私の今の仕事は、一度会った人とはもう二度と会えないかも知れない仕事である。
学校の教師は特別な場合を除いて、最低1年間は生徒と関わる。
しかし、社会教育施設の指導員は、近隣のよく利用する学校などを除いて、一度限りの関わりになる。
本来は教師も授業は一期一会の気持ちで臨むべきなのだろうが、年間計画の一連の位置づけとして関わる。
この施設を利用する学校や企業などは、新1年や初任者の研修として利用する。
だから、一生に一度利用する人が多いようだ。
先日もある学校の生徒と二日関わって、最後に挨拶をした時に拍手を頂いた。
まるで、離任式のようだった。
教師にとっては、離任式はそう多くあるものでは無い。
それが、社会教育施設では何度と繰り返されるのかも知れない。
二日とか三日とか凝縮した時間に、大きな意味づけを与えようとするのがこの施設の役割である。
教師を長くやっていた者としては、多くの事を生徒に伝えたいという気持ちはある。
しかし、自分自身を振り返れば、授業風景の記憶はあまりない、
それよりも、臨海学校などの行事の記憶が鮮明だ。
食事になぞらえるなら、学校での授業が普段の朝昼晩の食事で、こういう施設の行事は滅多にないご馳走と言うべきかも知れない。
そういうご馳走を提供するのが私たち指導員の仕事なのだろう。
考えてみれば、そういう仕事は他にも多くあるように思う。
旅館やホテルなどは似たような仕事だし、交通機関の仕事もそれに近いのではないかと思う。
そういう仕事は多くは、裏方として目立たないことが多い。
私は指導員として学校の活動を別の角度で見てみるのは良い機会となった。
学校教師ではない立場で生徒や教員の様子を見ると、色々と気がつかされることが多い。
学校の中の教員の立場で見て、気がつかずにいたことが多いのである。
そして、自分自身が教師集団の一人として、形に拘り続けていたことも分かる。
一期一会とは元来茶道に関わる言葉で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきという意味合いのものだと言う。
学校での授業のように日常化された学びの場と違い、こういう非日常の社会教育施設の方がそれを実現できる場のように思える。
それを担えることに、喜びを感じるべき仕事なのかも知れない。
ただ、現実的には学校の教員よりもかなり不遇であるのが実情である。
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