うこともあって、子供連れはあまりおらず、弁当を広げている人も少なかった。
南側にある食堂に行って、弁当を買って梅の中で二人で食べた。
こうしてゆっくり座って、梅を観ながら弁当を食べるのは久しぶりである。
かつて、子供が小さい頃は、途中で弁当を買って来て食べたりした。
暖かったので、ゆっくり梅の香りも楽しみながら、おいしく食べた。
そして、食後は甘酒をベンチに座って海を眺めながら、ゆっくりと味わった。
この綾部山は結婚して以来ほぼ毎年来ている。
以前は、新聞販売所が無料券をくれることもあった。
昨年の暮れに無くなった義父とも、一緒に来たことがある。
子供が赤ん坊の頃からだから、私は30年ちかく訪れている。
家内は運転免許を取ってからだというから、もっと前からである。
夫婦二人だけで来るようになって、既に10年以上経っているように思う。
いつも来るたびに、幼かった子供と一緒に来た時のことを思い出す。
桜の花見の思い出はあまり無いのだが、綾部山の思い出はいっぱいある。
古木になって、伐られてしまった梅も増えているようだが、、多くはその思い出の背景になってくれた梅である。
ここに毎年来るのは、梅だけでは無い。
海や姫路の賑やかな景色が素晴らしいからである。
ただ、残念なのは食堂や販売所に魅力が無い。
だから、今回は近くの御津の道の駅に寄って、土産物を買った。
そこには、駐車場には入れきれないお客さんがあふれていた。
平日なのに、これだけの観光客を呼び寄せる御津町の魅力を改めて感じた。
ただ、ゆっくり梅を楽しむ場所は、室津にも赤穂にもある。
そちらは、そちらで大切にして欲しいと思っている。
急に暖かくなって、我が家の梅も咲いているのでさぞかし見頃だろうと思っていた。
その期待を裏切ることは無かった。
平日であるにも関わらず、観梅のお客さんはいっぱいだった。
去年や二年前は、満開にほど遠かったし、肌寒かった。
今回は満開の梅の眺めと香りに包まれながら、坂を登っていくと暑くなって、展望所に行く時には半袖になっていた。
一方、家内の方は数日前から風邪をひいて、梅の香りも分からず、坂を登るの息切れをしていた。
平日なので、いつもの甘酒を提供している場所は閉じていたが、ゆっくりそこで休憩した。
瀬戸内海の島々が春霞の中に霞んでいた。
お客さんは、お年寄りが多いが、立派な写真機を持った年配の人が目立った。
平日と言うこともあって、子供連れはあまりおらず、弁当を広げている人も少なかった。
南側にある食堂に行って、弁当を買って梅の中で二人で食べた。
こうしてゆっくり座って、梅を観ながら弁当を食べるのは久しぶりである。
かつて、子供が小さい頃は、途中で弁当を買って来て食べたりした。
暖かったので、ゆっくり梅の香りも楽しみながら、おいしく食べた。
そして、食後は甘酒をベンチに座って海を眺めながら、ゆっくりと味わった。
この綾部山は結婚して以来ほぼ毎年来ている。
以前は、新聞販売所が無料券をくれることもあった。
昨年の暮れに無くなった義父とも、一緒に来たことがある。
子供が赤ん坊の頃からだから、私は30年ちかく訪れている。
家内は運転免許を取ってからだというから、もっと前からである。
夫婦二人だけで来るようになって、既に10年以上経っているように思う。
いつも来るたびに、幼かった子供と一緒に来た時のことを思い出す。
桜の花見の思い出はあまり無いのだが、綾部山の思い出はいっぱいある。
古木になって、伐られてしまった梅も増えているようだが、、多くはその思い出の背景になってくれた梅である。
ここに毎年来るのは、梅だけでは無い。
海や姫路の賑やかな景色が素晴らしいからである。
ただ、残念なのは食堂や販売所に魅力が無い。
だから、今回は近くの御津の道の駅に寄って、土産物を買った。
そこには、駐車場には入れきれないお客さんがあふれていた。
平日なのに、これだけの観光客を呼び寄せる御津町の魅力を改めて感じた。
ただ、ゆっくり梅を楽しむ場所は、室津にも赤穂にもある。
そちらは、そちらで大切にして欲しいと思っている。
2018年3月13日火曜日
この歳で知る親の恩
自分は幸いにして、30年間教師をして定収入を得ていた。
ある同僚の教師は自ら揶揄して「お日さん 西西で過ごせてる」とよく言っていた。
彼は臨時講師の時代をいくらか経験していたから、教諭になってそう感じたのだろう。
私も臨時講師を経験しているが、それほど長い期間では無く採用試験も一度で済んでいる。
また、学生時代に色んなアルバイトをしていたが、身分はあくまで大学生や大学院生だった。
今の身分は期限付きの臨時雇用の指導員に過ぎない。
父親も私と同じ頃に転職しているが、ちゃんと正規雇用されていた。
だから、少し立場は違うが、学童の仕事をしている家内や、かつてパートの仕事をしていた母親とあまりかわらない。
私の母親は私が小学生だった頃から、内職の仕事をしていた。
子供が4人もいて、その頃は祖母も隣には住んでいなかったから外で働けなかった。
私が中学生になった頃から、新宅では隣に祖母がいて母親はパン屋にパートで働き始めた。
昨年も偶然、定時制の高校勤務でそのパン屋を継いだ息子さんに出会った。
彼は定時制高校の給食として、パンを提供していたからである。
彼は、母親にとっては雇い主の息子だったが、私の弟が家庭教師をした弟の教え子でもあった。
1歳違いの弟は大阪大学で学んでいたので、夏休みなどで請われて家庭教師をしていた。
因みに、南山大学の私は家に戻ると土木作業しか仕事が無かったので、そのうち名古屋でバイトすることが多かった。
というようなことで、母親はパン屋さんでも良くしてもらって上手く勤めていたようだった。
何せ、息子が4人もいたし、上二人は中学から私学に通い出したため、もっと稼がなくてはならなくなった。
両親は、親戚の敷地を借りて小学生相手の駄菓子屋兼の文房具屋を開業した。
母親は朝早い登校時の時間と、放課後から夕方まで店で働いた。
その空いた時間に、パン屋で働くという生活だった。
原付自転車のカブに乗って、中浜の自宅から文房具屋のある鷆和まで通った。
先日も母親と話した時に、雪の道でもバイクに乗っていくのが怖かったと言っていた。
その母親も、私が大学院の頃一度、バイクに乗っていてダンプにはじき飛ばされたことがあった。
幸い怪我は大したことは無かったが、子供のためにその後も働き続けなくてはならなかった。
今から思うと無茶な働きぶりだったと思う。
母親は時間の都合などで、パン屋をやめて別のパートを転々と勤めた。
私が教員に採用された後も、母親は別のパートの仕事をしていた。
一度、とある駅前通りにある食堂前の道ばたで洗い物をしている姿を見て、もうパート仕事を辞めて欲しいと言った。
母親もその仕事は辛かったようで、私の言葉を利用してパートの店を辞めてくれた。
子供が自立した後は、生活に余裕が出て民謡やカラオケを楽しむ生活となった。
今ではそんな苦労をしたことさえ忘れてしまって、口に出すことは滅多に無い。
自分が今の苦しい立場を話したのを聞いて、思い出したようだった。
私はそれがむしろ、親の恩を知るきっかけとなった。
写真は鳥撫(鷆和)の神社でのお宮参りの母親と私
ある同僚の教師は自ら揶揄して「お日さん 西西で過ごせてる」とよく言っていた。
彼は臨時講師の時代をいくらか経験していたから、教諭になってそう感じたのだろう。
私も臨時講師を経験しているが、それほど長い期間では無く採用試験も一度で済んでいる。
また、学生時代に色んなアルバイトをしていたが、身分はあくまで大学生や大学院生だった。
今の身分は期限付きの臨時雇用の指導員に過ぎない。
父親も私と同じ頃に転職しているが、ちゃんと正規雇用されていた。
だから、少し立場は違うが、学童の仕事をしている家内や、かつてパートの仕事をしていた母親とあまりかわらない。
私の母親は私が小学生だった頃から、内職の仕事をしていた。
子供が4人もいて、その頃は祖母も隣には住んでいなかったから外で働けなかった。
私が中学生になった頃から、新宅では隣に祖母がいて母親はパン屋にパートで働き始めた。
昨年も偶然、定時制の高校勤務でそのパン屋を継いだ息子さんに出会った。
彼は定時制高校の給食として、パンを提供していたからである。
彼は、母親にとっては雇い主の息子だったが、私の弟が家庭教師をした弟の教え子でもあった。
1歳違いの弟は大阪大学で学んでいたので、夏休みなどで請われて家庭教師をしていた。
因みに、南山大学の私は家に戻ると土木作業しか仕事が無かったので、そのうち名古屋でバイトすることが多かった。
というようなことで、母親はパン屋さんでも良くしてもらって上手く勤めていたようだった。
何せ、息子が4人もいたし、上二人は中学から私学に通い出したため、もっと稼がなくてはならなくなった。
両親は、親戚の敷地を借りて小学生相手の駄菓子屋兼の文房具屋を開業した。
母親は朝早い登校時の時間と、放課後から夕方まで店で働いた。
その空いた時間に、パン屋で働くという生活だった。
原付自転車のカブに乗って、中浜の自宅から文房具屋のある鷆和まで通った。
先日も母親と話した時に、雪の道でもバイクに乗っていくのが怖かったと言っていた。
その母親も、私が大学院の頃一度、バイクに乗っていてダンプにはじき飛ばされたことがあった。
幸い怪我は大したことは無かったが、子供のためにその後も働き続けなくてはならなかった。
今から思うと無茶な働きぶりだったと思う。
母親は時間の都合などで、パン屋をやめて別のパートを転々と勤めた。
私が教員に採用された後も、母親は別のパートの仕事をしていた。
一度、とある駅前通りにある食堂前の道ばたで洗い物をしている姿を見て、もうパート仕事を辞めて欲しいと言った。
母親もその仕事は辛かったようで、私の言葉を利用してパートの店を辞めてくれた。
子供が自立した後は、生活に余裕が出て民謡やカラオケを楽しむ生活となった。
今ではそんな苦労をしたことさえ忘れてしまって、口に出すことは滅多に無い。
自分が今の苦しい立場を話したのを聞いて、思い出したようだった。
私はそれがむしろ、親の恩を知るきっかけとなった。
恥ずかしいことだが、自分が母親が苦労していたことを振り返ることをしないできていた。
自分が母親のように弱い立場に立って、初めてその苦労が本当に分かるようになったように思う。
弱い立場にならないと分からないことがあるものだと、情けないことにこの歳ながら思い知った。写真は鳥撫(鷆和)の神社でのお宮参りの母親と私
2018年3月11日日曜日
親子で過ごす至福の時間
先日の日曜日(3/4)に私が勤めている施設で、親子でアウトドアを楽しむイベントがあった。
乳幼児から小学校の低学年と親子が集まって、ゲームや昼食作り、工作などを楽しんだ。
お父さんも多く参加してくれて、親子のふれあいが楽しそうで微笑ましかった。
考えてみれば、我が家でこういうイベントに参加したことはなかった。
家族だけで公園や動物園や海水浴、キャンプに出かけ、たまに親戚と一緒だったりした。
知らない人同士の家族でも、一緒に楽しめることは良いことだと思った。
振り返ってみれば、自分の育った家族で一緒に旅行に行ったことはあまりない。
せいぜい、親戚の家に泊まりに行く程度だった。
今日(3/7)もそんな話を母親としていたら、母親は私たちが大学生の時や結婚して孫ができた頃の旅行のことを言い出した。
大型レンタカーや小型バスを借りて、よく日帰りで遠くまで行ったが、何度か泊まりがけでも出かけた。
私たち家族にとっては、両親が費用を殆ど負担してくれるのでありがたかった。
両親にとっても、その頃一緒に出かけるのをとても楽しみにしていた。
特に子供好きの父は、カップ酒などを持ち込んで上機嫌だった。
私たちが子供の頃には、家族旅行など殆どしなかった分、両親にとっては息子家族と一緒に過ごした日々が至福の時だったようだ。
その後、弟夫婦や家族に箱根旅行や北海道旅行にも連れて行ってもらったが、それにもまして息子家族と行った小旅行が思い出深いようだった。
残念ながら、私の子供は独身でたまに一緒にドライブするが、大抵は友達と旅行を楽しんでいる。
この先に自分の両親が過ごしたように、子や孫との至福の時を過ごすのは期待できないように思える。
ただ、自分の子供たちが小学生だった頃まで、いろんな所に行って親子で過ごした日々は私にとっては至福の時だったと思う。
20年程前、勤めていた学校の先輩教師が子供と過ごす日々を大切にするようにアドバイスをくれた。
先輩教師は子供と過ごすべき時期に、部活動の仕事が忙しくて一緒に過ごせなかったことを悔やんでいた。
私は当時、特別支援学校勤めが多かったので、部活動の仕事は殆ど無かった。
だから、子供と一緒に過ごせる時間を多く持つことができた。
今は、時々その当時撮った写真やビデオを眺めて、当時に戻った気分を味わっている。
子育ての頃は、生活のために必死に働かなければならない時期なので、親子で過ごす時間を大切にする心の余裕は無い。
早く子育てが終わって自由になりたいと思ったこともある。
その自由を手に入れた今は、逆にその頃に戻りたいと思っている。
失って初めて知るのは親子が一緒に過ごせた至福の時間だった。
乳幼児から小学校の低学年と親子が集まって、ゲームや昼食作り、工作などを楽しんだ。
お父さんも多く参加してくれて、親子のふれあいが楽しそうで微笑ましかった。
考えてみれば、我が家でこういうイベントに参加したことはなかった。
家族だけで公園や動物園や海水浴、キャンプに出かけ、たまに親戚と一緒だったりした。
知らない人同士の家族でも、一緒に楽しめることは良いことだと思った。
振り返ってみれば、自分の育った家族で一緒に旅行に行ったことはあまりない。
せいぜい、親戚の家に泊まりに行く程度だった。
今日(3/7)もそんな話を母親としていたら、母親は私たちが大学生の時や結婚して孫ができた頃の旅行のことを言い出した。
大型レンタカーや小型バスを借りて、よく日帰りで遠くまで行ったが、何度か泊まりがけでも出かけた。
私たち家族にとっては、両親が費用を殆ど負担してくれるのでありがたかった。
両親にとっても、その頃一緒に出かけるのをとても楽しみにしていた。
特に子供好きの父は、カップ酒などを持ち込んで上機嫌だった。
私たちが子供の頃には、家族旅行など殆どしなかった分、両親にとっては息子家族と一緒に過ごした日々が至福の時だったようだ。
その後、弟夫婦や家族に箱根旅行や北海道旅行にも連れて行ってもらったが、それにもまして息子家族と行った小旅行が思い出深いようだった。
残念ながら、私の子供は独身でたまに一緒にドライブするが、大抵は友達と旅行を楽しんでいる。
この先に自分の両親が過ごしたように、子や孫との至福の時を過ごすのは期待できないように思える。
ただ、自分の子供たちが小学生だった頃まで、いろんな所に行って親子で過ごした日々は私にとっては至福の時だったと思う。
20年程前、勤めていた学校の先輩教師が子供と過ごす日々を大切にするようにアドバイスをくれた。
先輩教師は子供と過ごすべき時期に、部活動の仕事が忙しくて一緒に過ごせなかったことを悔やんでいた。
私は当時、特別支援学校勤めが多かったので、部活動の仕事は殆ど無かった。
だから、子供と一緒に過ごせる時間を多く持つことができた。
今は、時々その当時撮った写真やビデオを眺めて、当時に戻った気分を味わっている。
子育ての頃は、生活のために必死に働かなければならない時期なので、親子で過ごす時間を大切にする心の余裕は無い。
早く子育てが終わって自由になりたいと思ったこともある。
その自由を手に入れた今は、逆にその頃に戻りたいと思っている。
失って初めて知るのは親子が一緒に過ごせた至福の時間だった。
2018年3月9日金曜日
「2018年問題」の現実
改正労働契約法により2013年4月を起点に有期雇用契約が5年を経過した人に無期雇用に転換する権利が付与される。
パートやアルバイトなどの短時間勤務の非正社員であっても、5年勤務すれば正社員と同じように定年まで雇用が保障されることになる。
ただし、NHKラジオでの解説を聞くと、これはあくまで「定年までの雇用の保障」であって、正社員並みの待遇が保証されるわけでは無い。
私は昨年まで正職員として身分は保障されていた。
早期退職をして、現在期限付き臨時職員として働いている。
私自身は自分がやりたいと思う仕事を、契約期間に限らずやりたいと思っている。
ただし、不安のない生活のためには、賃労働を意にそぐわなくても行うつもりである
一般に職場には立場の違う有期雇用職員がいると思う。
役員待遇で、雇用管理する職員。
退職後請われて雇用された中間管理職員。
学校出たばかりとか、長期間正社員を経験していない若い職員。
子育てをしながら仕事を続けている女性職員。
私のように、長年勤めた正職員を退職した後にハローワークを通じて再就職した職員。
等々、他にもいろんな立場の人がいると思う。
同じ期限雇用職員でも、立場は違うし思いも異なる。
ただ、共通しているのは役員待遇を除いて雇用の継続は意のままにならない。
その代わり、条件が良いところがあれば、転職することも可能である。
現実的には、その良い条件の職場はそんなに無いのが実情だ。
ステップアップを目指して転職する若い職員も不安はあるようだ。
それでも、若い職員は正職員を望んでいることがよくわかる。
ブラックな職場と言われている教職に長く勤めた私には、正職員の厳しさも分かってはいる。
しかし、子育てや住宅を手に入れようとする人には、正職員である必要があるだろう。
そして、正職員でなければ、せめて無期限の雇用の確保と思うのは無理はない。
また、退職後の再就職した人も生活の安定や生きがいで雇用の確保を求めている。
かつての終身雇用、年功序列は一部の人にしかなされていない。
学校現場でもそうで無い人が少なからずいる。
そもそも、あたかも日本の労働慣行とされる仕組みも時代の産物である。
これからは同一労働、同一賃金の時代になってくるだろう。
現に私は若い人と同じ賃金で働いている。
有能な人は、転職してステップアップするチャンスも増えている。
一方、私のような年を重ねている者にとっては、ステップアップは殆ど無理である。
これからは、それぞれ思いを持った人がそれぞれの働き方で勤めるしかない。
家族主義の組織は時代遅れとなった。
自分の身は自分で守るしかない。
組織の一員として思いやる余裕はなくなる。
では、誰が思いやってくれるのか。
弱さを自覚した個人がお互いに助け合うしかない。
それが家族なのか、親族なのか、友達なのか、縁故なのか。
せめて、弱い立場の個人がネットで情報を交換し助け合うべきか?
パートやアルバイトなどの短時間勤務の非正社員であっても、5年勤務すれば正社員と同じように定年まで雇用が保障されることになる。
ただし、NHKラジオでの解説を聞くと、これはあくまで「定年までの雇用の保障」であって、正社員並みの待遇が保証されるわけでは無い。
私は昨年まで正職員として身分は保障されていた。
早期退職をして、現在期限付き臨時職員として働いている。
私自身は自分がやりたいと思う仕事を、契約期間に限らずやりたいと思っている。
ただし、不安のない生活のためには、賃労働を意にそぐわなくても行うつもりである
一般に職場には立場の違う有期雇用職員がいると思う。
役員待遇で、雇用管理する職員。
退職後請われて雇用された中間管理職員。
学校出たばかりとか、長期間正社員を経験していない若い職員。
子育てをしながら仕事を続けている女性職員。
私のように、長年勤めた正職員を退職した後にハローワークを通じて再就職した職員。
等々、他にもいろんな立場の人がいると思う。
同じ期限雇用職員でも、立場は違うし思いも異なる。
ただ、共通しているのは役員待遇を除いて雇用の継続は意のままにならない。
その代わり、条件が良いところがあれば、転職することも可能である。
現実的には、その良い条件の職場はそんなに無いのが実情だ。
ステップアップを目指して転職する若い職員も不安はあるようだ。
それでも、若い職員は正職員を望んでいることがよくわかる。
ブラックな職場と言われている教職に長く勤めた私には、正職員の厳しさも分かってはいる。
しかし、子育てや住宅を手に入れようとする人には、正職員である必要があるだろう。
そして、正職員でなければ、せめて無期限の雇用の確保と思うのは無理はない。
また、退職後の再就職した人も生活の安定や生きがいで雇用の確保を求めている。
かつての終身雇用、年功序列は一部の人にしかなされていない。
学校現場でもそうで無い人が少なからずいる。
そもそも、あたかも日本の労働慣行とされる仕組みも時代の産物である。
これからは同一労働、同一賃金の時代になってくるだろう。
現に私は若い人と同じ賃金で働いている。
有能な人は、転職してステップアップするチャンスも増えている。
一方、私のような年を重ねている者にとっては、ステップアップは殆ど無理である。
これからは、それぞれ思いを持った人がそれぞれの働き方で勤めるしかない。
家族主義の組織は時代遅れとなった。
自分の身は自分で守るしかない。
組織の一員として思いやる余裕はなくなる。
では、誰が思いやってくれるのか。
弱さを自覚した個人がお互いに助け合うしかない。
それが家族なのか、親族なのか、友達なのか、縁故なのか。
せめて、弱い立場の個人がネットで情報を交換し助け合うべきか?
2018年3月6日火曜日
祖母と「わかば」
もともと、私の父親はここいらで言う「シンヤ」で分家筋であった。
だから、父方の祖父母とは一緒に住んでいなかった。
母方の祖母はもともとは、相生で伯母家族と住んでいたのだが、赤穂の同じ敷地内に一緒に家を新築して住み始めた。
だから、母方の祖母が自分が中学生くらい頃から、隣に住んでいたことになる。
隣と言っても垣根も無く、同じ敷地内に二件家が建っているという感じである。
当然行き来は頻繁で、祖母はしょっちゅう我が家に来るし、自分たちもしょっちゅう隣を訪れた。
母方の祖母は、隣に住む前から、ことあるごとに我が家に泊まり込みでやってきてくれていた。
というのも、祖父は戦死していなかったので自由に動けたことと、私の家は兄弟が4人もいて、母親に助けが必要だった。
私の家は、中学校までは尾崎の磯釜というところにあって、古く小さな家を父親が安く買い求めたものだった。
人が寝られる間は二つしか無く、便所や風呂は外にあり、炊事場も土間だった。
玄関も北向きで、東に床の間があり、西側は隣の家とつながっていた。
そういう粗末な家に祖母や、伯母家族はよく泊まりに来てくれていた。
そして、自分たちの家族も当時相生の会社関連の長屋住宅に住む祖母の家によく泊まりに行った。
先日、「わかば」というタバコが値上がりすると言うのを聞いて祖母を思い出した。
小学生の頃、よく頼まれて買いに行ったからだ。
当時は確か50円だったと思う。
タバコに関しては、後に伯母から結核予防のために祖母は吸い出したと聞いた。
伯母の夫、つまり祖母にとっての娘婿は結核で亡くなった。
伯母と一緒に一生懸命に看病していたのだと思う。
また、看護婦ではなかったが、普通は嫌がる結核患者さんの世話もしていたという。
今は肺がんを心配するタバコだが、当時は結核予防として信じられていたようだ。
それがきっかけとして、祖母は当時は吸っていたが、隣に住みだした頃はもう吸っていなかった。
その祖母は私ら兄弟に「偉くならんでええ(良い)」と事あるごとに言っていた。
受験勉強に励んでいる自分たちには、老人の戯言のように思い受け流していた。
しかし、この歳になると、その意味がよく分かる。
そして、同じ言葉を言うようになっている。
細やかながら、仲良く肩寄せ合って暮らせることがいかに難しいか。
祖母がそばに暮らしていた年月があったからこそ、肩寄せ合う価値が少しでも分かるように思える。
安い「わかば」を結核予防に吸っていた時代は、誰もがそれを知っていたのかもしれない。
だから、父方の祖父母とは一緒に住んでいなかった。
母方の祖母はもともとは、相生で伯母家族と住んでいたのだが、赤穂の同じ敷地内に一緒に家を新築して住み始めた。
だから、母方の祖母が自分が中学生くらい頃から、隣に住んでいたことになる。
隣と言っても垣根も無く、同じ敷地内に二件家が建っているという感じである。
当然行き来は頻繁で、祖母はしょっちゅう我が家に来るし、自分たちもしょっちゅう隣を訪れた。
母方の祖母は、隣に住む前から、ことあるごとに我が家に泊まり込みでやってきてくれていた。
というのも、祖父は戦死していなかったので自由に動けたことと、私の家は兄弟が4人もいて、母親に助けが必要だった。
私の家は、中学校までは尾崎の磯釜というところにあって、古く小さな家を父親が安く買い求めたものだった。
人が寝られる間は二つしか無く、便所や風呂は外にあり、炊事場も土間だった。
玄関も北向きで、東に床の間があり、西側は隣の家とつながっていた。
そういう粗末な家に祖母や、伯母家族はよく泊まりに来てくれていた。
そして、自分たちの家族も当時相生の会社関連の長屋住宅に住む祖母の家によく泊まりに行った。
先日、「わかば」というタバコが値上がりすると言うのを聞いて祖母を思い出した。
小学生の頃、よく頼まれて買いに行ったからだ。
当時は確か50円だったと思う。
タバコに関しては、後に伯母から結核予防のために祖母は吸い出したと聞いた。
伯母の夫、つまり祖母にとっての娘婿は結核で亡くなった。
伯母と一緒に一生懸命に看病していたのだと思う。
また、看護婦ではなかったが、普通は嫌がる結核患者さんの世話もしていたという。
今は肺がんを心配するタバコだが、当時は結核予防として信じられていたようだ。
それがきっかけとして、祖母は当時は吸っていたが、隣に住みだした頃はもう吸っていなかった。
その祖母は私ら兄弟に「偉くならんでええ(良い)」と事あるごとに言っていた。
受験勉強に励んでいる自分たちには、老人の戯言のように思い受け流していた。
しかし、この歳になると、その意味がよく分かる。
そして、同じ言葉を言うようになっている。
細やかながら、仲良く肩寄せ合って暮らせることがいかに難しいか。
祖母がそばに暮らしていた年月があったからこそ、肩寄せ合う価値が少しでも分かるように思える。
安い「わかば」を結核予防に吸っていた時代は、誰もがそれを知っていたのかもしれない。
2018年3月3日土曜日
干からびたカッパ
私は特別支援学校に勤めていた頃、生徒がいきなり後ろから「あ! カッパがいる」と言われたことがある。
というのも、私の頭のてっぺんあたりは薄くなっており、その下の髪の毛が伸びていたのでカッパのようになっていた。
その生徒は観たまま正直に叫んだだけなのだ。
それ以来、なるべく髪の毛を短く刈って、カッパの頭にならないようにしてきた。
水泳好きの私は、普段から水泳のことをよく話していたので。
「水もしたたるいい男(プールで泳いで)」と職場の若い職員に紹介文を書かれて、上手いこと言うなと感心した。
皮肉ともとれるが、これからは自己紹介に使えそうだなとも思った。
これまではハンドルネームなどでは、「イルカ」ではなく「海豚」を用いた。
可愛いカタカナのイルカより、海の豚の漢字があっていると思った。
その海豚ないしカッパが、ここ二ヶ月ほどプールから遠ざかっていた。
行きたい行きたいと思いながら、プールには行けなかった。
通勤でプールの傍を通り、電器がついていると思いつつ素通りしてしまっていた。
当然、行く気で泳ぐ用意はしてはいた。
しかし、仕事が終わって夕方になり、寒いし疲れているしで結局行かずじまいに終わった。
今日(3/2)は朝から休みで、しかも天気が良くて気温も高い。
夕方、クロの散歩をして、先日風でずれた波板を直してからプールに出かけた。
ちょうど、スイミングの生徒がタイムを計っていた。
そのすぐ横で、アップを始めた。
いつもの「負ケルモンカ」の癖が出て、アップなのにスピードを出してしまった。
久しぶりなので、肩や足にに疲労や痛みがなくて思ったよりスムーズに泳げた。
しかし、正直なものでしばらく泳ぐと、腕が疲れて思うように動かせなくなってしまった。
久しぶりにいつもの水泳仲間と話すのも楽しい。
火野正平が自転車で佐用町に来てうどんを食べていたのが、テレビで出ていたという。
彼はずっと自転車に乗っているのでは無くて、放映される区間だけ自転車に乗っているそうだ。
テレビで少し観るたびに、お尻は痛くないのかと気にしていたが、全然問題なかったわけである。
私も自転車は好きだが、お尻が気になって長い距離は敬遠している。
そんな話をしたり、同じ水泳仲間の知り合いの息子さんから父親の様子を聞いたりもした。
彼の父親は水泳もやるが、退職後は山にも良く登っている。
冬山にも登っていると聞いて、本格的だなと感心した。
不慣れな仕事を憶えることや、人間関係に疲れ果て水泳も歌もできていない。
まさしく干からびたカッパなのである。
今日は干した大根を漬物にしたが、干からびた人間は食えない。
これからは無理をしてでも、頭に水をかけようと思う。
水も滴るイイ男として・・・
というのも、私の頭のてっぺんあたりは薄くなっており、その下の髪の毛が伸びていたのでカッパのようになっていた。
その生徒は観たまま正直に叫んだだけなのだ。
それ以来、なるべく髪の毛を短く刈って、カッパの頭にならないようにしてきた。
水泳好きの私は、普段から水泳のことをよく話していたので。
「水もしたたるいい男(プールで泳いで)」と職場の若い職員に紹介文を書かれて、上手いこと言うなと感心した。
皮肉ともとれるが、これからは自己紹介に使えそうだなとも思った。
これまではハンドルネームなどでは、「イルカ」ではなく「海豚」を用いた。
可愛いカタカナのイルカより、海の豚の漢字があっていると思った。
その海豚ないしカッパが、ここ二ヶ月ほどプールから遠ざかっていた。
行きたい行きたいと思いながら、プールには行けなかった。
通勤でプールの傍を通り、電器がついていると思いつつ素通りしてしまっていた。
当然、行く気で泳ぐ用意はしてはいた。
しかし、仕事が終わって夕方になり、寒いし疲れているしで結局行かずじまいに終わった。
今日(3/2)は朝から休みで、しかも天気が良くて気温も高い。
夕方、クロの散歩をして、先日風でずれた波板を直してからプールに出かけた。
ちょうど、スイミングの生徒がタイムを計っていた。
そのすぐ横で、アップを始めた。
いつもの「負ケルモンカ」の癖が出て、アップなのにスピードを出してしまった。
久しぶりなので、肩や足にに疲労や痛みがなくて思ったよりスムーズに泳げた。
しかし、正直なものでしばらく泳ぐと、腕が疲れて思うように動かせなくなってしまった。
久しぶりにいつもの水泳仲間と話すのも楽しい。
火野正平が自転車で佐用町に来てうどんを食べていたのが、テレビで出ていたという。
彼はずっと自転車に乗っているのでは無くて、放映される区間だけ自転車に乗っているそうだ。
テレビで少し観るたびに、お尻は痛くないのかと気にしていたが、全然問題なかったわけである。
私も自転車は好きだが、お尻が気になって長い距離は敬遠している。
そんな話をしたり、同じ水泳仲間の知り合いの息子さんから父親の様子を聞いたりもした。
彼の父親は水泳もやるが、退職後は山にも良く登っている。
冬山にも登っていると聞いて、本格的だなと感心した。
不慣れな仕事を憶えることや、人間関係に疲れ果て水泳も歌もできていない。
まさしく干からびたカッパなのである。
今日は干した大根を漬物にしたが、干からびた人間は食えない。
これからは無理をしてでも、頭に水をかけようと思う。
水も滴るイイ男として・・・
登録:
投稿 (Atom)