今朝は職場の若い女性が耳にマダニがついたとさっそく病院に行った。
先日も利用者の女性が足をマダニに噛まれた。
幸い直ぐに見つかり、指で弾いただけでとれた。
どうやら服についていたマダニが、風呂上がりについたらしい。
この職場は禁漁区になっているために、鹿やイノシシの天国になっている。
そういう動物がマダニを繁殖させている。
このマダニの影響で、キャンプをする団体もずいぶん減ったという。
なぜマダニは怖いのか、それは見つけにくく、いつの間にか食いついているからである。
かつて働いていた男性職員は、大事な部分に食いつかれ小豆大になるまで気がつかなかったそうだ。
その人は殺虫剤とはさみを使って自分で外したそうだが、普通は病院へ行って切開してもらう。
職員には噛まれた人も何人かいて、膝を噛まれた人に跡を見せてもらった。
深くえぐり取るので、その傷口もしっかり残っていた。
私は忠告に従って、両手両足とも長い冷却アンダーウェアをつけている。
だけど、首から上の防御はできていない。
今回のように耳に食いつかれたら、お手上げである。
しかも、人の服についていたものが、屋内で食いついてくれば防ぎようがない。
マダニは食いついて血を吸ってから、黒くなり分かるものもあり見つけづらい。
実は以前飼っていた犬はマダニに刺され続けて死んだ。
今から考えると、飼い主にもうつる可能性があったのに放置していた。
マダニの脅威を知らなかったわけである。
マダニに噛まれて死に至ることは滅多にないだろうが、その可能性がある以上放置できない。
これからはちゃんとマダニ対策を自宅でもしなくてはならないと思った。
自然と共に生きると言うことは、マダニとも一緒に生きると考えねばならないようだ・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年5月29日火曜日
2018年5月26日土曜日
変貌させた試練
君子豹変するという言葉がある。
君子は間違いに気がつけば、自分を改める力を持つという意味である。しかし、自分の誤りというのはなかなか気がつかなかった。
自分の様に早期退職して、新しい仕事に慣れることに苦しんだ時初めて、今までの自分の色んな誤りに気がついたりする。
今の職場での半年の試練は、学生から社会人になった時に匹敵する試練だった。
当時は心身とも傷ついていたが、若さと夢が自分を突き動かし、親戚や家族の支えもあった。
今の自分には若さも大きな夢もないし、むしろ自分が親や家族から頼られる立場である。
ただ、精神的には家族に支えてもらっていることで、あの当時よりも平穏な気持ちでいられてはいる。
今回の試練で30年間の教師の仕事の積み重ねが、むしろ新しい仕事を身につけるのに邪魔にさえなっていることに気がつかされた。
ただ、仕事が慣れるに従って、教師生活の経験を活かす場も出来てきたことも事実である。
それでも、この仕事を続けたいと思わないのは、老いゆく自分をもっと活かす場を見つけたいと思っているからだ。
自分に残された時間というのは、単に寿命だけを言うのでは無い。
健康で前向きの姿勢をもち、精一杯やりたいと思う力が残っている状態が維持できている時間である。
たとえ寿命があと20年残っていたとしても、あと10年以上そういう状態を保てる補償はない。
今は退職金という貯蓄があるが、もし収入がなくなればどんどん生活に行き詰まっていく不安を抱えている。
しかし、その不安があればこそ真剣に収入を得る道を探る気持ちが維持される。
この先、年金が入る様になったら、それほど追い詰められることもなく、平穏な暮らしを求めていくだろう。
それはそれで年齢相応の暮らしぶりというものだろうが、その時点で自分を変貌させていくのは、ただ老いゆく変貌であろう。
だから、追い詰められている今こそ試練ではあるが、まだ前向きに変貌できると思うべきなのだと思う。
今回の新しい職場への適応という試練で、変貌したのは気持ちだけではなかった。
定期検診では意外にも健康状態は良くなっていた。
忙しくて昼食もまともに食べられなかったり、宿直勤務で疲労困憊したりしたのにである。
7割方肉体労働の勤務で、体重は落ちても体力は付いていた。
ある意味、自分にとってショック療法だったのかも知れない。
以前糖尿病で教育入院した時の生活改善に匹敵するものかもしれない。
同じ職場に新薬を使って糖尿病を克服しようとしている人がいる。
65歳のその人はあと10年生きられればそれで良いと言っている。
そして、デスクワーク中心のその人は、数値を悪化させて薬も増えた。
その人に言わせれば、私はこの職場の勤務が身体には合っているから改善したという。
そうすると、その人にはこの職場は身体に合っていないけれど、心に合っているので薬を使って続けていることになる。
私には確かに身体には合っているかも知れないが、心には残念ながら合っていない。
心身とも合う職場というのはないのだろうから、改善した身体の次は心を優先させたい。
そして、またその次は身体を最優先させる時が来るのだろうとは思っている。
君子は間違いに気がつけば、自分を改める力を持つという意味である。しかし、自分の誤りというのはなかなか気がつかなかった。
自分の様に早期退職して、新しい仕事に慣れることに苦しんだ時初めて、今までの自分の色んな誤りに気がついたりする。
今の職場での半年の試練は、学生から社会人になった時に匹敵する試練だった。
当時は心身とも傷ついていたが、若さと夢が自分を突き動かし、親戚や家族の支えもあった。
今の自分には若さも大きな夢もないし、むしろ自分が親や家族から頼られる立場である。
ただ、精神的には家族に支えてもらっていることで、あの当時よりも平穏な気持ちでいられてはいる。
今回の試練で30年間の教師の仕事の積み重ねが、むしろ新しい仕事を身につけるのに邪魔にさえなっていることに気がつかされた。
ただ、仕事が慣れるに従って、教師生活の経験を活かす場も出来てきたことも事実である。
それでも、この仕事を続けたいと思わないのは、老いゆく自分をもっと活かす場を見つけたいと思っているからだ。
自分に残された時間というのは、単に寿命だけを言うのでは無い。
健康で前向きの姿勢をもち、精一杯やりたいと思う力が残っている状態が維持できている時間である。
たとえ寿命があと20年残っていたとしても、あと10年以上そういう状態を保てる補償はない。
今は退職金という貯蓄があるが、もし収入がなくなればどんどん生活に行き詰まっていく不安を抱えている。
しかし、その不安があればこそ真剣に収入を得る道を探る気持ちが維持される。
この先、年金が入る様になったら、それほど追い詰められることもなく、平穏な暮らしを求めていくだろう。
それはそれで年齢相応の暮らしぶりというものだろうが、その時点で自分を変貌させていくのは、ただ老いゆく変貌であろう。
だから、追い詰められている今こそ試練ではあるが、まだ前向きに変貌できると思うべきなのだと思う。
今回の新しい職場への適応という試練で、変貌したのは気持ちだけではなかった。
定期検診では意外にも健康状態は良くなっていた。
忙しくて昼食もまともに食べられなかったり、宿直勤務で疲労困憊したりしたのにである。
7割方肉体労働の勤務で、体重は落ちても体力は付いていた。
ある意味、自分にとってショック療法だったのかも知れない。
以前糖尿病で教育入院した時の生活改善に匹敵するものかもしれない。
同じ職場に新薬を使って糖尿病を克服しようとしている人がいる。
65歳のその人はあと10年生きられればそれで良いと言っている。
そして、デスクワーク中心のその人は、数値を悪化させて薬も増えた。
その人に言わせれば、私はこの職場の勤務が身体には合っているから改善したという。
そうすると、その人にはこの職場は身体に合っていないけれど、心に合っているので薬を使って続けていることになる。
私には確かに身体には合っているかも知れないが、心には残念ながら合っていない。
心身とも合う職場というのはないのだろうから、改善した身体の次は心を優先させたい。
そして、またその次は身体を最優先させる時が来るのだろうとは思っている。
2018年5月23日水曜日
奈良に行かずとも
先日(5/18)、家内と奈良に「国宝 春日大社のすべて」を見に行った。
前もってワンデーパスを家内が購入しておいてくれていた。
以前は当日でも上郡駅で買えたのに、最近は前もって買わなくて
奈良までだと普通に買えば、その倍近くの額になってしまう。
ただ、新幹線や特急が使えないので、時間的には片道3時間ほどかかってしまう。
私は乗り鉄という程ではないが、青春18切符を使ってあちこち回っていたので、鈍行は大好きだ。
しかし、この頃は鉄道を使う機会が殆ど無くなり、考えれば1年ぶりに電車に乗る。
私は中学・高校と赤穂から姫路まで電車通学していたので、電車に乗ることが日常だった。
それが講師時代を除き教員に採用されてからは、毎日の通勤に一度も使ったことがない。
つまり、日常的には40年間鉄道とは縁が切れてしまったことになる。
だから、電車に乗ると特別な気分になる。
朝の通学通勤時間帯だったので、電車はまだ混み合っていた。
私は持ってきたタブレットのiPADを見ながら、時折車窓を眺めていた。
家内は風邪気味でずっと眠っていた。
相生駅と姫路駅で乗り換え、大阪に着いた。
大阪に来るといつも別世界に来たと感じる。
いつもながら、こういう都会にはもう住めないと思う。
しかし、私はかつて名古屋や東京に長く暮らしていたので、住めないことは無いとは思っている。
ただ、家内は播州を離れたことがないので、果たして上手く馴染めるのか疑問である。
大阪からは大和路快速に乗り換えて、しばらくすると田園風景に変わっていった。
奈良駅ではとりあえず腹ごしらえをした。
奈良の物産とは関係の無いチェーン店の定食を二人とも食べた。
奈良駅はまさしくインターナショナルで、外国人の観光客がいっぱいいて、バスの中では日本人の方が少ない感じだった。
バスから降りると、今度は行列をなした小学生。
修学旅行のシーズンでもあるらしい。
奈良国立博物館の中は、今度は高齢者の世界。
平日にこういう催しを見に来るのは、余程のマニアか高齢者が中心のようだ。
外国人も年配の人が中心である。
正倉院展とは違い、ゆっくり見ることができたが、内容的にはやはり乏しい。
平安の正倉院といいながら、武具の展示が際立っている。
絵巻物も面白いが、絵巻物はじっくり座って眺めたい。
日本史の図表をじっくり眺めてきた者にとっては、立ち見は面白みに欠ける。
それでも歴史を感じさせられる展示物に接することは、普段とは違う感覚を呼び覚ましてくれるから不思議である。
奈良公園では、このごろ話題になっている鹿と外国人の姿がやはり目立った。
テレビでも見るように、外国人は鹿せんべいを使って記念写真を撮っている。
鹿と一緒に写真に写る機会が、海外ではないのかも知れないが、餌で弄んでいる観も否めない。
ただ、鹿の方も強かで、人の良さそうな外国人には思い切りねだって追い回していた。
普段鹿との車での遭遇を警戒している者にとっては、非常に違和感を感じる光景である。
また、この日は真夏のような気候で、白人の露出した風景が目についたが、笠をかぶっている若い白人女性が面白かった。
ただ、日本人が同じことをすると、場違いな変人と見なされるだろうなと思った。
私もかつては笠を農作業に用いていたが、旅に用いたことはない。
JR奈良駅の土産物店で土産を買い、大和路快速で家路についた。
大阪駅から乗り換えた新快速の中では、殆どiPadでTVerの癌治療最新医療を見ていた。
昔は本を読むしか時間つぶしはなかったが、こうしてテレビ番組を見られるのはありがたい。
相生駅で乗り換え、上郡駅に近づいてふと千種川の川原を見ると、なんと鹿がいる。
まだ、日も暮れていないのに、堂々と何頭もの鹿が草を食べている。
奈良に行かなくても、鹿の群れは身近にいるのを実感した。
奈良の鹿ほど可愛くはないけれど・・・
前もってワンデーパスを家内が購入しておいてくれていた。
以前は当日でも上郡駅で買えたのに、最近は前もって買わなくて
奈良までだと普通に買えば、その倍近くの額になってしまう。
ただ、新幹線や特急が使えないので、時間的には片道3時間ほどかかってしまう。
私は乗り鉄という程ではないが、青春18切符を使ってあちこち回っていたので、鈍行は大好きだ。
しかし、この頃は鉄道を使う機会が殆ど無くなり、考えれば1年ぶりに電車に乗る。
私は中学・高校と赤穂から姫路まで電車通学していたので、電車に乗ることが日常だった。
それが講師時代を除き教員に採用されてからは、毎日の通勤に一度も使ったことがない。
つまり、日常的には40年間鉄道とは縁が切れてしまったことになる。
だから、電車に乗ると特別な気分になる。
朝の通学通勤時間帯だったので、電車はまだ混み合っていた。
私は持ってきたタブレットのiPADを見ながら、時折車窓を眺めていた。
家内は風邪気味でずっと眠っていた。
相生駅と姫路駅で乗り換え、大阪に着いた。
大阪に来るといつも別世界に来たと感じる。
いつもながら、こういう都会にはもう住めないと思う。
しかし、私はかつて名古屋や東京に長く暮らしていたので、住めないことは無いとは思っている。
ただ、家内は播州を離れたことがないので、果たして上手く馴染めるのか疑問である。
大阪からは大和路快速に乗り換えて、しばらくすると田園風景に変わっていった。
奈良駅ではとりあえず腹ごしらえをした。
奈良の物産とは関係の無いチェーン店の定食を二人とも食べた。
奈良駅はまさしくインターナショナルで、外国人の観光客がいっぱいいて、バスの中では日本人の方が少ない感じだった。
バスから降りると、今度は行列をなした小学生。
修学旅行のシーズンでもあるらしい。
奈良国立博物館の中は、今度は高齢者の世界。
平日にこういう催しを見に来るのは、余程のマニアか高齢者が中心のようだ。
外国人も年配の人が中心である。
正倉院展とは違い、ゆっくり見ることができたが、内容的にはやはり乏しい。
平安の正倉院といいながら、武具の展示が際立っている。
絵巻物も面白いが、絵巻物はじっくり座って眺めたい。
日本史の図表をじっくり眺めてきた者にとっては、立ち見は面白みに欠ける。
それでも歴史を感じさせられる展示物に接することは、普段とは違う感覚を呼び覚ましてくれるから不思議である。
奈良公園では、このごろ話題になっている鹿と外国人の姿がやはり目立った。
テレビでも見るように、外国人は鹿せんべいを使って記念写真を撮っている。
鹿と一緒に写真に写る機会が、海外ではないのかも知れないが、餌で弄んでいる観も否めない。
ただ、鹿の方も強かで、人の良さそうな外国人には思い切りねだって追い回していた。
普段鹿との車での遭遇を警戒している者にとっては、非常に違和感を感じる光景である。
また、この日は真夏のような気候で、白人の露出した風景が目についたが、笠をかぶっている若い白人女性が面白かった。
ただ、日本人が同じことをすると、場違いな変人と見なされるだろうなと思った。
私もかつては笠を農作業に用いていたが、旅に用いたことはない。
JR奈良駅の土産物店で土産を買い、大和路快速で家路についた。
大阪駅から乗り換えた新快速の中では、殆どiPadでTVerの癌治療最新医療を見ていた。
昔は本を読むしか時間つぶしはなかったが、こうしてテレビ番組を見られるのはありがたい。
相生駅で乗り換え、上郡駅に近づいてふと千種川の川原を見ると、なんと鹿がいる。
まだ、日も暮れていないのに、堂々と何頭もの鹿が草を食べている。
奈良に行かなくても、鹿の群れは身近にいるのを実感した。
奈良の鹿ほど可愛くはないけれど・・・
2018年5月18日金曜日
宿直で知る年齢
私の今の仕事には宿直がある。
手当が付くのだが、私は辛い。
独身の若い人は、宿直が多い方が収入が増えるので良いという。
そういえば、以前勤めていた学校にも宿直勤務があり、手当が高かった。
私は宿直の次の日も授業があり、夕方になると頭痛がしたので辛かった。
しかし、当時は独身の若い人は、他の人の宿直も引き受けて基本給よりも手当が高いほどになった。
さすがに、それはしばらくして禁じられたが、若さの違いはそういうものである。
自分も若い頃は、少々寝なくても平気で、仲間と飲み明かしてそのまま朝を迎えて職場に行った。
また、修士論文を書いている時には、一週間まともに布団で眠らなかった。
机でペンを握って、午前二時だと思っていたのが、いつの間にか午前4時になっていた。
要するに、頭がシャットダウンしていたのだ。
修士論文を書いていた人の中には、腰痛を起こして救急車で運ばれた人もいた。
私は、修士論文を提出する日はまともに駅の階段が登れなかった。
それでも、次の日は回復していた。
若さとはそういうものだろうと思う。
ところが、今は宿直で0時に寝て5時に起きるが、一時間おきに目が覚める。
そして、次の日は頭がもうろうとして、はっきりしない。
前日の勤務も、昼食を夕食でとるような過酷なものだったせいもあるが、気力だけで仕事をしていた。
そして、午後からは振り替えで休ませてもらい、やっとの思いで帰宅した。
そして、午後からどころか、夕食後も爆睡した。
眠られるだけ、良いのかもしれないが、こんな生活が長く続けられるはずは無いと思う。
年齢の差は回復の差だと思うが、それを如実に感じさせるのが宿直である。
お金よりも眠りが欲しい年頃なのである。
手当が付くのだが、私は辛い。
独身の若い人は、宿直が多い方が収入が増えるので良いという。
そういえば、以前勤めていた学校にも宿直勤務があり、手当が高かった。
私は宿直の次の日も授業があり、夕方になると頭痛がしたので辛かった。
しかし、当時は独身の若い人は、他の人の宿直も引き受けて基本給よりも手当が高いほどになった。
さすがに、それはしばらくして禁じられたが、若さの違いはそういうものである。
自分も若い頃は、少々寝なくても平気で、仲間と飲み明かしてそのまま朝を迎えて職場に行った。
また、修士論文を書いている時には、一週間まともに布団で眠らなかった。
机でペンを握って、午前二時だと思っていたのが、いつの間にか午前4時になっていた。
要するに、頭がシャットダウンしていたのだ。
修士論文を書いていた人の中には、腰痛を起こして救急車で運ばれた人もいた。
私は、修士論文を提出する日はまともに駅の階段が登れなかった。
それでも、次の日は回復していた。
若さとはそういうものだろうと思う。
ところが、今は宿直で0時に寝て5時に起きるが、一時間おきに目が覚める。
そして、次の日は頭がもうろうとして、はっきりしない。
前日の勤務も、昼食を夕食でとるような過酷なものだったせいもあるが、気力だけで仕事をしていた。
そして、午後からは振り替えで休ませてもらい、やっとの思いで帰宅した。
そして、午後からどころか、夕食後も爆睡した。
眠られるだけ、良いのかもしれないが、こんな生活が長く続けられるはずは無いと思う。
年齢の差は回復の差だと思うが、それを如実に感じさせるのが宿直である。
お金よりも眠りが欲しい年頃なのである。
2018年5月14日月曜日
猟犬のくせにモフモフなクロ
NHKの番組の「もふもふモフモフ」は見ていて楽しい番組である。
出てくる犬や猫は室内で飼われているのが殆どなので、庭で飼われているうちのクロとは大きく違う。
もともと猟犬で捨て犬だったクロは、既に3歳になって落ち着いてきた。
先日も、狂犬病の予防注射の時には、赤穂まで軽トラの荷台にトラベルキャリーに乗せて連れて行った。
予防注射の広場に集まってきている犬の殆どは室内犬だった。
中には大型犬もいて、吠えたり、引き綱から離れて逃げ回る犬もいた。
そんな中で、鳴きもせずいてくれたのは助かったが、他の犬に近づこうとするのには困った。
散歩でも特に困るのは、猫や野生の動物とあった時や、匂いを感じた時である。
力が強いので、引き倒されそうになることもしばしばである。
そのくせ、大型の車が来ると、主人を放って置いて逃げようとする。
絶対に盲導犬にはなれない。
実は鉄砲の音や、大きな音を怖がるので猟犬にも適していない。
だから捨てられたのだと、夫婦で話している。
そんなクロだが、戻ってきて犬小屋の傍で日向ぼっこをすると、全く無防備になる。
通り道に寝そべると、私が通ろうとそのまま寝そべっている。
時々、「踏んだろうか」と威嚇するが、動じる気配はない。
家内が洗濯を干す時にも、平気で足下で寝そべっている。
少々踏まれたり、蹴飛ばされても平気である。
このときばかりは、全くモフモフ状態だが、寝ているだけで様にならないので動画としては面白みに欠ける。
以前飼っていた雑種のトラは餌に対して執着が強く、入れた餌皿を触ろうものなら噛みつこうとした。
それに対して、クロは餌皿に触ろうが横取りしようが怒ることはない。
また、寝そべっている時などは、よく握手をしたり、顔の皮を引っ張ってやったりするのだが、もっとやって欲しそうにする。
因みに怒るのは、散歩に行ってくれそうで行かない時である。
腹たち紛れに、敷物にしているカーテンをくわえて振り回し怒りを表す。
散歩が食事より一番の楽しみなのである。
このように散歩の時と、庭で寝そべっている時のクロは別犬である。
ひょっとしてモフモフなクロは、家に戻って酒を飲んで寝そべっている私といっしょかも?
出てくる犬や猫は室内で飼われているのが殆どなので、庭で飼われているうちのクロとは大きく違う。
もともと猟犬で捨て犬だったクロは、既に3歳になって落ち着いてきた。
先日も、狂犬病の予防注射の時には、赤穂まで軽トラの荷台にトラベルキャリーに乗せて連れて行った。
予防注射の広場に集まってきている犬の殆どは室内犬だった。
中には大型犬もいて、吠えたり、引き綱から離れて逃げ回る犬もいた。
そんな中で、鳴きもせずいてくれたのは助かったが、他の犬に近づこうとするのには困った。
散歩でも特に困るのは、猫や野生の動物とあった時や、匂いを感じた時である。
力が強いので、引き倒されそうになることもしばしばである。
そのくせ、大型の車が来ると、主人を放って置いて逃げようとする。
絶対に盲導犬にはなれない。
実は鉄砲の音や、大きな音を怖がるので猟犬にも適していない。
だから捨てられたのだと、夫婦で話している。
そんなクロだが、戻ってきて犬小屋の傍で日向ぼっこをすると、全く無防備になる。
通り道に寝そべると、私が通ろうとそのまま寝そべっている。
時々、「踏んだろうか」と威嚇するが、動じる気配はない。
家内が洗濯を干す時にも、平気で足下で寝そべっている。
少々踏まれたり、蹴飛ばされても平気である。
このときばかりは、全くモフモフ状態だが、寝ているだけで様にならないので動画としては面白みに欠ける。
以前飼っていた雑種のトラは餌に対して執着が強く、入れた餌皿を触ろうものなら噛みつこうとした。
それに対して、クロは餌皿に触ろうが横取りしようが怒ることはない。
また、寝そべっている時などは、よく握手をしたり、顔の皮を引っ張ってやったりするのだが、もっとやって欲しそうにする。
因みに怒るのは、散歩に行ってくれそうで行かない時である。
腹たち紛れに、敷物にしているカーテンをくわえて振り回し怒りを表す。
散歩が食事より一番の楽しみなのである。
このように散歩の時と、庭で寝そべっている時のクロは別犬である。
ひょっとしてモフモフなクロは、家に戻って酒を飲んで寝そべっている私といっしょかも?
2018年5月12日土曜日
路線バスの旅の魅力
テレビ東京系列の路線バスの旅は、シリーズの途中から見始めたので、最初の頃は知らない。
このところ総集編があって、見ていると播州赤穂や上郡にもシリーズ1の第4弾で登場していた。
ウィキペディアによれば
3日目、兵庫県赤穂市槙から岡山県備前市福浦峠の間はバス路線がなく[24]、タクシーを呼んだものの、配車場所を間違われたことにより到着が遅れたが、福浦峠から乗車するバスの発車時刻には間に合い事なきを得た。また播州赤穂駅から乗車したバスを降りた居村バス停からタクシーを配車した槙バス停の間は徒歩で移動したが、このとき根本はヒールを履いており、長距離の徒歩に不安を感じた太川がバス乗車前にスニーカーを購入してあげる一幕があった。
とある。
どの地名も地元の人でも、位置関係が分かりづらいと思う。
因みに福浦峠は県境であり、赤穂市と備前市の境でもある。 だいたい、槙は私の生まれ故郷の鳥撫の隣の村で、両方併せて鷆和(駅名は天和)となる。
残念なことに最近殺人死体遺棄事件で有名になってしまった。
実は小学生の頃に祖母に連れられて、祖母の実家のある福浦に行ったことがある。
その時も、バスは槙までしかなくて、槙からの坂道を登って峠まで行き、峠から山道を通って祖母の実家に行ったことがある。
福浦には備前福河駅というJRの駅があるが、同じ赤穂市にありながらバスは行っていなかった。
福浦と槙の間には峠があり、徒歩で学校に通うのは大変だったので、私が小学生の頃は福浦の小学生は電車で赤穂小学校に通っていた。
遠い昔の記憶を呼び戻してくれるのも、この番組の魅力かも知れない。
自家用車やJR、高速バスを使えば難なく行ける所を、あえて路線バスを用いる。
路線バスは県境などで人の行き来が途絶えることも如実に教えてくれる。
また路線が変更されたり無くなったりして、時代の移り変わりと共に、人の行き来が変わっていくことも教えてくれる。
かつて中学生の頃は赤穂駅経由で有年行きのバスが御崎から出ていて、車掌さんも乗っていたが無くなった。
そういうような地元の事情も番組には所々で垣間見ることができる。
そして、今は鉄道の駅ではななくて、病院や空港が路線バスの中継地点となっているのも時代を感じさせる。
番組配役上の魅力は、レギュラー2人とマドンナとの人間模様だろう。
私はやはり蛭子さんのキャラが予想不能な路線バスの旅とぴったしだと思う。
当然それを軌道に乗せる太川さんの役割は重要だが、最近のZと比較すると蛭子さんの存在感の大きさを感じさせられる。
我が儘、失言、暴言、地元の特産品に媚びない食事、下着もあまり持ち合わせない不潔さ、友達にはしたくないタイプだが画面上では魅力はある。
下準備のできすぎた旅番組にはない魅力の真骨頂である。
また、マドンナも体育会系の人物を使っていないのも、親近感を持たせるための計算だと思う。
そこいらのおじさんやおばさんが普通に登場して、安上がりな民放ならではの新日本紀行を作り上げているように思える。
このところ総集編があって、見ていると播州赤穂や上郡にもシリーズ1の第4弾で登場していた。
ウィキペディアによれば
3日目、兵庫県赤穂市槙から岡山県備前市福浦峠の間はバス路線がなく[24]、タクシーを呼んだものの、配車場所を間違われたことにより到着が遅れたが、福浦峠から乗車するバスの発車時刻には間に合い事なきを得た。また播州赤穂駅から乗車したバスを降りた居村バス停からタクシーを配車した槙バス停の間は徒歩で移動したが、このとき根本はヒールを履いており、長距離の徒歩に不安を感じた太川がバス乗車前にスニーカーを購入してあげる一幕があった。
とある。
どの地名も地元の人でも、位置関係が分かりづらいと思う。
因みに福浦峠は県境であり、赤穂市と備前市の境でもある。 だいたい、槙は私の生まれ故郷の鳥撫の隣の村で、両方併せて鷆和(駅名は天和)となる。
残念なことに最近殺人死体遺棄事件で有名になってしまった。
実は小学生の頃に祖母に連れられて、祖母の実家のある福浦に行ったことがある。
その時も、バスは槙までしかなくて、槙からの坂道を登って峠まで行き、峠から山道を通って祖母の実家に行ったことがある。
福浦には備前福河駅というJRの駅があるが、同じ赤穂市にありながらバスは行っていなかった。
福浦と槙の間には峠があり、徒歩で学校に通うのは大変だったので、私が小学生の頃は福浦の小学生は電車で赤穂小学校に通っていた。
遠い昔の記憶を呼び戻してくれるのも、この番組の魅力かも知れない。
自家用車やJR、高速バスを使えば難なく行ける所を、あえて路線バスを用いる。
路線バスは県境などで人の行き来が途絶えることも如実に教えてくれる。
また路線が変更されたり無くなったりして、時代の移り変わりと共に、人の行き来が変わっていくことも教えてくれる。
かつて中学生の頃は赤穂駅経由で有年行きのバスが御崎から出ていて、車掌さんも乗っていたが無くなった。
そういうような地元の事情も番組には所々で垣間見ることができる。
そして、今は鉄道の駅ではななくて、病院や空港が路線バスの中継地点となっているのも時代を感じさせる。
番組配役上の魅力は、レギュラー2人とマドンナとの人間模様だろう。
私はやはり蛭子さんのキャラが予想不能な路線バスの旅とぴったしだと思う。
当然それを軌道に乗せる太川さんの役割は重要だが、最近のZと比較すると蛭子さんの存在感の大きさを感じさせられる。
我が儘、失言、暴言、地元の特産品に媚びない食事、下着もあまり持ち合わせない不潔さ、友達にはしたくないタイプだが画面上では魅力はある。
下準備のできすぎた旅番組にはない魅力の真骨頂である。
また、マドンナも体育会系の人物を使っていないのも、親近感を持たせるための計算だと思う。
そこいらのおじさんやおばさんが普通に登場して、安上がりな民放ならではの新日本紀行を作り上げているように思える。
2018年5月10日木曜日
捨てられない衣服
今朝も家内から、「これ捨てるの」と聞かれた。
ずっと着続けているくすんだ青色のトレーナーである。
襟元がすり切れて綻んでいる。
外に着ていくわけにはいかないが、家の中で着ることは問題ない。
家内はまたかと不満げであった。
私はなかなか服を捨てきれない。
家内は「2年着ない服は捨てる」と、どんどん捨てている。
私は職業と趣味の関係で色んな服を持っている。
農作業用の作業着、運動用のジャージやTシャツを中心に、フォーマル、授業用、外出用、普段着、散歩用である。
座敷の奥が服置き場になってあふれかえっているのである。
一年に一度や二度しか着ない服もあるのだから、非効率的である。
学生時代は洋服ダンスも必要ない数だったのを思えば、無駄な生活をしているように思える。
これだけあふれかえっているのに、今日もWORKMANで夏の作業服を買ってしまった。
以前はUNIQLOやアウトレットのSHOTが中心だったが、このところWORKMANの服が殆どである。
それは今の仕事にも、農作業にも活用できるからである。
品ぞろいも良く、機能的で価格も手ごろなのか魅力的でもある。
WORKMANはお客さんは少ないが、職人風の人や、マニアックな登山やスポーツ好きの人が来ていて独特の雰囲気だ。
ブランド品でもない衣服を大量にため込む状態を、何とかしなくてはならないと思っている。
断捨離を実践したいとずっと思い続けている。
ただ、言い訳をすれば、衣服には昔の記憶が詰まっている。
アルバムの写真やパソコンのハードディスクの記録とは違う、生活臭の漂う記憶であり、今も生き続けている。
先日も20年以上前の写真を見た時に、その服が今も残って着続けているのに改めて気がついた。
何せ、スーツは40年前の教育実習で着た物を筆頭に、10年前以上の物ばかりである。
こちらは私の歴史そのものであり、これからの未来と言っても良いかもしれない。
ということで、私にとって衣服は生き続けるモニュメントだと思って今しばらくは我慢して欲しいのだが・・・
ダメか・・・・
ずっと着続けているくすんだ青色のトレーナーである。
襟元がすり切れて綻んでいる。
外に着ていくわけにはいかないが、家の中で着ることは問題ない。
家内はまたかと不満げであった。
私はなかなか服を捨てきれない。
家内は「2年着ない服は捨てる」と、どんどん捨てている。
私は職業と趣味の関係で色んな服を持っている。
農作業用の作業着、運動用のジャージやTシャツを中心に、フォーマル、授業用、外出用、普段着、散歩用である。
座敷の奥が服置き場になってあふれかえっているのである。
一年に一度や二度しか着ない服もあるのだから、非効率的である。
学生時代は洋服ダンスも必要ない数だったのを思えば、無駄な生活をしているように思える。
これだけあふれかえっているのに、今日もWORKMANで夏の作業服を買ってしまった。
以前はUNIQLOやアウトレットのSHOTが中心だったが、このところWORKMANの服が殆どである。
それは今の仕事にも、農作業にも活用できるからである。
品ぞろいも良く、機能的で価格も手ごろなのか魅力的でもある。
WORKMANはお客さんは少ないが、職人風の人や、マニアックな登山やスポーツ好きの人が来ていて独特の雰囲気だ。
ブランド品でもない衣服を大量にため込む状態を、何とかしなくてはならないと思っている。
断捨離を実践したいとずっと思い続けている。
ただ、言い訳をすれば、衣服には昔の記憶が詰まっている。
アルバムの写真やパソコンのハードディスクの記録とは違う、生活臭の漂う記憶であり、今も生き続けている。
先日も20年以上前の写真を見た時に、その服が今も残って着続けているのに改めて気がついた。
何せ、スーツは40年前の教育実習で着た物を筆頭に、10年前以上の物ばかりである。
こちらは私の歴史そのものであり、これからの未来と言っても良いかもしれない。
ということで、私にとって衣服は生き続けるモニュメントだと思って今しばらくは我慢して欲しいのだが・・・
ダメか・・・・
2018年5月9日水曜日
カブスカウトの思い出
先日、職場でカブスカウトやボーイスカウトと関わる機会があった。
そこで思い出したのは、小学生の頃入っていたカブスカウトである。
実はボーイスカウトにも入ったが、中学受験のために辞めざるを得なくなった。
カブスカウトでは、廃校を利用して宿泊訓練をした。
思い出すのは、相生の榊という所の小学校廃校での宿泊である。
夜は蛍狩りにみんなで出かけて、虫かごいっぱい獲ってきた。
夜中には付き添いの仲間のお母さんに頼まれて、懐中電灯代わりにしたくらいである。
ただ、楽しい宿泊訓練とは言いずらかった。
それは、夜中には校舎の外れにある便所に行かねばならない。
どうしても行きたくなって、デンマザーに言うとデンマザーも行きたかったらしく、一緒に行った。
そして、用が済んで出てくるまで、待つように頼まれた。
デンマザーも別の意味で怖かったのかも知れない。
思い出せば、昔の学校の便所はどこもくみ取りで、校舎の外れにあった。
また、夏には海岸近くにあった赤穂の御崎小学校で宿泊した。
当時はまだ廃校になっていなかったように思う。
御崎の小学生が尾崎の小学校前を通ると、
「御崎の学校おんぼろ学校、突っ張り学校」とからかったりした。
古い学校に鉄製の突っ張りがなされていたからである。
御崎小学校は直ぐ下に海水浴場があって、そこでカブスカウトは泳いだ。
デンマザーがセミビギニーを着ていたのを見とれていたので、友達にからかわれたのを憶えている。
今回のカブスカウトには保護者や兄弟が多く付き添っていた。
宿泊するところも、立派な施設である。
自分たちの頃は付き添う保護者は少なく、代わりに若いデンマザーが多かった。
思い出せば、私の父親はついてきたのを思い出した。
自分としては、父親はあまりついてきて欲しくはなかった。
人付き合いが下手なのに、どういう訳かカブスカウトの付き添いや、世話役をしてくれた。
考えてみれば、私も子供の水泳の付き添いなどをしたので同じである。
どちらも無骨な父親として、それが一つの愛情表現だったのだ。
そこで思い出したのは、小学生の頃入っていたカブスカウトである。
実はボーイスカウトにも入ったが、中学受験のために辞めざるを得なくなった。
カブスカウトでは、廃校を利用して宿泊訓練をした。
思い出すのは、相生の榊という所の小学校廃校での宿泊である。
夜は蛍狩りにみんなで出かけて、虫かごいっぱい獲ってきた。
夜中には付き添いの仲間のお母さんに頼まれて、懐中電灯代わりにしたくらいである。
ただ、楽しい宿泊訓練とは言いずらかった。
それは、夜中には校舎の外れにある便所に行かねばならない。
どうしても行きたくなって、デンマザーに言うとデンマザーも行きたかったらしく、一緒に行った。
そして、用が済んで出てくるまで、待つように頼まれた。
デンマザーも別の意味で怖かったのかも知れない。
思い出せば、昔の学校の便所はどこもくみ取りで、校舎の外れにあった。
また、夏には海岸近くにあった赤穂の御崎小学校で宿泊した。
当時はまだ廃校になっていなかったように思う。
御崎の小学生が尾崎の小学校前を通ると、
「御崎の学校おんぼろ学校、突っ張り学校」とからかったりした。
古い学校に鉄製の突っ張りがなされていたからである。
御崎小学校は直ぐ下に海水浴場があって、そこでカブスカウトは泳いだ。
デンマザーがセミビギニーを着ていたのを見とれていたので、友達にからかわれたのを憶えている。
今回のカブスカウトには保護者や兄弟が多く付き添っていた。
宿泊するところも、立派な施設である。
自分たちの頃は付き添う保護者は少なく、代わりに若いデンマザーが多かった。
思い出せば、私の父親はついてきたのを思い出した。
自分としては、父親はあまりついてきて欲しくはなかった。
人付き合いが下手なのに、どういう訳かカブスカウトの付き添いや、世話役をしてくれた。
考えてみれば、私も子供の水泳の付き添いなどをしたので同じである。
どちらも無骨な父親として、それが一つの愛情表現だったのだ。
2018年5月6日日曜日
里の大木
日曜朝の所さんの「目がテン」は大好きな番組で、いつも録画して見ている。
特に科学者による、里山復活プロジェクトは役に立つので楽しみにしている。
先日の番組テーマは「巨木」だった。
その中で、巨木は原生林では存在しにくく、里に多いと言うことは目からうろこだった。
つまり、自然界では特殊な条件を持つ屋久杉は別として、自然淘汰で古木は失われるということだ。
里で信仰の対象となり、巨木になるまで守り続けられるそうだ。
巨木は地上から約130cmの位置での幹周が300cm以上の木だから、私の村には大木はあっても滅多に巨木は無かった。
私が上郡のこの村に25年程前に移り住んだ当時には、村の中に大木が存在した。
実は、私の家を建てる時に、隣の庭にあった大木が一本切り倒された。
巨木は隣家の私の家を建てる妨げとなっていたからである。
私が購入した土地は、かつて宅地だったが、長い間空き地になっていたという。
別に信仰の対象では無かったが、放置した木は大木になっていた。
一本だけ直径1m程の巨木らしき木があった。
近くの竹林の中にあり、その木には鳥たちが集まっていた。
しかし、根が張り、道路をでこぼこにし始めたので、切り倒されてしまった。
切り倒された切り株の大きさを見て、その木の大きさを思い知った。
それ以来、美しい鳥の鳴き声は近くでは聞こえなくなった。
私の住む字の象徴的な大木は、文殊さんと呼ばれるほこらの傍にあった木で、そこは村作業などで集まる場所になっていた。
また、鳥だけでなく、クワガタムシなどがよってきていた。
落雷にも耐え、長い間その土地の持ち主の腰の曲がったおばあさんが落ち葉を拾っていた。
そも世話も大変で、大木自身がいつ倒れるかも知れない状態になっていたので、枝を切って殺してしまった。
持ち主は神主さんにお祓いをしてもらった後、植木屋さんに処置してもらった。
今は、名残の幹だけが電柱のように立っている。
世代を超えて守られてきた大木は、今の時代にはそぐわなくなっているようだ。
今の時代は高圧電線の鉄塔が、一番空に近い存在になっている。
そして、村在住の鳥以外にも、村にやって来るコウノトリや鷹の居場所にもなっているのである。
人も鳥も時代と共に生きていると言うことだろう。
いずれ家の庭木や生け垣もなくなり、鳥や虫が寄りつかない場所になってしまうのかも知れない。
特に科学者による、里山復活プロジェクトは役に立つので楽しみにしている。
先日の番組テーマは「巨木」だった。
その中で、巨木は原生林では存在しにくく、里に多いと言うことは目からうろこだった。
つまり、自然界では特殊な条件を持つ屋久杉は別として、自然淘汰で古木は失われるということだ。
里で信仰の対象となり、巨木になるまで守り続けられるそうだ。
巨木は地上から約130cmの位置での幹周が300cm以上の木だから、私の村には大木はあっても滅多に巨木は無かった。
私が上郡のこの村に25年程前に移り住んだ当時には、村の中に大木が存在した。
実は、私の家を建てる時に、隣の庭にあった大木が一本切り倒された。
巨木は隣家の私の家を建てる妨げとなっていたからである。
私が購入した土地は、かつて宅地だったが、長い間空き地になっていたという。
別に信仰の対象では無かったが、放置した木は大木になっていた。
一本だけ直径1m程の巨木らしき木があった。
近くの竹林の中にあり、その木には鳥たちが集まっていた。
しかし、根が張り、道路をでこぼこにし始めたので、切り倒されてしまった。
切り倒された切り株の大きさを見て、その木の大きさを思い知った。
それ以来、美しい鳥の鳴き声は近くでは聞こえなくなった。
私の住む字の象徴的な大木は、文殊さんと呼ばれるほこらの傍にあった木で、そこは村作業などで集まる場所になっていた。
また、鳥だけでなく、クワガタムシなどがよってきていた。
落雷にも耐え、長い間その土地の持ち主の腰の曲がったおばあさんが落ち葉を拾っていた。
そも世話も大変で、大木自身がいつ倒れるかも知れない状態になっていたので、枝を切って殺してしまった。
持ち主は神主さんにお祓いをしてもらった後、植木屋さんに処置してもらった。
今は、名残の幹だけが電柱のように立っている。
世代を超えて守られてきた大木は、今の時代にはそぐわなくなっているようだ。
今の時代は高圧電線の鉄塔が、一番空に近い存在になっている。
そして、村在住の鳥以外にも、村にやって来るコウノトリや鷹の居場所にもなっているのである。
人も鳥も時代と共に生きていると言うことだろう。
いずれ家の庭木や生け垣もなくなり、鳥や虫が寄りつかない場所になってしまうのかも知れない。
2018年5月5日土曜日
口ずさんだ唄
家内と買い物の途中の車の中、ラジオ番組で懐かしい唄を聴いた。
それらの多くは自分たちが生まれる前とか、幼い頃の女性が歌った唄だった。
自分はテレビやラジオ以外にも、母親や父親が口ずさんでいるのを聴いていた。
唄好きの母親は、家事をする時も、いつも唄を口ずさんでいた。
家内は昔からの、ラジオ好きなのでそちらで聴いていたと思う。
その唄を車中で家内と口ずさみながら、ふと亡くなった父親の声を思い出した。
父親はもともとそんなに唄は歌わなかったが、よく歌詞を一部使ってからかったりしていた。
例えば、息子が泣いていると「あんた 泣いてんのね」という風にである。
昔の曲は、今よりも長く放送されており、普段の会話の中に入っていった。
「ごめんね 次郎」「あら 見てたのね」「勝つと思うな 思えば負けよ」
色々と、ことある毎に唄のフレーズで、からかったり誤魔化したり、教訓とした。
それで、ふと父親の声を思い出したのである。
唄はそういう風に、親しく関わった声も蘇らせてくれる。
もう二度と生の声を聴くことができなくてもである。
録音された歌声は、今でも生き続けている。
これは、プロの歌手だけでなく、家庭で録画や録音した声もである。
私は一曲だけ、YouTubeに投稿しているので、ネットで聴こうと思えばいつでも聴ける。
家庭で録画や録音したものは、手間をかけないと聴けない。
だから、記憶に残っている歌声が、便利な再生器なのである。
テレビでは歌番組は減ったので、ラジオの歌番組がそういうきっかけとなってくれる。
この頃は、私も眠る前にラジオを聴くようになった。
夢と音楽は時間と空間を超えて、記憶の旅に誘ってくれる。
それらの多くは自分たちが生まれる前とか、幼い頃の女性が歌った唄だった。
自分はテレビやラジオ以外にも、母親や父親が口ずさんでいるのを聴いていた。
唄好きの母親は、家事をする時も、いつも唄を口ずさんでいた。
家内は昔からの、ラジオ好きなのでそちらで聴いていたと思う。
その唄を車中で家内と口ずさみながら、ふと亡くなった父親の声を思い出した。
父親はもともとそんなに唄は歌わなかったが、よく歌詞を一部使ってからかったりしていた。
例えば、息子が泣いていると「あんた 泣いてんのね」という風にである。
昔の曲は、今よりも長く放送されており、普段の会話の中に入っていった。
「ごめんね 次郎」「あら 見てたのね」「勝つと思うな 思えば負けよ」
色々と、ことある毎に唄のフレーズで、からかったり誤魔化したり、教訓とした。
それで、ふと父親の声を思い出したのである。
唄はそういう風に、親しく関わった声も蘇らせてくれる。
もう二度と生の声を聴くことができなくてもである。
録音された歌声は、今でも生き続けている。
これは、プロの歌手だけでなく、家庭で録画や録音した声もである。
私は一曲だけ、YouTubeに投稿しているので、ネットで聴こうと思えばいつでも聴ける。
家庭で録画や録音したものは、手間をかけないと聴けない。
だから、記憶に残っている歌声が、便利な再生器なのである。
テレビでは歌番組は減ったので、ラジオの歌番組がそういうきっかけとなってくれる。
この頃は、私も眠る前にラジオを聴くようになった。
夢と音楽は時間と空間を超えて、記憶の旅に誘ってくれる。
2018年5月3日木曜日
就職浪人と素労人
私は大学院の博士課程への進学を諦めて、高校教諭になるまでの一年間は就職浪人であった。
教師になる人の中には、学部4年から採用試験を受けて、合格しない時はその後講師経験を積む人もいるし、大学院に進学して採用試験を受ける人もいる。
私は進学そのものを断念し切れていなかったので、当初はアルバイトで生活を立て直そうとした。
最初のアルバイトは、横浜の緑区で工事前に行う建築物の状況調査を行うアルバイトだった。
そこは学生アルバイトやミュージシャン志望の若者などを中心とした人たちの職場だった。
職場には相談に乗ってくれる人生の先輩がいて、仕事以外の場で随分助けられた。
ただ、将来正職員になれる可能性もなく、続けていく魅力も無かったので、塾の講師に転職した。
その塾はいくつかある系列塾の一つだった。
塾講師も、赤裸々な塾長争いの現実を知り、熟練塾講師の虚栄にまみれつつも、不安定な生活を目の当たりにした。
結局、仕事に追われる現実では、進学も不可能と思い、塾講師も辞めて実家に戻ることにした。
先日母親とその時の話をしたが、当時の私は精神的不安定で、手が震えていたという。
当時、都立大学の博士課程の先輩にも相談していたが、その先輩の経験からの勧めで精神科の治療も受けていた。
博士課程に進学できた先輩の中にも、精神的に追い詰められていた人もいたのである。
研究者の就職難のあおり、馬の糞の修士から、博士に上がるのは相当過酷なものだった。
赤穂の実家に戻った私は、とりあえず生活の不安はなくなった。
ただ、立場上居心地が良いものではなかった。
とりあえず、必死で教員採用試験の勉強をした。
他にも新聞社への就職も考えて、神戸新聞の説明会を受けたが、場違いな感じがした。
求人広告をみても、当時既に25歳を過ぎていた既卒の自分には、良い就職口はなかった。
自分には高校教師になるしか道が残っていないことを思い知らされた。
その後の講師経験については、すでにこのブログで書いたとおりである。
ただ、このような精神的に不安定な時代に、助けられたのは母親の助力が一番大きかったが、それ以外にも職場で助けられた。
どの職場にも相談に乗ってくれる先輩がいたし、心を開いてくれる同僚がいた。
電話で話をしたり、食事や飲む機会を設けてくれた。
現在の私は再就職浪人と言うべきなのか、フリーターと言うべきなのか分からない。
天下りの上司と違い、完全に平職員なので、教員採用試験前と同じである。
ただ、この職を長く続けていくことはできないし、それを希望しているわけでもない。
相談できる先輩もいないし、若い同僚とは目標がまるっきり違う。
若い人も同じようにこの職は長く続けられないが、男性はここでの経験から新たなる職にチャレンジしようとしている。
女性にとっては、臨時職員としては収入が良いのでなるべく長く勤めたいようだ。
私はやりたいことをしたいために、生活を安定させ活動資金を手に入れるために働いている。
若き小説家やミュージシャンの中には、コンビニや食堂にに勤めて作品を書き続けている人もいたようなので、それに近いのではないかと思っている。
この際、自分自身をフリーターと開き直った方が気が楽かも知れない。
そういうば、昔は月影兵庫とか花山大吉という時代劇があった。
用心棒や店の手伝いをしながら旅を続ける浪人と渡世人の物語である。
私は博打をやらないし、ボディーガードができるほど強くないので、素浪人とはいえないかもしれない。
それでも、江戸時代に傘張りや手習い所の師匠をしていた浪人と同じと思えば良いのかもしれない。
フリーターほど、自由人でもない、ファッショナブルな生活をしていない。
時代劇の素浪人のように、好きな酒を安いつまみで楽しんで満足できる生活。
ちゃんとした作品を書いていない今の生活に近いのかも知れない。
そういえば、同じ職場で宿直のバイトをしている年配者は、ゴルフや酒を楽しむために働いていらっしゃる。
年金だけでは、贅沢できないので働いているのである。
まさしく現代の素浪人である。
この際、スロウニン(slowing man)と造語を作っても良いかもしれない。
slow lifeを楽しむ人々をそう呼んでも良いのじゃないだろうか?
おじさんにはカタカナは不似合いなので、素労人と漢字を当ててみようかと思う。
教師になる人の中には、学部4年から採用試験を受けて、合格しない時はその後講師経験を積む人もいるし、大学院に進学して採用試験を受ける人もいる。
私は進学そのものを断念し切れていなかったので、当初はアルバイトで生活を立て直そうとした。
最初のアルバイトは、横浜の緑区で工事前に行う建築物の状況調査を行うアルバイトだった。
そこは学生アルバイトやミュージシャン志望の若者などを中心とした人たちの職場だった。
職場には相談に乗ってくれる人生の先輩がいて、仕事以外の場で随分助けられた。
ただ、将来正職員になれる可能性もなく、続けていく魅力も無かったので、塾の講師に転職した。
その塾はいくつかある系列塾の一つだった。
塾講師も、赤裸々な塾長争いの現実を知り、熟練塾講師の虚栄にまみれつつも、不安定な生活を目の当たりにした。
結局、仕事に追われる現実では、進学も不可能と思い、塾講師も辞めて実家に戻ることにした。
先日母親とその時の話をしたが、当時の私は精神的不安定で、手が震えていたという。
当時、都立大学の博士課程の先輩にも相談していたが、その先輩の経験からの勧めで精神科の治療も受けていた。
博士課程に進学できた先輩の中にも、精神的に追い詰められていた人もいたのである。
研究者の就職難のあおり、馬の糞の修士から、博士に上がるのは相当過酷なものだった。
赤穂の実家に戻った私は、とりあえず生活の不安はなくなった。
ただ、立場上居心地が良いものではなかった。
とりあえず、必死で教員採用試験の勉強をした。
他にも新聞社への就職も考えて、神戸新聞の説明会を受けたが、場違いな感じがした。
求人広告をみても、当時既に25歳を過ぎていた既卒の自分には、良い就職口はなかった。
自分には高校教師になるしか道が残っていないことを思い知らされた。
その後の講師経験については、すでにこのブログで書いたとおりである。
ただ、このような精神的に不安定な時代に、助けられたのは母親の助力が一番大きかったが、それ以外にも職場で助けられた。
どの職場にも相談に乗ってくれる先輩がいたし、心を開いてくれる同僚がいた。
電話で話をしたり、食事や飲む機会を設けてくれた。
現在の私は再就職浪人と言うべきなのか、フリーターと言うべきなのか分からない。
天下りの上司と違い、完全に平職員なので、教員採用試験前と同じである。
ただ、この職を長く続けていくことはできないし、それを希望しているわけでもない。
相談できる先輩もいないし、若い同僚とは目標がまるっきり違う。
若い人も同じようにこの職は長く続けられないが、男性はここでの経験から新たなる職にチャレンジしようとしている。
女性にとっては、臨時職員としては収入が良いのでなるべく長く勤めたいようだ。
私はやりたいことをしたいために、生活を安定させ活動資金を手に入れるために働いている。
若き小説家やミュージシャンの中には、コンビニや食堂にに勤めて作品を書き続けている人もいたようなので、それに近いのではないかと思っている。
この際、自分自身をフリーターと開き直った方が気が楽かも知れない。
そういうば、昔は月影兵庫とか花山大吉という時代劇があった。
用心棒や店の手伝いをしながら旅を続ける浪人と渡世人の物語である。
私は博打をやらないし、ボディーガードができるほど強くないので、素浪人とはいえないかもしれない。
それでも、江戸時代に傘張りや手習い所の師匠をしていた浪人と同じと思えば良いのかもしれない。
フリーターほど、自由人でもない、ファッショナブルな生活をしていない。
時代劇の素浪人のように、好きな酒を安いつまみで楽しんで満足できる生活。
ちゃんとした作品を書いていない今の生活に近いのかも知れない。
そういえば、同じ職場で宿直のバイトをしている年配者は、ゴルフや酒を楽しむために働いていらっしゃる。
年金だけでは、贅沢できないので働いているのである。
まさしく現代の素浪人である。
この際、スロウニン(slowing man)と造語を作っても良いかもしれない。
slow lifeを楽しむ人々をそう呼んでも良いのじゃないだろうか?
おじさんにはカタカナは不似合いなので、素労人と漢字を当ててみようかと思う。
2018年5月2日水曜日
レイニーブルー
私が好きな徳永英明の曲に『レイニーブルー』という、ラブソングがある。
曲は雨の中で、別れた恋人との過去の思い出すイメージだ。
雨がうまく泪を表現していると思う。
一方、カーペンターズの『Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)』孤独で憂鬱な雨の日をうまく表現している。
同じ雨でも、情感がまるで違う。
実は、今の私にとって、雨は作っている作物のためにはすごくありがたい恵みの雨である。
それに対して、仕事の上では雨になると、予定した野外での活動ができなくなって、煩雑な内容となり負担が重くなる。
まさしく雨は憂鬱な日なのである。
天気予報にこれほど過敏になるのは久しぶりである。
実は、特別支援学校で作業学習の農作業を担当していた時もそうだった。
雨の日の作業には、やることが無くて苦労することが多かった。
今のようなゆとりの無い生活では、雨の日に過去の思い出にしっとり浸ることなど滅多に無い。
仕事のことなど考えずに、すっぽりとレイニーブルーの世界に浸りたいと思う。
そういえば、家の愚犬クロは強い雨の日はレイニーブルーの世界ならず、Rainy Days And Mondaysの憂鬱な目で私を見つめる。
少々の雨の日は散歩に出かけるので、「雨に唄えば」の状態になる。
ここには、私以上に雨に一喜一憂する存在がいたわけである。
クロにとって、散歩が一日の全てであるからである。
曲は雨の中で、別れた恋人との過去の思い出すイメージだ。
雨がうまく泪を表現していると思う。
一方、カーペンターズの『Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)』孤独で憂鬱な雨の日をうまく表現している。
同じ雨でも、情感がまるで違う。
実は、今の私にとって、雨は作っている作物のためにはすごくありがたい恵みの雨である。
それに対して、仕事の上では雨になると、予定した野外での活動ができなくなって、煩雑な内容となり負担が重くなる。
まさしく雨は憂鬱な日なのである。
天気予報にこれほど過敏になるのは久しぶりである。
実は、特別支援学校で作業学習の農作業を担当していた時もそうだった。
雨の日の作業には、やることが無くて苦労することが多かった。
今のようなゆとりの無い生活では、雨の日に過去の思い出にしっとり浸ることなど滅多に無い。
仕事のことなど考えずに、すっぽりとレイニーブルーの世界に浸りたいと思う。
そういえば、家の愚犬クロは強い雨の日はレイニーブルーの世界ならず、Rainy Days And Mondaysの憂鬱な目で私を見つめる。
少々の雨の日は散歩に出かけるので、「雨に唄えば」の状態になる。
ここには、私以上に雨に一喜一憂する存在がいたわけである。
クロにとって、散歩が一日の全てであるからである。
2018年5月1日火曜日
母の父への思い
私の母方の祖父は太平洋戦争で戦死した。
航空母艦の機関兵として、東シナ海で亡くなった。
記憶が正しければ、「雲龍」という航空母艦だったように思う。
魚雷攻撃を受けて、沈没前に機関室からデッキに出てきたが、艦と共に沈んだという。
祖父はもともと職業軍人だったが、退役して神戸で祖母と米屋を営んだ後、造船会社勤めをしていた。
幼い母と母の姉の娘二人と妻を残しての出征だった。
(写真は出征時のものではなく、若き日の現役時代)
ふと眠る前に、祖父がどんな思いで妻子を残し戦地に赴いたのだろうかと思うと泪がこぼれた。
私が村落調査で通った奄美与路島では、祖父母のタマシは孫に残していくと言われていた。
私自身も、父方、母方を問わず祖父母の思いが、自分たち孫に込められていると思っている。
時々、自分は戦死した母方の祖父の生まれ変わりであると思ってみたりする。
妻子を残して戦死した祖父が、孫として生まれ変わったとしたら、どうあるべきかということだ。
残された写真を見ると、私がその祖父に一番似ているわけでは無く、従兄弟の一人の方が余程似ている。
そのように孫がそれぞれ考えれば、自分の母親や伯母を大切にするだろうなと思ったりもする。
亡くなった祖母とは、孫たち皆は関わりが多かったが、晩年は老人施設に入って疎遠であったのが悔やまれる。
本来なら戦死という状況に関わらず、祖父母と孫はもっと身近な関係であった筈だと思う。
それはお墓参りという形だけでは無く、親子関係においての祖父母の存在の意味においてでもある。
これは、自分の子供に対しても、自分の父母の思いも考えるべきだと言うことになる。
親子がギクシャクした時には、その関係を補足してくれる場合もあるし、子供の子育ての補助であったりする。
無縁社会とは、そういう暮らしの関わりや、命や思いの繋がりさえ消えてしまう社会なのだろうか。
戦死した祖父を思うことは、大切にすべきことは何かを考えるきっかけになっている。
航空母艦の機関兵として、東シナ海で亡くなった。
記憶が正しければ、「雲龍」という航空母艦だったように思う。
魚雷攻撃を受けて、沈没前に機関室からデッキに出てきたが、艦と共に沈んだという。
祖父はもともと職業軍人だったが、退役して神戸で祖母と米屋を営んだ後、造船会社勤めをしていた。
幼い母と母の姉の娘二人と妻を残しての出征だった。
(写真は出征時のものではなく、若き日の現役時代)
ふと眠る前に、祖父がどんな思いで妻子を残し戦地に赴いたのだろうかと思うと泪がこぼれた。
私が村落調査で通った奄美与路島では、祖父母のタマシは孫に残していくと言われていた。
私自身も、父方、母方を問わず祖父母の思いが、自分たち孫に込められていると思っている。
時々、自分は戦死した母方の祖父の生まれ変わりであると思ってみたりする。
妻子を残して戦死した祖父が、孫として生まれ変わったとしたら、どうあるべきかということだ。
残された写真を見ると、私がその祖父に一番似ているわけでは無く、従兄弟の一人の方が余程似ている。
そのように孫がそれぞれ考えれば、自分の母親や伯母を大切にするだろうなと思ったりもする。
亡くなった祖母とは、孫たち皆は関わりが多かったが、晩年は老人施設に入って疎遠であったのが悔やまれる。
本来なら戦死という状況に関わらず、祖父母と孫はもっと身近な関係であった筈だと思う。
それはお墓参りという形だけでは無く、親子関係においての祖父母の存在の意味においてでもある。
これは、自分の子供に対しても、自分の父母の思いも考えるべきだと言うことになる。
親子がギクシャクした時には、その関係を補足してくれる場合もあるし、子供の子育ての補助であったりする。
無縁社会とは、そういう暮らしの関わりや、命や思いの繋がりさえ消えてしまう社会なのだろうか。
戦死した祖父を思うことは、大切にすべきことは何かを考えるきっかけになっている。
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