この台風12号が来るまでは、雨が全く降らず、人間も農作物も悲鳴を上げていた。
驚いたのは、里芋の葉が枯れている。
水を張ってあるところでも、マルチを張っているせいか、ところどころ焼かれたように枯れているのである。
うちの里芋も同じだが、周りに雑草が多いせいで温度が上がらないせいか、他と比べると枯れているのは少ない。
一番元気なのはトマトである。
こういう状態だったので、被害に遭われた方には気の毒には思うけれど、この台風は恵みの雨ともなった。
そして、久しぶりに外に出て爽やかさを感じさせてくれた。
明け方も、二階の寝室では扇風機を止めねばならないほど涼しくなった。
いつもは暑くて目が覚めるのに、少々寝過ごしてクロの散歩が食後になった。
いつもより一時間遅く散歩に出かけたが、それ程暑くも無く、蓮の花が見事に多く並んで咲いていた。
これまでは、暑さに耐えられずあまり咲いていなかったように思う。
大学生の頃に奄美大島の加計呂麻島に下見調査に行ったことがある。
その時の泊まった民宿の方から、「台風は来てもらわないと困る」と言われて驚いたことがある。
理由を聞くと、浜にいっぱいゴミがたまってくるので、それをさらってくれるからだという。
また、与路島の人との台風の話題でよく出ていたのは、本土では「なぜ、台風で死人が出るのか」ということだった。
奄美や沖縄などの台風常襲地帯では、台風の備えをしっかりしているので、人的被害はほとんどないというのである。
逆に、台風の来ない北海道出身者が大学の同級生にいたが、彼らは暴風雨の中で興奮して外に出かけたと聞いて呆れた。
彼らは台風の怖さを知っていなかった。
このところ、予想のつく台風より、予想のつきにくい集中豪雨のほうが被害が大きい。
また、酷暑による熱中症の死者などの人的被害を考えると、むしろ台風より脅威になっているのかも知れない。
酷暑は既に災害だというように報道されているが、暴風や大雨・洪水並みに警報を出して備えるべきなだろう。
世界中で覆う灼熱の被害は、既に我々がとんでもない時代に生きていることを実感させられる。
そのうち、とんでもない巨大な台風が襲ってきて、恵みの雨とは言えなくなるかも知れない。
日本近海で台風が迷走して、もう一度発達するなんて今まで考えられなかった。
もう、以前の日本本土では無いということを、肝に銘じておくべきなのだろう。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
ページビューの合計
2018年7月30日月曜日
2018年7月28日土曜日
じじいと呼ばないで
以前のブログで孫のようなスイミングの生徒の話を書いたが、実際に生徒から「おじいさん」と言われることがよくある。
ある生徒などは、自分の父親に対して私のことを「じじいコーチ」と説明していた。
黒いスイミングキャップをしているときは感じないようだが、キャップをとって白髪頭を見せるとあらためて言われる。
私より年齢の高いコーチもいるが、その人は黒髪だし、園児は担当していない。
たいていズバズバというのは、園児である。
聞くところによると、そのコーチも言われた経験があるそうだが、私のようにひん頻繁には言われていない。
本当に自分の子供にできた孫なら、「おじいさん」と言われると嬉しいだろう。
しかし、生徒から言われると、年寄り扱いされた感じで複雑な気持ちになる。
孫との関係から言われる「おじいさん」と、容貌から言われる「おじいさん」とではまるで意味が違うのである。
そういえば、電車の中で年寄り扱いされて、席を譲られると嫌がるお年寄りがいるという。
要するに、本人は体力に自信があっても、周りからは席を譲るべき容貌に見えるからだろう。
そして「じじいコーチ」と言われると、さすがに心穏やかではいられない。
外見上の対策も考えなくてはならないとも思えてくる。
それにしても、近所のその園児は誰からその言葉を教わったのだろうかが一番気になる。
以前の職場と違って、今度の職場は年配の人が多い。
特に私のように非正規の職員は年齢が高く、私は若い方である。
今は年金をもらいながらの人や、被扶養者の女性がアルバイトやパートを続けている人が今の職場では多い。
以前は若い独身の女性がスイミングコーチをしていたように思うが、今は人気が無くて人材不足だそうである。
スイミングスクールが置かれた環境が、以前とは大きく変わったからだと思われる。
ただ、退職後も務められる職場として残されていることも確かである。
体力的に無理な職場では無いと言うことである。
先日も泳ぎ仲間の方に久しぶりに会って、あまりに痩せているので驚いた。
その方は筋骨隆々の元気な方で、家島で行われるオープンウォーターの大会にも出るような人だった。
どうやら、自治会長を引き受けて無理をされたようである。
これは自分自身にもかなりショックだった。
いつまでも若くて体力に自信があると過信すれば、確実に衰えている体に負担がかかっていると言うことである。
自分自身アルギニンを飲んで、頑張っているがきっとどこかに負担を強いているのだろうと思う。
孫以外に「おじいさん」とは呼ばれたくはないが、「おじいさん」になりつつある自覚は必要なのだろう。
だから、無理は絶対禁物なのである。
そして、退職して年金もまだ支給されていない中途半端な我々は、関わる方もどう対処して良いか困るだろう。
年寄り扱いも、若者と同じ扱いもできない世代。
思春期ならぬ思秋期である。
過去の自分から脱皮して自分を試してみたいとも思った。
私は思春期につっぱっていたが、どうも思秋期でもつっぱって生きているようだ。
ヤンキーならぬヤンジーと呼ぶべきなのか・・・
ある生徒などは、自分の父親に対して私のことを「じじいコーチ」と説明していた。
黒いスイミングキャップをしているときは感じないようだが、キャップをとって白髪頭を見せるとあらためて言われる。
私より年齢の高いコーチもいるが、その人は黒髪だし、園児は担当していない。
たいていズバズバというのは、園児である。
聞くところによると、そのコーチも言われた経験があるそうだが、私のようにひん頻繁には言われていない。
本当に自分の子供にできた孫なら、「おじいさん」と言われると嬉しいだろう。
しかし、生徒から言われると、年寄り扱いされた感じで複雑な気持ちになる。
孫との関係から言われる「おじいさん」と、容貌から言われる「おじいさん」とではまるで意味が違うのである。
そういえば、電車の中で年寄り扱いされて、席を譲られると嫌がるお年寄りがいるという。
要するに、本人は体力に自信があっても、周りからは席を譲るべき容貌に見えるからだろう。
そして「じじいコーチ」と言われると、さすがに心穏やかではいられない。
外見上の対策も考えなくてはならないとも思えてくる。
それにしても、近所のその園児は誰からその言葉を教わったのだろうかが一番気になる。
以前の職場と違って、今度の職場は年配の人が多い。
特に私のように非正規の職員は年齢が高く、私は若い方である。
今は年金をもらいながらの人や、被扶養者の女性がアルバイトやパートを続けている人が今の職場では多い。
以前は若い独身の女性がスイミングコーチをしていたように思うが、今は人気が無くて人材不足だそうである。
スイミングスクールが置かれた環境が、以前とは大きく変わったからだと思われる。
ただ、退職後も務められる職場として残されていることも確かである。
体力的に無理な職場では無いと言うことである。
先日も泳ぎ仲間の方に久しぶりに会って、あまりに痩せているので驚いた。
その方は筋骨隆々の元気な方で、家島で行われるオープンウォーターの大会にも出るような人だった。
どうやら、自治会長を引き受けて無理をされたようである。
これは自分自身にもかなりショックだった。
いつまでも若くて体力に自信があると過信すれば、確実に衰えている体に負担がかかっていると言うことである。
自分自身アルギニンを飲んで、頑張っているがきっとどこかに負担を強いているのだろうと思う。
孫以外に「おじいさん」とは呼ばれたくはないが、「おじいさん」になりつつある自覚は必要なのだろう。
だから、無理は絶対禁物なのである。
そして、退職して年金もまだ支給されていない中途半端な我々は、関わる方もどう対処して良いか困るだろう。
年寄り扱いも、若者と同じ扱いもできない世代。
思春期ならぬ思秋期である。
過去の自分から脱皮して自分を試してみたいとも思った。
私は思春期につっぱっていたが、どうも思秋期でもつっぱって生きているようだ。
ヤンキーならぬヤンジーと呼ぶべきなのか・・・
2018年7月25日水曜日
ウナギのフルコース
いつからウナギを食べていないだろうか?
国産ウナギは高すぎるし、外国産ウナギは硬そうだし・・・
ウナギを食べなくても、サプリでアルギニンは摂っている。
国産ウナギ一匹の値段とサプリ120錠(一ヶ月分)は同じなのである。
でも、美味しく栄養が摂れるウナギに勝てるはずはない。
ウナギで思い出すのは、南山大学時代に人類学科の倉田勇先生(故人)と杉本良男先生にウナギのフルコースをご馳走になったことだ。
おそらく、お二人はボーナスが出たのだと思う。
貧しい学生を数名を誘ってくれて、ウナギの専門店に連れて行ってくれた。
その時に初めて二段重ねのうな重や、ウナギの肝のお吸い物、うな玉などを頂いた。
私はそれ以来、ウナギのフルコースは食べたことがない。
それはお金がないというのではなくて、フルコースを食べようと思う相手やきっかけがなかったからだ。
大学の先生は、貧しい学生を元気づけてやろうという親心だったのだと思う。
学部時代はゼミの指導教官であった杉本先生にはずいぶんご馳走になった。
当時は独身だった杉本先生は、ゼミ生をよく飲みに連れて行ってくれた。
また、私の下宿にもよく来てくれて、鍋をつついたりもしてくれた。
倉田先生も下宿に来てくれたことがあった。
その時にはゼミ生だったり、文化人類学研究会の部員がいたりした。
今から思うと大学の先生が学生の下宿先に訪れることは、当時でも珍しいことだったと思う。
私の下宿アパートは二間はあるけれど、風呂のない家賃1万円の安アパートだった。
名古屋の千種区の池下駅から歩いて10分ほどの距離で、仲間が集まりやすい場所にあった。
また、杉本先生の職員寮にもよく伺った。
当時は独身だったとは言え、よく学生を受け入れてくれたものだと思う。
当時の南山大学の人類学科にはそういう教師と学生の親密なふれあいがあった。
たぶん、そのふれあいが忘れられずに、今でも文化人類学を続けているのかも知れない。
自分は学生にウナギのフルコースをご馳走できるほどの立場にはない。
ただ、収入とは結びつかない文化人類学の研究にはウナギのフルコースの何十倍のお金と、時間を費やしている。
おかげで、家内にはウナギを食べさせてやれないのだが、幸いなことに家内はウナギより穴子の方が好きだ。
穴子ならたまに安くて美味しいのが手に入る。
こちらも高級品になりつつあるが、ウナギよりはましである。
ウナギのフルコースは良い思い出だけに残しておこう・・・
国産ウナギは高すぎるし、外国産ウナギは硬そうだし・・・
ウナギを食べなくても、サプリでアルギニンは摂っている。
国産ウナギ一匹の値段とサプリ120錠(一ヶ月分)は同じなのである。
でも、美味しく栄養が摂れるウナギに勝てるはずはない。
ウナギで思い出すのは、南山大学時代に人類学科の倉田勇先生(故人)と杉本良男先生にウナギのフルコースをご馳走になったことだ。
おそらく、お二人はボーナスが出たのだと思う。
貧しい学生を数名を誘ってくれて、ウナギの専門店に連れて行ってくれた。
その時に初めて二段重ねのうな重や、ウナギの肝のお吸い物、うな玉などを頂いた。
私はそれ以来、ウナギのフルコースは食べたことがない。
それはお金がないというのではなくて、フルコースを食べようと思う相手やきっかけがなかったからだ。
大学の先生は、貧しい学生を元気づけてやろうという親心だったのだと思う。
学部時代はゼミの指導教官であった杉本先生にはずいぶんご馳走になった。
当時は独身だった杉本先生は、ゼミ生をよく飲みに連れて行ってくれた。
また、私の下宿にもよく来てくれて、鍋をつついたりもしてくれた。
倉田先生も下宿に来てくれたことがあった。
その時にはゼミ生だったり、文化人類学研究会の部員がいたりした。
今から思うと大学の先生が学生の下宿先に訪れることは、当時でも珍しいことだったと思う。
私の下宿アパートは二間はあるけれど、風呂のない家賃1万円の安アパートだった。
名古屋の千種区の池下駅から歩いて10分ほどの距離で、仲間が集まりやすい場所にあった。
また、杉本先生の職員寮にもよく伺った。
当時は独身だったとは言え、よく学生を受け入れてくれたものだと思う。
当時の南山大学の人類学科にはそういう教師と学生の親密なふれあいがあった。
たぶん、そのふれあいが忘れられずに、今でも文化人類学を続けているのかも知れない。
自分は学生にウナギのフルコースをご馳走できるほどの立場にはない。
ただ、収入とは結びつかない文化人類学の研究にはウナギのフルコースの何十倍のお金と、時間を費やしている。
おかげで、家内にはウナギを食べさせてやれないのだが、幸いなことに家内はウナギより穴子の方が好きだ。
穴子ならたまに安くて美味しいのが手に入る。
こちらも高級品になりつつあるが、ウナギよりはましである。
ウナギのフルコースは良い思い出だけに残しておこう・・・
2018年7月23日月曜日
故障の連鎖と復活
パソコン、洗濯機、除湿機、電子レンジ、エンジンポンプ、プリンター、冷蔵庫、エアコン、食器乾燥機
これらはほぼここ一年間の中で、故障や不具合を起こしたもので、買い換えたり、買わずに我慢したり、修理したものである。
電器製品はどういうわけか、10年毎に計ったように壊れると良く言われた。
冷蔵庫や洗濯機などの家電は結婚したときにまとめて買うので、同じような周期で壊れるのも分かる。
しかし、パソコン関係やエアコン等は結婚や引っ越しとは無関係であった。
エアコンに関しては3年前に購入した物であったが、室外機が故障してしまった。
ずっと昔に買ったエアコンは頑張って動いてくれているのに、最新の機能をもつエアコンの方が早く故障した。
イメージとしては、昔の単純な機能のほうが故障に強い感じだ。
ひょっとしたら、去年の冬の異常な寒さと、この夏の異常な暑さが原因なのだろうか?
パソコンに関しては、一番長持ちしていたのはデスクトップ型のエディキューブだった。
次に長持ちしているのは、ノート型のレッツノートである。
これはドライブもついていなくて、一度不具合を起こして初期化を自分で行った。
それでも使い続けているのは、WindowsXPをスタンドアローンで使っているからである。
と言うのも、私が一番頼りにしているソフトは、OCRソフトの『読んでココ』である。
自分の研究活動には欠かせない優れものである。
ところが製造販売が中止され、以前のWindows7では不具合を起こして使えなかった。
そこでずっとレッツノートやエディキューブを使い続けていた。
今回一か八かで、最新のWindows10で試して見た。
驚くことに、今のところ順調に使えている。
もし、これから順調に使っていけるのなら、レッツノートが壊れても大丈夫である。
もし、使えなくなったら、中古のパソコンにXPをインストールして使おうかとも思っていた。
『読んでココ』のように、優れたソフトでありながら、消えてしまうソフトがあるのは残念だ。
『読み取り革命』も試したが、『読んでココ』には叶わない。
しかも、『読み取り革命』はバージョンアップをあまりしていない。
おそらく今の時代はPDFなどを使う人が多いので、需要が少ないのだろうと思う。
OCRも本格的な手書きの読み取りの時代になっているのだろう。
また、音声入力が優れていれば、活字を読み上げて入力する方が早いかも知れない。
そろそろ新しい方法に乗り換える時期なのかも知れない。
現実にワープロはよく使う一太郎では、iPadで使えないし、クラウド機能対応がイマイチである。
私はいつの間にか、ワープロ専用機を使い続ける昔の研究者と同じになっているのかも知れない。
パソコンに限らず、電器製品などは長持ちさせる時代は終わり、ネット環境や破綻気象に耐えうる製品に買い換える時代になっているかもしれない。
ただ、時代を超えて良いものはずっと使い続けるぞ・・・
これらはほぼここ一年間の中で、故障や不具合を起こしたもので、買い換えたり、買わずに我慢したり、修理したものである。
電器製品はどういうわけか、10年毎に計ったように壊れると良く言われた。
冷蔵庫や洗濯機などの家電は結婚したときにまとめて買うので、同じような周期で壊れるのも分かる。
しかし、パソコン関係やエアコン等は結婚や引っ越しとは無関係であった。
エアコンに関しては3年前に購入した物であったが、室外機が故障してしまった。
ずっと昔に買ったエアコンは頑張って動いてくれているのに、最新の機能をもつエアコンの方が早く故障した。
イメージとしては、昔の単純な機能のほうが故障に強い感じだ。
ひょっとしたら、去年の冬の異常な寒さと、この夏の異常な暑さが原因なのだろうか?
パソコンに関しては、一番長持ちしていたのはデスクトップ型のエディキューブだった。
次に長持ちしているのは、ノート型のレッツノートである。
これはドライブもついていなくて、一度不具合を起こして初期化を自分で行った。
それでも使い続けているのは、WindowsXPをスタンドアローンで使っているからである。
と言うのも、私が一番頼りにしているソフトは、OCRソフトの『読んでココ』である。
自分の研究活動には欠かせない優れものである。
ところが製造販売が中止され、以前のWindows7では不具合を起こして使えなかった。
そこでずっとレッツノートやエディキューブを使い続けていた。
今回一か八かで、最新のWindows10で試して見た。
驚くことに、今のところ順調に使えている。
もし、これから順調に使っていけるのなら、レッツノートが壊れても大丈夫である。
もし、使えなくなったら、中古のパソコンにXPをインストールして使おうかとも思っていた。
『読んでココ』のように、優れたソフトでありながら、消えてしまうソフトがあるのは残念だ。
『読み取り革命』も試したが、『読んでココ』には叶わない。
しかも、『読み取り革命』はバージョンアップをあまりしていない。
おそらく今の時代はPDFなどを使う人が多いので、需要が少ないのだろうと思う。
OCRも本格的な手書きの読み取りの時代になっているのだろう。
また、音声入力が優れていれば、活字を読み上げて入力する方が早いかも知れない。
そろそろ新しい方法に乗り換える時期なのかも知れない。
現実にワープロはよく使う一太郎では、iPadで使えないし、クラウド機能対応がイマイチである。
私はいつの間にか、ワープロ専用機を使い続ける昔の研究者と同じになっているのかも知れない。
パソコンに限らず、電器製品などは長持ちさせる時代は終わり、ネット環境や破綻気象に耐えうる製品に買い換える時代になっているかもしれない。
ただ、時代を超えて良いものはずっと使い続けるぞ・・・
2018年7月21日土曜日
孫のようなスイミング生徒
私は青少年教育センター閑谷学校を辞めた後、しばらくしてスポーツセンターでアルバイトを始めた。
そこでの主な仕事は、温水室内プールでの水泳指導である。
水泳は、高校や特別支援学校でクラブ指導などで関わってきたので、その経験を活かそうと思った。
しかし、高校などで選手を教えるのと、スイミングで生徒を教えるのでは大違いで悪戦苦闘をしている。
ベテランのコーチの指導方法や話術を学ぶことが今の大切な仕事になっている。
これは学校の教師が教科を教えるのと同じであり、自分が理解しているのと生徒に教えるのは違うのと同じである。
水泳部の顧問の時は、全く泳げない生徒はいなかったし、初心者は部員が教える手助けをしてくれた。
しかも、幼稚園児から小学校6年生まで教えることになるのだから、保育士から小学校教師を兼ねるのと同じである。
そして、成人や高齢者とも関わることになるので、学校教師の枠を超えてしまう。
その上、スポーツセンターでは水泳の指導だけでなく、施設管理や事務経理をしなくてはいけない。
学校で言えば教師と事務員と、校務員を兼ねるのと同じになる。
これは社会教育施設の閑谷学校以上の仕事である。
なぜなら、閑谷学校では経理については、総務としての人員が専門に確保されていた。
自分としてありがたかったのは、収入は大きく減ったが、自由に使える時間が増えたことである。
出勤時間も遅くなり、毎朝クロの散歩もできるし、曜日によっては研究時間持てるようになった。
そして、何よりも汗かきの私には、プールの中の仕事がありがたい。
外の温度が高くて38℃近くあっても、水温は31℃くらいに維持されている。
私は水泳の経験もあったし、学校の冷たいプールで鍛えられているので、水の中には慣れている。
ただ、一日中水に漬かっていると、それ以上に泳ぐ練習をしたいという気持ちはあまりなくなった。
そんな中、幼稚園児を教えているクラスの終わりに、保護者のお母さんから声をかけられた。
高校勤務の時の教え子だった。
つまり、生徒の中に教え子の娘さんが混じっていたのである。
声をかけられて、元教え子だと分かったのだが、実は殆ど教え子には声をかけられないと、分からないことが多い。
見覚えのある顔でも、様子が変わっているので自信が無いのである。
だから、自分の方から声はかけられない。
しかも、顔は覚えているのだが、担任したりクラブで関わった生徒、よほど印象があった生徒以外は、名前を憶えていない。
今回も、担任した学年の生徒だったが、授業だけで関わった教え子だったし、結婚して苗字も変わっていたので本人から聞かねばならなかった。
教え子は私の日本史の授業でのことも良く憶えてくれていたので嬉しかった。
私にはまだ孫はいないのだが、教え子の子供は孫のような存在である。
プールが始まる前や終わりの自由時間は、その孫のような園児とお話をしたり、遊んだりする。
どちらかというと、学校ではいかつい怖そうな教師の顔も見せていたのだが、優しいお兄(爺)さんになっている。
特別支援学校でも、生徒と遊ぶのが仕事の一つになっていたが、ここでもそれが大切な仕事である。
この業界の色々な問題も知っているし、今の現場でもそれが見えてきているのだが、体験したかった仕事なので頑張ってやりたいと思っている。
どこまで体力が続くか分からないけれど・・・・
そこでの主な仕事は、温水室内プールでの水泳指導である。
水泳は、高校や特別支援学校でクラブ指導などで関わってきたので、その経験を活かそうと思った。
しかし、高校などで選手を教えるのと、スイミングで生徒を教えるのでは大違いで悪戦苦闘をしている。
ベテランのコーチの指導方法や話術を学ぶことが今の大切な仕事になっている。
これは学校の教師が教科を教えるのと同じであり、自分が理解しているのと生徒に教えるのは違うのと同じである。
水泳部の顧問の時は、全く泳げない生徒はいなかったし、初心者は部員が教える手助けをしてくれた。
しかも、幼稚園児から小学校6年生まで教えることになるのだから、保育士から小学校教師を兼ねるのと同じである。
そして、成人や高齢者とも関わることになるので、学校教師の枠を超えてしまう。
その上、スポーツセンターでは水泳の指導だけでなく、施設管理や事務経理をしなくてはいけない。
学校で言えば教師と事務員と、校務員を兼ねるのと同じになる。
これは社会教育施設の閑谷学校以上の仕事である。
なぜなら、閑谷学校では経理については、総務としての人員が専門に確保されていた。
自分としてありがたかったのは、収入は大きく減ったが、自由に使える時間が増えたことである。
出勤時間も遅くなり、毎朝クロの散歩もできるし、曜日によっては研究時間持てるようになった。
そして、何よりも汗かきの私には、プールの中の仕事がありがたい。
外の温度が高くて38℃近くあっても、水温は31℃くらいに維持されている。
私は水泳の経験もあったし、学校の冷たいプールで鍛えられているので、水の中には慣れている。
ただ、一日中水に漬かっていると、それ以上に泳ぐ練習をしたいという気持ちはあまりなくなった。
そんな中、幼稚園児を教えているクラスの終わりに、保護者のお母さんから声をかけられた。
高校勤務の時の教え子だった。
つまり、生徒の中に教え子の娘さんが混じっていたのである。
声をかけられて、元教え子だと分かったのだが、実は殆ど教え子には声をかけられないと、分からないことが多い。
見覚えのある顔でも、様子が変わっているので自信が無いのである。
だから、自分の方から声はかけられない。
しかも、顔は覚えているのだが、担任したりクラブで関わった生徒、よほど印象があった生徒以外は、名前を憶えていない。
今回も、担任した学年の生徒だったが、授業だけで関わった教え子だったし、結婚して苗字も変わっていたので本人から聞かねばならなかった。
教え子は私の日本史の授業でのことも良く憶えてくれていたので嬉しかった。
私にはまだ孫はいないのだが、教え子の子供は孫のような存在である。
プールが始まる前や終わりの自由時間は、その孫のような園児とお話をしたり、遊んだりする。
どちらかというと、学校ではいかつい怖そうな教師の顔も見せていたのだが、優しいお兄(爺)さんになっている。
特別支援学校でも、生徒と遊ぶのが仕事の一つになっていたが、ここでもそれが大切な仕事である。
この業界の色々な問題も知っているし、今の現場でもそれが見えてきているのだが、体験したかった仕事なので頑張ってやりたいと思っている。
どこまで体力が続くか分からないけれど・・・・
2018年7月19日木曜日
ミストと生け垣効果
この破綻気象の影響で、連日高温が続いている。
現在アルバイトをしている温水室内プールでは、午後になると37℃を超える暑さだ。
私はプールの中に入っているので、31℃の水温で何とかしのげている。
気の毒なのは監視員の方である。
扇風機をそばに置いているとはいえ、じっとしているのは大変な苦労である。
しかし、一日中水の中に入っていることも、結構体力を消耗することになる。
我が家では二階のベランダには、西側の部屋の前にミストを設置している。
その下には、ビワ、ガジュマルやアロエが置いてあって、何とか暑さをしのがさせている。
一日中水は出しっぱなしだが、午後には涼しく感じることはない。
ただ、ベランダはいつも水を撒いている状態なので、何もしないよりはましなのである。
一番気の毒なのは、クロである。
居間の冷房の室外機の傍に犬小屋があるからだ。
今日は小屋の前の日陰で、舌をべろーんと出して辛そうにしていたので、小屋の下にブロックを積んで日陰を作った。
そして、もう一つのミストを犬小屋の上に設置した。
犬小屋付近は水に覆われているが、これで少しはましであろう。
我が家はまだ暑さがましなのは、家の周りに生け垣があるからだ。
眠るときは二階の東側の部屋を使っているが、エアコンはない。
それでも扇風機だけで何とか眠られている。
上郡に住んでいる人に聞いても、夜はエアコンをつけて寝ていると多くの人が言う。
我が家の暑さはましな方なのだと思う。
ただ、セミが居着いて鳴いているので、近所迷惑かも知れない。
今は少なくなったニイニイゼミも朝夕には鳴いているが、昼間はあまり鳴かない。
蚊もセミも暑さに負けているのだろう。
でも、本当に辛い思いしているのは災害被災者なのだろうと思う。
現在アルバイトをしている温水室内プールでは、午後になると37℃を超える暑さだ。
私はプールの中に入っているので、31℃の水温で何とかしのげている。
気の毒なのは監視員の方である。
扇風機をそばに置いているとはいえ、じっとしているのは大変な苦労である。
しかし、一日中水の中に入っていることも、結構体力を消耗することになる。
我が家では二階のベランダには、西側の部屋の前にミストを設置している。
その下には、ビワ、ガジュマルやアロエが置いてあって、何とか暑さをしのがさせている。
一日中水は出しっぱなしだが、午後には涼しく感じることはない。
ただ、ベランダはいつも水を撒いている状態なので、何もしないよりはましなのである。
一番気の毒なのは、クロである。
居間の冷房の室外機の傍に犬小屋があるからだ。
今日は小屋の前の日陰で、舌をべろーんと出して辛そうにしていたので、小屋の下にブロックを積んで日陰を作った。
そして、もう一つのミストを犬小屋の上に設置した。
犬小屋付近は水に覆われているが、これで少しはましであろう。
我が家はまだ暑さがましなのは、家の周りに生け垣があるからだ。
眠るときは二階の東側の部屋を使っているが、エアコンはない。
それでも扇風機だけで何とか眠られている。
上郡に住んでいる人に聞いても、夜はエアコンをつけて寝ていると多くの人が言う。
我が家の暑さはましな方なのだと思う。
ただ、セミが居着いて鳴いているので、近所迷惑かも知れない。
今は少なくなったニイニイゼミも朝夕には鳴いているが、昼間はあまり鳴かない。
蚊もセミも暑さに負けているのだろう。
でも、本当に辛い思いしているのは災害被災者なのだろうと思う。
2018年7月17日火曜日
暑死と暑害の虞れ
今日(7/15)は朝から村作業で、広場の草刈りがあった。
私は作業服の下に、暑さ対策の下着を着けて臨んだ。
これはWorkmanで買ったコンプレッションである。
汗を多くかくときには、普通の下着だと肌にまとわりつき、熱がこもってしまう。
コンプレッションを着ると、上着との間に隙間もできて、涼しさを感じさせてくれていた。
しかし、上着までいっぱい汗を含んでしまうと、上着がまとわりつくのでその効果が半減してしまった。
作業している人の中には、半袖のTシャツの姿もいるが、私は蚊に刺されやすいタイプなのでそれはできない。
この村作業が終わり、自宅の庭や畑を掃除した。
それは壊れかけた冷蔵庫を買い換えたので、それを運び入れるためである。
普通なら、体に限界を感じて作業は終了するのだが、冷蔵庫を入れるための作業はそれができない。
限界を超えて作業を継続してしまった。
それには、村作業をしていたときに、途中で出されたスポーツ飲料への過信もあった。
作業を終えた後は、水分を多くとったが、頭痛がして気分は悪いまま。
軽い熱中症の症状であることは間違いない。
以前には、無理してジャガイモ掘りをして、震えが来るほどの熱中症になった。
とにかく、涼しい部屋でゆっくり休むことにした。
そして、何とか冷蔵庫を運び入れる作業を、業者と一緒に終えてほっとした。
その後しばらく、体を休めていたので夕方頃には何とか体調も回復してくれた。
今回はこの程度で済んだので良かったが、しっかり暑さに対して対策をしないと、取り返しがつかなくなる。
マスコミの報道で、部活中に無理な練習をさせて倒れて病院搬送されたニュースが流された。
兵庫県ではかつて、部活中に熱中症で倒れて、寝たきりになってしまった高校生の例もある。
教師は、自分たちが部活動をしていた時代と、今は違うのだと認識すべきだと思う。
それは気象が大きく変わったことと、生徒はあまり汗をかかなくなったということだ。
たぶん、生徒が汗をかかなくなったのは、冷房の効いた部屋で大きくなってきたからだと思う。
前に働いていた職場では、20歳代の人と一緒に働いていたが、私が一人汗をかいていた。
汗をかいていないと、作業は楽そうに見えるのだが、実は結構、体にこたえている。
20歳代の人は、極力冷房の効いた部屋での仕事をしていたように思う。
これからは、スポーツも仕事も暑さ対策を真剣に考えて行わねばならないと思う。
暑死するのは今は高齢者だが、今後暑害者になる若者が増え続けてしまう。
私は作業服の下に、暑さ対策の下着を着けて臨んだ。
これはWorkmanで買ったコンプレッションである。
汗を多くかくときには、普通の下着だと肌にまとわりつき、熱がこもってしまう。
コンプレッションを着ると、上着との間に隙間もできて、涼しさを感じさせてくれていた。
しかし、上着までいっぱい汗を含んでしまうと、上着がまとわりつくのでその効果が半減してしまった。
作業している人の中には、半袖のTシャツの姿もいるが、私は蚊に刺されやすいタイプなのでそれはできない。
この村作業が終わり、自宅の庭や畑を掃除した。
それは壊れかけた冷蔵庫を買い換えたので、それを運び入れるためである。
普通なら、体に限界を感じて作業は終了するのだが、冷蔵庫を入れるための作業はそれができない。
限界を超えて作業を継続してしまった。
それには、村作業をしていたときに、途中で出されたスポーツ飲料への過信もあった。
作業を終えた後は、水分を多くとったが、頭痛がして気分は悪いまま。
軽い熱中症の症状であることは間違いない。
以前には、無理してジャガイモ掘りをして、震えが来るほどの熱中症になった。
とにかく、涼しい部屋でゆっくり休むことにした。
そして、何とか冷蔵庫を運び入れる作業を、業者と一緒に終えてほっとした。
その後しばらく、体を休めていたので夕方頃には何とか体調も回復してくれた。
今回はこの程度で済んだので良かったが、しっかり暑さに対して対策をしないと、取り返しがつかなくなる。
マスコミの報道で、部活中に無理な練習をさせて倒れて病院搬送されたニュースが流された。
兵庫県ではかつて、部活中に熱中症で倒れて、寝たきりになってしまった高校生の例もある。
教師は、自分たちが部活動をしていた時代と、今は違うのだと認識すべきだと思う。
それは気象が大きく変わったことと、生徒はあまり汗をかかなくなったということだ。
たぶん、生徒が汗をかかなくなったのは、冷房の効いた部屋で大きくなってきたからだと思う。
前に働いていた職場では、20歳代の人と一緒に働いていたが、私が一人汗をかいていた。
汗をかいていないと、作業は楽そうに見えるのだが、実は結構、体にこたえている。
20歳代の人は、極力冷房の効いた部屋での仕事をしていたように思う。
これからは、スポーツも仕事も暑さ対策を真剣に考えて行わねばならないと思う。
暑死するのは今は高齢者だが、今後暑害者になる若者が増え続けてしまう。
2018年7月12日木曜日
椿峠の通行止め
兵庫県道5号姫路上郡線の上郡と相生との境にある椿峠が、土砂崩れによって通行止めになっている。
ここは以前もちょうど峠の一番高い所が崩落して長い間通行止めになったことがある、
今回は村からも見えるところで、それほど大したことが無さそうである。
いつもは朝夕の通勤時間帯は交通量が多く、クロの散歩で横断するのにも渡りづらかった。
先日来、殆ど車の行き来がなく、正月元旦よりもあたりは静かな村になっている。
近所のローソンも近くの人が利用する程度で、開店休業の感じである。
私は車の通らない広い道路を、滅多にないからクロの散歩で堂々と往来している。
不思議なもので、車は殆ど通らないと分かっていても、散歩する人は歩道を歩く。
多くの幹線道路は車の通るところであって、人が通るところでは無いのである。
そういえば勤めていた閑谷学校には、車の進入を禁止している道路があった。
今はそこを「論語の小径(こみち)」と名付けている。
車は絶対通らないようにしているわけではなく、必要なときは車も通る。
ただ、人と動物が優先されている。
昼間から鹿が道路端で草を食んでいる。
時々アナグマも溝を走り抜けていった。
こういう道は村でも少なからずある。
今は県道姫上線がそれに近い状態なのである。
考えてみれば、シティーマラソンは人だけが幹線道路を走れる良い機会だ。
参加費用は高いし、多くのスタッフの労力を有するが、宣伝効果や地域の活性化につながる。
自然災害は、物流を止めて損害を地域住民に強いているのだから、負担が大きいが得るところは殆ど無い。
ただ、私のように地元だけの生活をしている者にとっては、不便と感じながらも何故か和む生活の機会でもある。
ずっと続いて欲しいわけではないが・・・
因みに近くの池ではきれいな蓮が咲いてます。
ここは以前もちょうど峠の一番高い所が崩落して長い間通行止めになったことがある、
今回は村からも見えるところで、それほど大したことが無さそうである。
いつもは朝夕の通勤時間帯は交通量が多く、クロの散歩で横断するのにも渡りづらかった。
先日来、殆ど車の行き来がなく、正月元旦よりもあたりは静かな村になっている。
近所のローソンも近くの人が利用する程度で、開店休業の感じである。
私は車の通らない広い道路を、滅多にないからクロの散歩で堂々と往来している。
不思議なもので、車は殆ど通らないと分かっていても、散歩する人は歩道を歩く。
多くの幹線道路は車の通るところであって、人が通るところでは無いのである。
そういえば勤めていた閑谷学校には、車の進入を禁止している道路があった。
今はそこを「論語の小径(こみち)」と名付けている。
車は絶対通らないようにしているわけではなく、必要なときは車も通る。
ただ、人と動物が優先されている。
昼間から鹿が道路端で草を食んでいる。
時々アナグマも溝を走り抜けていった。
こういう道は村でも少なからずある。
今は県道姫上線がそれに近い状態なのである。
考えてみれば、シティーマラソンは人だけが幹線道路を走れる良い機会だ。
参加費用は高いし、多くのスタッフの労力を有するが、宣伝効果や地域の活性化につながる。
自然災害は、物流を止めて損害を地域住民に強いているのだから、負担が大きいが得るところは殆ど無い。
ただ、私のように地元だけの生活をしている者にとっては、不便と感じながらも何故か和む生活の機会でもある。
ずっと続いて欲しいわけではないが・・・
因みに近くの池ではきれいな蓮が咲いてます。
2018年7月9日月曜日
梅雨末期の豪雨
この数日の豪雨はかつて経験のないものだった。
集中豪雨としてある地域が、未曾有の災害に見舞われることは以前にもあった。
新聞では同時多発と表現していたが、西日本全域が影響を受けた。
いずれ科学的な検証がなされるだろうとは思うけど、明らかに危機的時代が訪れたように思える。
これまでずっと地球の温暖化によって、海洋水が深層部まで温められていることが報告されていた。
その巨大な熱エネルギーが、太平洋高気圧として、また台風として襲いかかっているように思えてならない。
この災害報道の中、オウム真理教死刑囚の死刑執行のニュースが流れた。
私は地下鉄サリン事件と阪神大震災を重ねて思い出すことが多い。
天災とテロという社会不安が同時に起きた年のように覚えている。
7人もの死刑囚が同時に刑の執行というのは、ある意味で怖さを感じる。
なぜ東大や京大というような最高峰の大学を出たエリートがテロ集団になったのか?
その闇の部分が伏せられたまま、闇に葬られていくような気がする。
今回は執行されていないが、この事件に関わる戦後初の東大出の死刑囚が、県内の高校の卒業生だけに人ごとに思えない。
今日、村の会合で隣に座っていたある人が、京都大学のネームの入ったシャープペンシルを見せて自慢した。
孫が京都大学に在籍しているという。
私は自分の甥が京都大学を卒業して今はパイロットをしていると言うと、そう言う所に就職できたら良いけどと口を濁した。
そこで、オウム真理教の死刑執行の話を持ち出すことになってしまった。
かつて大阪大学出身の私の弟は、新興宗教に凝っていたた時があった。
そのことが元で、しばらく関わりを無くしたこともあった。
私には理系の基礎工学を出たエリートが、信仰心を厚くするのが理解できなかったが精神的に追い詰められていることは感じていた。
私は村落調査で呪術やシャーマニズムの世界に触れる機会が多かったけれど、自分では信仰しなかった。
母方の祖母がよくそういう話をしていたので、自然に受け入れられたが、自らその世界にのめり込むことはなかった。
ただ、科学的根拠に基づいた地球環境の最終段階は信じている。
人類文明と地球環境の折り合いがつかない現代の不安は皆が抱えていると思う。
まさしくこの豪雨はその不安をさらに強くしたように感じる。
集中豪雨としてある地域が、未曾有の災害に見舞われることは以前にもあった。
新聞では同時多発と表現していたが、西日本全域が影響を受けた。
いずれ科学的な検証がなされるだろうとは思うけど、明らかに危機的時代が訪れたように思える。
これまでずっと地球の温暖化によって、海洋水が深層部まで温められていることが報告されていた。
その巨大な熱エネルギーが、太平洋高気圧として、また台風として襲いかかっているように思えてならない。
この災害報道の中、オウム真理教死刑囚の死刑執行のニュースが流れた。
私は地下鉄サリン事件と阪神大震災を重ねて思い出すことが多い。
天災とテロという社会不安が同時に起きた年のように覚えている。
7人もの死刑囚が同時に刑の執行というのは、ある意味で怖さを感じる。
なぜ東大や京大というような最高峰の大学を出たエリートがテロ集団になったのか?
その闇の部分が伏せられたまま、闇に葬られていくような気がする。
今回は執行されていないが、この事件に関わる戦後初の東大出の死刑囚が、県内の高校の卒業生だけに人ごとに思えない。
今日、村の会合で隣に座っていたある人が、京都大学のネームの入ったシャープペンシルを見せて自慢した。
孫が京都大学に在籍しているという。
私は自分の甥が京都大学を卒業して今はパイロットをしていると言うと、そう言う所に就職できたら良いけどと口を濁した。
そこで、オウム真理教の死刑執行の話を持ち出すことになってしまった。
かつて大阪大学出身の私の弟は、新興宗教に凝っていたた時があった。
そのことが元で、しばらく関わりを無くしたこともあった。
私には理系の基礎工学を出たエリートが、信仰心を厚くするのが理解できなかったが精神的に追い詰められていることは感じていた。
私は村落調査で呪術やシャーマニズムの世界に触れる機会が多かったけれど、自分では信仰しなかった。
母方の祖母がよくそういう話をしていたので、自然に受け入れられたが、自らその世界にのめり込むことはなかった。
ただ、科学的根拠に基づいた地球環境の最終段階は信じている。
人類文明と地球環境の折り合いがつかない現代の不安は皆が抱えていると思う。
まさしくこの豪雨はその不安をさらに強くしたように感じる。
2018年7月7日土曜日
講堂学習と史跡見学
閑谷学校の指導員としての仕事の中で、他の研修施設と大きく違うのは講堂など歴史史跡に関わることだった。
結局、講堂学習では論語の指導はしなかったが、掃除での箒と雑巾指導を行った。
史跡見学では、日本史の教師の本領を発揮というよりか、私独自のやりかたでやらせてもらった。
結構長い時間説明する場合もあって、山を登り目隠しをして降りてくるブラインドツアーよりも大変だったこともあった。
しかし、何よりも自分らしさを出すことができる仕事だった。
因みにこのときには閑谷学校でかつて学んだ大鳥圭介のことをよく話をした。
大鳥圭介は上郡ではよく知られた人物だが、近隣の市町村でもあまり知られていない。
年配の人は漫才師の鳳啓助はよく知られているが、彼が大鳥圭介を尊敬して芸名にしたことは知らない。
閑谷学校の史跡にも卒業した偉人のことをパネルで紹介しているが、三木露風はあっても大鳥圭介は紹介していない。
だから、あえて大鳥圭介を紹介することが多かった。
自分は大鳥圭介にはそれほど思い入れはないけれど、薩長びいきの歴史観にはずっと疑念を抱いていた。
(私が奄美びいきで、その植民地支配の実態を知っているせいでもある)
だから、司馬遼太郎のように大鳥圭介をこき下ろす、小説家には反感さえ抱くことになった。
私は幕末の薩長の役割は評価するが、結局日本を破滅させアメリカの従属国家にさせた責任の多くがあると思っている。
特に軍部の中枢を握り続けていた薩長を中心とした藩閥の責任は大きいと思っている。
大鳥圭介は結果的には明治政府に協力して日本の近代化に貢献するが、それまでの不器用な生き様は親近感がわく。
その大鳥圭介は閑谷学校の椿谷へ深夜に行って、胆力を鍛えていたというのだから面白い。
因みに、研修センターの宿直に関わって、歴史を背負っているだけに怪奇話が多かった。
閑谷学校の担った教育の歴史に関しては、まだ十分に学んではいないが、非常に興味深い。
特に赤穂からは塩田地主を中心として、多くの生徒が学んでいる。
藩を超えて非武士のエリート教育を担った閑谷学校の役割をきちっと評価するべきだと思っている。
閑谷学校は約350年の歴史をもつ講堂を中心とした史跡そのもの価値を高く評価されている。
それはそれとして、儒教というものがはたしてどのように地域社会に影響を与えたのかも知りたいと思っている。
もう一つ面白いのは、中心となる孔子廟の東隣に藩主池田家の閑谷神社、さらにその東側に創立者池田光政の遺髪などを納めた塚が椿谷にあることだ。
儒教と神道と心霊が同居している場所であることはいかにも日本らしい。
朝鮮半島の郷学には孔子を祀る祀堂があったようだが、それ以外に祀っていたのだろうか?
ある意味で私の母校淳心や南山大学は傍に教会があったが、それに並列させて神社やお寺を建てるのと同じになる。
因みに南山大学では地鎮祭はちゃんと神父さんが行った。
まさしく、閑谷学校は神仏習合ならぬ神儒習合の学校なのである。
結局、講堂学習では論語の指導はしなかったが、掃除での箒と雑巾指導を行った。
史跡見学では、日本史の教師の本領を発揮というよりか、私独自のやりかたでやらせてもらった。
結構長い時間説明する場合もあって、山を登り目隠しをして降りてくるブラインドツアーよりも大変だったこともあった。
しかし、何よりも自分らしさを出すことができる仕事だった。
因みにこのときには閑谷学校でかつて学んだ大鳥圭介のことをよく話をした。
大鳥圭介は上郡ではよく知られた人物だが、近隣の市町村でもあまり知られていない。
年配の人は漫才師の鳳啓助はよく知られているが、彼が大鳥圭介を尊敬して芸名にしたことは知らない。
閑谷学校の史跡にも卒業した偉人のことをパネルで紹介しているが、三木露風はあっても大鳥圭介は紹介していない。
だから、あえて大鳥圭介を紹介することが多かった。
自分は大鳥圭介にはそれほど思い入れはないけれど、薩長びいきの歴史観にはずっと疑念を抱いていた。
(私が奄美びいきで、その植民地支配の実態を知っているせいでもある)
だから、司馬遼太郎のように大鳥圭介をこき下ろす、小説家には反感さえ抱くことになった。
私は幕末の薩長の役割は評価するが、結局日本を破滅させアメリカの従属国家にさせた責任の多くがあると思っている。
特に軍部の中枢を握り続けていた薩長を中心とした藩閥の責任は大きいと思っている。
大鳥圭介は結果的には明治政府に協力して日本の近代化に貢献するが、それまでの不器用な生き様は親近感がわく。
その大鳥圭介は閑谷学校の椿谷へ深夜に行って、胆力を鍛えていたというのだから面白い。
因みに、研修センターの宿直に関わって、歴史を背負っているだけに怪奇話が多かった。
閑谷学校の担った教育の歴史に関しては、まだ十分に学んではいないが、非常に興味深い。
特に赤穂からは塩田地主を中心として、多くの生徒が学んでいる。
藩を超えて非武士のエリート教育を担った閑谷学校の役割をきちっと評価するべきだと思っている。
閑谷学校は約350年の歴史をもつ講堂を中心とした史跡そのもの価値を高く評価されている。
それはそれとして、儒教というものがはたしてどのように地域社会に影響を与えたのかも知りたいと思っている。
もう一つ面白いのは、中心となる孔子廟の東隣に藩主池田家の閑谷神社、さらにその東側に創立者池田光政の遺髪などを納めた塚が椿谷にあることだ。
儒教と神道と心霊が同居している場所であることはいかにも日本らしい。
朝鮮半島の郷学には孔子を祀る祀堂があったようだが、それ以外に祀っていたのだろうか?
ある意味で私の母校淳心や南山大学は傍に教会があったが、それに並列させて神社やお寺を建てるのと同じになる。
因みに南山大学では地鎮祭はちゃんと神父さんが行った。
まさしく、閑谷学校は神仏習合ならぬ神儒習合の学校なのである。
2018年7月4日水曜日
世代を超えるサッカー
私が目を覚ましたのは、W・CUPのベルギー戦の前半終了間際だった。
幸いなことに両者とも点数が入っておらず、これからという時だった。
そして、日本が得点した時には思わず拍手を、一緒に見ていた息子としてしまった。
二階で眠っていた家内が、居間に降りてきて「目が覚めてしまった」と不満を漏らし、トイレに行ってからまた二階に上がった。
だから、二点目は静かに手を叩いた。
そういえば、以前は隣の家からも拍手と歓声が聞こえたが、今年は静かだった。
職場でサッカーの話題ができたのは、若い20歳代の男性2名だけだった。
他はあまり関心が無いようで、勝ち負けだけを話題にしていた。
普段は仕事以外に話をあまりしない若い世代とも、熱のこもったサッカー論議ができた。
サッカーは老若男女を問わず、結構共通の話題にできる。
教壇に立っていた時も、野球は一部の者だけに限られ、サッカーの方が多くの生徒と話ができた。
私は小学生の頃は、サッカーとラクビーを合わせた「ボール蹴り」を毎日していた。
これは、ノーバウンドでボールを受けたら、持って走ってゴールして良かった。
私は体格が良かったので、「特攻隊」と称して相手を跳ね飛ばしながらゴールしたので、恐れられていた。
当時はサッカーを教える人もあまりいなくて、基本はまるきりできていなかった。
それでも中学校へ進んでからも、サッカー部の選手に負けない自信はあった。
高等部で顧問からも入部を誘われたが、ロックバンドをやっているからと断った。
当時淳心学院はそこそこ強く、1年上のキャプテンも鬼のような人物だった。
試合で顔を蹴られたと言うことで、前歯がなかった。
ただ、彼とは後にバンドを組んだ。
因みに、淳心は西播地区で兵庫県代表になった最後の学校だという。
私は剣道や水泳など個人競技のスポーツに親しんだが、今思えばサッカーのようなチームスポーツをしておけば良かったと思う。
卒業してからも、OB会などで親しくしているのをみるとうらやましく思ったりもする。
何より、自分勝手な性格を少しでも変えられただろうと思う。
私が仲間として上手くやっていけるのは二人~五人くらいの小集団で、まさしくバンド単位である。
だから、普通校の学級担任として上手くやれたとは思っていない。
人数の少ない特別支援学校や県大附属高校が、肌にあっていたように思う。
サッカーをしていたらもう少し担任も上手くできたかなと思うが、西口鬼キャプテン(故人)とはうまくやれなかったと思う。
彼はバンドではドラムを叩いてくれてたから、仲良くやれた。
サッカー部だったら、演奏で破られたバスドラムのごとく蹴りをくらっていただろう・・・・
(因みに、以前日本チームのチームドクターをしていた柳田君は同級生で、彼もバンドのドラムを叩いてくれたことがある。サッカー選手はドラムが上手い)
幸いなことに両者とも点数が入っておらず、これからという時だった。
そして、日本が得点した時には思わず拍手を、一緒に見ていた息子としてしまった。
二階で眠っていた家内が、居間に降りてきて「目が覚めてしまった」と不満を漏らし、トイレに行ってからまた二階に上がった。
だから、二点目は静かに手を叩いた。
そういえば、以前は隣の家からも拍手と歓声が聞こえたが、今年は静かだった。
職場でサッカーの話題ができたのは、若い20歳代の男性2名だけだった。
他はあまり関心が無いようで、勝ち負けだけを話題にしていた。
普段は仕事以外に話をあまりしない若い世代とも、熱のこもったサッカー論議ができた。
サッカーは老若男女を問わず、結構共通の話題にできる。
教壇に立っていた時も、野球は一部の者だけに限られ、サッカーの方が多くの生徒と話ができた。
私は小学生の頃は、サッカーとラクビーを合わせた「ボール蹴り」を毎日していた。
これは、ノーバウンドでボールを受けたら、持って走ってゴールして良かった。
私は体格が良かったので、「特攻隊」と称して相手を跳ね飛ばしながらゴールしたので、恐れられていた。
当時はサッカーを教える人もあまりいなくて、基本はまるきりできていなかった。
それでも中学校へ進んでからも、サッカー部の選手に負けない自信はあった。
高等部で顧問からも入部を誘われたが、ロックバンドをやっているからと断った。
当時淳心学院はそこそこ強く、1年上のキャプテンも鬼のような人物だった。
試合で顔を蹴られたと言うことで、前歯がなかった。
ただ、彼とは後にバンドを組んだ。
因みに、淳心は西播地区で兵庫県代表になった最後の学校だという。
私は剣道や水泳など個人競技のスポーツに親しんだが、今思えばサッカーのようなチームスポーツをしておけば良かったと思う。
卒業してからも、OB会などで親しくしているのをみるとうらやましく思ったりもする。
何より、自分勝手な性格を少しでも変えられただろうと思う。
私が仲間として上手くやっていけるのは二人~五人くらいの小集団で、まさしくバンド単位である。
だから、普通校の学級担任として上手くやれたとは思っていない。
人数の少ない特別支援学校や県大附属高校が、肌にあっていたように思う。
サッカーをしていたらもう少し担任も上手くできたかなと思うが、西口鬼キャプテン(故人)とはうまくやれなかったと思う。
彼はバンドではドラムを叩いてくれてたから、仲良くやれた。
サッカー部だったら、演奏で破られたバスドラムのごとく蹴りをくらっていただろう・・・・
(因みに、以前日本チームのチームドクターをしていた柳田君は同級生で、彼もバンドのドラムを叩いてくれたことがある。サッカー選手はドラムが上手い)
2018年7月2日月曜日
ロングリリーフ
私は青少年教育センター閑谷学校指導員として約7ヶ月勤めた。
実は、当初ハローワークから紹介された時には、この3月までの雇用という期限付きで、継続の可能性ありとあった。
自分としては、4月からは学校現場に復帰しても良いかなと思っていた。
だから、それまでの繋ぎとして勤めるつもりだった。
それが、行きがかり上、3月で辞めるわけにはいかなくなり、6月まで勤めることになった。
退任式に所長さんから4月から6月の多忙期のピンチヒッターで頑張ってくれたと言われた。
打者か投手かはともかくとして、結果的には助っ人的な役割を果たせたのは幸いだった。
当初の計画はずいぶん狂ってしまったが、結果的には悪くは無いと思っている。
ただ、この歳で新しい仕事に慣れるのは苦しく、出勤の朝には吐き気を催すこともしばしばあった。
また、休みの日や、寝ている間でも仕事のことを考える日々が続いた。
職場は若い人と一緒にやることが多くて、会話や雰囲気に慣れることは最後までできなかった。
また、年齢の近い管理職とは立場が大きく違っており、距離を感じざるを得なかった。
それでも、何とか失敗しながらも仕事をこなせるようになった。
ずっと続けたい仕事ではなかったので、6月いっぱいで辞めることになってからは、気分も楽になった。
一番の収穫は、健康になり体力もついたことである。
仕事の多くは肉体労働で、野外の坂の上り下りなどが最初は辛かったが、平気でできるようになった。
いつの間にか、ウエストがしまり、以前はけなかったズボンが入る代わりに、支給されたズボンがゆるゆるになってしまった。
トレーニングで体を締まらせた経験は何度もあるが、仕事だけでそうなったのは予備校時代に新聞配達をして以来のことである。
神戸のマンションやアパートの階段を上り下りした経験とほぼ同じなのである。
違うのは、新聞配達をした後も学校にいったが、閑谷学校の仕事が終わると何もする気が起こらず、殆ど寝ていた。
久しぶりに、平日の朝にクロと散歩して、仕事を失った不安よりも、ゆっくりした時間を過ごせる幸せを感じた。
新しい仕事が決まるまでの細やかな平和な時間であった。
しかし、朝は昨日から草まみれになった畑仕事に汗みどろになっている。
休日に畑仕事をするのをサボっていた付けである。
それでも何とかズッキーニはなってくれているし、トマトも赤くなってきている。
何とか草からの侵略を食い止めてやって、救ってやれそうだ。
実は、当初ハローワークから紹介された時には、この3月までの雇用という期限付きで、継続の可能性ありとあった。
自分としては、4月からは学校現場に復帰しても良いかなと思っていた。
だから、それまでの繋ぎとして勤めるつもりだった。
それが、行きがかり上、3月で辞めるわけにはいかなくなり、6月まで勤めることになった。
退任式に所長さんから4月から6月の多忙期のピンチヒッターで頑張ってくれたと言われた。
打者か投手かはともかくとして、結果的には助っ人的な役割を果たせたのは幸いだった。
当初の計画はずいぶん狂ってしまったが、結果的には悪くは無いと思っている。
ただ、この歳で新しい仕事に慣れるのは苦しく、出勤の朝には吐き気を催すこともしばしばあった。
また、休みの日や、寝ている間でも仕事のことを考える日々が続いた。
職場は若い人と一緒にやることが多くて、会話や雰囲気に慣れることは最後までできなかった。
また、年齢の近い管理職とは立場が大きく違っており、距離を感じざるを得なかった。
それでも、何とか失敗しながらも仕事をこなせるようになった。
ずっと続けたい仕事ではなかったので、6月いっぱいで辞めることになってからは、気分も楽になった。
一番の収穫は、健康になり体力もついたことである。
仕事の多くは肉体労働で、野外の坂の上り下りなどが最初は辛かったが、平気でできるようになった。
いつの間にか、ウエストがしまり、以前はけなかったズボンが入る代わりに、支給されたズボンがゆるゆるになってしまった。
トレーニングで体を締まらせた経験は何度もあるが、仕事だけでそうなったのは予備校時代に新聞配達をして以来のことである。
神戸のマンションやアパートの階段を上り下りした経験とほぼ同じなのである。
違うのは、新聞配達をした後も学校にいったが、閑谷学校の仕事が終わると何もする気が起こらず、殆ど寝ていた。
久しぶりに、平日の朝にクロと散歩して、仕事を失った不安よりも、ゆっくりした時間を過ごせる幸せを感じた。
新しい仕事が決まるまでの細やかな平和な時間であった。
しかし、朝は昨日から草まみれになった畑仕事に汗みどろになっている。
休日に畑仕事をするのをサボっていた付けである。
それでも何とかズッキーニはなってくれているし、トマトも赤くなってきている。
何とか草からの侵略を食い止めてやって、救ってやれそうだ。
登録:
投稿 (Atom)