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2018年4月28日土曜日

播磨丸の浮き輪

実家の屋根裏は物置になっている。
捜し物があって、屋根裏をのぞいてみると、船の救命用の浮き輪が三つある。
昔からずっとあったものだが、全然気にかけてなかった。
父親は大切に屋根裏に三つも置いていたのだ。
しかも、太い桁に並べて縛ってあった。
その一つを頂くことにした。
そして、家では玄関の軒下につるしてみた。

浮き輪には「赤穂 播磨丸」と書いてあった。
持って帰る時に、船の名前を母に聞いたら、第7播磨丸とか、第3播磨丸とか、はっきりしなかった。
とにかく、鳥撫で木造運搬船を所有していたのは親戚が多く、番号で区別した播磨丸と称していたようだ。
もう、60年近く前の物になるので、表面はボロボロであったが、麻の綱はしっかりしていた。
父親は、捨てがたく屋根裏に置いていたのだろうが、これだけ年期が入ると骨董品として面白い(家内には不評)。
実は、船の石油ランプももらってきて、座敷の軒下に吊していた。

これは、赤と緑の一対の一つである。
船は左舷が赤ランプ、右舷が緑ランプだからである。
今はこのような石油ランプは使っていないと思う。
家にあるのは、赤ランプで実家には緑ランプが居間にある。
近所の人でも、これが船のランプであることが分かる人は、そう多くない。

父が船に愛着を持っていたことを、今になって気がつかされた。
船の話をする時は、あまりいい話は無かったのだが、苦労を共にした船の名残は捨てられなかったのだろう。
私自身は、小さい頃は父に船乗りになると約束していたそうだ。
しかし、父自身が船乗りを辞めてしまったので、約束は反故になった。
母からは船乗りにはなるなと言われてきたので、自分自身もあえて船乗りにならなかった。
ただ、自分の娘が造船設計に携わって、時に試運転で船に乗るのも妙な縁である。
私は、せめてSUPの船長を勤めているのだが・・・


2018年4月27日金曜日

鳴きの洗濯機とのお別れ

家の洗濯機は、ここ数年以上毎朝鳴き続けていた。
脱水の度に、「キー キー」と悲鳴を上げた。
その悲鳴は、周囲数十メートル響き渡った。
おそらく都会ではとっくに、苦情が出て買い換えられていただろう。
風呂からの給水ホースも破れて使えず、バケツで家内は風呂の水を汲み入れてもいた。
そこまでしても、使い続けるのは愛着ではなく、勿体ないからだった。
それには、私が早期退職して、金銭的に余裕がなかったことも確かである。
そんな中、ようやく家内は買い換える決心をした。
家電店の会員DMで特別安い情報を得たからである。
これで、近所迷惑な洗濯機ともお別れができた。

家内が、洗濯機を買う時に店員からもっと静かな洗濯機を勧められたそうである。
都会では、マンションでは洗濯機の音に気を遣わねばならないのだろう。
また、一戸建てでも、隣家とは接近しているので、音には気を遣うのだと思う。
我が家の洗濯機の音が遠くまで響くのは、周りに家が少ないからである。
そして、夜中には音が出るので、洗濯しない。
田舎の一番の騒音は、一晩中騒音を出し続ける米の乾燥脱穀機。
そして、早朝に農薬散布するラジコンヘリの音である。
昼間に行う農作業の農機の音は、殆ど気にならない。

そういえば、先日職場で話していて、シカの鳴く声も迷惑にいう人もいた。
近所では、猟犬を中心とした犬の鳴き声は、場合によって夜中にも聞こえる。
我が家の犬は、無駄吠えはしないが、もし夜中に安易に鳴けば、二階から水を浴びせられるので、滅多に夜中には鳴かない。
鹿の鳴き声などは、季節によっては当たり前のことである。
鶏に関しては、近所に家のない家では問題ないが、そうでないとさすがに苦情が出る。
それは、朝早く鳴いて、睡眠を邪魔するからである。

こういうような事情で、よく鳴く洗濯機は延命できた。
都会なら、数年以上前に最期を迎えていたはずである。
これも、不便であっても安上がりな、田舎住まいのメリットかも知れない。
ただ、鹿の鳴き声や、猟犬の無駄吠え、蛙や蝉の鳴き声が嫌いな人には住みづらい所かも知れない。
私には、工場、車、飛行機などの騒音の方が、うるさく感じるのだが。
それよりも、住宅内外の生活音に関しては、田舎ではあまり問題にならないのが良いと思う。
私の、たまに歌う歌を除けば・・・・


2018年4月26日木曜日

無縁社会と若者

報道番組で、アメリカでは好景気であるにもかかわらず、若者の路上生活者が多いという。
大学を出ても就職につけず、家族との関係も悪いので頼ることができない女性を映し出していた。
報道番組では、アメリカは思いのほか学歴社会で、職を得る機会を失うと路上生活者に簡単に転落するそうである。
以前から、日本に来て働くALT(外国語指導助手)の先生と話をしていて、親子関係が非常にドライなのに気がついていた。
両親は離婚経験を持ち、現在は実の父親とは疎遠な場合が多かった。
そして、その母親の生活と、本人の生活は全く切り離して考えているようだった。
確かに、日本でも両親と一緒に暮らす夫婦は少なくなっている。
ただ、一緒に暮らさなくても、関係はそれなりに保ち続けている。
これは両親が離婚していない場合に限られるのかもしれない。

身の回りでも夫婦離婚や別居が増えて、子供と親の関係が疎遠になった例を見ている。
親が離婚して両方とも家を離れ、兄弟だけが残されたケースでは、兄がニートになった弟を養ったりしている。
親戚からも手を差し伸べられず、この先のことが心配される。
自分の生活を守ることで精一杯となり、親子でさえ助け合えない人もいる。
果たして、こういう無縁社会に親孝行などを、道徳として学校でどう教えたら良いのだろう。
学校が生み出した学歴社会とは、親の家業や職業を乗り越えて自己実現を果たすことが可能な社会だった。
しかし、それが果たせたのは一部で、多くは親からの家業も、親が得ていた職業さえ得ることができない。
学校は親の家業や、職業を継承する教育ができるのだろうか?
企業と結びついた学歴社会に学校は、いかに新しい方向が示し得るのだろうか?
学歴社会の成功者がその答えを出しうるのだろうか?
そして、親や、親戚、地域のしがらみから、自由になろうとした我々の世代は、この無縁社会で孤独死の不安を抱えている。
これが自己実現の末路だったとは・・・




2018年4月25日水曜日

大福にはトマトジュース

今の職場は利用者さんの手土産や、職員の差し入れで甘い物が多く配られる。
私は糖尿病なので、配る人も奥さんにと言って渡してくれる。
私は持って帰られない物は、断るが持って帰られる物は持って帰って家内と分けて食べる。
大概は、半々だが、甘すぎるのは少しだけちぎって食べる。
ビスケット類はあまり好きではないので、テーブルに置いておくと、家内か息子が食べている。
わたしも申し訳ないので、たまに甘くないタコせんや、牡蠣せんを持って行ったりした。
今日は部長さんが、大福まんじゅうを「奥さんに」とくれたので。
「よめさんと 仲良く分けて食べますわ」と答えた。
そして、私と同じ糖尿病なので、お返しにトマトジュースの「理想のトマト」渡した。
「糖尿尿にはトマトジュースを食事の前に飲むといいそうですよ」と言い添えて。

それにしても、手土産などは殆ど甘い物が多くて、もらうにしても、あげるにしても自分には複雑である。
誰にもトマトジュースや野菜ジュースはあげられない。
極めつけは、カカオ85%のチョコレートをあげようとしたら、チョコレートではないと断れてしまった。
私にはカカオ85%でも十分甘いのであるが、一般の人は苦いだけなのだそうだ。
甘くなければチョコレートではないという。
そういえば、昔はワインと言えば、赤玉ワインのような甘いワインだった。
いつしか、本格的な甘くないワインが定着したように、甘くないチョコレートも定着するだろう。
そうしたら、お返しにカカオ85%のチョコレートができる。

とにかく、糖尿病の人や、予備軍の人が多い時代なのだから、手土産などは甘い物という慣習は改めるべきだと思う。
トマトジュース、野菜ジュース、甘くないチョコレート、昔のように茶請けの漬物などでも良いのではないだろうか・・・

2018年4月23日月曜日

喫煙者の行く末

最近、喫煙の危険性をそこに含まれる化学物質から説くことが多くなった。
その化学物質が服に付着すると、周りの人に影響を与えるので、喫煙後30分以内はエレベーター乗られないところもあるという。
ここまで、その危険性を主張されながらも、同じ職場でも喫煙者は少数ながらいる。
また、生徒の模範となるべき学校の教員などにも、少数派ながらいることも確かである。
かく言う、自分自身も実は子供が生まれるまでは、煙草を吸っていた。
特に煙草をよく吸っていたのは、大学院時代で論文を書く時には、一息つくための煙草が普通だった。
大学の教員の中には、講義の最中も煙草を吸い続けられる人もいた。
それは有名な文化人類学者だったが、何年か前にその話題を研究の集まりで話したら、いまは禁煙しておられると言っていた。
それ程、私たちが若い頃は煙草に対しては寛容であったし、男性は煙草をたしなむのが普通というのが実情だった。

私は煙草の危険性を知り、子供に被害を与えないために、家内の妊娠をきっかけに禁煙を決意した。
といっても、一時はパイプや葉巻、缶ピースを愛する程だったので、止めるには相当苦労した。
特に、飲み会では我慢できずもらい煙草をよくした。
ただ、どちらかというと、煙草の香りを楽しむ方だったので、ニコチン効果への依存性は低かったように思う。
喫煙を止めてからしばらくすると、煙草の香りそのものも嫌いになってしまった。

先日、私たち夫婦が一緒になって、子供が幼稚園に入るまで暮らした借家の大家さんに会った。
私の遠縁に当たる大家さんは、74歳のおじいさんになっていたが、見た目より老けて見えた。
話を聞いていると、胆嚢摘出としていろいろな病気を患ったことを知った。
極めつけは、心筋梗塞でステントを5カ所も入れているという。
その病気の理由を喫煙だという。
そういえば、借家の壁や戸には煙草のヤニがいっぱいこびりついていたのを思い出す。
ガラスなどを濡れ雑巾で拭くと、雑巾が茶色に染まった。
喫煙は人によっては老後にこれだけの苦難を与えることを身近に知ることとなった。

そもそも、ウィキペディアによれば「ニコチンには「脳波覚醒」「学習行動における正確さの上昇などの中枢興奮作用」「攻撃行動の減少」といった精神安定作用が確認」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%B3
ということが医学的に言われているという。
以前は研究者などが、煙草を吸い続けていたのもその効果を得るためであろう。
研究者でなくても、その効果が仕事の励みになっていたことも確かだ。
現在でも建築現場で働く人は休憩の時には煙草をよく吸っているようだ。
また、禁酒の代わりに、煙草を多く吸う人もいる。
将来の健康のリスクを負ってでも、ニコチンに依存せねばならない人もいることは確かだ。

考えてみれば、煙草ほどの健康被害ではないにしろ、酒、砂糖、塩などにも依存性があり、取り過ぎは健康を害する。
酒税は今でもあるが、他もかつては国家の税収にもなっていた。
法律で禁止されている麻薬と違い、税収となる依存性がある品物は、ある意味で国がお墨付きを与えているのと同じである。
深読みすれば、健康を害して病院に行くようになれば、病院を通じての景気効果につながるから悪くないと言えるのだろうか。
病気に苦しむ喫煙者やその副流煙での被害者は、現代の経済システムの一部に組み込まれていると言うべきなのだろうか。
そして、酒による肝臓障害、砂糖と関わる糖尿病、肥満、塩と関わる高血圧等も同様である。
ストレスの多い勤労者に必要な、煙草、酒、砂糖、塩は近代社会の必需品なのかもしれない。
ということは、近代化された社会と一定の距離を保った生活が、その依存性からすこしでも逃れることができる。
そう言いつつ、酒が身近にある私がそこにいる・・・





2018年4月22日日曜日

思い出した新一年生のオリエンテーション

私は社会教育施設で、新入生のオリエンテーション(研修)に立ち会う機会が多い。
そこで思い出したのは、自分が淳心中学部の一年生の時に受けたオリエンテーションだ。
たぶん、それは入学式前の春休みに行われた。
場所は姫路仁豊野のカトリック淳心の家だった。
後に一時はベトナム難民定住支援施設である姫路定住促進センターを開設されたところである。
オリエンテーションは高校3年生の先輩が中心に行ってくれていた。
当時は、学生運動が盛んなころで、おそらく学生自治の一環として行われていた。
オリエンテーションは、生徒中心に行われ、教師は付き添いのみが数人いたように思う。

そこで、先輩から教わったことは殆ど忘れたが、記憶に残っているのは、その施設は神父さんが日本語の勉強をしたということ。
嘘か誠か分からないが、亡くなった神父さんの幽霊が出るということ。
そして、先輩が踊りながら歌ってくれた、「鬼のパンツ」である。

鬼のパンツは良いパンツ 強いぞ 強いぞ

5年はいても 破れない 強いぞ 強いぞ

という、あの有名な「鬼のパンツ」の歌である。

他にも、学生運動や学生自治のことも教わったと思うが、殆ど思えていない。
因みに、その年の学園祭「淳心祭」には、「淳心解体」と窓から垂れ幕が下ろされ。
教室にはベトナム戦争を考える展示や討論もなされていた。
そして、東大から来たという全学連の卒業生がシュプレヒコールをあげていたように記憶する。
今では考えられない学校の生徒自治は、受験戦争の中で消滅していった。
生徒自治でなされたオリエンテーションを受けた新入生は、その後見事に受験戦士に変身していったのも皮肉である。
名誉ある受験戦士になれなかった私は、「鬼のパンツ」を今も口ずさんでいるのだが・・・

2018年4月21日土曜日

パチンコと投資

週末のパチンコ屋の前を通るたびに、駐車場に多くの車が置かれているのに驚く。
パチンコに全く興味のない自分にとっては、せっかくの休みになぜ不健康なギャンブルに夢中になるのだろうと思う。
ただ、以前勤めていた学校の教師の中にも、パチンコが大好きな人もいて、様子を聞いていたのでその麻薬的な魅力も分からなくはない。
普段の生活の中で、これほど刺激的な遊びはそうないのかも知れない。
一瞬にして、一日分の給料以上の報償が得られるわけだから。
近所の知り合いに、金融機関に勤めていた友人がいた。
彼は職業柄、金の計算には細かく、家では家計も自分で握っていたという。
ところが、ことパチンコになると計算が狂うらしく、収支決算は完全に赤字で、貯蓄しておけば庭に蔵が建つくらいつぎ込んでしまった。
ギャンブルとは、そういう冷静な計算を麻痺させてしまう、魔力があるようだ。
私が魔力にとりつかれなかったのは、小さい頃から両親から競馬やパチンコなどのギャンブルを犯罪のように教えられてきたからかも知れない。

それに対して、株や為替などの金融投資はどうなのだろうか。
これも父親が株で損をしたことで、投機目的の方は罪悪感が強く、配当目的の社内株のみ親は買っており譲り受けた。
以前勤めていた職場では、投機目的の株に夢中の人がいて、常に株価をチェックしていた。
彼は2億円儲けたら、仕事は辞めると言っていたくらいだから、相当の収益を上げていたようだ。
こちらは、パチンコと違って社会情勢などや、投資家の駆け引きを知っておかねばならず、気晴らしにはならない。
ただ、パチンコの偶然性よりもリスクは低い。

村の中ではやはり、パチンコをする人は多いが、株をやっている人はあまり聞かない。
学校の職員には、パチンコをする人も株をやる人もいたがパチンコも株も少数派だった。
いずれにしても、仕事とは違う刺激的な収入が得られる機会なのである。
こういう機会を得ることで、雇われの身から解放されているのかも知れない。
私も、家内の勧めもあって退職金を幾ばくか投資に回したが、その値動きで額面では今の安い月給以上の損害を出すことにも慣れた。
汗水垂らして得るお金と、投資の金は別物だと考えるようにした。
だから、これはささやかに自由人であることのリスクと考えようとも思う。
パチンコなどのギャンブルも、あまり割に合うとは思えないが、自由人であることの証なのかも知れない。
問題なのは、収入も得ない学生や、収入の少ない勤労者が、単にその刺激にとりつかれて、ギャンブル中毒になることだ。
投資にせよ、ギャンブルにせよ、大きな権力によって仕組まれているものなので、その仕組まれた魔力にとりつかれると自由を失う。
単に、愛の奴隷ならぬギャンブルの奴隷になってしまう・・・







2018年4月20日金曜日

家庭訪問

この季節は小学校、中学校の多くでは家庭訪問を行っている。
子供が小学生、中学生の頃は、それに備えて家内は家を掃除したり、花を飾ったりしていた。
その意味では、家がきれいになる良い機会であった。
私は高校採用だったので、本来は家庭訪問は特別指導以外にはあまりない。
ただ、特別支援学校は高等部であっても小・中学部と同じように行うし、職業高校では担任として全家庭に家庭訪問を行った。
それは、家庭の様子を知っておいた方が、その生徒を良く理解できると言うことだった。

職業高校では、土木科の担任をしていたが、土木科長の勧めで夏休みに家庭訪問を行った。
通学範囲が広いため、東は姫路の広畑から南は御津、そして北は安富、西は相生まで駆け巡った。
元気者の土木科の生徒は、自分の家や住んでいる地域を知ってくれていることで、親しみを感じてくれるようだった。
ただ、中には訪問を拒んで、結局マンションまで行っても出てくれなかった家もあった。
その生徒は父子家庭で、DVが行われている可能性があって、保護者と是非会いたかったが、結局会えなかった。
他にも、訪れても玄関口で立ち話程度で、来て欲しくないかったという態度の母親もいた。
しかし、高校での家庭訪問を不思議ながらも、多くは歓待してくれた。
私自身、家庭の様子を知ることによって、その生徒の理解に非常に役になった。

特別支援学校は、家でどんな生活をしているかがよく分かって良かった。
学校での様子と、家での様子が大きく違う生徒もいた。
播磨特別支援学校は当時は全寮制で、遠く神戸の生徒もいて、神戸まで家庭訪問を行った。
その生徒の家は駅前で定食屋兼たこ焼き屋をしていて、昼ご飯をご馳走してもらったりもした。
ただ、自分には苦い経験があって、姫路の特別支援学校では福崎まで家庭訪問をした時、家が分からずうっかり歩道に車を駐めたままにしていた。
戻ってくると、しっかり駐車違反の札が貼ってあった。
罰金は1万8000円で、痛い出費となった。
これは、田舎の住まいの自分には、歩道に駐めておくというのは普通の感覚だったからだ。
後で考えたら、周りは田園風景だったが、近くに駅があった。
このように家によっては、場所が分かりづらく、車で路地裏まで入っていくのに苦労する場所もあった。

自分が小学校の頃は、担任の先生に道案内を頼まれたことがある。
地元出身ではなかった稲沢先生と一緒に自転車で家を回った。
当時住んでいた赤穂の尾崎は、道や家は地元以外の人には非常に分かりづらい所だった。
また、淳心学院では新入生の全家庭を必ず校長先生が一人で家庭訪問された。
校長先生はベルギー人で、当時の赤穂の尾崎で白人を見かけることはそれ以外ではあり得なかった。
ちょうど夕食時だったので、カレイの煮付けをお出しすると、上手に身を箸でそいで食べられたので驚いた。
当時はまだ古い作りの悪い家だったので、来てもらうのは恥ずかしかったが、今から考えるとありがたいことであった。
校長先生が家庭訪問することは、普通はどの学校でもあり得ないからだ。

学校と家庭を結ぶ家庭訪問は、家庭にとっても教師にとっても負担ではあるが、大切な行事のように思える。
近年、取りやめる学校も増えてきたようだが、お互いに理解できる良い機会のように思う。
ただ、仕事や生活に追い詰められている家庭には、それなりの配慮や許容も必要だとも思う。
以前、雨が降る中、玄関の軒先で雨に濡れながら話をしたこともあるが、それも仕方ないことだと思う。
家の中に入れてもらえなくても、中の様子は分かった。
それだけでも、大きな収穫であった。






2018年4月19日木曜日

一期一会の仕事

私の今の仕事は、一度会った人とはもう二度と会えないかも知れない仕事である。
学校の教師は特別な場合を除いて、最低1年間は生徒と関わる。
しかし、社会教育施設の指導員は、近隣のよく利用する学校などを除いて、一度限りの関わりになる。
本来は教師も授業は一期一会の気持ちで臨むべきなのだろうが、年間計画の一連の位置づけとして関わる。
この施設を利用する学校や企業などは、新1年や初任者の研修として利用する。
だから、一生に一度利用する人が多いようだ。
先日もある学校の生徒と二日関わって、最後に挨拶をした時に拍手を頂いた。
まるで、離任式のようだった。
教師にとっては、離任式はそう多くあるものでは無い。
それが、社会教育施設では何度と繰り返されるのかも知れない。
二日とか三日とか凝縮した時間に、大きな意味づけを与えようとするのがこの施設の役割である。

教師を長くやっていた者としては、多くの事を生徒に伝えたいという気持ちはある。
しかし、自分自身を振り返れば、授業風景の記憶はあまりない、
それよりも、臨海学校などの行事の記憶が鮮明だ。
食事になぞらえるなら、学校での授業が普段の朝昼晩の食事で、こういう施設の行事は滅多にないご馳走と言うべきかも知れない。
そういうご馳走を提供するのが私たち指導員の仕事なのだろう。
考えてみれば、そういう仕事は他にも多くあるように思う。
旅館やホテルなどは似たような仕事だし、交通機関の仕事もそれに近いのではないかと思う。
そういう仕事は多くは、裏方として目立たないことが多い。

私は指導員として学校の活動を別の角度で見てみるのは良い機会となった。
学校教師ではない立場で生徒や教員の様子を見ると、色々と気がつかされることが多い。
学校の中の教員の立場で見て、気がつかずにいたことが多いのである。
そして、自分自身が教師集団の一人として、形に拘り続けていたことも分かる。
一期一会とは元来茶道に関わる言葉で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきという意味合いのものだと言う。
学校での授業のように日常化された学びの場と違い、こういう非日常の社会教育施設の方がそれを実現できる場のように思える。
それを担えることに、喜びを感じるべき仕事なのかも知れない。
ただ、現実的には学校の教員よりもかなり不遇であるのが実情である。


2018年4月18日水曜日

屋根より低い鯉のぼり

お向かいの家では先日来鯉のぼりが、軒下で泳いでいる。
よく見てみると、兄弟二人の名前が書いているので、長男の後で次男の名前も書き足したようだ。

その鯉のぼりを見ると、息子のために買った同じような鯉のぼりを思い出した。
大きな鯉のぼりは、予算の関係で買えなかった。
ナイロン繊維製で、真鯉は長さ2m程で、緋鯉とセットで5万円ほどしたと思う。
だから、右の写真のように、玄関の軒下であまり泳げなかった。

私自身は、家には人からもらったという、古い薄汚れた大きな鯉のぼりがあったのを憶えている。
父親は、洗濯物を干すのに立てた垂木の上で泳がせていた。
だから、平屋の屋根より高い鯉のぼりだった。
今から思えば、当時屋根より高い鯉のぼりは、屋号を持つような裕福な家であった。
そんな中で、分家の父親は少々見栄を張ってくれたようだ。

近所で屋根より高い鯉のぼりをあげているのは、一軒のみである。
その家は、跡取りの息子家族と一緒に住んでおられる。
鯉のぼりを上げ下げするのは、おじいさんの仕事である。
屋根より高い鯉のぼりは、「うちには跡継ぎの孫がいるのだぞ」という、意味合いを持つようだ。
お向かいさんは、おじいさんが孫の顔を見ずに亡くなっている。
屋根より低い鯉のぼりは、そのことを表してもいる。
ただ、子供の健やかな成長を願う親の気持ちは、その高さとは関係ない。
どんな鯉のぼりでも、親の気持ちや、家族の気持ちが込められている。





2018年4月17日火曜日

ブラタモリの誘致

私は毎回放送されるブラタモリを楽しみにしている。
日本各地の名所を、地質を中心にして面白く紹介してくれているからだ。
地質そのものだけでなく、それと関連する動植物も多く登場する。
そして、そこに培われた人々の生活の営みがよく分かる。
単なる名所案内に留まらない、奥深い歴史の解説でもある。
私は残念ながら、地質学には疎い。
最近では、赤穂が「恐竜時代のカルデラの中にできた町だったことが判明」http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2016/pr20160808/pr20160808.html
というニュースで、国内最大級の第四紀カルデラである阿蘇カルデラや姶良カルデラに匹敵と知って驚いた。
何となく、眺めていた風景がそういう地質学的な意味を持っていたとは感慨深い。
播州赤穂の塩の歴史や、相生の造船の歴史がそれと関連していれば、ブラタモリの番組の格好の材料となるだろう。
ひょっとして、その外縁部にあたる上郡も、赤松氏の歴史と関連できたら急浮上である。
風光明媚なこの地域の風景を、地質学的に意味づけていけば、観光客により魅力をアピールできると思う。

以前、赤穂民俗研究会で活動している時に、「赤穂には赤穂義士しかないのか」と嘆く人がいた。
当の本人も、ボランティアで赤穂城の案内もしていたのだが・・・
赤穂義士、忠臣蔵は確かに、日本中で通用するが、赤穂の歴史の一面に過ぎない。
赤穂は古代においては、吉備と播磨の境界にもなったところだし、塩の歴史も古い。
ただ、姫路の姫路城のように、訪れる人を異次元に導くようなスポットは残念ながらなかった。
赤穂海浜公園は、親子が楽しめる落ち着いた公園だと思うが、赤穂城からも赤穂御崎からも離れている。
そして、もったいないのは、近隣の相生、上郡、室津、日生などと連携した地域全体のアピールが足りないと思う。
このカルデラは周辺の地域全体を巻き込んで、恐竜カルデラ異次元地帯を形成できるんじゃないだろうか。
赤穂が今までの住みたい魅力ある町に加えて、訪れたい魅力ある町が加味されば、この地域全体が活性化できると思うのだが・・・
(神戸新聞NEXT 2016/8/8)








2018年4月15日日曜日

プールの主

4月になって初めて上郡のプールに行った。
去年買った年券は既に期限が切れていたので、利用券を1枚買った。
これから先、あまり利用できそうに無いので、年券も回数券も買わないことにした。
プールにはいつもの二人が、練習をしていた。
その一人、M氏はこのプールの主のような人で、私がここで泳ぎ始める以前からの利用者である。
その前は、町の職員としてこのプールの管理をしたり、指導をしたりしていた。
今は3年程前に早期退職して、ほぼ毎日泳ぎに来ている。
私も、去年は再就職する前では、同じように毎日のように泳ぎに来ていた。

考えてみれば、当時から顔なじみの人は数人しかいない。
受付の人も、監視員も、そしてスイミングスクールのコーチも変わってしまった。
スイミングスクールは町と契約して請け負っているが、よく業者が替わる。
そして、去年から新たに入った業者は今年も継続しているが、顔なじみの若い男性コーチは1年で辞めてしまったそうだ。
私は、最初は相生のプールで泳いでいた。
子供がそこのスイミングスクールに通っていて、その傍で泳いでいた。
20年程前に上郡高校に赴任し、水泳部の顧問となって、上郡のプールを冬場に利用させてもらうようになった。
子供も相生のスイミングスクールから上郡のスイミングスクールに替わり、スクールとも良いお付き合いをさせてもらった。
M氏とはその頃からのお付き合いで、一緒にマスターズチームに所属しレースに参加していた。

その後、私は兵庫県立大学附属高校に替わり、そこでも水泳部の顧問として上郡のプールも利用させてもらった。
顧問としてのプールの利用をしなくなっても、たびたび泳ぎに来ては元気な仲間に会うのが楽しみだった。
そんな仲間も一人減り、二人減りとなって、知った人が4~5人となってしまった。
その間にもスクールのちびっ子たちはどんどん成長し、巣立っていった。
中には近畿大会や全国大会に出場して活躍した選手もいる。
また、M氏の息子さんのように、就職した後でも毎日泳ぎに来ているスクールの選手の卒業生もいる。
彼とも時々プールで会って、そばで泳いだり話をするのが楽しみだ。
本当はかつて世話になったコーチなども会いたいのだが、会えないのが残念だ。

泳ぎ疲れて、プールのスタート台下で水面をながめながら、かつての様子を思い出すことが多い。
色んな風景が蘇る。
プールの中の風景は昔と同じままだからだ。
そうしながらふと思ったのは、自分たちはこのプールの主のような存在なのかなと言うことだ。
池や沼の主のような鯉やウナギのように、長くそこに生き続けているのが自分たちなのかなと思う。
稚魚たちは川をつたって、大海に出て行く。
年老いたり傷ついたものはいつしか消えていく。
残った池の主である魚の主の中の主が、M氏なのだろうと思う。
いつか、かつての選手たちが、子供を連れてやってきてくれるかもしれない。
長く同じプールでそれを楽しみにしているのが、私たちなのである。


2018年4月14日土曜日

三月の節句と潮干狩り

上郡に移り住んでから、海との関わりがあまり無くなってしまった。
生まれ育った赤穂は身近に海と川があり、海産物にあふれていた。
今は高級品のようになってしまった穴子などは、母親が七輪でよく焼いてくれた。
毎日のように穴子が続くので、「また 穴子か」と思っていた。
また、シャコやカレイ、エビ、小ぶりの蟹なども鍋いっぱいに炊いて食べた。
今、それを今しようとすると肉よりもよっぽど高くつく。
因みに、小学生頃は牛肉は年に数回食べられるもので、普段はかしわ、たまに豚肉だった。
鶏は家でも飼っていた。

女の節句は地元では月遅れの4月3日にしていた。
そもそも、その日に食べるよもぎ餅は、新暦の3月頃にはあまり生えていない。
女の節句と言えば、よもぎ餅を思い出す。
そして、野遊びとして弁当を持って貝掘りに出かけたりした。
これは、大学時代から村落調査に出かけた奄美の3月3日の節句と通じる。
奄美や沖縄ではこの日に海に出て潮干狩りをする。
潮干狩りと言っても、砂浜のアサリを掘り起こすのではなくて、潮の引いた磯などで魚介類を獲るのである。
潮が引くと、珊瑚の磯についている貝などを拾えるし、穴に入ったタコもつかまえられる。
地元赤穂でやっていた潮干狩りとは桁違いのダイナミックさがある。
ただ、赤穂のアサリの味は奄美の魚介類よりも勝っていたと思っている。
(残念ながら今年は貝毒の影響で、西播地域の貝は食べられない)

私が奄美に惹かれたのも、子供の頃の行事に通じる物が残っていたからでもある。
海のそばに生活していた人々の同じ風習は遠く離れていても共通している。
ただ海の無い地域に住んでいる人にとっては、海で釣りなどをすることは特別の楽しみでもあるようだ。
私は小さい頃から、潮干狩りや釣りは日常のものだったので、生活の一部のように感じている。
だから、多くの金をかけて船釣りや釣り堀に行きたいとは思わない。
去年は赤穂でSUPをしながら、アサリなどをついでに獲った。

先日(4/8)は急に思い立って、赤穂の海に出かけた。
亀の手でも獲って食べようと思ったからである。
子供の頃は食べようと思わなかったが、アサリがあまり取れなくなったので、獲って食べてみると意外にいける。
それはあくまで海に行く言い訳で、海に行くと気持ちが晴れるからである。
木造運搬船に乗せられ、子供の頃から海に親しんでいた自分には、海に行くと気持ちが落ちつく。
かつて名古屋や東京に住んでいた頃も、気分が滅入るとよく行った。
今回は、亀の手以外にも流れてきたわかめも獲ってきた。
1m以上もあるわかめが根がついたまま流れ着いていた。
このように、魚介類を獲ることによって、ボーと海を眺めるより、もっと海に親しめる。
そして、海から戻ると、いつもの風景が違って見えるから不思議だ。
何よりもそれが、一番の収穫なのである。
今度は、昔の頃や奄美と同じように、旧暦の3月3日頃に行ってみようと思っている。


2018年4月12日木曜日

年金より安い給与

私の母親は亡くなった父親から受け継いだ年金で暮らしている。
銀行に振り込まれた年金を毎月定額引き出して、母親に届けるのが私の役割である。
以前、父親が亡くなった時に、私の被扶養者にしようとして書類を揃えたら、年金の額が多いので被扶養者にできなかった。
父親は65歳まで働き続けたので、その分、年金額も多かった。
その年金を受け継いだので、母親の受け取る年金はそこそこの額がある。
以前は、母親に私の息子の給与より年金の方が高いと言っていた。
息子は介護の仕事をしているが、正社員では無い。
結構、夜勤をしているのだが、母親の年金よりも低い額だった。

今日、職場で扶養者の話が出た。
その中で、現在の私の給与は手取りでは、母親の年金より低いと言うことに気がつかされた。
給料を計算してくれている事務の人には
「うちは 給料は安いもの」と、こと無げに言われてしまった。
「ああ そうか 自分は母親の年金以下でこの仕事をしているのだ」
と、我ながら哀れさを感じた。
繁忙期には、非常に忙しくて、先日も昼ご飯をまともに食べられなかった。
以前勤めていた若い職員でも体重が7kgも減ったという過酷な現場
臨時雇用の職員の給与は年齢関係なく同じである。
母親の年金は高いと言っても、私の給与の方が総額は上で、諸経費を引かれて手取りになると私の方が低くなる程度である。

ただ、この歳になると再雇用は難しく、近所の人でも殆どの人は退職後は再雇用される人はいない。
私の場合は早期退職なので、年金支給までの生活のために必要なので無理をしてでも働いている。
最も深刻だったのは、昨年の収入額によって住民税の額が決まるので、3ヶ月分の住民税は私の1ヶ月分の給与となった。
私は3ヶ月分の住民税は払うために、1ヶ月働いたことになる。
ということは、4ヶ月働いてやっと退職後1年分の住民税と言うことである。
江戸時代は5公5民だったが、退職後に関しては住民税は4公8民ということになる。
当然、所得税なども払っているので、もっと納税分が多い。
去年まで給与がそこそこ高かったから仕方ないが、改めて税というものの厳しさを考えさせられた。

ただ、いくら年金暮らしで不安なく楽に暮らせても、母親のように医療費などに多くを費やす状況は幸せとは良いづらい。
近所の年金暮らしのみの人は、気楽そうに見えるのだが、それほど生き生きしているとはあまり感じない。
年金をもらいながらも、農作業やアルバイトで収入を得ている人の方が元気そうだ。
要するに仕事は収入額だけの問題では無く、健康を損なわないことを前提として、生活に活力を与えられるかどうかだと思う。
現在の私は、慣れない仕事に生活の活力も奪われている状況でもあるが、もう少し我慢してみようと思っている。
今年からは住民税も下がるので、税金を払うために必要な額の仕事をしないで済む。
給与の額よりも、研究や生活が充実できる仕事をしようと思っている。
今の仕事がそうなってくれればと思うが、たとえそうなっても期限付きであることも確かだ。
年金支給までと言うだけでなく、死ぬまでの人生設計を立てねばならない。
これからは学校の家庭科の授業でも教えるそうだ。
はたして、役に立つのだろうか?
今の職場の若い人を見ていると、今を生きるのが精一杯のような気がする・・・





2018年4月9日月曜日

黄昏れて分かる親父

この桜の季節になると亡くなった親父を思い出す。
調子が悪くなって、通院に付き添っていたのもこの頃だし、亡くなったのもこの頃だった。
私は幼かった頃は、結構父親に可愛がられていたと思う。
どこに行くのも、自転車やバイクに乗せられて連れていってもらった。
ところが、ガキ大将だった私は、だんだんと反抗的となり、高校時代は毎日のように口げんかをしていた。
それは、親父の仕事や生活ぶりが自分には尊敬や威厳を感じなかったことも大きい。
肉体労働の職工で、家に帰ると酒を飲んでテレビを見るのが楽しみだった。
特に、プロレスやボクシングが大好きで、それがかかると食い入ってみていた。
そして、年取ってくると、今の私も同じだが酒を飲んで寝てしまうことが多くなった。

父親は何事にも細かい性格で、家計も父親が握っていた。
母親は逆に大雑把で、父親には頼り切っていたように思う。
父親との関係が悪化したのは、私がバンド演奏にのめり込んでいった頃からである。
私に限らず、兄弟は母親と同じ歌好きだった。
私学の高い授業料を払ってもらいながら、私は勉強もまともにせずに、バンド練習にのめり込んでいった。
それにともない、成績もどんどん悪くなっていった。
私はプロになりたい夢はあったが、それ程甘い世界でも無いことも知っていた。
だから、そこそこ良い大学に入ってからバンド活動を続けようと甘い考えを持っていた。
その程度だったから案の定、大学に入って軽音楽部に入ったが、直ぐに止めてしまった。
父親にとっては、バンド活動こそエリートコースを踏み外した原因と思っていたようで、それを許した母親を責めることもあった。
掛け替えのない音楽を理解せず、母親を責めるそういう父親には強い反感を持っていた。
実は、その父親は老後の一番の楽しみが、民謡やカラオケだったのだから、歌が老後には掛け替えのないものになっていた。

そんな父親に対しても、自分が所帯を持った頃から、自然に構えないで関われる関係になった。
そして、自分が早期退職してしばらく無収入になって、父親の家族に対していかに尽くしてきたことを思い起こすことが多くなった。
父親は4人も息子を大学に進学させて、結婚させた。
家だけで無く、田畑を自分で増やしていった。
高度経済成長時期であったという好条件だけで無く、寸暇を惜しんで働いていた成果のように思う。
それに対して、私は子供は二人大学に入れただけだし、まだ結婚もさせていない。
家は建てたが、田畑は増やしていない。
自分は父親以上の成果に及んでさえいないのである。

今の高校にあたる赤穂中等学校を祖父に中退させられ、家業の木造運搬船に乗りその後企業に転職した父親。
中卒資格の父親に対して敬意を表してこなかった自分が恥ずかしく思えるようになった。
人付き合いが苦手で、子供の教育費が必要な頃はひたすら働いていて、甲類の安い焼酎を楽しみにしていた。
その焼酎が後に脳梗塞の原因となり、77歳で亡くなることになった。
決して賢明な生き方では無かったと思うが、精一杯父親なりに生きたと思う。
黄昏れた今頃になって、それが分かるようになるとは情けないが、それも順送りかなとも思う。
父親は、厳格でわがままな祖父のことを、良く言うことはあまりなかった。
祖父は父親と一緒に船に乗り、厳しく仕事を教え込んでいたこともある。
一家の中心として働くことの厳しさを教えるのが父親の役割だったのだと思う。
従来、父親とは子供にとって、そういう存在だったのかも知れない。
死んでからでも、存在価値が分かってくれればそれで良い役割なのだろう。
写真は木造運搬船の上での父親と私


2018年4月7日土曜日

農ある生活2018春

春になって、周りの人たちは家から出てきて畑や田で農作業をし始めた。
定年退職した人などは、こういう農村でも冬場は、家に閉じこもっている人も多い。
近所の知人は一冬で太ってしまったと、突き出たおなかを撫でていた。
冬場も、中には毎日欠かさず散歩をしている人もいたが少なかった。
やはり、春になって暖かくなると途端に増えてくる。
まるで、冬眠から目覚めた蛙や熊のようである。
やはり、きっかけは桜の花を見に行きたいと言うこと。
同じ散歩をするなら、桜の咲く道を歩こうというものである。
散歩の途中では、農作業をしている人に声をかけたりする。
散歩をしている内に知り合ったり、いつも見かけている人であり、殆どは名前も知らない。
元々地元の人は、互いに名前やどういう人かを知っているが、私のように移り住んだ者は互いに知らないが気軽に話せる。
「何を植えるんですか」「菊です」
ある散歩で知り合った人は兼業農家で、出荷用の菊も親子で栽培している。

散歩でよく会う近所の人の中には、道ばたで話し込んでいるのをたまに見かける。
散歩は単に歩くだけが目的では無い。
人と挨拶をしたり、話をしたり、道ばたの食用になる物を採ったり拾ったりする。
私のように犬の散歩をしている人もいるが、近所の人は私と違って家の周りだけである。

散歩が終わると、晴れた日は畑に出て作業をする。
晴れているのに、家の中にいると気が滅入るような気がするからである。
本当は勤めのない日は、執筆や研究を進めるべきなのだが、この季節は駄目である。
勤めのストレスを解消するには、私は机より畑である。
先日は、畑のそばのセリも摘んできた。
以前摘んだヨモギは、天日で乾燥させて、焼酎に漬けたり、お茶にして飲んでいる。
定年退職した近所の友人も、畑仕事と趣味のギターで明け暮れているが、よもぎ酒を教えて上げた。
そろそろ、タラの芽が出そうかなと楽しみにしている。











2018年4月5日木曜日

金の無い大学生活

私の大学生活は物置暮らしから始まった。
国公立大学に合格できなかったので、授業料を出してもらうだけでやっとで、名古屋の叔父を頼っての進学だった。
叔父の家に間借りすることも提案されたが、大学から遠いし気兼ねなので、叔母が経営していた喫茶店の裏にある物置に住むことになった。
もともと、そこはアパートで住まいにしていたのだが、その頃は従兄弟の勉強部屋兼物置になっていた。
そこに居候して、叔母の喫茶店で食事を頂いていた。
しかし、そんな不自由な生活も半年で終わり、同じ学科の友人に誘われて、友人の二間あるアパートの一つをシェアさせてもらった。
その友人は大学を再受験して出て行く予定だったが上手くいかず、色々あって結果的には私がその部屋を半額で住むことができるようになった。
大家さんは子供のいないご夫婦で、風呂は無いが2DKの部屋を、ありがたいことに1万円で貸してくれた。

私は授業料は出してもらっていたが、特別奨学金36,000円と仕送り20,000円で暮らさねばならなかった。
つまり、部屋代を1万円払って、46,000円で暮らさねばならなかった。
アルバイトも色々やったが、クラブ活動のために固定したものはしなかった。
文化人類学研究会というクラブに入っており、村落調査の費用もかかったので貯金する必要もあった。
そこで、食費を極力減らして、極力倹約する生活をした。
朝食は主にパンの耳を食べ、昼食は学食をつかい、ご飯と冷や奴で155円で済ませた。
夕食は自分で作ったカレーや、卵ご飯、インスタントラーメンが多かった。
ただ、夜は友達の下宿に遊びに行って、金を出し合って飲んだり、安い焼き鳥屋で飲み食いする楽しみもした。
また、当時付き合っていた下宿暮らしの彼女から、下宿のまかないの夕食をたまに頂くお裾分けがご馳走でもあった。
下宿暮らしの友人も貧しい者が多く、近くの池で藻をとってきたり、飼っていた観賞魚やドジョウを食べたりする者もいた。
しかし、貧しくて辛いという思いは無く、貧しさを互いに自慢して愉快に暮らしていた。
そして、そんな我々に最大のご馳走をしてくれたのが大学の先生で、ボーナスの時にはウナギのフルコースを食べさせてくれたりした。
コンパも必ず参加して、ゼミのコンパの二次会は大学の先生の奢りで普段に無い贅沢をさせてもらった。

風呂も冬場は1週間に2回ほどで、夏場は大学のプールのシャワーに石けんやシャンプーを持ち込んで洗った。
服もジーパンとトレイナーを数枚使い回し、冬場はどてらを大学にも着ていった。
夏場の履き物は下駄が主で、安い雪駄を履いたりもした。
一番恥ずかしかったのはパンの耳を買う時で、普通の食パンを買うついでに30枚ほど5円で買った。
当然、食パンよりパンの耳が目的で、パンの耳がある時しかそのパン屋さんでは買わなかったので目的はバレていた。

こんな生活をしていても、本代(多くは古本)はケチらなかったし、一年に2度奄美諸島の与路島に部員と村落調査に出かけていた。
神戸からフェリーの二等室を使い、与路でも1泊3食付き3,000円の民宿を使ったり、家を借りて自炊したりした。
調査は2週間が普通だったので、7~8万円ほど使っていたことになる。
メンバーの中には、名古屋大学医学部の女性もいたが、彼女は帰りはひとり飛行機を使っていた。
村落調査は決して楽なものでは無かったが、仲間と充実した日々が過ごせて掛け替えのない経験となった。
何よりも、自分にとってはその後の人生を変えるものとなった。
だから、日頃の貧しい生活もこの村落調査の目的があったので、全く苦にならなかった。
決してその村落調査がその後の生活を約束していたわけでは無い。
ただ、自分を夢中にさせてくれる魅力がそこにあり、そして今の自分につながった。
だから、自分は苦学生だったとは思ってないし、金が無かったことに拘りは無い。
ただし、国公立に進学した弟は、その分仕送りも多く生活が楽だったので、羨ましくは思っていた。
こんな私でも、結果的には希望する大学院の進学ができ、研究職には就けなかったが教職には就けた。
金は無かったが、貧しさを愉快に思い、村落調査を夢中でやりながら過ごした大学生活の成果でもあるのかなとも思う。





2018年4月2日月曜日

岡山でのカルチャーショック

岡山県で働き出して、3ヶ月経とうとしている。
そろそろ慣れてきたところだが、なかなか慣れないことも多くある。
岡山弁もさることながら、気質がこれほど違うものかと思い知らされた。
30年間も西播磨で仕事をしていたので仕方ないといえば仕方ない。
思い出したのは、入学した大学が名古屋にあって、その時受けたカルチャーショックだ。
岡山県の人も知っているが、名古屋弁と岡山弁は似たところがある。
奈良や京都からのを中心とした距離が同じくらいにあり、関西文化圏と接していることも共通している。
言語が古墳時代までに遡るかどうか分からないが、尾張出身の藩主池田氏とは関係ない地域でも似たような状態のようだ。
ただ、広島出身の家内の両親や親戚と話していて、名古屋弁との共通性を感じてこなかった。
また、広島は移民も多く、家内の両親のように他県への転出も多い。
しかし、岡山は県内に留まる人が多く、名古屋とも似ている。
職場の臨時職員の若い人に、兵庫県の方が賃金も高いし、職場も多いからと兵庫県での転職を薦めても嫌がられる。
どうしても県内に留まりたいようだ。

私に関しては岡山に対する偏見など無く、むしろ親しみを持っていた。
姫路にあった母校の中学・高校の同級生にも岡山県の生徒がいたからである。
しかし、岡山の人は兵庫に対しては距離感を持っているようだ。
これは兵庫の方も一般の人は、それ以上に距離感を持っていることも確かである。
岡山の人以上に、兵庫の人は岡山に足を運ぶことは少ないと思う。
それは電車の便を見ても分かるし、広告やイベント情報などでも分かる。
それには、やはり言葉の問題が大きい。
関西人はどこへ行っても、関西弁を使う。
現に私も職場で播州系関西弁を使っている。
先日、「すんません」という言葉を注意された。
私は親しみを込めて使ったのだが、岡山では安易に使うと怒りをかうようだ。

名古屋で受けたカルチャーショック程では無いにしても、適応力の落ちた今の年齢では結構大変である。
名古屋は経済的には先進地域だったので、からかったり馬鹿にしても問題は無かった。
「大いなる田舎」「文化不毛の都市」とか、「みゃー みゃー猫みたい」とテレビなどでも揶揄されていた。
しかし、関心度全国35位の今の岡山をからかうと良い関係を損なう。
岡山には誇れる物や、良いイメージが必要だと思う。
姫路に関しては品行や治安で、結構悪く言われることも多いが、世界に誇れる姫路城がそれを払拭している。
姫路城に匹敵できる象徴が岡山には残念ながら無い。
赤穂に関しても、こんなちっぽけな町でも、全国に通じる忠臣蔵がある。
一方、岡山は横溝正史の「八つ墓村」「獄門島」の世界になってしまう。
因みに横溝正史自身は兵庫県神戸市出身というのも皮肉である。
今の岡山のイメージを高め、からかわれる程強くなれるにはどうすれば良いのか。
そうなれば、私も気を遣わずに会話ができる。
岡山県の観光大使になったブルゾンちえみに託すしか無いのだろうか・・・・